久しぶりの国立能楽堂、今日は野村四郎と宝生閑という、今の能楽界では大ベテランによる能「盛久」である。
1年ほど前に来た時はなかったような気がするが、各椅子の背に字幕が出てくる装置がついている。出てくるのは日本語と英語。日本語は謡の古語のままだから、耳で聞いて分からないところは読んだとて分らない。
英語は読めばわかるが、日本語のニュアンスは伝わらないのは仕方ない。だから耳では日本語、目では英語と言うのは、古語の解説つきで能を見ていることになり、これをやってみた。
文楽や沖縄の能である組踊、外国語の演劇やオペラなどでは、舞台の横に字幕が出てくる。この場合は、舞台の動きと字幕を同時に見ることができる。
しかし、国立能楽堂の前の席の背にある字幕と、舞台と同時に見ることは不可能だから、ちょっと都合が悪い。字幕を読んでいては舞台の動きを見逃してしまう。
なにしろ能はちょっとした足の動きで数百キロを動いてしまうし、ちょっとした首の動きで感情を表現する。だから、動きない場面でのみ字幕を読んだが、実はそれが役に立った。お経の意味が分かったのだ。
「盛久」ははじめて見る能なので、事前に岩波の謡曲集の中の逐語解説を読んできたので、筋書きや謡は分かっている。
だが、謡にお経の文句が入っていると、世にお経のようなものと言うごとく、どうせ分らないのだからとて、そこは読む気がしないのだ。
舞台で盛久が経を読むところは動きがないので、字幕の英語を読んでいたら、お経の意味が書いてあった。ああ、お経にも意味があるんだと知り、その経文(実は「偈文}というらしいが)の意味が、実はこの能の重要な役割なんだと知ったのである。
歌舞伎にはイアフォンガイドなる器械の貸し出しがあり、無線放送で耳に解説を送る。能楽でもこれをやろうとしないのはなぜだろうか。
能の舞台がわかりにくいのは、歌舞伎のように舞台装置やら舞台転換やらが、まったく無いことと、上演言語が古語のままであることだ。
その上、削ぎに削いだ筋書きと演技だから、観客の頭の中で演劇として組み立てることを要求する。そこに能の真髄とされる面白さがある(らしい)。
それを解説するイアホンガイドがあってよいだろうと思うが、ないところを見ると、日本オペラなんだから、耳でしっかり舞台の音を聞け、ということだろう、たぶん。
それもわかるが、わたしの隣にドイツ語を話す西洋人の風貌の3人の男たちが座って「盛久」を見ていたが、わたしでさえも眠くなったのに、字幕も見ず眠りもせずにいたのが不思議だった。
終ってから、そっと小さい声で笑い合っていたのは、なんだかさっぱり分らなかったなあ、と言っている感じだった。イアホンガイドがあれば良かったろうに。
さて「盛久」である。
作者は『歌占』『隅田川』『弱法師』などの名作者の観世十郎元雅、父の世阿弥が「子ながらも類なき達人」と期待したほどだが、惜しくも若くして死んだ。
でも、わたしには他の作品と比べてまったく面白くなかった。はじめからしまいまで清水寺の宣伝演劇である。弱法師が天王寺を舞台にしても、別に天王寺の宣伝にはなっていないのに、これは何かスポンサーとかの事情があったのだろうか。
開演と同時に、揚幕を出てきた囚人護送されている途中の盛久が、護送する側の責任者らしい土屋某に話しかけるのだ。
まだ橋掛かりの上を舞台に向かって登場の途中である。こういう演出ははじめて見た。面白い。
たいていの能は、ワキとかシテが自分はなんのなにがしであると、名乗ることから始まる。能に慣れれればそれが当たり前だけど、舞台の初めに自己紹介するなんてのは、演劇台本としては出来が悪い。
この能は、場面が何度も替わるのだが、もちろん能では観たところは全く変わらないから、観る方の頭の中でそのたびに舞台装置を造るしかない。これがつくれないと能を見る面白さが分らない。
舞台場面は、まずは京の街の中、つづいて桜の咲く清水寺、そして京から鎌倉への東海道下りの道中、鎌倉での屋敷内、由比ヶ浜、最後は頼朝館と変わっていくのだが、謡や動作をもとにした頭の中でやっている舞台転換を、視覚的に補完してくれるのが、囚人護送の輿(こし)の駕籠である。
盛久は、源氏に敗れて逮捕された平家方の武将であり、罪人として処刑されるべく鎌倉に護送用の駕籠に閉じ込められて東海道を東へと送られるのである。
その移動中は駕籠の中にいるので、舞台ではワキの駕籠かき二人が盛久の頭上に、駕籠にみたてた屋根のようなものを掲げる。
この駕籠かきと屋根とが登場したり引っ込んだりすることで、場面転換がわかる仕掛けである。東くだりの道行き場面では、駕籠かき役2人は屋根を掲げる片手を長時間あげっぱなしで、さぞ疲れて大変だろうと、見ていて気になった。
盛久は、清水寺の観音信仰に凝っていて、鎌倉について次の日に斬首されると言われて、その経文を読んで、観音の慈悲にすがるのである。
じつはここで上に述べた字幕を読んでいて、その経文がなんともすごい意味なのである。お経だから聞いてもさぱりわからないが、英語で意味を知って驚いた。ちょっとアレンジして日本語訳するとこうである。
「あのね観音様よ、わたしはあなたをこれほどにも信じているのだから、生きているうちにご利益をくださいよ。死んでからご利益あるなんてのでは、あんたは人を救う能力がないよ。むかしある人が王様の怒りにふれて、刀で処刑されようとしたときに、観音さまの力を信じて祈ったら、刀がいくつかに折ればらばらに壊れたそうだよ、どうだね」
ちょっとどうも、観音さまを脅迫している。そしてその晩に、誰かが替わってくれて命が助かるなんて、都合の良い夢さえ見るのである。
さてその次の日、処刑場の由比ヶ浜で、観音を脅迫して祈った通りのことが起きる。不思議に思った頼朝は盛久の処刑をやめさせるというのが、この能の話である。
清水寺の観音様のご利益はすごいもんだと宣伝しているのではあるが、へそ曲がりのわたしは、なんだかどうも素直にはそう読めないのである。
史実の盛久がどうやって死んだか知らないが、これは現在能ではなくて、様式の異なる夢幻能であろうと思うのだ。
世阿弥が発明した夢幻能形式は、後場で過去の出来事をワキが夢で見るのだが、この「盛久」では、シテ盛久が霊夢を見たと言った後は全部、彼が見た夢であろうと、わたしは思う。
これならば、古拙な信仰劇よりも現代的な演劇としての見方ができる。
