2020/01/03

1437横浜関外関内ヨタヨタブラブラ初徘徊

 暮から正月にかけて、なにもせずに雑煮を食って寝ていたら、脚が弱ってきたので散歩と言う徘徊に出かけた。
 正月だからとて初詣をする習慣がないのは、わたしが神仏を全く信用していないからである。

 徘徊だからどこをさまよってもよいのだが、初徘徊らしく横浜ドヤ街の寿町に向った。そう、名がメデタイから初詣がわりになるだろうというのである。
 実は去年の初徘徊も寿町だったから、初詣に相当するわたしの正月の習慣になったかもしれない。う~む、ドヤ街徘徊が正月の習慣とはねえ、、。
寿町のメインストリートは静かな住宅街
部屋は3畳間だけど最先端設備

3か月に一回くらいは寿町徘徊もしているが、簡易宿泊所の街だと言ってもほとんどの宿泊者は事実上の住民となっている普通の生活街だから、正月とて特に変わりはない静かな街の風景で、人通りは少ないがあちこちに日向ぼっこする人がいる。
 でも、いつもとちょっと違う風景に出会った。町の中心部にある児童公園に、青テントの仮建物が建っているのだ。
 そうか、越年の炊き出しなどの特別のイベントをやっているようだ。支援団体などが、平素もここで週1回の炊き出しをしているが、年末年始は12月30日から1月5日までやるようだ。
寿児童公園は越年炊き出しの拠点化

越年闘争スケジュール

2019年度寿冬まつり寄付者名簿には簡易宿泊所名が並ぶ

 炊き出しだけではなくて、年末年始だけの各種の支援活動もやっているようで、「第46次 寿越冬スケジュール」を記載した貼り紙がある。第46次とあるからには、もうこれまで46年間も続いているのだろうか。
 頭が下がる思いであると同時に、46年前と比べると豊かになったはずなのに、多くの貧困者がここに吹き寄せられている現実に、困惑するばかりである。

 公園の斜め向かいに大きな空地が出現していいて、地面に建物を撤去した基礎が見えている。ここは2棟の簡易宿泊所が建っていたから、建て替えるのだろうか。
 去年、いくつかの簡宿の建て替えで高層化した建物があったが、ここにも高層ドヤが建つのだろうか。
新空き地出現(左の青テントが児童公園)
毎週毎年の炊き出しがつづくように、ドヤ住民は次第に増えていて、今後も需要があるから、建替え高層化があるのだろう。数の需要もあるが、入居者の高齢化に対応するために建物のバリアフリー化という、質的な需要もある。

 去年の暮れごろにUR住宅ビルの撤去工事をしていたが、いまは仮囲いの大きな空き地となっていた。さてここには何ができるのだろうか。
 便利な横浜都心の一角だから、オフィス需要はあるだろう。だが、共同住宅となると寿町ドヤ街の中という立地イメージが、市場を難しくするだろう。
UR住宅跡の空き地はなにが建つのかまだ分らない
その近くにも3年前からの空き地があるのだが、一向に何かが建つ気配がないままである。
3年前からの空き地
寿町を通り抜けたすぐ先には、横浜の商業中心の元町と中華街がある。
 ついでにそちらにも徘徊の足を向けたが、こちらは静かな寿町から一転して、大勢の人出となった。
元町商店街
とくに中華街では、中心部の通りは満員電車さながら、車の入る道は大渋滞、あまりの賑わいに逃げ出した。
 逃げ出した先は山下公園、ここも大勢の人出だが、そこは繁華街とはちがって、あの広さが救ってくれる。
山下公園から大桟橋方面を見る
ということで、脚を鍛える3時間ほどの横浜関外関内ヨタヨタブラブラ初徘徊であった。

2020/01/01

1436【フェイクバカ12月孤乱夢】流行語、怪しいハイテク、空き家、常陸坊海尊、渋谷ヘタクソ、箱根紅葉狩、紅白歌合戦


12月4日 伊達の眼鏡ブログ:新語流行語大賞の言葉 
 毎年のこの大賞の言葉のわたしの認知度を調べるのだけど、いつも半分くらいした知らないが、その原因はテレビを見ないせいと分っているから、ぜんぜん驚かない。流行からどんどん遅れるけど、それがどうした?
 伊達の眼鏡ブログ記事

12月5日 横浜ご近所探検
生きても空き家
死んでも空き家

生きても過密
 死んでも過密


12月8日 東京風景
永田町の赤坂プリンスホテル向かいの角地に、大きな木の下に小さな古い木造住宅があった。あの超一等地にどんな人が住んでるのか、前を通るたびに気になっていたが、いつの頃からか空き家状態になった。いまや空き家は珍しくないが、この場所での空き家はなかなかにスゴイ風景だった。ところが2019年12月6日、通りかかったところ、すっかり壊されて、大木も切り倒されていた。なにかビルが建つのだろうが、残念なようなホッとしたような、いや、まあ、何の関係も無いけどね。
2016年5月と2019年12月の写真をどうぞ。

12月9日 怪しいハイテク
プリンターって値段がオカシイ。3年前に6500円で買った同じ機種が、新品で最安値28710円である。え、値下がりじゃなくて値上がりなの?、どうなってんの?
 使っているプリンターが、「廃インクタンクが満杯になったので修理に出せ」との表示、修理代金を調べると11000円だとある。それなら同じ機種を6500円で買おうと、ネット検索したら4倍に値上がりなのだ。
 実はこれを買う前にも同じ現象になったプリンターがあり、その時は急いで印刷することがあり、修理時間がないので買ってきたのである。
 だから今、わたしは「廃インク満杯」プリンターを2台も持っている、トホホ、どうしようかなあ。

