2013/03/27

745震災核災3年目(13)まちづくりの一環として中心街に復興公営住宅を建設することに期待する

「744震災核災3年目(12)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 実は発災直後の2011年3月20日に、わたしは自分のブログに「内陸母都市に疎開定住公共賃貸住宅を」と題して、次のようなことを書いた。

「これから、ぜひとも公共賃貸借住宅を災害疎開者のために建設してほしい。新たな住宅建設のための負担を、持家優遇政策で被災者に借金させてはならない。
 それも被災した地域の内陸にある母都市の中心部に、疎開者の元のコミュニティ集団に対する単位として建設するのだ。
 こうすることで、災害疎開者のコミュニティの継続と、空洞化する地方都市の再生とをセットにする震災復興都市計画、いや震災再生国土計画とするのである。
 繰り返すが、災害復興政策として持家建設やマンション購入ばかりを優遇する金融や税制を優先するのではなく」


 2013年3月6日の報道(NHK NEWS WEB)にはこう書いている。 
「政府がまとめた住宅再建の工程表によりますと、集中復興期間に当たる平成27年度までに、被災した住宅を自力で再建できない人のための災害公営住宅を、岩手県では計画の9割に当たる5100戸、宮城県では計画の7割に当たる1万1200戸を建設するとしています。
 一方、津波に加えて原発事故による影響を受けている福島県では2900戸を建設するなど、3県合わせて2万戸近くを建設するとしています。
 さらに、住宅の高台への集団移転事業などについて、ことし9月までに、岩手県では計画の6割の、宮城県では計画の7割の宅地の整備を進捗させるとしています。」


 つまり、2016年3月までとしても、これから3年間である。3年で3県に計2万戸も公営住宅を建てるというと、これは忙しい。
 もちろん必要なことは分かるし、わたしは賃貸借居住主義者だから、大賛成なのだが、どうも気になる。
 あまりに建設の速度が早すぎてしかも大量だから、わたしが期待するような公営住宅ができるのだろうか。

 公営住宅政策は長らく日陰者だったから、自治体に計画、建設、管理のノウハウはあるのだろうか。
 よい交通立地、よい生活環境、よい買い物や地域施設が整うのか、よいプラニングになるのか、よい景観になるのか、そしてよい管理体制が整うのだろうか。土地の手当てができるのだろうか。
 大急ぎでつくるから、とりあえず取得できた土地にとりあえず造る、なんてことになっているかもしれないと危惧する。
 あるいは公営住宅は公営住宅だけ、民間住宅は民間住宅だけ、商店街や公共施設はまたそれ独自に、それぞれの別個のゾーニングの範囲でのみ計画して建設するかもしれないと危惧する。これではまちづくりにならない。

 日本のこれまでのような経済政策としての「住宅政策」ではなく、これからは社会政策としての「居住政策」として、今後の模範となるような、公営住宅ができることを期待しているのだが、現場はどうなのだろうか。
 新たな都市づくりのひとつとして公営住宅建設をしてほしい。特に内陸部の被災しなかった中心市街の空洞化対策と連携して、その既成市街地の中に埋め込むように建設してほしいものだ。
 その方がインフラ整備の必要がないし、居住者の生活も便利で、高齢化時代に対応するとともに、コンパクトタウン形成になるからだ。
 あるいは被災地から集団移転する台地上の新市街地につくるとしても、ミックスコミュニティとすることや、戦後ニュータウンのような寝るだけの街にしないようにしたい。生業が成り立つ新たな街を作ってほしい。
 公営住宅はその街づくりのリーダーとなってほしい。

 賃貸の公営住宅の良いところは、計画的に良い環境住宅をつくり、一体的に管理してよい環境を維持できること、次世代へ円滑に継続することなどがあるのだから、それらに力を注ぎ込んでほしい。
 わたしは今、都心の公的賃借住宅に住んでいる。ここを積極的に選んだのは、上のようなことを期待しているからである。賃料を除けば、ほぼ満足している。

 とにかく、戸数消化主義が今は求められているようだが、場当たりの土地、場当たりの計画、場当たりの入居制度、場当たりの管理になって、結局は住みにくくて元の津波被災地に戻るってことにならぬように、頑張ってほしいものだ。

