2023/12/31

1772【階段や梯子の最後の段を踏み外す話】太平洋と七百年の時空を超えて響きあう警句

 学生時代からの親友のが、もう半世紀以上もカリフォルニアに住みついている。その頃の山岳部仲間8人で作っている同期会があり、会誌を毎年1回作っている。何を書くか自由であり、いわば、まだ生きている証拠を残すためのようなものである。

2023年の会誌

 2023年12月31日発行日付の今年の会誌に、が書いたエッセイは『「歩くこと」に関する考察』というタイトルである。要するに年とって来て、歩くのが下手になったことを、エンジニアらしくあれこれと自己検証する方法を考え出したという話である。

 その中の一つの項に「階段や梯子の最後の段を踏み外す」との話がある。ちょっと長いが、その要約を載せる。なぜそれをここに載せるかは後で述べる。

ーーーーー引用(一部省略)ーーー

 階段や梯子の最後の段を踏み外すという問題は、かならずしも老人だけに起きる問題ではない。実際、私は二度ほど経験しているけれど、いずれも、不幸中の幸いで、50代60代に起きている。ただ、足を捻挫して1~2週間痛めただけだった。

 日本のプロ野球のある監督が、自分のチームが首位で戦ってきたペナントレースの終わりに近づくも負けに負けが続いたのを見て、「試合は最後に強くプレーせよ」と叱咤激励したとか。これはアメリカのMBA のクラス等で引用されている。

 今から20年も前、頻繁に訪日していた頃、ある床屋で時間つぶしに取り上げた柳生連也斎の文庫本の一節・・・武芸者AとBは、小雨の降る夜の河原にもう小一時間も対峙している。技能は5分と5分。ふっと雨がやみ雲から月が顔をのぞかせた刹那、武芸者Aは目を瞬き、武芸者Bは「しめた!勝った!」と切り込んだ、が、切られたのは武芸者Bであった。勝つ前に勝ったと思ったほんの一瞬に奢りの隙が生じた・・・と書かれてあった。 

 上記の2例は、事が成就する前に成就したと思ってしまう態度の顛末が書かれている。実際、私が梯子の最後を踏み外した時も、暑い日照りの中、家の修理を終え、やれやれと思いながら梯子を降りてきて、最後の一歩での不注意、即ち最後の一歩を完成せずに、仕事は終わったと思ってしまった事が原因して、足を捻挫してしまったのである。不幸中の幸いは、まだ若かったので老人によく起こる複雑骨折を免れたことであろう。 

 武士の時代の真剣勝負の教えが、AI時代の今日にも通用するということらしい。この梯子の例を前述のバランスで考えると、ただボケ~ッと前を見ていただけで、仕事が本当に終わるまで視線ベクトルを安定させていなかったからなのである。(後略)

ーーー引用終わりーーーーー

 は柳生連也斎の時代の昔話を持ち出しているが、わたしは似たような話を読んだ記憶が脳の端っこにひっかかってきた。それは柳生連也斎がいた17世紀後半よりもはるか昔の話だったような、おぼろげな記憶をあれこれ本棚やらネットやら探したら、あった。

 それは有名な「徒然草」(吉田兼好 1283-1350)の中ににあった。徒然草は1330年頃に書かれたとあるから、柳生連也斎よりも350年くらいは昔の話になる。
 「徒然草第百九段」に「高名の木登り」という話がある。その全文を引用する。

ーーーー引用ーーーー

 高名の木登りといひし男、人を掟(おき)てて、高き木に登せて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るる時に、軒長(のきたけ)ばかりに成りて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍(はべ)れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕(つかまつ)る事に候ふ」と言ふ。

 あやしき下臈(げろう)なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難き所を蹴出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。

ーーーーー引用おわりーーーー

 わたしがここに徒然草を引用したのは、の話の補強になるかもしれないが、まあ、単に老人の記憶を探した思い出話にすぎない。
 だが、700年ほども隔たる超有名な日本古典随筆の一部と、太平洋を隔てるアメリカ人の親友の筆が、時空をはるかに超えて響きあうことを、嬉しがってもいるのだ。ちょっとオーバーだが、。

(20231231記)

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2023/12/29

1771【柿色政治家】そのテーマカラーはかつては非人や囚人の衣装の色だったとご存知かしら

 この数日、検察の特捜部によって、国会議員たちの家宅捜索やら逮捕やらが、立て続けに行われている。今朝の新聞に柿沢とかいうお方の記事がある。このか方は逮捕されたようだが、わたしの興味はそちらではなくて、この新聞記事の見だしにある「柿色」である。
 今回の事件の元になった江東区長選挙で、区長候補応援スタッフが柿色のジャンパーを着ていたというのである。この人たちは柿沢某氏のスタッフであることを意味するらしい。

 衣類と柿色でひょいと思い出したのは、歴史家の網野善彦による『異形の王権』という、もう35年ほども前に読んだ本である。本棚から探し出して読み返した。それによると中世では、柿色の衣をつけていた人々は「非人」(ひにん)と言われていた階層の人たちであったという。
 非人とは何者かとなると話が長くなるから、ここでは詳しくは述べないが、この本は面白い。久しぶりに読ませてくれた柿沢某氏に感謝。

