2023/06/21

1692【言葉の酔時期:紐づける】既に一般普及用語「リンク」linkがあるのにマイナーカードではなぜ「紐づけ」と言うのか?

 近ごろマイナーカード騒動で、しきりに「ひもづけ」なる言葉が、普通に世の中の人々が知っているがごとくに出現するのが不思議だ。わたしはこれほども長くこの世に生きてきていても、つい3年前までは知らなかった言葉であるだ。

 もちろん「ヒモつき補助金」とか「ヤ―サンのヒモつき娼婦」とかの「ヒモ」は知っていたが、いずれも悪い意味である。それが政府の言う重要政策として堂々とヒモが登場するとは意外である。そこからしてマイナーカードのイメージが悪いけどいいのかしら。

これだけたくさん紐をつけときゃいいね

 そのことは2020年の6月に書いている(参照:ブログ記事)から、詳しくはそちらに譲るが、あらためてネット辞書をあちこち見たら、わたしの知る意味のほかに「IT用語」と書いてある。え?、IT用語のヘンなことは重々承知しているが(参照:IT用語オチョクリ辞典)、これもそうとは初めて知った。
 でも奇妙なのは、ヘンなIT用語はたいていは原文のままにカタカナ用語にしてしまうものだ。ところがこれは「紐付ける」なんて、いかにも和語の語感溢れる日本語に翻訳とはねえ、カタカナ語ではよほど不都合なので「紐づける」なんてのを探し出したのだろう。

 そこで「紐付け」と翻訳前の原語のIT用語はなんというのかと、これもネット辞書をあちこち調べたら、なんとなあ「LINK」とあるのだ。
 え、リンクかよ、それならとっくにカタカナ語のままでで、パソコン用語として使っているポピュラー極まる言葉だよ。
 それなのにどうしてこのマイナ―カードだけは、リンクすると言わないで「紐づける」と言うのだろうか、リンクでどんな不都合があるのだろうか、不思議だ。
 まさかパソコンやスマフォ知らない年寄りに配慮したというのではあるまいな。むしろ年寄りのわたしがこんな「紐づけ」を知らないのだから、配慮の意味がない。

 マイナーカードという行政の重要な事業に関わる用語だから日本語にして、カタカナ用語にしないのだと言うのか。「紐づけ」は法律条文にはないが、こんな事例がある。
 最近できた「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」にはもの凄いカタカナ語が出現したぞ。よほどの人でないと知らない言葉だろうに、これが法律名でよいのか。
 ずいぶん前にできた「マンションの建替え等の円滑化に関する法律」では、不動産屋の誇大広告用語がそのまま登場なんて、これが法律名で良いのか。なんだかへんだなあ。
 なお、内閣法制局のサイトには、次のように書いてある。「法文における外来語の使用基準は、その言葉が日本語として定着していると言えるか否かという点にあります。」(→こちら参照) 

 だから「紐づけ」なんてイメージ良くない日本語よりも、既にパソコンで普通に使っている「リンクの方がよほど日本語として定着しているから、今からでも遅くないので政府もメディアも「リンク」と言い直しなさいよ。
 ついでに「マイナーカード」(正しくはマイナンバーカード、略してマイナカード、わたしはわざとマイナーカードという)とは、共同住宅をマンションというほどに珍妙だから、これも岸田内閣のメジャー政策に対応して「メジャーカード」に改名はいかが?

狂歌<カード騒動>

トラブルは次第にメジャーになろうともどれもこれもマイナーなこと

マイナーなゼンダーとカード取り纏めアイデンティティ理解増進法を

(20220621記)


2023/06/14

1691【父の遺品】この古そうな懐中時計はいつごろのどこの製品だろうか

 別の探し物をしていて机上の引き出しケース内から、汚れた懐中時計が出てきた。わたしの父(1910-1995)の遺品だが、忘れていた。幼児のころに弄んだような記憶がかすかに湧き出た、いや、母方の実家で玩具としてもらったような、、いまや怪しい。


 文字盤の針は動いていない。長針が無い。裏蓋を開けると透明ガラスの中に、歯車などの精密機械が美しい。竜頭を巻くと二つの歯車がかみ合ってチチチと回る。
 そうしたら動かないはずが、チチチチッチとささやきつつ秒針が回っている。このままずっと続くのだろうか、、アッ止まった、、ちょっと振り回したらまた動きだした、、。


 裏蓋の内側には、中ほどに馬が後脚をはね上げている図が線彫してある。文字は上方に「0.800」(ネットによると銀製品の銀純度8割の意味とある)、下方に「461030」とあるが、ブランド名らしき文字はどこにもない。馬の前足の下に横に細長い長方形があるが中にないもないのは、もしかしてここに何か貼り付けてあったか。


 父の遺品の一つに、蛇腹カメラ(その画像はこれ)があったが、これについてこのブログに書いたら、それを読んだある方からそのブランド名や製作時期などを教えていただいたことがあった。(そのブログはこれ)。
 そのカメラは治しようもなく壊れていたが、この時計は治せば動きそうな気配があるから、今回もどなたか教えてくださる幸運に出会いたい。なお、古物懐中時計をネット検索で探したがあまりに多くて、これと同じものにたどりつく前に疲れてやめてしまった。

(20230614記)

伊達美徳=まちもり散人dateyg@gmail.com
伊達の眼鏡https://datey.blogspot.com/
まちもり瓢論https://matchmori.blogspot.com/p/index.html


2023/06/10

1690【横浜寿町の変化・1】横浜都心部の関外にある貧困ビジネス街はどう変わりつつあるか

【横浜寿町・地域活動の社会史2】からつづく

横浜都心部の変化を楽しむ

 今日(2023年6月8日)の朝刊新聞記事に、厚労省の統計で2022年度の生活保護申請が約24万5千件で、2021年度から7%も像か、そして今年3月の生活保護受給申請は24500件、去年同月と比べて24%も増えて、今の受給全数は約165万世帯とある。

 防衛費とか少子化対策費とか巨額国費投入とか、コロナ対策費削減で余裕ある国費予算とか、あるいは好景気らしく納税が空前になりそうとか、なんだか景気がよさそうな雰囲気があるようだ。ところがどっこい、この列島には実際はこれほども多くの貧困世帯がいて、しかも増えているのだから、一体どうなってるのだろうか、どうにもわからない世の中だ。

 日本全体でこれほども生活保護世帯が増えれば、その世帯が集中して住む横浜寿町とか東京の山谷とか大阪の釜ヶ崎などの、いわゆるドヤ街はどんな様子だろうかと考えてしまう。そこでは簡易宿泊所という安宿が増えてきているだろうか。
 ということで、その生活保護受給者約6000人も住む横浜寿町地区(横浜市中区寿町・松陰町・扇町あたり約6haの地区の代表として寿町地区と称する)に徘徊に出かけて、街を見てこようと思いついた。(参照→寿町地区俯瞰概念図


 人口が5000人以上6000人以下の自治体は日本に141もあるから、これは立派すぎる規模の街だ。そしてまた人口密度が1000人/haという極端さでありながら、超高層ビルは一つもないし戸建て住宅も無くて、超狭い住戸(1戸がネット5㎡が珍しくない)が中高層ビルに押し込まれている現実である。

 わたしはこの20年ほどの間、横浜の関内と関外あたりの古くからの都心部を日常的に徘徊をして、街の変化を眺めるのを趣味としている。
 その対象とする主な街としては、商業街として伊勢佐木町・馬車道・元町など、観光街として新港地区・中華街など、住宅街は山手や野毛山あたりの斜面住宅地寿町地区がある。

 商業や観光街の世の景気、特にコロナ禍に左右される激変が面白く、特に横浜一番の繁華街「伊勢佐木モール」の質的低落がものすごい。
 住宅街の世代交代に対応して徐々に変わりゆく姿の継続的観察も面白いものだ。都心部の住宅街は一般に中高層共同住宅街で特に面白くもないのだが、斜面地や崖地住宅街と寿町地区は都心部住宅街の特殊な事例として実に興味深いものがある。
 この20年分の変化を、この辺でまとめて書いておきたいと考えている(ボケると書けなくなるから)。今日からまず寿町地区を書くことにする。

寿町地区でゼントリフィケイションは起きているか

 寿町地区へのわたしの興味の中心は、その変化の動向である。この20年ほどその動きを好奇心で観てきた。この横浜都心の開発ポテンシャルが非常の高い地区が、低所得者層が集中しながらも、その景観は大都市のありふれた姿である。

 だがその居住者層は時代とともに変化も著しい。その内部的な変化に対して、都市の開発ポテンシャルの顕在化がどう影響を及ぼすのか、興味はそこにある。いわば寿町的ゼントリフィケイションはどのようにして起きるか、いや起きないのか、そこに興味がある。

