2011/08/18

477 原発船で安心だあ~?

 あるブログで、なんと原子力発電船の建設が紹介されている。
 もっとも、造船所の倒産で頓挫したらしいけど。
「ロシア、世界初の洋上原発プロジェクト頓挫」
http://infrascape.exblog.jp/16126557/
http://www.reuters.com/article/2011/04/18/us-nuclear-industry-floating-idUSTRE73H3S020110418
 そのブログではロイターの記事を紹介して、要点をこう書かれています。
「2つの原子炉で構成されており、これにより35000世帯を賄う70mWの発電が行える。プラントはドックまたは沿岸に停泊しそこからケーブルで送電を行う」
「ロシアの国営原子力エネルギー企業のPosatomは、輸出目的で12の洋上発電所を建設する予定だ。」
「最初の原子炉の建設費用は5億500万ドルで、当初見積もりより4倍超も高額になっているが、それでも従来の大型原子炉に比べてればごく小額だ」
****** 
 驚きました、あるんですねえ、世の中に本当にそういう計画が、。
 実はわたしのブログ「伊達な世界」に、3年前に冗談に書いたことがあるのです。
 その要旨は、次のとおり。
「巨大な原子力空母は巨大な原子力発電所を抱えているのだろうが、波にゆれる洋上では地震の真上にいると同じだけど大丈夫なのか?
 そこで突然に思いついた、アッ、そうだっ、原子力発電船を作ればよいのだっ、いい考えだぞこれは、。
 海に浮かんでいても、アメリカ政府や日本政府の言うように絶対に事故がおきないのなら、電力需要の多い地域の港に停泊して発送電すれば、エネルギー効率が断然良くなる。大規模工場はたいてい海べりにあるから、原子力自家発電船を作ればよい。
 万が一、事故がおきたらすぐにはるか沖に出て行ってしまえば、害を及ぼす範囲は格段に小さくなる」
●全文は→「地震に強いかも原子力発電船」2008年9月29日
http://datey.blogspot.com/2008/09/nuclear-carrier.html.
*****
 どうです、思いがけずに福島第1原子力発電所の大事故です。
 あれがもし福島第1原子力発電だったら、津波が来るぞとわかったらすぐに沖合いに出ちまえば、こんなことにはならなかったでしょうに、、なんて、、う~む。
 冗談と現実の境目が取り外されると、困ってしまうよ。

476足尾鉱毒事件と福島核毒事件

 19世紀末から始まった足尾鉱毒事件という大公害があった。福島第1原発事件は、その21世紀版のような気がする。鉱毒ならぬ核毒である。
 栃木県足尾の山中にある銅山から発生した毒煙・毒水の鉱毒が、周辺や下流域の地域に大きな災害をもたらした。

 足銅山周辺地域は、山林は硫黄を含む毒煙で丸裸になり、田畑も汚染で作物もできす、いくつかの村が廃村となった。
 銅ややカドミウムの毒水は、銅山下流の渡良瀬川流域の田畑に流れ込んで、作物を汚染して、流域の農業を立ち往生させた。
 洪水のときは利根川をへて関東平野東部にも毒水が及んだ。

 どんな公害があろうとも、どんな抗議があろうとも、銅山経営者の古河鉱業は、責任をとろうとしない。
 流域被災農民からの鉱業停止運動は、官憲の弾圧を受ける。ついにリーダーの田中正三の天皇直訴事件が功を奏して、マスコミが取り上げて社会問題となる。
 窮した明治政府は、富国強兵殖産興業のために銅山に対する公害対策を後回しとし、たびたび起こる渡良瀬川の洪水の調整池づくりを理由として、その毒水の沈殿地としで渡良瀬遊水池を計画する。

 遊水地の場所は、鉱業停止運動の根拠地である。その村と住民を根こそぎ取り除いてしまう作戦であった。
 それは20世紀末まで工事が続けられて、今、栃木・茨城・群馬・埼玉の諸県境にひろがる広大な湿地草原と谷中湖となっている。
 その広大な遊水地のためにために、田中正造の反対運動で有名な谷中村をはじめとしていくつかの村が強制廃村、強制移転させられた。

 今、強制避難させられている福島第1原発の周辺の市町村のことを、わたしはいやおうなく連想してしまうのである。
 毒煙・毒水を核汚染物質に置き換えると、その発生も、その毒を取り除くことができなくて、人間のほうを強制的に動かすのもそっくりである。
 21世紀の谷中村が福島に出現するに違いない、と、わたしは思う。

