2025/03/31

1875【大岡山恒例花見これが最後】願わくは花のもとにと来てみればあはれ花こそ先にゆきけれ


●毎年恒例の母校へ花見に

 花見に大岡山に登ってきた。満開ではなく八分咲きというところであろうか、まあ、よろしい、毎年恒例の大岡山花見登山も、これでおしまいだな、わが年から言っても、今やそんなころ合いだな。

 そもそも母校の名前が変わったし、何よりも学んだ建築意匠系(歴史)の学科が、田町キャンパスに移転して出て行ったそうだから、もう余所だよなあ。さすがに卒業後66年も経つと、ソフト面もハード面も大きく変わってしまい、ほぼ縁がない場所になった。

 そんなことで桜の花見も、これが最後と思って見れば、もうヨレヨレ真っ黒デブデブコブコブの老木が、わが身に似て見えるのもつらいものだ。ついつい花よりも老幹を見る。そしてとうとう次世代の若木に交代する現実も見た。では、最後の花見報告を書いておこう。

 大岡山駅を出て見回すと、左に百年記念館(篠原一男設計)という大岡山のランドマーク、右に蔵前会館(坂本一成設計)の風景は変わらない。あのワニ口のような半円筒の突出は、まさにこちらの駅に向かっており、招いているらしい。


正門前からキャンパスを眺める。

 正門から振り返って駅前方面を眺める。左の草に覆われた病院の建築(安田幸一設計)が駅舎。

 正門を入ろうとするとこんなキャンパス図がある。オヤ、去年の花見の時とは違うぞ、東京工業大学から変わって東京科学大学とある。もちろん知ってはいたがこうやって見ると、よその大学に見える。工業よりも科学の方が格が上だな、だって科学を基礎にして工業があるんだもんね、ちょっと大学の格が上がったかも、なんて考える。
 Institute of SCIENCE TOKYOとあるから、略称はIOSTだろうか、それともISTかしら。改称前の東工大はTOKYO INSTITUTE of TECHNOLOGYであり、わたしが在学していたころは略称をTIT としていた。所属していた山岳部はTITーACといった。
 なお、英語のスラングでtitとは女性のおっぱいのことである。それかあらぬか、いつのころからか略称をTokyo Techというようになっていた。
 
 さて今年もキャンパスを通り抜けて帰ろう。結果としては大岡山から緑が丘を経て、裏門からキャンパスの外へ出て(赤い線は実際に通ったところ)、更に九品仏川緑道を自由が丘まで歩いてしまった。
 マイペースでノロノロだが、昔よく歩いた道を今も歩くことができたのが、われながらエライもんだ。これでもう終わりにする。

 正門を入ったところから構内を見る。右に図書館(安田幸一設計)左に滝プラザ(隈研吾設計)。滝プラザまだ屋根の上の緑が育たないらしく不細工な姿のままである。早く森に埋もれてほしい。これはもしかしてここにある百年館や図書館や七十年館の引き立て役としてのデザインをしたのかもしれない、なんて思う。


●老木は頑張って今年も花を

 では本館前広場の定番写真である。まだ枝の先の方まで咲きそろってはいないが、あのよろよろ桜が今年も咲いた。その齢は70年にもなるはずだが、偉いものだ。ヨレヨレと曲がる枝がすごい。

 左正門から右の図書館まで、本館前のパノラマも定番。滝プラザが緑の中に隠れるのはいつになるのだろうか。

 では桜の花の下に入ろう。上を見上げればいつもの用の本館の時計台が見える。あの時計のあたりに山岳部の部室があった。そこまでエレベーターもなく平気で昇り降りしたし、それどころか塔の屋上に出て、外壁をアップザイレンの中吊りで降りたこともある。

