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2023/10/28

1722 【横浜ドヤ街は変わるか】産業労働者の街から貧困高齢福祉の街へ、その次は都心共同住宅街か

 横浜都心名所の寿町地区はドヤ街といわれてきたが、なんだかジンワリと共同住宅ビル(日本型マンション)の街に変化していくようである。
 かつては産業労働者の街だったのが、この30年くらいで貧困高齢者福祉の街にすっかり変わったのだ。その人たちは簡易宿所なる安宿に住宅同様に寝泊まりするのだ。

 そしてこのところ、その高齢福祉の街に都市型共同住宅ビル(名ばかりマンションのこと)が入り混じろうとする動きが見えている。もしかしてこの横浜都心の一等地ともいうべき寿地区が、都市型住宅地に変わるのだろうか。日本型ゼントリフィケーションとでもいうことが起きるのだろうか。

 寿町地区を徘徊して、コロナ明けの建設風景を拾ってきたので、ここに記録しておく。
 寿町地区俯瞰写真に、最近の建設の動きを記してみた。


 この俯瞰写真の左方(正確には南西方向)の①には今年の初めに共同住宅(いわゆるマンション)が建った(下図)。寿町地区に周辺から攻めてくる共同住宅群の一つである。

寿町入り口から振り返り見る⓵の共同住宅ビル

 ⓵の隣の街区には、②の賃貸住宅の建設がたけなわである。これは簡易宿所(いわゆるドヤ)ではないらしい。この敷地の南西側には首都高の高架があり、24時間騒音と排ガスを出しているから、たぶん、分譲型共同住宅では売れないという判断だろう。なお、ここには下駄ばき住宅型の戦後復興期の防火建築帯が建っていた。

寿町フリンジの長者町1丁目の賃貸共同住宅ビル

 この賃貸共同住宅ビルの向いには、片方を高層ドヤビルに、もう一方を共同住宅ビルに挟まれて、高層共同住宅ビルが建設中である。ここも首都高高架に近いし、幹線道路沿いだからかなり騒音が激しいはずだ。
長者町1丁目に建設中の住宅ビル

 寿地区に入り込み、⓸に空き地が長らく放置されていたが、ようやく工事を始める気配である。ここは簡易宿所の建て直しであるが、斜め前に昨年できた高層ドヤビルと同じ経営者であるらしい名称が書いてある。高齢者対応を積極的に行っているらしい。

寿町4丁目の⓸簡易宿所建設現場

 寿町の真ん中あたりには寿公園があり、炊き出しなどを行っている小公園である。その斜め前にあった3棟の中層ドヤビルを取り壊して、新たに大きな敷地として新ビルの建設が始まった。ドヤ街の真ん中だからドヤの建て直しだろうと見れば、なんと共同住宅と表示が出ている。
 おお、ここの様にまわりがドヤと福祉施設ばかりの場所、寿地区でも最も寿らしい立地にも、共同住宅ビルが登場してきたのか。はて、どのような住民が住むだろうか、興味が湧いてくる。
寿地区の中心の松陰町3丁目に登場する⓹共同住宅ビル

 この共同住宅ビル工事現場の近くには、今年の夏に建て直してオープンした高層簡易宿所ビルがある。元は5階建てのドヤビルを建て直して、名前も松影会館なる寿地区らしい風格から、漢字もカタカナも全くないBayside Yokohamaとなったのに驚く。
松陰町3丁目のドヤビル建て替えの⑥BaysideYokohana

 この新ドヤビルの並びには、昨年に売り出した分譲型共同住宅ビルが建っている。このビルは多分寿地区では最大規模であろう。ここには以前には、下が企業オフィスで上階にはUR賃貸住宅があった。いわゆる下駄ばき住宅である。ドヤビルではなくて、ここがドヤ街となる以前からの企業立地であったのだろう。
 周りはドヤに取り囲まれていたから、建て直しが始まった時にはどのようなものが建つのか興味があった。結局は一般的な分譲型共同住宅ビルになった。面白いことにここも全く漢字もカタカナもない、ローマ字だけのネーミングである。前述⑥の高層ドヤビルももしかしたらこれを真似たのかもしれない。
 この大規模な強度住宅の出現が、その後にこの街の共同住宅化をもたらすかもしれないと思っていて、例えば⑤の出現はその故かも知れないと思うのだが、自信はない。
 なお、この共同住宅ビルについてはここに詳しく書いた
寿町地区内で最大の⑦新築共同住宅ビル

 寿町地区の右(正確には北東)のフリンジ松陰町1丁目にも、大型の高層共同住宅ビルの建設中である。
松陰町1丁目にも新築の⑧分譲型共同住宅ビル

 寿町地区の南東のフリンジ地区は、首都高の高架道路があるために、最も環境が良くないので、ほぼ共同住宅はないのだが、それでも一昨年に竣工した共同住宅ビルが2棟並んでいる。全く同一の姿だから、同一デベロッパーによるものらしいが、名称は異なる。ただ面白いことに、これら2棟とも全く漢字カタカナを使わず、ローマ字だけのネーミングである。
南東部フリンジの高速道路高架沿いの⑨共同住宅ビル

 寿町地区は横浜都心の一角の約6ヘクタールの広さである、いわゆる「ドヤ街」である。この街には、旅館業の中高層ビルが片寄せてびっしりと立ち並ぶ。素の宿泊室は約8000室、日常的にその宿泊室に宿泊して暮らす人たちが約6000人とされる。その宿泊室は5~10㎡でバスユニッはなくて、共同便所、コインシャワーである。