 19世紀末に発生したこの大公害は、原因者の古河鉱山が認めて賠償金を支払ったのは、20世紀末のことであった。被害者にとっては、大企業と政府を相手とする100年かかった争いであった。
 廃止となった銅山は、その後も毒水を出し続けるために、その処理を延々と続けなければならない。これも核汚染物質の処理と同じである。
 鉱毒もものすごい毒であるが、それよりも核毒のほうがもっと強烈である。ここが科学が人間の毒の方向に進歩した証拠である。

 わたしは1958年だったか、その廃村のひとつである松木村の跡にある松木沢に入ったことがある。
 谷の両側に赤茶けた荒涼たる岩山が続いていて、草木はほとんど見えない。ここは日本だろうかと思わせる、凄絶な景観であった。
 渡良瀬川にたびたび洪水が起きたのは、この禿山のせいであったに違いない。洪水被害も公害であったのだ。
 そこに行った目的は、所属していた大学山岳部の合宿で、その日本的でない岩肌が屹立する岸壁を利用して、ロッククライミング登山の訓練をしたのであった。
 その後、緑は回復しているのだろうか。

 20年くらい前に、愛媛県新居浜の別子銅山跡地に行ったこともある。ここも谷だが両側の切り立つような山には、濃い緑が繁っていた。
 別子銅山でも19世紀末に煙害や銅山川の洪水による毒水公害が起きている。
 しかし、別子銅山経営の住友はここが本拠地であり、地域全部が住友銅山の町であったので、かなり早期から公害対策をしてきた歴史があるようだ。
 植林も住友の産業のひとつとなっているくらいだから、足尾の古河鉱業とはかなり態度が異なる企業である。

 この廃鉱跡地を産業遺産を生かした観光施設に転換しようというプロジェクトがあり、わたしはそのマスタープランづくりメンバーのひとりとして、現地を視察に行ったのであった。
 その計画は実現して、「マインとピア別子」として営業をしている。
 廃鉱となって40年ほど、いまだに発生する鉱毒水の処理を続けている。原発廃炉後も、長期にわたる核燃料や汚染物質の処理が必要なことと似ている。

 足尾鉱毒事件とその対策のあり方が、今の福島核毒事件になんらかの示唆を与えてくれそうだ。資料を読みこんで考えてみたい。

参照:ついに始まった東電核毒事件の福島貯蔵地は百年前の足尾鉱毒事件の渡良瀬遊水地そっくり

2011/08/16

475無差別空襲の日々

 3月の地震以来、朝起きると新聞を広げて、二つの定例の記事を見る日々である。東日本大震災の「被災者数」と「各地で観測された大気中の放射線量」である。
 被災者数にある死者・行方不明者数は、震災から5ヶ月過ぎた8月15日は、行方不明者4,666人、死者15,698人となっている。
 この二つの数字は毎日変化していて、死者は増えて行方不明者が減るのだが、合計値が漸減傾向で、どうやら20000人ちょっとのあたりに収斂しそうである。

 もうひとつ毎日掲載記事の「各地で観測された大気中の放射線量」は、地図の上に数値が載っている。前日の核汚染物質空襲状況報告である。
 太平洋戦争末期にあった空襲警報が、またもや出され手いるようなものだが、あの時は飛び飛びだったが、今度はず~っと出され続けているから大変だ。
 福島原発を中心に、遠くは山形、南魚沼、わたしの住む横浜までの地図に数値(毎時マイクロシーベルト)が出ている。
 実は勉強していないので、その数字の意味するところをよくは知らない。わたしの横浜は13日は0.027、この日の最高値は飯舘の2.62、この差はなんだろうか。
 なんにしても毎日、減少を願うばかりである。
   
 ところで、この死者・行方不明者数と放射線量の記事は、西日本地域でも毎日の新聞に掲載しているのだろうか。
 この数値を毎朝見るのと見ないのでは、ずいぶん意識が違うような気がする。
 わたしはもしも見ないでいたら、すぐに忘れそうである。そして、まだ余震が毎日あるので、そのたびにはっと思い出すってことになりそうだ。
 ということは西日本ではこれらの数字を見ることがないだろうから、おのずと東日本とは意識が異なるだろう。
 思い出せば(といっても、もう思い出せないのだが)、阪神淡路大震災については、これと逆の状況であったのかもしれない。