 花は咲いているが、それを支える幹を見れば、そのあまりのヨレヨレさに、かえって興味をそそられるほどだ。わたしが卒業するころにようやくちらほらを花を咲かせだして(参照→1950年代の桜とキャンパス風景)、片手で握れるほどの細い幹だった若木が、今やこんなになってしまった。それはもう、わたし自身の身体そっくりであると、感慨と嫌悪とを交互に催すのであった。 



●ついに世代交代が始まってしまった

 だから老い木がいつ死んでもよいように、この桜並木の背後には若木が立ち並んでいるのだ。既に花を咲かせつつ交代を待っているのである。交代がいつ起きるか楽しみである。


 老い木と若木の花との饗宴であるが、明らかに老い木の劣勢がみえている。

 ややっ、ここの老い木はついに世代交代しているぞ、う~ん、既に若木に植え替えられてしまった。たしか去年はここにあった老い木がまだ花を咲かせていたが、あれは断末魔の姿であったか。
 眺め渡すと交代したのはまだこれ一本だけらしいが、来年はさらに増えるだろう。いやどれも断末魔模様だから、全部植え替えられているかもしれない。これはまさにわたしたち年代のことである。そうかそうか、悲しむことではない、後継がいることをむしろ喜ぶべきだが、さてさて。
 
 では世代交代桜への感慨を書いておこう。それには歌を詠むのが格好よろしい。ここはやはり桜の花を大好きだった先人の西行法師についていこう。
  
 願はくは花のもとにと来てみればあはれ花こそ先にゆきけれ

●花のキャンパスをゆく

 右に七十年講堂(谷口吉郎設計)を眺めつつスロープを下っていく。この季節は花とともにこの名作を眺めるのを大好きだ。
 昔々山岳部の訓練で、このスロープにあった洗濯板状の坂道をうさぎ跳びで登ったものだったが、あれはひどかった。今も足だけは丈夫なのは、そのお陰でもあるまいが。

 スロープ下の花越しに眺める本部の建物は清家清の設計である。こちらにも敬意を表しておこう。

 ちょっと戻って、東急線路上の橋から眺める景色。手前の空き地は昔々水力実験室(谷口吉郎設計)があったところで、水銀汚染で建物撤去したのちも、土地も汚染で使えないらしく空き地のまま。
 その向こうに見える丸屋根の建物が新築で、ここに建築系学科が緑が丘の上から移ってきたそうだ。ただし、建築意匠系は田町キャンパスに出て行ったそうだ。ということは、わたしは意匠系の建築史の研究室だったから、もうここには縁がなくなった。


 よく知らないが、科学大学と銘打った限りは、文理融合の教育と研究の場とするためだろうに、建築意匠系といういわば人文科学系だけを追い出してよいのかしら。まさかと思うが、工業大学の中では建築意匠系という人文科学系が邪魔だったのだろうか。さらに思うのは、リベラルアーツ系も田町に移ったのかしら、まさかねえ、そうなら文理融合どころか文理分離であるよなあ、まあ、何も知らないのだけど、。

 このあたりが新築された建築で、緑が丘から移ってきた土木・建築系の入る棟らしい。スカイラインが円弧を描いているのは、近くの七十年講堂に倣った景観デザインだろうか。

 東急線のガードをくぐる前にグラウンドに行ってみた。地面が見えなくて緑の人工芝であるようだ。向こうに見える白い低層建築は体育館であり、東急設計コンサルタント設計(実は建築同期の後藤宜夫と笠原弘至の設計)である。
 わたしが在学の頃は体育館は大岡山駅前にあり、どこかの飛行場の格納庫を映して持ってきたと聞いたことがある。わたしは入試をそこで受けた記憶がある。東急が駅改良のためにその土地が必要となって移転してここに来た。だからこれは東急の寄付によるもので、設計も東急設計コンであり、その社員だった笠原が担当し、親しい後藤を外注の相棒に選んだと、これは笠原から直接に聞いたことだ。