後場での、盛久が頼朝の面前に出る重要な場面なのに、頼朝が舞台に登場しないのも、盛久は頼朝を見たことがないのだから夢にも登場させようがなかった、ということでは、どうだろうか。
そして延命して喜びの男舞から妙にあっけなく終幕となるのは、夢から覚めたのであると解釈するのだ。現実の盛久は無惨に斬首されるのだ。
こうやって勝手に頭の中で作り上げて観ることができるのが、能の面白さである。
謡いも語りも多い長い長い能で、上演1時間半もかかった。後半は調子が上がったが、前半はかなり冗長で、演劇と言うよりも謡を鑑賞するのであろう。退屈である。
ある場面での野村四郎の語りに、地頭浅井文義(の声のような気がしたが後見の浅見真州だろうか)のプロンプトが入った。空耳でなければ、わたしが観た四郎の舞台では初めてのことである。
野村四郎、77歳、次は12月の「関寺小町」、円熟した大家の大曲である。
国立能楽堂定例公演 2013年11月20日
能【観世流】盛久
シテ/盛久 野村四郎
ワキ/土屋某 宝生 閑
ワキツレ/太刀取 宝生欣哉
笛 一噌隆之
小鼓 飯田清一
大鼓 安福健雄
地頭 浅井文義
●参照→「能楽師・野村四郎」
2013/11/21
2013/11/17
859偽装食品と偽装冷却便にわたしも加害者被害者両方になったことがある
1年ほど前のことだが、ある製パン工場から米粉で作ったパンを買った。遠くだしたくさんだし、もともと冷凍保存してあるのを、クール宅急便で送ってもらった。
着いたのを開けてみると、全く冷凍ではなくて、フワフワしている。箱には冷凍と書いてあるし、中の説明書も冷凍を前提で食べ方を書いてある。
ヘンだなと、製造発売元のパン工場に連絡したら、運送屋が間違ったというお詫びが来た。
それでもどうも不審だったのは、冷凍ならば発泡スチロール箱に入っていそうなものを、それは段ボールのままでやってきたのだ。発送するときから間違っていたような気もする。
それとも、近頃、新聞をにぎわしているように、送り出だしは冷凍運送のはずが、途中の仕分け中に融けてしまって、冷凍偽装食品になってしまったので、スチロール箱を捨てたのか。
パンだから良いが、本当のナマモノなら、食中毒である。
そのパンは旨かったのだが、以後そこから買っていない。
運送屋のいい加減さが原因なら、工場には気の毒なことだが、そういう方向違いの信用失墜問題はどこにもありそうだ。運送屋さんよ、そこのところをきちんとフォローしなさいよ。
そういえば、その季節になると天然生ガキを送ってくださる人がいるのだが、いつもなんだか妙に生臭いのは、もしかしたら、、、でも、送ってくださる人には言えない。
わたしが偽装食品を、ひとさまに送り付けたことがある。もちろん、レストランやホテルの社長が言うように、わたしも偽装のつもりではなったのだが、、、。
越後の山里の棚田で、体験的に米つくりをしてきて、もう7年になる。その2年目の新米ができたとき、あまりに美味いのであちこちの知人に送り付けた。
現地の活動拠点としている家の座敷に並ぶ新米の袋から、自分で小分けして発送した。自慢たらたらの手紙を添えて。
ところが、反応がどうも鈍かった。まあ米なんて当たり前すぎて、そんなものかと思っていた。
しばらくして、息子がやってきて言う。彼は送り付けられたうちのひとりである。
「あのコメは不味かった、古米としか思えない、何か間違ったのだろう」
えっ、自分が食った新米は美味かったのに、う~む、よくよく考えてみて、どうも座敷に並んでいた新米の袋のそばに、去年の古米のはいった袋があったらしい。よく確かめずにそれを入れて送ったに違いない。
息子だから平気でクレームをつけてくれたが、送り付けられた知人たちは困惑したに違いない。といって、あれは違っていましたと、取り換えようにも新米の季節はとっくに過ぎているし、どうにも恥ずかしい。
とにかく次の年に、こんどは間違いないように新米を送った。こんどは美味いと反応があった。問題は、前の年にだれだれに送ったか、全員を思い出せなかったことである。
着いたのを開けてみると、全く冷凍ではなくて、フワフワしている。箱には冷凍と書いてあるし、中の説明書も冷凍を前提で食べ方を書いてある。
ヘンだなと、製造発売元のパン工場に連絡したら、運送屋が間違ったというお詫びが来た。
それでもどうも不審だったのは、冷凍ならば発泡スチロール箱に入っていそうなものを、それは段ボールのままでやってきたのだ。発送するときから間違っていたような気もする。
それとも、近頃、新聞をにぎわしているように、送り出だしは冷凍運送のはずが、途中の仕分け中に融けてしまって、冷凍偽装食品になってしまったので、スチロール箱を捨てたのか。
パンだから良いが、本当のナマモノなら、食中毒である。
そのパンは旨かったのだが、以後そこから買っていない。
運送屋のいい加減さが原因なら、工場には気の毒なことだが、そういう方向違いの信用失墜問題はどこにもありそうだ。運送屋さんよ、そこのところをきちんとフォローしなさいよ。
そういえば、その季節になると天然生ガキを送ってくださる人がいるのだが、いつもなんだか妙に生臭いのは、もしかしたら、、、でも、送ってくださる人には言えない。
わたしが偽装食品を、ひとさまに送り付けたことがある。もちろん、レストランやホテルの社長が言うように、わたしも偽装のつもりではなったのだが、、、。
越後の山里の棚田で、体験的に米つくりをしてきて、もう7年になる。その2年目の新米ができたとき、あまりに美味いのであちこちの知人に送り付けた。
現地の活動拠点としている家の座敷に並ぶ新米の袋から、自分で小分けして発送した。自慢たらたらの手紙を添えて。
ところが、反応がどうも鈍かった。まあ米なんて当たり前すぎて、そんなものかと思っていた。
しばらくして、息子がやってきて言う。彼は送り付けられたうちのひとりである。
「あのコメは不味かった、古米としか思えない、何か間違ったのだろう」
えっ、自分が食った新米は美味かったのに、う~む、よくよく考えてみて、どうも座敷に並んでいた新米の袋のそばに、去年の古米のはいった袋があったらしい。よく確かめずにそれを入れて送ったに違いない。
息子だから平気でクレームをつけてくれたが、送り付けられた知人たちは困惑したに違いない。といって、あれは違っていましたと、取り換えようにも新米の季節はとっくに過ぎているし、どうにも恥ずかしい。
