●毎年恒例の母校へ花見に
花見に大岡山に登ってきた。満開ではなく八分咲きというところであろうか、まあ、よろしい、毎年恒例の大岡山花見登山も、これでおしまいだな、わが年から言っても、今やそんなころ合いだな。
そもそも母校の名前が変わったし、何よりも学んだ建築意匠系(歴史)の学科が、田町キャンパスに移転して出て行ったそうだから、もう余所だよなあ。さすがに卒業後66年も経つと、ソフト面もハード面も大きく変わってしまい、ほぼ縁がない場所になった。
そんなことで桜の花見も、これが最後と思って見れば、もうヨレヨレ真っ黒デブデブコブコブの老木が、わが身に似て見えるのもつらいものだ。ついつい花よりも老幹を見る。そしてとうとう次世代の若木に交代する現実も見た。では、最後の花見報告を書いておこう。
大岡山駅を出て見回すと、左に百年記念館(篠原一男設計)という大岡山のランドマーク、右に蔵前会館(坂本一成設計)の風景は変わらない。あのワニ口のような半円筒の突出は、まさにこちらの駅に向かっており、招いているらしい。
なお、英語のスラングでtitとは女性のおっぱいのことである。それかあらぬか、いつのころからか略称をTokyo Techというようになっていた。
マイペースでノロノロだが、昔よく歩いた道を今も歩くことができたのが、われながらエライもんだ。これでもう終わりにする。
●老木は頑張って今年も花を
左正門から右の図書館まで、本館前のパノラマも定番。滝プラザが緑の中に隠れるのはいつになるのだろうか。
では桜の花の下に入ろう。上を見上げればいつもの用の本館の時計台が見える。あの時計のあたりに山岳部の部室があった。そこまでエレベーターもなく平気で昇り降りしたし、それどころか塔の屋上に出て、外壁をアップザイレンの中吊りで降りたこともある。
では世代交代桜への感慨を書いておこう。それには歌を詠むのが格好よろしい。ここはやはり桜の花を大好きだった先人の西行法師についていこう。
昔々山岳部の訓練で、このスロープにあった洗濯板状の坂道をうさぎ跳びで登ったものだったが、あれはひどかった。今も足だけは丈夫なのは、そのお陰でもあるまいが。
ちょっと戻って、東急線路上の橋から眺める景色。手前の空き地は昔々水力実験室(谷口吉郎設計)があったところで、水銀汚染で建物撤去したのちも、土地も汚染で使えないらしく空き地のまま。
その向こうに見える丸屋根の建物が新築で、ここに建築系学科が緑が丘の上から移ってきたそうだ。ただし、建築意匠系は田町キャンパスに出て行ったそうだ。ということは、わたしは意匠系の建築史の研究室だったから、もうここには縁がなくなった。
森の中にはワグネル先生の碑がある。ここにはしょっちゅう来たことがあるが、実はワグネル先生とはどんなお方か全く知らないし、知ろうともしないできたが、この碑文を読んでみればわかるだろう。
●昔々住んでいたあたりの今は
中学校グラウンドとの間を抜けると向こうに、呑川を渡る木橋が見えてきた。昔々は橋はなくて、流れの上に板をかけて向こう岸にわたり、崖を昇ったものだ。
橋の上からの三川沿いの桜を眺める。
橋を渡れば、昔々はこの丘の上全部が向岳寮で、わたしは1年間住んだ。どこかから移築してきたという古い木造平屋の寮室群が2棟、ほかに食堂とホール棟が建っていた。火が出ると全滅だなと思っていたが、わたしが出てから何年か後に燃えてしまった。寮は再建されることなく、跡地には建築、社会工学、土木系の教室研究室が建った。それらも今、建て直されている。
掲示を見れば、その設計は石本建築事務所である。たぶんプロフェッサーアーキテクトのどなたかが監修しているのだろう。 緑が丘の街にある例の市場風店舗の緑が丘百貨店は健在だったが、今日は日曜日で休店日だったようだ。すぐ隣は空き地になっているしその隣は建築中だし、この記念的百貨店も来年もあるかどうか怪しいものだ。
●さらに自由が丘までよろよろ歩く
その桜並木の道(九品仏川緑道)は健在だったが、桜の木がここもかなりの老化で、よれよれであった。道路上に張り出さないように強剪定されて可哀そうだ。どうやら椿の花の道にとって替わりつつあるようだ。ここでもわが身と比較するのであった。
写真の右側に東横線駅があり、その線路沿いに自由が丘デパートだが、その向かいの道を挟んだ大きな街区全部が再開発とはねえ、自由が丘の一番の場所だ。でもここには何があったったけか、そうだモンブランというケーキ屋があったなあ。飲み屋街の裏路地もあった。
あの昭和時代感覚に満ちた共同店舗ビルが今も営業を続けているのは、それなりに理由があるのだろうが、こここそ自由が丘で最初に再開発事業になりそうな気がしていたので、ちょっと意外だ。
そして、ほぼ縁が切れた感じの大岡山母校花見にも、もう来ることもないだろう。
2025年けっこうな最後の母校花見徘徊であった。