2020/02/24

1445【新型肺炎覇権競争】コロナちゃんの故郷は武漢と聞いて戦争を思い出す人はもういないのかしら

 ついこの間までは「新型コロナヴィールス感染症」といってたのが、いまでは「新型肺炎」というし、世間じゃあ「コロナ病」とか「武漢病」とか言うし、なんにしてもてんやわんやの騒ぎ。
 コロナってなんだ可愛らしいねえ、「コロナちゃん」と言おうか思っていたところへ、WHOが「COVID19」と名付けたと言うので仰天、なんと「コビトのコロナちゃん19歳」かい。

●豪華船は過密スラムか

 今や地球上のあちこちで次々と発病、病気もグローバル時代でしかも伝染速度が速い。発信(発菌か)元が中華人民共和国(中国)らしいが、かつて日本人が団体旅行で世界各地にでかけたようなことが、いまの中国人にブームなんだろう。
 日本は観光立国といって、外国人旅行者受け入れに躍起になってきているが、同時にコロナインバウンドリスク状態になっているのだ。どでかい船で病原菌を運ぶばかりか集中的に感染者を生産してしまった。

 それにしてもあの船(ダイアモンドプリンセス)には驚いた。しかも私の家から4キロ
横浜港のダイアモンドプリンセス 20200212撮影
ほどの島に居座っているのだ。
 船旅行なんて、わたしは金はないし閉所恐怖症だから、まったく興味なかった。それが今回の件で船の中がどうなっているのか知って、これは過密居住スラム街だなと思った。
 あんなところに4000人近くの大勢が、ぎちぎちに住んでいるのだ。町のスラム街との違いは、住んでいる人が船では金持ち、街では貧乏人という点だけらしい。スラム街で病気が蔓延するのはよく知られていることであり、豪華客船というスラムも同様であった。

●武漢と聞いて戦争を連想するか
 
 今のところ中国での感染者が群を抜いて多いのは、配信元の武漢があるからだが、なんとなく新興国の覇権ぶりを見せている。
 中国に負けるのが嫌だけど、もうとても追いつけない日本は、それでも第2位を行く感染覇権ぶりである。もっともミニ武漢船のおかげだから、威張れないけどね。
 さらにそれに続くのは、何事につけても日本に追いつけ追い越せの大韓民国であるのは、この場合も同様らしい(2020/02/24現在感染者数:中77000人、日855人、韓833人)。さすがに中日韓アジア3大国の威厳?を保っている。

1938年10月27日朝日新聞
   このところ武漢という都市名が、毎日のニュースに必ず登場するのだが、この都市はこの事件まで一般に知られていたのだろうか。
 私が武漢と聞いて最初に頭に浮かんだのは、かつて日中戦争における有名な戦場となった地名「武漢三鎮」だった。今は武漢市となっている漢口、漢陽、武昌の三つの町のことである。
 1938年に日本軍は50万人以上の兵でここを攻め落とし、日中双方に数万人の死者を出した「武漢作戦」は、日本政府はこれで日中戦争が終わるとみていたが、中国軍はさらに反撃と抵抗を続けて、日本はずるずると沼戦争に引き込まれたのであった。

 わたしにとっての武漢は、そのようなイメージだったから、これは蒋介石の亡霊の復讐かな、かつて日本軍に土足で踏み込まれ荒らされた武漢、こんどは武漢から送り込んだ病原菌で日本を荒らすのか、なんてつい思ったのだ。
 もちろん冗談だが、武漢に日本が侵攻した歴史を誰も思い出すことはないのかと、ちょっと気になっているのである。
 なお、武漢作戦は父の時代の戦争だから、わたしは直接は知らない。しかし、亡父の3度の兵役時記録の整理(「父の15年戦争」)のときと、中越震災復興支援で出会った村の長老から戦争聞き書き(「大橋正平さんの戦場」)をしたときに、日本の戦争を幾分か調べたから、武漢作戦のこともそこで知った。

●身近なコロナちゃんインフル君 

 第1次大戦のときに、スペイン風邪という感染症が世界に流行し、大勢の死者が出た。このときはその流行の源泉はアメリカ合州国(アメリカ)であり、これが世界に流行したのはヨーロッパ戦線に投入されたアメリカ軍兵士に感染者がいたからだったそうだ。
 さて、今も戦争はなくなっていないし、アメリカ軍兵士は世界の国々に出かけている。そしていま、アメリカではインフルエンザが猛威を振るっていて、ものすごい数の感染者と死者がでているが、新型肺炎流行の陰でニュースから漏れているらしい。
 わたしの住む横浜では、港には遭難ダイアモンドプリンセスがいるし、隣にはアメリカ軍横須賀基地があるし、手近なところにコロナでもインフルでもそろっている。

 先日、ダイアモンドプリンセスから釈放された人々大勢が、横浜駅から電車で帰宅したらしいが、その帰宅者から感染者発見とのニュースが出てきたから、もしかしたらうちのあたりにもコロナちゃんが、故郷の武漢に戻りたいなあと遊んでいるかもしれない。
太陽コロナ    黴菌コロナ
そんな日々なのだが、つい先日、東京の新橋まで電車往復、しかも新橋駅前の居酒屋で夕方から4時間ほどを友人と飲み会、口角飛沫飛ばして飲み話し、周りには不特定多数の客が入れ代わり立ち代わりしていて、これっていわゆる濃厚接触っていうやつか。
 それでもまだ咳なし熱なしであるのは、これは口の周りから体内にかけてアルコール消毒を同時進行していたからに違いない。

参照【コロナショック】コロナ船が近隣に来訪中で早期治癒解放を願うだけのわたしは閉所恐怖症


2020/02/11

1444【コロナショック】コロナ船が近隣に来訪中で早期治癒解放を願うだけのわたしは閉所恐怖症

ダイアモンドプリンセスという名の大型客船が、新型コロナウィルスという病原菌に襲われて横浜港で立ち往生している。
 病原菌を外に出さない緊急措置として、港入り口の島にある埠頭に釘付けである。もはや1週間になるが、感染者は日に日に増して今日(2020/02//11)で135人という。
 乗員乗客計3700人もいるそうだが、たったひとりのコロナ感染乗客をもとにして、毎日コロナ保菌者が増え続けている。それらを外の病院に移送して、今は3600人ほどが船内に籠城させられてる状態という。
 