 要するに、言葉のとおりに「人間にあらざる人」ということで、賤民もいれば神につかえる人もいれば、身体障碍者もいるし、乞食や病人もいた。上層部の人々ではないことは確かだが、全部が賤民ではなくて特別な階層にいた人々と言う意味に近いのだろうか。

 そしてずっと後世、19世紀末の近代監獄制度ができたころは、監獄にいる囚人の衣装は柿色であった。逃亡を防ぐためか上から下までかなり派手な赤い色であったようだ。この人々も特別な位置にいる人たちには違いない。

 ネットで柿沢某氏の姿写真を検索すると、柿沢某氏はご自分のテーマカラーを柿色になさっているらしい。柿色の歴史的意味をご存知でそうなさったのか、単に姓との連想でそうなさったのか、どちらだろうか。
 いま、柿沢氏は現代における非人なる階層に転落するのかどうか、かなりきわどい所におられるらしいが、でも自ら柿色衣装になさるのは、まだ早すぎると思う。

 では、柿色とはどんな色なのかと、柿沢某氏ご当人の写真と色見本を並べてみる。柿色よりも少し照柿色に近いか。

 そういえば今思いだしたが、都知事の小池某氏のテーマカラーが緑色であるようだ。もしかして政治家はみんなテーマカラーをお持ちかしら。それならその色の歴史的意味もお考えになっておくほうがよろしいですよ。
 ついでに歌舞伎の定式幕を見ると、黒・・萌葱のストライプである。歴史的想像をすると、ここでの柿色は、たぶん、芝居役者は河原者という非人のひとつであったことを意味するのであろう。

  これ以上書くとわが筆のいい加減さがどんどんバレるので、ここらへんで幕引きにしよう。

(20231229記)

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2023/12/27

1770【マイナンバーカード改名】マイナーカード・まいないカード・個人番号カード・コバカ

  今日(2023年12月27日)のNHK WEB NEWSにこんなことが書いてあることを発見した。


 おお、わたしはこれまでに何度も、「マイナーカード」って変な名前だと散々に馬鹿にしてこのブログに書いてきたら、気が付いたのかどうか知らないが、ついに改名するらしい。

 でもねえ、この7月のNEWSでは、あの出痔垂れガンコ大臣コーノさんでさえも、(たぶん)このネーミングが変なことに気が付いて恥ずかしくて変えたかったのに、官房長官がこんなこと言って変えさせないのだった。
 どうやら、このたび官房長官が交代したので、ようやく改名にとりかかったのかしら。
 なんでもいいから、こんな名前なんてはやく変えてた方がいいよ。名前から連想するのが「マイナーカード」ってのも変だけど、「まいないカード」とも連想させられるので、なおさらオカシイ。
 政府発行の重要なカードを賂(まいない)に使えるのかしら、政府に言わせると行政手続きが何でも便利になるそうだから、そうかもしれないとも思う。どうしてそんな愛称にしたのか、言語感覚を疑っているのだ(ねんのため解説:「まいない」とは賄賂のこと)。

 ついでに言えば、変えないと言った前官房長官は、いま大評判の安倍派裏金というネコババ主犯のひとり、見ようによってはあれは「まいない」のような気もする。銀行カードと紐付けするなら、賂も便利になるさ、いや、ばれやすいか、。。
 「紐付け」も金融業界の隠語らしく、わたしはこの歳まで知らなかった言葉だ。とりあえず持ち合わせのカード類をひもで結んでおいた。リンクと言いなさいよ。
紐づけたカード類

 もっとも、改名じゃなくて、法律に言う正式名称「個人番号カード」に戻すってのもあるでしょ、それを縮めて「個番カード」、更に縮めて「コバカ」っていかがかな?、コーノ出痔垂れ大臣は質問者に対してよく人をコバカにする態度の発言をするから、ちょうどお似合いでしょ。

 わたしがこのブログにこれまでに書いたマイナーカード悪口雑言一覧。

・2023/12/22●1767【健康保険証消滅】めったに医者にかからぬし近いうちそれも不要になるから平気だな https://datey.blogspot.com/2023/12/1767.html

・2023/06/21●1692【紐づける】マイナーカードではなぜ「リンク」と言わず「紐づけ」と言うのか? https://datey.blogspot.com/2023/06/1692link.html

・2022/10/21●1651【背番号カード】マイナーな庶民がマイナーなポイントに釣られて作るマイナーカード https://datey.blogspot.com/2022/10/1551.html

・2020/06/10●1468【コロナ用語爺典その2:ひもづけ】個人番号カードと預貯金口座をひもづけて「ひもつき給付金」かよ https://datey.blogspot.com/2020/06/1468.html

(20231227記)

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1769【下落日本】コロナが明けたら安倍派ネコババ大馬鹿ダイハツ軍備増税ロクなことなかった今年