12月10日渋谷駅ヘタクソデザイン
 建築家と言うものは、このような複雑な空間でも、スマートに解決して納めて見せるのが腕前であるはずだがなあ、どうなってんだろ、このデザインした建築家は誰だろうか、あのヘタクソ建築家Kマさんだって、もうちょっと上手にやるだろうになあ。デタラメに行き交う部材を眺めて、しばらく楽しんだ。
 大変化中の渋谷駅って、総じて建築はたいしたことないようだが、土木は面白そうだ。これまでは地上を敬遠していたが、これからはちょくちょく地上に出て乗り換え、ちょっと探検もよいなあ、と思った。

伊達の眼鏡ブログ新記事
https://datey.blogspot.com/2019/12/1430.html

12月17日 箱根紅葉狩
久しぶりに箱根に紅葉狩り、ついでに山口文象作品の健在も確認、1936年稼働開始の「東電早川取水堰」と「山崎発電所」は現役の土木遺産。正月行事の箱根駅伝でTVに毎年ちらり登場。なお、山崎発電所はこの地下に本体の発電所があり、地上部は変電設備があるようだ。







12月20日 怪しいハイテク:あれもこれも命尽きる
 プリンター、携帯電話機、PCと次々に取り替えろとのサインが来る。使う本人を取り換えるのがいちばんの早道かもなあ。

●伊達の眼鏡ブログ新記事掲載

12月21日 横浜北仲あたり風景変容
いやはや、この5~6年で空の見え方が、こんなにも大きく変ったもんだあ~




12月23日 【言葉の酔時記:あんか】
 歳とると身体発熱量が減少して寝具が冷える。そうだ、安価な「あんか」を買うか。
 ヨドバシだったかビックだったかの電器店にて、可愛らしい店員に聞く。
「あんかはどこにありますか」
「はい?、なんでしょうか」
「あんかですけど」
「ここは暖房器具売場ですけど、」
「だから、あんかですが、え、 ご存じない?」
「はい」
「ほら、これくらい小さくて平べったくて蒲団に入れて暖かくするの」
「え~と、こたつはここに、ストーブはあちらですけど」
「ありゃ、ストーブを蒲団にいれるかなあ、困ったな」
「聞いてきますのでお待ちください」
(電器屋が知らないとは、今じゃあカタカナでエレクトロホットペットとか言うのか、いや、あんかは絶滅したか、いや、あんかは方言なのか、不安になってきた)
「ありました、この電気あんかですね」
「だからあんかでショ、ほらここにあんかと書いてある、ご存じなかった?、面白いなあ」
「はい」
 なんだかホッとした。でも思ったほど安価じゃなかったので買わず。
(2019/12/28追記)文字通り安価なあんかを見つけた。今夜から温かいぞ、それにしても生れて初めてのあんか、オレも歳とったものだ。

12月24日 伊達の眼鏡ブログ:常陸坊海尊劇評
 神奈川芸術劇場(KAAT)にて、現代演劇「常陸坊海尊」を観た(2019年12月6日)。秋元松代作、長塚圭史演出、白石加代子主演。
 能楽をちょくちょく観るほかは、舞台劇を観るのはオペラと歌舞伎がごくたまにあるくらいで、とくに現代劇というか新劇の舞台を見ることはめったにない。
 それなのに観たのは、いつだったか昔にこの演劇の評判を高く聴いていた記憶、そして趣味の能楽鑑賞の延長上で観ようと思ったからである。
能楽鑑賞の眼で演劇常陸坊海尊を見る


12月27日 言葉の酔時記・今年のトレンド
 それにしてもトレンド大賞の「平成最後の日」って、そんなに評判になったのかい?、世の中なにも変らず単に元号が変っただけじゃん、世間はいったい何に乗せられてるんだろうか。そのカラ騒ぎがあったらしいことを知っていても、その関連ニュースに全く興味なかった。
 その改元の話題に関連して、今年の5月に親しい仲間内の会誌に書いた、言いたい放題エッセイの一部を載せておく。
伊達の眼鏡ブログ新記事:

12月30日オリンピックバカ騒ぎ悪口納め
新国立競技場がようやく完成したらしい。あのバカ騒ぎは何だったのか、懐かしさを感じて、年の瀬の悪口雑言イチャモン納め。
【伊達の眼鏡ブログ新掲載記事】

12月31日紅白歌合戦とは懐かしや

 TVを全く見ないが今も「紅白歌合戦」とは懐かしい。むかしTVを観てた頃もこの番組を見たことはないが、いったいつごろ始ったなかなあ、男女を「紅白」と分けるのも、「歌合戦」と言うのも、今じゃあ死語にちかくて、ここだけで生きているのかもしれない、いまじゃあ男か女か判別することさえも難しい時代なのよくやってるなあ、あ、もしかしてもう男女に分けずに混合して、単に赤白組み分けかもなあ。
【伊達の眼鏡ブログ新記事】

12月31日大晦日の来客
大掃除しているフリで机まわりを整理、油蝉のミイラを窓辺のプリンタの陰に発見、摘みあげればハラハラと翅が解かれる、夏の日の広い空を翔んで林に消えればいいのに、こんな空中陋屋の器械に身を潜めて逝くとは、お前はもしかしてこのオレか。

2019/12/31

1435【紅白歌合戦】男女の分別が難しいこの時代になってもまだやっているとは懐かしや

 TVをまったく見ないから、世間のことは新聞とネットで知る。当然のことに世間知からどんどん遅れるが、それがどうした、。
 今日は大晦日、例年の如く年末の新聞となると、どこのページも今年の回顧雉だらけ、いいかげんにせえよ。読むところないけど、現段階の自分の世間知レベル記録のために、今日大晦日の新聞広告にケチをつけておく。

