2013/04/24

756・半世紀の憧れ期間を超えて奥州の名建築にようやく出会ったが津波被災地との落差に泣いた

 ついにその姿にお目にかかった。半世紀余のあこがれた想いが叶った。
 あのはじめて写真で見た日の姿そのままに、いや、白い綿帽子をかぶって薄化粧までして、迎えてくれたのであった。

 今から半世紀余も前のこと、学生だったわたしは、発行されたばかりの写真集にある、その美しい姿に、一目ぼれしてしまった。
 それがたたずむのは東北の奥地、西から関東にやってきたわたしは、そこがどこかさえもわからぬままに美しさに惚れこみ、建築学生を卒業するディプロマ(卒業設計)に、その姿をデザインモチーフとして織り込んだほどであった。

 それから半世紀たっても、いまだに憧れのままに、その実物の姿に接しないままだったが、でも決して忘れていない。ときどき、もう古書となって表紙の糊が取れそうな、その写真集をとりだして眺める。
 かの奥州の奥地を訪ねていつかは会いに行かなければならぬと思いつつも、いや、あこがれのままに行かぬほうが良いかもしれない、などとも思う。
 だが、そろそろ行っておかないと、遂に行けぬままに人生を終わるかもしれぬ、そんな年齢となってしまった。

 そしてこの春ついに、その名も遠野という地に、はるばると訪ねたのである。
 4月も下旬となったというのに、その日は朝から雪であった。そう、白く化粧をして待ってくれているに違いない。
 タクシーで行くのはもったいない。いや、お金もそうだが、いきなり乗り付けては、半世紀の楽しみが瞬間に壊れるかもしれない。ここは歩いて行こう。


ローカル線の小さな無人駅で降りた客は、わたしひとりだけ。目的の地は、広い谷間の2キロほど上流の右向こうで、山際に隠れている。
 小降りになった氷雨交じりの春の雪のなかを、田んぼの中の道から山沿いへと、わずかな登りをゆるゆると歩く。森は半分霞みがかかり、木々は雪の帽子をかぶっている。
 緩やかな傾斜地に広がる田畑、そして点在する農家の墨絵の風景のなかに、自分もその点景となって歩く。

 さすがにいまでは、あたりに見える家に茅葺屋はない。
 道脇に大屋根の家を二つ見たが、ひとつは茅葺にトタンをかぶせており、もうひとつは放棄されたらしく、サスも垂木も小屋組みが露出して立ち腐れ進行中の茅葺の家であった。
 それでもこれから出会うはずの半世紀の憧れを、予知させるのに十分であった。

 
 やがて道の右に迫っていた山際が広くなったと思うと、それが姿を見せた。
 おお、これがあの千葉家住宅!、あの二川幸夫の写真の通り、美しい姿である。しかも、折からの時ならぬ春の雪で、綿帽子をかぶっているのであった。歓迎のお化粧か。

 このプロポーションの良さ、ダイナミックな石垣、バランス良い棟の並び方、山を背景に真っ白な三角形の屋根が浮き出ている。これはもう、たまらない。
 石垣から飛び出す石の数々のカンチレバーにもあこがれたのだった。今、目の前に惜しげもなく見えている。


 
 
 
   というわけで、遂に半世紀を超えての名建築探訪が叶ったのであった。
 建築を見て感動することはほとんどなかった。これまで唯一の感動した建築というか、建築をめぐる風景と言った方がよいが、シドニーのオペラハウスであった。
 今回の千葉家住宅も同じく、建築もそうだが周りの環境と合わせての風景に、久しぶりに感動したのである。

 二川幸夫と伊藤ていじによる「日本の民家 陸羽・岩代」(1958年)という名写真と解説に出会い、ちょうどそのときに卒業研究の丹波民家調査で伊藤ていじ先生にも出会ったのだった。
 伊藤先生も二川さんも亡くなったが、千葉家住宅はいまも健在であった。

 実は、ここに来る前の2日間は、3・11大震災の三陸津波被災地を巡っていたのだ。
 そこでは、なにもかも失われ消滅した風景ばかり見てきたので、ここにきてわたしの半世紀余前からの憧れを、2世紀余の前からの姿で迎えてくれたことが、ひとしお眼と心に沁みこんだのでもある。
(消えた南三陸町志津川地区)
 
遠野ではほかに何も見ずに、またローカル線と新幹線を乗り継いで、名取市の浜のあたりの、何もなくなって草原となった住宅地と傷だらけの石塔が並ぶ墓地を訪ねて、またもやその喪失感に打ちのめされたのであった。(2013.04.24)

●関連ページ:728二川幸夫・伊藤ていじ「日本の民家」に53年ぶりに出会って年寄りになったと自覚して懐古譚
http://datey.blogspot.jp/2013/03/728.html

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