 核汚染物質の空襲が続く毎日であるが、太平洋戦争の末期は、爆弾と焼夷弾が日本全土に降り続く日々であった。
 それは敗戦とともに止んだが、いまの核汚染物質はいつ降り止むのだろうか。そして地に降り積もった核汚染物質はいつ無害になるのだろうか。
 66年前に降り止んだ爆弾は、その後の世にもたまに不発弾が被害を及ぼし、広島・長崎の核爆弾はいまも死者を作り続けている。
 焼夷弾空襲は津波襲来であり、原子爆弾は原発事故であるとの、アナロジーが成り立つか。
   
 太平洋戦争の空襲の話で思い出したが、アントニン・レーモンドという人ががいた。
 チェコ生まれだがアメリカに渡って、後に日本で有名な建築家となった人である。そのころはそうでもなかったが後に世界的な大建築家となったフランク・ロイド・ライトの弟子となる。
 ライトが設計した東京の帝国ホテル(1924竣工)の建設のために日本に来た。ホテル建設が終わってもそのまま日本で仕事をしていた。
 太平洋戦争中にアメリカに帰国した。そしてアメリカ軍への東京大空襲アドバイザーをやっていたそうだ。
 砂漠の中に木造長屋群の実物大模型を作って、日本の都市や家屋の燃やしかたを実験し研究した結果が、ヨーロッパのような破壊型爆弾ではなく、焼夷弾による焦土攻撃になったという。
 日本の家屋や街をよく知っている専門家だけに、その指導で効果的な無差別攻撃となった。
 戦後はまた日本に来て、有名な建築家として活躍した。さてこれをどう考えるか。
 建築家の林昌二さんは、レイモンドのデザインや技術はすばらしいけれども、「人間としてはとんでもないやつだ」と言っている(2010『著者解題・内藤廣対談集2』)。
参照http://blog.livedoor.jp/shyougaiitisekkeisi2581/archives/cat_50031934.html#

 戦中の日本の建築研究者は、防空都市の研究もしていたが、現実には木造ばかりの日本でできる空襲対策は延焼防止の強制疎開であった。
 ここで言う疎開とは児童疎開とは違って、燃えやすい家を撤去して、広い空間を作るのである。火がついても燃え広がらないように、街をあらかじめ疎らに切り開いておくことで、これが疎開の本来の意味に近い。
 戦争末期には都市の密集地や駅や鉄道近くでは、木造家屋の引き倒し破壊をやっていた。その跡はいまも広いままに使われていて、例えば谷中銀座もそのひとつである(『谷中根津千駄木』80号2005)。
 あまりに簡単に燃え続けた日本の都市の反省で、戦後の都市再生の出発は不燃都市を標榜して、いろいろな政策を行ってきたのであった。
   
 空襲といえば、連合軍の無差別爆撃に対する被害の怨嗟が語られている。それは当然である。
 太平洋戦争を始めたのが1941年12月、次の年の4月にはもう東京が空襲された。
 その時は洋上の空母から発進した爆撃機だったが、次第に日本が太平洋の島々で負け続けて、敵は近くの島から発進してくるようになった。1945年は空爆されるのが日常になってしまった。日常の死の恐怖はつらい。
 だが、日本軍も無差別空爆をやっているのである。
 1932年の上海事変では、洋上の戦艦からとんだ偵察機の10次にもわたる爆撃で、軍事施設のほかに市街地も破壊して多くの一般人死者を出した。以後、中国ばかりではない。
 1938年から43年まで国民政府の本拠の重慶を200回以上も空爆している。この無差別爆撃が、後の広島・長崎の原爆を正当化するとも、連合国側では言ったらしい。
 もっとも、中国やフィリピンなどでは地上の市街戦だから、空爆どころではない無差別攻撃に一般住民はさらされたのだった。
 市街戦は日本では沖縄だけであったから、被害意識に大きな違いが出るのだろうが、無差別空襲、無差別攻撃は日本軍もやったことを忘れてはなるまいと、わたしは思うのである。