 なんだこの広告は、同じ顔の若い女性たちが並んでいるけど、はは~ん、これはひとりの女性を何度も撮影して、デジタル加工して一枚にしたんだね、いや、そうでもないか、それぞれ別人かもなあ、それにしても同じ顔の人をよく集めたもんだね、何の宣伝広告か分らないけど、近ごろは個性を発揮することは好まれないのかしらねえ、同じ顔、同じ髪型、同じ化粧、同じ服って、はずかしいよなあ、まあ、なんでもいいや。

 小さな字の解説を読んだら、どうやら「日向坂46」(ひうがざか?ひなたざか?ヨンジュウロク?シジュウロク?フォティシクス?)というグループで、今夜のNHK紅白歌合戦出演の宣伝らしい、ふ~ん、数を揃えりゃ何とかなるさってことか、まあ、どうでもいいけど。

 そういえば、「紅白歌合戦」とは懐かしい。むかし昔にTVを観てた頃もこの番組を見たことはないが、いったいつごろ始ったなかなあ、男女を「紅白」と分けるのも、「歌合戦」と言うのも、今じゃあ死語にちかくて、ここだけで生きているのかもしれない、いまじゃあ男か女か判別することさえも難しい時代なのよくやってるなあ、あ、もしかしてもう男女に分けずに混合して、単に赤白組み分けかもなあ。

 なんて思いながらページめくると、その歌合戦の出演者一覧表83人(組)が乗っているのだが、ほとんどが見たことも聴いたこともない歌手ばかり。なるほど歌手名を見たただけでは男女区別は不可能だ。
 実はその知らない中で、歌手名と曲名の両方を挙げることができるのがたったひとり、「石川さゆり:津軽海峡冬景色」、もともと日本歌謡にまったく興味ないわたしでも(ほんの一部でも)知るほどの有名な歌であったのか。

 もうひとり紅組最後出演の「MISIA」、話声も歌声も知っている唯一のわが耳の現役歌手である、実は夜遅く寝入りばなに聴くNHKFMにしょっちゅう登場する人で、お顔を知らないが声だけ知っている、あ、そうだ、今晩はお顔を観てみるか、もっとも、わたしがラジヲで聞く「ミイシャ」なるお人と同じかどうかわからないが。

 男組の最後登場に「嵐」という芸名があり、いつだったかやはり新聞広告でグループ写真を見たことがあるが、冒頭の女性グループと同じで、よく似た男をおおぜい集めたもんだと思った。今の芸能界は個性を求める時代ではないらしい。
 
 出演者一覧を見ると、ローマ字記載の芸名が多くいて、そのどれもが英語風であるのが、なんとも興味深い。戦後の日本の歌謡界はアメリカンポップスのマネゴトから始まったが、今もそうなんだろうか。
 もうそろそろハングル文字とかチャイナ簡体字の芸名が出てもよさそうな時代と思うのだが、歌謡界はそうでもないのか。

 さて、明日は2020年元日、新聞は例年のごとくにぶ厚い紙屑の束がドサッとやって来るだろう。広告だらけ、記事はあっても内容がまったく無くて、TVを観る気がしないのと同じで、ほとんど読むところがない、
 あれってなんとかならないものかしら、毎年いい加減にしろよっと言っているのだが、あんな紙屑は要らないから、その分を新聞代を安くしろよ、でなきゃ、新聞休み中3が日かかって読む分量の、小説本1~2冊分を載せろよ。(2019年12月大晦日)

   (追記20200101)結局は大晦日に紅白歌合戦を見なかった。元日の新聞は毎年恒例の紙屑の束が来たが、唯一の面白い記事は、15億円の費用をかけて2019年最後を飾るカルロス・ゴーン日本脱出大冒険ニュース、すごいなあ、ghosn has gone!、これで助かってるのは、ケチくさい博打場開設汚職の国会議員だね。

2019/12/28

1434【年忘れ雑言】男女両性原理表現が真正面衝突した国立競技場騒ぎも今となれば懐かしや

 年の暮になると、世間ではこの1年を振り返る。わたしは振り返るべきことがなにもないから、春頃に仲間内の会誌に書いていた悪口雑文を引っ張り出しておこう。
 おりしも神宮外苑隣の国立競技場の建て替えが終って新建築が登場したので、その祝賀の意味も含めて、これを載せておこう。
 元原稿のタイトルは「老いのクリゴト酔いのクダマキ」であるから、そんな口調になっている。

●どろり生ガキ女に大あぐら男が襲われた国立競技場騒ぎ
 無駄なカネって言えば、2020年開催のオリンピックとかいう世界運動会もヒドイねえ、わたしはああいう見るスポーツを大嫌い、世界運動会には全く興味ないけど、それに関連して起きるゴタゴタ騒ぎには野次馬興味、なかでも2015年に起きた例の新国立競技場騒動、これは実に面白い暇つぶしになった、
現在は明治神宮外苑の隣りに巨大な洗濯盥か寿司桶みたいな新競技場が姿を現しつつあるらしいが、あれって本当は全然違う形で建つはずだったんだよ、思い出すとあれは実にヘンな事件だった、2012年に国際デザインコンペで女流建築家ザハ・ハディドが堂々の一等賞、そのデザインは時代の最先端を行く建築だったのを、運動会ボス森喜郎ってわたしと同年ジジイが、「どろり生ガキみたいでいやだ」と言ったけど、ホントはオマ■コみたいと言いたかったはず、生ガキが聞いたら怒るよ、庶民も大好きなオリンピック物件だけに、神宮外苑に似合わないとか、ガラが大きすぎるとか、公園を潰してケシカランとか、あれこれ四面楚歌のうちに、工事費を計算したら膨大過ぎると分って、そうなるとドロリ××デザインのことをすっかり忘れて、もっぱらカネメばかりで悪口雑言、マスメディアもデザイン論より分りやすいから煽り立て、一方では実施設計まで終っていて既にかかったカネが60億円、あとは工事費調達だけになっていた2015年、どういうわけか一競技場ごときに時の総理大臣がシャシャリでて、60億円捨てて白紙やり直し命令、オジャ~ン、国内設計施工コンペやったけど、あれって業界では大成建設物件とお決まりで、実は一部工事に着手していて、出直しコンペもやっぱり大成組一等賞、騒ぎに懲りてデザインじゃなくて早い工期と安いカネメで決めたのが今の寿司桶競技場、なんとも発展途上の開発独裁国みたいで国際的大恥かいちゃった。実はこれには東京都市再開発奇々怪々利権が潜んでいて、オリンピック後に世間が知るその話はまた別のときに。
白紙出直しコンペ当選は早い安いマズイ案
どろり生ガキ露骨な女性原理表現のザハ・ハディド当選案