 主たる宿泊者は、高齢の単身男たちであり、多くは低所得で生活保護対象である。つまりそのような人たちが高密度(ヘクタールたり焼く1000人!)に暮らしている、住宅街である。そのような街になったのは、それなりに横浜らしい歴史がある。

 この街ももちろん歴史的には都心部の街として産業的な用途との対応で、普通の住民たちが住む中高層共同住宅も少数ながら存在してきたが、一方で厳然として低所得者のためのドヤ街としての歩みが続く。

 コロナ明けの横浜都心には、あちこちに共同住宅(日本語でしか通じないマンション)が建ちだしてきた。ある種の聖域的なイメージがある寿町地区にも、ビル建設の動きがあり、その中にはドヤ建設もあるのだが、ドヤビルを共同住宅に建て替える動きも起きつつある。

 近ごろのドヤ建設は、30年以上前に木造からビルに建て替えたころのドヤビルが、今や老朽化してきたことと、宿泊入居者の高齢化に対応する機能更新が必要になってきたことにあるらしい。
 その中には積極的に超高齢宿泊者対応に特に力点を置く例もあるようだ。かつては設けないことが普通だったエレベーターは当然のことに必須だし、中には介護はもちろんのこと、看取りさえも可能な宿泊室を設ける者もあるとのこと。詳しくは知らないが、一種の介護老人ホーム的になっているだろうか。

 これほどの高齢者が集住するとなると、街なかにはいろいろな福祉関係の自動車が行き交うし、メインストリートのドヤビルの軒並みに一階には、福祉介護関係施設が並ぶ風景が見られる様になったのは、この10年くらいのことである。この20年ほどで、労働者の街から、高齢者福祉の街へと変転した。


 その高齢者福祉の街が、じわじわと共同住宅の街へと変転していく気配があるのだ。寿地区の周辺あたりから強度住宅ビルが押し寄せるのはこれまでもあるし、今も見られるが、さらに最近になってドヤ街の真ん中あたりで共同住宅ビルの出現がみられるのだ。

 それらはたがいに排除するのか、どちらから優先するものか、うまく共存するものか、実はよく見えないのだが、興味のあることだ。
 次に起こりうる大型共同住宅の建設は、やはり高速道路沿い以外の3方のフリンジの地区からだろう。今のところ注目しているのは、南西部入り口あたり(長者町1丁目)にある向かい合った2軒のパチンコ屋閉店後の土地利用転換である。共同住宅建設が近いような気がする。

この左右の元パチンコ店がどのように建て替わるのだろうか

(20231028記)

●このブログの最近の寿町地区活計記事
・1690【横浜寿町の変化・1】横浜都心部の関外にある貧困ビジネス街はどう変わりつつあるか2023/06/10
・1687【横浜寿町・地域活動の社会史】(2)横浜市の都市政策における寿町の位置づけは? 2023/05/21
・1686【横浜寿町・地域活動の社会史】都市下層集住社会の課題解決に活動する人々に敬服するばかり 2023/05/19
・1622 【横浜寿地区観察徘徊】簡易宿泊所ドヤ街に登場した新築分譲共同住宅マンションのコンセプトは2022/05/30
・1380【2019初徘徊は寿町に】B級横浜ガイド・寿町・松影町あたり:デラシネ日雇労務者が高齢化定住した貧困ドヤ街2019/01/05

https://datey.blogspot.com/2019/01/1180b.html

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2023/10/21

1715【横浜随一の商店街の変化】コロナ後の伊勢佐木モールはどんどん貧乏人向きの街へ

 横浜一番の繁華街とされてきた伊勢佐木モールの商業的変化が著しい。これは多分衰退と言うべきだろうか。
 わたしが鎌倉からこの近所に越してきてからはや21年、横浜都心部日常徘徊コースのひとつであるから、買い物はめったにしないけれども、かつて都市計画家であった名残でその都市的消長を眺め続けてきた。といってももう分析などしないのだ。変転を見て楽しむだけ。

 コロナ後の現在は、かつての買い回り商店街から飲食店街への転換が、日に日に目に見える。それは街歩き趣味徘徊老人には、その変転を日々楽しむことができるから嬉しい。
 あれ、ここは前にはなんの店だっったっけ?、ということがしょっちゅう起きる。こちらがボケてきたから以前を思い出さないのもあるが、頻度が高いから覚えきれないのだ。おお、ここも空き店舗か、次はどんな店かなあと思っていると、たいていは安い飲み屋になる。

 今の伊勢佐木モールには、安売り屋と安飲み屋がどんどん増えている。コロナ後に著しい。貧乏年金暮らし老人には、これは歓迎すべきことである。そういう街ならば安物衣服でふらふらと安酒のみでかけられる。と言いつつも一方では、こんな安っぽい街に住んできたのだったかなあとも、この21年を思い返すのだ。

 近ごろは古着屋やら家電雑貨のリサイクルショップやらが目立つ。ところが、伊勢佐木モールではかなり好立地のリサイクルショップが先日に閉店して、テナント募集看板が出ている。この店は2年くらい前にできたばかりだったのに、店舗自身がリサイクルになってしまったのか。南へ(正確には南西へ)下るほどに安売りが増える。