2011/08/15

474 66年目の空襲と疎開

 あれから66年、またもや空襲を逃れて疎開する日々が来ている。東日本大震災による原発事故で、核汚染物質の飛来から逃れるためである。
 太平世戦争末期の焼夷弾の空襲におびえたあの日々の死の恐怖は、どこまで次世代・次次世代に伝えられているのだろうか。
 日本全土の都市が攻撃された空爆による死者の総数は、(諸説あるらしいが)約50万人だったそうだ。そのうち半分は原爆によるから、今も死者は増加中である。
 あのときの恐怖は66年前のこの日8月15日に終わった。
 この核汚染物質の空襲におびえる日々に、8.15はいつ来るのだろうか。
   ◆
 東日本大震災の死者と行方不明者を合わせると、約2万人程度になるようだ。
 核物質汚染による被害は地域的にも内容的にも範囲を広げつつある。
 この空爆による死者は、今は出ていないのかもしれないが、その性格からして原爆のように後々に出るかもしれない。
 特に食品汚染への恐怖は、真綿で首を絞められるようにじわじわと迫る恐怖である。
 66年前のこの日、戦争による死の恐怖は去ったが、次は食糧不足による飢えの恐怖が始まったことを思い出す。
 少年だったわたしの戦争に関連しての恐怖は、日々の飢えだけであった。毎日腹が減っていたなあ。また飢えるのか。
   ◆
 この日が来ると、毎度書いているような気がするが、また書く。
 わたしの生家は岡山県の中部にある、小さな城下町の盆地にある神社であった。
 あの日の正午、その鎮守の森の中の社務所の前に、ラジオを囲んで集まったのは、大人と小学生を合わせて20名足らずだったろうか。
 大人は近所の人たちだったが、小学生たちはその社務所に遠く兵庫県から疎開してきていた女子児童たちである。当時はラジオが初期のTV程度の普及だったろうか、その疎開学級はラジオを持っていた。
 わたしはなにしろまだ8歳だから、これが終戦の詔勅放送だったとは後から聞いたのだろう。日ごろにない集まりを眺めていただけで、放送の音についての記憶はまったく無い。
 だが鮮明な記憶は、聞き終わった大人たちが、なんとなく列を作って誰も一様に黙りこくったままに、森の中から暑い日差しの町へと、参道の石段をおりて帰っていく姿である。子供心にも異様であったから覚えているのだろう。
   ◆
 その盆地は、B29空襲はこない平穏な日々であったが、空襲から疎開してきた学童たちがいたという現実に戦争の影はあった。
 その疎開児童がどこから来たのか調べいて『学童疎開の記録』(1994全国学童疎開連絡協議会)という本でわかった。芦屋市の精道小学校の学童が、岡山県上房郡高梁町(現・高梁市)の頼久寺に126名、同じく金光教会に47名が疎開したと記してある。
 わたしの生家の御前神社は出ていないが、これら2箇所と至近にあるから、どちらかの分教室であったのだろう。
 その芦屋が8月6日に空襲に遭って、学童たちの家族も被災し、親の死で孤児となった悲劇もあったようだ。
 空襲のもうこなくなった焼け野原の都市に戻っていったあの少女たちは、その後どのような人生を歩んだのだろうか。
   ◆
 わたしの父はそのころ小田原で、湘南海岸に上陸すると見られるアメリカ軍を迎え撃つ本土決戦の準備中の通信兵であった。
 小田原は8月15日の前夜半に、この戦争の最後の爆撃を受けた。父は郊外の山中で陣地構築の穴掘りをしていて、炎上する市街地の火を見ていた。
 その月末に兵役解除となって帰宅してきた。
 彼の戦争は、1931~34年と1938~41年の2度の中国、そして1943~45年の内国と、実に15年戦争の半分を兵役に送り、これが3度目の生還である。このとき35歳の老兵であった。
 参照「父の15年戦争、本土決戦」

2011/08/13

473仮想水、仮想電力

 沖大幹さんて人が言ってるけど(『本の雑誌』9月号33ページ)、1杯の牛丼を作るのに必要な水の量は大体2000リットル、湯船にして10杯くらいだそうだ。
 え、どうして?
 その丼の中のコメを作るのに200リットル弱、乗っている牛肉85グラムを作るには1700リットル、ほかにもタマネギとかショウガとかを作るに要る水を足すと、そうなるのだそうだ。
 これをヴァーチャルウォーター、仮想水という。
 