大あぐら露骨な男性原理表現の神宮絵画館
  
 わたしはザハ・ハディド案で建てばいいなあと期待していた、その建つ位置がなんと明治神宮外苑聖徳絵画館という外苑心臓部の隣なんだからすごい、その姿と言ったら、石造どっしり大胡坐の真ん中に四角な包茎に●頭を覗かせた男性原理も露わな太く短いチン■コ建築だよ、その隣に曲面うねり流れパックリ割れて女性原理も露わなドロリ生ガキ建築だよ、見ようによっては絶好のコンビだけど、実は女が巨大すぎて男が呑まれそう、これでは保守派にとっては明治王権を汚す不埒不届不敬者だと言いたかろう、だってそもそも明治神宮ってのは、明治政府が新統治体制のために京の都から拉致してきた貴族トップ雲上人を、近代統治機構のカリスマ王権に改造育て上げたけれどのに、その死後の後継者が脳の病でカリスマ性皆無、困った政府は死せるカリスマを神に祀るべしとて全国総動員体制で造営したのだからね、その内苑は日本的に森の奥深く隠れる宮とし、外苑は西欧的に視覚に訴える権威的表現とし、合せて王権カリスマ賛美装置、外苑銀杏並木の透視景観の焦点に男性原理建築の明治大帝聖徳記念絵画館、並べて建てようとしたのが女性原理建築の新国立競技場、完成したら明治王権呪縛景観をザハ・ハディド流テロ爆弾で文明批評建築になり得ただろうに、惜しかったなあ、惜しかったと言えば騒動最中にザハ・ハディド急死、世界の建築界に新デザイン潮流を巻き起こしたバグダッド出身の天才建築家は、日本のドタバタ騒ぎで魔女殺しに遭ったのかも。 

 ことのついでに言うけど、カネがかかると言えば、なんと言っても原子力発電所が王者ですね、わたしはどうもこの原子力って言葉がうさん臭くて、ホントは核力でショ、原子力発電技術って核兵器開発と隣合わせなので、わざと言い換えているのかなあ、水力やら火力とおなじように核力って言いなさいよ、その原発じゃなくて「核発」が津波で大事故の事件、あの福島核発事故処理にかかる費用が2016年経産省試算では核廃炉8兆円、
ヒロシマとフクシマ
核毒被害賠償7・9兆円、核毒除染4兆円、核毒物質中間貯蔵施設1・6兆億円、なんと合計21・5兆円!だそうで、最初の想定が2011年で6兆円だったそうだからものすごい膨れ様で、そんなカネって1万円札でどれくらいの厚さか見当つかないけどもっと膨らむかもしれない、だって今までやったことないことやるんだからね、それでね、もっと驚くのはそれを負担するのは事故責任者じゃなくて日本国に住む者たちってこと、つまりみんなが払う税金と電気代なんだってさ、そうすると廃炉事業費が不足すると政府は税を上げるし、発電屋は電気代を値上げすればいいって、なんとまあ気楽な商売なんでしょね、打出の小槌ってこのことだな、これから福島以外の廃炉がどんどん起きてくると、もうとんでもない費用負担がわたしたち、いやわたしはもうすぐ死ぬ年寄りだから知ったことじゃないけど、次の世代もその次もその次もホントに大変だねえ、これって戦後高度成長時代を築いてきたわたしの世代がバカだったんだ、ほんとにお詫びするしかないですねえ、なのに次世代人がやってる今の政治は今後も核発電所を作り続ける政策だって、どうも分らぬこの世から、もうおさらばしたいものだ。
   (以上は、Q人会誌2019掲載:20190505)

 新国立競技場に関する孤乱夢は、竣工したそれを観てからまた書きたいとも思うが、どうせ分かっていることだからもう見に行かないことにして、その悪口雑言はこれで終わりとする。なお、神宮外苑再開発に関してはまだまだ興味が尽きないので、随時イチャモンを書き続けたい。

新国立競技場や神宮外苑再開発の孤乱夢一覧(まちもり散人筆)
https://datey.blogspot.com/p/866-httpdatey.html

2019/12/27

1433【言葉の酔時記】「つい言ったあ」トレンド大賞2019トップは「平成最後の日」っていったい世間は何に乗せられているのかしら

●20件中知っているのは8件のみの惨敗

 年末になるといつものようにその歳総まくりがいろいろと出るが、この「#つい言ったあ~トレンド大賞2019」ってのは初めて見た。SNSでのヤリトリを分析してランキングしたらしい。
新語流行語大賞と同じく、わたしがこの言葉のいくつを知っているか数えてみたら、20件中たったの8件、つまり4割しかない。TV見ないわたしは世のトレンドの外に住むらしい。

