2025/02/24

1869【音楽堂でオペラ】能「隅田川」を見る目でモンテヴェルディ「オルフェオ」を見た

  久し振りにオペラを見に行った。横浜にある県立音楽堂、17世紀初めに初演というモンテヴェルディ「オルフェオ」である。世界で初めてに近いイタリア作品。

●ヴィチェンツアのテアトルオリンピコ舞台を思い出した

 音楽堂だから舞台が狭いしオーケストラピットもないから、本格的なオペラには向いていない。それでも近頃はプロジェクションマッピングという映像映写技術が発達して、何枚も幕をつかわなくても巨大な背景が変化する舞台効果ができるようになった。

神奈川音楽堂でオルフェオ開演の前 舞台中央に門がひとつ


 今回の舞台装置は、西洋古典様式建築的な門がひとつ、しかも左右も前後も舞台中央部に立っているだけ。舞台装置らしきものは他にはなくて、演技はその門の前の狭い舞台でのみ行った。オーケストラは舞台前の平土間部分に固まっていた。

 その舞台構成を見て、かなり前に訪ねたことがあるイタリアのヴィチェンツアにあるテアトロ・オリンピコという劇場舞台を思い出した。この建築は16世紀末に有名な建築家パラディオの設計作品である。

ヴィチェンツア・テアトル・オリンピコの本格建築物の舞台装置
同上の舞台と客席
 
 この2枚の写真はわたしが1995年に訪ねて撮ったものだが、劇場を見ただけであり、それがどのように使われるのか知らない。舞台上にはこのような中央にゲートがある建築物が建っていて、ゲートの向こうは街並みのように作られている。

 このような本物建築が固定されていて、これを背景に舞台演技を行ったそうだ。舞台そのものの奥行きが意外に浅いのは、まだそのような必要があるオペラの時代がまだ来ていないということであろう。

オルフェオの舞台装置の前と後の舞台が同じくらい奥行き

 この建築背景の中央部のゲート部分だけが建つ舞台、それが今回の「オルフェオ」である。そのゲートと背後の板壁との間もゲート前と同じくらいの舞台奥行きである。舞台背後の壁は木製板壁であり音響反射板であろう。その木目の板壁に直接映像映写していた。門の前の舞台がもう少し広い方がよかったと思う演技だったが、映像映写の都合で門の背後もそれくらいが必要だったのだろうか?

 オペラを好きだがしょっちゅう見に行くには高価なので、我慢して年に2回くらいなものだ。この前に見たオペラはやはりこの音楽堂での「魔笛」だった。今調べたら一昨年の11月のことだった。去年は全く見てなかったのか、ウ~ン、これは高価で行けなかったのではなくて、家人の介護真っ最中だったからなあ。

 オペラよりは安い能(近ごろは高くなって来た)を好んで見に行く。だが去年は見ていないのは横濱能楽堂が修復中で休館していたからだが、いまだに開場していない。開場したころはこちらがあの紅葉坂を昇り降りする体力気力がなくなるだろう。

●日本の能「隅田川」を思い出した

 オルフェオを見ていて、そのストーリーの最も重要なところ、死んだ妻を冥界に訪ねたが、顔を見ただけでまた分かれる第3幕あたりで、能「隅田川」を思い出した。よくにているようなのだ。

 この能は15世紀初めにできているから、「オルフェオ」よりも150年以上も前だ。ついでにこれはすでに言われていることだが、「古事記」にある死んだイザナミを冥界に訪ねたイザナギの話との類似があるが、こちらはもっと古い。洋の東西や時代を問わず、親しかった死者に再開したい人間の気持ちは変わらないというだろうか。

 オルフェオが死んだ妻を求めて、冥界への川を船で渡るために、渡し守との間で乗せろ乗せないのやり取りするところから、オペラの後半第3幕が始まる。そして渡し守の居眠りのすきに川を渡ったオルフェは冥界にいたり、その王から妻を連れ帰る許可を得るのだが、その条件は帰る途中で妻を振り返り見ないこととされ、オルフェオは妻を後に従えてこの世への途に出る。

 しかし、その途上で後ろに本当に妻が後ろについてきているのかと疑念がわいたオルフェオは、妻を見たい願望に負けてしまって振り返る。その瞬間だけ妻の顔を見ることはできたが、約束破りなので冥界の王に妻を取り戻されしまい、ひとり寂しくこの世のトラキアの野に戻る。

 能「隅田川」の主人公は、死んだ子を訪ねる母親である。同じように川を渡って死んだとは知らぬ子を求めるのだ。彼女にとっては実は渡る前の川のこちら側はこの世であり、渡った向こう岸は彼女にとってはいわば冥界であったのだ。

国立能楽堂提供:『能之図(下)』より「能 隅田川」
 そこで子の墓を訪ねあてると、その日がその子の一周忌であるので、近くの人々が大勢集まって、供養の念仏を唱えているのだった。
 母も共に祈ると墓の中から死んだ子がは姿を見せる。だが一瞬だけで消えてしまう。母は「草ぼうぼうとして浅茅が原」の中に立ち尽くすと朝日がさして能は終わる。この母にはオルフェオのような救いの幕はない悲劇である。

 ということで、大筋ではかなりの類似性があり、これは決して牽強付会にはならぬ程度だと、わたしは思うである。そんなことを思いながらオルフェオの第3幕以降を見ていたのだが、比べてみてて能「隅田川」のリアリズムに今更に驚いたのである。

 それにひきかえ、オペラ「オルフェオ」は作者がいったように「音楽寓話劇」そのものである。「隅田川」の母親に救いはないままに悲劇に終わるのだが、オルフェオは悲劇かと思えばまだ先の幕があり、父のアポロによって天国に送られるという無理筋のハッピーエンドである。