 大岡山地区から緑が丘方面への線路トンネルは、歩行者専用となっているが健在である。去年もこうだったが作り直すのであろうか。

 心字池のあるあたりは、キャンパス内では珍しく建築が入りこんでいなくて、公園のように緑が濃い。実を言えばそれもそのはずで、このあたりは都市計画で公園に指定されているのだ。いずれ公共公園整備がされて、公開されるだろう。

 心字池は無粋にも金網で囲われている。もったいない。

 森の中にはワグネル先生の碑がある。ここにはしょっちゅう来たことがあるが、実はワグネル先生とはどんなお方か全く知らないし、知ろうともしないできたが、この碑文を読んでみればわかるだろう。

●昔々住んでいたあたりの今は

 池のほとりを歩いてゆけば、昔々に2年間を暮らした如月寮があったところだ。キャンパス内だから教室にちかくて便利だった。今は自動車部の部室が建っている。

 中学校グラウンドとの間を抜けると向こうに、呑川を渡る木橋が見えてきた。昔々は橋はなくて、流れの上に板をかけて向こう岸にわたり、崖を昇ったものだ。

 橋の上からの三川沿いの桜を眺める。

 橋を渡れば、昔々はこの丘の上全部が向岳寮で、わたしは1年間住んだ。どこかから移築してきたという古い木造平屋の寮室群が2棟、ほかに食堂とホール棟が建っていた。火が出ると全滅だなと思っていたが、わたしが出てから何年か後に燃えてしまった。寮は再建されることなく、跡地には建築、社会工学、土木系の教室研究室が建った。それらも今、建て直されている。

 ここには田町にある付属科学技術高校が移転してくるそうだ。建築・土木棟、社会工学棟が建っていた敷地はきれいさっぱり空き地になり、ただいま高校校舎工事中である。
 掲示を見れば、その設計は石本建築事務所である。たぶんプロフェッサーアーキテクトのどなたかが監修しているのだろう。


 もう見るべきほどの桜もつきたし、懐かしい場所の風景もがらりと変わったので、裏門から緑が丘の街に出た。昔々出入りしていた裏門は粗末なものであったが、今はそれなりに堂々としている。

 緑が丘の街にある例の市場風店舗の緑が丘百貨店は健在だったが、今日は日曜日で休店日だったようだ。すぐ隣は空き地になっているしその隣は建築中だし、この記念的百貨店も来年もあるかどうか怪しいものだ。

●さらに自由が丘までよろよろ歩く

 さてここでもう電車で帰宅しようかとも思ったが、日はまだ高いし、そうだ、昔々よく通ったみを自由が丘まで歩こうと思いついた。学生の頃に家庭教師アルバイトで、自由が丘の駅近くにあった商家の家庭に通った。そのころどぶ川沿いに歩いて往復した道が、川が暗渠となって桜並木の遊歩道になっている。これまで大岡山花見に来て何度か通っているが、そこも懐かしい路だ。問題は脚力が耐えるかどうかだ。
 
 その桜並木の道(九品仏川緑道)は健在だったが、桜の木がここもかなりの老化で、よれよれであった。道路上に張り出さないように強剪定されて可哀そうだ。どうやら椿の花の道にとって替わりつつあるようだ。ここでもわが身と比較するのであった。


 自由が丘の街は相変わらずにぎわっている。昔と比べるとおしゃれな店ばかりのようだ。昔よく来た飲み屋街のあのうまい魚を食わせる店はまだあるかなと探せば、今日は日曜日でお休みだが健在であった。

 自由が丘駅前広場に出て驚いたのは、ここでも巨大再開発事業が始まっていることであった。広い板囲いの中に工事用タワークレーンが建っている。
 写真の右側に東横線駅があり、その線路沿いに自由が丘デパートだが、その向かいの道を挟んだ大きな街区全部が再開発とはねえ、自由が丘の一番の場所だ。でもここには何があったったけか、そうだモンブランというケーキ屋があったなあ。飲み屋街の裏路地もあった。


