2025/09/05

1908【参院選挙儲け話】7月の参議院議員選挙に立候補し落選しても大儲けした人たちがいるんだ!

  選挙に立候補して、落選してもカネが儲かるって、知ってましたか?、それがあるんですねえ、驚いたね。
 せんだっての参議院議員選挙について、立候補者ごとの選挙での支出と収入が、新聞に載っている。ただし神奈川県の小選挙区83人のうちの金額が上位の10人のみである。

 実は金のことには興味がないというか計算が得意でないので、あまり気にしないのであるが、ふと、選挙で儲かる人がいるのかしら、と思った。
 そう思いつつ表をみたら、収入と支出を別々の表になっていて、収支の差額を書いてない。これでは損したのか得したのかわからない。

 そこで計算不得意を承知で、収支一覧表を作ろうと試みた(計算間違いがありそうだ)。困ったことに収入の表と支出の表と、載っている人の一部は一致しない。しょうがないから収入優先にして、支出不明の人は、表の最低値903万円以下であることはわかるから、900万円を支出最大値に推定して収支差額を計算した(*欄)。その結果が下表である。

 こうやって見ると、選挙って意外にも儲かるらしいと分かった。収入のトップテンの内で8人までが儲かっており、損したのは2人のみである。エッ、これって意外である。選挙立候補って儲かる商売なんだ!

 選挙期間は17日間(7月3日~19日)だったから、その間で甘利明氏は570万円以上、丸田浩一郎氏は484万円以上も儲けたことになる。一日30万円以上の儲け、すごいもんだ。甘利さんてどんな人か知らないが、お名前のとおりに甘い利得だね。
 
 もっとも、このふたりは当選しなかったから、本来の目的は達しなかったが、そんな短時期でそれだけ儲かれば、結果は上々だったのでしょうね。
 う~む、これはよい稼ぎだ、わたしも立候補したくなった。いわゆる泡沫候補が登場するのは、実はこういうことがありうるからだろうか。

 なんだか卑しい心で国政選挙を眺めている自分をイヤになるのだが、本当に現実はこういうものなんだろうか。
 いや、県選挙管理委員会による正式発表によるものとあるから、正しいのだろうなあ、ふ~ん、そうなのかあ。でも、じっと座っていて儲かる仕事ではなさそうだ、やめとこ。
(2025/09/05記)

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伊達美徳=まちもり散人
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2025/09/04

1907【酒屋が薬屋】薬なんて風邪と怪我しか縁が無かったのに今や朝夕4粒も飲まされて年寄り気分に

●酒屋が薬屋ってマッチポンプだぞ

 いつもは新聞折り込み広告なんて見もしないでゴミ箱行きなのに、今朝は捨てようとしてふと目が留まった。そこにはSUNTORYなる文字が見え、何やら瓶に入った薬のようなものの宣伝らしい。眺めてみてもよく分らないが、これがサプリメントというものらしい。

東京新聞のニュースと折り込み広告

 昨日の新聞一面に、サントリーの新浪とか言う社長だったか会長だったか親分が、毒物サプリメントを輸入とか服用とかで警察に捜査されて、”潔白だけど格好が悪いから辞任する”なんてトップニュースがあったことを思いだしたから、目に留まったのだ。

 ふ~ん、サントリーって酒屋と思ってたら、薬屋もやっていたのかあ。確かに酒飲むと身体に良くないことになる確率が高いから、それを薬で治したいことになる。だから薬を売ればもうかるってことになる。これは酷い商売だ。

 いわゆるマッチポンプだな、火をつけて火事にさせ、消防車を呼んで手柄顔をするなんて、つまり往復で儲けようなんて、新浪って悪い奴なんだな、警察にうんと絞られるのがよろしい。そんな奴が経済界のリーダーであってたまるか。

 いや、もしかして、サントリーの経営が悪くなって来たので、親分が身を挺してサプリメントを大々的に売り出そうとの宣伝作戦かもしれない、なんせ、サントリーと言えば山口瞳や柳原良平や開高健などを輩出した宣伝上手なんだからね。

 てなことで、この一件はこの辺で、よろしいでしょうかね。 と思っていたところに、折も折、うちの郵便受けにこんなものが入っているのを見つけた。エッ、これも新浪宣伝作戦のの一部かな、タイミングが良すぎて気味が悪い、開封するかなあ、どうしようかなあ。



●わたしと薬

 薬と言えば、わたしも今年からとうとう毎日朝夕食後に薬を合わせて4粒も飲む身分になっている。薬なんて傷薬には縁があったが、飲み薬にはたまにかかかる風邪薬くらいのものだった。それが毎日4粒も飲むようになるなんて、、。

いったい何の薬かしら

 身体のどこかが痛いとか痒いとかって自覚症状が何もないのに、こんなもの飲んでよいのか、どうも腑に落ちないが、医師の言うままにしている。今年になって足がむくむとか、夜中の小便回数が増えるとか、これらは薬のせいかもという疑念が抜けない。

 そもそも薬を飲みだした、いや、飲まされだしたのは、去年暮れごろに受診した無料健康診断だ。どこも悪くないけど長期にわたって受診しなかったの気がついて、暇だし無料だから行ってみるかと受けたら、すぐ血圧専門医にかかれと診断されたのが契機だ。

 そして専門医にあれこれ有料検査されて、今年正月からめでたく年寄り仲間に入った如くに、朝夕食後に薬を飲む、いや、のまされる日々が来たのだ。

 もう10年以上も前のこと、大学同期生たち数人と、一泊旅行したことがあった。その旅館での朝夕に、誰もが食卓に薬をならべて片端から飲む。遠足のお菓子のようで、羨ましかった。聞けばそれぞれにそれなりの薬であり、わたしは飲む状況になりたくなかった。

 そして今、わたしもそうなったのだが、どこも悪くないのになぜ飲むのか、毎食後に疑問を持ちながらも、医師の言うことだから悪いことであるはずはないだろうと、服用している。でも、たびたび忘れる。

 ついでに血圧を測って薬の紙袋に記録するのだ。毎度同じようだが若干は上下する値いに、だって俺は機械じゃないから当たり前だよと、いい聞かせるのである。要するに食後のヒマツブシである。これからどんどん粒が増えるかしら、医師と薬屋のいうままに。

(2025/09/04記)


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2025/09/01

1906【早朝の公園に行列】誰もが参加できる野外炊き出し活動は救貧策からコミュニティつくりへの動きか

●衰える歩行能力に逆らって 

 さすがに88歳ともなれば、これが老衰というものかと、じわじわと老いが押し寄せる気配を感じる。身体のどこといって痛くもかゆくもないのだが、日夜にわずかづつなんでもない動作がノロノロ方向へと引きずられている。

 特に歩く速度が普通の半分くらいになった。わが身の得意は歩くことだったのが、こうもノロノロになると、これが老いて衰えると書く老衰なんだなと納得。それに無駄だと分かっている抵抗をしているのが、日課とする早朝徘徊である。

 毎朝6~7時ころに出発して、1~3時間かけてふらふらと歩いてくる。どこと決めているのではなく、家の周りを日によってコースを変えて四角にまわるとか、ちょうどやってきたバスがどこ行きでもかまわないから乗って、適当なところで降りて歩いて戻ってくるとか、地下鉄に乗って遠くまでいってウロウロしてまた地下鉄で戻るとか、日によって気分を変える。

 気分を変えるというよりも、その日に歩いてみる街の風景の変化を楽しむのだ。この町に住んでもう23年だから、ほとんどの道を歩いた。この前ここを歩いたときはどうだったかなと思いだしつつ、ああこの街も衰えたかとか、相変わらずにぎやかだとか、おや、こんなところでこんなビルがっ立ったのかとか、定点観測的に見るのが面白い。

 自然の豊かな郊外の大規模な公園も好きだが、自然は四季しか変化しないし、変化の仕方が決まっている。もちろんそれを楽しむのが公園だが、それよりも短いサイクルで多様な変化が著しい大都市の真ん中を歩く方が、はるかに面白い。

●早朝炊き出しを待つ行列に出くわす

 さて、今朝も6時半頃に出発、まず大通り公園に行ってから、次の方向を考えようと来てみれば、いつもは早朝でほとんど人はいないのに、なんだか異様に人影が多い。
 今朝の伊勢佐木警察署前のブロックには、年配らしき大人たちが長い行列をして何かを待っている様子。行列の先頭あたりの広場では若者たち数人、机を並べたり、テントを立てようとししたり、何やら荷物を運びこもうとしている。

