2025/07/07

1897【故郷への最後の旅】高梁盆地浦島太郎徘徊は伯備線備中高梁駅ー順正女学校ー御前神社ー頼久寺

 ●最後の故郷訪問で浦島太郎の観光気分

 今年5月半ばに、わたしの生まれ故郷の高梁盆地を訪れました。この前に来たのは13年前でしたし、自分の都市から考えるとこれを最後の故郷訪問にしたいと思い、浦島太郎気分で観光してきました。

 小堀遠州作庭の借景庭園の今昔の風景を比べて、時の流れを目で切実に感じたのでした。その一方で遊び場だった臥牛山の松山城へ徒歩で登る能力がないと知り、脚で今昔を悟ったのでした。



高梁盆地(左が北)

●JR伯備線備中高梁駅の変化

 まずは出だしとして、JR伯備線の備中高梁駅の今昔です。盆地全体はわたしがいた幼少年期とはあまり変わらない風景でした。しかし、この盆地の街の玄関口のJR伯備線備中高梁駅が大変化でした。

2025年の備中高梁駅西口 左に駅舎と市立図書館



1992年の備中高梁駅西口 正面に駅舎

 昔は西側だけだった
駅前広場が東側にもできていました。わたしがいた頃は駅の西も東にも、太い杉や檜の丸太がたくさん積んでありました。このあたりの山は木材産地であり、そこからの丸太はこの駅から貨物列車に載せられて都市へ行ったのでしょう。鉄道がまだ来てない頃は、高梁川を流していたのでしょうね。

 高梁駅には、線路をまたいで駅東西をむすぶ歩行者自由通路の橋ができており、駅改札口はその橋の上から出入りするのです。しかも駅ビルさえも建っており、すっかり都市的な交通拠点の姿に変貌していました。

●駅ビルに市立図書館

 その駅ビルは商業施設ではなく、市立図書館ですから、その文化的な街づくりに感服です。列車通学の高校生たちは待ち時間をここで過ごすのでしょう。これは羨ましいと思いました。

 わたしの記憶にある市立図書館は伊賀町にありました。自宅近くですから高校生のわたしはよく利用しましたが、ほかに人がいた記憶がないほどに静かな図書館でした。その和風木造の大きな建物は、ネットで調べたら「順正記念館」として今もあって、順正女学校の当時の歴史的建築のようです。

順正記念館
●小説「孤城春たり」の御前丁

 順正と言えば、最近に読んだ時代小説[『孤城春たり』(澤田瞳子)のひとつの章に福西繁が登場します。この人が後の順正女学校創立者の福西志計子のことと、小説中にはないのですが、高梁出身のわたしにはそれとわかったのでした。山田方谷を主軸にした幕末が時代の舞台であり、福西は方谷門下だそうです。

 わたしは時代小説を読むことはほとんどないのですが、久しぶりに故郷を訪問したので読んでみました。小説としての出来はよく分りませんが、出てくる町名の場所を知っているので、昔のことなのに人物の動きを具体的に思い浮かべて読みました。特に山田方谷の住まいがあった御前丁(おんざきちょう)がたびたび出てきました。わたしの生家があった御前神社に由来する町名です。御前丁、石火矢丁、片原丁、内山下などが武家町で、本町、新町、下町などは町人町でした。武家町を丁(ちょう)と、町人町を町(まち)と読みました。今はどちらも町に統一していますが、読み方は昔のままです。

●わたしの生家があった御前神社

御前神社の社叢林と社殿等の配置(左が北)

 その御前神社を訪ねました。わたしはここで生まれて幼少年期を過ごしたもっとも懐かしい場所です。昔は石段だった参道は、車が登るように舗装された急な坂道になっています。その登り口に石の鳥居、参道脇には鐘撞堂があり、境内広場に昇って二の鳥居、更に石段を登って上の広場に出ると拝殿、本殿、神輿蔵などがあり、これら百年以上も前の社殿建築はほぼ昔の姿のままでした。変わったのは社務所が建て替わり、わたしの生家の宮司住宅が消えたことです。

御前神社境内 左は社務所、右の鳥居の奥の石段上に拝殿

御前神社拝殿

御前神社 左に神輿蔵、右に本殿

 境内を見回せば、かつてあったイチョウ、モミ、スギ、メタセコイヤ等の巨木が消えていますが、他の樹木が大きく育って社叢林を構成しています。周りの山は昔は燃料として定期的に伐るので雑木林でしたが、いまではヒノキを植え育てて深い森林となっています。
御前神社秋景色 2014年11月 川上正男氏撮影

 わたしは拝殿前の木の階段に腰を下ろして、しばし少年の頃の暮らしを思い出したのです。この広い境内全体に春も秋も落ちてくる木の葉を、箒や熊手で掃き集めるのは家族の重要な日常作業でした。小学生の頃は冬の毎朝、拝殿前に掃き集めた落葉の焚火で温まってから登校したものです。夏はセミの声が降りしきる森の中での昼寝は心地よいものでした。森に育てられました。

●17世紀初から時の鐘があった鐘撞堂

 ちょっと特異な建物は木造の鐘撞堂です。高さは12mほどの細身の塔状で参道脇に建っています。ここに鐘楼ができたのは十七世紀の初めころと、その釣り鐘に記されていました。

御前神社鐘撞堂 向うに見える城下町に時の鐘の音が響いたであろう

 一定の時刻にこの鐘を撞いて、城下町に時刻を知らせる「時の鐘」として藩が設けた、いわば公設の時計台でした。藩政期には鐘撞堂のそばに鐘守役の住む長屋住宅があったそうです。近代になって神社の時の鐘となり、わたしの祖父や父が撞き、父が兵役で留守中は母が撞きました。

1940年12月 時の鐘が戦争のために国家へ供出された日の送別行事

 その鐘は1940年末に戦争のために金属供出されて鐘不在の鐘撞堂となりました。鐘は溶かされて兵器にされたらしく、それ以来いまだに鐘がありません。老朽化して倒壊の危険がありそうです。その発祥の歴史的な由縁と共に、また鐘の不在が戦争によることを考え合わせると、歴史的な意義を持っていると思うのです。