 関東大震災のあとで同潤会によって建設した共同住宅は、のちのちまでも都市住宅の模範であり続けた。
 東北地方の復興公営住宅も、地域における模範となる共同住宅となってほしい。(次につづく)

2013/03/26

744震災核災3年目(12)震災復興シンポでの専門家論についてはデジャビュ感があった

741震災核災3年目(11)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 大地震で大被災した南三陸町の復興状況の話を聞いた。
 日本都市計画家協会と東京大学が、町民4人をまねいて、シンポジウムを開催したので、聞きに行った(2013年3月24日、於:東京大学生産技術研究所)。
 会場には100人あまり、ほぼ全員がいわゆる専門家とよばれる人たちだったろう。わたしも元がつく専門家ということにしておこう。
 
 来ていただいた4人の人たちから聞く復興の諸課題は、当然のことだろうが、どれも深刻なることばかりである。
 興味深く聞きつつも、これまでここに書いてきたように書斎で机上心配するだけのわたしなのに、意外なことと思うことは少なくて、これまでの心配が深まることばかりであった。

 会場からの専門家たちの発言には、どうももうひとつピンとこなかったものがおおい。
 これは、まあ、専門家たちが悪いのではなくて、予期せぬ発言者を指名していったコーディネーターのせいだろう。

 被災者の方の話に、復興計画について行政と地元住民との間の意思疎通に齟齬があり、地元住民の中に入ってきて住民の立場で行政に対抗することができる知恵を授けてくれる専門家をほしいとの訴えがあった。
 既成市街地での都市再開発・まちづくりの世界では、もう昔からこういうことがあって、それなりにアドボケイトプランナーが育ち、それに対応する支援制度が動いていたはずだ。
 そのノウハウ蓄積が被災地では生かされていないのだろうか。それとも被災地があまりに広くて、人材が足りない、制度が追い付かない、ということだろうか。

 いろいろな情報によると数多くのプランナーが各地に入っているらしい。
 そのなかにはアドボケイトのベテランもいるはずなのに、いまだにこのようなことを言われているのかと、不思議というかデジャビュ感があった。

 専門家に対する住民のいらだちに対応して、専門家のあり方について、個別の専門家を束ねてコーディネートする能力のある専門家が要ることの発言が、大学研究者からあった。
 むかしむかし、わたしはコンサル・コンサルタントとひそかに自称していたので、これもデジャビュ感が強かった。そのような人材はいっぱいいたと思うのだが、どうなっているのか。
 会場から、専門家は地元にボランティアで行けとの発言があり、これもまちづくりの世界では昔から聞かされ、専門家はカスミを食って生きるのかとの反発も、デジャビュ感があった。

 それにしても、日曜日の朝早くから、こんな不便な会場に、専門家たちがおおぜい集まったこと、そして若い人たちが多いことを見て、まちづくり人材が育っていることに明るい希望を持ったのであった。
 もっとも、会場で久しぶりに出会ったある知人に聞けば、相変わらず食っていけない世界のようだが。

 さて、復興計画そのものについてだが、会場でいただいた復興計画図を見ると、数々の心配が湧いてきた。これで南三陸町の将来はどう展望できるのだろうか? (次回につづく

(追記0328)
 もう8年くらい前のことだったか、国交省の都市計画課で、まちづくり人材リストをつくったことがあった。かなり大掛かりにやったから、その後も活用しているはずだが、どうなっているのだろうか。

●参照→「地震津波火事原発コラム一覧」

2013/03/25

743能「隅田川」の眼でオペラ「カーリューリバー」を見る

●オペラ「カーリューリバー」
ベンジャミン・ブリテンの作によるオペラ「カーリューリバー」を、神奈川芸術劇場で見た。演出が日本舞踊家の花柳寿輔というのが意外である。だが、オペラの演出はかなり自由が許される世界であるらしいから、不思議はないだろう。
 その自由な演出のオペラの元になっているのが、かなり不自由な演出しか許されない日本の伝統芸能の能「隅田川」であることが面白い。
 B・ブリテンは1956年に日本に来た時に、この能を見て感動し、翻案してオペラをつくったそうだ。初演は1964年。
 カーリューとは鳥のシギの一種らしい。隅田川の都鳥をこう置き換えたのだ。
 カーリューリバーの基本的な話の筋は、能「隅田川」にほぼ忠実であるといってよい。もちろん隅田川に出てくる念仏を唱える仏教から、かの地のキリスト教に翻案していて、教会堂で演じる宗教奇跡譚の仮面劇になっている。
 舞台の構造も能とは違って、螺旋のような形であるらしい。ユーチューブにいくつかのこの公演実写映像が登場するが、なかにひとつだけこの形のものがある。
http://www.youtube.com/watch?v=zDrcgTKmGbc&list=PLA393D79883D4C185
 今回見た花柳寿輔演出での舞台は、真四角な白木の床の能舞台であった。もっとも、4本の柱はなく、橋掛かりは下手奥からではなくて客席を縦に貫通する花道状に渡した。