炊き出し食事を待つ人たちの行列

炊き出し食事をつくり配布する若者たち

 はて、どんなイベントか見当がつかないので、支度している若者に尋ねてみた。
「これって、何があるのですか?」
「ああ、8時からカレーの炊き出しをするのです」
「あ、そうですか、毎週日曜日の朝ですか?」
「いや、月に1回です」
「おお、ボランティアですか」
「はい、そうです」
「ほお、どうもありがとうございます」

 自分が炊き出しを受けるのではないにしても、若者たちに礼を言う気になった。そうか、ここでも炊き出しを行っているのか、でも初めて出会った。炊き出しと言えば、寿町の公園で正月に数日を行っているのに、毎年に出会う。

 あれもボランティアなんだろう。寿町のそれがある種の貧窮救済政治闘争的雰囲気もあるのに対して、こちらは総じてのんびりしているようだ。宗教団体かとも思ったが、その雰囲気もない。

 炊き出しを受けようと並ぶ行列が長い。200人くらいはいるが、まだ7時前だから、8時まで立ったまま1時間以上を待つのも、公園の林の下でもこの暑い日では結構大変だ。先頭に人は6時前に来ているようだ。行列の中の話声では、250人分で打ち切りになるとかだから、もうすぐ満杯だ。

 わたしは足の健康のためにここに来たのだから、一応大通り公園の南終点まで歩いて引き返してきた。そしてもう8時直前なので、ベンチに腰かけて見学することにした。部外者のようで何となく気が引けるが、ここは公園だから誰がいてもかまわない。もしかして炊き出しをいただこうかとも思う。

 先ほどから行列は長くなり、ここが最後尾と書いたプラカードを掲げる若者がいたから、そこが250人目なのだろ。でもその後にも数人がならんんでいるのは、余分にありつけるかもと期待しているのだろうか。寿町では4~500人くらいいた規模が違う。

 ボランティアの若者たちは十数名に増えて、おそろいの黒いシャツを着て、きびきびと動いてカレー配布の用意をしている。数名は大きなプラ袋をもって、行列に沿って歩きつつゴミ拾いをしている。彼らが連れてきた幼児たちが数人いて、遊んだり手伝わされたりしているのがほほえましい。まなじりあげるボランティアではないのが気持ちよい。

●公園の緑の中にカレーの匂いが満ちた

 やがて、配布の用意ができたらしく、全員集合記念撮影をしているのも、楽しい活動の様子だ。若者たちの子らしい幼児たちもうろうろ遊んでいる。
 「皆様、おはようございます。では、第16回炊き出しをただいまから行います。メニューは○○提供のから揚げと□□提供のカレーで~す」

 宗教団体ではないらしい、何もそれらしいことも言わずに炊き出し配布が始まった。思い出したのは、十数年前までは、大通公園の北の端あたりで。定期的に炊き出しをやっていたことがあった。それは宗教団体であったらしく、炊き出し食事配布の直前に待っているみんなを集めて、何やら宗教的な説教をしていたものだった。

 ベンチの隣に座った人を見ると炊き出し食事は、水のプラボトル1本と、白い発砲スチロール製の船形皿にご飯・カレー・鶏唐揚げ・千切りキャベツが盛られている。ベンチに座る人、立ったまま食べる人、公園の柵に腰かける人、座りこむ人、あたりにカレーのにおいが充満する。

 やがて列が進んで最後尾のプラカードがやってきたが、その後には30人くらいが続いて行列している。どの人も空のカレー皿をもっていて、後のほうは食べながら歩いている。お代わりを期待する行列らしい。

 それらも一通り配布が済んで、ボランティアの若者がカレーの入った皿を持ってきて、「いる方には差し上げます」というので、わたしもいただこうかと一瞬思ったが、いやいやとひっこめた。周りのカレーのにおいの中で、わたしはもうの満腹気分になっていた。

 配布が始まってこの間は20分ほどだったから、300食ほどがその間に行き渡ったことになる。食べ終わった人々は三三五五にどこかに消えていった。この人たちはどこからやって来たのだろうか。ほとんどが老年~中年男であり、若者も見かけた。女性は5人ほどしかいなかった。見かけから言えば、わたしも立派に仲間の一人である。

●炊き出しを通じてコミュニティ活動へ

 この人たちは、やはり寿町からだろうか。真冬の寿町炊き出しと、真夏の大通公園炊き出しとは、並ぶ人たちは同類だろうか。寿町からここまでは600mほどだから遠くはない。いや、わたしがいただいても一向にかまわない雰囲気だったから、寿町に限るのではあるまい。

 そしてまた、炊き出しをする方の若者たちは、いったいどこのひとたちだろうか。彼らの所属を示すらしい幟が数本立っていて、「横浜チェイヨー45横浜炊き出しの会」と書いてある。さっそくネット検索した。SNSにこの炊き出しの予告が載っている。そこにはこうも書いてある「お子様 親子 外国人の方 どなたでも歓迎いたします」、おお、やっぱりそうなんだ。

 ということは、これはいわゆる貧民救済ではなくて、新たなコミュニティづくりの試みかもしれない。そこが寿の炊き出しとは異なるのだろう。食材を提供する人、労力提供の人、そして炊き出しを受給する人などなどが、月に一度は公園に集まって朝食会をやるイベントなのだろう。

 そこに通りすがりの人がどちらへも加わることもできるのだから、そこが寿公園とは異なる。寿町炊き出しは、まるで異界のごとくこわばっていて、通りすがりで入る人を拒否はしていないだろうが、躊躇させる雰囲気に十分に満ちている。

 わたしも見物する人で、今朝はそのコミュニティの一員だった。非力なよたよた超年寄りにできるのは、その若者たちの楽しそうで意義ある活動の様を、こうしてSNSに書くことで、感謝して紹介するくらいしかできない。

(2025/09/01記)

ーーーこのブログで関連する記事--- 2025/01/31・1866【横浜徘徊】寒空の公園での炊き出しに行列貧困風景 https://datey.blogspot.com/2025/01/1866.html

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2025/08/17

1905【少年の日の戦争】80年前の少年の記憶の戦争は小さな城下町盆地の鎮守の森に

中国侵略日本軍の父(1939年保定にて)
  今年2025年の夏は、1945年8月15日に当時の裕仁天皇が、太平洋戦争に負けたことを、ラジオ放送を使って、国民に直接知らせた日から、ちょうど80年ということらしい。それをなんだか特別に雰囲気が世の中,特にジャーナリズムにある。80年だろうが79年だろうが変わりはないだろうが、なぜか。たぶんそうやって戦争を忘れないようにする仕掛けであろう。それは故人をしのぶ法事のようなものだろうか。

 でもまあ、わたしも88歳という覚えやすい年齢だから、せっかくの敗戦80年に協賛して、幼年時少年時に出くわした戦争の、いかにもそれらしい出来事を、記憶から引っ張り出すことにした。実はこれまでもばらばらにこのブロブに書いている(参照:まちもり通信「戦争の記憶」)のだが、 まだボケないうちに、ここでまとめて書いておくことにする。

 たまたま、今年いっぱいかけて月間として私的発行している歌集に挟み込む栞に、少年時を過ごした生まれ故郷故郷高梁盆地での戦争の記憶を書いたので、それに少し手を加えたものをここに載せる。

故郷高梁盆地の戦争の記憶   伊達 美徳

 この文を藤本孝子第五歌集「碧空へぽかりぽかりとんでゆけ」の8月版栞原稿として書いている日は2025年8月14日です。80年前の明日15日は、日本が太平洋戦争に負けたことを、当時の天皇がラジオ放送で国民に伝えた日です。この日を日本では敗戦記念日としています。夏八月は今でも戦争を思い出します。

 わたしは日本の十五年戦争(1931~45)の真っただ中の1937年に生れ、敗戦の時は国民学校初等科3年生でした。高梁盆地は空襲という直接的な被害はありませんでした、住民の生活には深い被害がありました。わたしには戦後の貧窮で空腹の日々こそが最大の戦争被害でした。8歳の夏に敗戦の日を迎えたわたしの戦争の記憶を書きます。

●80年前の8月15日のこと

 1945年8月15日は、いかにも夏らしい晴天でした。わたしの生家は御前神社です。その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて滞在していました。盆地内のほかの寺社などに児童51名が戦争避難しており、その子どもには戦場でした。

 そのころはラジオのある家は限られていましたが、その疎開学級にはありました。その社務所の玄関口に近所の人々十数人が集まってラジオを囲んでいます。その横でわたしは大人たちを見ていました。ラジオからヒロヒトさんの分かりにくい言葉と雑音がながれていました。それが敗戦の詔勅放送でした。もちろん8歳のわたしには内容を分りません。その場の情景の記憶のみです。