 実のところ、この街の変化は普通に見る分にはほとんど見えない。それどころか知らない人がこの街を通り過ぎても、よくある都市の共同住宅街(いわゆるマンション街)にしか見えない。
 だがこの街は戦争被災地から1950年代半ばに復活して以来、じわじわと変化し続けているのだ。それは目に見えるハードな面もあるが、その住民たちの時代による変化がこの街の中身に及ぼす変化である。特に初期の若くて働く者たちの街から、今は高齢化率が5割を大きくこえる超高齢者の街に変化している。それが街の姿にどう表れてきたか興味深いのである。


 では今日の徘徊は、寿町地区に向かうとして、その西角の長者町1丁目交差点から入る。

寿町地区の西角の長者町1丁目交差点から寿町方面
角地に建っていた1950年代に建った防火建築帯が事務所ビルに建て替わった

 この地区を取りまく幹線道路つまり寿町地区の外殻にあたる道沿いには、原則として簡易宿泊所は建っていない。ドヤ街としての外向きの顔は、地区の外殻にはオフィスビルや共同住宅ビルが建っていて、本物の顔は顔は地区の内部にある。

 ドヤ街入り口の左右にパチンコ屋が構え、上層に駐車場を載せる9階建てのビル、高い広告塔を立てている、近づいてみると1回の壁に張り紙があり、「6月18日をもちまして閉店することになりました」とある。「1998年5月から約20年の営業、、」とも書いてある。おやおや、こんな貧乏人向のギャンブル場でさえも成り立たなくなったのか。

 このビルと道を挟んで向かいにもうひとつパチンコビルがあり、同経営のようだから、これらはドヤ住人相手の商売として、四半世紀前に営業開始したのだろう。だが今やドヤ住人たちはパチンコもできないほどに貧困になったか、それとも超高齢化でドヤから出て遊ばなくなったのか。何しろ高齢化率が6割を越えようとする地区である。

 寿地区でのギャンブル場といえばこれらパチンコ2店のほかに、ボートレース場外舟券売り場があり、2軒の違法「ノミや」がある。これらが同列の商売かどうか全く知らないが、約6000人の地区内居住者がいて、しかもこのような交通便利な都心部でも成り立たないものなのか。

 この近くにあるパチンコ屋は、伊勢佐木町と横浜橋の商店街にもあるが、それらと比べるとここは繁華街でもなく郊外でもない、むしろ住宅街であるから、狙いはドヤ街住人だったのだろうが、貧困介護老人が増えては成り立たなくなったのだろう。
 さてこの跡には何が建つのか、最も考えられるのは高層共同住宅ビル(いわゆるマンション=名ばかりマンション)である。実は現在このパチンコ屋の前後左右のあたりは、共同住宅の建設ラッシュの感もあるのだ。

 このパチンコやビルの斜め向いの街区にいま建設工事中のビルがある。そこの工事看板には「賃貸住宅」と書いてある。以前ここには、1階に店舗の入る3階建て共同住宅ビルが建っていて、これは1950年代後半に戦後復興事業として建った防火建築帯であった。次いでの書けば、、この長者町通りの両側には戦後復興期に多くの防火建築帯が軒を連ねて建設されたが、いまやほとんどが建て替えられて共同住宅ビルになり、残るは数棟である。

寿町地区南西入り口左のパチンコ店は閉店お知らせ中
右手前の工事囲いは1950年代の防火建築帯を賃貸住宅に建て替え中

 この工事中の賃貸共同住宅の立地は、幹線道路を挟んで寿町地区に隣接する街区で、ここのまわりには寿町地区からはみ出したドヤビルが5棟が軒を並べて建っている。
 この敷地南東側に面して首都高速道路の高架があり騒音と排ガスを24時間振り撒いているから生活環境が良くない。一般住宅よりは簡易宿泊所の立地に適する感もある。
 立地環境から販売リスクがあると考えて、分譲ではなくて賃貸共同住宅としたのであろうか。その隣には大きな平地の駐車場があるので、次はここに何が建つか楽しみである。 

寿町地区南西入り口から振り返ってみる。右に閉店予定のパチンコ店、
その道路向かいの高層ビルは今年4月竣工の分譲共同住宅、
正面に見える5階建ては簡易宿泊所(寿町外)、左の工事中は賃貸共同住宅

現在工事中の賃貸共同住宅敷地に建っていた1950年代戦後復興期の防火建築帯

 さきほどのパチンコ屋から長者町通り沿いに南東に歩けば高層ビルが建つが、これは寿町地区の外殻に建つ例外的な簡易宿泊所で5年ほど前に建て替えた(下図中央)。

長者町通りから寿町地区に入るメインゲイト両脇にパチンコ店、その右に高層ドヤ

 この高層ドヤビルの南東隣が長らく空き地(下図中央部)であったが、いま見ると工事用の塀ができて建築工事看板がある。その用途は共同住宅79戸11階建て高層ビルである。パチンコ屋跡とここに新ビルが建つと、この寿町地区の南西側幹線道路沿い、つまり南西側の外殻には一応高層ビルが立ち並ぶことになる。それは3~4年後のことだろう。
長者町1丁目の幹線道路に面して左に高層簡易宿泊所、右は共同住宅
その間にあった空地に共同住宅建設の看板が登場

 ではこれから寿町地区の中に入っていって街の変化を探ろう。(20230610記 つづく)

参  照

1687【横浜寿町・地域活動の社会史】(2)横浜市の都市政策における寿町の位置づけは?  https://datey.blogspot.com/2023/05/1687.html

1686【横浜寿町・地域活動の社会史】都市下層集住社会の課題解決に活動する人々に敬服するばかり https://datey.blogspot.com/2023/05/1686.html

2023/05/31

1689【薄れる境界】男と女・生と死・公と私の境界が曖昧になる現代

地球も身辺も災禍重層時代

 遂に5月が終わる。だからどうというのではないが、コロナ禍プーチン禍冬の寒さが重なる暗い日々で気がなえていたのだ。
 それが初夏の5月がきて日が照り薫風が吹き、急に明るくなってきたと、気が晴れてきたのだ。しかしまた、梅雨が来ると暗いなあ、と、6月が来るのも憂鬱なものだ。

 いつも月末にはコロナ禍とプーチン禍のその月の締めを書いてきたが、もういいやという気分になってきた。
 コロナ禍はなんだかよく分からないが、コロナ夜が明けたようなまだ暗いような半端な気分である。その半端気分に合わせて、マスクを顎にずらして外出すれば、同じような気分らしいマスク半端人が結構多いのに笑ってしまう。
 つまり今はコロナ禍とインフルエンザ禍の境界あたりにいるのだろうと思う。禍だらけの時代に生きている。

 もう一つの大禍であるプーチン禍、すなわちプーチンのウクライナ侵略戦争だが、こちらの禍は実のところよく分からない。先日はゼレさんが広島までやって来て、七國組に応援依頼した。世界は露中二国組日欧米七国組とが戦い、インドブラジルなど南國組が傍観中、こんな構図に陥っているらしい。

 そのような地球で生きる人間たちは食料とエネルギーの争奪戦に入ったらしく、これからどうなるだろうか。その争奪戦を生きなければならない次世代人間たちは、なにを考えているのだろうか。
 わたしのような前世紀前半生れの超高齢者は、実のところそれを心配するよりも、身辺に迫る自分の老いの問題の方がはるかに深刻だ。わたしが死んだ後のことはもうどうでもよい。孫たちの世代のことを考える余裕がなくなってしまった。コロナ後の世界を観たいと言う欲望が失せてしまった、もう、どうでもよいのだ。

男と女の境界が薄れる

 同性婚者を異姓婚者と同等に扱う法がないのは憲法違反とする判決を、名古屋地方裁判所が判決したと、今日のニュースである。最高裁まで行くかもしれないから、確定は先としても既にそれに似た判決がべつの裁判所でも出ているから、世の流れとしては同性婚も法的な枠組みに入る時がくるだろう。

 それで思うのは、人間世界はあちこちあれこれで、これまで確固とした境界なるものが存在していたのが、次第にあいまいにぼやけていくことだ。
 男女という生物的な境界は、これほど人間にとって身近過ぎる境界として、文化を規定してきたものはない。たとえば、フランス語やスペイン語には男性名詞女性名詞が隅から隅まであって、男女を分けることがおびただしく、外国人にとってはまことに面倒な言語だ。それほど面倒なのに普遍的に使いこなしているのは、それほどに境界としての規定度合いが人間の基本にある(あった)ということだ。