 
 このところ内閣支持率がどんどん下がっているとのこと。東京西部ではRリベラル系の首庁が次々と誕生している。それには自民党の裏金つくりドジによって検察の手が入ったことが下げ止まらないらしい。それにしても安倍晋三と言う人とその一派には、倫理観の欠如があまりにすごくて、よくまあ世に存在するものだなあと呆れる。
 それなのに、今朝の新聞では武蔵野市長選挙で、自民系候補が野党系の候補に辛勝ながらも勝ったとのことで、練馬区での仇を打ったことになるみたいだ。なんだか世の中が分からない。わからなくても困らないが、気持ちが悪い。


 下がるの言えば日本のリッチさの力量を示す、国民一人当たりのGDPも下落著しいらしく、G'では末席だそうだ。それなら内閣だって下がるだろう。

 このランキングリストを見ていて、ほう、コーカソイドが牛耳る国ばかりが上位にあり、モンゴロイドは21番と22番のジャパンとコリアだけだ。アフリカとか南アメリカとかユーラシア大陸東部とか中部の国はひとつもないのは、どういうわけか。あい変わらず西欧優位の地球なのか。


 下がる話ばかり出すが、自動車生産国として誇っており、世界各国に輸出台数が世界一であった日本が、その自動車輸出台数において、チャイナに追い抜かれたそうだ。わたしは自動車にあまり興味はないのだが、チャイナ船自動車が日本の道を走っているのだろうか。コーリアの車が走っているのは知ってはいるが、チャイナ製もあるのだろうなあ。

 でもどこで作ればよい車なのか、わたしには分からない。今世間を騒がせているのが、不正検査で大量生産の許可をとって作った車を、大量に世にだしてきたダイハツと言う自動車屋の大々的詐欺行為である。

 不正がもとになって作った車だからダイハツの車は事故続出かと思えば、どうもそういう話は出ないのが不思議である。普通に走っているのならそれでよいではないか、検査という内容に実は問題があったのかもしれない、なんて思う。システム自体に奇妙さがある。
 ついこの間はビッグモーターという自動車販売屋の、何だか馬鹿者たちばかりが集まってやっているような不正行為の事件には、腹が立つよりも嗤うしかない感がある。ごまかしで企業が成り立つのだから、お気楽なものだ。

 自動車に興味ないものの目から言うと、ニッサンという自動車屋のトップの不正で国外逃亡なんて事件も、嗤うしかないバカバカしいことだ。あまりにもサイテーなお偉い人々の振る舞いに、自動車屋の知能レベルの奇妙さに驚くばかり。
 そのほかにも検査不正に関しては日本だけではなくて、世界トップのような車屋も次々と事件を起こしているから、どうも自動車産業は20世紀にあまりに成長が急激だったので、世の中を見くびってきたのだろうと思う。信用ならない業界である。

 とにかくこんなにも大量の自動車が、はたして人間に必要なもだろうか、かなり怪しいような気がする。兵器産業と似たようなもので、壊すために作って売っているのだろう、それで経済が回ればよろしいって、倫理なるものが欠如していると思う。

 兵器と言えば、日本はついに兵器輸出に道を開くらしい。とうとう戦争を始めることができる国になるらしい。もう勝手にせいである。

 ご覧のように日本の人口は、これからどんどんと減る。減っていくのは良いことだ。わたしが物心ついたころから人口増加で悩んだ時代を生きてきたから、多ければよいとは言えないことを経験している。その最も大きな直接的な被害は戦後の住宅難だった。あんな経験を次の世代はしなくてもよいなら、人口減は良いことだ。

 そこで実はその近い将来にわたしも、日本人口減に献するつもりだ。わたしはどうせもうすぐ死ぬ運命にあるのだから、兵器産業が儲かろうと、軍事費で税金が高くなろうと、戦争でヒトが死のうと、何にも関係がなくなるのだ。わたしが生きているあと数年は戦争を我慢してもらえれば、その後はどうぞご勝手に。

(20231226記)

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2023/12/24

1768【夜行列車】特急寝台から鈍行普通まで思い出が多い夜行列車が今やたった1本だけとは

2023/12/22朝日新聞朝刊
 
 定期的に走る夜行列車はなんとまあ「サンライズ瀬戸・出雲」のしかないと、鉄道マニアらしい政治学者の原武史さんが書いている。へえ、そうなのか、新幹線と航空機の普及がいつの間にかそうさせているのであったか。思えば夜行列車には結構なんども乗ったなあ。

列車から眺める生家の神社の森(記事とは別の1975年)
 「サンライズ出雲」には東京から出雲市までの間を、一度だけ乗ったことがある。2004年のことで、大学時代の旧友たちと出雲に遊びに行ったのだった。
 列車はわたしの生まれ故郷の街を通るので、窓から眺めて生家の神社の森が健在なのを、寝台に横たわって確かめたのであった。

 この夜行寝台列車の個室は、窓いっぱいに横たわって寝るのだったが、2階建ての一階にあるので、目の高さが駅のホーム面にあるのが奇妙な感覚だった。駅を通過するときは、ホームにいる人たちから寝姿をじっくりと眺めおろされてしまうのだ。