 放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、誰もみな黙りこくって一列になって、参道の長い石段をトボトボと下って行くのを、わたしは社務所縁側から見送っていました。緑濃い社叢林の上空あくまで晴れわたり、森の中はいつものように蝉の声に満ちていました。

沈黙の湖になりたる盆の地よ昭和二十年八月真昼 

           (2014年藤本孝子第二歌集あとがき掲載の拙詠) 

 それから数日の後に疎開児童たちは芦屋に戻ってゆきました。ところが芦屋はその数日前に空襲を受けており、中には親を亡くした子もいたのでした。あの女の子たちはその後どのような人生だったのでしょうか。
 その半月後、父が参道の石段を登ってきて、3度目の戦争からの帰還をしました。

●父を戦場に送り出して号泣する母

 わたしの父は、日本の十五年戦争中に三度も招集され、最初と2回目は中国へ赴き、3回目は国内に居ました。延べ7年半も兵員として過ごしたのでした。その三度目の太平洋戦争への招集礼状は1943年12月に来ました。これについて強烈な記憶があります。

 戦争に出かける父の出発を、備中高梁駅で母と共に見送りました。家に帰りついて玄関を上がり、畳の間に入ったとたん、母は前に倒れ、両手で顔を覆って畳に押し付け、号泣し始めました。その慟哭の大声はやむことなくつづきます。目の前で大人に泣かれる5歳の幼児のわたしは、そばに座りこんでおろおろ、号泣に合せて母の背にある帯の結び目が大きく上下するのを、ただただ見つめているばかりでした。

 やがて誰かがやってきたらしく勝手口の方から案内を乞う声が聞こえました。母は急に泣き止み、今泣いていたことを誰にも言ってはいけないと、わたしに厳しく言いつけて立ちあがりました。その時に母の胎内には半年後に生まれる第三子がいましたから、その慟哭は当然でしたが、世間で表向きには、戦場への出征を嘆くのは非国民でした。

 父は南方戦線に送られるのを姫路城内にあった兵営で、しばらく待機していました。何回か母と共にそこに面会に行った記憶があり、幼児には楽しい遠足でした。だが、負け続ける日本軍は制海権を失い、輸送船もなくなり南方行きは取りやめになりました。母とわたしたちには幸運でした。

 1945年春に父の隊は小田原に移駐しました。湘南海岸に上陸するであろう連合軍を迎え撃つべく、本土決戦準備をしていました。小田原はその敗戦記念日となった日に、アメリカ軍の空襲を受けたのですが、父は仰撃陣地づくりの山中に居て無事でした。敗戦の月末に帰宅したときは、家族が一人増えていました。

 こうして幸いにも母の嘆きはむなしいものとなり、戦争が終わると同時に夫を無事に取り戻すことができました。しかし母の実弟は、その年の5月にフィリピン・ルソン島山中のジャングルで戦死し、その若妻と乳児が母の実家に残されたのでした。思えば敗戦時に、父母はともに35歳でしたが、3度の戦争兵役を経て夫婦ともに健在は、奇跡的だったかもしれません。

●国民学校初等科の戦中戦後 

 戦争教育については、国民学校初等科の低学年ですから、あまりそれらしい記憶はありません。修身の時間に校長先生が教室にやってきて、神話の話をしたような気がします。広くもない校庭でグライダーを見た記憶があります。

 本館に天皇の写真があるという奉安殿があり、前を通るときに「奉安殿に礼!」の号令で一礼しました。ある時、悪ガキ上級生が「オオアンゴウに礼!」と怒鳴って逃げて行きました。岡山方言で大馬鹿者の意味です。

 校庭で毎日の朝礼の時に、壇の上に立った先生か上級生かが、モールス信号の機械でなにか文を打ち、分かった生徒は手をあげて答えます。今のクイズのようで面白く「イトー」「ロジョーホコー」と信号を覚えたものです。こうして「銃後の少国民」が育っていました。

 戦争が終わると、月に1回ぐらいの割合で、学級に編入生がやってきました。ほとんどが引き揚げ者、つまり中国や朝鮮半島からの帰国者のこどもです。はじめは転校生に違和感をもっていても、子どもはすぐに仲良くなりました。田舎の子には刺激になりました。隣町の小学校に、満州の奉天(現在は審陽)からの引き揚げ少女が編入しました。ずっと後にわたしの連れ合いとなる人です。

 敗戦の年は教科書が問題でした。教育方針が180度転換して内容を変える必要があるけれど、紙がないし印刷も間に合わない。学校からの指示にしたがって、それまで使っていた教科書のあちこちの文章を、母と一緒に筆で墨塗りしました。教科書は大切にして汚さないようにといわれ、使い終われば知り合いに譲っていたものでした。それをこんなことしてもよいのか、と思ったものです。

  でもそれは、なんだか面白い作業でもあり、あちこち消すために終わりのペー ジまで読むことになり、ちょっと勉強した気になりました。消すところは国語に多くて、どういうわけか理科にもあったような気がします。なぜここを消すのか不思議に思ったところもありましたが、母がそういったのかもしれません。

 次の年、印刷した新しい教科書がきましたが、それは製本してありませんでした。8ページ分が1枚になったままの数枚でしたので、それらを切りはなしてページ順にそろえて、自分流の表紙をつけて1冊の書物に作り上げました。自分が教科書を作ったような気になりましたが、それは今のわたしの「本づくり趣味」のルーツかもしれません。

 大人たちは価値観の大転換に直面してとまどい右往左往でした。小学校の教育のやりかたも変わり、教室の席の並び方が何度も変わった記憶があります。黒板に向いて先生の話を聞く授業から、みんなで話し合って考える方式になったらしいのです。でも、教師もよく分かっていないらしく、グループに分けたり、丸くならべたり、四角にしたりと、あれは実験していたのでしょうか。

 時には、教師が授業中に黒板に書きながら、「こんなやりかたをしてはいけないんだけど、」と、弁解していた記憶があります。それは戦時中の教育方法で、これからはやってはいけないと教育委員会あたりからでも言われていたのでしょう。どこがいけないのか子どもには分かりませんが、教師が学童に弁解するのもおかしなものだと思いました。大人たちは狼狽していました。

●新制中学校へ

 そんな中から、戦後民主主義教育は着々と進んできました。戦後の教育改革でわたしが出会って当惑したのは、1947年に新制度になって新しい中学校が誕生したことです。盆地内には旧制の中学校がありましたが、これを新制の高等学校としたので、新制中学校は盆地内の別の場所に建てられました。

 ところがその新制中学校の急造校舎は狭くて、生徒が入り切らないのでした。そこで二年生からそこに入ることにして、進入の一年生は盆地内の南端にあった南小学校の空き教室に仮住まいしました。わたしたち小学校を卒業してまた別の小学校へ通うのでした。

 わたしの家は盆地の北の方でしたから、通学路は盆地を北から南まで縦断する遠距離でした。2年生から急造校舎の本校へ通うようになりましたが、校庭は狭く、校舎は粗末、鉄道騒音や工場悪臭など、酷い環境でした。だからでしょうが卒業数年後に他に移転しました。

 でも、ここでよかったと思うことは、新制中学校には戦後の新しい高等教育を受けた教師が赴任してきて、素晴らしい教育に出会ったことでした。わたしは戦後民主主義教育の最前線を歩んで来て、「民主主義スクスク世代」と自負しています。教育は敗戦がもたらした良いことでした。

●空腹の日々 

 敗戦は飢餓をもたらしました。幼い少年にとってはここから戦禍が始まりました。盆地内の別のところに、神社経営を支えていた広い小作の水田がありましたが、農地改革でなくなりました。長期割賦支払いの補償金は、戦後の超インフレにより紙屑同然になりました。

 神社の小作米収入が消えて、父母は食糧の調達に苦労をしていたようです。5人家族が食べていくのは大変なことだったでしょう。神社の広い境内広場は、戦中は武道鍛錬の野外弓道場でしたが、戦後は芋畑に転じました。子どもにはただただ空腹の記憶ばかりです。

 なによりも、戦争推進の末端組織の一つでもあった神社への信仰が、敗戦で地に落ちてしまいました。父の神社神主という職業自体がなりたたなくなり収入の道が絶えたようです。 教科書も給食も有料でしたから、学校への支払いについての親の態度で、わが家の経済状態が児童のわたしにもよく分かりました。数年後に父が高等学校に事務職を得るまでは、家計は大変だったようです。