●続きの全文は「能「隅田川」の眼でオペラ「カーリューリバー」を見る」
https://sites.google.com/site/matimorig2x/opera-curlew-river


2013/03/23

742近年は季節がドカンドカンと突然に変わるので四季遷移の情緒がない

 今日、わたしの空中陋屋のある共同住宅ビルの外に出てビックリ、ピンク色に明るい、おお、道が桜の花で満開だあ。
 ヘンだなあ、昨日だって外に出たのに、気が付かなかったぞ。わたしがボケていたわけではなくいて、これは昨晩中に突然に咲いたにちがいない。

わたしの空中陋屋のある共同住宅ビルも花で飾られている。
 
 この数年は、冬からいきなり春にドカンとなってしまう。徐々に春めいてくるってことがなくて、なんとも情緒にかける。
そしてちょっとしたらドカンと夏がやってきて、また、ドカン、、、の繰り返しであるようだ。
 なんだか四季というよりも、2季か3季のような感じがしてならない。

 空中陋屋から見下ろす中学校の入り口に、黒い服の男たちがたまっているので、何事かと近づいて見れば、校門の門柱に「閉校式」とかいた立て看板が立っている。
 え、閉校するのか、式参列でいらしたお偉いさんたちらしい。
 この中学校では、去年になにかおおきな工事していると思ったら、仮設のプレファブリケーション校舎が建った。校庭グラウンドは半分くらいになった。

 どうもそれまでの校舎が耐震性で問題があったらしい。そちらを建て直すので、狭い校庭と安物仮校舎で、しばらく不便をしのぐのだろうと思っていた。
 それが閉校ということは、1年後に要らなくなるけど、東日本大震災の余震の大地震がもしも去年中に来たら危ないという判断であったのか。
 それはまあ慎重でよろしいが、結果としては無駄遣いであったことになる。

 空中陋屋からまた別方向を見ると、こちらには新しい共同住宅ビルの建設が始まって、高い工事用クレーンが建っている。
ふーむ、あのクレーンほどの高いビルができるのか、日陰にはならないが、視界の邪魔だなあ。
 むこうの山手の丘に咲く桜も、あのビルで見えなくなるのか、残念。
 でも、こういうのが建つと、小中学生が増えて、廃校中学校をまた再開校することになるかもしれない。
●参照→「ニッサンバカ広告が消えたと思ったらまたビルが建つらしい」

2013/03/22

741震災核災3年目(11)被災者が移転する先が高地価になってアベインフレ政策成功かしら

  昨日の「738地震津波火事原発3年目(10)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)
 
 先般、今や日本民族は津波を恐れて内陸に大移動だと書いたら、今日の新聞に地価公示(2013年1月1日現在)が載っていて、すでにその傾向が地価に表れたそうだ。
 東日本大震災被災地では、特に内陸部や台地上の土地の価格が上昇しているらしい。あたりまえながら、そちらに移転する需要がたくさんあるから、地価が高くなる。

 仙台都心部では共同住宅(いわゆる分譲マンション)が売れて、高額になりつつあるという。石巻では高台の住宅地が飛びぬけて高額になった。
 困ったことである。これでは被災者は2重に苦を蒙ることになるのだが、それへの地価抑制政策はどうなってるのか。
 アベノミクスではそのへんはどうなっているのだろうか。あ、インフレ政策だから高地価は政策どおりなのか。困ったもんだ。