 「オルフェオ」よりも150年以上前の「隅田川」の演劇として完成度の高さを感じてしまうのは、筋違いだろうか? もっとも、能には「オルフェオ」に負けない無理筋ハッピーエンドの曲はかなり多い。最後の最後で苦悩する主役が仏に救済される「清経」、「砧」、「鵜飼」など、オルフェがアポロに救済されると同様である。

 ここでもう一度思い直すのだが、「隅田川」は本当に悲劇のままだろうかと。朝日の中にひとり立ち尽くすと見える母は、実はその周りを共に念仏を唱えて供養してくれた大勢の人々に囲まれているはずだ。舞台上でそれは船頭、地謡い方、囃子方、後見の大勢の姿である。

 この地でたまたま行き倒れ死んだ見知らぬ旅人であったその子を、その一周忌に集まって供養をする「このあたりの人々」の親切な心は、悲しみに立ち尽くすその母親をも救済するに違いないと思うのである。見えない第五幕があるのだ。観世元雅の天才を想う。

●これで「オルフェオ」を3度も見た

 特にそのファンでもないが、実はモンテ・ヴェルディ「オルフェオ」を見たのは、これで3回目である。最初は2007年11月17日に北区の「北とぴあ」での公演「オルフェ―オ」(指揮は寺神戸亮)であった。これを見に行ったのは、そのころ能謡を教わっていた能役者の野村四郎さんが、これを演出・出演したので行かねばならなかったからだ。

 そのこ、野村四郎は東京芸大教授であったが、実に積極的に他の分野とのコラボレイションをしていた。能の他流派とはもちろん、オペラ、歌舞伎、文楽、美術などの芸術家たちと新分野の舞台芸術を模索していた。
 参照:野村四郎舞台芸術コラボat東京芸大2003~07

 笠井健一と組んでの野村演出は、もちろん能の様式を生かしていたが、オペラそのものであり、結構面白かった記憶がある。舞台は2階建ての装置で大掛かり、天上界が上にあった。衣装も能装束イメージの興味深いデザインだった。

2008年のオルフェオ公演
 この2007年は、初演から400年にあたるので、各所でこのオペラの公演があった。2008年1月20日、近所の神奈川県立音楽堂でもあったので、もともとはどんなオペラなのか知りたくて見に行った。指揮は今回と同じ濱田芳通であった。そのほかに今回も出演者がいるかとパンフを見たら、彌勒忠史がいた。

 よく覚えてはいないのだが、古楽器演奏者たちは舞台上にいて、狭い舞台には立体的に回廊のようなものが組んであった記憶がある。古楽器の旋律が美しくて、それで今回も同じ楽しみを求めて音楽堂に行ったのであった。美しい音色に癒されて、いってよかった。

 実は次第にわが身の老化が進み、県立音楽堂のような階段客席を歩いて登るしかない劇場には、敬遠するしかなくなりつつあるのだ。その点では、隣の横浜能楽堂が平土間だけで実によろしい。再開場を待ち焦がれている。(2025/02/24記)

 ●参照 YouTube動画による能楽とオペラ鑑賞はこちらへ
・能「隅田川」 ・オペラ「Claudio Monteverdi - L`Orfeo

ーーーこのブログでのオペラや能の関連記事ーーー

趣味の能楽・オペラ等鑑賞記録
https://matchmori.blogspot.com/p/noh.html

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

2025/02/15

1868【確定申告】春先に年に一回の数字いじり仕事させるのは政府の高齢者ボケ遅延政策か

  毎年の今頃になると、世の中は所得税の確定申告の季節である。わたしもヒマツブシがお金になるからやっている。

品川駅東西通路にて

 お金になるとは、納め過ぎた源泉徴収税を返してもらって、その還付金を春先のお小遣いの楽しみにしているのだ。もっとも、もともと自分の金だけどね。

 源泉徴収とは、考えてみると奇妙な言葉だ、源泉つまり湧き出す源になっている泉のことだ。ということは、国家にとっては国民は、国民の所得というおカネを湧出する源なのである。温かい水が湧き出せば温泉だし、おカネが湧き出せば所得税源泉というらしい。温泉が無限に出ることが無いように、税の源泉の国民の所得だだって無限湧出ではあるまい。

 その湧き出す所得を本来は汲んで戻るべき国民がやってくる前に、国家がいち早くやってきてその一部をかすめ取る仕組み、これを源泉徴収といい、そのカネを源泉徴収税と言うらしい。
 ところが、国家が掠め取る金額が法律で決まっているのに、その額よりも多く汲み過ぎていく。そこで国民一人一人が、毎年このあたりになると取り過ぎたお金を返してくれと、国家に申請するのが、この確定申告であるらしい、と、わたしは理解している。
 とる国家も返せという国民も、この時期はご苦労なことである。わたしはボケ進行遅延策として有効に活用している。しかし、申請しないと戻ってこないのがけしからん。

 これまで毎年毎年これをやっているのは、国家が毎年毎年決まっている額よりも多く汲んで持って行ってしまうからだ。これまで少なく汲んでいったことが一度もない。
 いや、一度だけ汲み損ねていったことはあったが、それは所有不動産を売却した2015年であった。もっとも、この売却を国家が気がつかなかったから、こちらから国家に親切にも教えてあげたのだった。さすがに還付はなくて追加納付した。参照「父の家を売る

 さて、ことしのわたしの確定申告には、今まで一度もやったことがない「医療費控除」の申告がある。昨年は居宅介護していた病妻が亡妻になる一大変事のため、医療費と介護費が控除対象になるほどに多額になった。これまでは一度も申告可能額ではない健康家族だったのに、、。

 上に述べた不動産売却時もあれこれと申告書作りが面倒だったが、この医療費控除申告もそれに負けず劣らず面倒極まると知った。それがどれほどわが一人暮らし財政に寄与したのか実はよく分らないのだが、とにかく源泉徴収税を全額還付してくれるそうだ。無税の民に落ちぶれたのである。