 大人たちは、どこでもいつでも食糧調達の話ばかりしていました。それが大人の通常の会話なのだとわたしは思っていたのですが、あるとき伯父が誰かとの会話で、こんな食い物の話ばかりして世の中困ったものだ、というのを聞いて、これは大人にも異常な状況なのだと気がついたことがあります。

 小学校で給食が始まりました。脱脂粉乳を湯に溶いたミルクと、マイロ粉という輸入トウモロコシ粉の黄色コッペパンがメインで、たまに干した果物がついたりしました。当時でも美味だったとは言えませんが、空腹のこどもには嬉しかったものです。多分、一番嬉しかったのは、一食分を食べさせなくてもよくなった親たちでしょう。

 まともな主食はなくて、朝早く行列して買った水ぶくれこんにゃく、麦のほうがはるかに多いお粥、野菜たくさんの雑炊、薄いうどん粉団子のすいとん(団子汁といいました)、蒸したさつま芋(これはご馳走)などが主役でした。もちろん、これらが同時に食卓に並ぶことはなく、一人あたりの量もすくなく空腹でした。あの頃の親たちは、自分の分を減らし、時には食べないで、こどもに食べさせていたはずです。思い出したくない食い物の恨みです。

●神社に今ものこる戦争の傷

戦争に行った釣り鐘の帰還を待ち続ける御前神社鐘撞堂
 生家のあった御前神社は、今も境内の山林も広場も変わりなく存在しています。戦前からの社殿建築の本殿、拝殿、御輿蔵、鐘撞堂もそのままに建っています。変わったのは老朽化した社務所が建て替えられたことと、宮司の社宅(わたしの生家)が消滅したことです。

 実は神社建築にはいまだに癒えない戦争の傷跡があります。それは17世紀から鐘撞堂に釣られていた時の鐘(1651年設置)が、鋳潰されて兵器となるために1940年に金属供出され、いまだに不在のままであることです。鐘のない鐘撞堂は鐘の帰還を待ちくたびれて、今や立ち腐れしようとしています。

 この鐘は城下に時刻を知らせる「時の鐘」の役目で、当時の藩主により設置されました。藩政期には鐘守役の人たちの住む長屋が近くにあり、毎朝夕の定時につきました。維新以後は神社に帰属して宮司が守役となり、父も撞いていました。父が不在の時は母が撞いていました。高い楼閣に上る急な階段は、結構怖いものでした。

●またもや戦争の気配

 今、世界各地で国家間や国家内部で紛争や戦争が起きて、止みそうもありません。欧米諸国でも日本でも、あの戦争を忘れた言説を唱える極右政党が台頭しつつあります。理解できない奇妙な言動をする大国リーダーたちもいて、力を振り回しています。
 なんだか世界戦争の再来の気配です。戦後90年、戦後100年には、第三次世界大戦になっているに違いない雰囲気です。しかしそうなるにしても、その時にはわたしは存在していないので、安心です。その前に「絶対究極安全圏」へ、早急の避難しておきたましょう。もう88年も生きたので人間生活は十分に体験しました。

(2025年8月14日記、補綴2025/0817)

このブログの関連ページ
戦争の記憶
父の十五年戦争

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2025/08/16

1904 【恒例真夏行事】8月15日靖国神社あたり日本の右傾化傾向を野次馬見物日記

●敗戦記念日盛夏晴天遠足

 毎年夏の恒例の個人的行事だが、今年も8月15日に、靖国神社あたりへ、日本の右傾化の具合を、野次馬見物に行ってきた。80年前のこの日に実体験した記憶のような暑い晴天であった。カメラの具合が悪くて写真を撮れなかったので、いっしょに行った息子(T)が撮った写真2枚だけを貼り付ける。そのほかは文中にこれまでの写真などへリンクしておく。 

 9時30自宅出発、靖国神社へ、これまでは全くの単独野次馬見物であったが、今回はTの護衛というか介添え付きである。わがヨレヨレ度会いを知る最も身近なTがついてきてくれた。戦後80年にして今年からそこが変わった。

 さて今年は戦後80年とて、奇妙に騒がしいようすだ。オカシイ。歳月は地球が回っている限り同じペースであり、10年目ごとに何か異なることはないの、オカシイ。人間は10年ごとに何か思想を変えるのだろうか。

 そうだ、変わると言えば、このところ日本の右傾化が目立つ。7月の参議院議員選挙での極右政党の台頭が最も典型的だ。その日本右傾化の象徴ともいうべき靖国神社に、日本の庶民の右傾化を見ようと、野次馬見物に訪ねる個人的年中行事で、今年はどんな変化があるか楽しみである。

●靖国神社見物

 11時、地下鉄九段下駅到着。去年と同じく靖国神社九段坂方面へ出口が分からなくて駅内で迷う。目立って足が弱ってきた今年は、九段下駅名物のの階段に困る。晴れ過ぎている空の下、九段坂を登るが、これまでにない大勢の雑踏の感がある。まさか外国人観光客ではではあるまい。

 九段坂歩道所に群がるなんだかんだ宣伝ビラを手渡そうとする人たちとぶつかりなら、いつもの法輪功ナントカ、台湾ナントカ、歴史教科書ナントカ、天皇の参拝ナントカの宣伝屋台群を抜けて、ようやく大鳥居に至る。この例年にない人出は時刻のせいか、今年は特別なのか、どちらだろうか。戦後80年やら極右政党にに踊らされた人たちだろうか。

 暑い日差しの参道中央を避けて、右寄りの静かな林の中を歩く。内苑近くに来ると、毎年出てくる夏の真昼お化けのように軍服コスプレ男たちがいる。その人数が毎年減ってきているのは、さすがにアナクロ継続仲間がいなくなるのか。そういえば、いかにも軍服が似合う白髭の老人がかつては毎年いたが、ここ数年見えなくなった。

 拝殿前の賽銭箱に向かう参拝行列が、去年までと比べて異常に長く列も太い。2時間待ちとのスピーカーの声が聞こえる。この炎天下で2時間も立ち続けるとはと呆れつつ、その脇を通り抜けて内苑に入る。行列の横を拝殿前の賽銭箱横迄行き、2時間も待って神妙に手を合わせる奇特な人たちを見物する。わたしは神社育ちだが、神前で手を合わせたことはない。

2025年8月15日真昼の靖国神社拝殿前の風景(伊達太郎撮影)

 野外能楽堂前の桜の林のなか、さまざまな人々が立つ人ごみを通りに抜ける。ここで30年も前だったか、夜桜の演能鑑賞に来たて凍えそうな寒さに震ええた。そんなこをことを今日の暑さと比べてTに話した。

 ちょっと涼もうかと遊就館へ入った。いつものように無料の範囲だけだ。展示の泰緬(タイ・ミャンマー)鉄道の蒸気機関車の説明に、映画にもなった有名な捕虜虐待のことを書いてないのは、さすがに遊就館だ。あまりの混雑に涼むことができなくて早々に出てきた。

 遊就館前広場に新しい休憩所ができた。去年までこのあたりは広場で、その前が国会議員センセイたちの昇殿参拝の玄関があり、それらのファンらしい見物人が多く集まる場所だった。今年は小泉ジュニアが参拝したそうだが、見物客からいつものように「よく来た、よしよし」なんて掛け声がかかったことだろう。

 木陰のベンチで持ってきた弁当を食べて休憩すれば、昼すぎて1時前になっていた。これでよしと靖国神社を出て、次の予定地の千鳥ヶ淵にある国営戦没者墓苑にへ向かう。実のところ暑いからもう帰ろうかなんて弱気もでたが、今年は付き添ってくれるTがいるので、気をとりなして堀端の桜並木の木陰道を行く。蝉の声が今年は小さい、人出に反比例か。

●千鳥ヶ淵戦没者墓苑見物

2025年8月15日真昼の千鳥ヶ淵戦没者墓苑の風景(伊達太郎撮影)

 千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、靖国神社と大違いの閑散さである。何が違うのだろうか。知る人が少ないのかしら。入り口横の案内板の表示を見る。ここには戦争をやりに出かけた先のアジア諸国で死んだに日本人の地図があるのだ。その数240万人というものすごい数だ。

 それは日本がそれらの諸国に戦争を仕掛けたが故の死者であるとすれば、仕掛けられた方の国にも死者は多かったはずだ。実は、わたしの父も2度の兵役(満州事変と支那事変)で、中国戦線に延べ6年半もいたから、加害者の一人であった。(参照:「父の十五年戦争」)