 この木造建築は、もちろん江戸時代の建造ではないのですが、大正15年(1926年)に写したする写真(→参照)があるので、少なくとも100年近くの古建築です。そしてそのその塔状ランドマーク的な姿は、文化財とし保全する価値があり、早急に保全策が必要と思いますがいかがでしょうか。少なくとも登録文化財にはなるように思うのです。

 高梁盆地の文化財と言えば、なんといっても備中松山城と頼久寺庭園でしょう。松山城のあるお城山(臥牛山)は少年期の遊び場でした。今回も鞴峠まで車で登りましたが、そこから先の登山はわたしの足では無理で、残念、引き返しました。

街のどこからでも臥牛山の頂に備中松山城の天守の屋根が見える

●小堀遠州作の頼久寺庭園へ

頼久寺 サツキ大刈込

 頼久寺庭園では、サツキの大刈込にちょうど花が咲いており、美しく鑑賞しました。1960年に訪問した時の写真があるので、今回と比べて見ましょう。遠くにある愛宕山とその手前の庭園外の風景も取り込む雄大な借景庭園です。

 1960年にここへの訪問時に写した写真があります。それには庭園外の建物が写りこんでいて庭園から愛宕山まで続くはずの借景が破綻していました。この雄大な借景こそがこの庭園の神髄であるのに、残念なことでした。

 ところが、今年2025年の写真には、外の建物を目隠しする高い植え込み垣が庭を囲んでいます。緑の庭園が愛宕山までも続いているかのようです。ただ、その目隠しが高すぎてしかも直線的な天端は、愛宕山へと自然につながる風景というには、ちょっと不自然です。

 これで小堀遠州の作庭に戻ったとは言えないでしょうが、愛宕山もそれなりに借景として収まっていました。なお、この借景となる眺めの範囲の地区には、都市計画による地区計画(→参照)によって、高層建築が建てられないように規制がされています。これを変更しない限りは、これ以上に建築物が建つことはなさそうです。

(2025/07/07記)

ーこのブログ内の【西方への旅】関連ページー

2011/10/22【ふるさと高梁盆地】小堀遠州作名園の借景を守る都市計画 
https://datey.blogspot.com/2011/10/511.html

2017/12/03【余談:安藤忠雄展雑感談議】直島消えた大量の釣鐘を思い出す https://datey.blogspot.com/2017/12/1305.html

2025/04/26【西方への旅に】久しぶりにホテル宿泊を電話予約すれば・・ https://datey.blogspot.com/2025/04/1883.html

2025/05/18【わが設計の父母旧宅】築60年木造モダン小住宅が古民家民泊とは! https://datey.blogspot.com/2025/05/1886.html

2025/05/20【故郷の浦島気分】故郷に通じない高梁盆地≒アルトハイデルベルク説 https://datey.blogspot.com/2025/05/1887.html

2025/05/26【大阪駅で浦島気分】大阪駅上空大屋根の巨大架構が凄かったhttps://datey.blogspot.com/2025/05/1887_26.html

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2025/07/04

1896【身体改変】近ごろ刺青を手足や首や顔に施したり顔面に金属の玉や輪をはめ込む化粧流行で気味が悪い

  雑踏を歩いていてふと奇妙な感じの人に出会った。女性らしい服装の若者二人が向こうからやってくる。見るともなく普通の雑踏の人としてすれ違おうとして、何か異様な雰囲気がある。

 ふと見るとそのうちのひとりの首から顔の下半分にかけて、なんだか模様がついている。ちょっとだけ見つめてしまった。あざではなく、それは入れ墨のようだった、いや、タトーではなくて化粧かもしれない。化粧だとしてもタトーに見間違うような色どりだった。

 そうか、ついに化粧もそこまで来たのか。近ごろ道で出会う人の中に、奇妙な化粧というか、装飾というか、刺青というか、そんな身体改変デザインを見ることが多いような気がする。そんな文化の外国人か。

 刺青あるいはタトーのように人体をキャンバスに色彩や模様を施している人が多いような気がするのは、そのような文化を持つ外国からの観光客が多いのだろうか。それに影響されtた化粧というか顔面改変をする日本人も多くなったのだろうか。

 昔からごく一部の人が刺青をして身体装飾することは知っており、ごくまれに実際にみることはあった。だがそれらは衣服の下に隠れる部分に施すことを前提にしていたようで、日常普通に見ることはほとんどなかった。

 他人見せないようにしていたのは、かつては(今もだろうか)刺青がやくざ稼業の人たちの風習であったことに由来するだろう。もう一つは江戸時代に犯罪者への刑罰のひとつとして、公衆に見えるように腕や顔に罪人である印として入れ墨をしたという歴史もある。

 だから犯罪者への忌避感が刺青への忌避感につながる。そして文明開化と共に刺青が文明開化前の野蛮な風習とされ、法的に禁止された歴史を持つ。それらの歴史的経緯が、日本人に刺青忌避感が敷衍している由縁だろうと思う。

 現に、公衆浴場や温泉では刺青ある人を排除する条例さえも一部にはあるらしい。ところがいまや法的には禁止されていないらしい。法的には排除できないが、慣習として排除されているのだろう。

 先日は公園で走る男が上半身裸で、何やら刺青を全体に施していた。いまや腕に先まで刺青を見せて歩いている男や女に出会うことが珍しくない。だから顔にまで刺青の女性が街に現れるのも珍しくないかもしれない。それは個々人の自由だが、身体のどこまでどのように入れ墨しているだろうかと、変な想像をしてしまう。

 更に最近は特に奇妙に思うのは、雑踏で出会う人の中に顔に金属の装飾を埋め込んでいる人がいることだ。耳朶にピアスなる飾りをつけるのは昔からあるが、いまやそれを鼻や唇につけている。かつて金歯や金歯を光らせている人がいたが、鼻や唇などに銀の玉や輪が刺さりぶら下がるようだ。