 そして安売り王者のドンキホーテが、今や伊勢佐木モールで唯一の大型物販店になってしまった。この20年で大型店の百貨店松坂屋や量販店ユニーが消えた後がこうなのだ。

松坂屋があたころの伊勢佐木モール 2007年
 近ごろの安売り王の衣料屋のユニクロと、なんでも百円屋のダイソーがひとつビルに入ってダイクロとでもいうビルがあった。それがこの春に空きビルになった。はてどこに行ったのか、これは貧乏人は困る。ところがなんとダイクロ揃って、同じ伊勢佐木モールの昔松坂屋後の4階建てビルに移っている。まあよしとしよう。

 さてその跡の大きなビルに、つぎはどんな安売り屋が入るかと期待していたが、秋が来ても空きビルのまま。それが昨日の徘徊で近づき見れば、一階の壁に小さな張り紙には「解体工事のお知らせ」とのこと。
 えっ、この大きなビルを壊すのかあ、そう古いビルでもなさそうだが、もったいない、例えばホテルのような業態にリニューアルできないのだろうか、跡に入るテナントがみつからないのだろうなあ、伊勢佐木モールの商業的落ちぶれぶりを象徴する。

ユニクロダイソービルは取り壊しへ、もったいない

 このダイクロビルの斜め前のあたりには、あのレイモンド設計の戦前モダン建築の不二家ビルが、店を閉じて解体を待っている。その跡には不二家が戻ってくるのだろうが、さてどんなビルが建つのか、もはや元のような高いビルではないような気がする。

 松坂屋跡が4階建てビルだから、もう伊勢佐木モールには高層店舗が成り立つ能力を失ったのかもしれない。

この夏から閉店して今や取り壊しに取り掛かる不二家ビル

 今や伊勢佐木モールの中のビルで、3階以上を物販店舗にしているものは、北から順にパチンコ屋、元松坂屋のカトレヤ、書店の有隣堂、元松坂屋の場外馬券売り場(これは物販ではないか)、中古本雑貨のブックオ、なんでも安売りドンキホーテ、これだけである。 

 百貨店はもちろん、大型量販店も閉店して、これらの中で有隣堂だけが老舗であるのが、なんともはや伊勢佐木モールの今を象徴する。今わたしが危惧するのは、有隣堂さえも閉店するときが来るかもしれぬことだ。だって、別館が消えてアパートビルになったのだから、本店だっていつのことやら。

 でもわたしは伊勢佐木モールが買い回り型の商店街から、最寄り型で慰楽型の商店街になることを嘆いているのではない。
 ドンキホーテ、ユニクロ、ダイソー、ブックオフそしてリサイクルショップに安居酒屋ときては、貧乏年寄りには過ごしやすい街になってきたものだ。いいことだよ。
 そのような中でも、せめて有隣堂だけは、この街のかつての格式を維持して生き延びてほしいものだ。(20231021記)

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2023/10/10

1710 【懐かしやあのコロナ客船が来航】日本コロナ騒動発祥のクルーズ船が横浜港に復帰

 暑い暑い暑い夏がようやく終わったらしく、秋晴れの日になってきたので、横浜都心部徘徊の市街地再開発事業である。今年の暑さもさることながら、2020年からのコロナによる外出規制は、高齢者に感染でなくても確実に健康被害を及ぼした。
 外出できなくて歩かないから体力が衰えたし、他人との交流がないからボケも進んだ。自分自身の身体で実感しているから、これは世界の高齢者全部がそうだろう。超高齢大国日本の高齢者死亡率が上昇するに違いない。意外にもコロナが高齢者増加しすぎにブレーキをかける、なんてコロナの効用があるのかも。
 
 秋晴れの先日、久しぶりに横浜港の大桟橋を眺める「象の鼻」あたりを徘徊、おお、大きな客船が停泊しているなあ、はて、見たことあるような、え~と、DIAMOND PRINSESS、あ、ダイアモンドプリンセス、聞いたことあるような、あ、そうだ、これは例のコロナ客船だったあれだ。


横浜港大桟橋に復帰してきたダイアモンドプリンセス・2023年10月7日撮影

 2020年2月11日の自分のブログ記事を思い出した。
 あの豪華境クルーズの旅にある船内に、コロナ感染客が次々と発生、横浜港で遭難さわぎのあの船だ。
 コロナがまだ珍しい時期で、わざわざその立ち往生船を港まで見に行ったものだ、コロナ初期騒動とともになんだか懐かしい。懐かしいとは良い記憶にいうべきだろうが、、。

コロナ遭難で横浜ベイブリッジ下に避難のダイアモンドプリンセス・2020年3月1日撮影

 そうか、ようやく復帰したのかあ、わたしは現在のコロナ終息気分らしい世間を疑っているのだが、この船を見て、もしかして本当かもしれぬと思えてきた。

(20231010記)

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2023/08/08

1700 【横浜ご近所探検が行く】横浜中華街の向こうをはる「横浜大韓街」誕生か

 暑い日が続くが、カネのかからない年寄りの健康法でとにかく歩くのだ。横浜の都心住いだから、買い物と徘徊が一致するのがありがたい。趣味の街並み景観見物が毎日できて、この街の変化をもう20年以上にわたり続けている。

 徘徊とは目的の無い彷徨行為と定義されるが、それが日常買い物と景観見物と健康に資することになっている。これは徘徊から言えば本意ではない。目的の無い外出と、その他を厳密に分けて、それぞれあらためて出直すべきである、というご叱責もあろうが、まあ、先が短い年寄りのやることに、いちいち目くじらたてなくてもよいだろう。