 いまはなんでもネット時代であり、ご親切にもYouTubeに医療費控除のやり方指南動画がたくさん登場している。税務署サービスの動画かと思ったら、どうも確定申告書の作成依頼を受けて稼ごうとする税理士たちらしい。その数があまりにも多くて目移りがする。
 ついでに他の面倒なこと、今年だけらしいが「特別減税」なるものがあり、これが税額算定をややこしくしているらしいことも知った。知ったからとてなにも分からぬが。

 さて、その申告書類づくりをヒマツブシにやるのだが、いまどきは国税庁提供「確定申告書作成コーナー」なるサイトを利用すれば、ややこしい計算は自動計算して申告書を作ってくれる楽なものだ。
 ただし、これで作るとどうしてそうなるのか、国家が徴税してくる仕組みが全く分からないままであるのが、なんとも癪である。昔は手計算で手書き込みしたから、何となく理解させられたものだ。

 そこで思い出したので、本棚の片隅から昔の確定申告書の控えの束を取り出してみた。ほお、1998年分からあるのかあ、納税についてはこんなにも忠実にやってきたかと、われながら国家への忠誠に感心した。それ以前はやっていないということは、必要でなかったのだろうなあ。フリーランスになって9年目からとは、必要になることがあったのかしら。

 控えを見れば、2004年分までは数字が手書きである。ということは手計算だったのだろう。2005年分からは印刷だから、この時から国税庁の作成サイトが始まったのだろうか。

1998年分からの所得税確定申告書控え

 あらためて控えをみれば、2000年前後頃は還付金が50万円強もあったのに、いまや1万円にも満たない貧乏老人になっている。納税額が少なければ、還付金も少ないのは道理であると分かっている。

 ところで、納めた額以上に戻っては来ないのは常識としてよく分るのだが、今年はそれがあるらしい。それが一人当たり一律に3万円の特別減税である。これもYouTubeでよく分った(ような気がする)のだが、現金でくれれば簡単なのに、税金額を負けてくれるそうだ。

 複雑にして面倒なことをやるもんだ。税額そのものをオマケしてくれるのだが、わたしのようなオマケするほどの税額がない者には、減税の恩恵を公平に行き渡らせるために現金をくれるのだそうだ。岸田さんの置き土産とてオアリガタイことである。カネが入るとなると一生懸命に申告書づくりするものだ。
(2025/02/15記)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


2025/02/09

1867【キャリフォニア歌人】トラ強風太平洋越えて来る飛び火石破首相を火消しに派遣

 今朝(2025/02/09)の朝日新聞の朝日歌壇永田和弘選に次のような歌が載っている。

    強風で我が家の周りにまた飛び火 灰と煙に三日四晩も
                 (アメリカ)大竹 博

 このアメリカとはキャリフォニア州のことであり、歌に読み取ることができるように、先だってのロスアンゼルス大火の地である。
 そしてこの大竹博とは、わたしの大学同期生であり山岳部と寮で同じ釜の飯を食った仲間であり、畏友である。大竹とは時々ZOOMで出会う。

 あの大火については彼自身の家の街にも燃え広がってくるかと、大いにやきもきしたが幸いにして無事であった。それはよかったが、20キロほど離れた息子さん一家が住む街は、まる焼けになってしまったそうだ。

 しかし、その息子氏の家は奇跡的にまわり数軒と共に焼け残った。それはよかったが、家も庭も周りの火災で降ってきた灰まみれだし、壊滅した街で生活できる状況になくて、父親の家に避難してきているとのこと。なお、その焼け残りの家は、以前は大竹君一家が住んでいたのであった。

 そのような背景があっての上でのこの入選歌である。彼は朝日歌壇にちょくちょく入選しているのだが、この前(1月19日)の入選歌はこうだった。

  裏庭で立ち食いの栗鼠と眼が合えば 餌を差し出して分け合う仕草
               (アメリカ)大竹 博

 この歌の余りにものどかなる風景を読めば、今回の入選歌の「三日四晩」の激しさがじんじんと伝わってくる。
 ふつうは「三日三晩」と言うはずだから、これはUSA人となって半世紀以上になる大竹の怪しい日本語なのか、と、初めは思ったのだが、いや、やきもきを詠うのに「四晩」と強調したに違いない、うまい、と思い返したのであった。

 ところがまた別の同期畏友から教えてもらったのだが、「三日四晩」の上をいく「四日五晩」と、映画「もののけ姫」のセリフに出てくるそうだ。
 ということは、わたしは知らなかったけど、キャリフォニアあたりの外人が知っていてもじったのかと驚いている。失礼しました、ごめん。

 早速に今朝は入選祝メールを送ったのだが、そこにこう返歌を付け加えた。

   トラ強風太平洋越えて来る飛び火 PM石破を火消しに派遣
               (ニッポン)伊達美徳

 後のためにこの狂歌の背景を書き添えておくが、たまたま今朝の新聞を賑わわせている昨日行われた石破ランプ初会談のことを踏まえてるのだ。
 トラさん思いつき発言が飛び火しないように、イシさんはなだめおだて作戦を三日四晩も考えて会談に臨んだことであろう。(20250209記)

ーこのブログ内の関連記事ー

2025/01/13・1861【LA大火事】
https://datey.blogspot.com/2025/01/1861.html

2023/11/02・1727 【老いの日々】
https://datey.blogspot.com/2023/11/1727.html

2022/10/03・1649【朝日歌壇の歌人】https://datey.blogspot.com/2022/10/1549.html

2019/03/03・1391【カリフォルニア歌人登場】https://datey.blogspot.com/2019/03/1191.html

2018/12/23・1375【カリフォルニア旧友朝日歌壇】https://datey.blogspot.com/2018/12/1175.html

2018/08/12・1156【カリフォルニア夫婦歌人朝日歌壇登場】https://datey.blogspot.com/2018/08/1156.html

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

2025/01/31

1866【横浜徘徊】内外観光客で賑わう春節中華街の隣には寒空の公園での炊き出しに行列する貧困風景

  今年になって初めて久しぶ横浜都心徘徊、いつものコースの半分しか歩けなかった。それだけ足が弱ってきたということだ。街を歩くのを大好きだが歳が歳だから仕方ない、と、思うことにする。なんでも不都合なことは齢のせいにすればよいのだ。便利なものだ。