 先日、鼻の下に銀色の輪をぶら下げている女性と道ですれ違った。それは農家にいる農耕牛につける「鼻繰り」そっくりであった。ひと好き好きだが、この人もそれに紐をつけて誰かに牛のように引っ張りまわされるのかと、ヘンな妄想が起きた。

 今や化粧技術が発達して、どんなシコメもブオトコ(わたしのPCではどちらも漢字が登場しない)たちまち美女美男に化粧で改変することができるらしい。そんな動画を見たことがある。

 もちろん手術で顔面美醜改変もできるのだろう。その延長上に刺青もあるだろう。美女美男への改変だけではなくて、自分の好きな醜女顔にとり替えることもできるだろう。もっと進んで脳さえも取り換えることができるようになり、まるきり別人になれるかもしれない。

 そこでふと思いついたが、政府発行の個人番号カードの顔写真はどうすべきだろうか。化粧して別の顔に見せてもカード変更しなくてもよいだろうと思う。でも、その写真と全く異なる化粧を毎日のように施している人は、どうするべきだろうか。

 更に、化粧なら簡単に元に戻るだろうが、手術とか刺青とかを施したときは、顔写真変更手続きをするべきであろうと思うのだが、それも10年毎でよいのだろうか。そのような場合はすぐに変更申請すべしと、法律にあるのだろうか。

 どのような化粧や身体改変しようと勝手だが、他人を不快にさせないように気をつけてもらいたい。今のところ幸いにして、わたしはまだ顔に刺青やピアスを施したひとと話をする機会はなかった。もしもそのような人と話す機会が来たら、どう反応するか自分を想像できない。気味悪くなり、さぞドギマギすることだろう。

(20250704記)

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2025/06/23

1895【六本木美術徘徊その2】タヌキに化かされながら国立新美術館に行き着いたが・・・

六本木美術館徘徊その1】からの続き


●新美へのでタヌキに化かされた

  篠原一男展のギャラリー間(下図の①、以下同様)のあとは、国立新美術館に行こうと、受付の人に道を聞く。地下鉄乃木坂駅に沿う地下通路を行けば、直線で近いし日も照らないから熱くない近道だと教えてもらった。礼を言ってまた階段を地下の通路に降りたが、地下自由通路はなくて、駅内を通り抜けねばならないと分かった。

ギャラリー間から国立新美術館への”遠い近道”

 では地下鉄ホームを通り抜けようとチケットを買おうとして傍らに張り紙に気づいた。地下鉄では同じ駅で入ってまた出るのは禁止とある。ケチな地下鉄だ。しょうがないから地上にまたえっちらおっちら昇って、地下鉄の上になる道路上をてくてく歩く。

 だがこの広い道はバタッと行き止まりになった。左横にある細道に入った。左の金網の中のすぐそばに新美の建物が見えている。これを行けば何とかなるだろう。細道はいつの間にか歩道橋になっている。右下に見える道に並行している。変な道だ。

 歩けどもすぐそばにある新美の敷地に降りる階段がない。だんだんと離れるようだ。おお、なんだか白昼夢になってきたぞ。空には夏の日が輝く。歩けど歩けど人2人がやっとすれ違えるほどの狭い歩道橋から降りる階段がない。

 熱中症で頭がおかしくなってきたか。そうだ、昔このあたりの森に棲んでいて開発で追い出されタヌキが、歩くやつを化かしに来たのか、なんて思う。え~い、それならそれで面白い、とことん化かされてみよう。

 どんどん歩く。何の案内標識もない、だれも通らない。おかしいなあ、地下鉄乃木坂駅から直結する入り口があると聞いたから、このあたりに新美に導く階段があってもよさそうなものを・・・。新美が遠ざかる。

 ようやく左に細い階段を見つけた。階段の向こうに車が通る広い路が見える。ここでタヌキと別れることにして階段を下りれば、目の前に左矢印の先に新美術館との標識がある。やれ嬉しやと広い歩道を歩けどまだ新美は見えない。スガさんが大嫌いな学術会議ってこんなところにあるんだ④。

 大回りしてやっと新美西門、入ってさらに正面入口へ坂道をよろよろと登れば、ようやく新美玄関に着いた。いやはや近道と聞いていたから余計に遠かった。だっての出入り口そばまで真っ直ぐに来たのに全くつながっていない。ぐるりと正面迄も大回りさせられたのは、どういう計画で作った道だろうか。タヌキに化かされたみたいだ。暑かった、でもまあよいリハビリ運動になった、ありがたや。歳取ると心も広くなる。

左に新美術館に西門がようやく現れた 正面には六本木ヒルズのドデブビル

●久しぶりの国立新美術館で見たのは、

 久し振りの新美だ。今、このブログを検索したら2016年3月に、大学同期仲間5人とともにここを訪れた記録がある。倉敷の大原美術館の出張展示を見に来たのだ。思えば、その時の5人の内の2人はもういない。(そのブログ記事

 まずはかつての東大生産技術研究所の建築の残骸を眺める。美術館別館となっているが今日は土曜日は閉館中、ここだけ見て帰ってもよい気もしていたが残念。この生研には何度か訪ねてきた記憶がある。思い出せば訪問先は池辺陽、村松貞次郎などだった。新美設計者の黒川がほんの少しだけ残してくれた歴史建築だが、今では誰も覚えていないだろう。


 新美術館に入り、昼なのでロビーでサンドイッチと紅茶を買って昼食。そばのTV画面にこれから見ようと思う「リビングモダ二ティ展」の映像が流れている。見ても興味が湧かない。でもせっかく来たのだから見ようと展示ホール入り口に行くと長い行列、さすがに篠原展とは大違いだ。

 わたしはなんでも行列して待つという行為を大嫌い。2階の出口に行って会場内をのぞき込むと、モダンデザインらしい家具や照明器具などが並んでいるのが見える。とたんに、なんだまた例のモダンリビングかと、もう展示を見るのが嫌になった。菊竹も藤井もミースも土浦もカーンももういいやという気になった。早く言えばもう建築はいいやという気分だ。