 それが今や言語という文化的な人間が意識して作り上げた境界を、人間の意志としてその存在を取りのぞこうとする。
 そればかりか、人間が生来のものとして備えて生まれてきた生物学的雄雌の境界にも、人間は文化の側から手をいれて境界をあいまいにしようとしている。他動的に決まってきた生の境界を、自意識として自動的に超えることを許容するようになったのだ。いや、まだ許容する世界もすこしは出てきたというべきか、この同行の顕在化によって、大きな軋轢も起きている国々もあるらしい。

生と死の境界が薄れる

 生物的な男女という性の境界があいまいになる時代だから、人間一人一人にある生と死という厳然たる生物的境界さえも、今やあいまいになりつつあるようだ。
 人間同士の争いの結果としての殺したことによる生と死は別にして、個人的な生と死の境界のあいまい化を迎えつつある。その発端は、臓器移植技術に対応して生者と死者の判別に混乱が起きたことだろう。

 太古からある不老長寿の願いとそれへの人間の努力は、境界をいかに遠くの時間に押しやるか、生と死のあいまい化への初歩であろう。それは医療技術の発達によって実現しつつあるが、死という境界線を消滅するものではない。しかし遠ざかれば遠ざかるほど、実は生と死の境目が分からなくなっている気配である。

 医療技術の発達は、多くの生物的死に近い高齢な人間を急増させる結果となり、生と死の境界上のあたりに渋滞する人間が多くなる。そうなると多様な死に方が登場してきてなにがしか分からなくなる。死という境界をかつてのように絶対的ないわば神の行為とする考えが、必然的に消えつつあるのだろう。
 自死する人間とか安楽死する人間が多く出現してくるから、死は生ある人間が自由に選ぶ身近なものとなり、死と生の境はあいまいになってきた。

 どうやらこの考えは、わたし自身が死を身近にした超高齢者になったことと大いに関係がありそうだ。人間社会に増えすぎた超高齢者を作り出したのは、医療技術の発達の結果であり、これが生と死のあいだの壁を、どんどん透明化してあいまいなものにしてきたようだ。

 コロナ禍の最中は葬儀に参加することが途絶えていたのだが、先般ひさしぶりに親友の葬儀に参加した。簡潔な無宗教で気持ちよかった。そこで思ったのだ。
 葬儀という形式の発明は、もともとは人間の生と死の境界をあいまいにして、生の延長のような死を演出して、悲しみを消すための仕掛けであったろうと思う。
 ところが、それが長い歴史を経るうちに宗教的儀式となり、死を祭り上げることで生から死への境界を巨大な装飾装置に仕立てて、それを特別な事件とする方向になったらしい。それを葬式の産業化という、と、親友の無宗教葬儀の場で考えたのだった。

公と私の境界が薄れる

 コロナ禍で急にオンライン出勤とか講義なるものが、世の企業や大学などに流行してきた。住家で仕事をするのはコロナ禍前は公私混同とか超時間勤務とかで、不都合なる状況を意味していた。それがコロナ禍以後はすっかり変わって、公私混同が当たり前になってしまった様子である。ころなが人間社会の評価の軸を変更させた例であろう。
 もっとも、さすがに住処でオンライン通学大学教育の変更は無理であるらしいが、実のところはどうなのだろうか?

 わたしの息子ときたら、コロナ禍の最中に転職するにあたり、オンラインで採用面接を受けて外資系企業に移ったが、その後3年たっても一度もその企業のあるオフィスに行ったことがないという。自宅でオンライン勤務の日々とて、それで成り立つのが不思議だ。

 この例は仕事内容がコンピュータ・ネット関係である特殊性もあるが、オンライン勤務は公と私の空間をあいまいにしてしまった。空間だけではなく、企業文化も変わったことだろうと思うが、それはわたしには分からない。

 この公と私の境界のあいまいさの普及は、どんな文化を生み出しているのだろうか、興味ある。私が現役で仕事をしていたころは、かなりの頻度で出張があったが、それはいまではオンライン会議でも済むことが多かったと、思いだすのである。

それなのに今も強固な国と国の境界

 生物として地球上に繁殖した人間が、生きるために食物やエネルギーの確保で争いの結果で発明したもっとも面倒で硬い境界は集団と集団徒を区切る国境であろう。
 国家集団の構成員たる人間は、地球上を自由に情報が駆け巡るネット時代となって、国家間の人間の移動も著しく、文化的には国境が薄れつつあり、その面からは国境は崩壊状態である。

 個としての生物的文化的人間境界としての国境はしだいに崩壊する気配なのに、この集団としての国家の境界は、崩壊と再構築が繰り返されていても厳然として亡くならないし、あいまいさを許さない争いが絶えない。これはどうしてだろうか。
 その原因の根底には、二元が私物として生きるために必要な食糧やエネルギーが、地球上の国家の存在する位置によって大きな偏在状態があることだろう。

 国境は戦争や交通の発達によって変わりつつも、今も強固な境界である。こうして人間は個人としては国境は崩壊しているのに、集団としては強固な境界を維持しているという、きわめて矛盾する位置にいま立っているらしい。
 矛盾の解消は戦争しかないらしいことは、プーチン戦争が如実に示してくれた。20世紀の戦争時代に生まれたわたしは、今また戦争時代に死ぬのである、戦争の人生であった、ヤレヤレ、、。

(20230531記)


2023/05/28

1688【生成AI】知ったかぶり超ありふれた文章をチャチャっと作るが精々のAI

 八十路の半ばを超えてしまった。そこへ5歳年下の弟から祝辞メールが来た。なかにこんな一文もあったのが、ちょっと興味深いので、ここに記録のために載せておく。

ーーーここから弟のEメールの一部ーーーーー

 兄貴はもう使っているかもしれないが、今話題のチャットgptを試してみました。 「86歳の兄に送るメッセージメールの例文ををいくつか教えてください」と入れると、たちどころに4例をチャチャッと答えて送ってきました。うち2例を送ります。(ここからチャットgptが作った祝辞) 

 以下は、86歳の兄に送るメッセージメールの例文です。ご参考にしてください。

(その1)兄さん、お誕生日おめでとうございます!86歳の節目の年を迎えることができて本当に嬉しいです。兄さんは私にとって尊敬すべき存在であり、常に力強い支えとなってくれました。これまでの人生で積み重ねてきた経験や知恵は私たちにとって宝物です。健康で幸せな一年になることを心から祈っています。兄さんがいつも笑顔で過ごせるように願っています。おめでとう!

(その2)Happy Birthday, 兄さん!86歳の誕生日、本当におめでとうございます。兄さんは私の人生において不可欠な存在であり、一緒に過ごす時間はいつも特別な思い出となります。兄さんの経験と知識は私たちにとって貴重なものであり、これからも尊敬と感謝の気持ちを忘れずに過ごしていきたいと思います。健康で幸せな一年になりますように。誕生日を心から祝福しています。 

ーーー弟のEメールの一部はここまでーーーー

 この弟のメールにわたしは返信をこう書いた。

 ふ~ん、「なんでも知ったかぶり屋」生成AIパンデミックなんだな。私も先日ChatGPTのアカウント取ろうとしたら、向こうがパスワードを送ったというのだが、肝心のそれがやってこない、2回やっても来ない、もういいやと放り出しました。そういう時にあちらが気が付いてチャチャっと対応する能力はないらしい。それにしてもその誕生日祝辞の超ありふれさよ、それがもし君自身が書いてくれたのならば、弟も世間ずれしたもんだと馬鹿にしつつ、それでもきちんとこちらも超ありふれた返事をしたことでしょう。

 さてさて、精々そんな文章しか作れない「精々AI」君は、誰かから質問されると、知ったかぶりに超ありふれた回答をチャチャっと作ってくれるとなると、初めは批判的に読んで内容チェックしていても、そのうちに超便利になって来て、読みもしないでそのまま何かに使いまわすようになるのだろう。
 世界中がそのありふれた言葉で満ちてくれば、この世は同レベルの愚者ばかりになってしまい、それはそれで平和な時代が来るにちがいないから、AIは愛かもしれない。

 そこで狂歌を一首

知ったかぶり超ありふれた文章をチャチャっと作るが精々のAI

 なんて馬鹿にしてると敵もさるものひっかくもの、「質問が超ありふれてるから合わせてやったんだよ、もっと条件を決めた質問しろよ、バカヤロ」と、逆注文が来てしっぺ返しされるのだろうなあ。

(20230528記)

(20230531追記)
 「知ったかぶり生成AI」の「ChatGPT」に拒否されて、他のそれを探したらグーグルが「Bard」というそれを出していると知り、やって見ようとしたら、なんなく利用できた。

 試験運用中というが、どこまで物知りか試してみた。結論を先に書くと、ありふれたことにはよろしいが、専門的なことになるとまるで信用できない代物だった。

 その実例として、ちょっと都市に関する専門的なことを質問したら、いかにも知ったかぶり口調で明らかに間違い返答、そこで問答くりかえして、最後にこんな問答をした。

当方「正面切って間違い回答し、指摘すると訂正陳謝の言葉もなく、こちらの指摘をいかにも自分の回答の様に書き換えて送り付けるBardとは、いったい何でしょうか?」

Bard「私の回答が間違っていたことをお詫び申し上げます。私はまだ発展途上にあり、常に学習しています。あなたの指摘は、私が正確で有益な情報を提供するために役立ちます。今後は、より注意して回答するよう努めます。」

  だってさ、反論しないでいきなりこれだもん、信用ゼロだね。こういう弁解って、日常会話にも使えるかな、恥を捨てると。いやはや今どきの吟遊詩人(bard)ときたら、!?