 わたしは鉄道マニアではないが、仕事も遊びも夜行列車に乗った記憶が沢山ある。真冬に秋田の大舘に行くのに、名前は記憶にないが夜行寝台に乗ったことがあった。上野で乗った時は雪はなかった。わたしは上段の寝台にもぐりこみ耳栓をしてぐっすりと寝た。

 朝が来たらしく車掌が起しに来た。それが終点ではなくて途中のどこかの駅であった。大雪で途中駅で運行できなくなったので、乗り換えてくれと言う。
 仕方ないので通路に降りると、誰も乗っていない、というか、ほかの客はとっくに降りてしまったらしい。残されたわたしが一人だけ寝ていたらしい。そこから目的地に遅れて行った行路の記憶はないが、予定の会議に間にあった記憶はある。

 最も度々乗った夜行列車は、東京から広島までの特急寝台であった。「あさかぜ」という名前だったような記憶がある。広島県の仕事で1年ぐらい、毎週のように通って乗った。忙しくしていたころだから、ホテル代と睡眠時間の節約になり好都合だった。

 寝台でもなく特急でもない普通の夜行列車にも、何回も乗った。それは学生時代のことで、東京から岡山そして備中高梁まで帰郷する貧乏学生には便利であった。
 岡山と東京の間に直通の夜行普通列車があったか、なくて乗り継いだかの記憶があいまいだ。さすがに若くても、三等車の椅子は硬くて、尻も背中もも痛くなったものだ。

1950年代に見ていた大船観音
 帰郷先から東京の戻る普通三等車から、朝早くに大船駅あたりで見える大船観音の姿の記憶が印象深い。その頃は今のように真白に化粧してなくて、工事中にストップしたコンクリート肌の汚れた姿の仏様だった。

 これを寝ぼけ眼で見て次に記憶にあるのは、川崎駅の西口にあった東芝工場の壁に、真っ赤で真ん丸でどでかいネオンサインがあったことだ。大船観音と東芝ネオンがセットになって、わたしの若い頃の夜行列車の記憶にある。大船観音は健在だが東芝は消えた。あの大企業さえも消えるとか。

 大学時代には、大学山岳部の合宿に北アルプス方面にに向かうときは、もちろん普通夜行列車の3等車であった。大勢がみんな大きなリュックサックを背負っていくから、その荷物を列車で運ぶのも大変だった。重さが50kgくらいもあるのが普通だったから、かつぐのさえ大変であった。それを背負って山に登ったのだから、あの頃は若かった。

大学山岳部合宿の荷物 1958年

 今はないだろうが、そのころ乗車券を見せると大きな荷物を、1人1個だけ特別に乗せる許可を呉れた。ところが荷物の方が人数よりも多いので、たまたま同乗の見知らぬお方に頼み込んで乗車券を借りて、国鉄の許可を得たのであった。
 この許可手続きの時に一時的に乗車券を借りていかなければならないのだが、汚い姿のわたしたちを信用してもらうには、乗車券と引き換えに学生証を預けたものだった。許可証を得てきて乗車券と学生証を交換に返してもらう。

 山行きの夜行列車では、椅子の下にもぐって足を十分に伸ばして、床の上でぐっすりと寝たものだ。汚いという感覚から遠かった。目的地の駅についても、十分に寝てきた若い身に任せて、大きな荷物を背負って朝から行動したのであった。

 新幹線が伸びるにつれて、寝台列車には乗ることはなくなった。冒頭に書いた2004年の「サンライズ出雲」が最後だったような気がする。
 忙しい頃の新幹線がない遠い所への出張には、積極的に寝台列車に乗っていたのは、平素は忙しくて寝不足の日々なのに、寝台列車の夜は睡眠時間をたっぷりととることができるという楽しみがあったからだった。なんだか情けないような気もする。

 (2023/12/24記)

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2023/12/22

1767【健康保険証消滅】めったに医者にかからぬし近いうちそれも不要になるから平気だな

 

 日本政府が発行する「個人番号カード」というものがあるが、ご存じだろうか。そのためのれっきとした法律がある。「行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律」と言う長たらしい名前だ。

 その法の第16条にこうある。「機構は、政令で定めるところにより、住民基本台帳に記録されている者の申請に基づき、その者に係る個人番号カードを発行するものとする」

 で、この個人番号カードを「マイナンバーカード」とか「マイナカード」とかいうことにしたのは、総務省である。要するに「個人番号カード」では、国民に背番号をつけて徹底管理しようとする政府の意図が丸見えなので抵抗が多かろうと、勝手にマイナカードなんてニックネームというか、芸名を付けたのである。

 それにしてもだよ、自らの名を「マイナカード」と言うなんて、そんなにへりくだることはあるまいと思うのだ。国民みんなに持たせようっていうのだから、たぶん何百億円も費用がかかる、つまり巨額税金を投入する大仕事だろうから、これは「メジャーカード」と言うべきである。それを「マイナー」なんて国民をバカにしている、と思う。
 
