バナーというやつが嫌いである。
ひとつはWEBサイトにめったやたらに登場するヤツ、もうひとつが道端にめったやたらに登場するヤツ、目障りでうるさくてしょうがない。
WEBサイトのヤツは、ニフティとか楽天とかの商用サイトのトップページを見れば、いっぱい出てくる。
あれは、なんであんなに汚らしいのか。
中には動くやつもあって、目障りで目障りで、とにかく見ないようにしているし、見ても読みはしないし、早く逃れたくて目的ページへの移動(ほとんどは検索のためにそのトップページに行っている)を急ぐのである。
だから、とにかくバナーは見ないものだ、という習慣がついているから、本当に必要なことがバナーになっていると検索できないのだ。
最近になって知ったのだが、視覚障害者はWBサイトを「聞いて」いるのだそうである。
ページを音声で読み上げるコンピューター・ソフトウェアがあって、それを使うのだ。これはテキストを読みあげるので、画像で作ったバナーは読めないから、存在しないも同然である。
画像には代替テキストをくっつけておけばソフトがそれを読み上げるので、視覚障害者はそれを聞いて画像内容を判断する。
しかし、わたしがその身なったとして、バナーにつけた代替テキストを次から次に読み上げられるのを聞かされるとなると、このバカヤローメってすぐに他のページに飛ぶに違いない。
もうひとつのバナーは、最近、どこに行っても道路わきに安物の幟旗が何本も立ち並ぶ景色に出くわす。
極彩色でひらひらしているから何を書いてあるのか、車の中からは読めない。ただただ眼にうるさいだけで、美しい田園風景が壊されるばかりである。お行儀の悪いことおびただしい。
まさか、ゴミを捨てるなとか、美しい郷土をつくろうとか、そんなことを書いてるんじゃなかろうなあ、。でも黄色い交通安全をうたう幟もよく見かけるが、あれは公的機関が立てているのだろう。困ったもんだ。
最も行儀の悪いのは、自動車販売屋である。毒々しい色の幟旗を並べ、毒毒しい色の造花が無数についた紐で頭上を飾り立てる、あれはどういう神経なのだろうか。これがどこの街に行っても同じような有様だからあきれる。
この数年、しげしげと中越の美しい田園と森の風景の町や村を訪れているが、だんだんとその幟が道端に増えてくる。
最近、直江なんとかと人名を書いたものが増えているので、聞いてみると、越後の武将だった人の名前で、テレビのドラマの主人公であるらしい。テレビを見ないから何のことか分からないが、おかげでこの美しい越後の風景を台無しにしつつあることはたしかだ。
そもそも幟旗は、お祭りのときにしか出さないものだったのだ。日常の「ケ」とは違うイベントの「ハレ」の空間にする装置の一つだったのだ。
ある日、幟が立ち、屋台、出店、見世物小屋が立ち並んで、お祭りの空間が出現する。それが終った次の日はまた元の静けさに戻る、あの空間の劇的な変化が楽しかったのだ。
宣伝広告屋が毎日をお祭りにしてしまったから、今やあの非日常の楽しみがなくなってしまった。
あの日常、非日常の日々を返せ。
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