2023/05/21

1687【横浜寿町・地域活動の社会史】(2)横浜市の都市政策における寿町の位置づけは?

承前)横浜名所についての新刊書籍『横浜寿町・地域活動の社会史』を読んでの話の続きである。

●田村明と緒形昭義

 この本にはわたしが面識ある人はほとんど登場しないが、それでも3人を見つけて前回の話に書いた。更に2人の名を見つけたので書いておく。それは田村明さん緒形昭義さんである。どちらも飛鳥田市政時代になって横浜に登場するひとだ。

 飛鳥田革新市政が始まったのは1964年4月、田村はその飛鳥田のもとで市の幹部になって、都市政策に辣腕を振るった。わたしは自分の専門であった興味から、田村の横浜市における都市政策が、寿地区にはどのように及ぼされたのか興味があった。
 だが、この本に田村の名前が登場したのは一回のみであった。この本の内容がいわば福祉系に偏っているから、それも当たりまえか。

 その田村が横浜市が建てる建築の設計に起用した建築家のひとりが、彼と大学同期生の緒形昭義であった。横浜市内で設計事務所を主宰する緒形の設計で有名なものは、寿町総合労働福祉センター(1974)と藤沢市労働会館(1975)とネット情報で知った。
 まさに寿町のプロジェクトで緒形は田村に起用されたが、今はもう別の建築家の設計の建築に建て替っている。
 わたしはもう40年以上も前で具体的なことは忘れたが、田村と話をしたことが2度あった。またこれも何の用だったか忘れたが、緒形をオフィスに訪ねて長く話し込んだ記憶がある。

 さて横浜市の都市政策がどのように寿町に影響を及ぼしたかを、この本の中で興味深く読んだのは、寿町の分散と縮小を意図したことがあったとの記述である(上巻第1章第6節)。
 飛鳥田市政になった頃、「寿町ドヤ街を分散して縮小・解体の方向へ誘導しようとする分散論」なるものがあったそうだ。まさに寿町都市政策である。

 そして実際に1968年には、横浜市は「寿町周辺地域の建設指導要綱」をつくり、簡易宿泊所の建設規制を始めた。その内容は簡宿の新改築の原則禁止であり、許可するには建築構造や設備等の適切な整備を条件とした。これに限らないが、田村は幾つもの指導要綱を作って、都市政策を進めたことで知られるから、これもその一つであろう。

 しかし分散論そのものは立ち消えになり、むしろ寿町総合労働福祉会館という地域のセンターをつくる方向となり、寿ドヤ街の機能強化になった。つまりドヤ街分散論ではなくて容認論へと進み、現在に見るように新改築されて高層ドヤビル化が進み、ドヤ街は分散することなく現地で繁盛している。

 わたしはその60年代半ば過ぎの当時の横浜を知らないが、ドヤ街を政策的に忌避する空気と、必要悪として容認する現実とのあいだで、現実が勝ったということか。
 と言うよりも分散も消滅も無理で、建てるならばできるだけ良い設備とする指導するしかなかった、それが飛鳥田革新市政の福祉政策の方向であったのだろう。

 この本に登場する田村は、そのような時に要綱を作っていること、そして寿のセンター施設の設計に緒形を起用したとの記述にある。田村時代には横浜市では力量ある建築家たちの起用がなされてきたが、緒方もそのひとりであったのだ。

寿町総合労働福祉会館(1974年竣工、現存しない)

寿町総合労働福祉会館

 たしかに緒形の設計した「寿町総合労働福祉会館」は、寿地区の平凡なドヤ建築群の中に、異彩を放つ大きさとデザインであり、地区のセンターとなる景観と機能を発揮していた。
 そのブルータルな表現はダイナミックであり、開放的な広場や大階段やピロティに、仕事を求める人々、ドヤ住民たち、野宿ホームレスなどなどが日夜群れていて、焚火の煙と相まって独特の活気があった。いかにも民衆的エネルギーを生み出すデザインであった。

 この会館の計画は1971年から具体化して、72年から設計にかかったとある。先ごろ横浜市都市デザイン室が開設50年記念展覧会を開催したが、この会館に都市デザイン室が関わったかどうか分からないが、横浜市の都市デザイン政策の出発プロジェクトとは言えそうだ。 

 いまはもうその会館は無くなり、後継として「寿町健康福祉交流センター」に建て替わり、その名のごとく労働から健康へと時代の変化を映している。デザインは全体配置を継承しつつも、どこかスマートな風貌になっている(小泉雅生設計)。

寿町健康福祉交流センター(2019年開館)

 ここまでが『横浜寿町』の記述にかかわることであり、これからはそれと関連しつつも別にして、わたしが日ごろ感じている横浜市の都市政策と寿町の環境との軋轢を書きたい。

●寿町と首都高速道路

 今の寿町の都市環境の大きな影響をもたらしたのが、飛鳥田市政時代の重要都市政策のひとつである首都高速道路の建設である。寿町地区の南側を流れる中村川の上空に建設した、その高架道路がもたらす日照阻害、騒音、排ガス等の公害を、この街は一手に引き受けさせられている。もちろんその騒音が横浜都心の関外地区に一日中鳴り響いている。

寿町一帯は、街の南側を高速道路の高架で囲まれ、中村川の水面は覆われた

 横浜市内のその建設計画は飛鳥田市政になる前に都市計画決定されていたが、実はs野々市は今の中むらぐぁ上空ではなかったのを、飛鳥田市政で変更してここに移しのだ。飛鳥田市政前の都市計画では、今の大通公園野市に流れていた吉田川・新吉田川の上空に通す決定であったのだた。

 それを中村川の位置に変更した理由は、横浜都心の街の真ん中を通すとは「眉間の傷」になるから変えよと、飛鳥田市長の言葉だったという。中心市街の商業者の声でもあったという。田村はそれを受けて中村川上空高架に都市計画変更したのであった。

横浜都心を抜ける首都高速道路の当初計画(左)と変更後の現実(右)

 具体的には、桜木町方面から関内関外境界の派大岡川の上空を通り、関内駅前でジャンクションを作って堀川方向と吉田川方向に分岐する計画であった。
 これを派大岡川を埋めてその地下に高速道路を埋め、石川町駅前の上空にジャンクションを設けて、堀川上空とと中村川上空に分岐することにしたのだ。
 この計画変更に関して建設省と横浜市の熾烈な論争と駆け引きの経過と結果に関しては、田村の筆で書物になり有名な話となっている。

 そして寿町はもちろんだが中村川両岸地区はもろに公害の街になった。要するに派大岡川部分は地下にして景観上は見えなくなり騒音も防ぐことができたが、中村川と堀川の部分は上空の高架のままであったということだ。
 これを田村は「中村川の上を通るのは景観的には問題だが、他の案よりはましだ(『都市プランナー田村明の闘い』田村明著2006年 学芸出版社 84ページ)としている。

 他の案よりはまし、とはどういう意味か。原案との比較か、あるいは大岡川の上空案もあったのか。それらと比べてよりましとは、この実現計画は景観のほかには欠点が少ないという意味か。だが堀川も中村川も両岸には密度高い街があり、特に中村川のあたりは住宅街である。

 そのころの中村川に沿う街には、寿町と同様に中村町あたりにも簡易宿所が多く建っていたから、住宅街とはいえ他と比べると地元住民とは言えない出稼ぎの労働者が多かったようだ。だから地元からの反対の声が出なかったのかもしれない。

 だからと言って密度高く人々が住んでいたことに変わりはないから、道路公害があってよいわけはない。それでも「まし」とは、そこには都市下層住宅地域とする差別感を感じさせる。関外にあるわたしの住まいからも遠いが高速道路騒音が聞こえるので、「まし」の範囲に入れて貰いたくない。