 さて、その「個人番号カード」(これも略称として「個番カード」と言おう)を、健康保険証にしてしまおうという政府プロジェクトが問題をはらみつつ進んでいる。その略称をマイナ保険証と言うらしい。
 つまりマイナーな保険のカードであるのかと言うと、いやいや健康保険こそはメジャーである。政府はどうやら健康保険をマイナーなものにしたいらしい、その意図がカードの名付け方で判明する。でも、わたしはめったに医者にかからないからマイナーカードである。

 で、個番カード(政府が言うマイナーカードのこと)に健康保険証を合体させて、健康保険証を廃止するという政府作戦が着々と進みつつある。ところが、主として高齢者層から大反対の声が大きい。
 そもそも個番カード(マイナーカード)を持っていない老人がが多いのである。今更そのカード取得手続きなんて面倒くさいことをやりたくない、そんなもの無くても今の紙の保険証のままで何の不都合もない、これが大方の理由であろう。

 わたしも高齢者であるから、その言うところがよく分かる。でも、実はわたしはその個番カードを、政府発行の最初の頃に取得しているのだ。その動機は、どこにも所属していないし、旅券も切れたし、今や自分が何者であるか他人にむけて証明するものががない。
 健康保険証だけが頼りだが、なくしたり忘れたりする恐れがある高齢者には、もうひとつ身分証明を持っておきたかった。そのためだけに個番カードを取得したのだ。

 その取得のため区役所での手続きが実に面倒であった。それを聞いた妻は取得しなかった。ところが、うやって取得した個番カードの出番はほとんどないままである。毎年使うのは所得税確定申告書にコピーを貼り付けるくらいなものである。これも必須とは言えない。
 そのほかで何かに身分証明として使った記憶があるが、ほとんど覚えていないほどに、どうでもよいことだった。つまり自分がそれほどにも社会とかかわりがないということだ。

 あ、そうだ、最も有効に使ったことが一度だけあった。最近になって取得すると政府が5000円くれるのだが、わたしが取得したころはくれなかった。そこで区役所に不公平だから俺にも5000円よこせと言いに行ったら、後追いでも呉れるという。当たり前だ。
 そこでまためんどくさいこと極まる手続きをやって、ようやくくれることになったが、実際に手に入ったのは、手続きから半年ほど後だった。バカにするな。

 その5000円手続き時に、銀行口座とか保険証とかも個番カードにリンクさせる(これを紐付けと言うらしいが紐はない)と、更にいくばくか呉れるという。金で釣ろうとするのが気に食わない、またまた面倒なPCいじりをするのがもっと気に食わない、もともと原資は税金だから素直によこせ、なんてことで、それらはやっていない。

 だがさて、来年末から健康保険証紙カードがなくすると言うから、それまでに何とかするべきか、わたしはできたとしても妻は身体を運びあれこれ手続き不可能な状況である。区役所にうち迄やって来てもらう方法があるのかしら、あるいは代理手続き可能なのか。

 考えているうちに、もうどうでもいいや、そうだ、健康保険証が無くてもいいのだ、と思いついた。その理由は簡単なことで、健康保険証廃止になった頃にはわたしも妻もこの世にいないから、どんなカードも全く不要になるのだ。ああ、気楽なものだ。ああ、よかった。

 あ、まてよ、政府はそれを狙っているのかもしれない。ごちゃごちゃ言う年寄りどもはバタバタと死んでいくから、個番+保険カードに問題提起して反対する奴らは、自然淘汰で来年末迄にはほとんど消え去る、政府はそう考えているに違いない。
 その手に乗るのは癪だが、乗らざるを得ないのも事実である。年を取るとはそういうことであるのか、そう思うことが近頃どんどんと増えていく。

(2023/12/22記)

このブログの関連記事

・2022/10/21●1651【背番号カード】マイナーな庶民がマイナーなポイントに釣られて作るマイナーカード https://datey.blogspot.com/2022/10/1551.html

・2023/06/21●1692【紐づける】マイナーカードではなぜ「リンク」と言わず「紐づけ」と言うのか? https://datey.blogspot.com/2023/06/1692link.html

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2023/12/20

1766【Q人会誌2023】八十路の岩壁登攀中の大学山岳部同期仲間たちの今を結ぶ冊子

  今日、郵便局にて「Q人会誌2023」なる小冊子を、その会員7名に送った。一人はUSAのCALIFORNIAに居るので航空便であるが、1週間くらいで着くらしいから、みんなに年内に間に合うことになる。よかった。

手作り小冊子「Q人会誌2023」

 「Q人会」とは、大学時代の山岳部同期仲間の会である。卒業後すぐに結成したのではなく、実質的には卒業後50年目からだった。そのきっかけは、その仲間の中のSが、2000年にノーベル化学賞を受けたことだった。
 山岳部同期だけでお祝いに集まろうとしたが、肝心のSが受賞騒ぎで超忙しかったので、ゆっくりでもいいやと受賞7年後に集って祝った。日比谷公園の松本楼だった。この時に、CALIFORNIAに住んでいる仲間のOも来たので、帰国歓迎会も兼ねた。