 でもせっかくここまで久しぶりに来たのだから何か見ようと探す。書の展覧会が二つもあるが、同じようなものがいっぱいぶら下がる。マンガアニメゲーム展という私には最も縁が薄い展示がある。これでも見ようと入った。興味がわかぬままに一応見て出てきた。

●六本木徘徊目的は、、

 さあ、これであとは六本木の街を見て帰ろうとしたら、美術館から地下鉄乃木坂駅に直結している出口を発見、なんだ最初からこちらに来れば、階段の昇り降りしなくてよかったのだ。とたんに疲れがどっと出てきて、地下鉄駅にエレベーターでスムースに入って帰宅した。

 久しぶりの六本木行きは街を全く見なかったが残念だ。この街には夜の遊びには行かなかったが、六本木駅につながる共同ビル計画で1年くらい通ったところだ。あのビルはまだ建っているだろうか。アークヒルズにも社会人相手のまちづくり塾講師として毎週通った。あの辺りも建て替えが進んでいるだろうな。

 無事に帰りついたが、かつてあの辺りを何度もうろうろしているから、そのころの自分を思い出して比較すると、わが身体の衰えを知るのだ。
 街歩きは街の変化を楽しむのだが、同時にわが身体の衰えを自覚して悲しむことにもなる。いやいや、これもリハビリになった運動だったと慰める。

(2025/06/22記)

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2025/06/22

1894【六本木美術徘徊その1】久しぶりに六本木徘徊しようとまず建築家篠原一男展に行った


  昨日(8月21日)、急に思い立って久しぶりに六本木に出かけた。六本木あたりの美術館巡りと街の変化も見てこようと思う。4年ぶりくらいだろうか。

 まず「ギャラリー間」の「篠原一男展」を訪問。ここは初めて来る美術館だが、TOTOという陶器製品屋のショールームがあるビルの3階である。その前に地下鉄乃木坂駅からのアプローチでひどい目にあった。このあたりは坂だらけの地形だから、階段だらけである。今や杖付き老人のわたしはエレベータやエスカレータのお世話になっている。だが、ここではヨタヨタと急な階段を昇るしか行きようがないのであった。

 ビル3階の展示場に入ると、大勢の外国人らしい人たちがいる。おお、こんなにも人が来るのかと見まわす。この篠原一男という建築家は、建築系の人たちには知られていても、一般にはほとんど知られていないだろう。大勢を前に男が2人英語でしゃべっている。解説のようだ。どうやら団体客らしいが普通の観光客ではあるまい。このひとたちは何者だろうか。

 小さな展示場で住宅模型と原図そして写真類が展示してある。寡作の篠原にふさわしい規模だ。展示が「から傘の家」から始まる。今ではドイツのどこかに移設保存してあるらしい。先日死んだ詩人谷川俊太郎の家もある。傾いた土間で暮らすのは面白そうだと記憶がある。

 「から傘の家」で思い出したが、篠原の先輩にあたる人で「番匠谷暁二」という都市計画家がいた。この人は主にヨーロッパを拠点として中東やアフリカの都市計画の仕事をした。その若い時に日本での建築作品に「正方形の家」があり、まさに「から傘構造」そのものであった。この家のことは松原康介氏の論文に詳しい。

 わたしは東工大1年生(1957年)の時に、篠原に図学を教わった。その内容は忘れたが、図学演習にはけっこう面白く取り組んだことは記憶の底にある。在学中はそれ以上のことは無いのだが、その後に建築の雑誌に発表する作品には興味を持ったものだ。

 だが、わたしが直接に接したことがある篠原の作品は一つだけ、東京工大百年記念館である。今は東京科学大学博物館というらしい。そういえば、この建築は図学の演習課題の実物のようである。東科大正門横にワニ口頭を振りかざすメカゴジラ姿は、かたわらに隈研吾設計の草叢建築を従えて好一対になっている。

篠原一男設計・東工大百年記念館(東京科学大博物館)

 80年代初めに、東工大の研究室に篠原に会いに、近藤正一と一緒に訪ねた記憶がある。わたしは当時はRIAに在籍しており、建築家山口文象の作品と評伝(「建築家山口文象 人と作品」)を制作編集作業中だった。

 山口は晩年に東工大非常勤講師をしていたので、山口と篠原に接点があったかと聞きに行った。篠原の口から一般的な話は出たが、山口との接点は特になかった。

 篠原直筆の原図の展示がある。その木造住宅は小屋組みなんてものはなくて、どれも垂木構造のようだ。あの詳細圧縮表現とでも言うのだろうか、木造住宅の1/20の詳細平面図を懐かしく見た。わたしも昔々にこんな図面を真似して描いた覚えがある。

 混んでいる3階を避けて4階に行き、見終わって3階に戻ると、もう誰ひとりいない。土曜日でも、篠原展を見に来る人はまれなのだ。ゆっくりと鑑賞して、辞したのであった。
 この後に行こうする国立新美術館の「リビングモダニティ展」もそうだろうか。

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2025/06/14

1893【歌集をつくる】今年は友人の歌集を毎月発行しているが多分これが最後の本づくり趣味遊びだろうな

 家庭用プリンターのインクが高価なのにイヤになる。購入して5年になるが、もうプリンターを何機も買えるほどにもインク代を費やしている。プリンタメーカーの商売策策略だろうが、その手に乗らざるを得ないのがしゃくだ。

2014年からの発行歌集と最近のプリンターインク残骸

 わたしの趣味は、本の手作りである。基本的にはPCを使って自分で原稿を書き、編集し、本のデザインをして、家庭用プリンタで印刷し、机上の紙工作で本を製作するのだ。
 できあがった本の具合を眺めて満足し、知り合いに読め読めと押し付けるのである。これが趣味である。たぶん、陶磁器つくり趣味と同じだろう。

 今年は、歌人である幼馴染の友人が詠む歌を、毎月選歌して、個人歌集として、わたしが制作発行している。これには更に共通の友人二人が加わって、それぞれの趣味の花と絵の写真を添えるのである。こうして歌詠み、花づくり、絵描き、本づくりそれぞれ趣味の4人の仲間による共同制作である。なんと典雅な遊びであろうと、密かに自負している。