 その死者数を国ごとに書いた地図が看板にあり、いつも興味深く見るのだが、どうも見にくいのは眼が悪くなったかと、顔をよせても見えにくい。どうやら汚れを落としてきれいにしていないらしい。この墓苑で最も重要な表示であるのに、このアジア地図だけは汚れるままになっている。アジア戦場を隠そうとしているのか。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑の看板にあるアジア各地での日本人戦没者数(見やすく書き直した)

  戦没者は日本本土で70人、沖縄で18万人、中国では46万人に、フィリピンでは51万人、ミャンマー・タイ・マレーシア・シンガポール・インドなどで21万人などなど書いてある。ということはその国の人たちもそれに匹敵するかそれ以上に戦禍で死んだはずだが、それは書かれていない。戦争の片面しか見ていない。もしかして見せないなようにしているのか。

 千鳥ヶ淵墓苑祭壇には、献花がたくさん盛られている。そこには献花者の名札が麗々しく宣伝顔をして立っている。もっとも高く抜きんでている名札は二つ、いずれも時の総理大臣名である。去年までの記憶では、最大名札は天皇皇后両陛下と記す二つだったが、今年はどうしたのだろうか、まあ、どうでもよいのだが、。

 16日の新聞で、15日にあった政府主催の全国戦没者追悼式が例年のごとく開催されたとある。そしていつものようにお掲載される総理大臣と天皇の言葉が載っている。追悼対象は約310万人とあるから、これには戦場となって死んだ外国人は含まれていないのだろう。そしてどちらの言葉にも、それらに触れる言葉はない。遺族代表の言葉にもそれはない。兵員だった死者たちは、外国人を切傷したかもしれないのに。そういうものかしら?

●昭和館見物

 千鳥ヶ淵からもどって九段坂下へ、昭和館に入る。戦中戦後の生活を息子にちょっと説明したかったこともあるが、例のあの敗戦放送をまた聞きたかったこともある。実際に80年前に生家の神社の森の中でこの耳で聞いた放送を、冷房が効いた展示場の階段室踊り場で改めて聞く。

 でもあの時に聞いたのと大きく違うのは、雑音のない音声に変わっていたことだ。ガガーーピーピーと聞こえにくかった。加えて最も重要なことだが、放送内容を国民に分からせる気がまったくない言葉であったことだ。

 ついでにあの裕仁天皇の敗戦放送「大東亜戦争終結に関する詔書」の原文をコピーして載せる。

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲)シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ悲命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

 これを聞いた当時の大人たちで、敗戦と分ったものがどれほどいたのだろうか。まるで敗戦とは分らぬように書いた悪文である。戦争最高責任者として国民に謝罪もしていない。これでなにがなんでも戦勝へと凝り固まっていた国民全部が、たちまちにして敗戦に方向転換したとは、今となれば不思議なことであった。

 九段下のコンビニ内でアイスクリームを食べ、交差点あたりで拡声器に怒鳴るいつもの右翼の声を耳にしながら地下鉄に乗って帰宅したら、5時前だった。付き添いのTと一緒だったからできた炎天の日の超高齢者の小旅行だった。たぶん、これが最後の靖国見物になるだろう。もっとも、去年もそう書いていた

(2025/08/16記)

ーーこのブログで関連する記事ーーー

2005年、2013年靖国神社の八月       
・2014/08/16 終戦記念日の靖国神社の喧騒千鳥ヶ淵戦没者墓苑の静寂
・2014/08/20 戦争でも死んでしまえば敵も味方もない地域別戦没者
・2018/08/16【靖国8・15定点観測】夏まつり森の社のにぎわいは
・2019/08/11【戦争の八月(1)】核爆弾体験少女、植民地戦時体験少年、
・2019/08/19【戦争の八月(2)】敗戦記念日は東京九段の靖国神社を見物に
・2019/08/20【戦争の八月(3)】アジア太平洋戦争で被侵略国の死者を
・2019/08/28【戦争の八月(4)】昭和館で敗戦放送、旧軍人会館で定番復元
・2020/08/15【コロナの街徘徊】酷暑コロナ禍敗戦記念日の東京九段
2021/08/15 寒い敗戦記念日】アメリカに敗れコロナに破れかぶれ
・2022/08/15【2022年敗戦から77年に次々と戦争の日々 
・2023/08/15【78年目敗戦記念日】戦争へ準備をしろと敗戦の日に叫ぶ
・2024/08/16【敗戦記念日定点観測】靖国神社と千鳥ヶ淵墓苑に戦争残滓
・2025/08/16【恒例行事】8月15日靖国神社あたり日本右傾化見物日記

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2025/08/11

1903【都市漂流人生】人生19番目、最後から2番目の住み家へ、わが都市流浪はついに漂着するか

 わたしは八十八回目の夏を迎えており、それなりに元気で過ごしている。

    願わくは熱に中りて夏死なむ文月葉月の真昼真中

と、西行法師をもじって、今年も夏の狂歌を詠むのだ。それにしても暑い日々だ。

●人生19番目にして最後から2番目の住まいへ

 国際紛争の多発そして内外ともに極右台頭の世界情勢で、どうやら、わが人生で二度目ので戦争に出会うことになりそうな気配だ。そこでそろそろ、"究極の安全避難地"へ早期移転したいと考えているところだ。

 そんなときもとき、今年(2025年)7月半ばに、わたしの住まいを移した。生まれた家から数えると、19番目の住まい(一年以上継続)である。これまで西から東へまた西へ東へと、日本列島の都市を漂流した。これが人生最後から2番目の住まいだろう。

 と言っても、同じ共同住宅ビル内の2階分上に移っただけにて、これまでと変わらぬ生活環境である。もう88歳という歳も歳だから、当然のように高齢者施設に移ることも検討ししたが、結局はこうなった。

同じ共同住宅ビルの7階から9階へ縮小移転

 ここ横浜都心部に移転してきた時は65歳だったから、それから23年も経った。それまでは鎌倉の谷戸の中で、一戸建ての木造住宅に23年間住んでいた。そこは緑豊かだが、街までバスで15分のところだった。買い物不便が一番問題だった。

 だから、高齢者の仲間入りした時に、その生活環境を考えて、ここ横浜都心部の公的借家(県住宅供給公社)の共同住宅を選択したのだった。鎌倉では静かな森の中で鳥の声ばかりだったが、こちら横浜都心住宅街は交通騒音に溢れている。それを凌駕する環境は、あらゆる都市施設が歩ける範囲にあり、生活には便利なところであることだ。

 ここを選んだもう一つ重要なことは、ひとつのビル全部が公的機関による運営の「賃貸借方式の共同住宅」であることだ。鎌倉の小さな庭の小さな家でも、一戸建ての住宅の管理は面倒なことであった。自分で管理しなくてもよい公的借家を探した。

 ここ横浜都心では、歩ける生活圏に医療や福祉の施設も数多くあり、図らずも遭遇した3年にわたる病妻の在宅介護も、それらを目いっぱい活用して円滑にできたのだった。ここに来た時は介護までも予測できなかったが、ここに老後の住まいを選んだことは、正しかったと再認識したのであった。

 ここを選んだ時に、もう一度の引越しがあるだろうと妻は言っていた。それは高齢者施設のことを指していたのだが、彼女はこの家で3年の在宅介護ののち、昨夏に独りで最後の移転をして行った。

 さて、独居老人となったわたしは、このままここにいるか、どこか他に移るかといろいろ検討した。自分の年齢と体調と懐具合そして初老の息子と相談しつつ、高齢者向け施設をいくつか見分にも行ってきた。しかし、どれも帯に短し襷に長し状態で、唯一移りたいと思い入居仮申込した近所の「サービス付き高齢者住宅」は、満員状態が続いており、1年たってもお呼びが来ない。

 そこで、現住居の同じ共同住宅ビル内で、独居老人には広すぎる4LDK住戸から、相応の1LDK住戸に移ったのである。掃除も簡単だし、2階分上なので眺望も開け、家賃もそれなりに安くなった。

 これまで22年間を住んだ横浜都心で、今の公的借家生活の継続が、わたしの身体がまだ動くから、ある程度の期間はこのビル内で暮らせるだろう。いずれ介護が必要になるとしても、病妻の在宅介護体験から、超高齢者にも住みよいと分かったから、ある程度は生活可能だろう、高齢者施設でなくてもよいだろう、という判断である。甘いかもしれないが、、。