 わたしはTVを観るのはやめたけど、SNS世界では「FAKE BAKA」にも「つい言ったあ」にも「裸淫」にも、アカウントを持ってますからね、もっともそれらの利用頻度は7:2:1くらいの比だけどね。
 これら20件の内でわたしがツイートし、タグ付した記事を追ったのは5位につけている「#台風19」のみであった。

 それにしても「平成最後の日」って、そんなに評判になったのかい?、世の中なにも変らず単に元号が変っただけじゃん、世間はいったい何に乗せられてるんだろうか。そのカラ騒ぎがあったらしいことを知っていても、その関連ニュースに全く興味なかった。
 その改元の話題に関連して、今年の5月に親しい仲間内の会誌に書いた、言いたい放題エッセイの一部を載せておく。

●改元騒動老いのクリゴト酔いのクダマキ

 今年2019年4月と5月、日本全土にカイゲン令布告、どこもかしこも猫も杓子も「屁せえ最後・冷WAR最初」、世の中そろってから騒ぎ、言うにこと欠き「平成は戦争なかった平和な時代」、おいおいそんなバカ賛辞ってはずかしいだろ、え、湾岸戦争、ソマリア内戦、チェチェン紛争、アフガン侵攻、イラク戦争、シリア内戦、クリミア危機にウクライナ東部紛争、どれもこれも平成で1989年以後だよ、しかも湾岸とイラクには事実上の参戦、なに寝ぼけてるのか大間違いだよ、やっぱり元号で考えるから国際感覚全く欠如、米中冷WAR時代開幕だよ、うす気味悪い空気がドヨ~ンと濁る世の中、こうなりゃ憂さ晴らしに繰言寝言戯言小言に妄言、年寄りの大得意をちょいと一席伺いましょう。 

 みんな右向けはい右向きますって、庶民マスコミ嬉々として、ありがたがって押し頂く
なんて、いったいこれはどうしたことか、このグローバル時代と言いながら、日本だけはガラパゴス、いやガラパゴスが聞いたら怒るけど、役所ときたら未だに元号強要、ほんとに困るよ年寄りは、和暦西暦換算するのに「明治+1867、大正+1911、昭和+1925、平成+1988」、これを覚える呪文はこうだ、「メイジイヤダロナ、タイショウヒドクヒドイ、ショウワヒドクニゴル、ヘイセイヒドクハンパ」、これに加えて「レーワジワットイヤ」、こうも長いと呪文記憶できず、暗算しょっちゅう間違える、自分の生れを西暦でしか覚えてないから、せめてこれだけでも使うのをお許し下せえましお代官様なんて哀願もだめ、婚姻届も出生届ももう書けない、しょうがないや離婚再婚子づくり一切あきらめます。

 まったくも~、おれの人生の時間だぞ、それを赤の他人のナルヒト君が、父の商売跡継ぎしたとてあたしにゃ何も関係ない、その後継時間に無理矢理合わせろなんてマッタク理不尽きわまる、あ、そうだ、理不尽と言うならナルヒト君こそ理不尽きわまる運命の人、その一族は基本的人権さえもない法の埒外とて、この現代にそんなこと許すばかりかありがたがるのがホントに不思議、ナルヒト君の細君なんてほんとに気の毒きわまるなあ、きけば君の世襲候補が少なくて、制度の存続が危ういそうだけど、そんなの解決簡単だよ、だって民法埒外だから側室何人でも持てば直ぐに子だくさん、君の曽祖父は側室の子つまり婚外子だよ、江戸時代の大昔のことじゃないよ、君の地位になった人たちの歴代の半分は側室腹だってさ、こんな日本の歴史的伝統を重んじたらどうですか、それにしても、近ごろ代替わりとかで世の中はアキヒトさん賛美空気が濃いなあ、それなのになんで国民栄誉賞を与えないだろ、このまえイチローとかって野球男が退職するとて、政府がホイホイ与えようとして、2度も断られたってドジなこと、アキヒトさんも真似して断ったのかな、またまたドジなこと、でもなあ、どうしてあんなに税金使う特権階級が今の世にあるのかね、1945年敗戦混乱日本占領統治側の誤解的都合と指導層側国体護持論とが便乗野合の結果の制度なんて、もうここまできたら廃止してもいいでしょ、朝鮮の李垠も満州の溥儀も王朝復活しなかったでしょ。

 まあ、なんでもいいけど、元号なんて勘弁してほしいよ、和洋チャンポンやめて西暦統合しろよ、歴史の本だって近世までは西暦なのに、近代以後は和暦ってヘンだと思わないのかい、レイワってサラ金レイクと似てるな、REIWAと書くらしいけど発音だとLEIWAが近いよ、実は「冷WAR」って冷戦時代再来でトランプ対シーチンピンか、そういや冷戦終った30年前に「平成」って発表されたとき、大阪人は「屁せえ、?!、ギャハハッ」爆笑だったらしいよ、だからわたしは次は「ウン成」と思ってたし、それよりもっと良い案も考えていたよ、元号を「西暦」として2019年からカウント開始すれば、ホントの西暦と一致して、和暦西暦換算難問は一挙に解決、もちろん今後は改元しないってね、なんせ「暦」の字を付けた元号はこれまで13回もの歴史先例あって、伝統に則りなんの問題もなし、え、ダメかなあ、じゃあ、そんなに元号を好きなら、首相代替わりごとに改元したらどうだい、安倍元年とかって復古好き宰相向きだろ、一首一元制だな、そうすりゃみんな嫌がって使わなくなるのがわたしの狙い目だよ、とにかく元号強要行政やめろよ、ナルヒト一族や元号好きな臣民庶民だけが勝手に使えばいいんだよ、八つ当たり。