 昨日(2020/01/10)はいつもの横浜ご近所徘徊とて、山下公園に行って山下埠頭を眺めた。そこはただいま汚職事件で話題の場所、IRとか言う賭博場誘致構想のあるところ。ここのことはまた別に書きたい。
横浜市のIR博打場誘致構想がある山下埠頭 2020/01/30

 山下公園の海べりを歩いていて、ふと思った。あのコロナ満載船は、大黒ふ頭に停泊だそうだ。発祥地の中国の武漢は遠いところと思っていたら、なんとまあ、わたしの住まいから5キロ足らずのところに、ミニ武漢が先方から出張してきたのだ。
 ならば、この公園から見えるかもしれないと、ベイブリッジのほうを眺めて目を凝らしたら、居た居た、そうだあの船だよ、去年も見たな。
横浜港のダイヤモンドプリンセスの現在位置、去年11月の位置など
山下公園から見るダイヤモンドプリンセス
上の写真の赤枠部分ダイアモンドプリンセスの望遠拡大
大桟橋から見るダイアモンドプリンセス 普通ならこちらに停泊するはず
上の写真の中央部のダイアモンドプリンセス望遠拡大 橋の下に隠れているか
 実はその船がコロナ船になる前に偶然出くわしたのは、去年11月に横浜新港のハマーヘッド埠頭に停泊しているときだった。
 見たところ、超高層共同住宅がゴロンと寝転んで、海に浮かんでいるようなものである。大きなものだなア、でも建築的デザインは面白くないなあと見たのだった。
3700人も乗っていると今回の騒ぎで知ったが、そうすると千戸以上の共同住宅である。一棟でそれほど大きな共同住宅ビルがあるだろうか。わたしの住む共同住宅の10倍以上だ。しかも国際的な多様な人々が乗っている。
2019年11月に新港ハンマヘッド埠頭に停泊するダイアモンドプリンセス
参照:https://datey.blogspot.com/2019/11/1426.html

さてその船の中ではいったいどんな生活をしているのだろうか、その大コミュニティをどうやって統括し運営してるのだろうか。わたしはTVを見ないが、たぶんいろいろと報道されていることだろう。
 当然のことに海難事故のひとつとして、このようなときにはどうするかマニュアルがあるだろうし、国際的な取り決めがなされていることだろう。
 でも、もしもその船会社の経営が行き詰まったら、どうなるのだろうか。 

 乗客たちの心理はどうなのだろうか。襲ってくる相手が人間に寄生する目に見えない病原菌である。
 当人は知らぬうちに寄生された人間が、病原菌を運ぶのだから、船内のだれもが病原菌被害者であり加害者でありうる。互いに疑心暗鬼になるだろう。
 閉じ込められた密室の見えざる恐怖である。まるでSF世界であり、多分そのような映画が既にあるだろうと思う。

 貧乏なわたしは間違ってもクルーズ船に乗ることはないが、もし乗っていたら、このブログに記事を毎日書き込んでいるだろう。
 そう思って探したら、閉じ込められた部屋の中の日常をつぶやいてるツイッターを見つけた。乗客は日常生活は物理的には良いよううだが、心理的には大変らしい。この人は健康らしいが、持病を持つ人の生活はどうなんだろうか。なんにしてもご無事であることを願っている。

 実は白状すれば、わたしは貧乏だけではなく閉所恐怖症だから、たとえ金持ちだとしてもクルーズ船に乗れないのだ。
 広くても狭くても視覚の範囲で閉じ込められるのが大嫌いである。ここにこう書いていくことさえ気分が悪くなりそうだ。
 あれだけ太い胴体だから、外回りは窓があるが、内部には窓なし部屋がたくさんあるのだろう。もしもわたしが窓のない部屋暮らしとなったら、なにがなんでも逃出したいが、仮病になるしかないかなあ、。

 少年のころの夢で、球の中に閉じ込められて脱出しようと必死であがき、声を上げて目が覚めることが時々あった。恐怖だった。
 生まれ育った地が、小さな盆地で四周を山に囲まれていて、一種の閉所であった。ここから脱出するために空を飛ぶ夢もたびたび見た。大学進学でやっとその夢は実現した。なお、街そのものは人々は親切な美しい古い城下町であり、後年ににその高い価値を知った。

 30年ほど前に究極の閉所恐怖症に襲われた。夏の沖縄の海に遊びにゆき、ある日のことダイビングに誘われた。軽い気持ちでウェットスーツを着て背負ったボンベにつながるマスクをつけて船からドブン、海中に潜った。
 そのとたんに閉所恐怖症が目を覚まし、呼吸できなくなった。そう、このダイビング装置こそ究極の閉所そのものである。慌てて引き揚げてもらって止めたのだが、10分ほどで5万円と高くついた遊びだった。
 なお、閉所は怖いが、高所は平気である。大学時代は山岳部でロッククライミングを大いに楽しんだ。

 コロナ船の話に戻ると、疫学のことは知らないが、一部に感染者がいる大勢のひとびとが高密度で居住していると、どんなに気を付けても感染が起きやすいような気がする。だから、船内で毎日のように感染者が増えているのだろう。
 いっぽう、感染していない人たちを早期に外に出して帰宅させると、感染が分からない潜伏状態だったならば、感染を拡散することになるだろう。う~む、むつかしい。
 今回の「コロナショック」ともいうべき、これほど国際的危機がおきたことを見て、近いうちに細菌テロリストが登場するかもしれない。

(追記20200212:大黒ふ頭まで行って撮ったダイアモンドプリンセス:撮影TD)


2020/02/09

1443【東西覇権争いの渦中に】西からはコロナ満載豪華船 東も負けずにインフル猛威

【遅い寒中見舞い】(同期の友人たちへ)
 皆様お元気に冬をお過ごしと拝察します。わたしもまあまあなんとか過ごしています。
 暖冬だと思ってたら、今頃に寒くなり、急に思い出して寒中見舞いです。

 日本列島はるか西方の中華人民共和国では、新型コロナ感染者は3万4546人、死者722人だそうだ(2020/02/08)。
 ところが日本列島はるか東方のアメリカ合州国では、この冬のインフルエンザ患者数が1900万人、死者数は1万人を超えたそうだ。桁が違いますね。
 東トランプ対西シーチンピン覇権争いは、いまのところ東が圧勝していますが、さて西も負けずに追いつくに違いない。