 たぶん、これがわたしの人生で最後から2番目の引っ越しであろう。いや、ホスピスに移るかもしれないが、そうなると最後から3番目になるのか、、。
 ともかくも、今は9階からの広くなった空を眺めつつ、これまでと同様に街なか徘徊をして、日本の都市がどう変わっていくのかを弥次馬として眺め楽しむ日々である。

●わたしの住宅漂流一覧

 今回の引っ越しは、わたしの人生で19件目の住まいである。ただし1年以上を継続して暮らした住居であり、単身赴任等で家族とは別の住まいもある。
 実はこれまでのわたしの住宅漂流記は、このブログに既に書いている(参照:2000年2月~2008年7月 賃貸借都市の時代へ-体験的住宅論)。
 それに今回の引っ越しを加えて書くと、わが人生住宅漂流は一覧は下記の通りとなる。

持家:1937~56戸建て2階建:生家、高梁市御前町御前神社内 漂流以前      

漂流以前の高梁盆地の生家があった神社(矢印の位置)(google earth)

間借:1957~58大学寮木造2階建て長屋2階、川崎市高津 漂流開始

間借:1958~60大学寮木造平屋、目黒区大岡山東京科学大構内 

間借:1960~61大学寮木造平屋、目黒区緑が丘東京科学大構内 向岳寮

東京科学大学大岡山キャンパス内の学生寮があった位置(矢印) (google earth)

間借:1961~62公団賃貸借10階建て共同住宅4階、大阪市西区靱本町

借家:1962~63民営木造2階建て共同住宅2階、寝屋川市平池

借家:1963~65民営木造2階建て共同住宅2階、名古屋市東山区園山町

借家:1965~66公団営RC造5階建て共同住宅2階、名古屋市鳴海区鳴子団地

借家:1966~68民営ブロック造2階建てテラスハウス、太田市西矢島

借家:1968~79公団営RC造5階建て共同住宅2階、横浜市港北区南日吉団地

借家:1973~74公団営RC造14階建て共同住宅12階、堺市?、単身赴任

借家:1975~76民営RC造10階建て共同住宅3階、大阪市新大阪駅近、単身赴任

⑬持家:1979~2002木造2階建て戸建住宅鎌倉市十二所 

鎌倉の谷戸の中の自宅(矢印)(google earth)

借家:1991~94民営RC造3階建て共同住宅2階、品川区戸越銀座駅近、仕事用別宅

借家:1994~96民営RC造14階建て共同住宅2階、大田区梅屋敷駅近、仕事用別宅

借家:1996~98民営RC造14階建て共同住宅7階、品川区大崎駅近、仕事用別宅

借家:1998~99民営RC造14階建て共同住宅8階、目黒区目黒駅近、仕事用別宅

⑱借家:2002~25 県RC造公社営10階建て共同住宅7階、横浜市中区山田町

⑲借家:2025~現 県公社営RC造10階建て共同住宅9階、横浜市中区山田町

横濱関外の自宅がある共同住宅ビル(矢印)(google earth)

●わたしの住宅漂流以前:故郷の生家

 わたしのこのような都市漂流の旅も、そろそろ終わりの時が来そうである。だから、ちょっと振り返ってみよう。
 わたしの都市漂流が始まる前の19年間の出発地は、88年前の初夏、小さな盆地の街にある神社の森の中であった(上記①)。これは普通の家庭のそれと比べると、かなり異なる環境であったと言えよう。
 
 その神社の境内地は、盆地の中の街と山林の境界あたりにあったが、背後の神社山林も含めて広さは5ヘクタールくらいはあった。少年時代は、一般的にみると、かなり広い土地に暮らしていたことになる。

 そこには山林と森と広場と社殿群があり、戦前と戦中は盆地内の別のところにも、広い小作田を神社は所有しており、ここからの小作代金が神社運営の基礎を支えていたらしい。だが戦後に農地改革政策で小作田は小作人に譲渡(その割賦債権金額は戦後インフレで紙屑同様となった)させられてて消滅した。父は宮司と高校事務職の二股で家族を支えていた。後になって気がついたのは、普通ではない環境に育ったということだった。
石段を登った広場の森の中に社殿と生家があった

 街の山際の道路から参道の石段を昇った。参道脇には高楼の鐘撞堂(かつては時鐘があった)が建っている。高さにして20mほど登ると最初の広場があり、そこにわたしの生家社務所があった。そこから直角に方向を変えてまた石段を高さにして10mほど登ると上段の広場に至り、拝殿、本殿,御輿蔵等の社殿が建っている。

 広場の周りは高木群竹林で囲まれた森である。今もその景観構成はほとんど変わらないままである。変わったと言えば、参道の石段が坂道となってアスファルト舗装され、自動車で登れるようになったことと、神社境内の南にあった人い畑地が住宅地になったことだ。 (参照:→境内図、→社殿・生家

 この生家のあった高梁盆地は、気候は温暖だし、歴史のある城下町の小さな街だったが、生活の場としても教育の場としてもほぼ何でもそろっている暮らしよいところであった。そのような街を都市計画で「コンパクトタウン」というが、まさにそれであった。

 だが、少年のわたしには、周りを山々に囲まれた街にも、鎮守の森の中に閉じ込められた生家にも、その閉鎖的環境に辟易していた。この盆地を抜け出すのが少年時代の夢であった。実際に空に舞い上がり飛び出す夢を何度も見たものだった。その閉所恐怖症は今もある。

●わたしの都市漂流住まい
 
 19歳の終わりころ東京の大学に入ることで、盆地脱出という少年の願望をようやく叶えることができた。その後は、日本列島本州南部を東西の都市へ、そして都市の中でもまたあちこちの街へと、まさに漂流してきたのであった。

 敗戦後の日本がようやく高度成長に足をかけようとする頃に社会に出たが、そのころは住宅難の時代にも突入していた。仕事の都合で東京、大阪、名古屋、横浜など、日本の大都市で、多種多様な住宅に暮らしてきた。住宅難の荒波をかぶった。

 それはポットでの田舎少年が、身一つで日本の高度成長期の荒波を泳ぐ漂流の旅であった。あらゆる生活環境を巡った感がある。それは、まさに日本の成長期の居住環境政策の欠如そのものの荒海であった。都市計画家として自身の身を都市住宅政策のモルモットとして生きてきた感がある。実際に実験的に3年ごとに仕事場別宅を移転して、多様な都市居住を体験していた期間もあった(上記一覧表の⑭~⑰)。

 そんな中でも生活拠点として家族と共に住んだのは、鎌倉郊外)に23年、そして今も継続中の横浜都心⑱、⑲)に今年で23年である。生家に住んだのが19年だったから、今や東男になってしまった。ふりかえるとこれら3つの拠点的な暮らしの場は、どれも共通していることは盆地であることだ。(参照:3つの盆地

 一覧に見るように、わたしはこれまでに一寧以上住んだ住まいは計18件を数えるが、そのうちで家族と住んだのは計8件、単独で住んだのが10件である。この単独住まいの10件は企業所属時代の転勤での大阪単身赴任と、フリーランス時代の東京での仕事別宅である。

 フリーランスの都市計画家となってからは、仕事時間が不規則であるし、仕事先は日本全国各地に出かけた。そのために東京品川区内に小さなオフィスとその近くに寝泊まり別宅として小さな共同住宅を借りた。その別宅は実験的にいろいろな場所とタイプを選んで住んで、都市住宅を身をもって研究した。鎌倉の家から息子たちが巣立ってからは、拠点自宅に戻ったが、更に漂流は続く。

●老いを見据えた横浜都心借家

 これらの数多い居住体験により、わたしは都市住宅について、ひとつの信条を持つようになて来た。それは、都市住宅は土地を個々に所有し個々に建設するのではなく、計画的に共同して作り暮らすべきものとすることである。総有という考えかたがあるが、たぶんそれである。

 それは具体的には、区分所有方式の共同住宅(世間では<名ばかり>マンションという)をさけるばかりか、それに反対するのである。必然的にわたしの住むのは賃貸借型の共同住宅で、しかも公的な所有と運営管理下にある住宅選択となった。
 その理由は数多くあり、このブログに別に「くたばれマンション」)として多くの論を載せて来ているので、そちらに譲る。

 だからいよいよ老いを見据えた時が来た2002年、鎌倉の自己所有の小さな戸建て住宅を出て、おそらく最後になるであろう住み家として選んだのは、共同住宅の借家であった。神奈川県住宅供給公社が所有し賃貸運営している、横浜都心部にある共同住宅ビルの中の住戸を賃借したのであった。

