2012/04/09

604渋谷の山手教会の建築が消滅(実はわたしの誤認だった)

渋谷の公園通りの坂道を、NHKに向かって登っていた。
 と、左に大きな空き地ができている。はて、ここに何があったっけ?
 建物がなくなると、そこに何があったか思い出せないことが多くなったのは、わたしの忘却力の向上のせいだろうか。
しばらく歩きながら考えていて、思い出した、ここに東京山手教会と共同住宅ビルがあり、地下に「ジャンジャン」という小劇場があったのだった。
 引き返して写真を撮った。

 手元の資料(RIA1953~1983 30年記念誌)を調べたら、後ろに共同住宅ビルとセットで建てたキリスト教会ができたのは1963年、50年前であった。設計はRIAと毛利武信の共同である。
 見事に取り壊されて、次の建物の工事をやっている。たぶん耐震問題で建物の物理的寿命が切れたのだろうし、半世紀前と比べるとこの立地はほかの採算の良い不動産事業の適地になっているからだろう。
 公園通りはパルコの進出で大きく変わったのは、1970年代だったろうか。いま、パルコのひとつは閉鎖されていて、公園通りに次への転機がきているらしい。

 渋谷駅前にあった東急文化会館は1950年代半ばに建った記憶があるが、これも取り壊されてヒカリエ(妙な名前)の複合ビルになった。次は渋谷駅の大改造だろう。
 わたしが学生の頃の渋谷は、駅の周りだけが繁華で、公園通りはもちろん、ハンズのあるあたりは怖い感じがしたものだ。

 その後、どういうわけかガキどもが集まるゴチャゴチャしてきて、大人は敬遠する街になってしまったが、その一方で東急文化村ができた90年代から、大人もまた行く街になった。
 わたしは松濤の観世能楽堂によく行ったから、渋谷の盛衰は興味を持ってみてきた。
 東横線が地下鉄に直結して埼玉まで行くようになると、この街や東急沿線がどう変わるのか楽しみである。
 身近では、東横線が横浜からMM地下線に直結して、横浜関内あたりが大きく変わりつつある現象を楽しく徘徊して見ている。

(追記2013/08/20)コメント欄に匿名の方から「当教会、未だ消滅しておりません。現存しております。アップルストアの前、GAPと西武 opening ceremonyにございます」と書き込みをいただきました。匿名の方には対応しないのですが、特別に。1963年に建てた教会建築はなくなっていることは確かです。おっしゃる意味は、教会は別のところに存続しているということでしょうか。まさかあんな大きな建物を曳家したのではないでしょう。表題を一部変えておきます。

(追記20141203)このブログに、また「消滅していない」とコメントをいただきましたので、現地確認したところ、わたくしの間違いでした。現にまだ存在しています。勘違いをお詫びいたします。
 山手教会はいまも建っております。お詫びして訂正いたします。

2012/04/08

603花見は花街で(横浜ご近所探検隊)

 今はなんといっても花の話。昨日今日と天気が良くて、ふらふらとご近所探検隊も花見に出かけた。
 花を見るには、やっぱり花街でなくっちゃと、元がつく花町だけど黄金町界隈へ。
 今日は家族連れも大勢出てきて、大岡川沿いの満開桜の下で、道でのフリーマーケットやら飲み屋の屋台やらや川の上での音楽イベントやらを楽しんでいる。

 だが10年前には家族連れが来るところではなかった。
 黄金町あたりはいわゆる青線街だったところで、戦争直後の混乱時代は麻薬の魔窟といわれた街だったし、安定した時代が来ても非合法下半身商売地帯だった。
 だから元花街である。それが今は本当の花の町になったのだ。
 遊びに来ている家族連れたちほとんどが知らないだろうが(知る必要もないが)、間口1間程度の店に間仕切られた2階建てアパート風の建物があちこちにあるが、これらが売春店舗だった。

 10年ほど前に夕方に通るとそれぞれの店の前に、モモもあらわな茶髪ミニスカラテン顔ネエチャンが立ち並んで客引きをしていたものだ。
 道を歩くのはわたしのような野次馬はともかくとして、横須賀基地からやってきたと思しい若い男どもが多かった。
 ある日の朝10時頃に通ったら、もう立ち並んでいて驚いた。
 そのアダ花の咲きようがものすごいので、街歩き仲間を誘ってわざわざ散歩に来たものだった。