 関東では今、超高層共同住宅ビルがにょきにょき林立中の川崎・武蔵小杉の地価上昇がものすごい。困ったものである。そもそも高層の共同住宅ビルは地震に根本的に弱いのであることがわかっているのだろうか。
 このことの問題は別にくどくど書いているからそちらに譲る。
http://homepage2.nifty.com/datey/kyodojutaku-kiken.htm

 地価抑制策がないどころか、地価が上昇して景気がよくなったと喜んでいる向きが多いらしい。不動産屋とか土地を担保に金の貸し借りする企業や金融業はよかろう。
 だが、地価が高騰して金のない庶民は、ますます津波危険地域に住まざるを得ないことになる。
 家ってものは借金して買わなければ日本では暮らしが成り立たないって、ヘンなことになっている。もっと公的な賃貸借住宅を教習するべきである。

 そして高地価に関係なく庶民が民族移動して、津波や災害から逃れる都市づくりをするべきと思うのだが、被災地ではどうなっているのか。
 被災地では大量の災害公営住宅の供給画があるようだ。これなら地価には関係なく移住できるからよろしい。わたしは賃貸借居住主義者だから喜ばしいことであると思う。
 公営住宅に入居者するひとびとが、家が買えないからやむを得ずそれを選ぶのではなく、積極的に選んで住む時代になってほしい。
 どうか負け組意識になってほしくない。賃貸借住宅のほうがよいのだと、自治体はそのような公営住宅の供給をしてほしいものだ。

 70年代から持ち家政策が進んで、賃貸借住宅政策がおろそかになり、公営住宅供給もどんどん細ってきている。
 それが賃貸借住宅の質的低下をもたらすと同時に、持ち家も価格を下げるためにミニ開発と郊外地立地で、こちらも質的低下である。価格を下げるために戸数を稼ぐ高層巨大共同住宅ビルも同様である。

 
 いまようやくにして社会政策として、公営住宅が再登場してきたことを喜ぶのだが、巨大災害がその機縁であること悲しいし、一般政策には広がる気配がないのも悲しい。
 とりあえずは、その災害公営住宅に移り住む人たちが、防災集団移転事業による自力建設の住宅と同じがそれ以上に良い居住環境になって、賃貸住宅として続いていくことを期待している。(明日の記事につづく

●参照「地震津波火事原発コラム」一覧
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm


2013/03/21

740歴史は下手な小説よりも虚構に満ち満ちていて面白い

 わたしの書斎兼寝室兼居間兼晩酌室には、壁4面の本棚に未読本がものすごくたくさんある。
 金はないけど、閑はある、せっかく買ったのに読まないままに死ぬのはもったいないから、もう書店で本を買いこむ癖をやめて、それら未読本制覇にとりかかった。 

 どれからにしようかと考えて、思いついて日本史を読みながら、いろいろと他の本も並行することにした。
 日本史の本は「週刊朝日百科『日本の歴史』」である。A4版、全133冊だが、一冊は32ページで図版写真が多いから、気楽に読める。
 1985年の刊行だから、現代史ではもう古くなっていることや、近頃の研究で内容が変わっている事項もあるだろう。

 でも、この30年でどう歴史の叙述かかわったかそれも面白いだろうと、「宇宙と人類の誕生」編から読み始めた。
 これは猿人とか旧人とかが出てくるところまでで、今では違う学説もあるかもしれないが、まあ、よろしい。

 次は「原ニホン人と列島の自然」の巻、フムフム、そんな昔から日本列島に人間はいたんだなあ。
 え、30万年も前からいた可能性があるって、え、座散乱木遺跡って、アレ、なんだ引っかかるなあ、なんだっけ、あそうだ、これって以前に大スキャンダルニュースで騒ぎになった旧石器遺跡捏造事件で聞いたことあるぞ、あれだあれだ。
 なんだ、2巻目にしてもう歴史が変わる事件にぶつかってしまった。
 
 さっそく書棚にあるはずの、スキャンダル発掘暴露した毎日新聞が書いた本を探すのだが、みつからない。
 昔なら図書館にでも行くところだが、いまや貧者の百科事典ウェブサイトのお世話になる。あるある、いっぱい出てくる。
 昔の本に書いてあったこと以上に、裏の裏まで書いたものもある。全く便利になったものだ。