 県公社運営住宅は郊外部も都心部も数多いが、わたしが選んだのは横浜都心部の伊勢佐木町に近くて、都市施設が歩ける範囲に充実している立地にある。病院も診療所も数多く、商業施設も文化施設も多様で数多く、大小の公園も多い。興味ないが野球スタジアムもある。もし生活保護世帯になれば一泊1700円の寿町ドヤ街もある。さすがに横浜都心部である。

 特に病院が多さが予想通りに、大いに役立った。介護施設も数多くあり、それは思いがけなく直面した病妻の長期在宅介護に、この立地が大いに役立った。近隣の専門家たちの訪問による看護、診療、リハビリテーション、入浴などと共に、近隣に立地するデイサービス施設などを、効率的に利用できたのであった。

 その共同住宅規模は3ブロックに3棟が建ち計381戸という大規模であるので、それなりの管理体制が整っている。住戸の規模も1DKから4LDKまで各種ある。2002年から住んできたが昨夏に独り者になったので、それまでの4DK住戸から1LDKに移り、面積も家賃も6割になった。同じ生活環境内での移転は、高齢者には迷いが少ない。
左は2002年から2025年まで住んだ7階の住戸、右は2025年移転後の9階の住戸

 こうしてわたしの人生は、緑の森の中の神社境内から出発して、ビルの森の中の空中陋屋で終わりを告げようとしている。ここにどれほどの期間を今後に暮らすだろうか。現在88歳だから長くはないはずだし、長くここに住む願望もない。だが、幸か不幸かたぶん同年配の男と比べると健康な方であろうから、やむを得ずに長くなるかもしれない。困ったことだ。
 
 世界の情勢はきな臭い。わたしが生まれた88年前は、日本は十五年戦争の真っただ中であった。ところが今、またもや世界戦争になる気配だから、不幸にも人生で2度もの世界戦争経験者になるかもしれない。その前にあの世という「究極の避難地」に移転したいものである。そこは最後の引っ越し先として20番目の住み家になるはずだ。
                (2025/08/11記)

ーーこのブログ内の関連する記事ーー
●まちもり通信サイト「くたばれマンション
●「体験的住宅論」賃貸借都市の時代へ-2000年2月~
 ●【片想いの賃貸住宅政策】住宅供給公社よがんばってくれ 2010/02/28
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2025/08/03

1902 【元号表記カード】日本のお役所は年寄りを困らせるばかりか日本人の国際的歴史認識力を阻害する元号表記をやめてくれ~

 新しい「健康保険証」がやってきた。

 と思って見れば、「後期高齢者医療資格確認書」とある。でもこれまでの健康保険証とそっくりである。何か偽造詐欺かしら?

 読めばたくさん年月日の数字が書いてあり、それらが昭和、平成、令和といろいろで、これらはいったい、いつのことかしら?
 わたしが分かっているのは、今年が2025年であることと、生まれたのが1937年=昭和12年だけである。令和とか平成とか書かれても、今のことか、昔のことか、未来のことか、わからない、困ったもんだ。

 しょうがないから、いちいちネット検索して調べ、西暦を鉛筆で書き込んでおいた。これでこの偽?保険証が2027年7月まで、もう2年使えるものと分った。

 ヒエー、老人いじめの元号表示をやめてくれ―、あ、そうか、いやいや、いつであるか知る手間がかかるので、ボケ遅延策になるとの、厚労省の福祉政策なんだろうなあ、ありがたいことで・・。

 まあ、これが詐欺カードでも、いざとなると、持っているけどワザと使わない「個人番号カード」(世間ではなぜかマイナーカードというが、わざわざ卑下してマイナーといわなくても自信もってメジャーカードって言えばよいのに、へん)を使えばいいや。

 それにしても、時間を計る物差しをいくつも設定するなんてバカみたい、なぜ必要なのか、不便だよなあ、ひとつの物差しにしなさいよ、西暦が国際的にメジャーで便利だよね。こんなことしてるから国際的歴史認識が弱くなるんだよ、日本人は。

(2025/08/02記)

(2025/08/04追記)
 この資格確認書には、更に疑問がある。かかりつけのクリニックの待合に、この資格確認書に関する広報ポスター貼ってあるのを見つけた。
 その中に資格確認書は「だいだい色」であるとの記述がある。だいだい色とは「橙色」とも書き、赤と黄色の中間の色である。


 ところがわたしのところに資格確認書は、どう見てもだいだい色ではなくて薄黄色である。偽物に違いない。だいだい色はこんなである。


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2025/07/23

1901【極右台頭?】日本も欧米先進国並みに極右ポピュリストを選ぶとは参議院議員選挙結果に驚く

  U.S.Aの選挙民の約半分強が、あのトランプなる人物に票を入れるなんて、あの国の人々は頭がオカシイに違いない、CALIFORNIAに住む旧友にメールでそう書いて、あざ嗤っていた。2度もその名を書き、しかも2度目は変な奴と分かっていて書いた、そして案の定だ。

 ところが、どうも日本もそれに近くなってきてるらしいと、先般の参議院議員選挙で思わされた。例のサンセイ党なる変な人たちが、たくさんの票を得て、二けたも議員になってしまう結果が出たのだ。泡沫が泡沫のまま大きな固まりになった。邪魔なことよ。


 あんなにも分かりやすいバカを言う人たちに、軽く票を入れる人たちの頭と心の軽さは、たぶん、選挙をゲームとして面白がっているのだろうと、思うしかない。
 とりあえず目先に敵を作って攻撃する、昔から語られて唾棄されることをワザと言う、マスコミから批判で話題になればそれも宣伝になる、なんて、バカをとりあえず味方につける業だな。バカがバカを選ぶにつける薬が無い。


 昔のことだが、選挙になると毎度出てくる赤尾敏という人がいた。言うことは決まっていた。その特徴あるポスターをお目にかけよう。ただし彼は自分の言説に信念を持っていたが、今回台頭のサンセイ党首は口から出まかせである。並べたら赤尾が怒るにちがいない。
  参照:2016/07/07【選挙騒ぎhttps://datey.blogspot.com/2016/07/1202.html

 今回のバカ政党台頭現象をいかにももっともらしく書けば、フランスのRN (Rassemblement National)、ドイツのAfD(Alternative fur Deutschland)、アメリカのGOP(Republican Party)など、先進国で伸びてきた極右ポピュリストの日本化であるかも知れない。

 彼らの国では移民問題がその中心にあったのが台頭の大きな原因だった。そこで日本でもと狙ったサンセイのお方たちは、それほど問題にもなっていない日本での外国人問題を針小棒大にでっち上げて喧伝したらしい。

 この扇動ポピュリズムに乗せられて票を入れたおバカさんたちが、自民と国民に次ぐ742万人もいて、立憲よりも多くいたというのだから、驚くばかりだ。かなりのおバカ国つまり衆愚になっちまった。まさかと思うが、次の選挙では欧米先進国並み極右台頭かもなあ。
 さてこの先は政治の世界はどうなるのか、もうすぐ死ぬわたしには関係がないが、野次馬好奇心が疼く。自民右派がサンセイ連中を取り込むほど馬鹿ではないだろうが、極右的言説に世間が目を向けているうちにと、極右的言説お得意のタカイチさんを立てるかもなあ。

 そうやって地球全体に分断が進んできて、ウクライナや中東に見るように、第三次世界大戦が近いようだ。
 わたしは日本の十五年戦争の真っ最中に生まれたが、死ぬときも戦争真っ最中になるだろうか、いやいやその前に地球からおさらばするさ、もう十分に生きたから、後は核毒の野となれ山となれ・・。
 
 そうだ、これが最後になるであろうわたしの投票先を書いておこう。選挙区では、知らない人ばかりで立憲民主党の人名を、比例区では、崖っぷちのsocial democracyの灯を消したくないので社会民主党と、それぞれ書いた。これまでわたしが書く人はたいてい落選したのだが、今回は珍しくどちらもうまくいった。
(2025/07/23記)

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2025/07/21

1900【市長選挙遊び】掲示板の立候補者ポスターがみんな同じデザインとは何故だろうか?

●参院選挙に続く市長選挙 

 涼しい早朝徘徊を、久しぶりに始めることにして、6時出発、1時間で帰宅。途中で選挙ポスター掲示板に出会ったので見れば、ポスターが増えている、え、昨日終わったばかりなのに、なんで?