 寿町の高速道路に面する簡易宿泊所に入ったことがあるが、その騒音はかなりヒドイものである。しかもそれは排ガスとともに夜間も絶えないのである。
 簡易宿泊所は住宅でもないしホテル旅館でもない。建築空間として住宅のような日照や通風について法的保証は無い地位にあるが、事実上は住居として利用されている。
 その利用者の特殊性によって、この立地でも成り立っている不動産であるのだろう。他の機能はこの環境を忌避して入ってこないのが現実かもしれない。この20年の観察で新たな機能として入ってきたのは、数多くの介護関係施設だけであることが、この地区の劇的な変化を表している、

ドヤの南側窓を開けると目の前に轟音の高速道路

 もっとも、数は多くないが、中村川に沿う街でも寿町を離れると、騒音公害の中に高層共同住宅ビル(いわゆるマンションー原義とは大いに異なるが)は建ってきており、売買や賃貸借されている。生活の質的環境よりも、立地の便利さが優先するという現実社会がある。

 更に問題を言えば、堀川から中村川そして大岡川と連続して横浜都心の関外関外をぐるりと三方を囲む水面だが、大岡川と多とは大いに異なる環境になっている。
 大岡川が明るくて市民のレクリエーション利用水面にもなっているのに対して、中村川と堀川は上空を覆われて日の当たらない暗い水面で、市民の利用はほとんどない。

 飛鳥田と田村が決めた高速道路は、一方でこのような都市環境を生み出してるのだ。ちょっと解せないのは、この高速道路が土木学会に表彰されていることだ。しかもその理由が「地域環境に調和し景観に優れた・・」とあり、え?、土木学会は何を考えているのか。

高架道路に覆われて暗い水面

中村川下流の堀川堤防際の高速道路柱にある土木学会田中賞銘盤

 東京の日本橋の上空の首都高速道路を地下に通して、日本橋川の上空の高架道路を撤去する事業が現在進んでいる(その首都高公報サイト)。それができるのだから、こちら横浜の中村川と堀川の上空を覆う首都高速道路も、日本橋川と同じように地下に付け替える事業をぜひともやってもらいたい。山手の丘の下に埋めればよいだろう。

 この高速道路のことはこのブログに既に書いているので、これ以上は述べない。
 ・参照その1:都市プランナー田村明の呪い(2019/09/27)
 ・参照その2:【不思議街発見5】(2018/07/10)

 実はこの本を読んでいてふと気がついたのは、簡易宿泊所の経営者たちはどのような社会史あるいは経済史をもっているのだろうかということであった。だが全く登場しない。
 その多くが朝鮮半島出身者であるらしいが、それはどのような歴史をもつのだろうか。簡易宿泊所の経営とはどのような経済史を持っているのだろうか、それは釜ヶ崎や山谷にも共通するのだろうか。

 この続きは、近ごろの寿町のドヤビル建設の動きから、何かが起きようとしているらしいので、それを書く。  (2023年5月21日記) (つづく


2023/05/19

1686【横浜寿町・地域活動の社会史】都市下層集住社会の課題解決に活動する人々に敬服するばかり

●横浜都心名所「寿町」の歴史の本が出た

 横浜市の都心の中に「寿町地区」と呼ばれる名所がある。そこはいくつかの町名があるのだが寿町で代表されている。
 似たような名所が東京では「山谷地区」、大阪では「愛隣地区」と呼ばれている。それらはいずれも都市下層社会地区の代名詞のようになっている。 

 今年1月出版の書籍「横浜寿町 地域活動の社会史」上下(寿歴史研究会編 社会評論社)を、実に興味深く読んだ。上下巻2冊、いずれも300ページを超える厚さ、しかも横組みだから、見かけはとっつきにくい。目次を見ても硬そうな中身だが、実際に読みだすと止まらなかった。

 横浜都心に移ってきて20年半、この間に都心部のあちこちほぼ残らず歩き回りつくした。もちろん寿町にもちょくちょく足を運んでいる。この機会に少しまとめ的なことと、この本を読んで発見したことなど書いておこう。

 寿町の街並ををちょっと見たところでは、特別に変わったところはない。中高層のホテルのような中高層住宅のような建築群が隙間なく立ち並んで、日本の大都市の中では普通の風景である。知らないとなぜここが名所なのかと思うだろう。
 だが、この本を読むと、その平凡な街並みの中では、こんなにも熱いドラマが日夜繰り広げられていたのか、そして登場人物たちの多彩なことに驚くのである。

 ここに密度高く肩を並べて建ち並ぶ平凡な都市建築群は、通称はドヤビルと呼ばれ、ドヤとは宿の隠語に起因する。つまり宿と呼ぶにはいかがわしいというかレベルが低い宿泊施設であり、法的には簡易宿泊所と言う。要するに超安宿である。それに似合った施設とサービスである。
 宿とは本質は旅人が短日の仮寝の場であるのだが、ここでは都市下層民の生活の本拠になっているという大きな変質がある。

 都市社会の底辺に生きる人間たちが、小部屋の個室に住みついて、居住密度が極端に高く暮らしている。しかも低所得の高齢者層が8割を占める偏りである。
 それは日本社会の戦後諸問題が時間とともに変質しながら凝縮されて詰め込まれてきた姿である。ハードソフト両面でのあまりの密度の高さに、読んでいて息苦しくなる。それは街を見ただけでは分からないのが、この寿町の特色かも知れない。

 それに気づかされるのは、書き手が第三者ではなくて、ここで起きてきた諸問題の現場に真正面から取り組んできたた活動の実践者たちだからだ。
 都市横浜の悲惨な戦争直後からの社会史の現場の語り手たちの言葉は、日本の戦争の語り部のそれに匹敵し、戦後社会戦争の語り部といってよいだろう。

 わたしは横浜都心部の一角に住みついて今や20年を越えようとしている。都市計画を専門にしていたわたしは、現代の隠者は都心に住むにかぎると思い込んでいて、高齢者の仲間入りした年に実践した。
 いまや都市の変化を眺めて楽しむのが趣味である。隠居してからやってきたよそ者としては、この都心部のどこもが単なる傍観者であり、繁華街も観光街も住宅街も、そして寿町もそのひとつにすぎない。だが、この本に登場するトピック中のいくつかには、わたしも遭遇もしているので個人的興味もそそられた。

 このブログ読者で、横浜寿町あたりをよくご存じない方にちょっとだけ概要紹介。
 約6ヘクタールの範囲にこのような人々がいる。1000人/haとは超過密である。



 概要をもう少し知るには、わたしが4年前に作った寿町ガイドパンフをご覧ください。

●寿町にも徘徊の足を入れた

 わたしが横浜関外の一角に住むようになったのは、2002年の秋だった。それまでは鎌倉の谷戸の奥で深い緑に埋もれていたのを、街なかの空中の広く開ける住まいに、つまり正反対の環境に大きく変えたのである。
 日常買い物にもバスで通う不便から変わって、歩く範囲に何でもある超便利生活になった。鳥の声が一日中の日々は、街の多様な騒音の日々となった。
 それでも歳をとると便利な方がはるかに良い。

 関内と関外の街の表も裏も、海港のあたりも山手のあたりも、ヒマさえあれば眺め歩く徘徊の日々である。この都心にはありとあらゆるものが存在するとほとほと感心しつつ、好奇心はますます増すのである。もちろんそれは年寄りのヒマツブシに役立つだけである。

 街の表の顔として見せる観光街やビジネス街、日々の生活のある住宅街、それぞれ違う商店街などなど、観光客向け、買い回り向け、最寄り向けなど多様な街のゾーニングがある。
 それら多様な中でも特異なゾーンは寿町周辺地区である。ここがドヤ街として有名であることは知っていたので、他の街とは違う先入観と好奇心でこわごわと通り過ぎていた。

 わたしが横浜都心徘徊を始めた2000年代の半ば過ぎまでの寿ドヤ街は、その中心部の広場に酒を飲みつつ焚火をかこむ野宿人たちが大勢いて、道端に用もなく座り込む人たちがあちこちに居て、ちょっと怖い雰囲気と風景が印象的だった。
 沢山のゴミがあちらこちらの道端に積みあがっていて、小便臭い所も多かった。そんな街でも何度も通りぬけるうちに、普通の街の姿に見えてきた。