 ものの本(「黄金町マリア」八木澤高明2006)によれば、一時はこのあたりに250軒の「チョンの間」があり、約500人の娼婦がいたそうだ。
 その国籍は、中国、タイ、中南米、東欧そして日本と多様であった。でも歩いていて目に付くのはラテン系、つまり中南米系だった。
 チョンの間利用料金は20分で1万5千円が相場、そのチョンの間営業のために借りている娼婦は月家賃20万円とか。

 さて、今はソメイヨシノの花が咲き誇り、家族連れが花の街を行き逢っているが、いろいろな言葉が聞こえてきて、やはりここは多国籍の街である。
 こうしてこの街が昔のことを忘れていけば、新たな都心生活の場として再生するに違いない。
   ◆ 
 その再生への大きな動きが、黄金町につづく日ノ出町で始まった。
 もう6年ほども前に都市計画決定しながら、一向に動きが見えなかった駅前の市街地再開発事業が動き出したらしい。事業地区内の営業店舗のほとんどが閉店していて、そろそろ撤去作業が始まるようだ。
 その一角を占めるのが、1950年代の防火建築帯の共同建築である。戦後復興の象徴のような事業であったが、今、ようやくにして次の復興の時代を迎える。

 日之出町あたりも黄金町の続きで、その戦後史的な土地利用の名残が、ストリップ劇場とかエロ映画館とかが健在である。
 その一方ではそばに野毛山公園があり、市立中央図書館があり、古書店がいくつかあるという雰囲気も持っている。
 日ノ出町再開発が都心再生にどう機能するか、注目である
   ◆
 さて、横浜の花町といえば永真遊郭である(であった)。
 黄金町から南へ300mほどのところに真金町・永楽町という、こちらは赤線地帯があった。つまり公認の遊び場であった。
 その中のメインストリートの中央に分離帯があって、今桜の花の並木が咲き乱れている。でも、だれもこちらには花で騒ぐものはいない。
 まわりは高層の共同住宅が立ち並んでいて、黄金町とは違ってすっかり様変わりの元花街である。

 もうだれも昔は赤線地帯だったとは知らないみたいに過ごしているようだ。
 だが、なんとなく何かがありそうだ。それは高層共同住宅のネーミングに、真金町とか永楽町とつけているものがないので、どうやらイメージ上では避けているらしい。
 ネーミングで地名をつけるときは、「大通り公園」(公園は元が川だからかなり長いのでこれでは場所特定はできないだろうに)、「関内」(ここは関外だから明らかに地名詐称、それとも1kmも遠くのJR線駅名か)、「長者町」(隣の隣の町の名前)等としている例ばかりだ。「阪東橋」と言うのがあったが、これはもう川がなくて橋もなくなったから地下鉄駅名である。
 そのなかで「永楽」とつけたものをひとつ発見、どうやら遊郭イメージも忘却のかなたにきつつあるようだ。

 数ヶ月前まで、遊郭建築らしい建物が一軒だけあったのだが、今日見たら駐車場になってしまっていた。
 公衆浴場も消えて共同住宅になったし、残る遊郭街の延長の土地利用は、永楽町にある5~6軒のラブホテル街だけになったようだ。
 ラブホには夜桜がよく似合う。
 

2012/04/06

602建築家2代の風景

 新宿西口の電器街や飲み屋街をうろうろしていると、その日本的というか東洋的な風景に興味をかきたてられる。香港を懐かしく思う。
 特に背景に超高層ビルが見えると、その対比がなんともいえない良さがある。
 ここにある交差点から、建築家丹下2代のなせる新宿風景を鑑賞することができる。かたや父・健三設計の東京都庁舎、かたや息・憲孝設計のデザイン学校である。
 どちらがうまいとはいえないが、どちらかというと息子の、ひとつ目小僧包帯ぐるぐる巻きミイラビルのほうが、新宿によく似合う。