とにかく次の年に、こんどは間違いないように新米を送った。こんどは美味いと反応があった。問題は、前の年にだれだれに送ったか、全員を思い出せなかったことである。
2013/11/16
858少年の頃は地震にナイーブに反応していたのに大人になって免疫がついた
先ほど(2013年11月16日20時40分頃)に、ちょっと大きな地震があった。TVを見ると横浜のうちのあたりは震度4と出ていて、いちばん大きい数値である。
べつに一番大きいと自慢しているのではないが、それでも何も被害がなくて一番大きいのは、なんだか偉いような気がする。
2011年3月11日以来、なんども何度も繰り返す余震に神経質になって、ちょっと揺れても心臓がドキドキ、腰かけている椅子のバネが揺れただけなのに地震かと思うし、揺れていないのに揺れている幻覚がおきて、これはもう老化によるボケがきたななんて思ったりして、しばらく困ったものだが、もう慣れてきてドキドキはしなくなった。
それどころか、初動の微妙な揺れ具合で、オッ、これは大きそうだ、ウン、これは小さいな、なんてわかるような気がしてきた。
先ほどのヤツは、初めに真下から小さくツンとたたいてきて、すぐ止まった。ハハン、こいつはなにか大物をネラッテルな、大きそうだぞ、と、待っていたら(いや、期待しているのではないが)、2秒ほどでオマタセ~てな感じで、グラッ、グラグラーとやってきた。
ヤッパリな、と思いつつ揺れを鑑賞したのであった。鑑賞対象は、天井からつるしている照明器具の揺れである。
鑑賞しつつも、立って何かしようか、いや、なんにもやることはないよな、なんて心の中はそれなりに忙しい。大揺れになったら本棚を押さえるのが仕事だろうな、あ、つれあいの具合も見なくちゃ、とか。
昼間ならバルコニーから外を眺めて、よそのビルの屋上に立つ避雷針がユッサユサとしなるのを鑑賞するのだが、夜は見えないから、つまらない。
昼間に見るものに、工事用のタワークレーンがある。大揺れになって倒れるかもしれないと、申し分けないが期待しつつ見るのだが、どういうわけか、あれはあまり揺れないようになっているらしい。あれが倒れるようなら、うちの共同住宅ビルが倒れるか。
TVとPCで地震速報を見ると、千葉のあたりが震源らしいが、津波はないというから安心だ。
わたしの人生での地震の思い出では、一番大きかったのは、やはり3・11であった。
この時は道端でバスがくるのを待っていた。山梨県の友人から電話がかかってきて、ネパールに遊びに行く話していたら、地面がゆさゆさしてきた。
「なんだか、揺れるねえ」
「ああ、ずいぶん揺れるねえ」
電柱につかまらないと、脚がふらふらする。そばの平屋の大きな建物がゆさゆさ揺れて、倒れてきそうな感じになって、あわてる。
「ああ、こりゃ大きい、切るからね」
「うん、おおきい、おおきい」
揺れる家が倒れてきても電柱が支えてくれると考えて、電柱につかまったまま歩道から車道に降りて、家とわたしの間に電柱を挟む位置に立った。実に冷静な判断による行動のようだが、電柱ごときで倒れる家を支えることができるものだろうか。
そのうちに揺れはとまった。やがてバスは何事もないかのようにやってきたので、乗った。伊勢佐木町の繁華街あたりを通過するときに見ると、道路にものすごく大勢の人が歩いているので、今日はなにかイベントがあって賑やかなんだなあと、思いつつ帰宅した。
あとから思えば、その日はイベントは別になくて、いや、地震という大イベントがあって、ビルからみんなが外に出て避難していたらしい。家に戻って、ちょっとドサクサがあったが、たしたことではない。
昔の地震の思い出は、福井地震である。1947年、小学生のわたしは岡山県の中部にある家で驚いた記憶がある。
家は森の中の神社だから、家が揺れると共に、おおきな木々がゆさゆさ揺れていた印象があるが、福井はかなり遠いところなのに、そんなに大揺れだったのだろうか。被害はなかった。
大和百貨店の建物がグジャっとなっている新聞写真を今でも覚えているし、ネット検索するとその写真が出てくる。
岡山県のあたりは、今も昔も地震がめったにないところだから、その福井地震しか覚えていない。
その地震の少ないところから、少年時代の終りに関東に移ってきたのだが、こちらはなんとまあ地震の多いところだろうと感じた。そのころは地震がくると、大小にかかわらず毎度必ず心臓がドキ~ンとしたものだ。体に悪い土地だとおもった。アッとか声をあげていたかもしれない。笑われたそのドキ~ン・アッ癖は、5、6年は続いたように思うが、そのうちに免疫がついてしまった。
だから、3・11地震は、わたしには64年ぶりの大地震であったので、少年のナイーブなドキン癖が再発して戻っていたのだ。でも、また大人の免疫も戻ってきたらしい。
べつに一番大きいと自慢しているのではないが、それでも何も被害がなくて一番大きいのは、なんだか偉いような気がする。
2011年3月11日以来、なんども何度も繰り返す余震に神経質になって、ちょっと揺れても心臓がドキドキ、腰かけている椅子のバネが揺れただけなのに地震かと思うし、揺れていないのに揺れている幻覚がおきて、これはもう老化によるボケがきたななんて思ったりして、しばらく困ったものだが、もう慣れてきてドキドキはしなくなった。
それどころか、初動の微妙な揺れ具合で、オッ、これは大きそうだ、ウン、これは小さいな、なんてわかるような気がしてきた。
先ほどのヤツは、初めに真下から小さくツンとたたいてきて、すぐ止まった。ハハン、こいつはなにか大物をネラッテルな、大きそうだぞ、と、待っていたら(いや、期待しているのではないが)、2秒ほどでオマタセ~てな感じで、グラッ、グラグラーとやってきた。
ヤッパリな、と思いつつ揺れを鑑賞したのであった。鑑賞対象は、天井からつるしている照明器具の揺れである。
鑑賞しつつも、立って何かしようか、いや、なんにもやることはないよな、なんて心の中はそれなりに忙しい。大揺れになったら本棚を押さえるのが仕事だろうな、あ、つれあいの具合も見なくちゃ、とか。
昼間ならバルコニーから外を眺めて、よそのビルの屋上に立つ避雷針がユッサユサとしなるのを鑑賞するのだが、夜は見えないから、つまらない。