 今はチャイナ当たりでは春節という旧正月であり、横浜もチャイナタウンの中華街あたりは春節を祝う雰囲気で、内外からの観光客も多く、にぎわっている。
 その一方で、そこから100mほど離れた線路を隔てた南には、貧困者が密度高く多く住み着くドヤ街の寿町地区がある。その中央にある寿公園で炊き出しがあり、大勢の人たちが行列を作って今日の昼飯の配給を待っていた。中華街の人出とは全く対照的な風景である。

 寿町で毎年恒例の正月の炊き出しに出くわした。寿町地区の中央にある小さな寿町公園から長い行列が出てきて、街区を取り巻いていて、ざっと見たところ300人くらいいる。弁当か雑炊か知らないが、今日の炊き出しを待つ人々である。毎年のことであるが、その人数が減ることが無いのは、やはり世の中は不況なのである。

寿公園に並ぶ炊き出しを待つ人々の行列は300人くらいか

 この20年ほどの間、この街に時々徘徊に来て観察しているのだ。街は徐々に変化している。かつての港湾労働者の街で活気ががあり、汚かった。今はきれいにあったが、貧困高齢者たちが小さな安宿に身を寄せあって暮らす街になって、活気は全くなくなった。

 街の風景は大都市のビル街であるが、それらのほとんどはドヤと呼ばれる簡易宿所である。一泊1700円が相場で、多くの宿泊人が実は住宅として使っている。格好つけて言えばホテル住まいであるが、一室は5~8㎡、便所やシャワー室は共同である。1700円という金額は、生活保護費の算定による金額であり、市場価格とは異なるようだ。

 そんな部屋が5階建てや10階建てのビルに積み重なっているから、人口密度はかなり高く、たぶん1000人/haくらいだ。高齢者がほとんどだから介護を必要とする人の比率も高いに違いない。この10年ほどでそれらのビルの1階には、福祉看護関係事業者が軒を並べるようになった。

 古いドヤビルは建て替えが進む。それらは近代的な高層ドヤビルに建て替わるものが多い。4階建てドヤが12階建てドヤになったとしても、ドヤという営業形態に変わりはないから、ますます高密度になってくるのだ。

5階建てドヤビルが8階建て建て替わった

 ところが最近のドヤ建て替えは、徐々に傾向が変わりつつある気配が見えてきた。ドヤビルから建て替えると、共同住宅になる事例がちらほら出てきた。街の中央の寿公園斜め前の街区が工事に入ったと思って見ていたら、出現したのはどうやら賃貸借型共同住宅であるらしいのだ。

 寿町の最も寿町らしいあたりから典型的なビジネスモデル簡宿所が変わろうとしているのは興味深い。この立地に入居するのはどのような人であろうか。地区に無関係な生活をする若い人たちあろうか。この新ビルから寿町公園の炊き出し風景を眺め下すことができる。

寿公園の隣にドヤビルが建て替わって出現した賃貸借型共同住宅ビル

 それらしい建て替えはここだけはなく、寿町地区内とその周囲にいくつか発生しつつある。

5階建てドヤビルを10階建て賃貸借型共同住宅に建て替えた事例


寿町フリンジの長者町通りで戦後復興防火建築帯の4階建て店舗付き共同住宅を
賃貸借型共同住宅に建て替えた事例

寿町地区内でドヤビルを共同住宅に建て替えた事例

寿町地区内でかつての「下駄ばき公団住宅」を一般分譲住宅に建て替えた事例

 長らく空き地であったところが最近工事を始めた。その「建築工事のお知らせ」掲示板を見れば、「ホテル・旅館」と書いてある。実はドヤもホテルと称して営業しているところがあるがそれらは法的には簡易宿所と言わねばならない。工事の掲示は法的な定めの表示だから、ドヤすなわち「簡易宿所」ではなくて、必要な規模と設備を備えた「ホテル・旅館」であるらしい。

新しく建つホテル旅館の周りはドヤビルばかり

 それではドヤが減少しているのだろうか。既存ドヤビルが賃貸借型の高層共同住宅ビル、あるいはホテル旅館、あるいは一般分譲型共同住宅等に建て替えられるとドヤが減るが、その一方で建て替えでは高層化すれば室数が増えるはずだからドヤは増加するだろう。

 ということは、さしひきドヤは減っていはいないのかもしれない。増えてもいないのかもしれない。ということはドヤ需要は増えてはいないということだろうか。
 しかし、あの炊き出しに並ぶ大勢の人々の行列を毎年の正月に見ると、この世にドヤ需要階層が減っているとは思えないが、どうなのだろうか。じわじわと街が変わるのを定点観測するのは面白い。日本流のゼントリフィケイションというものがあるのだろうか。
空から見る寿町地区 見えるビルのほとんどが簡易宿所(ドヤビル)

 寿町地区のそんな風景を眺めてから、そこから100mほど隣と言ってよいほど近くにある横浜の観光名所「横浜中華街」に移って徘徊しようと、電車線路高架下通路を通り抜けようとしたら、ここにたくさんの財産を段ボールに抱えた自由人が独り住んでいるのに出会った。たぶん、一泊1700円を払えぬのであろう。先ほどの炊き出し行列に並んでいないとは、自由人となって間がないお方で炊き出し情報を知らないだろうか。教えてあげるべきだったかしら。