 さて、今日も今日とて横浜ご近所徘徊していて発見、おや、横浜チャイナタウン「中華街」の向こうを張って、福富町はコリアタウンの「大韓街」になったのか、と。
 福富町の中央部に西通り・仲通り・東通りを串刺しにする南北の通りがある。この通りには沿道の両側に1950年代に防火建築帯として建てた共同建築群が立ち並ぶので、その変化に興味を持ってちょくちょく観察に通るのである。

 その通りの南入口ともいうべきあたりに道路をまたぐゲート状の工作物が建っていて、そこに大きな字で「KOREATOWN 福富町国際通り」と書いてあるのだ。あれ、こんなのが前からあったかなあ、こんなに大きな文字だから気がつくはすだよなあ、いつの間にできたのだろうか。この通りは国際通りというのか、初めて知った。

KOREATOWNの大文字のゲート

 福富町については、以前からコリア系とチャイナ系の店舗が多くなってきたなあ、でも風俗系の店も多いなあと思っていた。この大看板を見て通りの店の看板を見まわしていたら、たしかにコリア系店舗がさらに増えている、一方で風俗系が減った感がある。
 家に帰ってからGoogleストリートを見たら、去年11月撮影の同じ通りの風景があり、そこには同じ道路をまたぐゲート風のアーチがあるが、KOREATOWNの文字はないから、今年になってできたのだろう。

2022年11月撮影の同じゲートには文字がない google street

 チャイナタウンが中華人民共和国街つまり「中華街」ならば、コリアタウンは大韓民国街つまり「大韓街」というのだろうか。
 それにしても横浜中華街のような横浜発祥の歴史を背負うチャイナタウンはともかく、福富町が中国系も日本系もある商店街でコリアタウンを名乗るには、それ相当の何かがあるような気がする。商店街組合がこのように名付けるのだろうか。
 風俗の街にイメージがある福富町全体が、中華街のような大規模な横浜大韓街KOREATOWNに変身するのは、なかなか面白いと思う。期待している。

KOREA系店舗の看板が目立つ

福富町KOREATOWN 北から見る全景

 横浜橋商店街もコリア系の店がかなりあり、KOREATOWNのイメージがある。実は単なる遊びであるが、数年前にKOREA系と中華系の店の数をカウントして、この商店街の全店舗の中でどれくらいの割合を占めるか計算したことがある。12パーセントほどで、意外に少ないと思ったことがある。それらの日常性から離れた店舗風景に気をひかれてしまてて、イメージ先行するのだろうか。

 さて、横浜都心部の関外に特に多い戦後復興の防火建築帯は、次々と建て替えられている。商店街としては関内側の馬車道の防火建築帯はかなり建て替えが進んだ。だが関外側の伊勢佐木町や福富町あるいは吉田町のような古い商店街では、建て替えが進まずに、いまも戦後復興期の姿であり、横浜の特徴ある街の風景として生きている。

 生き残っている理由は、建築物の所有権が複雑化していることもあるだろうが、テナントの身代わりの早さがあるのかもしれない。福富町がかつては伊勢佐木町のような普通の商店街だったのが、風俗街へ、そしてエスニック街へと時代に対応して生き残り作戦で変遷しているのが興味深い。普通の商店街が地域でも有名は風俗街に変身して生き残っている例として、群馬県太田市南口商店街がある。

 伊勢佐木町でも防火建築体に入る店舗が、コロナ以後その変遷が著しい。次々とテナントは変わっても意外に空き店舗は少ない。ただしわたしの観察によれば、物販店も飲食店もどうも安売り店舗へと変化する傾向がある。あまり変わらぬ商売を続けている元町商店街との落差が著しくなっている。
 その変遷が一段落したころに、建て替えによる変化が始まるだろうと、それがいつ来るのかと、それも興味を持って待っている。(20230808記)

2023/06/10

1690【横浜寿町の変化・1】横浜都心部の関外にある貧困ビジネス街はどう変わりつつあるか

【横浜寿町・地域活動の社会史2】からつづく

横浜都心部の変化を楽しむ

 今日(2023年6月8日)の朝刊新聞記事に、厚労省の統計で2022年度の生活保護申請が約24万5千件で、2021年度から7%も像か、そして今年3月の生活保護受給申請は24500件、去年同月と比べて24%も増えて、今の受給全数は約165万世帯とある。

 防衛費とか少子化対策費とか巨額国費投入とか、コロナ対策費削減で余裕ある国費予算とか、あるいは好景気らしく納税が空前になりそうとか、なんだか景気がよさそうな雰囲気があるようだ。ところがどっこい、この列島には実際はこれほども多くの貧困世帯がいて、しかも増えているのだから、一体どうなってるのだろうか、どうにもわからない世の中だ。

 日本全体でこれほども生活保護世帯が増えれば、その世帯が集中して住む横浜寿町とか東京の山谷とか大阪の釜ヶ崎などの、いわゆるドヤ街はどんな様子だろうかと考えてしまう。そこでは簡易宿泊所という安宿が増えてきているだろうか。
 ということで、その生活保護受給者約6000人も住む横浜寿町地区(横浜市中区寿町・松陰町・扇町あたり約6haの地区の代表として寿町地区と称する)に徘徊に出かけて、街を見てこようと思いついた。(参照→寿町地区俯瞰概念図


