2013/03/21

739震災核災3年目(10)これを機に日本の住宅政策を経済政策から社会政策に転換せよ

 昨日の「738地震津波火事原発3年目(9)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●日本の住宅政策の欠点を大災害が暴露した

 朝日新聞の資料の一覧を見ていて「災害公営住宅」がかなり多くなっていることに、興味をひかれた。記事にもこの公営住宅希望者が増加しつつあるそうだ。
 東北被災3県合わせて、2万戸近くを建設するそうである。そんなにも建てなければならないのか、これまで公営住宅に空き家の余裕はなかったのか。

 その希望者が多い理由は、どこにあるのだろうか。
 高齢者が多くなっていて、新たに借金して建てても返済できない、ということは金融機関が貸してくれない、そのようなこともあるだろう。とくに今回の被災地は高齢者が多い。

 持ち家の自宅を建設することが資金的にできなくて、公営の賃貸住宅のほうを選択しているのだろう。資金的にできなければ借り入れる方法もあろう。
 だが問題は、借りようにも、被災してなくなってしまった住宅建設のためにすでに借り入れていて、いまだに返済が終わっていない、借金返済だけが残っている、2重借金はできない、どうもそういう例が多いらしい。
 
 そうであろう。日本では一生かかって返すほどの借金を負わないと、自分が住む家がないという政策の国なのだ。

 住宅というものは、基本人権の生存権とセットになっているはずだが、日本の住宅政策は社会政策ではなくて経済政策になっているのだ。
 自分が家族と暮らすための家を得るのに、日頃見たこともないほどの大借金を抱えなければならない。その金を返すためには20年30年とかかるから、その間は一生けんめいに働く。借金を返し終えたころは、疲れた老人になっている。

 言葉は悪いが、家の借金を返すために遊里苦界に身を沈めた遊女のごとく、借金に追いまくられて働く人生である。じつはわたしもその道を歩んできた。
 わたしは賃借住宅主義者である。なのに50歳で借金住宅を建てたのは、賃貸住宅に適切なものがなかったからである。
 それは、賃貸住宅政策は冷遇され、売り家住宅政策ばかり厚遇されているので、立地、家賃、広さなどが適切な住宅がなかなかないのだ。だから無理しても借金住宅になる。

 賃貸住宅冷遇の証拠は、東京区部にドーナツ状の広大な木造住宅密集地域にあるアパート群である。家を建てられない、つまり借金できない層が暮らす、いわゆる木賃住宅群である。
 需要に応じて土地持ちが庭先に無秩序に建てていった木造2階建て共同住宅群が、いつの間にか東京都心部を取り囲むドーナツ状になり、災害には最も弱い地域をつくっている。
 社会底辺からの需要があるのに、住宅政策が対応していない結果である。
今になって首都圏直下大地震で、被害甚大地帯になると騒いでいる。もっと前にわかっていたことだが、後回しになった。
 
 そのような借金住宅政策が、公営あるいは公団や公社等の公的賃貸住宅を縮小させて行き、民間賃貸住宅も供給が少なく質的低下もまねき、それが大災害を機に一挙に矛盾を暴露したのだ。
 公的住宅が多くあれば、被災者の避難先として、その空き家を柔軟に対応することができただろう。
 公的賃貸住宅政策が行き渡っていれば、2重借金問題は少なかったはずである。

 住宅は持ち家でなければならないという政策をつくったのは、戦後高度成長期1970年代からのことである。国民に少額でも土地建物という財産を持たせて保守化して、保守政権を維持させようという政治戦略であった、と、わたしは思っている。

 その前の戦後の時代は、公団住宅が典型のように戦後も借家は当たり前だったし、戦前の日本は借家が普通だった。
 戦後しばらくは住宅政策は社会政策だったが、それを保守安定政権維持のために経済政策に転換してしまったのが、あまりに乱暴すぎるのである。

 衣食住というが、衣はファッションとなり、食はグルメとなったが、住はいまだに問題を引きずっていることは、この災害が露呈した。
 あの大戦争から立ち直る時期には、住宅を社会政策としてつくってきたことを思い出し、この大災害からの立ち直りも住宅をしっかりと社会政策としてつくり、それは災害復興のための一過性の政策ではなく、これからの日本の基本政策に転換してほしい。(明日の記事につづく

●参照→「賃貸借都市の時代へ」(まちもり瓢論)

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