 毎月の発行部数は、原則として10部である。今年3月に第1回目を発行して、4,5,6月と毎月発行して、現在のところ56冊まで来ている。
 歌人が毎月に詠む歌は数十首あるが、そのうちから数種を選歌して、毎月発行の歌集に載せる。第五歌集最初の3月発行分は90ページだったが、毎月の歌の追加により、来月分は100ページを超え、このぶんでは年末にはどうなるだろうか。

 本づくり趣味のわたしは、毎月の歌集を制作することを楽しむ。同じ歌人の歌集だから、毎月の歌集の基本的なデザインは変えないが、変えないままだと趣味としては面白くないから、ところどころ手を入れて楽しむ。これって盆栽趣味に似ているだろうか。

 実はこの歌人の歌集つくりをわたしが始めたのは、最初は2014年であった。この人の第一歌集発刊は2007年で、この時は歌集出版のプロによる商業出版だったから、広くゆきわたり、わたしも近所の市立中央図書館でこれを手に取った。

 次の2014年第二歌集からは、わたしの本づくり趣味で発行してきて、今年は第五歌集である。これまでは一度に100冊くらいを制作発行していたが、この第五歌集は毎月10部発行10カ月続けるという、長期プロジェクトにした。

 そうしたのには、それなりの理由がある。これまでの第二から第四歌集まではソフトカバー本であった。だが、今回はハードカバー本にした。歌人の希望でもある。
 それは4人の仲間はみんな米寿を迎えて、たぶん、これが最後の歌集になるだろう、だから手間がかかろうとも、見栄えのするハードカバーにすることにした。中身は同じでも、手に取ればそれがよく分る。

 ハードカバー本の制作は費用はたいして増えないが、手間が10倍くらいはかかる。本の製作はあくまで趣味だから、数冊ならともかく、100冊以上もとなると、制作には時間がかかって、趣味を超える。そこで今回の歌集づくりは、1年がかり長期プロジェクトとしたのである。製本を外注外注しようかとも思ったのだが、それでは趣味にならなくなってしまう。

 一年がかりならば、わたしのハードカバー本つくりもマイペースでやることができるし、歌人の歌詠みもいつものペースで進めつつ、歌集に採録できるのである。途中で老いが行く手をふさぐかもしれないが、少なくともそこまでの歌集はできあがる。

 もっとも、最初の歌集と最後のそれとは、収録する歌の数が異なるが、それもまたよろしい。ついでに毎月発行には、と称する小冊子を織り込み、そこには花と絵と本をつくる仲間の随想を載せる。

 そうやって現在は3月から6月発行号迄の毎月発行で4か月分で計56冊となり、予定よりは多く発行できている。実費支出は今のところで4万円余り、一番の支出はプリンターのインク代であることは冒頭で述べたとおりだ。

 暇な年寄りの遊びであり、歌人たちもわたしも楽しんでいる。もしかしてこれによって老人ボケ進行が遅延しているかもしれない。歌人も本つくり人も老いは待ってくれない。詠み人と本づくり人のどちらが衰えても歌集発行は止まるが、それはそれでよし、そう言う記録がっても面白い。

 だが、このところ1カ月ほど忙しくなって、本づくりペースをちょっと下げなくてはなるまい。これも締切がないも同然の長期プロジェクトだから調節できると分かっって良かった。じつはわたしは今、棲み家の引っ越しを目論んでいる。人生17度目にして最後から2番目になるはずだ。それはそれでぼけている暇がない。これについては別に書くことにする。

                         (2025/06/14記)

このブログ内で関連する記事
2024/03/06【歌集プロジェクト】歌詠む人花咲かす人絵描く人本作る人・・https://datey.blogspot.com/2024/03/1801.html

◆自家製ブックレット「まちもり叢書」シリーズhttps://datey.blogspot.com/p/machimorisosyo.html

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2025/06/04

1892【長嶋茂雄という人が死んだ】この報道ぶりから見ると安部さんなみの国葬になるに違いない

  昨夜(2015/06/03)、フェイスブックにこんなことを書いた。

ーーーーーー

【長嶋茂雄死す】今、たまたま聴いていた午後7時のNHKラジオニュースで、長嶋茂雄という人が死んだと言っている。わたしは見世物スポーツに全く興味がないが、それでもこの人の名を聞いた記憶があるから、有名なのだろう。

 それにしてもニュースが始まってから10分近くもこの人の死の話をしている。うちにはないから見ないがTVではもっと長いだろうなあ、そんなに重要なニュースなのか~、ふ~ん、そんなことより米騒動の方がよほど重要だろうに、珍妙な世の中である。

 あ、いま息子に長嶋の年齢を聴いたら89歳だそうだ、その年なら死んでも不思議ではないよなあ、でもニュースになるんだ、そうか、俺の1歳上かあ、ふ~ん。

ーーーーー

 ここまでは昨日の夜に書いたが、今朝の新聞は第1面トップ記事だよー、隣国プレジデント選挙がかすむし、米騒動がどうなろうが、ロシヤが戦争しようが、日本の今日はこんなにも平和なんだよ~、平和であることが不気味でさえある。

朝日と東京両新聞の第一面トップ

  6月4日朝の朝日新聞東京版は6つの面(全24面)に長嶋記事、東京新聞東京版も6面(全20面)というありさま。TVはたぶん長嶋特集番組ばかりで、庶民はかじりついて哀悼しているんだろうなあ。

 うちにはTV受像機がないし、あっても見ないだろうが、その番組は、もうとっくに用意万端整えてあり、彼の死をいまか今かと待っていたに違いない。新聞記事もそうだろうな。

 これはもう、安部さんなみに国葬になるに違いない。

 わたしとひとつしか違わない歳の人だからこの身にひいて思うのだが、死ぬことを世の中から待たれている人の老いの人生とは、いったいどんな気分だろうか?、なかなか死なない意地悪をやるとか、いつ死んだか皆目不明にしてしまう方法を考えるとか、なんだか面白そうだ。