昼間に見るものに、工事用のタワークレーンがある。大揺れになって倒れるかもしれないと、申し分けないが期待しつつ見るのだが、どういうわけか、あれはあまり揺れないようになっているらしい。あれが倒れるようなら、うちの共同住宅ビルが倒れるか。
TVとPCで地震速報を見ると、千葉のあたりが震源らしいが、津波はないというから安心だ。
わたしの人生での地震の思い出では、一番大きかったのは、やはり3・11であった。
この時は道端でバスがくるのを待っていた。山梨県の友人から電話がかかってきて、ネパールに遊びに行く話していたら、地面がゆさゆさしてきた。
「なんだか、揺れるねえ」
「ああ、ずいぶん揺れるねえ」
電柱につかまらないと、脚がふらふらする。そばの平屋の大きな建物がゆさゆさ揺れて、倒れてきそうな感じになって、あわてる。
「ああ、こりゃ大きい、切るからね」
「うん、おおきい、おおきい」
揺れる家が倒れてきても電柱が支えてくれると考えて、電柱につかまったまま歩道から車道に降りて、家とわたしの間に電柱を挟む位置に立った。実に冷静な判断による行動のようだが、電柱ごときで倒れる家を支えることができるものだろうか。
そのうちに揺れはとまった。やがてバスは何事もないかのようにやってきたので、乗った。伊勢佐木町の繁華街あたりを通過するときに見ると、道路にものすごく大勢の人が歩いているので、今日はなにかイベントがあって賑やかなんだなあと、思いつつ帰宅した。
あとから思えば、その日はイベントは別になくて、いや、地震という大イベントがあって、ビルからみんなが外に出て避難していたらしい。家に戻って、ちょっとドサクサがあったが、たしたことではない。
昔の地震の思い出は、福井地震である。1947年、小学生のわたしは岡山県の中部にある家で驚いた記憶がある。
家は森の中の神社だから、家が揺れると共に、おおきな木々がゆさゆさ揺れていた印象があるが、福井はかなり遠いところなのに、そんなに大揺れだったのだろうか。被害はなかった。
大和百貨店の建物がグジャっとなっている新聞写真を今でも覚えているし、ネット検索するとその写真が出てくる。
岡山県のあたりは、今も昔も地震がめったにないところだから、その福井地震しか覚えていない。
その地震の少ないところから、少年時代の終りに関東に移ってきたのだが、こちらはなんとまあ地震の多いところだろうと感じた。そのころは地震がくると、大小にかかわらず毎度必ず心臓がドキ~ンとしたものだ。体に悪い土地だとおもった。アッとか声をあげていたかもしれない。笑われたそのドキ~ン・アッ癖は、5、6年は続いたように思うが、そのうちに免疫がついてしまった。
だから、3・11地震は、わたしには64年ぶりの大地震であったので、少年のナイーブなドキン癖が再発して戻っていたのだ。でも、また大人の免疫も戻ってきたらしい。
2013/11/14
857体験的書評「まちをつくるプロセス RIAの手法」
●RIAの本が出た
『新建築」といえば、いわば建築ジャーナリズム界のメジャーファッション誌だろう。
わたしが学生の頃は、これに加えて『建築文化』『近代建築』『建築』があり、その後『都市住宅』が出た。今は『近代建築』だけが、なんだか広告専門誌のようになって続いている様子だが、他はみな廃刊らしい。
新建築の別冊『まちをつくるプロセス RIAの手法』がでた。RIAと言えば、わたしがフリーになる四半世紀前まで所属していたところだ。
ふむ、これはまた地味な表紙だよなあ。いまどきモノクロかい、いや、ちょっと色がついているか、それにしても商売けがないというか、淡泊というか、いや、気取っているのか。
え、3500円、高いなあ、だれが買うのだろうか。近頃の建築学生は金持ちなのか。
では、せっかくだから「体験的書評」なるものをやってみよう。体験的とは、本の中身にわたしの体験をもぐりこませるのである。
●以下続きと全文は⇒「体験的書評「まちをつくるプロセス RIAの手法」」
https://sites.google.com/site/matimorig2x/ria-process
『新建築」といえば、いわば建築ジャーナリズム界のメジャーファッション誌だろう。
わたしが学生の頃は、これに加えて『建築文化』『近代建築』『建築』があり、その後『都市住宅』が出た。今は『近代建築』だけが、なんだか広告専門誌のようになって続いている様子だが、他はみな廃刊らしい。
新建築の別冊『まちをつくるプロセス RIAの手法』がでた。RIAと言えば、わたしがフリーになる四半世紀前まで所属していたところだ。
ふむ、これはまた地味な表紙だよなあ。いまどきモノクロかい、いや、ちょっと色がついているか、それにしても商売けがないというか、淡泊というか、いや、気取っているのか。
え、3500円、高いなあ、だれが買うのだろうか。近頃の建築学生は金持ちなのか。
では、せっかくだから「体験的書評」なるものをやってみよう。体験的とは、本の中身にわたしの体験をもぐりこませるのである。
●以下続きと全文は⇒「体験的書評「まちをつくるプロセス RIAの手法」」
https://sites.google.com/site/matimorig2x/ria-process
2013/11/11
856【五輪騒動】建築家たちの新国立競技場デカ過ぎ論には肝心の都市計画問題が抜けている
オリンピック用に建て替える計画がある霞ヶ丘国立競技場について、先般、それがあまりにデカ過ぎて問題だと、100人ほどの建築家を主とする有識者たちが、文部省に改善を要望したニュースを知った。
それはそれでよいのだが、都市計画に関心のあるわたしとしては、なにかが抜けていると思えてならない。
新国立競技場計画案が、あれがそれほどでかいのは、必要な機能を積み重ねていくとそうなったのだろう。(コンペ一等案)
そんな機能の施設は要る要らない議論はさておいて、計画する新競技場の建物の高さが70mという高さが重要な問題として指摘されていることについて、都市計画から考えてみよう。
ここで都市計画として高さ70mについて、その数値に合理性があるかどうかが問題であるが、それもさておいて、その高さを認めた都市計画手続きについて考えてみたのである。
そうしたら分ったことは、なんとまあ、都市計画ってのは内からも外からも、ほんとにバカにされているってことである。
この続きと全文は、こちら
●その他参照なさると面白いページ
◆新国立競技場に関する瓢論と弧乱夢と似非言い