 その西から攻めくる最前線が私の住むここ横浜、港の埠頭に停泊中する真っ白巨大豪華客船、コロナ満載して3700人が缶詰め中、楽しい海の旅は急に暗転してお気の毒にねえ。
 ビンボーわたしには縁ないクルーズと思ったら、その停泊埠頭からわたしの住まいまでたったの5キロほど、なんとまあ、わたしは新型コロナ最前線にいるのですよ、う~む、「ピンピンコロナ」になるならば、積極的に感染してみたいものです。

 そのうちにアメリカインフル満載豪華客船も来るでしょう。楽しみなことです。
 あ、いや、東西ウィルス直接対決の戦場は、日本列島ってことになるのかしら。太平洋戦争で終わったと思った巨艦主義の時代が、また復活したのかなあ、。

 下の船の写真は、そのコロナ満載でただいま有名なダイアモンドプリンセス号のお尻姿ですが、まだコロナが乗っていない去年11月入港の時に撮りました。

 ではお元気で。草々

 追伸2020/02/10
 コロナ船が近所から見えるので、野次馬で恐縮とは思いつつも、好奇心に負けて望遠で撮ってきましたのでどうぞ。


2020/02/06

1442【国家試験】昔々わたしも建築士と技術士の試験を受けたなア

●一級建築士試験には1回で合格
 Twitterに昨日(2020年2月6日)から、一級建築士試験合格した乾杯とか、また落ちた涙とか、悲喜こもごもtweetだらけ、そうか、今はそのシーズンなのか。
 わたしの時はどうだったか思い出せば、60年代中頃だったかなあ、1回で合格した。卒業後2年の実技経験で受験資格が発生するが、その年に受験するのに気がつかず、次の年の受験した。
 受験の動機は、所属の設計事務所での給与に資格給がつくから、その金を欲しかった。

 今のように学科と製図は別試験ではなくて一体だった。製図は楽だったが、学科には弱った。もう内容を忘れてしまったが、問題は5つから正解を1つを選んで番号に〇をつけるのだった。それがたくさんの問題の飛び飛びに3分の1くらいしか解らない。
 あとを埋めるには、出題者の心理を読んで、同じ番号を続けて解答にしないだろうと、〇の位置をばらまいた。これじゃあとても合格無理と思ったら、意外にも合格だったから、作戦成功。

 給与がちょっぴり上がったが、仕事上では必要なかった。自分の名で建築確認申請書類を出したのは、60年代半ば設計の父の家と、70年代半ばの自宅だけだった。
 必要もないのにその登録番号を第47879号(死ねば泣く)と記憶しているのはどいうわけか。ネットで調べたら現在では373490人登録だそうだ。

●技術士試験には面接で失敗
 そして90年代末からフリーランスの都市計画家になった。一級建築士の資格はあるとしても、都市計画の国家資格が必要になるので、技術士(建設部門 都市及び地方計画)の試験を受けた。
 わたしはもうベテランになっていたから、なんの事前勉強もしなくても合格する自信があった。実はそうではなかったのだが、。

 1次の筆記試験で、あれは夏、青山学院の冷房でない古い教室で、暑かった。前半はらくらくだったが、後半の論文で困った。長い論文を書くのにいつもはワープロのキーボードを打つのに、鉛筆でシコシコと書くものだから、手が痛くなってしまった。
 この1次試験に合格、合格率は1割くらいだった。

 2次試験は面接である。試験官二人よりもわたしのほうが年上である。どちらとも直接面識はなかったが、ひとりは建設省官僚の都市計画課の緑地担当者だった。
 いくつかの質問に、自信もってとうとうと答えた。ところが不合格、これには仰天した。現場主義のわたしの仕事で人と話すのは得意だったし、歳が歳だから専門分野の知識はある。不思議である。いったい何がいけなかったか、一生懸命に考えた。

 当時リゾート法が話題になっており、それについての意見を求められ、自然破壊や地域との軋轢が生まれて大きな問題になるだろうと指摘したのが、建設省の試験官の気に入らなかったのだろうと思いついた。リゾート法はのちにそれで失敗した。
 この面接で落ちるという合格率は1割くらいだったから、わたしは1次も2次も難関を突破したのであった。なんだか馬鹿らしくなった。

●2回目の技術士試験面接合格
 それでもフリーランスとしては資格が必要なので、次の年に2回目に挑んだ。当時はまた最初の1次試験から受ける必要があった。
 この時も1次の筆記試験に合格、さて問題は2次の面接である。今度も不合格ならもうやめると考えた。
 それでもさすがに嫌いな事前勉強をしようと考え、八重洲ブックセンターで2次試験参考書を、立ち読みした。そこに意外なことが書いてあるのを見つけて、昨年の不合格原因が明確に判明した。
 面接試験で技術士の倫理について必ず問われるから、技術士法第44条から46条を答えるべし、と書いてあった。あれ、これ去年聞かれたぞ、技術士法なんて読んでないな。

 確かに去年の面接で聞かれた。だが、わたしは「技術士」ではなくて「技術者」の倫理と聞き、技術者のあるべき倫理や役割などをとうとうと述べたのであった。今どき大臣の国会答弁である。
 試験官は困ったにちがいない。言ってる内容はごもっとも、問うたのはそれではないんだよ、時々こういうのがいるんだよなあ、って嗤いつつね、。

 そうして2回目の面接試験に臨んだ。試験官の一人は、ある委員会で面識のあるT大学のT教授だった。「これは聞かなければならないことですが、、」と前置きを付けて、技術士倫理についてご下問があった。
 待ってましたあ、とうとうと答えた。もちろん今度は合格、立ち読み事前勉強が役に立った。ずっとのちにT教授にこの話をしたが、もちろんご記憶になかった。

●受験勉強や習い事を嫌い
 昔もあったのかもしれないが、これらの国家試験事前受験勉強について、民間の受験スクールが繁盛しているらしい。
 わたしの二つの国家試験は、上に書いた本屋での立ち読みのほかは受験のための勉強を一切しなかった。自信があるのではなくて、国家試験というものはそういうものだと思っていた。それは既にその専門課程の大学を卒業し、一定の力量がある者をその力量に応じて免許を与えるのだから、力量がないのは受験資格がないと思うのだ。