 自由が丘デパートとその向こうのひかり街という、懐かしい二つの共同店舗ビルは、再開発から外れている。何となくほっとするのは齢のせいか。
 あの昭和時代感覚に満ちた共同店舗ビルが今も営業を続けているのは、それなりに理由があるのだろうが、こここそ自由が丘で最初に再開発事業になりそうな気がしていたので、ちょっと意外だ。

 というわけで、久しぶりの自由が丘は、変わっているようで変わっていないが、駅前再開発が出来上がると大変化が来るはずだが、それをわたしが見に来ることはもうないだろう。
 そして、ほぼ縁が切れた感じの大岡山母校花見にも、もう来ることもないだろう。
 2025年けっこうな最後の母校花見徘徊であった。
(2025/03/31記)
==このブログのこれまでの大岡山花見記事==
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2025/03/25

1874【日吉で今浦島気分】平和な卒業式風景のキャンパスの森の奥と地下には太平洋戦争の記憶が今も

●慶應義塾日吉キャンパスは卒業式

 ようやく春がやって来てうららかな暖かい日、横浜北部の日吉には、慶應義塾大学の日吉キャンパスがある。2025年3月24日はは義塾の卒業式とて、若者たちとその家族らしき人たちで溢れていた。
 未だ桜は咲かないが、いつもは静かな木立の丘の上は、和服で袴の晴れ着や仕立て下ろしのような背広姿の若者たちが、春の気分を浮き立たせている。それは懐かしいような平和そのものの風景である。

日吉駅前からキャンパスの公孫樹並木道は若者たちでいっぱい

●平和なキャンパス風景の裏に戦争の記憶が

 さて、この晴れやかなキャンパスが、実は先の太平洋戦争の末期において日本の重要な軍事基地であったことを知る者が、いったい何人いるだろうか。このキャンパスには不幸な歴史があるのだ。

 ここは戦争末期はキャンパスのほとんどを日本海軍に占領されていたのだった。1944年9月から、ここには連合艦隊司令部があり、戦争末期に太平洋の艦隊に作戦司令を無線通信で発していた。その結果は誰もが知るとおりである。キャンパスの地下には、海軍の軍令部基地としてのトンネルが蜘蛛の巣のようにはりめぐらっていた。それは戦争遺跡として今も残っている。

 太平洋戦争が終わったら日本海軍と交代のように、日本に駐留してきた戦勝国のアメリカ軍に、キャンパス全部を接収されてしまった。日吉キャンパスの戦争時代が続く。キャンパスがようやく教育の場に戻ったのは、1949年10月であった。戦争がようやく終わった。

 そんなこの地の悲劇を、この祝うべき日に思ってしまうのは、わたしが世界大戦を知る最後の世代であり、このところ世界大戦が再来しそうな世相であるからだ。折から新聞報道に、自衛隊が統合作戦司令部を発足させるとある。陸海空の3自衛隊を統合するのだそうである。今の世界情勢を見て、あの戦争の失敗に鑑みて、次の戦争の準備に違いない。

 その孫の慶応ボーイにも会ったので、日吉キャンパスの戦争史を知っているかと訊けば、聞いたことがない、知らないという。そこで用意してきた自作の小冊子「戦争に翻弄された大学とモダン建築」を、読め読めと手渡した。これにこのキャンパスとモダン建築の寄宿舎が蒙った太平洋戦争史の一部とでもいうべき事件を書いたのである。これまでも慶応大学に関係ありそうな知人たちに渡してきた。

この森の奥に太平洋戦争時に連合艦隊司令部となった記憶のモダン建築

●30歳代の記憶の日吉を訪ねて

 そうして卒業式に向かう知人たちと別れたわたしは、キャンパス奥の森の中にあるモダン建築を健在をちらりと眺めてから、丘を下って懐かしいところを訪ねてきた。昔、私は30歳代の10年ほどを、このキャンパスの南にある住宅公団の団地に住んでいたことがあるのだ。時にはこのキャンパスに子供を連れて散歩に来たこともある。

