2012/10/17

678東京駅復原出戻り譚(その3)お供に引き連れて戻ったノッポビルに取りま巻かれて日陰者になったなあ

 わたしが1987~88年に撮った東京駅とその周辺の写真がある。これは国が行った東京駅周辺再開発調査(これで保存が決定)のときの資料だが、今の風景と見比べると実に面白い。
 髷を結い直し、簪を取り揃え、真っ赤に紅の厚化粧で出戻ってきた赤レンガ東京駅は、たくさんのお供を引き連れてのご帰還である。そのお供のどれもが大男(大女?)であるのが、ご自分の背が低いだけに目立つのである。

 まずは東京駅の真正面からの、出戻り前の姿である。

 出戻り前の姿の左端に見える2棟の超高層ビルは、大手町の東海朝日ビルと新日鉄ビルである。中央の屋根の左右に少しだけ黒く見えるのが、八重洲口の大丸百貨店(鉄道会館ビル)である。
 
 それが出戻りしてきた今は、5棟も超高層ビルを従えている。

 これらの中よりの2棟が、赤レンガ駅舎の不利用容積率を移転した八重洲側にあるビルで、まさに連れ戻ったお供である。

 連れ戻ったお供のっぽビルは、丸の内側にもたくさんいるのだ。
 東京駅のホームを越えて丸の内側を眺めよう。
 肝心の赤レンガ東京駅舎は、中央線ホームが高いので屋根しか見えない。

 この写真は、八重洲側の北にあるのっぽビルの下層部に移転した大丸百貨店の12階の便所から撮ったものである。この便所の窓は巨大な一枚ガラスで、小便しながらの眺めが実に宜しい。たいていの便所は裏のほうにあるのに、この便所の設計は素晴らしい。

 で、ご覧のようにこちらにはぞろぞろとノッポお供がいる。このうち赤レンガ東京駅が容積を移転した先は、左端の新東京ビル、その右隣のJPタワー、中央の丸ビルを飛ばしてその右の新丸ビル、このほかにJPタワーの陰にあるパークビル、これらの4棟である。
 だから八重洲側の2棟と合わせて6棟が、赤レンガ東京駅のお供である。

 では、4半世紀前の丸の内側を眺めよう。
 これは1987年10月に、八重洲口にあった大丸百貨店の屋上(10階か11階か忘れた)から撮った。

 東京駅の三角ドームと赤レンガ壁(赤ペンキ)がよく見えるのは、中央線ホームが今のように高くなっていないからである。
 周りはスカイラインが31mでそろっていることがよくわかるが、赤いタワーの東京海上ビルをはしりとして、スカイラインが崩れつつあることもよくわかる。

 これから25年、先の写真のようになったのである。わが身のお化粧代を稼ぐために、わが身を切り売りした結果が、ノッポお供に取り巻かれて、なんだかいつも日陰になってしまった。
  ♪ あれ、なにをいわんすか、あたしゃ日陰者じゃないわいなあ~

 では上空からの眺めを、1997年と2011年の比較をしてみる(google earthより)。
 まず1997年である。

次は2011年である。黄色い矢印が、敷地を超えての容積移転である。特定街区、特例容積率による移転例だが、ほかにもあるかもしれないが、全部は知らない。

八重洲側も大きく変化中である。さてどうなるのだろうか。

●参照→
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

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