 人口が5000人以上6000人以下の自治体は日本に141もあるから、これは立派すぎる規模の街だ。そしてまた人口密度が1000人/haという極端さでありながら、超高層ビルは一つもないし戸建て住宅も無くて、超狭い住戸(1戸がネット5㎡が珍しくない)が中高層ビルに押し込まれている現実である。

 わたしはこの20年ほどの間、横浜の関内と関外あたりの古くからの都心部を日常的に徘徊をして、街の変化を眺めるのを趣味としている。
 その対象とする主な街としては、商業街として伊勢佐木町・馬車道・元町など、観光街として新港地区・中華街など、住宅街は山手や野毛山あたりの斜面住宅地寿町地区がある。

 商業や観光街の世の景気、特にコロナ禍に左右される激変が面白く、特に横浜一番の繁華街「伊勢佐木モール」の質的低落がものすごい。
 住宅街の世代交代に対応して徐々に変わりゆく姿の継続的観察も面白いものだ。都心部の住宅街は一般に中高層共同住宅街で特に面白くもないのだが、斜面地や崖地住宅街と寿町地区は都心部住宅街の特殊な事例として実に興味深いものがある。
 この20年分の変化を、この辺でまとめて書いておきたいと考えている(ボケると書けなくなるから)。今日からまず寿町地区を書くことにする。

寿町地区でゼントリフィケイションは起きているか

 寿町地区へのわたしの興味の中心は、その変化の動向である。この20年ほどその動きを好奇心で観てきた。この横浜都心の開発ポテンシャルが非常の高い地区が、低所得者層が集中しながらも、その景観は大都市のありふれた姿である。

 だがその居住者層は時代とともに変化も著しい。その内部的な変化に対して、都市の開発ポテンシャルの顕在化がどう影響を及ぼすのか、興味はそこにある。いわば寿町的ゼントリフィケイションはどのようにして起きるか、いや起きないのか、そこに興味がある。

 実のところ、この街の変化は普通に見る分にはほとんど見えない。それどころか知らない人がこの街を通り過ぎても、よくある都市の共同住宅街(いわゆるマンション街)にしか見えない。
 だがこの街は戦争被災地から1950年代半ばに復活して以来、じわじわと変化し続けているのだ。それは目に見えるハードな面もあるが、その住民たちの時代による変化がこの街の中身に及ぼす変化である。特に初期の若くて働く者たちの街から、今は高齢化率が5割を大きくこえる超高齢者の街に変化している。それが街の姿にどう表れてきたか興味深いのである。


 では今日の徘徊は、寿町地区に向かうとして、その西角の長者町1丁目交差点から入る。

寿町地区の西角の長者町1丁目交差点から寿町方面
角地に建っていた1950年代に建った防火建築帯が事務所ビルに建て替わった

 この地区を取りまく幹線道路つまり寿町地区の外殻にあたる道沿いには、原則として簡易宿泊所は建っていない。ドヤ街としての外向きの顔は、地区の外殻にはオフィスビルや共同住宅ビルが建っていて、本物の顔は顔は地区の内部にある。

 ドヤ街入り口の左右にパチンコ屋が構え、上層に駐車場を載せる9階建てのビル、高い広告塔を立てている、近づいてみると1回の壁に張り紙があり、「6月18日をもちまして閉店することになりました」とある。「1998年5月から約20年の営業、、」とも書いてある。おやおや、こんな貧乏人向のギャンブル場でさえも成り立たなくなったのか。

 このビルと道を挟んで向かいにもうひとつパチンコビルがあり、同経営のようだから、これらはドヤ住人相手の商売として、四半世紀前に営業開始したのだろう。だが今やドヤ住人たちはパチンコもできないほどに貧困になったか、それとも超高齢化でドヤから出て遊ばなくなったのか。何しろ高齢化率が6割を越えようとする地区である。

 寿地区でのギャンブル場といえばこれらパチンコ2店のほかに、ボートレース場外舟券売り場があり、2軒の違法「ノミや」がある。これらが同列の商売かどうか全く知らないが、約6000人の地区内居住者がいて、しかもこのような交通便利な都心部でも成り立たないものなのか。

 この近くにあるパチンコ屋は、伊勢佐木町と横浜橋の商店街にもあるが、それらと比べるとここは繁華街でもなく郊外でもない、むしろ住宅街であるから、狙いはドヤ街住人だったのだろうが、貧困介護老人が増えては成り立たなくなったのだろう。
 さてこの跡には何が建つのか、最も考えられるのは高層共同住宅ビル(いわゆるマンション=名ばかりマンション)である。実は現在このパチンコ屋の前後左右のあたりは、共同住宅の建設ラッシュの感もあるのだ。

 このパチンコやビルの斜め向いの街区にいま建設工事中のビルがある。そこの工事看板には「賃貸住宅」と書いてある。以前ここには、1階に店舗の入る3階建て共同住宅ビルが建っていて、これは1950年代後半に戦後復興事業として建った防火建築帯であった。次いでの書けば、、この長者町通りの両側には戦後復興期に多くの防火建築帯が軒を連ねて建設されたが、いまやほとんどが建て替えられて共同住宅ビルになり、残るは数棟である。