 あ、そうだ、ぐだぐだ書いていて思い出したのは、ひと月ほど前に郵便局で、預金関係書類を出す必要があり、局員の指示に従って用紙に記入、「では住所を書いていただいても、よろしいですか」って言うので、「よろしいかよろしくないか、わたしに質問されても、初めてなので、まったく判断できません」、「あ、書いてください」、書類のその欄の左に「じゅうしょ」とあるから、ひらがなで書いたら、「あ、漢字でお願いします」、用紙を替えて書きなしたら、「ではお名前をお願いします」、用紙欄の左には「なまえ」と印刷してあり、念のために「ひらがなで書くのですね」と聞けば、「いえ、漢字でお願いします。用紙は読み方だけです」って、え、読み方って言っても、どこにも「住所」「名前」の漢字を書いてないぞ、あ、これって園児学童向け用紙か、おれは小学生か、次は生年月日でチェック欄に明、大、昭、平だけなので、チェック入れずに西暦で書いたら「西暦ダメなんです」、「なんでだよ~」、また紙を替えて一から書き直し、トホホ、で次は、「ここにハンコを押していただいても、よろしいですか」、だからさあ、よろしいかよろしくないか、おれに訊いても分らんと最初に言っただろ、てなことで面倒な年寄りと思われつつ書類提出完了、でもなあ、今ごろは新元号を5番目チェック欄に印刷した用紙につくり替えたかな、もったいないなあ、郵便局ばかりか日本列島全部の役所で膨大な新用紙印刷、膨大な旧用紙廃棄だろうなあ、膨大な税金を投じてもったいないバカらしい、西暦一本にしときゃいいのに、あ、キリスト暦嫌いって人もいるって、それなら神武暦でもいいよ、え~と西暦+660だから今年は紀元2679年か、それにしてもアキヒト辞職ナルヒト世襲儀式費用もすごいだろうが、官公庁や民間で改元のためにかかる費用はいったいいくらだろうか、100億円?、500億円?、さっぱり分らんけど無駄、紙屋と印刷屋とコンピュータ屋は儲かるかな、また30年ほど先には同じことやる、バカだねえ、そのカネの百万分の1でいいから頂戴な。(「Q人会誌2019」掲載 20190526)

2019/12/23

1432【現代演劇鑑賞】秋元松代作「常陸坊海尊」の演劇公演を観たが脳内で夢幻能に再構成してやっと理解できた


●演劇「常陸坊海尊」の時代と風土


 神奈川芸術劇場(KAAT)にて、現代演劇「常陸坊海尊」を観た(2019年12月6日)。秋元松代作、長塚圭史演出、白石加代子主演。
 能楽をちょくちょく観るほかは、舞台劇を観るのはオペラと歌舞伎がごくたまにあるくらいで、とくに現代劇というか新劇の舞台を見ることはめったにない。
 はて、この前に見たのはいつどこでだったか。新宿紀伊国屋ホールで「父と暮らせば」(井上ひさし作)という分りやすい演劇を観たのはもう10年も前だったろうか。
 大昔に渋谷のパルコ劇場で「砂の女」(安倍公房作)を観て、なんだかわからないが面白かった記憶がある。

 「常陸坊海尊」の舞台の時代設定は、第1と第2幕が1944年~5年、つまり戦争が過酷になり終った時であり、第3幕が1961年、つまり戦後復興から高度成長へと踏み出した時である。1945年前後は戦争疎開の小学生の少年の眼から、1961年はその16年後のその少年たち眼から見る地域社会である。
 秋元松代がこれを書き下ろしたのは1964年だそうであるから、その時代の空気の中で構想したことになる。

 この演劇を観るわたしは、1945年は8歳で山陽の小さな盆地の小学生、1961年は大学を卒業して社会に出た年だから、1911年生れの秋元はわたしの父母の世代だが、舞台登場の少年たちとわたしはほぼ同じ世代として、それなりに時代の空気を分る。
 だが舞台の空気は、東北の小さな町であるから、言葉も風土も私の育った山陽のそれとは大きく違うのが、理解を難しくする。しかし、地の風土よりも社会の動きから見るとよく分るのである。

 演劇の舞台の東北の風土をほとんど知らない、演劇の底流を流れる常陸坊海尊伝説も知らない、演劇を通して語る津軽弁の科白を聞き取りにくい、なによりもこのような純粋な演劇を観ることはめったにない。
 それなのに観たのは、いつだったか昔にこの演劇の評判を高く聴いていた記憶、そして趣味の能楽鑑賞の延長上で観ようと思ったからである。
 実は見てもその場ではよく理解できなかったのだが、あとでじわじわと分ってきたので、ここに自己流演劇評を書いておく。

●第1幕、第2幕1944~45年

 第1幕と第2幕の舞台は、東北津軽の田舎町の温泉旅館とその山奥の家、登場人物は東京から戦争による学童疎開の少年たちと引率の教師、地元側はイタコのオババとその孫娘の雪乃、住民たちである。
 疎開児童たちは戦災で東京の家族も家も失って、終戦になっても戻るところがない。その現実を受け入れできない少年は、疎開先の旅館から山奥のオババと雪乃の家に逃げ出す。

 オババの家には常陸坊海尊のミイラがあり、オババはその海尊の妻であり、夫をミイラにしたのだと言う。ミイラを見せてイタコ口寄せ、そして時には身を売って、孫娘と生きて来たらしい。その孫の親のことは何も語らない。
 オババは母を恋しがる少年に、イタコの口寄せで少年の母親を呼び出してみせる。少年は美少女の雪乃に惹かれている。
 時にはどこからか時と空間を越えて海尊が舞台に登場して、琵琶に載せてその裏切り物語を詠い、ストーリーの背景に裏切りと悔悟の海尊伝説があることに気がつくのだ。