 仮想水の重さは牛肉は20000倍、豚肉は6000倍、鶏肉は1500倍を必要とするのだってさ。
 こうなると日本の半分以下の雨量のヨーロッパで、牛肉を食う文明が育ったのはどういうわけだろうかと思ってしまう。
 雨量が多いということは、それだけ食料が豊かで、自給自足しやすいってことか。なのに日本の食料自給率は4割を割ったそうだ。

 重さの何千倍もの水を使うといっても、垂れ流しているのではない。また雨になって戻ってくるから、まさに再生可能な原料である。
 水の無い地域の人々は、水を輸入するのではなくて、それを千分の1、万分の1に圧縮した食料として輸入するってことである。逆に言うと、牛肉を輸入するとその2万倍の水を輸入することになるのか。
 人間も1キロ太ると10トンもの水を消費したのだろうか。

 こうして見ると、太陽と水と土を資源とする農業が、もっとも再生能力が高い産業であることに思い至る。
 ところが、福島第1原発の事故が、その再生の循環の輪を断ち切りつつある。
 核物質に汚染されたらもう再生循環できないのである。今年だめでも来年があるさって、そういう期待をできない農業となった。
 毎日降り注ぐ核汚染物質は、来年からの未来がある生活圏の復興をさえさせてくれない。生活圏が縮んでいく。
 この食料と生活の場を奪われていく日々の状況が、わたしの心のなかになんともたまらない閉塞感を蔓延させる。

 仮想水で思いついたが、仮想電力ってのもありそうだ。
 近代農業は機械、プラスチック製品、農薬、合成肥料、照明など、多くの電力を使っている。
 コメ1キログラムに何キロワットの電力を使うのだろうか。昔はトマトを真冬に食うなんてことはしなったが、温室栽培では1個に何キロワット要るのだろうか。
 農業も原発の電力に頼るようになって、再生能力が低減しているかもしれない。

 人間が生きるために働いているとしたら、そのもっとも根源にある目的は、毎日の安定した食料の確保である。
 そこに避けようも無く遮断の手を突っ込んでくる核汚染事故の怖さが、人間の身に染みるには、もう一度くらい同じことが起きることが必要なのだろうか。

2011/08/12

472日本語下手くそグーグルクローム

 インタネットブラウザーがいろいろあるが、わたしはMSinterenet explorerを使っている。
 わたしのブログ「伊達な世界」には、その閲覧者がどんなブラウザーで見てるのか、統計が出てくる。
 それだとMSi.e.が3分の2で圧倒的の多く、2割がfirefox、以下chrome、safariなど。
 ついでにOSは、MSが77パーセントと圧倒的で、MACはそれに次ぐがわずか11パーセントである。

 ブラウザーをほかのやつに乗り換えようかと、あれこれやってみるが、やっぱりMSi.e.に戻るのだ。
 わたしの評価ポイントは、縦書き用htmlタグが有効か、こちらの指定したフォント形式が登場するか、その2点である。
 こ難しいことはもともとできないし、文章主体だからそれが重要なのだ。

 さて、4つのブラウザー(i.e. chrome firefox opera)を、わたしの作っているサイト「まちもり通信」の「景観戯造」ページで、表示の仕方を比較してみた。
 まず、縦書き表示だが、これはi.e.だけしかできない。あとは全部不合格。
 これって、どうも縦書きhtmlタグがMSi.e.だけにしか通用しないらしい。それってけしからんと思う。MSが開発したタグだからほかのメーカーは読んでやらないって、狭量である。
 
 次は文字であるが、隷書を表示できるのはMSi.e.だけなのである。
 chromeは無茶無茶文字に化けしてしまった。日本語を知ってるのかよ。
 operaは隷書と角ゴシックの混合表現に化けた。
 fire foxはすべて角ゴシックに化けた。
 隷書以外のフォントでも文字の化け方はあるのかもしれない。

 こうしてみると一番だめなのはchrome、とりあえず合格はi.eである。
 縦書きと隷書をどうやったらMSi.e.以外のブラウザでも表示できるのだろうか。

 なお、画像の上にポインターを置くと別の画像に換わる仕掛け(参照「景観戯造」)は、どのブラウザでもできたが、これがMACだと全然できないらしい。

471お子様化社会

 なんでも名古屋のTV放送局で、本放送で手違いで映してしまった短文で大騒ぎ。
 で、放送内容はというと、岩手県産米のプレゼント当選者を「怪しいお米 セシウムさん」などとかいたテスト用のオフザケ文章のテロップが23秒間だそうだ。
 放送会社の社長は岩手県まで謝りに行くし、役員減俸処分。
 まあ、岩手の人は怒るだろうけどねえ、大人が本気で怒るほどのことか?