寿町地区南西入り口左のパチンコ店は閉店お知らせ中
右手前の工事囲いは1950年代の防火建築帯を賃貸住宅に建て替え中

 この工事中の賃貸共同住宅の立地は、幹線道路を挟んで寿町地区に隣接する街区で、ここのまわりには寿町地区からはみ出したドヤビルが5棟が軒を並べて建っている。
 この敷地南東側に面して首都高速道路の高架があり騒音と排ガスを24時間振り撒いているから生活環境が良くない。一般住宅よりは簡易宿泊所の立地に適する感もある。
 立地環境から販売リスクがあると考えて、分譲ではなくて賃貸共同住宅としたのであろうか。その隣には大きな平地の駐車場があるので、次はここに何が建つか楽しみである。 

寿町地区南西入り口から振り返ってみる。右に閉店予定のパチンコ店、
その道路向かいの高層ビルは今年4月竣工の分譲共同住宅、
正面に見える5階建ては簡易宿泊所(寿町外)、左の工事中は賃貸共同住宅

現在工事中の賃貸共同住宅敷地に建っていた1950年代戦後復興期の防火建築帯

 さきほどのパチンコ屋から長者町通り沿いに南東に歩けば高層ビルが建つが、これは寿町地区の外殻に建つ例外的な簡易宿泊所で5年ほど前に建て替えた(下図中央)。

長者町通りから寿町地区に入るメインゲイト両脇にパチンコ店、その右に高層ドヤ

 この高層ドヤビルの南東隣が長らく空き地(下図中央部)であったが、いま見ると工事用の塀ができて建築工事看板がある。その用途は共同住宅79戸11階建て高層ビルである。パチンコ屋跡とここに新ビルが建つと、この寿町地区の南西側幹線道路沿い、つまり南西側の外殻には一応高層ビルが立ち並ぶことになる。それは3~4年後のことだろう。
長者町1丁目の幹線道路に面して左に高層簡易宿泊所、右は共同住宅
その間にあった空地に共同住宅建設の看板が登場

 ではこれから寿町地区の中に入っていって街の変化を探ろう。(20230610記 つづく)

参  照

1687【横浜寿町・地域活動の社会史】(2)横浜市の都市政策における寿町の位置づけは?  https://datey.blogspot.com/2023/05/1687.html

1686【横浜寿町・地域活動の社会史】都市下層集住社会の課題解決に活動する人々に敬服するばかり https://datey.blogspot.com/2023/05/1686.html

2023/05/21

1687【横浜寿町・地域活動の社会史】(2)横浜市の都市政策における寿町の位置づけは?

承前)横浜名所についての新刊書籍『横浜寿町・地域活動の社会史』を読んでの話の続きである。

●田村明と緒形昭義

 この本にはわたしが面識ある人はほとんど登場しないが、それでも3人を見つけて前回の話に書いた。更に2人の名を見つけたので書いておく。それは田村明さん緒形昭義さんである。どちらも飛鳥田市政時代になって横浜に登場するひとだ。

 飛鳥田革新市政が始まったのは1964年4月、田村はその飛鳥田のもとで市の幹部になって、都市政策に辣腕を振るった。わたしは自分の専門であった興味から、田村の横浜市における都市政策が、寿地区にはどのように及ぼされたのか興味があった。
 だが、この本に田村の名前が登場したのは一回のみであった。この本の内容がいわば福祉系に偏っているから、それも当たりまえか。

 その田村が横浜市が建てる建築の設計に起用した建築家のひとりが、彼と大学同期生の緒形昭義であった。横浜市内で設計事務所を主宰する緒形の設計で有名なものは、寿町総合労働福祉センター(1974)と藤沢市労働会館(1975)とネット情報で知った。
 まさに寿町のプロジェクトで緒形は田村に起用されたが、今はもう別の建築家の設計の建築に建て替っている。
 わたしはもう40年以上も前で具体的なことは忘れたが、田村と話をしたことが2度あった。またこれも何の用だったか忘れたが、緒形をオフィスに訪ねて長く話し込んだ記憶がある。

 さて横浜市の都市政策がどのように寿町に影響を及ぼしたかを、この本の中で興味深く読んだのは、寿町の分散と縮小を意図したことがあったとの記述である(上巻第1章第6節)。
 飛鳥田市政になった頃、「寿町ドヤ街を分散して縮小・解体の方向へ誘導しようとする分散論」なるものがあったそうだ。まさに寿町都市政策である。

 そして実際に1968年には、横浜市は「寿町周辺地域の建設指導要綱」をつくり、簡易宿泊所の建設規制を始めた。その内容は簡宿の新改築の原則禁止であり、許可するには建築構造や設備等の適切な整備を条件とした。これに限らないが、田村は幾つもの指導要綱を作って、都市政策を進めたことで知られるから、これもその一つであろう。

 しかし分散論そのものは立ち消えになり、むしろ寿町総合労働福祉会館という地域のセンターをつくる方向となり、寿ドヤ街の機能強化になった。つまりドヤ街分散論ではなくて容認論へと進み、現在に見るように新改築されて高層ドヤビル化が進み、ドヤ街は分散することなく現地で繁盛している。

 わたしはその60年代半ば過ぎの当時の横浜を知らないが、ドヤ街を政策的に忌避する空気と、必要悪として容認する現実とのあいだで、現実が勝ったということか。
 と言うよりも分散も消滅も無理で、建てるならばできるだけ良い設備とする指導するしかなかった、それが飛鳥田革新市政の福祉政策の方向であったのだろう。