 いまどきは国家試験準備でも趣味の遊び技術体得でも、人様に金を出してナントカ教室に通うのが普通のようである。
 例えばテニス教室なんてのは、私に言わせるとやんちゃらおかしい。あんなのはラケット振り回してれば自然にうまくなるもんだよ。パソコンだってそうだよ、キーボードたたいてりゃ何とかなるもんだよ、わたしのように。 

 わたしはどうも人様から習う勉強を嫌いである。大学までは仕方なかったが、その後に何かを教室で習うことをしたことがない。
 大学入学試験でも、準備の受験勉強するのは邪道だと思ってしなかったら、失敗した。でも大学浪人中は自宅で自主勉強をして次の年に合格した。前年にわたしを落とした大学に腹を立てて別の大学に替えた。思えばこの時のことが教訓になっていなかったから、技術士試験で失敗をしたんだな。

 だがなにごとも例外はある。わたしの人生における唯一の習い事は、能楽の謡を野村四郎師(今では人間国宝)に20年間も個人教授してもらったことである。
 習うのは嫌いでも、大学で教えることはしてきた。しかしデスクワークよりも現場に出ていくことをメインに据えていた。

2020/02/04

1441【国立近美で戦争画鑑賞】あの明るく白い美人画の藤田嗣治が描く暗い汚い戦争画を観た

 
 これは反戦絵画だな!、と思った。藤田嗣治の戦争画を始めて観た。題名は「アッツ島玉砕」、1943年制作。
 国立近代美術館の常設展を久しぶりに見てきた。ここは格好興味ある絵があって好きだ。
 だが藤田のこの絵は初めて観た。同じ部屋にいかにも藤田らしい乳白色の女たちの絵があったから、この一面に暗いヘドロ色の絵が、藤田作品とは思いもよらなかった。
 あ、これが藤田が戦後に戦争協力者と糾弾された原因の絵なのか。

 わたしの藤田に関する知識は概略なもので、戦前にパリで成功した画家であったが、戦中に日本に戻って活躍、戦争画を描いた。しかし、戦後はその戦争画の成功がゆえに画壇から戦争責任を糾弾され、またパリに戻ってそちらで没した。乳白色の女性の絵が有名、この程度である。
 だから藤田が日本を捨てた原因となった戦争画も、あの白い女性の絵の延長ぐらいだろうと思い、ときに見る戦争賛美の絵をイメージしていたから、この汚い暗い絵が藤田作品とは意外だった。

 この抽象画のような暗い暗い色彩、西欧古典絵画のような人物群像、全体のバランスなどを離れて鑑賞して、さすが藤田だなと思った。
 近寄って詳細を観察した。ごちゃごちゃ組み合っている一人一人の人物の描き方を見ると、一応はアメリカ兵と日本兵を、刀と銃、モンゴロイドとコーカソイドの顔、鉄兜のデザインの違いで描き分けているとわかる。
 刀を振り回す日本兵へのほうが優位な状況にあると見えるのだが、実は日本軍は全滅だったから、これが、戦争画である特徴だろうか。

 この巨大な画面の端から端間まで見ていくと、醜悪陰惨きわまる人間殺戮に気分が悪くなってくる。これこそ反戦画ちうものだろう。そうとしか見えない。
 どうして1943年当時に、これが戦意高揚の絵として受け入れられたのか、アッツ島玉砕という悲劇は隠されてはいなかったから不思議である。

 会場でそう思ったのだが、今、ネットで調べると、この絵の展示をはじめは軍部もためらったという。ところが、展示したらこの前で手を合わせ、涙を流して賽銭を供える人たちもいて、にくい敵を倒せとの戦意高揚に役立ち、藤田も大得意であったそうだ。そして戦争協力画家たちのリーダともなったという。
 絵の表現と画家の行動が分離しているが、それが絵画というものだろう。アートは観る人の側にこそあるものだから、時代によって観る人の目も変わるというものだろうか。

 さらに観ていて思ったのは、当然のことに藤田は全滅し占領されたアッツ島に行っていないはずから、想像で描いたのだろう。しかし当時の日本軍とアメリカ軍では武装のレベルが段違いであり、まるで戦国時代のような敵味方が入り混じる白兵戦はあり得なかったろう。
 日本軍は刀を振り回して、やけくそで敵陣に突っ込むのだが、その前にたちまち火器で撃ち倒されてしまったはずだ。現にわたしは悪名高いインパール作戦で生き残った人から直接に、悲惨な戦場体験を聞いたことがある。
 でも、これを見る大衆はそのような現場を知らないから、藤田は大衆がこの絵をどう見るかを読んで創作した。そこが藤田の大衆に好まれる画家としての成功要因だろう。

 この絵は初めのほうの展示室にあったのだが、観ていたら別の展示室でまた藤田の戦争画が登場した。「○○部隊の死闘・ニューギニア戦線 1943年」とある。描き方はアッツ島とまったくと言ってよいほど同じ色彩と構成である。
 この近代美術館も写真OKになっていたから撮ってきたのがこれ、ニューギニアの一部分である。

 現物はもっと暗いのだが、デジタル写真のおかげでこのようにはっきりと観ることができる。もっとも、これが絵画鑑賞として正しいかどうかは別だが。
 この絵のある展示室は戦争画がテーマであり、8点の展示があり、そこには宮本三郎の作品もあった。でも、藤田ほどの迫力ある戦争画はなかった。
 今や戦争画も堂々と展示され、堂々と毀誉褒貶に耐える時代になったのだろうか。それともいまや戦意高揚絵画が免罪される時代なのか。

  1943年といえばわたしの父が、妻との三人の子たちを残して、三度目の戦場へ出かけた年である。その時の母の号泣を、幼児だった私ははっきりと記憶している。戦争画が示しているように、太平洋は奪われて、父が出ていく船がなくなり、敗戦と同時に帰宅した。戦意高揚絵画は庶民には役立たなかった。

 亀倉雄策デザインのポスター「原子エネルギーを平和産業に!」(1990)があった。今やこれも一種の戦争画みたいに見られる時代になった。さてどう見るか。

 国立近代美術館では、企画展のほうはチケット窓口は大行列であったが、常設展はガラガラでゆっくりとみることができた。会場内の座る椅子がさすがに近代美術の名にふさわしく、なにもクレジットはなかったがこれは清家清の「畳ユニット」と剣持勇の「ラタンスツール」である。
 じつは近くの別館である工芸館にも行ったのだが、そこの椅子類も柳宗理や剣持勇などの作品であったので、しっかりと座って休息しつつ作品鑑賞した。