2008年の暮れの寿町風景には街角のあちこちにまだゴミの山があった

2007年の夏、寿町の職安前の待合広場には野宿の人たちがいた

 わたしがこの辺りも徘徊しだしたころはまだ汚かったが、200年代半ばあたりから寿の街が、特に道が次第にきれいになってきた。路上放置自転車の整理並べ替え、路上のゴミの片づけ、路上の各所に花が置かれて、それが勝手な焚火や立小便をなくしていったようだ。
 この本を読んで知ったが、その契機は2002年サッカーワールドカップ大会だったという。やってくる外国人に恥ずかしいからとの不純な動機でも、結果はそれで良しとしよう。寿は21世紀初め10年余で次第に普通のきれいな街の姿になる事実を、徘徊で眺めてきた。

 だが、わたしがこの街にあまり興味がわかなかったのは、街並風景に特徴がなかったからだ。これが壊れかけ家屋だらけで迷路のような路地だらけの、いわゆるスラム街ならば興味がわいたのだが、ただの平凡な小規模共同住宅ビルが立ち並ぶだけの姿は、特に面白くもない。
 ところが実はその中ではとんでもない社会的問題の数々があったのだが、新聞情報以上には思いは及ばなかった。それをこの新刊『横浜寿町』でつぶさに知った。

2007年夏、寿のドヤビルが立ち並ぶ平凡な街並

 ついでに書いておくが、わたしが横浜都心隠居して最も関心をもって変化を眺めてきたのは、都心部街並の戦後復興として計画的に建設した「防火建築帯事業」の姿である。

●寿町に泊まりに行ったこと

 2007年夏の初め、ある都市研究会が主催する寿町見学会に参加した。都市計画の専門家たち10人ほどで、寿町ホステルビレッジの受付フロントロビーを拠点にして、ドヤ街を歩き、ドヤビル(簡易宿泊所)の内部にも案内してもらった。
 わたしはそれ迄は勝手に道を歩いていただけだったが、はじめて建物の中に入り、この街で活動する人たちの話を聞いた。興味がわいてきた。

2007年夏の寿町の中心部風景

 この時に案内役だったのがYさんとYTさんで、ファニービーという地域活動組織の人であった。「さなぎ達」というNPOもあったようだ。寿町ツアーはこのファニービーの収益事業であったらしい。地域資源をもとに活動資金を得てる事業のひとつであろう。そのころわたしもあるNPOの番頭格をやっていたから、よく分かる。

 ファニービーのリーダーのYTさんとは名刺交換したので、以後はファニービーから時々は活動情報がメールで来るようになった。たまには会合に顔を出したこともあり、ホステルビレッジの宿になっている林会館の屋上で、賑やかなパーティーに参加したことがある。
 YTさんは気さくに人と人を結び付ける役目をしていた。地域社会に活躍する女性活動家として、どこかの団体から表彰されて、マスコミに評判になったこともある。

 Yさんはこわもて風体でよくしゃべる男で、リーダー的地位にいるような態度だったが、名刺交換してくれなかった。どこかインテリヤクザの気配で、正体不明のような雰囲気があり、わたしは敬遠したくなる人だった。実はその気分は当たっていたと、この『横浜寿町』のなかの一文を読んでわかった(後述)。

2007年夏の寿町ツア風景 YさんもYTさんもいる

 その2007年夏の終りに、わたしが深く関係するNPO活動のひとつとして、寿町宿泊見学会を行った。ホステルビレッジに予約してドヤ林会館の5階に泊まった。
 このときも前述のYさんとYTさんにいろいろ案内してもらった。さなぎ食堂で300円定食を食べたのはもちろんである。
 この時のことはわたしのブログのここに書いている。

2007年夏 寿町で泊まったドヤの3畳間

 ホステルビレッジ、さなぎ達、ファニービーという名称の活動と事業の組織があり、このころはなんとなく妙に寿町あたりが上昇している雰囲気があった。それが2000年代初めから半ば過ぎまでのことであった。
 「ドヤの街から宿の街へ」というキャッチフレーズがあった。徘徊の通りすがりに見れば、ホステルビレッジのフロントはいつも賑わっていた。この街にも外国人やスポーツ少年たちの泊り客が行き来するのに出くわしたものだ。ドヤは安宿に変化しつつあるのかと思ったが、今になると実際はそうはいかなかったようだ。

●「横浜寿町」で知ったある顛末

 それから1年くらい後になった頃だろうか、メール情報が来なくなった。徘徊途中の覗くホステルビレジのフロントあたりの賑わいも、あまり見えない感じになっている。いつも見えていたYさんもYTんも、消えた如くに見えなくなった。
 事情を知っていそうな人に聞いても口を濁すばかり。なにか寿町らしい?事件でもあったのだろうか、わたしはそう思って、あい変わらず街の姿観察の徘徊をやってきて、ふたりのことを忘れていた。

 寿町の街は相変わらず貧困ビジネス街として繁盛している様子である。古い中層ドヤビルがあちこちで高層ドヤビルに建て替わってきている。街の中核施設の「寿町総合労働福祉会館」は老朽化で建て替えられて、「寿町健康福祉交流センター」なる名前で立派になった。労働がなくなって健康が入ってきたのが、時代の変化を表して居るのだろう。

1974年に新築した寿町総合労働福祉会館は2016年に建て替え開始


寿町健康福祉交流センターが2019年6月に開館した
 でも、寿公園ではあい変わらぬ炊き出しなどは行われていて、寿町の中身に大きな変化はないらしい。そして今、出版されたのが「横浜寿町 地域活動の社会史」である。それで思い出して、もしかして上記の消えたYさんとYTさんのことが書いてあるかと読んだら、あった。

 そうかそうだったのか、やっぱりなあ、それでYさんは消えたのであったか。「さなぎ達」の集まる場所も消えたし、300円定食の店も消えたのはそうだったたのか。おぼろに想像していたが、どうやら犯罪がらみらしい。わたしが彼に出会った2007年頃にはすでに暗雲がたちこめていたのであったか、2008年に彼は寿を追われたとのこと。

 でもその話に隔靴掻痒の感があるのは、その顛末を記す「横浜寿町 第6章第4節」の筆者の推理小説家山崎洋子さんでさえも、現実の良く知る人間の犯罪がらみは書きにくかったのだろう。いや、山崎さんだからここまで書き得たのだろうか。
 Yさんがが消えたことは書いてあるが、あの女性のYTさんも消えたのはなぜか、とばっちりなのか、まさかと思うが彼女も共犯だったのか。

 そしてちょっと驚いたのは、そこに登場する多様な活動の中心にいる赤ひげ医者のことだ。わたしはそのころはまだ知らない人だったが、いまはこの山中修医師に面識がある。3年前のコロナワクチン注射を契機に、山中さんはわたしの妻の持病治療のかかりつけ医になっている。

 「さなぎ達」という活動組織が、寿町に旋風を起こし、そこの中心人物2人は姿を消し、組織も消えたが、実質的な中心人物として登場した山中さんの医療活動は今も続いている。つまり私にも赤城げ活動が及んでいるのである。どさくさは決して無駄ではなかった。
 「横浜寿町」下巻第6章第4節「NPOさなぎ達の設立」を、そのように読んだのだった。そしてそこに紹介してある「ポーラのクリニックのブログ」で更に深く知った。

 横浜寿町ドラマは、いつも深刻な現実を抱え込みながら、中山さんをはじめとする多くの役者たちが登場して、ひとつひとつ解決させてゆき、地域社会を前進させている。
 そして、その端っこに超高齢になったわたしもいるのだと、妻の診察に付き添って先生の言葉を聞くことで、ようやく分ってきた。

●寿町について次に書いておきたいこと

 ところで、横浜市は都心部の「都市デザイン」で有名である。都市デザインとは街の姿を美しく整えるばかりではないが、さて、横浜都心の重要な一角を占める寿町あたりに、横浜都市デザインはあったのか、例えば首都高速道路と寿町とか、緑のネットワークと寿町とか、なにか関係あるのか、ないのか、それを「横浜寿町」なる書籍の中をさがすのだ。

 また、その本にこのテーマがあるかと探したのは、ゼントリフィケーションである。最近になって高層簡易宿泊所ビル(いわゆるドヤビル)ならぬ高層一般分譲共同住宅ビル(いわゆる高層マンション)が、ドヤ街の中に建ち上った。ドヤならぬホテルの建築計画もある。
 こればかりではないがこの20年に徘徊での観察で、寿町の土地利用の変化を興味を持ってみてきたが、それらの変化がどのような方向に行こうとしているのか、ますますドヤ化が進むのか、次第にいわゆるマンション化が進むのか、ゼントリフィケーションが始まるのか、いやそうはならないのか、どうなるのか興味がある。