 この本に登場する田村は、そのような時に要綱を作っていること、そして寿のセンター施設の設計に緒形を起用したとの記述にある。田村時代には横浜市では力量ある建築家たちの起用がなされてきたが、緒方もそのひとりであったのだ。

寿町総合労働福祉会館(1974年竣工、現存しない)

寿町総合労働福祉会館

 たしかに緒形の設計した「寿町総合労働福祉会館」は、寿地区の平凡なドヤ建築群の中に、異彩を放つ大きさとデザインであり、地区のセンターとなる景観と機能を発揮していた。
 そのブルータルな表現はダイナミックであり、開放的な広場や大階段やピロティに、仕事を求める人々、ドヤ住民たち、野宿ホームレスなどなどが日夜群れていて、焚火の煙と相まって独特の活気があった。いかにも民衆的エネルギーを生み出すデザインであった。

 この会館の計画は1971年から具体化して、72年から設計にかかったとある。先ごろ横浜市都市デザイン室が開設50年記念展覧会を開催したが、この会館に都市デザイン室が関わったかどうか分からないが、横浜市の都市デザイン政策の出発プロジェクトとは言えそうだ。 

 いまはもうその会館は無くなり、後継として「寿町健康福祉交流センター」に建て替わり、その名のごとく労働から健康へと時代の変化を映している。デザインは全体配置を継承しつつも、どこかスマートな風貌になっている(小泉雅生設計)。

寿町健康福祉交流センター(2019年開館)

 ここまでが『横浜寿町』の記述にかかわることであり、これからはそれと関連しつつも別にして、わたしが日ごろ感じている横浜市の都市政策と寿町の環境との軋轢を書きたい。

●寿町と首都高速道路

 今の寿町の都市環境の大きな影響をもたらしたのが、飛鳥田市政時代の重要都市政策のひとつである首都高速道路の建設である。寿町地区の南側を流れる中村川の上空に建設した、その高架道路がもたらす日照阻害、騒音、排ガス等の公害を、この街は一手に引き受けさせられている。もちろんその騒音が横浜都心の関外地区に一日中鳴り響いている。

寿町一帯は、街の南側を高速道路の高架で囲まれ、中村川の水面は覆われた

 横浜市内のその建設計画は飛鳥田市政になる前に都市計画決定されていたが、実はs野々市は今の中むらぐぁ上空ではなかったのを、飛鳥田市政で変更してここに移しのだ。飛鳥田市政前の都市計画では、今の大通公園野市に流れていた吉田川・新吉田川の上空に通す決定であったのだた。

 それを中村川の位置に変更した理由は、横浜都心の街の真ん中を通すとは「眉間の傷」になるから変えよと、飛鳥田市長の言葉だったという。中心市街の商業者の声でもあったという。田村はそれを受けて中村川上空高架に都市計画変更したのであった。

横浜都心を抜ける首都高速道路の当初計画(左)と変更後の現実(右)

 具体的には、桜木町方面から関内関外境界の派大岡川の上空を通り、関内駅前でジャンクションを作って堀川方向と吉田川方向に分岐する計画であった。
 これを派大岡川を埋めてその地下に高速道路を埋め、石川町駅前の上空にジャンクションを設けて、堀川上空とと中村川上空に分岐することにしたのだ。
 この計画変更に関して建設省と横浜市の熾烈な論争と駆け引きの経過と結果に関しては、田村の筆で書物になり有名な話となっている。

 そして寿町はもちろんだが中村川両岸地区はもろに公害の街になった。要するに派大岡川部分は地下にして景観上は見えなくなり騒音も防ぐことができたが、中村川と堀川の部分は上空の高架のままであったということだ。
 これを田村は「中村川の上を通るのは景観的には問題だが、他の案よりはましだ(『都市プランナー田村明の闘い』田村明著2006年 学芸出版社 84ページ)としている。

 他の案よりはまし、とはどういう意味か。原案との比較か、あるいは大岡川の上空案もあったのか。それらと比べてよりましとは、この実現計画は景観のほかには欠点が少ないという意味か。だが堀川も中村川も両岸には密度高い街があり、特に中村川のあたりは住宅街である。

 そのころの中村川に沿う街には、寿町と同様に中村町あたりにも簡易宿所が多く建っていたから、住宅街とはいえ他と比べると地元住民とは言えない出稼ぎの労働者が多かったようだ。だから地元からの反対の声が出なかったのかもしれない。

 だからと言って密度高く人々が住んでいたことに変わりはないから、道路公害があってよいわけはない。それでも「まし」とは、そこには都市下層住宅地域とする差別感を感じさせる。関外にあるわたしの住まいからも遠いが高速道路騒音が聞こえるので、「まし」の範囲に入れて貰いたくない。

 寿町の高速道路に面する簡易宿泊所に入ったことがあるが、その騒音はかなりヒドイものである。しかもそれは排ガスとともに夜間も絶えないのである。
 簡易宿泊所は住宅でもないしホテル旅館でもない。建築空間として住宅のような日照や通風について法的保証は無い地位にあるが、事実上は住居として利用されている。
 その利用者の特殊性によって、この立地でも成り立っている不動産であるのだろう。他の機能はこの環境を忌避して入ってこないのが現実かもしれない。この20年の観察で新たな機能として入ってきたのは、数多くの介護関係施設だけであることが、この地区の劇的な変化を表している、