 もしかして、そのTV番組はかなり高級なる内容で定評があったので、このテロップがその高級さを台無しにしたのかい?
 いまどきそんなすばらしい番組を放送してる東海放送ってのは、すごいなあ。
 でもなあ、こんなオフザケの間違いで台無しになる程度のものってのも、情けない。

 どうもわからないのは、明らかにオフザケと手違いとわかることでしょ、それをなんで大げさなことにするの?
 TVってのは、それほどまでに幼稚なアホバカが力を持ってるものなの?
 大人気ない、とはこういうときに使う言葉だろう。
 どうも世の中がどんどん「お子様化」する感じである。
 京都大文字焼きの東北津波薪騒動の右往左往もそうである。

 お子様は、長い論理的な文章を書く能力がないもんだから、ツィッターなんて短文しかかけないツールをつかう。
 で、いま屁をひったとか、飯が不味かったとか、ショウモナイことのついでに、今見たバカTVをケシカランとか、垂れ流しているんだろう。
 それを真正面から取り上げる大人たちも、どんどんお子様化している。
 ガキに持たせたピストルかよ~、ツィッターは。

2011/08/11

470言葉の酔時記:拍手をちなみにこだわる

 講演会やシンポジウムが終わったときに、総合司会者が言う。
「もう一度盛大な拍手をお願いいたします」
 わたしはこれを聞くと、失礼なやつだって腹が立って、拍手をしないことにしている。
 だってそうでしょ、出演者にしてみれば、司会者が催促しなけりゃ拍手が来ないつまらない話だったんですよ、って言われてるんだもの。
  
 話や文章の中で最近よく使われる言葉がある。
「ちなみに、……」
 ちなみに言っているんだから、たいしたことじゃないと思っていると、実は重要な話であることが多い。
 意味を知っているか?
 これって、本筋じゃないけど思いついたのでついで言っておこう、ってほどの意味の接頭語なんですよ。

「こだわる」って言葉も、「脱原発にこだわる首相の言動は無責任としかいいようがない」(産経新聞8月7日社説)なんて、大手のマスメディアさえも間違った使い方ばかりするのは、困ったものである。
参照→360菅さんには諫早も沖縄も些細なことか
参照→215スパコンなんてどうでもいい?

2011/08/10

469東北3県超高齢化時代の復興は?

 政府総務省が発表した東北地方の岩手、宮城、福島3県の2010年人口統計がある。
 東日本大震災の直前年の調査だから、20111年以後はこれが大きく変わるだろう。
 津波に襲われた沿岸地域の市町村の、高齢化率だけを見て、その原因とかいろいろ考えた。専門家ではないし、資料をあさるのも面倒なので、見て考えるだけである。
 
 福島県の浜通り市町村ごとの65歳以上人口割合の図を見ると、おおかたは25パーセント以上であるが、福島原発のある辺りが21から23パーセントで、高齢化率が比較的低い。
 これは、多分、原発あるいは原発関係企業への、若い就労者がいるということなのであろう。
 福島県の人口の性格は、会津が超高齢化、中通は比較的若く、浜通はその中間と、明確に分かれて見えるのが興味深い。
 推察するに、会津が第1次、中通が第3次、浜通は第2次と、それぞれの産業の中心が異なっているのだろう。

 宮城県の沿岸地域の高齢化は、南部は比較的に遅く、北部が三陸では進んでいる。
 原発のある女川町が33パーセントの超高齢都市であり、福島の原発立地地域と比べてかなり高いのは何故だろうか。関連就労者の多くは隣接の石巻に住んでいるのだろうか。
 仙台市で津波で壊滅的となった若林区は高齢化率18.4パーセント、宮城野区16.6パーセントで、高齢都市ではあるが比較的低いということは、多くの勤労世代が被災したのであろう。