2012/04/01

601絆を解いて民族大移住時代へ

古希になったばかりの友人が、半世紀住んだ東京の住まいをたたんで、特に縁がある土地でもないのに、神戸に移住するという。聞けば、これまでとは違う環境で、これまでとは異なる生活をしてみたいのだそうだ。
 わたしは高齢者に数えられる年齢になったときに、4半世紀過ごした鎌倉から、横浜都心に移った。でも、鎌倉に移る前には横浜郊外に住んでいたから、友人のように東京から縁もない神戸への差には及びもつかない。
 ご当人の動機はともかくとして、これはなかなか素晴らしい移転先選択であると思う。そう、神戸は、日本では今もっとも地震に安全な大都市であるのだ。
 まず、1995年の阪神淡路大地震から考えて、確率的には当分の間は(少なくとも生きている間には)大地震は来ないだろう。
 そしてまた、いま話題沸騰の近未来に起きる本州南の太平洋側の大地震と大津波の被災予想地域から外れている。

●続きの全文はこちら「絆を解いて民族大移住時代へ」 
https://sites.google.com/site/dandysworldg/jinko-ido

2012/03/26

600山口文象設計戦前モダン木造住宅現存発見

 建築家・山口文象の設計した建物探しは、いまだに新発見があって面白い。
 先日(2012年3月)、世田谷文学館で、「都市から郊外へ―1930年代の東京」展覧会を見てきた。
 その展示に彫刻家の菊池一雄のアトリエ建築の写真と、菊池の手書きのアトリエ案内地図があった。
 おお、「菊池一雄アトリエ」は山口文象作品だ、思いがけない出会いに感激。これは1931年に建っているから、山口文象にとっては渡欧直前であり、建築家としてはまだ世に名が出ていないころの設計である。
 石本喜久治の事務所で経験をつんではいるが、個人作品として現実に建った建築はまだ2、3作目のはずだ。

 RIA所蔵の山口文象コレクションにもその写真はあるのだが、手書き案内図を見てこんなところに建っているのかと知ったのであった。
 学芸員の方に聞くと、建築家・池辺陽による増改築の手が入っているが、現存しているとのこと。
 早速に行ってみた。
 元の山口文象デザインが変わっているとしても、池辺デザインならすぐわかるに違いないと、見当つけて歩いていたら、おお、やっぱり池辺デザインだ、これは。
 例の池辺が一時期よくつかったことのあるスレート波板である。鉄骨と波板という工業製品を自在に組み合わせる池辺デザインが、鉄骨は見えないがここにも生きている。
 もっとも、普通眼にはどう見ても工場にしか見えないので、そのデザインの意義は玄人にしかわからないだろうが。

 道路は北側にしかないから見ているのは北面である。アトリエが建った頃はこの道路はなくて畑が広がっていた。
 こちら側にあのアトリエのガラス面とガラス屋根そして急勾配瓦屋根の組み合わせによるモダンスタイルの立面があり、その峰から南に向かって大きな勾配屋根が下がっていっていた筈だ。
 その北立面は全面にスレート波板の壁が立ち上がり、そのままスレート屋根になって登り、峰から南に南に向かって大きな勾配屋根が下がっている。
 ふむ、これは南への大屋根は元のままで、北の壁を壁を壊してここに池辺デザイン増築をしたらしい。北側からみると昔の面影を伝えているものは、大屋根勾配とシャープな下屋庇であるようだ。スレート壁に瓦屋根の下屋が取り付いているのは、もとの瓦屋根のイメージ継承のつもりだろうか。 

 南側の庭の方を見ることはできなかったが、グーグルアースの衛星写真で見ると、大屋根のままだから、もしかしたらそちらは元のデザインがあるかも知れない。
 山口文象とはかなり親しかった池辺陽だから、必ずやイメージとしては継承しているだろうと思う。
 グーグルアースで見ると、周辺の家がどれも道路に直角に建てているのに、この菊池アトリエだけが南北軸にあわせていて、微妙にずれているのがわかるのだが、これはアトリエが当初の建物であることの証明である。
 普通に見れば池辺デザインは異様であるが、それは芸術家の家であることのサインである。
 山口文象作品でモダンデザイン木造住宅はひとつも現存しないと思っていたが、かなり変わってはいるがこれは現存している唯一のものだろう。