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html
「842なぜ今頃になって建築家は新国立競技場の計画案に異議申し立てなのか」
http://datey.blogspot.jp/2013/10/842.html
【長屋談議】2020年東京オリンピック新国立競技場はモノスゴイもんだ
https://sites.google.com/site/dandysworldg/newnationalstadium
神宮外苑地区地区計画
http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/keikan01_001070.html
神宮外苑地区地区計画を決めた東京都都市計画審議会議事録(14ページ)
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/keikaku/shingikai/pdf/giji201.pdf
それはそれでよいのだが、都市計画に関心のあるわたしとしては、なにかが抜けていると思えてならない。
新国立競技場計画案が、あれがそれほどでかいのは、必要な機能を積み重ねていくとそうなったのだろう。(コンペ一等案)
そんな機能の施設は要る要らない議論はさておいて、計画する新競技場の建物の高さが70mという高さが重要な問題として指摘されていることについて、都市計画から考えてみよう。
ここで都市計画として高さ70mについて、その数値に合理性があるかどうかが問題であるが、それもさておいて、その高さを認めた都市計画手続きについて考えてみたのである。
そうしたら分ったことは、なんとまあ、都市計画ってのは内からも外からも、ほんとにバカにされているってことである。
この続きと全文は、こちら
◆新国立競技場に関する瓢論と弧乱夢と似非言い
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html
「842なぜ今頃になって建築家は新国立競技場の計画案に異議申し立てなのか」
http://datey.blogspot.jp/2013/10/842.html
【長屋談議】2020年東京オリンピック新国立競技場はモノスゴイもんだ
https://sites.google.com/site/dandysworldg/newnationalstadium
神宮外苑地区地区計画
http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/keikan01_001070.html
神宮外苑地区地区計画を決めた東京都都市計画審議会議事録(14ページ)
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/keikaku/shingikai/pdf/giji201.pdf
2013/11/08
855偽装安全原発から偽装美味食品まで偽装日本の総理大臣はもうすぐ任期1年が終わる
●時事ニュース(その1)
小泉純一郎→安倍普三(2006年)、安倍晋三→福田康夫(2007年)、
福田康夫→麻生太郎(2008年)、麻生太郎→鳩山由紀夫(2009年)、
鳩山由紀夫→菅 直人(2010年)、菅 直人→野田佳彦(2011年)、
野田佳彦→安倍晋三(2012年)、ときたら、とうぜん次は、
「安倍晋三→?(2013年)」となるはず。
日替わりならぬ年替わり総理大臣制度をお始めにあったアベさんとしては、このあたりでお辞めにならないと、せっかくお作りになった「潔く後進に道を譲る」って、日本の麗しき伝統を守れなくなりますよ。
●時事ニュース(その2)
このところ、食品の偽装ばかりがニュースになっている。どれもこれも高価である。
ありがたいことに、わたしが食うものがひとつも登場しない。つまり、ビンボー人は正しい食品ばかりを食っているんだろうなあ、ああ、幸せなことである。
気の毒なのは金持ちだな。だって、知らないで舌がバカだから騙されても、「芝エビだ、阿波牛だ、やっぱり美味い美味い」って食ってりゃ、それなりにハッピーだったのに、偽装と知ったばかりに不幸になった。
はじめから、そんなものに縁のないこちとらビンボー人は、他人の不幸は蜜の味、である。
でも、ちょっと気になることがある。
もしも、、芝エビをバナベイエイビと、鮮魚を冷凍品と、車エビをブラックタイガーと、フランス産栗を中国産栗と、阿波牛を鹿児島牛と、手ごねハンバーグを既製品と、ばくらい宮城を岐阜県産と、和牛を外国牛と、ああ、きりがないけど、こういう方向に偽装していたら、ニュースになるのかしら?
小泉純一郎→安倍普三(2006年)、安倍晋三→福田康夫(2007年)、
福田康夫→麻生太郎(2008年)、麻生太郎→鳩山由紀夫(2009年)、
鳩山由紀夫→菅 直人(2010年)、菅 直人→野田佳彦(2011年)、
野田佳彦→安倍晋三(2012年)、ときたら、とうぜん次は、
「安倍晋三→?(2013年)」となるはず。
日替わりならぬ年替わり総理大臣制度をお始めにあったアベさんとしては、このあたりでお辞めにならないと、せっかくお作りになった「潔く後進に道を譲る」って、日本の麗しき伝統を守れなくなりますよ。
●時事ニュース(その2)
このところ、食品の偽装ばかりがニュースになっている。どれもこれも高価である。
ありがたいことに、わたしが食うものがひとつも登場しない。つまり、ビンボー人は正しい食品ばかりを食っているんだろうなあ、ああ、幸せなことである。
気の毒なのは金持ちだな。だって、知らないで舌がバカだから騙されても、「芝エビだ、阿波牛だ、やっぱり美味い美味い」って食ってりゃ、それなりにハッピーだったのに、偽装と知ったばかりに不幸になった。
はじめから、そんなものに縁のないこちとらビンボー人は、他人の不幸は蜜の味、である。
でも、ちょっと気になることがある。
もしも、、芝エビをバナベイエイビと、鮮魚を冷凍品と、車エビをブラックタイガーと、フランス産栗を中国産栗と、阿波牛を鹿児島牛と、手ごねハンバーグを既製品と、ばくらい宮城を岐阜県産と、和牛を外国牛と、ああ、きりがないけど、こういう方向に偽装していたら、ニュースになるのかしら?