 団地は昔は5階建て共同住宅群の街だったが、今は建て替えて中高層共同住宅ビル群がゆったりとあるのが、一般市街地と比べてなかなかよろしい。高齢者用の施設も建っているのが時代の変化を思わせる。周りの街も中高層の共同住宅ビルになっていたし、緑の丘も斜面を高く大きな擁壁にして、その上に高層共同住宅ビルになっていた。
 何しろ、昔のドブ川が広域幹線道路となり、地下鉄の駅がある街になったのだから、それは当然かもしれぬと、今浦島の感慨を持ったのである。

5階建てから8階建てに建て替わった供養度住宅ビル群の団地

1973年の団地風景

(2025/03/25記)

このブログ記事に関連する冊子(PDF)
戦争に翻弄された大学とモダン建築
―谷口吉郎設計・ 慶応大学日吉寄宿舎の変転ー

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2025/03/22

1873【米穀も米国もヘン】政府備蓄米放出って上昇米価維持政策つまり農業振興・食料自給率上昇政策かも

 ●コメが去年よりも8割値上がり

 トランプ再来以来、石破出現以来、米国も米穀もなんだか変である。まさかシンクロしているのではあるまいなあ。
 なにしろ米(食べるコメのこと)が高い。うちの近くの食品店では下の写真に見るこんな調子だ。つい先日まで5キロ3000円を越えなかったのに、今ではどこれも4000円を超えた。

 そして今日の新聞には、去年と今年の同じ月の物価上昇比率が載っている。米は8割以上の値上りである。まあ、キャベツや白菜の100パーセント以上上昇率には負けているが、それらはなくてもこまらないが、米はほぼ毎日食うので、困ったもんだ。

 そこで政府は米価対策(米国対策もあるなかにいそがしいことだ)として、政府備蓄米を市場に出して米価を下げる施策を始めた。これって、安い米をたくさん市場に出せば、当然安くなるということであろう。

 そう思って期待していたら、政府は備蓄米を市場に出すにあたって、民間の米穀販売事業者に入札させて、高値入札者に売り渡す施策だと聞いて、エッ、変だなあ、できるだけ安く売りだすなら安値入札者の間違い報道でしょ、と書いた(このブログの3月5日記事)。

 だって米価を下げるのに高く売るって常識外である。少なくとも私の頭ではそうである。経済の仕組みに疎いから、高く売って市価を下げるって不可解極まる、どうしてそうなるのか誰か教えてほしい。

 さて、で、今日(2025/03/22)の新聞に、その高値入札で決めた結果の落札者が記事として載っている。これを見て愕然とした。ノーウキョーばかりが落札しているのだ。

落札したのはコメを高く売りたい生産者団体ばかり

●これって米価上昇維持の農業政策かも

 落札者のほぼ全部が農協関係つまり生産者の団体であり、つまり米を高く売りたい、米価を高くしたい業者ばかりである。これで米価が下がるものかしら、常識的にそうは考えられないが、いったいどうなっているのだろうか。こういうのって世の常識にあるのかしら。

 このような落札業者がコメを売るなんて、去年と比べて8割以上も値上がりしたコメが、せめてジャガイモ程度の値上がりになるものだろうか、へえ~、ふ~ん、経済のことはわたしには全くからんなあ。

 もしかして、これってコメの消費者のための価格下落政策ではなくて、実はコメ生産者のための上昇価格維持策であろう、としか思えないのだ。
 ・米が値上がりしないから農業生産者が減少するばかりだ。
 ・このままいくと生産能力が消費能力に追いつかなくなる。
 ・いまに米穀飢饉が来るかもしれない。
 ・自給率を上げるためにも、何とかして上昇した今の米価を保ちたい。
 ・ここで政府備蓄米を安値落札させたら消費者米価が下落する。
 ・できるだけ高額落札させて、消費者米価を高価なままに保ちたい。