 そんなことから毎年に同期会総会を1回はやろうよと決めて、2011年から毎初夏にOも訪日をするようにして、同期会となった。この時の人数が9人であったので、名付けて「Q人会」とした。そのうちに蜂、質、録、誤人会と会名を変える必要があるなあと言っていた。そして今も「Q人会」だが、実は蜂人会とすべきなのを変える気がない。

 「Q人会誌」とは、わたしの趣味が本づくりなので、メンバーに大学時代などの山行記録などを書いてもらって本にして、総会の時に発行することにしたのだった。2017年が第1号で、以後2018、2019年まで来た。原稿の内容はだんだんと広くなった。
 コロナで集まれなくなったが、原稿はメールで集まるから、2022,2023と発行してきた。

 何しろ山岳部出身だから、みんな元気ではあるのだが、それでも八十路半ばになると、歳相応に何やかや起きる。中のひとりNはコロナではなかったがその渦中に宿痾であの世に行った。残る者にもなにやかやとあり、会誌の原稿書きも難しくなる。今回で最終号かも知れないと思いつつ作って、年内発行に何とか持ち込んだのであった。

 わたしの趣味の本づくりで、A5判、100ページほどの小冊子を10冊ほど、まるで小学生の工作の様に、いや本作り職人のように、シコシコと制作するのは楽しい。仲間からの原稿集め、レイアウト、ブックデザイン、PCによる編集作業、印刷、そして文房具を駆使して製本という一連の作業は、ボケの進行をストップさせているに違いない。

 わたしの趣味で本を作っているのだから、仲間に原稿を無理やり書かせるかけにはいかないが、趣味に付き合ってくれて感謝している。年に1回の集まりにそれぞれの本に互いにサインをしておいて、その日まで生きていた証拠としている。
 昨年までの各号の原稿を、執筆者ごとに集めて編集して、各個人作品集も作って配布した。

 なお一昨日のこのブログ記事は、この会誌に寄稿の一部である。実は今年のわたしの寄稿は、このブログの今年1年の記事から、毎月1編を選んで12のエッセイを載せたのである。ちょっと多すぎて全体の4割も占めたが、そこはわたしの本づくり趣味による造本作業に免じて許してもらうことに、勝手に決めた。

 さてコロナも明けたようなので、来年こそはQ人会総会開催をしたいものだ、それには最も遠方のCALIFORNIAからの遥かな八十路の旅の可能性にもかかっている。Oの体力を心配しつつ楽しみである。
 そしてまた、ほかの誰彼だってコロナ前のようにはいかない。八十路総会を開催することが、昔々の雪山合宿をする心持に似てきた。お手軽にZOOM総会という手もあるかなあ。

(2023/12/20記)

伊達ブログ記事参照

Q人会誌総目次(2017~2023)
https://datey.blogspot.com/p/q2022.html

本づくり趣味が嵩じてきて自分の本ばかりか他人の本まで作ったhttps://datey.blogspot.com/2015/01/1024.html

自家製ブックレット「まちもり叢書」シリーズhttps://datey.blogspot.com/p/machimorisosyo.html

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2023/12/18

1765【コロナ後の世界】期待するような新社会が待ち受けているのではなさそうだ

 

メタセコイア並木の黄葉 横浜日本大通り

 わたしはこのコロナパンデミックという地球的大事件が、その後の人間社会をどう変えるか大いに興味があり、それを見てから死にたいと思ってきた。
 この前の地球的大事件は、第2次世界大戦であった。個人的にはその一部であるアジア・太平洋戦争に直接間接に大きな影響を被ったが、その後の人間社会の変化かを、とくと見届けてきた。

 あんなことは2度とご免だが、コロナパンデミックの様にいわば自然災害の延長の様に起きてきては、防ぎようがない。できるとこは公衆衛生の普及、医療治療、医薬品の開発によって、拡大を防ぎ消滅へと努力することしかないし、そうやってきたのをつぶさに体験した。この地球規模の人類の体験が、この後で再構築する社会にどのような姿で出てくるのか、それはあの戦後社会の登場を見るような楽しみがある。

 そう思って期待しているのだが、コロナ中と末期にウクライナとパレスチナで大きな戦争が起きて、これは楽しみに期待するような新世界が生まれるのではないらしい気がしてきている。もしかしたらコロナで死んでしまう方がよかったのかもしれないと、思いつつある。

 個人的にはコロナウィルスに感染しないで来たから無関係だったのではなく、コロナによる行動制限は多くの影響をもたらした。2019年まではある程度は専門分野での会合にも参加し、あるいは出版原稿の依頼もあった。
 しかし、2020年からはパタッとなくなった。他人との交流の機会は大きく制限されて、それはまるで江戸時代の武士がお殿様から蟄居閉門を申しつけられたようであった。