 疎開して戦災の逃れた少年たちには、戦争に勝つと教えられた大人には裏切られ、まさに時代に裏切られたのである。そのいっぽう、少年たちは死んだ親や家族を裏切って生き残り、逃げたとする悔悟があり、世の中に超然とする土俗きわまるオババの世界に逃避する。
 これらの裏切りと裏切られは、まさに土俗的海尊伝説の世界の現代表現になるのである。海尊は義経を頂いて鎌倉や京都の中心世界から裏切られて逃走、身を寄せた平泉の藤原氏にも裏切られて襲われ、それを更に主の義経を裏切って逃亡する。
 京や鎌倉と平泉、東京と津軽の田舎町、田舎町とその山奥の家、これらのいくつもの同心円的な中心と周縁の裏切りや逃避が、舞台でも重なっていく。

 実はわたしは中国山地の盆地の神社に生まれ育ち、この演劇舞台と同じ1945年にはその神社には疎開学級の児童が暮していた。その兵庫県芦屋市の国民學校6年生20名は、わたしよりも4歳ほど年上のほぼ同世代である。
 その児童たちも疎開中に芦屋の街が空襲に遭って、親を失った子たちもいたのだから、舞台の温泉旅館に疎開していた学童たちと思いは同じだっただろうか。
 そんな少女の心を、その頃の幼いわたしは知る由もなかったが、暗い神社の森の中から明るい都会に逃げ出したかったことだろう。今のわたしには、少年がいくつか年上の美少女雪乃に焦がれ逃避したかった気持ちもわかる。

 戦争が終わると、疎開児童引率の教師は東京に逃げ出して消息不明、戻ることころのない少年たちは、地元のあちこちの家にもらわれるのだが、この劇の主人公の啓太少年は、オババ、雪之と共にどこかに逃走雲隠れする。
 それは少年の仲間への裏切りであり、裏切られた社会からの逃避であり、一方、戦争に右往左往する中心から超然としていた周縁のオババの土俗世界があり、オババによる海尊の血の系譜継続の陰謀と表裏をなしていた。

●第3幕1961年

 第1幕から16年後、舞台の場所は移って津軽のどこかの海に近い街の岬にある神社の境内。
 舞台には鳥居、拝殿、本殿が建つのだが、そのシルエットは立派な神社建築を見せているのに、わざとペラペラの書割りであることを誇示しているのが、カリカチュア的である。
 温泉町を逃げ出したオババ、雪乃、啓太3人のその後がこの神社にある。
第3幕の神社の舞台装置は書割の
骨組みさえ見えているペレペラ感


 公演を思い返すと舞台装置に限らず、この幕はすべてがカリカチュア的であった。登場人物の有様はいずれもファナティック、エキセントリックなのである。
 第1幕と第2幕では土俗な世界であっても、それなりにリアルな風景であり人物像であったのと比べて、あまりに対照的である。

 疎開児童だった啓太は、神社境内の掃除をするような下働きになっている。オババの孫娘の雪乃は、美少女から成長して妖艶な巫女となり、神社を事実上支配しているようである。
 オババは今はミイラとなり、第1幕の山中のあばら家にあった海尊のミイラはここの移り、それら2体の神社秘宝であるらしい。その秘宝の公開でもって神社は町の観光名所になっており、東京から観光団体がやって来る。
 東京に戻った疎開児童の豊が、啓太を探して来訪して二人は再会、その会話で今の状況が露わになってくる。

 雪乃は啓太の子を産んで、海尊の血をつなげたいとしたオババの陰謀の通りになっている。だが啓太と雪乃は夫婦ではなく、その関係は女王と奴隷の間柄の様だ。腑抜けになって雪乃にまとわりつく啓太は、今も逃避を続けている。
 雪乃はオババの構想を見事に現実化して、あの山中からこの由緒ある神社に海尊のミイラを移動して安置し、それにオババのミイラも並べて、自信満々の若オババの様である。どうやら奔放な性的行いもうかがえるのは、オババと同様である。

 オババの頃のあの土俗きわまる山奥から、ここ観光名所として大きな神社に移り変り、社殿は立派らしいが妙に軽やかに存在している。
 1960年安保闘争から1964年東京オリンピックへと喧騒な中央の空気の一部が、津軽の最果ての地にも片鱗を見せて、団体観光客が一様な姿でお仕着せツアーにやって来る。
 日本のマスツーリズムは1960年代に始まり、70年代からはノーキョーと言われる海外旅行ブームになるのだが、まさにこの舞台に登場するのはそのような始まりのころの旅行客である。土俗世界も変容する。

 だが、登場人物たちの奇矯さはどうだ。妖艶にして驕慢なる支配者然とふるまう雪乃、その雪乃に下男扱いされて悄然と従うばかりの啓太、宮司補の海を渡って大陸への逃避行の奇矯さ、東京から再訪した豊もまた雪乃に翻弄され、団体観光客の一様なる腑抜けさ、どれもこれもエキセントリックであり、カリカチュアでさえある。

 この演出はいったい何なのか。
 しかも最後の最後に、啓太は突然現れた常陸坊海尊に、おまえも今や第4の常陸坊海尊になったのだと告げられて、その魂を救われてエンディングとなる。これはなんだ。

●この演劇は夢幻能だ

 わたしはここで突然に気がついたのは、この演出はどうやら能に寄っているらしい、ということだ。この最後の突然の主人公の魂の救いは、能の得意とする納め方である。
 死んでも悩み苦しむ主人公を、ワキの僧が祈って成仏させて終る能が、有名な能で例えば「砧」「清経」「藤戸」等いくつかあり、エンディングパターンのひとつである。
 信仰心の無いわたしには、いかにも不自然な終わり方といつも思うのだが、この啓太への救いはまさにそれである。
 