 さてチャイナタウンへ来てみれば、寿町と大違いの賑わいであり、派手な街である。外国からも日本中からも若い人も年寄りもやってきている。寿町とは大違いの街である。観光客が寿町を訪れることはあるまい。

内外の観光客たちで大賑わいの春節の横浜中華街

 またその隣には「元町商店街」という高級さを売り物する街があり、ここの賑わいは中華街とはまったく別種のものであるのが面白い。横浜の都心部は、「横浜港」あたりの観光名所、そして「伊勢佐木モール」あたりの中心商店街、あるいは「野毛飲み屋街」、あるいは「横浜橋商店街」という下町市場そのものの庶民的な賑わい、これらピンからキリまでの都市を一つの盆地状の狭い土地の中に収めて共存しているところが実に面白い。

 ここに住まうようになって23年、これらの街を歩いて一巡すると10キロくらいになる。それが日常の身近の楽しみだったが、今では足が弱ってもう半分も歩けなくなった。歩き残した町は次の日に歩いたり、バスを使うのだ。歳とっての街歩きは健康維持のためでもあるが、実は都市計画を専門としていたわたしには、脳力維持のオベンキョウであるのだ。

(20250131記)

このブログの寿町に関する瓢論記事はこちらをクリック

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


2025/01/29

1865【ある死亡記事】ふむふむ87歳でも老衰死する資格があるのだと知ったのだが・・・

 今朝(2025/01/29)の新聞の死亡記事を何気なく読んでいて、目がひっかかった。そのお方をわたしは全く知らないが、その死因と享年にオヤと思った。

 老衰で87歳とある。ということはわたしと同年である。え、わたしも老衰で死ぬ資格があるんだと気が付いたのだ。
 ほお、同年の方の老衰死とは意外感があったのだ。老いて衰えるという語句の語感は100歳前後のことかと思いこんでいたらしい。

 そうか、わたしも老衰死する、そう、格好良く言えば大往生するかもしれない歳なのだ。
 なんだか安心、いや、なんというか、死と二人三脚やっているような、静かな隣人として死がいる、そんな気分になってきた。ふむふむ、そうなんだな、なんて考えなくても実は当たり前のことなんだな。

 しかしそれにしては、昨年夏に家人が死に遭遇したのを思い出すと、けっこうドラスティックなもののはずだが、わたしの日常は普通に起きて食って出して寝て、読んで書いて歩いているけど、これでいいのかしら。頭にある老衰と日常とのギャップが気になる。
 
 これから死ぬためにはそれなりの準備がいるのだろうが、何にもしていないけど、老衰死はどうやってやってくるのかしら。やはりいま流行りというか当たり前のことというか、介護という段階があるのだろうなあ。家人がそうだったように。

 と思いつつ同じ新聞記事を見るとこんなことが載っている。おやおや、死ぬための準備を手伝ってもらうというか支援してもらうべき介護事業者が、次々と廃業しているそうだ。う~む。

 そうか、わかったぞ、こうなれば自力で老衰死するしかないのだな。そうかあ、よしよし、え~と、どうやるのだろうか、どうしようかな、、。

 しかしまあ、今年中は畏友の歌集上梓プロジェクトが動いているから、来年になってから考えることにしよう。87歳でもできる老衰には、もうちょっと待ってもらうしかない。

(2025/01/29記)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  

2025/01/27

1864【警視庁から電話】新潟の犯罪捜査に私の名が出てきたと警視庁捜査一課タケモトさんから電話

 今朝9時半、携帯電話機が鳴りだした。ははん、昨日こちらがかけて不在だったあの女性からだな。

「はいはい、ダテです」

「ダテヨシノリさんのお電話でしょうか」

 なんだか若そうな男の真面目そうなビジネスっぽい声である、な~んだ、つまらん、息子とは違うな。

「・あ・ああ、そうです」

「こちらケージチョーソーサイッカのタケモトと申しますが、この電話はダテヨシノリさんででよろしいでしょうか」

 え~と、警視庁捜査一課のことかしら、犯罪小説に出てくるよなあ、面白い。

「ほお、はいそうですが、なにか?」

「こちら警視庁捜査一課のタケモトと申しますが、捜査で伺いたいことがあります、よろしいでしょうか」

 ちょっと高飛車である。不愉快になった。

「あ、はあ?、なんでしょうか」

「はい、こちら警視庁捜査一課ですが、新潟県で起きた事件につき、ダテヨシノリさんのお名前が挙がっているので、おうかがいします」

 ここで思った、なんだかなあ、こんなにお手軽捜査をするもんかしら、TVを見ないからこんな場面が本当にあるのかどうかも知らないが、なんだかなあ、ハハ~ん、おっと、まえにもあったような、こんなことが。

「ほお、はい、ではその前に、貴方が確実のその警視庁捜査一課のタケモトさんであることを確かめたいので、連絡先の電話を教えてください」

「ボアーン」(電話が切れた音)

 あれ、なんだよ、失礼な奴、せっかくヒマツブシになると思ったのに、もう切ってはツマランだろ、いやいや、こちらがもっと上手に扱うべきであったなあ、しばらく話に乗ってやればよかったなあ、ヒマだからしばらく新潟の捜査について聞いてやればよかったなあ、タケモト君にも気の毒だったなあ、反省しきりである。

警視庁捜査一課のタケモトさんの電話番号?
 スマートフォンの表示を見ると、あれ、非通知じゃなくて「080-4959-7110」と番号表示されているぞ、ほお、これが警視庁捜査一課タケモト君の電話番号かあ、かけてみようなあア、う~ん。

 実はこのような電話は初めてではない。何度もあったのではないが、3年まえに家人がかなりの段階まで乗せられ、わたしが途中で気づいて事なきを得たことがある。
 そのことはこのブログの下記に書いておいた。
 https://datey.blogspot.com/2022/04/1612.html