2013/11/07
854【東京下町徘徊】三ノ輪-新吉原-白鬚-向島百花園-曳舟ウロウロ
久しぶりに東京の向島百花園で、遊び仲間(正確には「街なか研究会」)の会合がある。行かないとあいつもボケたと思われてもシャクだ。夜の会合なのに、どうせヒマだからとて、真昼間から出かける。
地下鉄三ノ輪駅に降りて、適当に東に向かえばいいだろう。大川にぶつかるから、橋を渡ればすぐそばだ。
まっすぐ行っても芸がない。山谷と新吉原に寄ってからにしようかと思う。
山谷は有名なドヤの街である。わたしの暮らしている横浜の関外にも、それに負けない寿町があり、しょっちゅう通っているからドヤ街はもういいやと、新吉原に向かう。
おっ発見、角海老本店じゃんかよ~。なんで角えびなんだろうか、まあいいや、このあたりがかの遊郭街なんだな。
ほほう、見事な下半身商売の街並みである、さすが新吉原。
でも地名が千束町とある。はて、建築家の山口文象が生まれ育ったのが浅草千束町だが、遊郭の中ではなかったはずだ。
これは多分、例の地名変更の結果で、吉原という地名を避けて、千束町を広く決めたのだろう。
なになに、揚屋通りとある。この道には遊郭の揚屋が並んでいたのか。
ハデハデまちなみ建築のそれぞれの前に立つオニイイサン方たちが、お声をかけてくださる。
「どうですか、ちょっと寄りになって」「写真だけでも見てくださいよ」「あ、どうぞ、こちら」
最近、横浜の福富町あたりを歩いても、こちらの貧相な年寄り顔を見て、お声をかけてくださることはない。
ここ新吉原では、きちんとお声がかかって、素直にうれしい。ときには「ありがとう」なんて、御礼の言葉だけでもお返しするのであった。
白鬚橋を渡る。関東大震災の復興橋梁のひとつで、1931年竣工とある。実ははじめてわたるのだ。
ふむ、復興橋梁らしいデザインである。むこうにスカイツリーなる新名所が見えている。わたしはいまだにスカイツリーに登っていない。そう、学生時代に建ちあがっていく風景を見た東京タワーに義理立てして、登らないままにしようと思うのだ。どうでもいいけど。
隅田川を渡れば、墨堤は2階建てになっていて、上に高速道路、下には青テント小屋の暮らしの場である。ちょっと2階が高すぎて、雨除けになるのかと気になる。
上から車の騒音が降ってくることを別にすれば、今日のような日和の中で見る青テント暮らしは、よそ眼にはいかにものんびりとしている風景のアジールである。
住民の方々は、こちらではアルミ空き缶をカンカンとたたいて延ばしておられ、こちらではなにやら工芸品をつくっておられる様子である。
その青テントアジール街並みの前は広々とした大河の流れがある。そしてその背後には、緑の公園の向こうに延々と連なる共同住宅群の壁がある。
公園の中に隅田川神社がある。どんないわれの社か知らないが、普通は本殿の背後に森があるのだが、ここでは高速道路の桁がかぶさっているのが、いかにもの感がある。
そしてまた、これが木母寺、あの梅若伝説の故地である。ほう、ここであの能「隅田川」の母親は、死した子を葬った塚に出会ったのか。
あの都から見ると荒漠たる中世の東の果てとして描かれた演劇の風景は、今の高速道路と巨大集合住宅の谷間からはとても想像がつかない。
わたしはこの能を好きだ。世阿弥が期待しながら夭折した息子の元雅の作である。能には珍しく、仏の救いのないままに終幕となる。しかし、実は救いがある演出になっていると、わたしは最近になって発見した。
青色テント住居や木母寺の東側の背景となっているのは、万里の長城のごとき、あるいは新たな墨堤のごとき、高層共同住宅群である。
この新墨堤は、大地震がやってきて下町に大火災が起きたら、この燃えないコンクリ壁群が火を止めて、逃げてくる人々を川のほとりに避難させるって、そういう大野望のもとにつくった代物らしい。ものすごい。
向島百花園での宴会が終わって、曳舟駅から電車に乗ろうとして駅前を見上げたら、スカイツリーらしきローソクが屋根の上にあがっていた。
ちかごろは、こういう代物が立つと、景観がどうやらこうやらと騒ぐ人がいるのに、こいつのときはどうだったのだろうか。低層下町には並はずれて高すぎて、話にならなかったのか。
地下鉄三ノ輪駅に降りて、適当に東に向かえばいいだろう。大川にぶつかるから、橋を渡ればすぐそばだ。
まっすぐ行っても芸がない。山谷と新吉原に寄ってからにしようかと思う。
山谷は有名なドヤの街である。わたしの暮らしている横浜の関外にも、それに負けない寿町があり、しょっちゅう通っているからドヤ街はもういいやと、新吉原に向かう。
おっ発見、角海老本店じゃんかよ~。なんで角えびなんだろうか、まあいいや、このあたりがかの遊郭街なんだな。
ほほう、見事な下半身商売の街並みである、さすが新吉原。
でも地名が千束町とある。はて、建築家の山口文象が生まれ育ったのが浅草千束町だが、遊郭の中ではなかったはずだ。
これは多分、例の地名変更の結果で、吉原という地名を避けて、千束町を広く決めたのだろう。
なになに、揚屋通りとある。この道には遊郭の揚屋が並んでいたのか。
ハデハデまちなみ建築のそれぞれの前に立つオニイイサン方たちが、お声をかけてくださる。
「どうですか、ちょっと寄りになって」「写真だけでも見てくださいよ」「あ、どうぞ、こちら」
最近、横浜の福富町あたりを歩いても、こちらの貧相な年寄り顔を見て、お声をかけてくださることはない。
ここ新吉原では、きちんとお声がかかって、素直にうれしい。ときには「ありがとう」なんて、御礼の言葉だけでもお返しするのであった。
白鬚橋を渡る。関東大震災の復興橋梁のひとつで、1931年竣工とある。実ははじめてわたるのだ。
ふむ、復興橋梁らしいデザインである。むこうにスカイツリーなる新名所が見えている。わたしはいまだにスカイツリーに登っていない。そう、学生時代に建ちあがっていく風景を見た東京タワーに義理立てして、登らないままにしようと思うのだ。どうでもいいけど。
隅田川を渡れば、墨堤は2階建てになっていて、上に高速道路、下には青テント小屋の暮らしの場である。ちょっと2階が高すぎて、雨除けになるのかと気になる。
上から車の騒音が降ってくることを別にすれば、今日のような日和の中で見る青テント暮らしは、よそ眼にはいかにものんびりとしている風景のアジールである。
住民の方々は、こちらではアルミ空き缶をカンカンとたたいて延ばしておられ、こちらではなにやら工芸品をつくっておられる様子である。
公園の中に隅田川神社がある。どんないわれの社か知らないが、普通は本殿の背後に森があるのだが、ここでは高速道路の桁がかぶさっているのが、いかにもの感がある。
そしてまた、これが木母寺、あの梅若伝説の故地である。ほう、ここであの能「隅田川」の母親は、死した子を葬った塚に出会ったのか。
わたしはこの能を好きだ。世阿弥が期待しながら夭折した息子の元雅の作である。能には珍しく、仏の救いのないままに終幕となる。しかし、実は救いがある演出になっていると、わたしは最近になって発見した。
青色テント住居や木母寺の東側の背景となっているのは、万里の長城のごとき、あるいは新たな墨堤のごとき、高層共同住宅群である。
この新墨堤は、大地震がやってきて下町に大火災が起きたら、この燃えないコンクリ壁群が火を止めて、逃げてくる人々を川のほとりに避難させるって、そういう大野望のもとにつくった代物らしい。ものすごい。