 それによると、捏造事件発覚は2000年11月のことであった。
 藤村なにがしという遺跡発掘の専門家が、発掘のたびにあらかじめ発掘する石器を地中の何十万年も前の地層に埋めておいて、発掘時に「新発見」をし続けたという事件である。

 このなかに座散乱木遺跡があったのだが、おかげで遺跡が遺跡じゃなくなった。ほかにも40ほどの発掘で捏造をして、石器どころか遺跡そのものが捏造だったという。
 捏造遺跡にしたがって、何十万年も前から日本列島には石器をつくることができる人間がいたという、考古学会のおとぎ話が構築されていて、この本にも写真解説付きで載っている。


 それにしてもあれは変な事件だった。
 たった一人の石器アマチュアが嵩じて発掘屋になった男が、発見の名誉心にかられて、日本中の石器時代遺跡でほかで拾った石器を埋めては、自分で発掘する「新発見」を続けて20年余、その間、専門家のだれひとり見抜けなかったというのだ。
 一部に見抜いた人がいたが、その人たちは学会から村八分にされたそうだ。

 あの当時も呆れたが、いまネットでいろいろ読んでてさらに呆れた。
 30万年も前にそんな精巧な石器(実は弥生時代の石器)をつくったり祭祀遺跡を持つところは、世界中になかった。日本だけで文化を持った旧石器人が発見されたのだ。
 そこで日本の考古学者たちは考えた、日本人はそれだけ文化的に優秀な民族だったからだ、と。そう発見当時に語っているのであった。
 これって、日本民族は世界にぬきんでて優秀だから、鬼畜米英には負けない高い文化国家なのだって、まるっきり戦中のおハナシだよなあ。

 で、その後の考古学の世界では、あのスキャンダルを藤村ひとりに全部押し付けて、誰も責任は取っていないのだそうである。
 さすがに当時藤村のそばにいつづけてその新発見を学問的業績にした学者たちは、わが身の不明を謝ってはいるが、学界の重鎮のままらしい。
 さらに疑問は続いているらしく、あんな一介の発掘屋の(こういう差別的な言い方もどうかと思うが)藤村ひとりでできるはずはない、実はストーリーをつくってやらせた学者がいる、そこには学会の勢力争いが裏にある、なんて話もある。こちとら庶民を面白がらせてくれる。

 思い出したが、昔、永仁壺事件てのがあったなあ。現代の名工がつくった古びた壺を、文部省は永仁期の本物とまちがえて重要文化財に指定してしまったのだった。あれもおかしかった。
 歴史は面白い。下手な小説よりもまことに虚構に満ち満ちている。
 このあと読んでいてどんな虚の歴史が出て来るか、楽しみになってきた。

739震災核災3年目(10)これを機に日本の住宅政策を経済政策から社会政策に転換せよ

 昨日の「738地震津波火事原発3年目(9)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●日本の住宅政策の欠点を大災害が暴露した

 朝日新聞の資料の一覧を見ていて「災害公営住宅」がかなり多くなっていることに、興味をひかれた。記事にもこの公営住宅希望者が増加しつつあるそうだ。
 東北被災3県合わせて、2万戸近くを建設するそうである。そんなにも建てなければならないのか、これまで公営住宅に空き家の余裕はなかったのか。

 その希望者が多い理由は、どこにあるのだろうか。
 高齢者が多くなっていて、新たに借金して建てても返済できない、ということは金融機関が貸してくれない、そのようなこともあるだろう。とくに今回の被災地は高齢者が多い。

 持ち家の自宅を建設することが資金的にできなくて、公営の賃貸住宅のほうを選択しているのだろう。資金的にできなければ借り入れる方法もあろう。
 だが問題は、借りようにも、被災してなくなってしまった住宅建設のためにすでに借り入れていて、いまだに返済が終わっていない、借金返済だけが残っている、2重借金はできない、どうもそういう例が多いらしい。
 
 そうであろう。日本では一生かかって返すほどの借金を負わないと、自分が住む家がないという政策の国なのだ。

 住宅というものは、基本人権の生存権とセットになっているはずだが、日本の住宅政策は社会政策ではなくて経済政策になっているのだ。
 自分が家族と暮らすための家を得るのに、日頃見たこともないほどの大借金を抱えなければならない。その金を返すためには20年30年とかかるから、その間は一生けんめいに働く。借金を返し終えたころは、疲れた老人になっている。