 これが今回の備蓄米放出の構図であり意図である、と、まあ、こういうことに違いないような気がしてきた。地球規模の気候変動やトラさんやプーさんの登場による国際食糧安全保障の仕組みが揺らぐ今、それも必要なことかもしれない。
 私は思うには、それならそれで必要なことなら、そう唱えて堂々と政策をやればよいだろう。米価が高いことによる家計圧迫は、消費者への助成策をすればよろしい。

 なんだか米国でも米穀でも不安定な状況が続くのは、いやなものだ。

(2025/03/22記)

このブログの関連記事
2025/03/05・1870【コメが高い】政府備蓄米を市場放出ってヘンhttps://datey.blogspot.com/2025/03/1870.html

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2025/03/13

1872【鎌倉徘徊】久しぶりに第二の故郷鎌倉を早春の徘徊ミニミニセンチメンタルジャーニー

 


 初春ながら青空が広がっているを見て、突然に思いついて鎌倉へ徘徊に行くことにした。動機はどうでも良いが、まあ、第2の故郷を久し振りに見るか。調べたら5年ぶりだ。今日は平日だから、鎌倉もあまり混雑していないだろう。

 鎌倉駅東口に降り立ったのは11時、駅前の様子は変わったかな。おや、真ん前の銀行が「御代川」という和食屋さんの店舗に変わったな。その右隣の書店(「松林堂書店」と言ったような)が閉店している、あの鎌倉でも書店が成り立たないご時世か。


 若宮大路に出るまえに右の路地に入り、あの市場があるかどうか確かめによれば、あった、小さな店が集るミニ市場の「丸七商店街」はまだ健在だった。ここで何かを買った記憶があるのだが何だったかしら。


 そして若宮大路に出て、向かい側の「農連市場」も健在である。でもまだ時間が早いのかしら、店の数が少なすぎるのが寂しい、

 さて八幡宮に向かって大路を歩こう。未だ桜には早いが段葛あたりを見れば(参照:桜咲く段葛風景)、なんだか大路の真ン中に、凱旋門のような真っ白な建物が立っている。なんだ、これは、。どうやら、「二の鳥居」のあの真っ赤なペンキの塗り替えか、それとも建て替えかの工事用囲いらしい、なかなか堂々たる姿で、ちょっと見栄えがする。


 その二鳥居の横には、奇妙な形のビルが建っている。はて、ここにはこれまた奇妙な形の鰻屋のビルが建っていたはずだがと、しげしげと見れば、どうやら元の鰻ビルの構造体を残して、全面的に改装したしたらしい。面白いけど別によくなったとは言えないよなあ。


そうそう、こんな「浅羽屋」という鰻屋ビルが建っていたのだ。妙なデザインであった。2010年撮影

 このあたりの若宮大路に向いての店舗群には、けっこう昔の物があったが、次第になくなて行く。木造の民家や町家建築が結構あって、擬洋風の建築のもあるし、昔を想起させる。





 若宮大路で一番の意匠の建物と思っているのが、この「三河屋本店」である。和風の堂々たる構えで実にプロポーションもよい。だが、お酒屋さんもやってゆけないのだろうか、閉店している。


 店先にはこんな表示が出ているから、建て直すのであろうか、保全策を講じてあるのだろうか、気になる。

 この数寄屋風に凝った建築の表具屋さんは健在だった。

 この2軒並び木造も健在だ。左の蕎麦屋の「峰川」はそれほど古い建築ではない(建築時の姿を知っている)が、町屋の和風の良さを見せている。右隣は店先に妙な庇のようなものを付加しているのが気になるが、まあよいか。

 では三の鳥居をくぐって八幡宮境内に入る。正面の赤い随神門の裏山は、今は冬も緑が繁る常緑樹の森だが、戦争直後までは松の疎林だった(参照:大昔の八幡宮裏山)。山林は燃料の補給源だったから、人が定期的に山に入って木を伐り出していたからだ。今では誰も山に入らないから、植生の自然遷移が進んで常緑の森に変わってしまった。