 竣工時の写真では、まるで畑の中の一軒家のごとくであるが、いまはそれなり密度の高い住宅地のなかにある。
 展覧会のテーマである「都市から郊外へ」については、1930年代から東京周辺の緑地帯は、こうやって住宅地化されていったのである。
 そのなかで芸術家が果たした役割のようなことが、この菊池アトリエもそうだが、展覧会のひとつの柱らしい。
 そこのところは、展覧会を見ても実はわたしにはまだよく飲み込めていないのだが、面白いテーマであるとおもう。

 1930年代の東京の大きな変化は、1923年の関東大震災に起因するのである。
 このところそのあたりの資料がありそうな展覧会で、この世田谷と、葉山の神奈川県立美術館での「村山知義展」、そして新橋パナソニックミュージアムでの「今和次郎展」をハシゴしたのであった。
 そこで村山も今も、関東大震災を契機に新展開したことを確認したのであった。
 建築家・山口文象を産み落としたのも同じく関東大震災であるから、20世紀末と21世紀はじめの東西の大震災は何を産み落とすのか、あるいは産み落とさないのか、興味があることだ。

参照→山口文象アーカイブス

2012/03/24

599非日常・異日常そして日常の風景

横浜新港地区の結婚式場建築の計画が、横浜市の都市美審議会でNO、だが、そのままGOになるらしい。
 この件は以前に「592市場における都市美とは?」で書いた。
 http://datey.blogspot.jp/2012/03/592.html
 まだ、審議会議事録も変更デザインもウェブ検索では出てこないので、ここでは景観瓢論の域をでないが、興味をかきたてられる。

 1月の審議会の部会につづいて3月23日に開催、「テーマパークのようで抵抗がある」、「これを通すなら都市美審議会はを解散したほうがいい」などと委員からの過激な発言があったことを新聞(朝日新聞2012年3月24日横浜版)が伝えている。
 高さと色の一部変更があったらしいが、審議会の委員たちが最も問題とした(らしい)あのゴチャマゼ様式建築デザインに関しては変わることはなかった模様である。

 たしかにこれはテーマパークそのものである
(計画図http://goo.gl/w00Cg
 だが、まさにそれが事業者の狙いなのだから、根本のスタンスが異なるのはどうしようもない。
 皮肉にも、委員がそれを指摘すればするほど、事業者はそのデザインの意図を保証をされたように思い、事業の成功を確信するだろう。
 結婚式場という非日常の場は、まさにテーマパークそのものである。その日だけは王子様王女様になってまわりから祝福され、明日から待ち受ける厳しい日常もテーマパークの日々が続くような幻想を抱かせる場、それが結婚式場である。
 
 昔は婚礼(結婚式とは言わない)は、その夫婦が暮らす家でとり行うものだった。
 それはあくまで日常世界の連続の位置にある行事だから、住家でなければならなかった。
 親戚や町内の人々が寄り集まって、その日だけは非日常の花嫁と花婿を、明日からの日常へと円滑にとり込むための行事だった。

 それがだんだんと家の外にでていくようになってきたのは、家が狭いとか核家族とかの時代になってきたからだろう。
 しかし、かつてのように公民館でやっていた頃は、まだ異日常レベルだったが、ブライダル産業の登場からは非日常行事へと進み、婚礼は結婚式という儀式になっていく。
 そして儀式のための仕掛けも非日常化たテーマパークとなり、ディズニーランドのように入場者一人当たり1万円以上を消費させる産業に成長する。

 若者が少なくなってくると、ブライダル市場も狭まるから、ここで生き残りをかけた寡占を狙って産業界は必死になっているに違いない。
 そのためには、その立地選定、施設内容そしてサービス内容の競争になる。
 そこで話が元に戻って、横浜新港地区のこの施設立地は申し分のないテーマパーク性を備えている。
 運河に面した見晴らしよい場所、テーマパーク性をいやがうえにも演出してくれる背後の遊園地、そして憧れのヨーロッパ古典?建築のキリスト教会、、、おお、これほど非日常性の演出は、ここでなければ外国に行くしかないよなあ。

 でも外国まで行くには金がかかるけど、ここなら日本のどこからでもやってくることができる非日常世界になりうる。
 そう、この婚礼の場は、ある日だけ外からやってきて、いつもと違う風景の中でいつもと違うことを体験するのである。つまりテーマパークだ。