 言葉は悪いが、家の借金を返すために遊里苦界に身を沈めた遊女のごとく、借金に追いまくられて働く人生である。じつはわたしもその道を歩んできた。
 わたしは賃借住宅主義者である。なのに50歳で借金住宅を建てたのは、賃貸住宅に適切なものがなかったからである。
 それは、賃貸住宅政策は冷遇され、売り家住宅政策ばかり厚遇されているので、立地、家賃、広さなどが適切な住宅がなかなかないのだ。だから無理しても借金住宅になる。

 賃貸住宅冷遇の証拠は、東京区部にドーナツ状の広大な木造住宅密集地域にあるアパート群である。家を建てられない、つまり借金できない層が暮らす、いわゆる木賃住宅群である。
 需要に応じて土地持ちが庭先に無秩序に建てていった木造2階建て共同住宅群が、いつの間にか東京都心部を取り囲むドーナツ状になり、災害には最も弱い地域をつくっている。
 社会底辺からの需要があるのに、住宅政策が対応していない結果である。
今になって首都圏直下大地震で、被害甚大地帯になると騒いでいる。もっと前にわかっていたことだが、後回しになった。
 
 そのような借金住宅政策が、公営あるいは公団や公社等の公的賃貸住宅を縮小させて行き、民間賃貸住宅も供給が少なく質的低下もまねき、それが大災害を機に一挙に矛盾を暴露したのだ。
 公的住宅が多くあれば、被災者の避難先として、その空き家を柔軟に対応することができただろう。
 公的賃貸住宅政策が行き渡っていれば、2重借金問題は少なかったはずである。

 住宅は持ち家でなければならないという政策をつくったのは、戦後高度成長期1970年代からのことである。国民に少額でも土地建物という財産を持たせて保守化して、保守政権を維持させようという政治戦略であった、と、わたしは思っている。

 その前の戦後の時代は、公団住宅が典型のように戦後も借家は当たり前だったし、戦前の日本は借家が普通だった。
 戦後しばらくは住宅政策は社会政策だったが、それを保守安定政権維持のために経済政策に転換してしまったのが、あまりに乱暴すぎるのである。

 衣食住というが、衣はファッションとなり、食はグルメとなったが、住はいまだに問題を引きずっていることは、この災害が露呈した。
 あの大戦争から立ち直る時期には、住宅を社会政策としてつくってきたことを思い出し、この大災害からの立ち直りも住宅をしっかりと社会政策としてつくり、それは災害復興のための一過性の政策ではなく、これからの日本の基本政策に転換してほしい。(明日の記事につづく

●参照→「賃貸借都市の時代へ」(まちもり瓢論)

2013/03/20

738震災核災3年目(9)津波甚大被災土地を自然の森や海に戻す土地不利用政策は荒唐無稽か

  昨日の「737地震津波火事原発3年目(8)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●土地海面化事業が必要な時代が来た

 津波で甚大な被災をした土地を、自然に返還するという論を勝手に思いついて、ここまで書いてきた。
 そのような考えが、今の復興現場にあるのだろうか、それともないのだろうか、現に震災復興にかかかわっている知人たちに聞いてみた。

 まず、災害被災低地をどう利用するかの議論は、現地ではまだまだ進んでいないのが現実だそうである。その理由は、こんなことらしい。
 今は高台整備、漁港復旧、防潮堤整備などの検討と調整の作業がいっぱいになっていることから、跡地利用まで手が付かないこと。
 それらの仕事も行政の縦割りでいろいろな事業が進んでいるので、総合的判断をしにくい現状であること
 行政で用意している復興の事業メニューに、低地利用を進めるための手法がないこと。
 そして被災者も行政もいまは住宅の再建での悩みがいっぱいあって、まだ跡地の低地利用のことを考える余裕がないこと。

 その一方で、空き地となる低平地を自然に戻すとか農林地にしようとかの考えは、一部の地域の人たち、専門家、あるいは支援者などから、ひとつのアイデアとしては出ている。
 しかし、実現手法の点、合意形成の点で進捗ははかばかしくないという。