向島百花園での宴会が終わって、曳舟駅から電車に乗ろうとして駅前を見上げたら、スカイツリーらしきローソクが屋根の上にあがっていた。
ちかごろは、こういう代物が立つと、景観がどうやらこうやらと騒ぐ人がいるのに、こいつのときはどうだったのだろうか。低層下町には並はずれて高すぎて、話にならなかったのか。
参照⇒オペラ「カーリューリバー」 (まちもり通信G2版)
https://sites.google.com/site/matimorig2x/opera-curlew-river
2013/11/05
853わたしの個人史と重なる共同設計組織RIAの職能拡大展開の軌跡を書いてみた
戦前は有名建築家だった山口文象が、戦中戦後の10年間のブランクの後に起こした建築設計集団「RIA」は、個人名を排した共同体とした点で、同世代の他の有名建築家たちとは一線を画し、戦後民主主義の嵐の海に再びの船出をしたのだが……。
建築家というと普通は個人の職能をさすだろうが、建築学会誌『建築雑誌』編集者からの依頼には、2013年11月号に『「建築家が問われるとき:自己規定の軌跡と現在』と題する特集を組むので、設計集団RIAの職能について書けとの注文である。
ふむ、面白い、これまで山口文象につてはあれこれと書いてきたが、わたしが所属していたRIAについては、意識して避けてきた。
でも、わたしももう歳が歳だから、このへんで自分の社会人としての位置を築いたRIAについて書いてもいい頃だろうと思えてきた。
そこで、なんの資本的バックもない徒手空拳の建築家集団RIAが、戦後復興期の荒波中で新たな職能像を求めて苦闘を重ねた、1950~70年代迄の軌跡を書いてみた。いわば個人史と重なる建築設計組織の職能拡大展開の歩みの論考である。
題して「RIAが選んだ建築家共同体組織とその職能展開の軌跡」
もちろん、いまやRIAのもっとも初期メンバー生き残りとなった建築家・近藤正一さんに話を聞き、古い雑誌記事などを読み、同輩に手助けしてもらって、ようやく書いた。
自分のいた時代なのに、はじめて分かるようなこともあり、面白いことだった。
英文の題名は、学生時代の同期生だった友人に決めてもらった。
History of unique cooperative system in Research Institute of Architecture(RIA ) with some reference to expanded horizons of architects' professions
なお、RIAの正式名称は「RIA建築綜合研究所」、現在は改称して「株式会社アール・アイ・エー」である。
●本文はこちらを参照のこと
「RIAが選んだ建築家共同体組織とその職能展開の軌跡」
https://sites.google.com/site/dateyg/ria1952-1979
建築家というと普通は個人の職能をさすだろうが、建築学会誌『建築雑誌』編集者からの依頼には、2013年11月号に『「建築家が問われるとき:自己規定の軌跡と現在』と題する特集を組むので、設計集団RIAの職能について書けとの注文である。
ふむ、面白い、これまで山口文象につてはあれこれと書いてきたが、わたしが所属していたRIAについては、意識して避けてきた。
でも、わたしももう歳が歳だから、このへんで自分の社会人としての位置を築いたRIAについて書いてもいい頃だろうと思えてきた。
そこで、なんの資本的バックもない徒手空拳の建築家集団RIAが、戦後復興期の荒波中で新たな職能像を求めて苦闘を重ねた、1950~70年代迄の軌跡を書いてみた。いわば個人史と重なる建築設計組織の職能拡大展開の歩みの論考である。
題して「RIAが選んだ建築家共同体組織とその職能展開の軌跡」
もちろん、いまやRIAのもっとも初期メンバー生き残りとなった建築家・近藤正一さんに話を聞き、古い雑誌記事などを読み、同輩に手助けしてもらって、ようやく書いた。
自分のいた時代なのに、はじめて分かるようなこともあり、面白いことだった。
英文の題名は、学生時代の同期生だった友人に決めてもらった。
History of unique cooperative system in Research Institute of Architecture(RIA ) with some reference to expanded horizons of architects' professions
なお、RIAの正式名称は「RIA建築綜合研究所」、現在は改称して「株式会社アール・アイ・エー」である。
●本文はこちらを参照のこと
「RIAが選んだ建築家共同体組織とその職能展開の軌跡」
https://sites.google.com/site/dateyg/ria1952-1979
2013/11/03
852建築家山口文象がデザインした家具を観に行った
「建築家と天童木工」なる家具の展覧会を、天童木工東京ショールームに観に行った。
会場には、山口文象、丹下健三、黒川紀章、坂倉順三、オスカー・ニーマイヤーなどの有名建築家たちのデザインした家具が展示してあった。もちろん、天童木工が製作したものだけである。
●「建築家と天童木工」展覧会風景
整形合板を立体的に用い、美しい造形の座卓。特に甲板は水滴の波紋を連想させるようなカーブをしている。その美しさの反面、甲板に狂いが生じやすく平面を保つことが難しいため、商品化は見送られた。
●山口文象デザインの座卓
そしてまた、そのコンクールのことも書いてある。
1961年、民間では初めてとなるコンペを開催、審査員に剣持勇(審査員長)、丹下健三、豊口克平、渡辺力、長大作、建築評論家の浜口隆一など、豪華な顔ぶれが並ぶ。応募規定は「成型合板を一部または全体に使用したものであること」。
このテーブルがあることは知っていたが、現物を見るのは初めてである。山口文象やRIAの建築作品紹介の雑誌写真には、自分の設計した家具が登場してることがよくあるので、これを探したら、あった。
●山口文象邸のサロン風景(1969年発行『新訂建築学体系・木造設計例」彰国社より)
山口文象の自邸の写真の中に写っている。座卓としてではなくて、小テーブルとして使っている。その向こうの椅子も山口文象デザインかもしれない。
この写真は、1961年~1969年の間に撮ったのだろうから、とすれば、わたしは山口邸で見ているはずであるが、忘れていた。
展示室の係りの人に、この座卓は天童木工の収蔵品かと聞いたら、どこかのお宅から借りてきたが、それがどこか知らないという。では、山口邸から来てるのかもしれない。
山口文象はいくつもの家具デザインをした。新制作派協会展覧会にも出品している。1953年にRIAを結成してから、メンバーの近藤正一と組んでいるようだ。
この小テーブルの前には、1954年全国工業デザインコンクール最優秀賞をとった小椅子がある。二次元カーブのプライウッドを組み合わせた量産向きの家具である。
●小椅子(通称チリトリ椅子)
口の悪いRIAの連中は、「これは通称チリトリ椅子というのだ」、そして「椅子にもなるチリトリなんだ」とも言った(今やチリトリは死語かもしれない)。
RIAの会議室にいくつもあったが、二つのチリトリの接合部の金物が外れやすくて、そっくり返らないように座ったものだ。