 関連して思い出した言葉がある。巨人大鵬卵焼き」である。庶民の好きなものをオチョクルのだが、これが流行った60年代は長嶋茂雄が巨人チームで活躍していたのだろう。ついでオチョクリ言葉「阪神柏戸カレーライス」も思い出したが、これはわたしが作ったのであり、オチョクリ言葉をさらにオチョクったのだった。
(20250604記)
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2025/06/01

1891【戦後復興期都市建築研究】昔々担当した都市建築プロジェクトが研究対象になるほど古老になった

  先日のこと、K大学の旧知のN教授から、60年代後半に担当した某市駅前の防災建築街区造成事業について、当時のことを聞きたいとの連絡をいただいた。ではヒマツブシにキャンパスを久し振りに訪ねて、変わり様を見たいと思い出かけて行った。出歩くのがボケ遅延策でもあるのだ。

 久し振りに大学院生の若い男女たちと面と向かいながら、専門的なレクチャーのようなことをした。気持ちよく話をできたが、。院生の反応がもうひとつだったのはこちらのせいだろう。筑波大、東工大、慶応大、東京理科大と非常勤講師を渡り歩いていたから講義には慣れている。

 しかしもう歳が歳だから以前のようにレクチャーは無理だろうと思っていた。研究室で何か質問してくれればボチボチ話そうと思っていたら、意外にもゼミの場に連れていかれた。しかも十数人の若い男女の院生たちがいる。

 彼らは日本各地の戦後復興期の都市建築作りであった建築防火帯や防災建築街区の研究をしているという。実は数日前に別の大学の学生からも、全く同じ件について問い合わせメールもあったのだ。

 それはつまりわたしが現場でやっていたことが歴史的事実として研究対象になったということ、つまりそれほどもわたしが老いたということだ。別の言い方をすれば、いわゆるわたしは古老になったのだ。複雑な気分だが、聞かれて答えるのは気分よろしい。

 これまでも他の複数の大学の学生や院生から、同様な問い合わせは何回かあって、メールで答えたことはあった。それで済んでいたから今回もその程度のことだろうと思ったのだが、こんなにも大勢の若者たちが熱心に取り組んでいるのには、ちょっと驚いた。

 問われた防災建築街区プロジェクトについては、これまで何度か専門的出版物に書いているし、わたしのインタネットサイトにそれに関するページもある。またわたしのPCの中には、防火建築帯も含めて、それに関する雑多の資料が蓄積されている。

 今回の研究現場状況にちょっとわたしは反省した。これまでもっと真摯に対応するべきであったと。そこでわがPCの中のこの件に関する資料の発掘に取りかかった。ざくざくと出てきたので、ざっと見ていたらいろいろと忘れたことも思い出してきた。

 ゼミで話が足りなかったのを反省して、それらを重いフォルダーにまとめて教授にEメールで送ったのであった。もっとも、古い資料がどれほど役に立つのか分からぬし、わたしだけしか判読できないかもしれない。研究者たちの熱意で跳ね返ってくるかもしれない。

 わたしはPCの中に仕事関係や独自研究等の資料がかなり多く蓄積しているはずだし、整理の仕方は自分流だがまあまあ良いはずだ。紙資料は他に寄贈したり廃棄して全部処分した。 思い出せばほかの件でもネットを見たからと、いろいろな人から問われることもある。

 今回のことから考えると、けっこうな量の資料があり、有名なプロジェクトもある。例え

ば40年くらいも前にやった東京駅の再開発調査は、いまの赤煉瓦駅舎復元を決めるまでの紆余曲折の実に面白い仕事だった。

 これは世間的にも有名なプロジェクトで、わたしのネットサイトにも多くの駄文を載せているのだが、これに関して研究者から問い合わせを受けたことがない。それはまだ研究対象になるだけの時が経っていないということだろう。

 もっとも、わたしのスタンスが、都市計画中心だし、東京駅復元に反対の論、つまり敗北した主張だから、興味をひかないのはもっともである。個人的には出自の建築史から専門としていた都市計画にまたがる仕事だったので実に面白かった。

 問い合わせが比較的多いのは、建築家山口文象についてである。これについては、その主人公が日本近代建築史の特定の位置にいるから多くなるのは当然だろう。わたしがたまたまその人のそばにいる時期があったので、その評伝を出版物にまとめる仕事をする機会があり、それだけではなく独自研究も合わせて、わたしのネット掲載したのである。

 さて、わたしももうこの世から消える時期が近い。それで近頃思うのだが、わたしのサイトに載せる様々の公開駄文と、その裏にあるわたしのPCに蓄積の資料類を合わると、かなり重いデータ量であろう。それらがわたしが消えるとともに消える。同じ様なことは地球上のあちこちで多くの人々に日々起きているだろう。

 これをあれこれ考えると実に面白いので、次の論考にしよう。(つづく)

(2025/06/01記)

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2025/05/30

1890【カスハラ連日】店でも役所でもカスハラごっこは機械も加わりどこまでも続きそうだ

 政府から手紙が来てあるマイナ―なことをやれという。メジャーな方が好きだが国から命令とあれば仕方ない。
 今日は国の下請け機関である区役所が、「マイナーカード」なるものを受け取りに来いと言うので、雨の中を行ってきた。雨に対応してパーカを着て、マスクも着けた。

●カスタマーのわたしがハラスメント受ける?