 復興は基本的に復興交付金事業の40事業メニューで進んでいる。
 そのなかに広大な土地を自然て土地利用に近いと言えるメニューは「都市公園事業」くらいなものである。
 公園事業には「都市林」というものもあるが、海にするというのはあるだろうか。
 これまで海面埋め立て事業というのはあったが、その逆に土地海面化事業なんてのが必要な時代になったような気もする。
 公共事業として自然環境を復興事業としてやるのは、どうもできそうもないらしいのだ。

 そこには、日本の土地利用はいまも「経済の論理による開発の思想」で動いていることがある。
 開発的な土地利用をやめて森林とか海などの自然に戻すとしたら、行政としては、それが市民の暮らしや産業の振興のために必要なことという「公共性」を求められる。しかし、その論理がまだ見いだせない段階では、行政が手を出せないという。
 開発をしない土地利用事業には税金を投じないということである。

 とにかく、事業手法がないからやれないのではなくて、こういう考えはありなのか、無しなのか、そこのところから考えてはどうか。
 今の東北地方には、先進的な役人、優秀な研究者、有能なプランナーたちがおおぜい結集しているのだから、ぜひとも今のうちに何とかして、人間の土地から自然の土地への転換(還元)について論理、制度、手法を構築してもらいたいと思う。

 明治三陸津波(1896年)の教訓は、昭和三陸津波(1933年)で生かされずに多くの死者をだし、その2度の教訓も生かされずに平成三陸津波(2011年)にはさらに多くの死者を出した。
 それを繰り返さないなら、津波甚大被災土地を永久に使えないようにするしかない。それがこの思いつきの原点である。

 と同時に、人口減少時代における生活圏のコンパクト化の動きへの対応の、ひとつの方法でもある。(明日の記事につづく

●参照→588『津波と村』海辺の民の宿命か
http://datey.blogspot.jp/2012/02/588.html

2013/03/19

737震災核災3年目(8)こんな日本列島巨大地震津波ハザードマップをみると諦めが先にたつ

  昨日の「736地震津波火事原発3年目(7)」からのつづき
http://datey.blogspot.jp/2013/03/736.html
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●こんな巨大災害が日本列島南半分で起きるのならもう諦めるしかない

 津波被災地の復興についての書斎での心配を書き綴ってきているが、今朝の新聞を見てなんだか心配が小さすぎるって気になった。
 昨日、巨大地震対策の検討をしている国の有識者会議のワーキンググループが、南海トラフ巨大地震の被害想定を発表した。
 総額220兆円とあるが、巨額らしいが庶民にはなんのことやらである。これはものすごいとわたしでも分かるのは、死者32万3000人の数値である。

 庶民には、地震でわが身がどうなるかが心配なのである。
 今朝の朝日新聞(2013年3月19日朝)がその大災害起きる様子を視覚化してくれていてる。まさにに「日本列島地震津波ハザードマップ」である。
 地震4分後に高さ34mの津波に襲われる土佐清水市では何が起こるのか、新島では31mの津波だとすると島全部が海の底になるのか。

 これを見ていると、もう日本列島から逃げ出すか、すっぱり諦めてこのまま暮らすか、その二つにひとつしかないと思えてきた。まあ、金もなし、先も長くないわたしは後者である。

 もちろん若い人々には、その二つの中間がある。津波と地震からちょっとでも安全らしいところを探して引っ越すという手もあるだろう。そこがどこなのか、という大問題はあるのだが。
 少し前にそう思ってちょっとだけ探索したら、意外にもわたしの生まれ故郷の高梁のあたりがよさそうだと気が付いたことがある。
参照→696日本で地震からも津波からも核毒からも米軍基地からも逃れる地域はどこだろうか http://datey.blogspot.jp/2012/12/696.html

 この日本列島ハザードマップの逆の図をつくってほしいと思う。地震・津波・原発から安全な地域はここだ、それがわかる「日本列島安全地図」である。いや「日本列島比較的安全地図」か、いやまあ「日本列島多分安全地図」でもいいか。

 いま日本は、人口減少と超高齢化で生活圏の再編が必要となって人口移動が起きているが、その移動先が列島沿岸部にある大都市に向いている。
 そのようなときに、この「日本列島地震津波ハザードマップ」は冷や水を浴びせるものである。内陸部の地震の少ない地域への人口誘導政策が必要になっている。