 岩手県の三陸沿岸部の市町村の高齢化率は、ほとんどが30パーセント以上である。
 福島や宮城のように、地域差が見られないのはリアス式の海岸が続く、漁業を主体とする同じような構造の生活圏だからだろうか。
 考えてみると、漁業はその生産基盤は海だから、沿岸漁業は影響あるとしても大変化はないはずだ。問題は船、港、冷凍倉庫等の漁獲手段の崩壊だろう。
 中越震災の農業地域のように、田畑が崩壊して灌漑も不能になるという生産基盤の被災とは違うから、当然に復興の仕組みが大きく違うのだろう。
 
 それにしても今でも3人に1人以上が高齢者であり、この長高齢社会はさらに進むことは確実だから、震災復興はその人間の構造を見極めつつ進める必要がある。
 元の町あるいは近くの高台に、復興に10年かかって完成してみたら、そこにはもう動けない年寄りばかりとなっていることもあるだろう。
 それを予想した老人の「死に甲斐のある町」(これは近江八幡の川端五兵衛元市長の言)への復興もあるだろう。

 あるいは、まだ高齢化の比較的低い内陸部地域に積極移転して、新たなコミュニティを共同して復旧するほうがよいかもしれない。このとき問題となるのは、住み慣れた故郷を離れることへの抵抗である。
 しかし、いずれ老いたままで過疎地域で暮らすことはできないのだから、その地域を閉じて都市部へ移転することが、今がチャンスととらえることも大いに意味のあることと思う。これは中越震災後の過疎山村に通っていて感得したことのひとつである。

参照→地域を閉じる

2011/08/09

468不景気と戦争

 中国黒龍江省方正県政府が建てた、日本の旧満蒙開拓団員の慰霊碑が、建てて10日程で撤去されたというニュースが新聞に出ている。
 侵略者の慰霊碑とはケシカランというネット批判にさらされた結果だそうだ。先日の高速列車事故の証拠破壊と復旧作業みたいに、なんだかすばやすぎる対応である。

 それで思い出したのは、1933年3月のことだ。
 その3日に起きた昭和三陸大津波のことを調べようと、3月の新聞を読んでいたら、こんな記事があった(3月20日 東京朝日新聞 夕刊)。
「第2回自衛移民団 関東、東北で募集  その人選、移住地等については、陸軍と関東軍と打ち合わせ中であるが、陸軍では第2回自衛移民は中国ならびに九州地方より選定する意向であったが、その後種々の事情から第2回自衛移民は大体第1回同様、青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島、新潟、石川、富山、茨城、栃木、群馬、長野、山梨各県の在郷軍人から五百名を選定することに決定した」

 この「自衛移民団」とはなんだろうかとネットで調べたら、「試験移民団」とも「武装移民団」とも言われたらしいが、1932年にできた日本の傀儡政権「満州国」の、辺境の地に送り込んだ農業移民「満蒙開拓団」の初期の名称である。
 第1次移民団は1932年に送り出しているが、その名前のようにまさに武装しての移民であった。関東軍の庇護の下にあった。
 なぜ「自衛」とか「武装」の移民団であったかは、現地で地元民のゲリラに襲われるからだった。
 その移植地が、もともとその地を開墾して耕していた現地の農民たちの土地を、日本政府が武力で以って安価に無理矢理に取り上げたために、当然のことながら抵抗がありトラブルが発生するのだった。

 この武装開拓団が試験的に第4次まで入植し、1937年から本格的に集団移民が始まった。
 1945年には30万人前後となり、ソ連参戦後の大混乱で悲劇となり、帰国できたのは11万人であったそうだ。
 満蒙開拓団は、敗戦での被害者である前に実は加害者であったのだから、慰霊碑への中国人の非難は当然だろう。戦争の被害と加害はあざなえる縄か。

 1933年の三陸大津波の頃は、日本は昭和恐慌が続いていて労働争議は頻発し、特に農村は疲弊していたので、王道楽土・五族協和の美名の下に、植民で棄民をしたのであった。
 今の日本はどうだろうか。リーマンショック以来の不況は深刻になり、そのようなところに東北地方を中心に大津波、その上に核物質が拡散するありさまで、先行きが見えない閉塞感が色濃く立ち込める。
 この大不景気打開のためにイッパツ戦争を、なんてことにならないように、祈るしかない。
 なにしろ日本が昭和恐慌から立ち直ったのは、1931年勃発の満州事変に対応する1932年からの高橋積極財政策があったし、1945年の敗戦疲弊から立ち直ったのは、1950年の朝鮮戦争特需だったのだから。

●参照→津波と戦争そして原発