 その間はそれが解けるのを待つしかなかったのだが、実は大きな問題が後ろに控えていた。それは自分が後期高齢者であることだ。若ければ蟄居が解ければまた世に戻ればよいのだが、超高齢者はその間に自身の肉体が衰えて簡単に復帰できなっているのであった。わたしも自分がそうなってみて愕然とした。

 コロナ前の頃と今のコロナ後とはたったの4年足らずだが、超高齢者にはそれだけの時間があれば肉体の衰えには十分であった。わたしの典型的な事件は、その間に街路の交通頻繁な交差点の中で転倒したことである。以後は杖を携えて徘徊に出ることにした。頭の方はまだ大丈夫だが、これは自分では判断できないから怪しいので、その判定は頻繁に書くブログを読む人にさせるのだ。

 もう一つ重大なことが起きたのは、同年の妻の身体の衰えが、わたしよりも先行してきて、介護保険適用の認定が要支援2の判定となり、日常的に老々介護をする側の初期体験中とにあることだ。このために脱コロナ後の今も外出制限が別の意味で続くが、幸いにして近居の息子に助けられている。
 もちろん妻ばかりではなく、同年の知人たちもそのような局面を無会えてるものが多い。もちろん死ぬものもじわじわと多くなってきた。

 こうしてコロナパンデミックは、わたしをすっかり社会から遠ざけ、戻れなくしたたのである。わたしのとってその代替は。ネット社会への一層ののめりこみである。ブログ書き込み、SNS活用はもちろんだが、コロナ以後に新たなネット武器としてZOOM meetingの登場である。

 コロナ前には無かったこれを使っての、専門的な研究会やシンポジウムに、会場に出向かなくても参加できるようになったのは、高齢者には実にありがたい大きな変化である。
 有料もあるが多くは無料参加が可能であるのが特に嬉しい。コロナの影響で嬉しいことはこれが唯一である。

 そしてビジネスで開発普及したこの会議ツールを、外出がままならない超高齢者たちの交流ツールにしている。わたしの場合は、大学同期生たちとの交流グループが、専攻分野、寮、山岳部の仲間たちの3組があり、頻繁にやっている組とあまりやらない組がある。

 だが、このZOOM交流は、参加者の高齢化による視聴覚機能の衰えで次第に人数が減る。もちろんほかの老化要因、例えばボケとか死亡もある。
 では同年の参加者を増やそうとしても、いまさらアプリケーションダウンロードしてあれこれいじって参加するなんてことを、八十路半ばになって新たにやる者はいない。

 そうやって八十路仲間たちには、次から次へとあの世へ先を越されて悔しがる日々である。わたしも近いうちに仲間を悔しがらせたてやるつもりだが、。(2023/12/15記)

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2023/12/16

1764【雪国イメージと現実】中越大震災復興の手伝いに通った豪雪山村の今年の雪の具合は?

  今朝の東京新聞の1面のコラムにこんなことが書いてある。通産大臣の頃の田中角栄氏が、その秘書が岡山県出身と知って、「君にとって雪はロマンの世界だよな」と言ったと秘書の著書にあるそうだ。
 これはつまり新潟県人にとっての岡山県人感を語っているのだが、岡山県出身のわたしが新潟県をそう思ったことはなかった。どこか食い違っている。

 わたしが新潟県の雪を初めて体験したのは、学生時代のスキー遊びで行ったのが初めてだった。それが何処だったか思い出せないが、単にスキー場の雪で特にロマンでもない。
 じっくりと雪国それも豪雪の地の生活を体験したのは、2004年に中越地震がおきて、次の2005年から震災復興支援に中越山村に入り込んでからだった。

 10年ほどの期間をかなり多くの日々を過ごしたが、それはまさにロマンというものからほど遠く、四季を通じて大災害から立ち直る雪国の四季を体験した。
 多い時は4m積もる雪の中で数日を過ごす日々は、よくこのような環境で人間は暮らすものだと思ったものだ。白一色の中でありながら、雪囲いで牢獄のような家屋で暮らす日々は、実際に暗いものだった。豪雪生活を全く知らなかったのでよい体験だった。

 冬は毎日が家の屋根と周りの雪かきが生活の必須の一部である。あまりに深いので「雪掘り」というほどで、これをしないと家から外に出ることさえできないどころか、雪に家と共にが押しつぶされる恐れが十分にあるのだ。
 外から雪の圧力で硝子戸が破損するのを防ぐために、冬は家の周りを厚い板で囲い込むので、当然に日中も電灯をつけなければならない。怖いのは、もしも火災を出したなら、雪囲いという格子の中の牢獄となって、焼け死ぬ恐れが高いことだ。

 わたしが生まれた岡山県中部の高梁盆地は、雪は降らないことはないが、積もるほど降るのはかなり珍しいことだった。
 わたしがスキーを始めて見たのは小学生の頃に、かなり珍しく深く雪が積もった日のことだった。いつも遊ぶ坂道ですべっている人がいたのを、しばらく眺めていたものだ。
 以後は大学に入るために故郷を出るまでスキーを見たことはなかった。大学山岳部にはいって初めてスキーを履いた。大雪の山にも登ったが、それは雪国の生活ではなかった。