 内陸への民族大移動は、津波と原発からの事前避難である。いわゆる国土政策は、この視点から進めなければなるまい。
 多分、これまでの国土政策をつくってきた優秀な官僚たちも、これは分かっていたのだろうが、経済政策が許さなかったのだろう。
 いま、とうとう、パンドラの箱が開いた。そして2万人もの人柱を立てて、ようやく安全優先の国土政策が始まろうとしている。
 わたしはそう思いたいのである。

 だが、わたしはもう自分の人生には間に合わない。すっぱりと諦めることにする。(明日の記事につづく

2013/03/18

736震災核災3年目(7)これまで人間が自然から借りていた土地をそろそろ返還する時期か

  昨日の「735地震津波火事原発3年目(6)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●自然から借りていた土地を返す時期が来た
 これまで人口増加と経済成長の20世紀では、住家も産業施設も増えるから、土地が必要だとばかりに、山を削り海を埋めてそれらのために土地をつくってきた。そしてかなりの範囲で無計画に街を拡大してきた。
 だが、いまになって思うと、どうも土地を使いすぎたようだ。中心街から人が減って空き地空き家がいっぱいで来ている、郊外住宅地でも同じだし、郊外胃に移転した企業も撤退している。
 現にしだいに街が空洞化しているし、更にこれから日本の人口が減少傾向は1世紀くらいは続くようだ。自然から人間が収奪してきた広大な土地が余る時代が来ている。

 そこで話が災害危険区域に戻るが、そこになにか住宅以外の利用にしようと一生懸命に使わなくても、空き地のままでもよい時代が来たと、わたしは思う。
 災害危険区域全部を使わないと言っているのではなくて、どこもかしこも使う必要はない、ところによってはまったく使わなくすることもあるだろうと思うのだ。

 
 土地を使わなくなるとどうなるか。使わない土地は、荒れ地になってそのうちに砂漠になる、きちんと維持管理しないと災害を招くと、言われることがある。
 そんなことはない。日本の気候では、土地を放っておくとどんどんと草が生えてくる。初めは、例えば黄色の花が一面に咲くセイタカアワダチソウのような荒れ地好みの草が一面に生えてくる。これは大変だと思う人もいるが、実は次々と植生は交替して行って、落葉樹が生えて林になり、常緑樹が生えて森になって行く。これを自然遷移という。
 現に今、山間地では過疎化が進み、放棄された田畑や人家などの跡地がどんどんと緑に覆われて、森に還りつつあるのは、日本中に見られることだ。
 日本の気候はそういう温暖なのだ。これなら維持管理費もかからない。

 それではもったいないとするなら、用材になる樹種を植林するのもいいだろう。
 現在の日本の山々の生産林としての植林地は、土地が急峻だったり、利用する地域から遠隔地だったりして、木材利用のためにはコストがかかる。これが海岸部の平地林ならば、植林、保育、伐採、運搬などにコストが低廉になるだろう。
 もちろん生産林ばかりではなく、保養林にもなる多様な植生の森をつくるのもよい。
 バイオマスエネルギー原料にもなるだろう。市街地に近いとレクリエーションの場にもなるだろう。そしてなにより、海辺に近いのだから津波の防砂林、防潮林になる。

 津波被災地で、いまだに津波に乗ってきた海水が居座ったままの地域も多いそうだ。
 そこはこれから埋め立てしてまた陸地に戻す計画だろう。その土は山を削るのだろう。高台をつくるときに発生する残土をもっていくのだろうか。

 どこもかしこもそうしなくても、昔そうであったように、海に戻すという方法はどうだろうか。そのまま海にしておけば、自然干潟になってそれなりに有用であるような気がする。
 あるいは、積極的に浚渫して、漁港をつくる、養殖漁業海域にする、海浜レクリエーションの場にするなどの考えはどううだろうか。

 要するに人口増加時代の人間が自然から借りて使っていた土地を、このたびの地震津波という自然からの手荒な返還催促に従って、もとに還すのである。
 どうも20世紀に無理な借財をしすぎたかもしれないし、そろそろ不要になったから、このへんでお返しするのである。
 そう考えてはも差し支えない地域だってあるように思うのである。机上の寝言と言われればそれまでだが。
 でも、現地ではどうなんだろうかと、そちらに詳しい人に聞いてみた。(明日の記事につづく