 まさか同じ奴からではあるまいが、もうちょっとうまく乗せてほしかったと、いや、うまく乗せてやって遊びたかったと、反省している。

2025/01/18

1863【大地震記憶】阪神淡路・中越・東日本・奥能登の大震災現地そして幼少期の大震災記憶

 これまで88年もの長い人生でありながら、幸いにして南キャリフォニアのような大火災にも、能登のような大地震にも直接に被災したことは無く過ごしてきた。これからどれほど生きるかわからぬが、大災害に合わない保証はない。できればそんな体験の無いまま今のうちに、この世からおさらばしたいものだ。

●阪神淡路大震災の現場へ

 昨日、2025年1月17日は、あの1995年阪神淡路大震災からちょうど30年目の日であった。わたしはそのような時間と事件とを結びつけて記憶するのは良いとしても、それから10年目とか30年目とかに特別な意味があるとは思えない。身内の死を何年忌とか言って覚えるのと同じかもしれない。わたしはあまりその記念日に興味はないが、事のついでにこれまでに出会った直接間接の地震について、まとめて書きとめておこうおこう。

 1995年の阪神淡路大震災は、長い人生でも飛び切り記憶に刻まれれている。自身が体験したのではないが、幼いころから比較的よく知っている大阪神戸あたりがどうなったか、どうなるのか大いに気になったので、関東住まいであったが仕事で関西に出かける度に、都合つけて神戸を何度も見に行ったものだった。もちろんそれには都市計画家としての興味が一番大きな動機だった。

 1月17日からTV映像を見続けて、すぐに行きたかったが支援する勇気はなくて、見学にゆっくには交通機関が通じてからと思っていて、3月4日になってようやく三宮に入ることができた。

 そこから破壊しつくされた街々を歩き歩きめぐった。何回も何日も見にいった。西は明石、東は芦屋まで歩きに歩いたものだった。カラー写真を何本も使って写真を撮り、スライドに残していた。今や一部をデジタルデータにしてPCに入れたほかは、最近になりすべて終活破棄した。30年とはそういう時間である。

 この地震は、最大震度7、死者・行方不明者6,437人であった。このときは何も復興支援にかかわることは無かったが、とにかくこの目で見ないと災害についてはわからないことばかりであると、心底知ったのが収穫であったと言える。

 以下は初めて神戸に入った1995年3月4日から5日にかけての写真のほんの一部。



 



●中越大震災の現場へ
 
 その次の地震災害地に入った体験は、2004年10月の新潟県中越大震災であった。このころわたしはNPO日本都市計画家協会の事務局長をしており、協会としての震災復興支援活動を行うことになった。
 この中越震災復興現場のひとつである長岡市の法末(ほっせ)という山村集落に、わたしもNPO仲間たち十数人のメンバーと頻繁に通うことになる。10年ほども続く長い支援活動がはじまり、初めは毎週末には泊りがけで通ったものだった。

 私的には豪雪の地域の生活に大いに驚いたものだった。生まれ育った山陽の地はめったに積雪はないし、その後に住んだ関東も同じようなものだったから、全く知らなかった北国の暮らしを知って、本業の都市計画に大いに役立った。

 復興支援とはいったい何だろうかと迷いつついろいろなことをした。要はその小さな被災山村を持続するための多様な活動だったが、人口減少がどこでも起きている日本で、これが果たして成功したのだろうか。






 美しい集落は復興したが、定住人口は減っている。減るとこの山村を支える農業者が減ることになる。生活圏としての山村は、元の緑の自然にもそどっていくばかりである。
 ひとつだけ成功と思うことは復興支援活動仲間の一人が、その山村に住み着いて農民となり、耕作放棄される棚田を引き付けて、美味い米つくりをしていることだ。
 その間のことをわたしの「まちもり通信サイト」の「法末集落復興日録」に載せている。

●東日本大震災の現場へ

 次の大災害現場は、2011年東日本大震災の東北地方であった。地震動災害に加えて津波災害、さらに加えて原子力発電所事故による核毒災害という三重苦巨大災害である。わたしはもう支援に加わる体力はなく、NPO日本都市計画家協会の一員として、何回か災害現場視察企画に参加して訪れ、人間と自然との対応にあれこれと思いをいたすばかりであった。

 それらについては、「まちもり通信サイト」の「災害日本オロオロ日録」に載せている。

地震災害に加えて核毒でゴーストタウンになった富岡町


津波と核毒に襲われた浪江町の漁港の街の廃墟の陸上のあちこちに漁船が

除染という核毒集塵掃除作業の結果は膨大な核毒ゴミ黒袋の山

浪江の村のどこもかしこも核毒汚染された田畑の一番豊かな土をはぎ取る

 特に福島第1発電所の原子炉の事故による巨大災害には、心底驚き、あきれるばかりのことばかりである。広範囲に核毒を振り撒いて国土を取り戻しようがないほどの汚染するという大事件である。今それから14年がたつのに、もはや忘れたように核発電所が、列島おあちこちに生き返りつつある。その後の処理がいまだに完了しないのに、忘れたとはどういうことだろうか。

●かつて訪れた能登半島地震の現場の今は?