 故郷の盆地で雪がふった日のもう一つの記憶は、家の裏にある広い竹やぶで、雪の重みで竹が折れる音である。鋭く大きな音でポキーン、パキーンと次々に折れてゆく。その音に続いてその竹に積もる雪がザーッと落ちる音がする。これを夜中に布団の中で聞き、耳で雪を感じたものだった。珍しいことだったから記憶が鮮明だ。

 中越山村では竹藪がないことはないが、庭の一部に大事に植えられている珍しい存在であった。竹と雪は相性が悪いのであろう。

 角栄氏が「生活との戦い」と言ったとあるが、冬はむしろ雪という自然との闘いであった。それだけに雪が解けてのちの、初夏に向かって萌えあがる緑の山や森そして田畑にこそロマンを感じるのであった。冬さえなければ、この地は天国であると思ったほどだ。

雪に埋もれる中越山村の家

萌え上がる緑に埋もれる中越山村集落

 その中越山村の日々は、このブログにつぶさに書いているが、さて異常気象の今年の積雪はどうなのであろうか。(参照「法末集落復興日録」)。

(2023/12/16記)

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2023/12/14

1763【防火建築帯の変身】横浜都心部の戦後復興建築の建て替えに見る時代の変化

 横浜都心部は、戦災と占領で疲弊しきった街に活力を回復する街づくりをやっていた時期がある。政府は1950年前後の頃に、耐火建築促進法という不燃都市づくりの助成制度を作って、全国各地の中心部に共同建築による商住共存の共同建築建築を促進した。その帯状に煮立てて行った建築群を「防火建築帯」という。

 横浜市は都心部に計画的に防火建築帯を造成して、商業と居住の場を再生していった。生であり、いまも関内、関外に多く建っていて、街の姿の基本的景観となっているところもある。特に伊勢佐木町とか長者町などのメインストリート沿いに多い。そして時代の変化につれてそれらは徐々に建て替えられた来た。

 その中のひとつ「長者町8丁目共同住宅」が最近に建て替わった。もとは1~2階店舗、3~4階が県公社住宅であった。それはよく見ると、なかなかにモダンデザインであったが、あまりに汚れて一部には破損も見えていた。複数地権者による厩割共同ビルだから、建て替えるには話し合いが難しかったのだろうが、ようやく建て替え工事が終わり、開業したのだ。
 このビルのことはこのブログにかつて書いている。https://datey.blogspot.com/2013/06/797.html

建て替え前の長者町八丁目共同ビル 2013年撮影
 
上の共同ビルの建て替え後の姿
 建て替わったビルも地権者の共同建築かどうか知らないが、一体として8階建ての高層ビルとなった。上層部は住宅で下層部が店舗・事務所らしい。その使い方は基本的に元の共同ビルを継承していると言えるが、その都心立地がそうさせるのだろう。
 
 かつて都市の住宅難時代に対応して県公社住宅を上層階に、そして低層階には地権者たちの店舗などの商業施設であった。そして県公社住宅も地権者やその店員たちが優先して入居し、更に若い都市住民が入居したであろう。彼ら戦後復興を担った。県公社住宅はその後に地権者たちに譲渡された。
サ高住の看板

 ここでの建て替え後の住宅は、サ高住つまりサービス付き高齢者向け住宅である。かつては若者であったのが今は高齢者であるのが、これもまさに時代の要請である。
 サ高住のほかには、1階にはドラッグストアが入った。薬品、日用品、食料品などを扱っており、これも時代に対応する業態である。元あったような飲食店がない。ほかに何が入っているのか分からない。

 それにしても、サ高住のパンフを見ると、高価なものだなあ、歳取るのも大変だよと、身に染みてため息が出る。最も狭い18~19㎡の1人部屋で月に家賃等で15万円余、2人部屋55㎡で同27万円。もちろん食費は別である。
 それにしては建築デザインが安っぽくて詰まらないなあ。

 これまでのこのあたりの防火建築帯の建て替えは、多くが分譲型区分所有共同住宅(いわゆるマンション)で、一部に店舗がある床利用だったが、これからはこのような福祉型の施設が入る時代がきていると気づかされた。そういえば3丁目に数年前に建ったビルも、下にクリニックや薬局、上にナーシングホームである。

 そしてもう一つ大きな違いは、分譲型ではなくて賃貸型であることだ。実はこの近くでわたしが住む共同住宅も、伊藤全てが賃貸借方の住宅だ。わたしは分譲型には昔から大いに疑問を持っているから、21年まえに鎌倉の戸建て自宅から移転するときにこれ選んだのだ。
 そしてこの近くに、これも防火建築帯の建て替えだが、分譲ではなくて一棟全部が賃貸住宅の高層ビルが2棟も最近建った。都心徘徊途中に賃貸住宅と表示する工事中のビルがいくつかあることに気が付いている。これも今の時代をあらわす住宅の傾向だろうか。
(20231214記)
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伊達美徳=まちもり散人
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