 なんと横浜市長選挙だそうだ。そうかそうか、4年前にあったなあ、あの時は山下ふ頭にカジノ誘致の是非がメインの焦点だった。現職市長、自民党地元議員、元長野県知事などが賛成や反対で入り乱れたもんだ。結局はカジノ反対派が推した大学教授が当選した。

 で、4年たったので市長選挙なんだね、昨日の参院選挙投票と一緒にやれば、税金投入が節減できたのに、なんでやらなかったのかしら?、さて、今度はどんな候補かしら、この看板だけで投票先を決めてしまおう。

 参議院議員選挙の投票先を、ポスタだけで決めるとて、あれこれ思案した経緯は、ここに書いた(参照:【参議院議員選挙遊び】)が、結局は選べなくて(ポアスターは全く内容が無いのだ)、政党名だけを選択資料にした。

 さて、これが横浜市長選挙立候補者のポスターである。これだけで投票先を決めるのだ。人相や名前で決めるのではなく、この巨大都市を未来に渡すためにどのような政策であるか、その理念を語っているか否かで決める。目先のことしか書いていない人はダメ。


●立候補者の政策理念は?

 では、掲載番号第1番の「山中竹春氏である。
 曰く『「市民生活の安全、安心」「横浜経済の持成長・発展」「もっと」を叶える都市MoreYokohama
 この方は現職である。まあ、基本政策を書いてはあるがねえ、その通りなんだけどねえ、もうちょっと独自の創造的な表現を欲しいなあ、大学の先生でしょ、たぶん、当選確実なんだろうなあ、気を抜いているかも。

 第2番は「高橋のりみ」氏である。
 曰く『横浜市民ファースト、横浜を変える、のりみが動く!、のりみが変える!、Chabnge!ヨコハマ!』
 
ここにも登場したかファーストごっこが、昨日の参院選挙で日本人ファーストを唱えるポピュリズム極右政党が躍進してイヤになっているところに、またこれかあ、参院選挙中にぼろくそに言われている標語を、平気で使うこの人の心根を、マッタク嫌になる。横浜のトランプ狙いかしら。

 第3番は「田中康夫」氏である。 
 曰く『ヨコハマの活力を前に。横浜みどり税を即時撤廃!自校調理方式の学校給食導入!』
 
この人は知事経験者で政治的にはプロであり、小説家としてもプロだが、そんな人の市長になろうとする基本的言説が、こんなものなのかあ、あの生きのよいヤスオちゃんはどこ行った?

 第5番は「小山正武」氏である。
 曰く『「3つの政策防災・子育て・経済」、 「市長退職金ゼロみどり税廃止・敬老パス負担ゼロ、3つのゼロ!、変えよう!!横浜を!!
 防災・育て・政策・経済の3政策とはいいながら、項目を並べてあるだけで、どうするのか何も書いてない。3つのゼロとという目先のことだけでは、政策とも言えない。変えようって言ったってどう変えるのかわからない。要するにわからないことを書いているだけ。

 第6番は「福山あつし」氏である。
 曰く・・・あれっ、この人は政策をなにも書いてないぞ!?、潔い人だなあ、どうせ当選しっこないとて、顔と経歴だけで売っているらしい。次の選挙狙いかしら。

●では誰に決めようか

 うーん、だれに投票しようかなあ、だれも魅力的な政治理念を語っていななあ、参院選挙立候補者を決めようとしてポスターを見た時と同様だなあ。参院選挙では、ポスターだけで投票先の立候補者の名を決めることができなかった。

 ではどうしたか、仕方ないから所属政党で選ぶしかなかった。わたしが票を入れると落選するジンクスがあるのに、今回は珍しくもその人は当選した。ところがこんど市長選挙では、だれが何党か書いていない。全員が無所属らしい。エイヤッと決めるか

 最もエイヤッにふさわしいお方は、政策全然なしという潔さに賭けて、福山やすしかなあ、でもふざけているよなあ。
 次のエイヤッは、田中康夫かなあ、ちょっと面白そうだなア、やらせてみるかな、う~む、そう言うのが一番アブナイよなあ。
 最もエイヤッ感に欠けるのは中山竹春だなあ、特に失政なかったしなあ、いや、敬老パス無料公約ができていないよ、これは個人的に身に染みる公約違反だぞ、年間9000円払っているぞ、う~む、う~ん、もう一期やってもらうかなあ。

 それにしてもみんなどうして同じデザインなんだろ。左に縦書きで氏名、右に大きな顔っ写真、その他の狭い隙間に経歴や政策などを小さく書く。なんだかなあ、まじめにやってるのかねえ。

全員同じレイアウトとは法的規定があるのかしら

 他と異なるところを際立たせるのが、選んでもらう基本だろうになあ、もしかして公職選挙法に基本デザインを定められているのだろうか、うん、そうに違いない。そういえばせんだっての都知事選で選挙ポスターに、猥褻写真を載せたやつがいたから、規制したのだろうか。

 でもなあ、こうも一致したポスターデザインで競争させるって、ちょっと酷いと思う、人権無視だぞ、投票者をバカにしてるぞ、それぞれが個性ある政策を訴えることができるように、またそうしなければならないように、法制度をなんとかしなさいよ。

(2025/07/21記)

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2025/07/18

1899【引越し騒動】個人番号カード(マイナーカード)の暗証入力タッチパネルのバカデザインに怒る

  わたしは22年ぶりに住まいを引っ越した。といっても引越し先は、これまでと同じ共同住宅の中の別の住戸である。これまでは7階の住戸だったが、引っ越し後は2階分上の10階だ。

 ここに移る直接動機は、昨年夏から独居老人となったので、それまでの住宅では広すぎるので、狭い住居にしたのだ。ここに至るまでには、他の選択(高齢者施設など)も含めて検討経緯がいろいろとあるのだが、それはべつに書く。

 引越しとなるとなんだかんだと手続きがいる。まだその途中段階だが、その変更手続きで最も頭に来たことを書く。それは個人番号カード(俗にいうマイナーカードのこと)の書き換えである。そもそもマイナーなカードなんて名称を気にくわない。

 区役所でまずは住民登録健康保険と、介護保険についての住所変更、これらは比較的簡単だったが待ち時間が長かった。でも、個人番号カードの書き換えにが面倒で弱った。なにに弱ったかと言えば、ほかの手続きは紙に書くだけで済むが、これでだけはタッチパネルで暗証入力しなければならないのだが、PCに慣れているわたしでもウロウロ。

 タッチパネルは近ごろは飲み屋や回転すし屋までも注文を書かせられる。あれも画面デザインがあまりにへたくそなのに腹が立つ。店のほうで買わせたいものに誘導するのが見え見えで癪に障る。

 ところが、個人番号カード用のタッチパネルは、それを使う市民のことをほとんど考えないバカデザインであった。このカードの登録条項を変えるには、本人が役所に出頭して、本人が暗証を入力することを求められる。つまり、この国の人たち全員がこれに面と向かわねばならない。

個人番号カード暗証入力用タッチパネル 
画面が暗い、文字が小さくて細い、パソコンと違う文字配列

 ところが、これって専門家向けなのかしら、このタッチパネルの画面設計があまりに悪過ぎて、普通の市民のことをほとんど考えていないらしいのである。だれが考えたのだろうか。まるで意地悪されているみたいだ。PCキイボードに慣れているわたしがオロオロしてしまった。当然に係の人に文句をつけた。

 「ねえ、このタッチパネルって、デザインが悪すぎるよ、画面が暗くて見えにくい、文字が小さく細くて読みにくい、こんなんでいいのですか?、これでは弱視の人から見えないって文句言われるでしょ、それにね、文字の配列がabc順なので戸惑いましたよ、PCの英語配列も選べるようにしなさいよ、入力に戸惑って時間を食ってしまいましたよ、なんとかしなさいよ、そんなこと言われるでしょ?」
「はあ、すみません、よく言われますが、国からの統一なので仕方ないのです」
「じゃあ、現場からの声を国に伝えなさいよ、こんなバカなことあるものか」

 わたしは弱視ではないが、いつも見ているPC画面と違い過ぎて困った。どこに探すローマ字があるのか迷うのだ。細くて小さい字だから、「O」と「Q」と「0」の区別がつない。2回入力しても違うと言われたのは、OとQを間違えていたらしい。

 3回も間違えることはできないから、新暗証をつくってしまった。まったくもって、こんなデザインするバカ技術者の顔を見たいよ、おかげで日本中の人間が迷惑する時間ロスを考えたことがあるのか、すぐに改良しなさいよ、”出痔垂庁”さんよ、バカ業者使ってんじゃないよ、しっかりしなさいよ。これデザインした奴に払った税金からの支出を返還させなさいよ。

(20250718記)

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