 さて現在の地震災害主役は2024年能登半島地震であるが、もうわたしは現地を訪ねる気力も体力もない。2004年に訪ね巡ったあの奥能登の地は、今どうなっているのだろうか。
 じつは個人的には2004年の中越地震による大きな揺れを、偶然にも比較的近くの奥能登で身をもって体験したのであった。その地は輪島であったが、そこはまさに昨年2024年元日の能登半島大地震の地である。

 この能登半島で中越地震に遭遇したときのことはこのブログに載せているので、一部引用する。 
ガタガタみしみしとゆれる、地震だ、大きい。余震もきた。
2004年の奥能登ウォーキングコース
能登半島の輪島市の郊外、漁村集落の民宿について、やれやれと一休みしていた。大きな木造2階家は、古くて客が歩くとみしみしがたがた足音がする。音だけではなくてゆれたので、これは地震だ。コンクリ長屋の上のほうでユルユル揺れるのとは違う、ナツカシイゆれ方だ 
囲炉裏部屋のテレビを見ていると、震源は新潟といいつつ、しだいに被害が広がるのが分かる。能登は震度4だった。外では防災無線放送が津波の心配はないと言っている。
2004年10月23日夕刻から始まった中越地震に、こうして旅先で出会ったのだった。この旅は、わが大学同期の翁12人が、能登空港を起終点にして奥能登をひとまわりする120キロの行程を、5日間かけて歩きとおす企画である。
           (全文は『奥能登100キロウォーク』参照のこと)

 わたしが今も所属だけしているNPO日本都市計画家協会は、この能登半島震災復興のために、門前町に入っているようだ。わたしの奥能登の旅ではその街の黒島で一泊した。あの伝建地区の街並みどうなっているのだろうか。

●幼少期の大地震記憶

 ところで私の震災に関する記憶で最も古いものは、1943年9月の鳥取地震であるらしい。幼少時に揺れた記憶は一つしかないからこれであろう。わたしは7歳の時である。
 鳥取県の南隣の岡山県の高梁盆地で少年時代を過ごした。家が揺れるばかりか、周りの巨木もゆさゆさと揺れて倒れ掛かるのかと、怖かった記憶がある。わたしの生家は丘の中腹にある神社の森の中であったから、境内には巨木が立ち並んでいたのだ。
 それ以後でも、台風の時などは、巨木が揺れて枝が折れて落ちてくることはしょっちゅうで、森の中に住むのは平素の見た様子とは大いに違って、けっこう怖いのであった。

 その次の地震の記憶は、1948年の福井地震であった。新聞に載った百貨店建物の被災写真に強い記憶がある。
 また別の記憶につよい地震に関する新聞写真は、コンクリート中層共同住宅建築が横倒しになった悲惨な光景であるがいつのことか思い出せない。ネットを探したらあった、意外に最近で1964年の新潟地震であった。

 1957年からわたしは関東に住むようになったのだが、こちらは生まれた西の地と違ってずいぶん地震が多い地域であると思ったものだ。しょっちゅう体感地震があり、2年くらい離れなくてその度に怖くて胸がドキドキしたものだった。そのうちに慣れた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


2025/01/15

1862【介護保険へ】米寿ほども老いたのでもう資格あるだろうと介護保険適用手続きを始めたが、、


「これから詰まらぬ質問しますから答えてください。では第1問です。貴方の年齢はいくつですか」

「87歳です」

「では今日は何年何月何日ですか」

「2025年1月、えーと、13日だっけ」

「14日が正解です」

 ここは近所のクリニック診察室、目の前の看護師の女性が質問してくる。風邪ひきの薬を出してもらいに来たのに、なんでこんな質問かしら。

「ところで、なんですか、これって?」

「あれ、言いませんでしたか、貴方が区役所に出された介護保険適用の認定の調査ですよ」

「あ、そうですか、そうですか、今日は風邪薬もらいに来ただけなもんで、、。ああ、あの申請した介護の必要度合いの調査、介護を必要とするほどにどれほど老いたかボケたってテストね、まあ、ちょうどよかった、続けてください」

「では何曜日でしょう」

「火曜日だね、あのねえ、私ぐらいの歳のものはたいてい曜日に関係ない生活をしているものですよ、だから曜日を聞いて答えられなくて当たり前でしょ、それなのにボケの度合いの調査にそんな質問しても意味がありませんよ、質問がおかしいでしょ」

「あ、そうですねえ、調査書をつくったところに言いましょうかね。では次です。ここはどこでしょう」

「え、ここってクリニックの一室でしょ、貴方がお勤めのクリニックのね、これでいいのかしら、横浜とか日本とか地球とか言うのかしら?」

「はい、では次、これからいう三つの言葉を覚えておいてください、またずっと後で聞きますから、では、サクラ、ネコ、デンシャ、いいですかサクラネコデンシャ」

「はい、サクラネコデンシャね」

「では次の質問、100から7を引いてください」

「そんなの93でしょ」

「はい、ではそこからまた7を引いてください」

「えーと86」(バカバカしいな、あ、ボケ度調査なら間違い回答するべきだな)

「では次です。これからいう数字を逆に言ってください、6,8,2」

「286」

「3529」

「えーと9253」(あ、いけね、また正解しちゃった)

「先ほど覚えてもらった三つの言葉を言ってください」

「サクラデンシャネコ」(いけね、また正解だ、うまくじゃなくてまずく答えちゃった)

「ハイ正解、お歳にしてはずいぶん明晰ですねえ」

「アッ、いけねえ、そうか、これは介護保険適用のボケ度合い調査でしたね、こんなに正解してはいけなんだ、間違いやらないと介護適用してくれないんですよね、う~む、失敗したなあ、これからの質問には間違うように気をつけます」

「いやいや、もうおそいですよ」

「そういわないで、何とか不合格、いや合格するようにしてくださいよ」

「では次です、ここに並べたえんぴつ、かぎ、時計、くし、ハサミを見て覚えてくさい。はい、ではこれらをかたづけます、では何があったか言ってください」

「え~と、えんぴつ、時計、くし、ハサミ、え~ともうひとつなんだっけ、思い出せないなあ」(今回はうまく失敗するぞ)

「それは鍵です」

「次の質問です。果物または野菜の名前を10個行ってください」

「じゃ野菜を言います、キャベツニンジン白菜ホウレンソウジャガイモ玉ねぎモヤシサツマイモニンニク里芋、これで10個、あ、いけね、またやってしまった、ここは8個しか言えなかったことにしておいてくださいよ」