 窓口には大勢が並んでいる。やがてわたしの番が来て、カウンターの向うのマスク女性があれこれ指示してくる。

 まずは2件の暗証を入力せよという。4桁の数字は簡単に入力できたが、15桁の大小英数字入力は、画面キイボードの英字の並びがPCとは違うので、えらく時間がかかるのであった。なんで、PCのように並べないのか。国民というカスタマーをハラスメントしているぞ。

 最後にカウンター向こうのマスク女性が言う、
「では写真とお顔を照合しますので、マスクを外させてください
「え?、変だな、まあいいや、どうぞお外しになってください」
「マスクを外させてください」
「え?、あ、そうか、君のマスクじゃなくてわたしのだね、さあ、どうぞ外してください」
と、顔を突き出せどもマスク女性は手を出そうとしない。 

 ハタと気が付いた、この人はわたしのマスクをわたしの手で外すことを要求しているのだな、その言葉遣いを間違えているんだな、と。「・・させてください」と言えば何でもかんでも丁寧言葉になると思っているらしい。

 若い時だったらここで言葉遣いの講義をするのだけど、さすがに年取って人間が丸くなったし、わたしの後にも待つ人たちがいるので、我慢した。相手の言いたいことを頭で変換理解して素直に対応するのだ。自分でマスクを外して顔を突き出した。

 ここでもしもわたしが丁寧語の言葉使い講義を長々とやったら、それを「カスタマーからのハラスメント」というのだろうと思う。

 その一方で、カスタマーのわたしが迷うような言葉遣いで指示をするのは「カスタマーへのハラスメント」と言っていいだろう。まあ、おあいこ勝負無しってところか。

●機械も参加してカスハラごっこ

 そうやって予約呉れたカードのどこにもマイナーカードと記載がなくて、「個人番号カード」と書いてある。これは本物だろうか?
 そもそも名称がおかしいと思う、番号が書いてあるけど、それが重要じゃなくてそれにつながる個人情報のためのものだから「個人情報カード」というべきだろう。

 ついでに書くが、この後に必要あって手数料300円の証紙を買おうと、区役所内の自動販売機に1万円札を入れた。一万円札だけ出てきて、うんともすんとも進まない。
 おい、9700円釣りだろ、9千円しか出ないぞ、300円証紙もでないぞ、近くに案内係女性がいたので助けを求めた。彼女がいう、出てきた1万円札を数えろと、なんと10枚もある。

 「ということは、この機械は両替機ですか?」ときけば、「すみません、1万円札の時はいったん両替してから買ってください」「え、そんなことどこに書いてあるの?」「すみません、そう言うことなんです」「今どきバカな機械だね」「すみません」

 何度も「すみません」と言われると、これはカスタマーハラスメントしているように聞こえてしまうだろうと、困ってしまった。「まあ、まあ、謝らないでよ、あなたが悪いんじゃないよ」なんて、こちらが謝りそうになる。彼女の作戦勝ちである。

 この後に某役所に寄ったが、約束した係に至るまでに6階→7階→8階→7階とたらいまわしされた。典型的お役所カスハラである。
 ついでに今日は雨が降りしきる天気で足元から濡れてしまい、地球からもカスハラを受けたのであった。おかげで頭に刺激を受けてつづけてボケが止まる。

(20250530記)

 このブログの同趣旨の記事

2025/04/14・1879【粕腹面倒】
https://datey.blogspot.com/2025/04/1879.html

2025/05/29・1889【リベンジカスハラしたい】
https://datey.blogspot.com/2025/05/1889.html

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2025/05/29

1889【リベンジカスハラしたい】外食するたび店が客を酷使するカスタマーへのハラスメントが増える

 近ごろは外でめしを食うのが大冒険で、面白いがめんどくさい。
 今日は昼めしを横浜駅地下で食べようと店を探していたら、家の近くでコロナの前からよく仲間と飲みに行っている「ナントカ水産」をみつけて、名前が同じだから経営も同じだろう、慣れた店だからとて入る。

 テーブルに座って待てども、だれも注文取りに来ない。おやおや、ここもネット注文に変わったか見れど例のタブレットがない。
 しかたないからカウンター向こうで作業中の板前に「どうやって注文するの?」と聴きに行く。

 「はい、ここです」という。でもなあ、何の案内も出てないぞ。
 で、注文したら「これをもって待っててください。用意できたらそれに書いてある番号をお呼びします」、小さな番号札をくれった。で、席で待てども待てども「7番さ~ん、用意できました」てな呼び出しが聞こえない。

 番号札を見たら、何か星がチカチカしている。あ、これが呼び出しかな、また板前のところに行ってみると、果たして注文したマグロどんぶりができて角盆に乗っていた。
 味噌汁がついているが、お茶がない、そばに水差しと小さなペラペラの薬を飲むようなプラコップがあるので自分で注ぐ。

 ドンブリとみそ汁と水が乗る角盆を、左の片手で持つ。右手は杖を突いているからだ。
 角盆を落としそうで怖い、できるだけ近いテーブルにたどり着いて、ようやくに昼飯にありついた。水のお替りを注ぎにいくのがめんどう、持っていたペットボトル茶を飲む。

 やれやれ、外食でタブレットに出会うのは慣れたが、顧客酷使セルフサービス新方式がまだまだいろいろと登場して来るので、油断できない、年とっても杖ついたり、ましてやボケていられない、外食難民の恐れ十分だ。救済活動を待っている。

 客をこき使いだした分は、値段が安くなっているかとみれば、反対に値上げだ。コンチクショウメ、これこそカスハラだ、「カスタマーへのハラスメント」だ。
 いま、考え中は、店内で杖ついて片手で盆を持ったまま転んで、食い物と食器を床にぶちまけてやろうかという、「リベンジカスハラ作戦」である。 

(2025/05/28記)

このブログの関連記事
2025/04/14・1879【粕腹面倒】値上げ攻勢で商店に虐められた
カスタマーが恨みを”晴らす面倒”を起こすらしい https://datey.blogspot.com/2025/04/1879.html

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2025/05/26

1888【大阪駅で浦島気分】大阪駅乗降プラットホーム上空大屋根の巨大架構による大空間が凄い

 ●西方旅行の途中で大阪駅へちょっと途中下車

 5月半ばに西への旅の帰りに途中下車して、1時間ほど大阪駅から街を眺めてきた。
 大阪へは、市内に住む伯母の家を、少年時からよく訪ねたものだ。
 長じて、社会に出てすぐの60年代に2年ばかり、70年代も2年ほどを大阪駅近くの勤務先に通ったことがある。

 その後はめったに大阪に用もなかったので長いご無沙汰である。だから今度の米寿記念ともいうべき旅で、大阪へも最後かもしれないと、大阪駅あたりだけでも見ることにした。何年振りだろうか、大きく変わっているに違いない、浦島太郎気分が高まる。

●全く見も知らぬ大阪駅表口風景

 大阪駅の表口とでもいう南側の駅前風景は、昔と全く違う見も知らぬ風景になっていた。超高層ビル林立で空を見るには首が痛くなるほどに風景は大きく変わっていた。

 昔はせいぜい30~40mくらいの高さのビルばかりだった。丸ビルと名付けた円筒状のホテルがちょっと高かったくらいのものだった。そういえば駅前でよく入った店は「旭屋書店」だったと思い出したが、どこにも見えない。

大阪駅南の駅前で西方面街並みを眺める

大阪駅南口前から東方を見る 左に阪急?、右に阪神?