2020/01/31

1440【フェイクバカ2020年1月狐乱夢】寿町、ゴーン、渋谷、震災、入試、バウハウス、コロナV、津波、バカ総理

1月3日【初徘徊は寿町】
 2020新年初徘徊は、その名もめでたい寿町、46年も続く越年炊き出し、そして直ぐ近くの元町と中華街の超賑わい、豊かな日本列島正月風景。

伊達の眼鏡ブログ新記事:横浜関外関内ヨタヨタブラブラ初徘徊

https://datey.blogspot.com/2020/01/1437.html

1月5日【トランプがイラン高官暗殺】
 キリスト教会で殺人を自慢する大統領!、それを神の福音と聞いてか祝福支持する福音派教徒たち!、日本でも中国で似たことやって暴支膺懲なんて日中戦争に、、コワいなあ。



1月5日【元ニッサン会長ゴーン氏日本脱走】
 Ghosn Has Gone  Ghosn With The Wind!


1月9日【渋谷駅ゴチャゴチャ再開発】
 東京の渋谷駅の電車乗換巨大立体迷路、もう何年も行くたびに変化して、よくまあ作るものだとホトホト感心。
 この正月から地下鉄銀座線渋谷駅が、百貨店ビルの中から明治通りの上空に移転、「スクランブルスクエア」なる新築ビルが立体乗り換え通路に整備されたとか。これで立体迷路もついに解消かと思ったら、ますます迷路性充実で混雑混乱ゴッチャゴチャ度は増すばかり。
 ところがこの立体迷路開発者はよく分っていて、新ビル名「Scramble Square」、日本語だと「ゴッチャゴチャの自乗」。
 うまいネーミングだなあ「ゴチャゴチャ×ゴチャゴチャ」とはねえ、そう、建築デザインはゴッチャゴチャ、歩行者動線もゴッチャゴチャだもんね。


1月10日【怪しいハイテク:PC】
今月からWIN7の面倒見をもう止めるぞ、新品PCを買えと、真っ黒粗太から脅迫が来た。アコギなIT屋である。
 フン、それならうちの机上でVUやったろうぜ。で、うちのPC君はなんと開始から約6時間半もかけて、7から10へと3段飛び昇級試験に、見事に合格したのである。
 思えば、わたしが使ったPCのOS歴をたどると、1988年のMacintoshから始めて、windows95、98、ME、CE、XP、7、10とやってきたことになる。まったくよく買い替えさせられたものよ。コンチクショウメ!
●伊達の眼鏡新記事:うちのPCWIN7が3段飛級試験合格WIN10に
https://datey.blogspot.com/2020/01/1438.html


1月11日【渋谷毒虫デザイン再開発】
まだ行ってないけど、無気味で怖くて行く気がしないなあ、毒虫デザイン




1月17日【阪神淡路大震災四半世紀】
今日は1月17日、阪神淡路大震災からもう四半世紀か、3月になってようやく訪れることができた神戸、歩いて歩いて歩いて、その光景を凝視し記録し続けた。写真はその時の数枚。その後も何回も訪れたが、何も支援できず。
 それから9年半後2004年秋に中越大震災発生、今度はNPO仲間と継続的に訪れて、被災山村でささやかながら復興手伝いをした。
 そして2011年春、東日本大震災ではなすすべもなく、ネパールに逃げたが、その4年後ネパール大震災、もう逃げる先はあの世しかない。



1月19日1月【入試落ちた】
 今日の新聞はいやに厚い、見れば共通の大学入試問題が何ページにもわたって載っている、関係ないから無駄、新聞代がもったいない、でも、せっかくだから1問くらいはやってみるか、暇つぶしに。
 で、原民喜をとり上げた国語問題をやって、解答と比べて、ありゃそうなの~?、う~ん、こりゃ落第だ、や~めたっ。
 でもなあ、なんでそれが正解なんだろ、わからん、??、問題作った人の考えを聞いてみたい。

1月22日【バウハウス100年】
 近所の映画館で、「バウハウス100年映画祭」シリーズのC「、『ファグス ― グロピウスと近代建築の胎動』」を見た。https://trenova.jp/bauhaus/ 
 『ミース・オン・シーン』では、実物を見てないが、映画で見たバルセロナパヴィリオンはすごい。これまで実物を観たミースの作品は、シーグラムビル、ベルリン国立美術館・新ギャラリー、IITクラウンホール。
 対する『ファグス ― グロピウスと近代建築の胎動』のファグス工場は、時代相を考えないで観ると駄作だね。まあバウハウス校舎もそうだけど。
 そういえば、私はグロピウスの孫弟子になるのだな、それにしてはグロピウス作品については、ニューヨークでパンナムビルを遠望したくらいなものだから、孫弟子は取り消し。作品がもともと少ないし、建築家よりも教育者だものね。
 「「バウハウス 原形と神話」では、戦間期に大きく輝いたこのバウハウスというアート運動にも、実はナチス協力の陰影もあったらしいことが、、。
・伊達の眼鏡ブログ記事:【バウハウス100年映画祭】ミースとグロピウスそして山口文象たち世代の戦争責任は
https://datey.blogspot.com/2020/01/1439.html


1月24日【新型コロナヴィールス武漢三鎮攻略作戦】
 中国の武漢がいま総攻撃を受けているそうだ。攻撃しているのは新型兵器を持つコロナウィルス軍。
 武漢攻撃と聞けばすぐ連想するは、あの有名な「武漢三鎮攻略作戦」、あの時は日本軍から総攻撃を受けたよなあ、
 え、知らない?、そうかなあ、まあ、昔々の1938年のことだからなあ、もっとも私だって直接は知らないよ、日中戦争を少し勉強したから知っているけどね、このあたりから日中泥沼戦争に入っていった。その泥沼の中に若妻と赤ん坊を残して入っていった父もいた。
 そして今、武漢市は都市封鎖作戦で防御戦中とか、どうか頑張ってください。あの時は陥落はしたけれど、結局は最後は追い出したのですから。

1月25日【確率ってこういうことかしら?】
 今後30年のうちに高さ3mの津波が、海岸に押し寄せる確率が26パーセントって、どういう意味ですか?
 確率ほぼ4分の1というのだから、4年に1回は3m以上の津波が来るってことか?、これまでそんなに津波来てないよな、南海虎が急に心変わりしたのか、けっこう怖いなあ。