 そこに審議会との深い溝ができる。
 審議会の委員たちはがテーマパークを否定するのは、ここが非日常の世界ではないと心得ているからだろう。せいぜい異日常世界であろう。
 それは、外からの目ではなくて、いつも見ている内からの目、つまり日常からの視線で風景を見るからだろう。
 そこに異物としかみえない何かが登場することに、耐えられない心情が働くのはよくわかる。
 ところで、ここにある遊園地コスモワールドの風景には、委員の方々は耐えられるのだろうか。
 遊園地の散らかった風景とこの新婚礼施設とは好一対で、たがいに引き立て役になるだろう。

 では、審議会の良しとする建築風景はどのようなものだろうか。
 新港埠頭側から眺める新開発地区の建築の立ち並ぶ風景は、どうやら近代的赤レンガ倉庫街のイメージらしい。
 近代的とつけたのは、本物の赤レンガ倉庫があるのに、今の倉庫?は屋根がなくて壁はレンガ色である。
 そして、できるだけ四角に端正であることが、デザインの基本にあるようだ。
 つい最近できたカップヌードルミュージアムという、まさにテーマパークの建物が、どう見てもテーマパークに見えないことで、それがよくわかるのだ。
 じつは、わたしはこのインスタントラーメンの博物館ができると聞いたとき、あのラーメンのカップそのものの形の建物をイメージしたのである。そしてそれが提案されたとき、横浜都市美審議会がどうそれを審議するだろうかと思ったものだ。
 審議過程は知らないが、できたものを見ると、ただの赤い箱であった。
http://www.cupnoodles-museum.jp/about/index.html
 あらかじめ知らないと、そばに寄るまであの世界に普及した「インスタントカルチャー」を作り上げた記念碑とは気がつかない。

 まあ、それもミュージアムとしてのひとつの見識であるが、隣の温泉施設も反対側の研修施設も、同じような赤い四角な箱で、ここではっきりいうと、その連続する風景はまことにつまらないのである。
 このあたりを日常の散歩の場とするわたしでも、ここはせめて異日常の風景であっても良いと思うのだが、ほぼ新開地駅前風景(たとえば新横浜)とたいしてかわりがない。

 そこに殴り込みをかけてきたのが、この厚化粧花魁頭の非日常結婚式場である。さて非日常と日常あるいは異日常との戦いは、どちらに軍配が上がるか。今は非日常が寄りきり勝ちしようとしているようだ。
 この厚化粧デザインを支えるのは、まさにブライダル市場である。市場が景観をつくるのは、今の日本の都市と郊外を見ればよくわかる。
 ついでながら、かつて木造土蔵の横浜の街並みに、赤レンガの開港記念館ができたとき、その厚化粧花魁頭の建物は、人々の目にどう映ったのだろうか。


(参考)神奈川新聞2012年3月24日
 MM21地区「国内最大」式場計画、景観協議が不調「再考を」/横浜
 横浜・みなとみらい21(MM21)新港地区に計画されている国内最大規模の結婚式場をめぐり、横浜市長の諮問機関「都市美対策審議会」の部会は23日、横浜市と事業者が進めてきた都市景観協議が「不調に終わった」との意見をまとめ、建設計画の再考を求めた。市は週明けに事業者に結果を伝える方針。
 協議の方針について、1月の部会で「さまざまな時代背景の建築デザインを模倣し混在させるのは避けること」など30項目の意見が委員から出されていた。
 市は23日、「協議を進めたが、すべての意見に対応できなかった」と報告。これに対し、委員らは「もっと時間をかけて審議を重ね、いい計画にしていきたい」などと指摘した。
 事業者は紳士服量販大手AOKIホールディングスの子会社で、予定地は同市中区新港2丁目の市有地と民有地の計約1万8千平方メートル。欧風スタイルの結婚式場やカフェなどを設ける計画で、2013年秋の開業を予定している。

2012/03/23

598震災と地価

地価公示が新聞に出ている。
 津波被災地の高台移転先の土地が高騰しているとのこと。
 そんなことになるのは、とうにわかっていながら、地価凍結をできない日本の土地政策がある。いや、土地政策がないのか。
 とにかく住宅(建物)政策はあっても、居住政策ってものがない。
 一方、津波をかぶった所は地価下落とのこと。