大阪駅東口前の阪神百貨店はこんな形になっていた

 少年の頃に伯母の家を訪ねるためには、大阪駅南口から阪神電車に乗り替えた。それには阪神百貨店の地下に入った。阪神電車駅は今もその位置らしいが、百貨店ビルは超高層に建て替わっていた。そういえばその地下にあった全国名産品店街とか薄暗い飲み屋街はあるかしら、階段横の串カツ屋はどうだろう?
 とにかく駅前の広場や道は、昔の通りの位置や広さらしく見えるのだが、どこもかしこも超高層ビルが道路際までいっぱいに建っていて、緑や空が見えなくて実にうっとうしい風景になっていた。

 緑らしきものは御堂筋にある梅田吸気塔の周りの樹木群だけのようだ。この村野藤吾デザインの吸気塔が今もその形で立っているのが、なんだか不思議であった。まさかこれも超高層にはなるまい。

村野藤吾デザインの梅田吸気塔と樹木

 歴史的近代建築としてどうなったかちょっと気になっていた大阪中央郵便局も、超高層建築に建て替わっていた。東京駅前のそれと同じKITTEとネーミングだそうだから、同じように下半身には元のデザインを生かしているかとみれば、つまらぬビルになっていた。遠目で見て、近くに行く気にはならなかった。

大阪中央郵便局舎が建て替えられてKITTE大阪に

 そんな大阪駅前に建って左右を見渡していたら、東京のKITTEのように昔の姿を継承しているビルがひとつだけあった。かつての阪急百貨店が超高層ビルになっているが、その下半身にはかつてのビルのイメージをかなり上手に生かして継承している。その阪急百貨店うめだ本店だけは、そこに昔は何が建っていたか、わたしにも思いだすことができて、浦島太郎気分ひとしおであった。

阪急百貨店が建て替えられて阪急梅田本店ビル

●大阪駅北側の操車場跡地開発もチラリ眺めた

 そうやって懐かしい表口をながめ、かつては無かった裏口(北口か)も眺めてきた。こちらは広大な鉄道操車場があったこと、その一部が開発されて梅田スカイビル(原広司設計)だけが建っていたころの風景までは知っているが、その後は全く知らない。

 しかし最近その再開発ができ上ったらしく、ネットにその風景がちょくちょく登場する。それには巨大商業ビル群、超高層ビル群、広大公園緑地空間が見える。なんだかよくある開発風景で、もう実物を見なくても分かった気になってきている。

 ここは再開発といっても事実上は新開発だから、昔の姿を思い出して、浦島太郎気分を楽しむことができなくて、つまらないのである。そこが表口とは大きく違うのだ。駅裏(北)に建った駅ビルから、チラリと眺めて見て引き返した。

大阪駅北の操車場跡地開発をちらりと遠望

●大阪駅プラットホーム空間再開発が素晴らしい

 実を言えば裏口の操車場跡地開発を見る前に、大阪駅そのものの再開発に大いに惹かれてしまったのだ。結論を先に言えば、大阪駅あたりの再開発で、もっとも感銘を受けたのが、大阪駅そのものの再開発であった。表も裏もホンのちょっとだけ見てそう言うも気が引けるが、いや、まったく大阪駅こそ物凄い再開発だった。

 大阪駅の沢山の列車乗降プラットホーム全部を、はるか上空に大屋根をかけて覆ってしまうとは、じつに大胆である。京都駅のコンコース大屋根もすごいと思っていたが、こちらはプラットホーム全部だからすごい。

鉄骨の架構がダイナミックに上空をよぎる コンコースのしつらえがチャチに見える


コンコースが中間にあるためにプラットホーム迄全体を見下ろせないのが残念


 外国の鉄道駅では、大きな鉄骨ドームをかけた駅は、ハンブルグ駅やミラノ駅などいくつか利用した経験はあるが、日本では初めてだろう。なんと2011年完成だそうだから、14年もわたしはそれを知らなかったのだ。浦島太郎である。

 上記の例のような外国のそれと違うのは、こちらはホームと大屋根の間に広いコンコースが架かっていることだ。だから鉄道の出入りや乗降客の動きが、大屋根の下に一目で見渡せないのが惜しい。あの大空間であの頻繁な鉄道列車の動きがあると素晴らしいダイナミックな風景になると思う。ヨーロッパで見たあのおおらかな空間ではないのが惜しい。

 それでもホームとコンコースを全部まとめて上空に架かる大屋根の架構のもたらす空間のダイナミックさにほれぼれした。文章でも写真でもとても表せない。体験するしかない。
 ともかくもこ こに途中下車して眺めた大阪駅とその周囲の景観ベスト3ランキングをしよう。もちろん駅とその周りでわたしが1時間ほど眺め体感した範囲の偏見と独断である。

 第1位:JR大阪駅プラットホーム上の大屋根空間(設計:JR西日本)
 第2位:阪急うめだ本店ビル(設計:日建設計)
 第3位:御堂筋の中に建つ梅田吸気塔(設計:村野藤吾)

(2025/05/26記)

このブログ掲載の西への旅日記

・2025/05/20・1887【故郷の浦島気分】もう30年も唱える「高梁盆地≒アルトハイデルベルク説」は故郷に通じなかった https://datey.blogspot.com/2025/05/1887.html

・2025/05/18・1886【わが設計の父母旧宅】築60年モダンリビング木造小住宅が今は古民家民泊施設として生き残るとは! https://datey.blogspot.com/2025/05/1886.html

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