「いや、そうはできません、以上でおしまいです、おつかれさま」

 というわけで、正解してはいけない、いや間違い回答するべき質問についつい正解してしまうというバカなことをしてしまった。これでは目的とする介護保険適用がなされないオソレが十分にある。

 年齢とともに次第に弱りつつある身体機能、特に歩行機能の回復のために行う活動費用、例えばリハビリジムに通うとか、リハビリ用具のレンタルや購入などに介護保険を適用して、老後生活費用の節約を目指していたのに、これでは失敗したかもしれない。

 どうも身体機能の内のボケ機能介護にばかり保険適用をするらしい。運動機能への適用はどうなっているんだろ。なんだか偏っている調査のようだ。
 後でネット検索したら、これは長谷川式という介護度調査様式とて、点数をつけるとのこと。わたしのそれを自主採点したら満点30点に対して27点となった。点数が低いほどボケ度が高い、つまり保険適用にふさわしい判断になるらしい。

 どうもわたしはふさわしくなさそうだ。あきらめるしかないか。喜ぶべきか悲しむべきか。それにしても介護保険料は高いよなあ、後期高齢者医療保険料も高いし、これらをなんとかして取り返したいものだ。

(2025/01/15記)

(2025/02/13追記)
 この介護保険適用のための申請で「要支援2」の認定になったから、上記のテストには低空飛行ながらも一応の合格であった。さて、何にこれを利用しようか。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


2025/01/13

1861【LA大火事】森林から都市へ拡大した大火災の原因に異常気象があるとすれば他人事ではない

 


 ロス・アンゼルスで高級住宅地が大火事だそうである。7日発生から今日(20250113)現在も燃え続けていて、東京山手線内面積の倍以上も燃えたとのこと。
 データ的には、被災面積160平方キロメートル、死者16人、被災建物は1万棟以上、避難の指示や警告の対象になっている住民はあわせて30万人だそうだ。
 これでは山火事とはもう言えなくて、都市火災というべきだろう。

 昨夜はPCのSNS(youtubeとX)でいくつもの現地中継(LIVE)を見続けた。特に空中からの現場の火災進行実況は、まったくもって凄い、怖い、酷いものである。

 これはまるで炎の津波である。裏山から炎の横列の津波が下って襲い来るのを、なすすべもなく見る住民の気持ちを思うとやり切れない。ということは、あの大津波の時の沿岸の人々の気持ちもそうだったのだ。大自然からの攻撃に人間はなすすべもない。



 燃え広がる炎の空中写真を見ていて、ちょっと気になったのは、全く別の場所が何か所も燃えていることだ。飛び火とみるのは遠すぎる。同じ条件化なら自然発火するところが何か所もあるのか、あるいはいくつかは人為的な発火かとも思えるのだ。


 SNSには例のごとくに、陰謀論はもちろん、被災画像に人種差別的コメントとか、AI製の偽画像とか、怪しい書き込みがある。
 そんな妙なときにトランプは政権に就くのだが、どうするのだろうかと思っていたら、さっそくに民主党知事の失策だと言っているらしい。困った人だ。USAは大丈夫か。

 なぜこれほどに火災が拡大するのか。日本でも近年では2024年元日の能登輪島の朝市通りとか、2016年の糸魚川大火とかあるが、LAほどの大規模ではない。USAの住宅地の住宅の建て方(材料とか防火対策)とか、住宅地の都市計画(山林と住宅地の配置)とかに原因があるような気がするが、正確なところはわからない。

燃え尽くした山と住宅地

 LAの郊外には広大な住宅地がとめどもなく広がっている。まさに自動車社会の国である。緑に覆われた広い宅地に大きな住宅が、たぶん木造でびっしりと建てられている。燃えた跡の住宅地のあまりにもひどさに驚くしかない。画一的に作られた住宅地らしいが、全く画一的に廃墟になっているのが痛ましい。

 この森林火災の拡大から大規模都市火災への展開の原因を言う識者によれば、近年の異常気象によって森林が燃えやすい条件になっていたとのとこと。それが分かっているなら、森林火災拡大防止対策を取り入れた居住地づくりの都市計画があってもよいはずだ。


 例えば、延焼拡大防止のために、広い幅の空地の延焼防止帯を設けることが有効だろう。しかし、この写真に見るように、LAの郊外住宅地開発は野放図に森林を侵食している。特にキャリフォニアにおける乾季の山火事騒動は、毎年のことだからとっくに分かっていたはずだ。

ここは被災地ではないが広大な郊外住宅地が山を切り開いてい広がる

 そもそも森林地帯で人間が住むようなところじゃなかったのに、無理やり開発したのである。人がいなければどんなに森林が燃えても災害とは言わないだろう。
 そんなところに住み込んだ人間に、自然が土地を返せと迫っているのが、この大火災かもしれない。

 異常気象がこの大災害の原因ならば、日本列島も同じようなことが起きないとは限らない。太平洋を挟んだ対岸の火事ではなくなる。
 特に人口が減少しつつある郊外住宅地や地方小都市では、いったん燃え広がるとそれを止める人手がないから、拡大するばかりになるおそれは十分にある。
日本の都市の郊外住宅地開発も似たようなものだ

 コロナ禍は終わるらしいが、異常気象禍は今後ともつのるばかりのようだ。このところあちこちで戦争が多いのも、異常気象が人間の生存本能を掻き立てている現象かもしれない。右傾化する世界、強権国家の出現はまさにそうだろう。
 なんとも嫌な時代に生きることになったものだ。

 (2025/01/13記)

(20250114追記)14日朝のNHK報道では、死者は24人に増え、避難指示や警告対象住民数は、ピーク時には30万人以上だったが、13日時点では18万人余りに減少。一方、LA近郊では14日早朝から15日正午ごろまでは「特に危険な状況」に風が強まるとのこと。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━