(20230517記  つづく

2023/05/11

1685【飲料屋は道端自動販売機で丸儲け】コーラ買おうと160円入れたが瓶が出てこない顛末記

 さわやか季節になって、街なか徘徊で定点観測の裏道や坂道の変化を楽しむ。1時間ばかり歩いて喉が渇いたので神社境内で一休みしようと、道端の飲料自動販売機に160円を入れた。
 銭は箱に入ったが、瓶が出てこない。コカ・コーラボトルが出てくるはずだ。取り出し口の蓋を開けてしげしげと眺め、指を突っ込んで撫でまわした。なにもない。返金レバー回しても赤い箱は平然としている。

 この自販機は駐車場ビルの前にあるのだが、問うべき人がいない。しょうがないなあ、160円あきらめるか、いや、このままだと癪だし、どうせ暇だし、まだ日は高いから、ちょっと遊んでみよう。

160円丸儲けのコカ・コーラ自販機
 自販機の表面に、こういう時の連絡先電話番号を記した紙が貼ってあるので電話した。コカ・コーラ屋関連企業らしい機械音声の反応があり、番号を次々と告げて用件に対応する番号を押せという。めんどくさい。
 で、3番を押したらこういう時の対応係らしい女性らしい声の人間が出てきた。

「どんなご用件でございましょうか」
「自販機でコーラを買おうとしたら、お金だけとられてど品物が出てこないんです」
「どうも申し訳ございません、お買い求めの商品は何でしょうか」
「コカ・コーラの瓶1本のはずが、空気だけでで160円だったね」

「まことに申し訳けございません。恐縮ですがその自販機の番号をおっしゃてていただいてよろしいでしょうか」
「え?、通りすがりのわたしにそんな質問をなさっても、この番号を君に教えて良いのか悪いのか、判断できません」
「あ、失礼しました、その番号をおしえて下さい」
「●●●●●と書いてあります」
「ありがとうございます、今調べます、、、その自販機は横浜市日ノ出町2丁目の○○駐車場の前にあるでしょうか」
「ああ、ここが2丁目かどうか知らないが、近くに日ノ出町駅はあるね、このビルには大きな看板に○○と書いてある」

「ありがとうございます。お金をお返しいたします。ご自宅に160円を現金書留で送りたいのですが、よろしいでしょうか」
「あのねえ、それじゃあ160円よりもはるかに多くの費用が掛かるでしょ、そんなこと要求したらこちらが理不尽になるでしょ」
「はあ、いえ、それでもお返ししたいのですが、いかがでしょうか」
「それよりもこうしなさいよ、自販機設置しているこの駐車場ビルと君のところとは設置の契約してるでしょ、ビルの人にそちらから今直ぐ連絡して、外の自販機の前で待つ人に160円を持って行けと言いなさいよ、それが一番手っ取り早いでしょ」
「すみません、それはできないのです。スマフォをお持ちでしょうか」
「なんでできないんだよ、ああスマフォ持ってるよ、今かけているこれですよ」
「そのスマホにナントカカントカカントカナントカシテ、自販機から飲み物を1本差し上げるようにしたいのですが、いかがでしょうか」

 このスマフォ利用弁償方法とは、さすがに今の時代であると思った。だが、言ってることを理解できない。わたしのスマフォ利用はSNSとブログを読む専用なのだ。金銭を伴うアプリケイションは全くない。

「おお、さすが今どきだなあ、電話とネットを使って弁償か、いいねえ、でもね、わたしは90歳近い爺さんだよ、若者の様にスマホでそんな芸当できないんですよ、ダメですね」
「はあ、そうですか、では、電話番号を教えていただき、後ほど担当の者から直接に電話を差し上げて、お返しする方法を相談させていただきますが、よろしいでしょうか」
「はあ、しょうがないですね、そうしましょうかね」

 実のところ、わたしはもうどうでもよくなってきた。だが、ここで引き下がっては、160円と言えども何の関係もないコーラ屋に、この貧しいわたしが丸儲けをさせるのが癪だ。こちらは暇だから、この事件を面白がることにして、次の展開を期待して電話を切った。
 徘徊をふらふらと続けても、電話はかかってこない。あのまま逃げるのかな、まあいいけど、なんて思っていると、1時間半ほどたって男の声の電話が来た。

「お金をどうしてもお返ししたいのです。どちらにお伺いすればよろしいでしょうか」
「おお、今すぐなんだね、さっきの自販機から200mほどのところだよ」
「あ、すみません、今わたしは遠くにいるのです」
「なんだい、それじゃあしょうがないでしょ」
「後日お宅に伺うのはいかがでしょうか」
「あのね、どこから来るのか知らないけど、160円持って横浜都心くんだりまで来るのかい、交通費も人件費もムダすぎることだねえ」

「いえ、はあ、では、現金をご自宅に送付させて下さい」
「実はね、10年ほど前にも同じようなことが田舎の畑の中の道にあった自販機で起きてね、その時に電話したら120円の現金を郵送してきたね、それを受け取って考えたねえ、わたしはなんという馬鹿な要求をしたものか、いくらなんでもこんな無駄をさせるなんてねえ、と、後悔しましたよ、自分が嫌になりましたよ、今回もそんなことしたくないですね」
「はあ、すみません、でもお返ししないわけにはいきませんので、なんとか、、」

 話は堂々巡りする長話の気配になってきた。もうケリを付けよう。

「あのね、君のところの自販機は日本中にものすごい数があるでしょ、そしてこのような事件は日常茶飯事でしょ、そのほとんどの被害者はめんどくさくてあきらめて何も言わないでしょうね、少額でも積み上げると膨大な金額でしょうね、コカ・コーラ屋さんはそれで丸儲けしているんですよね、そうでしょ」
「はあ、いや、分かりませんが、そうでしょうね」
「それは自販機と言うもの宿命というか、それも企業の商売方法だろうが、それでいいと思ってるのかい?、コカ・コーラってそんな企業かい?、イメージ悪いよ、何とかしなさいよ」
「いやあ、はあ、あの、すみません」
「もうわたしはこれでおしまいにしたい、だから君は上の人にわたしの話をきちんと伝えなさい、企業イメージにかかわることだ、何とかせよと言われましたと。いいですね、それを条件にして、こうやって電話をかけてきた貴方の誠意に免じて、これでおしまいにします、電話切ります、さようなら」

 結局は、コーラ屋の作戦に引っかかったのかもしれない。ヒマツブシにはなった。
 家に戻る途中にコカ・コーラ配達用の真っ赤なトラックを見つけた。そうだ、このような車があちこちにいるよなあ、これに連絡して160円返済させると簡単なのになあ、。

 ということで五月晴れの街で、徘徊中のヒマツブシでした。

(20230511記)


2023/05/10

1684【海外郵便発送の超面倒】昔は袋に宛名書けば済んだのに今じゃ郵政ドジシステムに悩むばかり

  コンピュータと会話しつつ用を言いつけると、それにちゃんと回答してくれるAI(生成AIというそうだ)が出てきたとか。大学の教師は学生が出してくるレポートの類が、AIが作ったものかどうかわからない、なんて悩みがあるらしい。学生の方は悩みがなくなったかしら。

 要するに、これまで世の中のコンピュータに誰か彼が書き込んだ文字や絵など超大量の情報を、GAFAMとかナントカと言う情報屋がどこかに蓄えてあるのを、生成AIの奴が片端から見てその知識にしているらしい。そして人間の要求に対応するアウトプットを生成して教えてくれる。

 なんだか面白いことになった。学校教育が変わるだろうし、ちょっと考えて思いつくのは、裁判官も検察官も弁護士もそれぞれの生成AIを従えておけば、各法律PCデータはいらなくなるのか。裁判はそれぞれ生成AIが丁々発止と闘うのだね。生成AIをいかに使いこなすかが有罪無罪の分かれ目か、当たりまえのことだね。

●今や国際郵便もネットで

 そんな時代が来ようとするときに、今日もあい変わらぬ訳の分からないPCの中でやる手続きに振り回される経験をやった。去年夏に国民背番号カードによる5000ポイント獲得手続き以来である。
 今回はカリフォルニアに住む友人に本を送るための外国郵便発送手続きで、実は生まれて初めてのことだ。これが全く面倒なことこの上ない。いまは慣れたがまるで初めてやった所得税確定申告である。

 昔は外国に郵便を出すときは、国内と同じように袋の表に宛先を書けばよかった。今は違う。郵便局の提供するコンピューターシステムの中に入って、あれこれとたくさんのデータを書き込む必要があるし、いろいろな発送方法から選ぶ必要がある。コンピューターで事前に申し込む必要があるのだ。