 上の写真では随神門が全部見えているが、15年前までは左半分は大イチョウの葉張りの陰に隠れて見えなかった(参照)。銀杏が倒れてしまった今では全容が見えるが、そう遠くないうちにまた銀杏が戻ってくるだろう。倒れた銀杏の木の後継の木が今ようやく育ちつつあるのだ。石段のそばの白い枝張りの木が後継銀杏である。

 さてこのあたりで昼飯時なので、駅前東急で買ってきたパンの弁当を、源平池のそばで水鳥を眺めながらのんびりと食べたが、昔ここはよく来たところで懐かしい。
 昼飯を食って、今度は小町通を駅に向かって戻ろうかと思っていたのだが、まだ13時半、足が元気な様子なので、では金沢街道を東へ歩こうか、そうだ、できたらわたしの旧居がある十二所まで行こうかと思いつき、よろよろと歩き出した。途中でダウンしたらバスに乗ればよい。

 街道の表道をできるだけ避けて細い裏道を行く。昔に住んでいたころしょっちゅう歩いていたからよく知っている懐かしい道だ。
 若宮大路の桜はまだだが、荏柄天神参道の梅並木は赤白の花が満開である。このあたりは住宅街で、じわじわと変わっているような、変わらないような。

 報国寺へ登る道の滑川とそのほとりの桜は、花の季節には実に美しいのだが、まだ早い。
あ、そうだ、報国寺まで街道の南側にある小道「田楽辻子の道」を来ればよかったなあ、懐かしい路だ、まあ、いいや、帰りはそちらを歩こう。

 浄明寺あたりからは街道の北の住宅街の細い路を東へ東へと歩く。住宅の生け垣が続いていて美しい。

 このあたりに建築家・武基雄先生の旧宅があったと思い出して見回すと、記憶が不確かだがこれがそうだったような気がする。武先生はここに住んで後に極楽寺に移転された。もうここが武先生の自邸であったことは忘れられているだろう、

 住宅の向こうに衣張山が見える。ここの20世紀の風景は田んぼが広がっていた。今のように住宅が立ち並んだのは、21世紀の初めころから宅地開発されてからのことだ。衣張山はそのままだ。
 わたしはここを「浄妙寺田んぼ」と勝手に名付けて、四季の変化を楽しんでいた。散歩道の田園風景がなくなるのを惜しんだものだ。そしてその風景の変遷をまとめてネットサイトに載せている。参照:鎌倉浄妙寺田んぼの四季

 昔よくこのあたりをうろうろしたから、観光客は絶対に通らない道も知っている。そのひとつ、この幅50センチほどの裏道が今もあるだろうかと行ってみると、あった。住宅と住宅のはざまを抜けて金沢街道に抜け出る。住宅は建ち替わっていたが、超細道は健在だった。

 そうやって懐かしい十二所にやってきた。23年前までほぼ四半世紀住んだところだ。谷戸の奥深くに自分で設計した小さな木造住宅には、今は写真家の夫妻が住んでいる。明石谷戸道をだらだらと奥に歩けば、あの家が真っ白な姿で立つのが見えた。新築から46年も経つが健在らしい、よしよし。

 さてもう15時か、八幡宮から3キロほど、よろよろ歩いて3時間か、歩行速度時速1キロの老体になってしまった。駅まで返り道はここからまた懐かしい別の裏道をとの考えは、さすがにやめた。幸いなことに足腰が痛むことはない。でも年寄りにはもう無理かもれないと慎重を期して、バスに乗って金沢街道をさらに東へと、朝比奈峠を越えて金沢八景へ。 
 結構なミニミニセンチメンタルジャーニーだった。
(2025/03/12記)
このブログの関連記事<鎌倉フォトエッセイ集>
鎌倉十二所伊達自邸(現・大社邸)

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