1月25日【地域再生は選挙で:河合某議員に自民党が1.5億円交付】
 いいなあ広島の人たちは~、去年の春夏たった4か月間に、ドサッと1億5千万円+千五百万円も、自民党から地域に投資があったんだあ、選挙で広島は活性化したんだろうなあ~。
 それにしても選挙って、そんなに投資するんだから、当然のことに儲かるんですね、だったら地域再生政策として、毎年国会議員選挙をやりましょう~。
 次はぜひ、うちのあたりでどなたか、自民党から立候補して、短期に2億でも3億でも、地元にお金落としてくださいな。

1月29日【内閣総理大臣の資質】
 衆院予算委員会でこんなやり取りをしたと、動画がネットに流れていて、見れば確かにこう言っている。
 宮本議員「幅広く募集をしているということは、いつからご存じだったんですか」
 安倍首相「私はですね、幅広く募っているという認識でございました。募集してるという認識ではなかったものです」
 可笑しいなア、国会ってそういうところなんだあ、。
 こういうやり取りは、どこまで本気なのだろうか。 安倍さんが本当に「募る」と「募集」とは違う意味だと思っていたので、バカと嗤われるとは全く思うことなく、堂々とこう回答したのだろうか。
 それとも、嗤われると知りながら委員会の質疑応答時間を浪費して野党の追及を逃れる戦術で、わざとバカを装ったのか。
 どっちにしても、一国の宰相が急性もしくは若年性認知症でないことを願うばかり、もちろん真正バカでないことも。

1月29日【新型コロナヴィールス肺炎流行と老人】
 ただいま世の中は、新型コロナヴィールスによる新型風邪が大流行開始の危機にあり、用もないのに出歩くと犯罪扱いの模様、さて、ずっとうちで寝てるのは楽でいいけど、年寄りは足腰が弱って、そのまま寝たきり老人になる虞れ十分、ここは、いっそのこと出かけて積極的に感染、コロリと逝けば楽なのにと思えど、死亡率は中途半端だしなあ、うちにいても困る、出かけても困る、どうしたもんだかねえ。

2020/01/22

1439【バウハウス100年映画祭】ミースとグロピウスそして山口文象たち世代の戦争責任は

●『バウハウス100年映画祭』
 めったに映画館に行くことはない。わたしはTVを見ないから、映画ってものはうちの中でPCで見る。映画館やTVと違って、中座するときは一時停止すればよいし、眠くなったら止めてしまい、後で続きから見ればよい。
 それでも年に2、3回は映画館に行く。それがこの1月中に寒いのにわざわざ近所の映画館に、もう2回も行ってしまった。今年はあとは一度も行かないで済むかも、。

 見た映画は、「バウハウス100年映画祭」として合計6作品を下記4つのプログラム構成で上映しているうちのAとCである。
A「バウハウス 原形と神話」
B「バウハウス・スピリット」「バウハウスノ女性たち」
C「ミース・オン・シーン」「ファグス グロピウスと近代建築の胎動」
D「マックス・ビル 絶対的な視点」

●バルセロナ・パヴィリオン
 最初にCプログラムを見た。『ミース・オン・シーン』は、ミース・ファン・デル・ローエの設計になるバルセロナ・パヴィリオンの復元事業を中心に据えて、かかわった来た人たちへのインタビューと、新旧の映像で構成咲いている。
 わたしはこの名作を実際に見てはいない。これまで実物を観たミースの作品は、シーグラムビル、ベルリン国立美術館・新ギャラリー、IITクラウンホールであり、いずれもガラスと鉄の分りやすい空間である。
(映画予告編からコピー)
あの有名なバルセロナ・パヴィリオンは、ベルリンのギャラリーと同じようなものと思っていたのだが、かなり異なるもので驚いた。
 これは建築空間の構成そのものを見せる作品であり、しかもガラスと石によるのだ。石目模様の色彩豊かな大理石が重要な役割を占めている。単に透明な空間ではなくて、その変幻自在な空間の展開を楽しませてくれる。
 多彩な登場人物の語りで、この建築の歴史、空間の構成、力学的構造など、なかなか興味深い映画であった。そうか、安藤忠雄はこれをまねしていろいろと展開しているのだな。

●ファグス靴工場
 「ファグス グロピウスと近代建築の胎動」のほうは、ファグス靴工場である。これも私は実物を見ていないいし、そもそもグロピウスの作品は、ニューヨークでパンナムビルを遠望したことがあるだけだ。この人の作品は少ないが、教育者としては素晴らしい。
 バウハウス創始者のグロピウスのバウハウス以前の作品であり、その後の近代建築への最初のステップを見せる作品として紹介している。
 この工場は今も現役工場として靴を作っているのが素晴らしい。工場の労働環境の改善という目的と、建築デザインを商品宣伝の目的にするという、いかにも近代産業社会到来への対応としての出自を、しっかりと見せてくれるのが面白い。

 現代の建築生産の目から見ると、平凡というか下手くそな感もあるが、1911年という時代相から見るとこの明快さが、時代を突き抜けているのだろう。
 それは1926年デッサウバウハウス校舎についても同じように言える。とにかく近代建築史の視点で観ないと、この映画はわからないだろう。そこがミースのバルセロナパヴィリオン(1929年)とは大いに違う。
 グロピウスのファグスとデッサウを下敷きにしてみると、ミースはグロピウスよりもはるかにデザインの名手とわかるだろう。

●バウハウスの人々
 次に見たのがA「バウハウス 原形と神話」で、これはバウハウスの創立からその運営、影響、そして終焉までを、多くの卒業者たちに語らせるものである。
 盛りだくさんに詰め込んで消化不良気味だが、かかわった人々の熱のようなものが伝わってくる。昔は建築史フリークアだったわたしだが、読み漁った近代建築史上の登場人物の名前が次々に出てくるのを懐かしく聞く。

 オスカー・シュレンマーが出て思い出したが、もう20年以上も前だったか、東京のどこかのイベントホールで、シュレンマーの舞台作品を見たことがある。
 ロボットのような姿のダンサーが行進のようなダンスを、どこかの劇団だったかが演じた。ほう、これがあのシュレンマーのダンスかと、興味深かったが、あれは何だったんだろう。

