2011/08/16

475無差別空襲の日々

 3月の地震以来、朝起きると新聞を広げて、二つの定例の記事を見る日々である。東日本大震災の「被災者数」と「各地で観測された大気中の放射線量」である。
 被災者数にある死者・行方不明者数は、震災から5ヶ月過ぎた8月15日は、行方不明者4,666人、死者15,698人となっている。
 この二つの数字は毎日変化していて、死者は増えて行方不明者が減るのだが、合計値が漸減傾向で、どうやら20000人ちょっとのあたりに収斂しそうである。

 もうひとつ毎日掲載記事の「各地で観測された大気中の放射線量」は、地図の上に数値が載っている。前日の核汚染物質空襲状況報告である。
 太平洋戦争末期にあった空襲警報が、またもや出され手いるようなものだが、あの時は飛び飛びだったが、今度はず~っと出され続けているから大変だ。
 福島原発を中心に、遠くは山形、南魚沼、わたしの住む横浜までの地図に数値(毎時マイクロシーベルト)が出ている。
 実は勉強していないので、その数字の意味するところをよくは知らない。わたしの横浜は13日は0.027、この日の最高値は飯舘の2.62、この差はなんだろうか。
 なんにしても毎日、減少を願うばかりである。
   
 ところで、この死者・行方不明者数と放射線量の記事は、西日本地域でも毎日の新聞に掲載しているのだろうか。
 この数値を毎朝見るのと見ないのでは、ずいぶん意識が違うような気がする。
 わたしはもしも見ないでいたら、すぐに忘れそうである。そして、まだ余震が毎日あるので、そのたびにはっと思い出すってことになりそうだ。
 ということは西日本ではこれらの数字を見ることがないだろうから、おのずと東日本とは意識が異なるだろう。
 思い出せば(といっても、もう思い出せないのだが)、阪神淡路大震災については、これと逆の状況であったのかもしれない。

 核汚染物質の空襲が続く毎日であるが、太平洋戦争の末期は、爆弾と焼夷弾が日本全土に降り続く日々であった。
 それは敗戦とともに止んだが、いまの核汚染物質はいつ降り止むのだろうか。そして地に降り積もった核汚染物質はいつ無害になるのだろうか。
 66年前に降り止んだ爆弾は、その後の世にもたまに不発弾が被害を及ぼし、広島・長崎の核爆弾はいまも死者を作り続けている。
 焼夷弾空襲は津波襲来であり、原子爆弾は原発事故であるとの、アナロジーが成り立つか。
   
 太平洋戦争の空襲の話で思い出したが、アントニン・レーモンドという人ががいた。
 チェコ生まれだがアメリカに渡って、後に日本で有名な建築家となった人である。そのころはそうでもなかったが後に世界的な大建築家となったフランク・ロイド・ライトの弟子となる。
 ライトが設計した東京の帝国ホテル(1924竣工)の建設のために日本に来た。ホテル建設が終わってもそのまま日本で仕事をしていた。
 太平洋戦争中にアメリカに帰国した。そしてアメリカ軍への東京大空襲アドバイザーをやっていたそうだ。
 砂漠の中に木造長屋群の実物大模型を作って、日本の都市や家屋の燃やしかたを実験し研究した結果が、ヨーロッパのような破壊型爆弾ではなく、焼夷弾による焦土攻撃になったという。
 日本の家屋や街をよく知っている専門家だけに、その指導で効果的な無差別攻撃となった。
 戦後はまた日本に来て、有名な建築家として活躍した。さてこれをどう考えるか。
 建築家の林昌二さんは、レイモンドのデザインや技術はすばらしいけれども、「人間としてはとんでもないやつだ」と言っている(2010『著者解題・内藤廣対談集2』)。
参照http://blog.livedoor.jp/shyougaiitisekkeisi2581/archives/cat_50031934.html#

 戦中の日本の建築研究者は、防空都市の研究もしていたが、現実には木造ばかりの日本でできる空襲対策は延焼防止の強制疎開であった。
 ここで言う疎開とは児童疎開とは違って、燃えやすい家を撤去して、広い空間を作るのである。火がついても燃え広がらないように、街をあらかじめ疎らに切り開いておくことで、これが疎開の本来の意味に近い。
 戦争末期には都市の密集地や駅や鉄道近くでは、木造家屋の引き倒し破壊をやっていた。その跡はいまも広いままに使われていて、例えば谷中銀座もそのひとつである(『谷中根津千駄木』80号2005)。
 あまりに簡単に燃え続けた日本の都市の反省で、戦後の都市再生の出発は不燃都市を標榜して、いろいろな政策を行ってきたのであった。
   
 空襲といえば、連合軍の無差別爆撃に対する被害の怨嗟が語られている。それは当然である。
 太平洋戦争を始めたのが1941年12月、次の年の4月にはもう東京が空襲された。
 その時は洋上の空母から発進した爆撃機だったが、次第に日本が太平洋の島々で負け続けて、敵は近くの島から発進してくるようになった。1945年は空爆されるのが日常になってしまった。日常の死の恐怖はつらい。
 だが、日本軍も無差別空爆をやっているのである。
 1932年の上海事変では、洋上の戦艦からとんだ偵察機の10次にもわたる爆撃で、軍事施設のほかに市街地も破壊して多くの一般人死者を出した。以後、中国ばかりではない。
 1938年から43年まで国民政府の本拠の重慶を200回以上も空爆している。この無差別爆撃が、後の広島・長崎の原爆を正当化するとも、連合国側では言ったらしい。
 もっとも、中国やフィリピンなどでは地上の市街戦だから、空爆どころではない無差別攻撃に一般住民はさらされたのだった。
 市街戦は日本では沖縄だけであったから、被害意識に大きな違いが出るのだろうが、無差別空襲、無差別攻撃は日本軍もやったことを忘れてはなるまいと、わたしは思うのである。

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