戦前の山口文象の建築作品の写真には、彼のデザインした家具が写っていることが多い。既製品の洋家具がない時代だから、建築家が家具の設計をするのがあたり前であったらしい。
●1928年三宅やす子邸の家具
山口文象が石本喜久治の下にいたころに担当した住宅であるから、山口のデザインかもしれないが石本のデザインかもしれない。
●1934年日本歯科医科専門学校付属医院の家具
●1950年久が原教会の椅子と講檀(プライウッドによる簡素なデザイン)
●参照⇒建築家山口文象サイト(伊達美徳)
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html
会場には、山口文象、丹下健三、黒川紀章、坂倉順三、オスカー・ニーマイヤーなどの有名建築家たちのデザインした家具が展示してあった。もちろん、天童木工が製作したものだけである。
●「建築家と天童木工」展覧会風景
わたしのお目当ては、もちろん山口文象デザインの座卓である。
1961年第1回天童木工家具デザインコンクール金賞の作品である。展示の説明にこう書いてある。整形合板を立体的に用い、美しい造形の座卓。特に甲板は水滴の波紋を連想させるようなカーブをしている。その美しさの反面、甲板に狂いが生じやすく平面を保つことが難しいため、商品化は見送られた。
●山口文象デザインの座卓
そしてまた、そのコンクールのことも書いてある。
1961年、民間では初めてとなるコンペを開催、審査員に剣持勇(審査員長)、丹下健三、豊口克平、渡辺力、長大作、建築評論家の浜口隆一など、豪華な顔ぶれが並ぶ。応募規定は「成型合板を一部または全体に使用したものであること」。
このテーブルがあることは知っていたが、現物を見るのは初めてである。山口文象やRIAの建築作品紹介の雑誌写真には、自分の設計した家具が登場してることがよくあるので、これを探したら、あった。
●山口文象邸のサロン風景(1969年発行『新訂建築学体系・木造設計例」彰国社より)
山口文象の自邸の写真の中に写っている。座卓としてではなくて、小テーブルとして使っている。その向こうの椅子も山口文象デザインかもしれない。
この写真は、1961年~1969年の間に撮ったのだろうから、とすれば、わたしは山口邸で見ているはずであるが、忘れていた。
展示室の係りの人に、この座卓は天童木工の収蔵品かと聞いたら、どこかのお宅から借りてきたが、それがどこか知らないという。では、山口邸から来てるのかもしれない。
山口文象はいくつもの家具デザインをした。新制作派協会展覧会にも出品している。1953年にRIAを結成してから、メンバーの近藤正一と組んでいるようだ。
この小テーブルの前には、1954年全国工業デザインコンクール最優秀賞をとった小椅子がある。二次元カーブのプライウッドを組み合わせた量産向きの家具である。
●小椅子(通称チリトリ椅子)
口の悪いRIAの連中は、「これは通称チリトリ椅子というのだ」、そして「椅子にもなるチリトリなんだ」とも言った(今やチリトリは死語かもしれない)。
RIAの会議室にいくつもあったが、二つのチリトリの接合部の金物が外れやすくて、そっくり返らないように座ったものだ。
戦前の山口文象の建築作品の写真には、彼のデザインした家具が写っていることが多い。既製品の洋家具がない時代だから、建築家が家具の設計をするのがあたり前であったらしい。
●1928年三宅やす子邸の家具
山口文象が石本喜久治の下にいたころに担当した住宅であるから、山口のデザインかもしれないが石本のデザインかもしれない。
●1934年日本歯科医科専門学校付属医院の家具
●1934日本歯科医科専門学校付属医院の手術見学教室の机
●1950年久が原教会の椅子と講檀(プライウッドによる簡素なデザイン)
●参照⇒建築家山口文象サイト(伊達美徳)
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html
2013/11/02
851【エッセイ版】あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている・独り相撲都計審委員物語
まちもり瓢論2013年11月号
まちづくりは市民参加で進める時代です。これは、ひとりの市民が自主的に、巨大都市・横浜市の都市計画行政に愚直なる参画をして、多くの考えさせられる問題に直面した2年間の物語です。横浜市固有ではなく、日本各地の大都市の問題かもしれないと思うのです。
続きの全文は「エッセイ版 あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている」
https://sites.google.com/site/matimorig2x/essay-cityplanning
エッセイ版
あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている
独り相撲都計審委員物語
(『建築の研究』2013年10月号掲載)
伊達 美徳
あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている
独り相撲都計審委員物語
(『建築の研究』2013年10月号掲載)
伊達 美徳
◆ひとりの市民として都市計画審議会の委員になったけど
わたしは長らく都市計画を専門としています。主として行政からの委託により、既成市街地の整備についての計画を市民と行政の間に立って進める仕事で、全国各地で経験を重ねました。
続けていた日本都市計画家協会の常務理事事務局長を退任し、都市計画の仕事からも半リタイアして時間にゆとりができたので、純粋にひとりの市民として専門的な知識を生かして自分が暮らす地域社会に役立ってみようと思いつきました。
そこで2008年、わたしの住む横浜市が公募していた都市計画審議会の市民委員に応募したところ、2人の枠に応募者30人で15倍もの競争率の中から幸運にも委員に選ばれました。
都市の生活環境や生産活動の相互に問題が起きないように、土地の使い方に規制や誘導をし、道路や公園などの配置を決め、都市空間を整備するのが都市計画です。
この都市計画法、都市計画法によって知事や市長が定めますが、決定するときには必ず、都市計画審議会に諮らなければなりません。横浜市の都市計画審議会 の委員は、市議会の正副議長と各委員長、関連分野の学識のある専門家、公募して選ぶ市民など25名で、年間に4回の審議会を市長が招集して議案を出しま す。
わたしが任期中の2010年半ばまでの2年間に計7回の審議会があり、議題数は計50余、地区数は計150余でした。念入りに事前調査し、積極的に意見を述べ、議案のひとつやふたつに反対の挙手をして、20余人の無口な委員を相手に毎回たった一人の反乱のようでした。
図らずも演じてしまった、ドン・キホーテあるいは車寅次郎のようなドタバタの独り相撲をお読みください。
続きの全文は「エッセイ版 あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている」
https://sites.google.com/site/matimorig2x/essay-cityplanning
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