 だが、啓太にとってそれがなぜ救いであるのか。家族が全員戦災死したのに、自分は生き残ったという罪に意識にさいなまれる状況からの救いは、その記憶から逃げるのではなくて、それを積極的に語って後世に伝えることである。それが裏切り者の常陸坊海尊が時を越えて語ってきた生き方である。
 秋元は知らないが、2011年3月11日の大津波による生き死にの別れにおいて起きたことと同様だろう。生き残った者は語ることでしか自分を癒すことはできないのだ。

 そう気がつくと、この演劇「常陸坊海尊」は、じつは能の「夢幻能」の構成を採っていると思えてきた。前場は第1幕と第2幕、後場は第3幕である。
 全体を通して登場するのは常陸坊海尊であり、能に登場する一所不住の僧どころか、時代さえも漂流する一時不住の僧だから、海尊がワキである。
 啓太はワキツレにしよう。前シテはオババ、後シテは雪乃である。

 だが夢幻能とするならば、前場は現在であり、後場は過去であるのが原則であるが、この演劇では前後が時間経過の順序になっているから、これは「現在能」の構成である。
 だが、考えてみると、後場を未来とする夢幻能もあって良いだろうと、新案を思いついたのだ。能にその実例はないが、あってもよいだろう。
 後場を、未来の夢の世界とすれば、そのエキセントリシティとカリカチュアを納得できる。なにしろ夢なのだから。
 では誰の夢なのかといえば、能の基本ではワキの見る夢であるが、ここではむしろオババの見る夢をワキが見させられたとしよう。

 この演劇を能の影響下にあるとみるのは、あながち的外れではないようにも思う。それは第3幕に能そのものがナマで登場するからである。宮司補が突然に謡い舞うのは、義経物の能「屋島」の一部である。
 秋元は能を意識してこれを書いたことは間違いないが、常陸坊海尊はそこには出てこない。

 人物のエキセントリシティを能で解釈すれば、多くの枝葉を切り捨てて抽象化の結果表現であるともいえる。
 またカリカチュアライズは、秋元松代はオリンピックのカラ騒ぎの中でこれを書き、高度成長初期の高揚のむなしさを撃ったのであろう。
 だが前半には、戦争のむなしさを撃つ何かが見えなかったのは何故だろうか。戦意高揚教育をしながら敗戦と共に逃げ出した教師だけに、それを負わせるはちょっと軽いと思う。


 ところで、能楽に常陸坊海尊が登場するかと調べてみたのだが、「義経物」と言われる能は33演目もあるとされ、わたしが見たことがあるのはその内の7演目である。
 それらの内で義経と共に登場する家来は、武蔵坊弁慶の場合がだんぜん多いが、ほかに家来を大勢(11人)連れて登場する演目は「安宅」と「接待」である。
 そこにはとうぜんに常陸坊海尊もいるはずと能謡本を読んだら、「安宅」にだけ「常陸坊」とのみ記してある。その他大勢のひとりの扱いである。
秋元松代「かさぶた式部考 常陸坊海尊」
河出書房新者1982年

 わけのわからない演劇を、こうやって自分流にようやく読み解いたら、観劇から18日も経っているのであった。能よりも見方が難しい。
 この間に秋元松代著「かさぶた式部考 常陸坊海尊」(1982年河出書房新社刊)を数回読み返しもした。舞台を聞いてもよく分らない津軽弁を本で解読した。
 考えようによっては、観劇料金5500円をしっかり取り戻したかもしれない。(2019/12/23)

2019/12/21

1431【怪しいハイテク】携帯電話機もプリンターもPCも雁首並べて取替え要求とは??

 電話機屋から郵便が来た。10年間使った携帯電話機を、「修理受付終了」、「スマートフォンに取り替えろ」、「代金は1万円~2万円off」なんて、一方的に勝手なことを通知してきやがって、プンプン。


 バカヤロ、そっちの勝手で受付終了するんだから、新しい携帯電話機をタダで寄越すのが礼儀ってもんだろ、高い機種の高い通信費に変えさせようって、こんなことを公正取引委員会とか消費者庁は、黙っていていいのかい?
 スマートフォンなんていらないんだよ、単なる携帯電話機でいいのだよ、それで10年間通用してきたんだから、ネットつながりはノートPCタブレットで十分なんだよ。

 ところがそんなところに、こんどは、そのノートPCのWIN7が、来月14日にサポート終了と告げてきた。
 7年使ったウチの7を、10にヴァージョン変更できるんだろうか、これまた3台目のPCを買うべきだろうか、バカバカしいなあ、棄てるにカネかかるし、ごみ増やしてもなあ、、、。

 実は今月初めにはプリンターが、もうすぐ廃インク一杯になって、動かなくなるぞって警告してきた。
 その修理代金12000円と言うから、1万円以下で新品を買うかと思案中だが、そうするとウチに3台もプリンタがあることになり、この無駄の解決方法は高くても修理するかなあ。
 なんだよお、泣き面をハチが3匹も襲ってきたあ~。

2019年末におけるわたしのハイテク機器集合記念撮影
このうちプリンタふたつとももうすぐダウン警告来襲中
ノートPCはWIN7メンテナンス放棄の警告来襲中
このうち3つはスマートフォンにできるなあ

 それにしても、この2019年の終り近くになって、ウチの最新兵器がどんどん最古兵器に変身を告げてくる、いったいなにごとが起きてるんだろ?。
 こうなったらこの次はたぶん、「あなたの身体は、修理受付終了となります。スマートボディへのお取替えを、ご検討下さい」との通知が、docokaから来る違いない。
 そうなれば故障ヨイヨイボディには、携帯電話機もPCも不要だよな、うん、これが解決の一番の近道かな。