●バウハウスの影響
 バウハウスの活動が、世界の各地各界にもたらした影響は大きい。
 バウハウスのモダン住宅の例として、ドイツのジードルングらしきものも少し出たが、イスラエルのテルアビブ住宅地が詳しくとり上げれれていて、知らなかったがそれなりに興味深い。

 日本にはどうだったのかは何も出てこなかった。4人の日本人留学生のことも出ない。グロピウスの弟子になった山口文象のことも出ない。
 仲田定之助が訪れて日本に初めて紹介したのが1925年で、山口文象は仲田と親交があったから、当然にグロピウスのことを聞いたであろう。山口文象がグロピウス事務所で働いたのは1931年から11か月ほどだが、ただし山口が渡欧したバウハウス校長をやめていた。

●ナチスとバウハウス
 こうやって1時間以上もぶっ続けで観せられると眠くなってしまう。最近はPCで短時間しか動画を続けて見ないからだろう。それがハッと目を覚まさせられたのは、バウハウスとナチスの話になった時だった。

 例の有名なフォトコラージュも出てきて、ナチスがバウハウスを弾圧した話になった。バウハウスはナチスに強制的に閉鎖されたのではなく、実はミースが路線をナチスと対立しないように左翼系たちを放校し、閉鎖も自発的に行い、それなりの補償も受けたという。ハンネス・マイヤーの後を引き受けたミースは、なかなかの政治家でもあったようだ。

 そして、バウハウスの学生たちにもナチス親衛隊がいたとか、のちに強制収容所の設計をした者がいたとか、一時はグロピウスさえもナチ宣伝出版物にかかわっていたとか、初めて聞く話になりすっかり目が覚めた。
 ただし、その話題はあまり長くはなかったし、どうもまだ明確にし難いこともあるらしい口ぶりが、語る研究者から聞こえた。さすがにナチに対して厳しいドイツの映画であると思ったが、映画はそのあたりで終わった。バウハウスの戦争責任についてはどうなのだろうか。

●日本の建築家と戦争責任
 となると自然に日本の場合はどうなのだと思う。晩年の山口文象が建築家の戦争協力に厳しい言葉を述べていたのを思いだした。
 有名な話は建築家・内田祥三の戦争協力についての糾弾である。今の話題の国立競技場で1943年に、学徒出陣を送り出した時の東京帝国大学総長であったからである。山口は何度か講演会でしゃべっていた。

 山口文象は戦争加担は一切しなかったと語っているが、細かく見ればそうとも言い切れない。山口文象自身の戦争責任をどう考えるか。
 戦争関連の仕事でなくては建築家は食えなかった戦時中、山口の仕事も全国各地の軍需工場の工員宿舎の設計がほとんどであった。山口に言わせると、工員の生活環境を良くするために設計をしたのであり、戦争協力ではないというのだ。
 だが弟子の小町和義さんが語るように、軍需工場の設計もわずかではあるがやっているし、工員宿舎だって軍需工場の一部だから、まったく戦争非協力というには無理があるだろう。

●ベルリンを出るグロピウスと山口文象
 これはバウハウスと直接関係ないが、関連して気になるので書いておく。
 ウィキペディアのグロピウスの記事に、「バウハウス閉鎖後、事務所にいた山口文象とともにドイツを脱出、自身は1934年イギリスに亡命する。」とある。
 だが、山口文象がベルリンを出て帰国したのは1932年であり、イギリスに立ち寄ってはいないことは、山口文象自身が書いた当時の日記手帳によって明確である。
 グロピウスがベルリンを出てイギリスに渡ったのは1934年であることは、山口の評伝を編むときに問い合わせに答えたイーゼ・グロピウス夫人の手紙にその記述がある。

 wikiのこの誤った記述の原因は、晩年になっての山口の話で、1932年にベルリンを出発して日本に帰国の旅に出るとき、ナチスの手を逃れて脱出するグロピウスとともにイギリスに渡ったと、佐々木宏さんに語ったのが公刊されているが、その山口の座談によってwiki執筆者が書いたのだろう。
 わたしはこれまでも著書やネットでこの齟齬矛盾を指摘しているが、もう山口文象よりも長生きしたから、生き残り末席弟子としてはっきり言っておこう、それは虚言であると。なぜそれを言ったのかわからないが、老残のなせる業と思いたい。

 山口文象は晩年には座談の記録をいくつも残しているが、佐々木宏さんも指摘しているように、間違いというよりも虚言としか思えない発言も諸所にある。
 今やわたしも老残の日々だからひとごとではない。バウハウスの話が妙なことに及んだものだ。

2020/01/10

1438【怪しいハイテク】うちのPCWIN7が3段飛び級試験合格してWIN10にヴァージョンアップ

 PC屋というかIT屋というのは因業な商売をするもんだ。せっかく買ったPCに慣れてきたころになると、その上のクラスのOSの入ったやつを売り出して、それに買い替えろと宣伝してくる。
 そのうち更に、その古いPCのOSのメンテナンスサービスをもうやめることにした、そのまま使うと危険だから、絶対に買い替えろと、脅迫してくる。
 あくどい商売だ。
 
 真っ黒粗太なるIT屋からその脅迫が私のところにもやってきた。
 うちのPCはWIN7だが、この1月15日からもう面倒見ないぞ、WIN10に取り換えろ、それの入ったPCを替えろと言うのだ。
 そんあところに携帯電話機屋からも同じような脅迫が来て、更にまたプリンタももうすぐ壊れるぞと脅迫してきている。なんだよ~、これは、持ち主のボロさに対応するのかい。
 で、このWIN7機を買ってから7年半、この期間はPCには長いのか短いのか。これまで一度の故障もなく、まだまだ普通に使っているのに、もう買い替えるのかと、貧乏人には負担が大きい。

 ところが買い替えなくても、ネット上でWIN7からWIN10にヴァージョンアップする方法があるらしい。それならタダでできるからありがたい。
 で、ネットを探したら、そのためのサイトがあったのだが、読んでもよくわからない、やってよいのかどうか、壊れるかもしれない。若いときなら面白がっただろうが、年寄りになった今は手に、いや頭に余る。
 私には、こういう時の伝家の宝刀があるのだ。IT方面専門家の息子である。頼んだらやってくれた。正月の親へのお年玉としてありがたくいただく。にはビールいっぱいとお菓子のお土産だけ。

 Jがヴァージョンアップ作業に取り掛かったのは14時半ころ、それからPCが作業を自主的に延々と次々とやって、画面は真っ青になって点線の輪がグルグルグルグル、こちらはただただ待つばかり。は18時前に帰っていった。
 20時40分ころになってようやく、WIN10の初期画面が登場したのだった。最後のあたりでいろいろと人間臭い表示が出るのが面白い。
開始5時間、延々黙々と何かやっている

開始6時間、「すべてお任せください」とは??
待ちきれずにクリックすると止めるぞっ、てか

準備って何の準備かしら?