 ところで、次に地価高騰するところは、原発被災の著しい双葉郡のエリアであろう。
 えっ、津波被災よりもひどいのに、なぜ高騰するかって、そう思うでしょ?
 それが高騰するのは、このエリアが核毒貯蔵の場所として、必ず国有化されるからだ。
 それを狙って国か東電に高く売りつけようって、高台の次はここだって、もう不動産屋さんたちが蠢いているだろうなあ、多分、。

●参照→21世紀の「谷中村」は「核毒の森」
 http://datey.blogspot.jp/2011/08/47921.html

2012/03/17

597今風望郷歌

東武電車の「業平橋駅」が「スカイツリー駅」と、名前を変えたそうだ。
 かのイケメン男の在原業平は、嘆いているかもしれない。

 むかし、男ありけり。
 その男、身をえうなきものに思ひなして、「京にはあらじ。あづまの方に住むべき国もとめに」とて往きけり。
 なほゆきゆきて武蔵の国と下総の国との中に、いとおほきなる河あり。それを角田河といふ。
 その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、かぎりなく、遠くも来にけるかな、とわびあへるに、渡守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。
 さる折りしも、白き鳥の嘴と脚とあかき、鴫のおほきさなる、水のうへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。
 渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、
   名にしおはゞいざこと問はむ都鳥
    わが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。
            (「伊勢物語」より)

 ある男、京都から東京に移ってきたが、身の上がうまくゆかない。
 流れ流れてとうとう隅田川のほとりに至り、ダンボール小屋を建てて住む。
 思えば、こんなところで、こうなったものだと、ホームレス仲間と嘆きあう。
 そうこうするうちに、近くに高いタワーが立ち上がってきた。聞けばこれこそスカイツリーだという。
 男は展望台から故郷を眺めたいが、入場料が高くて登れない。嘆いて一首を詠んだ。
   名にしに負わばいざこと問はむスカイツリー
    わが想う人はありやなしやと
 ホームレス仲間はみな泣いたのであった。
            (「伊達物語」より)

●参照→503押上の斜塔
http://datey.blogspot.jp/2011/10/503.html

2012/03/14

596狼地震に無効核毒

地震がほとんどないところで生まれて少年時代を過ごした。19歳で関東に住むようになって驚いたのは、地震が多いことである。
 今から考えるとおかしいが、どんな小さな地震でも心臓がドキッとしたものである。
 なんと関東は危ないところだと思いつつ暮らすうちに、ドキッとはしなくなった。
 それでも、そうなるまでには数年を要した。

 だから、外国人ならば、まさに昔のわたしのように、揺れるたびにビクッ、ドキッとしているに違いない。
 その上、原発からの核の毒が降ってくるとなれば、地理不案内の外国人は、なおさら不安に駆られるに違いない。

 わたしが、どこか言葉が不自由な状態の外国で大地震と核毒の雨に出くわしたとしたら、新聞や放送でどこそこの地域では安全とか、どこそこ危ないとか言われても、それが自分のいるところとの関係がよくわからないから、その国とか広い地域全部が危ないと思うに違いない。そして逃げ出すに限ると思うだろう。
 今、外国人のほとんどは、日本は地震と核毒でどこもかしこも全部が危ないところだと思っているにちがいない。
 でも、そのことをだれも否定できない。

 これほど毎日毎日地震に見舞われると、だんだんと不感症になるのはやむをえない。
 毎度の地震を、ふん、また狼少年、いや狼地震かよ、、、。
 そしてまた、核毒まじりの食品を食っているかも知れないが、どうせ年寄りだから、10年や20年後に発病しても、その頃は死んでるから、核毒なんてオレには効かないと同じだよ、もう、どうでもいいや

 あ、そうだ、与太話ついでに新提案を、、、核毒汚染食品を、70歳を超えたら年齢と同じパーセントで値引きして売ったらどうですかね、70歳に人には7割引きで、100歳の人には無料でね。

2012/03/11

595震災ビル新装お目見え

横浜公園そばに、昨年3月の震災で傷んでいたビルがあった。
 今日、前を通ったら、綺麗に修復された姿でたっている。2週間目はまだ囲いがあったような気がするから、震災1周年までに仕上げたのだろう。

●参照→横浜都心地震探検