 それはそうするべきでもよいのだが、問題はどうやって書き込むのか、どうやって選ぶのか、まことに面倒で分かりにくいのだ。要するにシステム(というよりデザインと言うべきか)を作ったやつには分かりやすいが、顧客には実にわかりにくいのだ。
 文章が悪い、レイアウトが悪い、書き込みに齟齬がある、設計がドジだ。

 初めに入門ページを見て、いちおうは全体像を知った。そして発送方法の種類や料金やらをあれこれ沢山知った。
 そして発送方法の内で「国際eパケットライト」がまあまあ安くて1300円前後、速くて5日前後と分かった。注意書きに、この発送方式を扱っているが今は書留はできないとあるが、その必要ないからこれで発送すると決めた。

 そこで送り状作成に取り掛かったのだが、作れという「国際eパケットライトラベル」なる送り状を作るページが出てこない。何回やってもこれを作るページにたどりつかない。
 しょうがないから、とりあえず出てくるものでやってみようかと進めば、料金4400円ほどになっている。これは高すぎる、違うなと、また初めからやり直し、でもやはりだめ。

 気を取り直してまた入門から始めるとことにして、面倒だけど「よくある質問」を読み始めた。アレ、なんとそこには、この「国際eパケット」は今は扱っていない、とあるのだ。
 おいおい本流の方には扱ってるけど書留できないと書いてあるぞ、なのにこちらには扱っていないとある。ということは、これまでどうしても出てこないのは、扱ってないからなんだろう。
 あのなあ、よくある質問に書いてあるなら、本流の方もそう書いておけよ、おかげで1日丸損したぞ、バカヤロ。

●船便で発送したが、

 では一番安い方法にしようと「船便」で送ることにして、不親切な書き込み方法指示にヨロヨロ行ったり来たりしつつ出てくる画面に従って書き込み作業を進めて、ようやく送り状プリント2枚に至った。そのアウトプットの紙を見たとて、なにがなんだかわからない。
 とにかくその紙と送る品物(本2冊)を持って、近所の郵便局に行き、これをどうするのか分からないから後を頼む、と押し付けた。ここでまたうまく行かないと喧嘩だなと感じた。

 受け付けた係員の応対はそれなりに丁寧だが、不慣れらしくマニュアル出したり、奥に聞きに行ったりしている。料金は440円、日数は1か月ほどとて、急ぐものでも腐るものでもないから、これでよしとした。
 終るまで20分くらいもかかった。じっと我慢していた。

 カウンタの前に張り紙があって、近ごろ大声で社員を怒鳴りつける人がいるが警察に通報するぞ、なんて趣旨のことが書いてある。なんだよお、おれじゃないよ。
 そうだろうなあ、うちでもPCの前でじっとあれこれ我慢して、ここに来てもじっと我慢では、怒鳴るやつがいるかもなあ、でもなあ、怒鳴る原因は多分にあの郵便局側のドジシステムデザインにあるんだよ、あれをまず改良しなさいよ。

 そうか、いまに生成AIになって、グっと便利になるのかね。ヤレヤレ、待ってますが、間に合うかなあ、わが生きているうちに。

(20230510記)

(追記2023/08/02)
 本日、USA CALIFORNIAに住む畏友から電話あり、わたしが5月発送した書籍が本日到着した、とのこと。1か月の約束が3カ月かかるとはねえ、でも着いてよかった。
 この間、この受け取りて友人と電話やZOOMで話すときに、まだ来ない、え、未だつかないのか、と何度かやり取りしていた。太平洋で遭難したらしいから航空便で送りなおそうかと考えていたところだった。
 ともかく、着いてよかった。その本はわたしが本づくり趣味で自作しものだが、中身はその畏友の著書である。この5年ほどの間に仲間で発行する同人誌に載せた彼のエッセイを集めて編集した著作集で、67年にわたる友情の記念誌ともいうべき書籍である。

 一昔前の郵便やりとりが普通だった頃の世間一般の物事のゆったり感を思い出し、今どきのスピード感におぼれている自分を顧みるのである。(完)

参照:【本づくり趣味自製ブックレットまちもり叢書シリーズhttps://datey.blogspot.com/p/machimorisosyo.html

 

2023/05/08

1683【コロナ格下げで諸事解禁】みとせ余もつづきしコロナ禍けふよりはただの風邪かやそはまことかや

 今日2023年5月8日から、これまで3年半も続いて世を悩ませつづけるコロナウィルスの、行政上の取り扱うレベルを大きく格下げするそうだ。
 これまでは感染法上の2類にしていたが、今日から5類に分類しなおすという。3段分格下げである。相撲で言えば横綱に続く2番目の地位である大関だったのを、その下の3番目の関脇も4番目の小結も飛ばしてしまって、一気に前頭に転落ということか。

 ということはあんなに猛威を振るったコロナの奴は、今やそれほど弱ってしまったか、あるいはどこかに行ってしまたのか、それとも地球上から消え去ったのか、そしてまだわずかに残党がいるから完全廃業引退をさせないでいるのだろうか。
 おお、とにかくよかったなあ、もうマスク要らない、惑珍注射要らない、ふらふら出かけてよし、飲み会やってよし、どこに旅行に行ってもよし、、、なんだね。

 ほんとうかなあ
みとせ余もつづきしコロナ禍けふよりは
ただの風邪かやそはまことかや

 これまで8回もの波状攻撃をしてきたのが、もうこれでパタッと消滅かい?、え?、あれほども何回も大波が来たのにさ、あのねえ、波ってのはだんだんと小さくなっていくもんだろ?、池に石を投げ込んでごらんよ、そうだろ?、え?、違うの?

 ほら厚労省サイトに載せているこのグラフ、これまでのコロナの奴の波だよ、見てごらんよ、次々と襲い来る波はしだいしだいに高くなって来てるでしょ、この波が消えるまでには、しだいいひくいなみになっていくものだろ?、え?、それがさ、8回目でパタッと力尽きてまっ平ら、もう9回目はないというのかい?、いいねえ、でも、ほんとうかい?

 あのね、このグラフのいちばん最後の右下を見てごらんよ、なんだか蛇がシッポか首をちょいともたげようとしている感じだろ?、え?、そう見えるだろ。
 これがじわじわと持ち上がって第9波になる、なんてことないんだろうね、いや、なんだかありそうな気がしてならないなあ。
 あ、そうだなあ、この次にくるとしたら多分、年の暮れだね、そう、なんしろ「第九」だからね、「第五」の出だしもつれてきて、ジャジャジャジャ~ンって、跳ね上がる!

 で、ほんとにもうマスクもなしに飲み歩いてもいいのかしらと、いつもはナナメ読み新聞を今朝はしげしげと眺めて見た。おお、こんなことを言ってるよ、あのオミ先生が、。

「新型コロナウイルスの感染症法上の位置付けが8日に季節性インフルエンザと同じ5類に移行するのを前に、政府対策分科会の尾身茂会長が東京新聞のインタビューに応じた。 5類になっても、高齢者らにとってはリスクの高さは変わらないと指摘。「地域で流行が拡大した際には、不特定多数の人が利用する電車ではマスクを着用するなど、より慎重な感染対策が求められる」と話した。

 今後の見通しについて「波の高さはともかく、第9波が来ることを想定した方がよい」と強調。重症化リスクが高い人をいかに守るかがポイントだとして、「高齢者と接触する機会が多い人だけでなく、それ以外の人でも地域の流行レベルが高い時に高齢者と会う際には、感染対策により注意を払ってほしい」と話した。(東京新聞2023年5月8日 06時00分)」

 なんだよ、よく読むとよく分かったよ、コロナは消滅なんかしてないんだ、「第九」はくるんだってさ、ほら言ったとおりだろ。

 それにマスクしなくてもよいって政府は言ってるが、オミさんはより慎重にしろと言ってるよ。考えてみるとすごいのは、わたしのような超高齢者にとっては、コロナリスクがむしろ今後は高まるってことだよ、だって若い者はみなマスクしないでよいのだから、そこら中にコロナをばらまくようになるだろ、でも老人だけはマスクしてコロナをばらまかないようにしろって、一方的受け身老人だよ、不公平極まるぞ、そりゃまあ老人が増えすぎて世の中は困っているだろうけどさ、コロナを格下げした目的は、そうやって老人を減らすためであったか、露骨すぎるよ。

コロナ百人一首狂歌

春過ぎて夏来にけらし四六時のマスク捨てたり風のかぐわし

ひさかたの光のどけき初夏の日に静心なくコロナ消ゆらむ

  ま、とにかくこうなるんだそうだ、なんかよく分からんが、。


とりあえず15日に近所の医院で第6回目惑鎮注射だあ。 

(20230508記) 

参照:コロナ大戦おろおろ日録