ほお、予想した時間があったんだあ、それより遅れてる弁解か

開始から6時間半、ついに初期画面になった!!
ということで、うちのPC君はなんとまあ開始から約6時間半もかけて、7から10へと3段飛び級試験に見事に合格したのである。

 その結果で今、これを書くことができているのだが、なにしろつい先ほどの合格だから、これからあれこれやっていると、一部不合格とか、変なことが起きるかもしれない。
 現に「バックアップファイルない」とか、「ウィルスセキュリティは使えなくなります」とか表示が出る。WIN10には効かないアプリを入れているかもしれない。
 困ればに電話で教えてもらおう。迷惑だろうが、こちらはボケ防止によろしい。

 思えば、わたしが使ったPCのOS歴をたどると、1988年のMacintoshが最初、そしてwindows95、98、ME、CE、XP、7、10と、まったくよく買い替えさせられたものよ。
 PCに触る前は、ワードプロセッサー専用機を1980年ころから使い、ポケコンであそんでいた。インタネットへの接続は、最初はワープロ通信をやっていて、そのうちにパソコン通信へ、そしてウェブサイト「まちもり通信」を始めたのは2000年末のことであった。

 これでまたしばらくは安心してPC生活ができる。よありがとう。

(20200113追記)
 WIN10になって今日で4日目、あれこれとWIN7時代に取り込んだアプリケーションを試しているが、今のところ動かなくなったものはない。7と10は相性が良いらしい。
 どうしてもだめアプリが一つ、「ウィルスセキュリティ」というアンチウィルスアプリである。早速このメーカーのソースネクストから、画面に警告が来た。
 「これはWIN7用だからもうすぐ停止してしまうぞ、そのままにしていると危険だぞ、1518円出せばWIN10にヴァジョンアップしてやる、面倒な作業は一切不要だ」、という。
 なんだか脅迫の感もあって愉快ではないが、安いし、自分で作業しなくてよいのは助かるから、購入した。ただし、代金をネット上でカード支払作業が面倒だったのは、めったにネットで買い物しないからである。
 真っ黒粗太の一方的なやり方のせいで、あれやこれや余計な作業と1518円の出費をさせられた。

2020/01/03

1437横浜関外関内ヨタヨタブラブラ初徘徊

 暮から正月にかけて、なにもせずに雑煮を食って寝ていたら、脚が弱ってきたので散歩と言う徘徊に出かけた。
 正月だからとて初詣をする習慣がないのは、わたしが神仏を全く信用していないからである。

 徘徊だからどこをさまよってもよいのだが、初徘徊らしく横浜ドヤ街の寿町に向った。そう、名がメデタイから初詣がわりになるだろうというのである。
 実は去年の初徘徊も寿町だったから、初詣に相当するわたしの正月の習慣になったかもしれない。う~む、ドヤ街徘徊が正月の習慣とはねえ、、。
寿町のメインストリートは静かな住宅街
部屋は3畳間だけど最先端設備

3か月に一回くらいは寿町徘徊もしているが、簡易宿泊所の街だと言ってもほとんどの宿泊者は事実上の住民となっている普通の生活街だから、正月とて特に変わりはない静かな街の風景で、人通りは少ないがあちこちに日向ぼっこする人がいる。
 でも、いつもとちょっと違う風景に出会った。町の中心部にある児童公園に、青テントの仮建物が建っているのだ。
 そうか、越年の炊き出しなどの特別のイベントをやっているようだ。支援団体などが、平素もここで週1回の炊き出しをしているが、年末年始は12月30日から1月5日までやるようだ。
寿児童公園は越年炊き出しの拠点化

越年闘争スケジュール

2019年度寿冬まつり寄付者名簿には簡易宿泊所名が並ぶ

 炊き出しだけではなくて、年末年始だけの各種の支援活動もやっているようで、「第46次 寿越冬スケジュール」を記載した貼り紙がある。第46次とあるからには、もうこれまで46年間も続いているのだろうか。
 頭が下がる思いであると同時に、46年前と比べると豊かになったはずなのに、多くの貧困者がここに吹き寄せられている現実に、困惑するばかりである。

 公園の斜め向かいに大きな空地が出現していいて、地面に建物を撤去した基礎が見えている。ここは2棟の簡易宿泊所が建っていたから、建て替えるのだろうか。
 去年、いくつかの簡宿の建て替えで高層化した建物があったが、ここにも高層ドヤが建つのだろうか。
新空き地出現(左の青テントが児童公園)
毎週毎年の炊き出しがつづくように、ドヤ住民は次第に増えていて、今後も需要があるから、建替え高層化があるのだろう。数の需要もあるが、入居者の高齢化に対応するために建物のバリアフリー化という、質的な需要もある。

 去年の暮れごろにUR住宅ビルの撤去工事をしていたが、いまは仮囲いの大きな空き地となっていた。さてここには何ができるのだろうか。
 便利な横浜都心の一角だから、オフィス需要はあるだろう。だが、共同住宅となると寿町ドヤ街の中という立地イメージが、市場を難しくするだろう。
UR住宅跡の空き地はなにが建つのかまだ分らない
その近くにも3年前からの空き地があるのだが、一向に何かが建つ気配がないままである。
3年前からの空き地
寿町を通り抜けたすぐ先には、横浜の商業中心の元町と中華街がある。
 ついでにそちらにも徘徊の足を向けたが、こちらは静かな寿町から一転して、大勢の人出となった。
元町商店街
とくに中華街では、中心部の通りは満員電車さながら、車の入る道は大渋滞、あまりの賑わいに逃げ出した。
 逃げ出した先は山下公園、ここも大勢の人出だが、そこは繁華街とはちがって、あの広さが救ってくれる。
山下公園から大桟橋方面を見る
ということで、脚を鍛える3時間ほどの横浜関外関内ヨタヨタブラブラ初徘徊であった。