ドヤの南側窓を開けると目の前に轟音の高速道路

 もっとも、数は多くないが、中村川に沿う街でも寿町を離れると、騒音公害の中に高層共同住宅ビル(いわゆるマンションー原義とは大いに異なるが)は建ってきており、売買や賃貸借されている。生活の質的環境よりも、立地の便利さが優先するという現実社会がある。

 更に問題を言えば、堀川から中村川そして大岡川と連続して横浜都心の関外関外をぐるりと三方を囲む水面だが、大岡川と多とは大いに異なる環境になっている。
 大岡川が明るくて市民のレクリエーション利用水面にもなっているのに対して、中村川と堀川は上空を覆われて日の当たらない暗い水面で、市民の利用はほとんどない。

 飛鳥田と田村が決めた高速道路は、一方でこのような都市環境を生み出してるのだ。ちょっと解せないのは、この高速道路が土木学会に表彰されていることだ。しかもその理由が「地域環境に調和し景観に優れた・・」とあり、え?、土木学会は何を考えているのか。

高架道路に覆われて暗い水面

中村川下流の堀川堤防際の高速道路柱にある土木学会田中賞銘盤

 東京の日本橋の上空の首都高速道路を地下に通して、日本橋川の上空の高架道路を撤去する事業が現在進んでいる(その首都高公報サイト)。それができるのだから、こちら横浜の中村川と堀川の上空を覆う首都高速道路も、日本橋川と同じように地下に付け替える事業をぜひともやってもらいたい。山手の丘の下に埋めればよいだろう。

 この高速道路のことはこのブログに既に書いているので、これ以上は述べない。
 ・参照その1:都市プランナー田村明の呪い(2019/09/27)
 ・参照その2:【不思議街発見5】(2018/07/10)

 実はこの本を読んでいてふと気がついたのは、簡易宿泊所の経営者たちはどのような社会史あるいは経済史をもっているのだろうかということであった。だが全く登場しない。
 その多くが朝鮮半島出身者であるらしいが、それはどのような歴史をもつのだろうか。簡易宿泊所の経営とはどのような経済史を持っているのだろうか、それは釜ヶ崎や山谷にも共通するのだろうか。

 この続きは、近ごろの寿町のドヤビル建設の動きから、何かが起きようとしているらしいので、それを書く。  (2023年5月21日記) (つづく


2023/05/19

1686【横浜寿町・地域活動の社会史】都市下層集住社会の課題解決に活動する人々に敬服するばかり

●横浜都心名所「寿町」の歴史の本が出た

 横浜市の都心の中に「寿町地区」と呼ばれる名所がある。そこはいくつかの町名があるのだが寿町で代表されている。
 似たような名所が東京では「山谷地区」、大阪では「愛隣地区」と呼ばれている。それらはいずれも都市下層社会地区の代名詞のようになっている。 

 今年1月出版の書籍「横浜寿町 地域活動の社会史」上下(寿歴史研究会編 社会評論社)を、実に興味深く読んだ。上下巻2冊、いずれも300ページを超える厚さ、しかも横組みだから、見かけはとっつきにくい。目次を見ても硬そうな中身だが、実際に読みだすと止まらなかった。

 横浜都心に移ってきて20年半、この間に都心部のあちこちほぼ残らず歩き回りつくした。もちろん寿町にもちょくちょく足を運んでいる。この機会に少しまとめ的なことと、この本を読んで発見したことなど書いておこう。

 寿町の街並ををちょっと見たところでは、特別に変わったところはない。中高層のホテルのような中高層住宅のような建築群が隙間なく立ち並んで、日本の大都市の中では普通の風景である。知らないとなぜここが名所なのかと思うだろう。
 だが、この本を読むと、その平凡な街並みの中では、こんなにも熱いドラマが日夜繰り広げられていたのか、そして登場人物たちの多彩なことに驚くのである。

 ここに密度高く肩を並べて建ち並ぶ平凡な都市建築群は、通称はドヤビルと呼ばれ、ドヤとは宿の隠語に起因する。つまり宿と呼ぶにはいかがわしいというかレベルが低い宿泊施設であり、法的には簡易宿泊所と言う。要するに超安宿である。それに似合った施設とサービスである。
 宿とは本質は旅人が短日の仮寝の場であるのだが、ここでは都市下層民の生活の本拠になっているという大きな変質がある。

 都市社会の底辺に生きる人間たちが、小部屋の個室に住みついて、居住密度が極端に高く暮らしている。しかも低所得の高齢者層が8割を占める偏りである。
 それは日本社会の戦後諸問題が時間とともに変質しながら凝縮されて詰め込まれてきた姿である。ハードソフト両面でのあまりの密度の高さに、読んでいて息苦しくなる。それは街を見ただけでは分からないのが、この寿町の特色かも知れない。

 それに気づかされるのは、書き手が第三者ではなくて、ここで起きてきた諸問題の現場に真正面から取り組んできたた活動の実践者たちだからだ。
 都市横浜の悲惨な戦争直後からの社会史の現場の語り手たちの言葉は、日本の戦争の語り部のそれに匹敵し、戦後社会戦争の語り部といってよいだろう。

 わたしは横浜都心部の一角に住みついて今や20年を越えようとしている。都市計画を専門にしていたわたしは、現代の隠者は都心に住むにかぎると思い込んでいて、高齢者の仲間入りした年に実践した。
 いまや都市の変化を眺めて楽しむのが趣味である。隠居してからやってきたよそ者としては、この都心部のどこもが単なる傍観者であり、繁華街も観光街も住宅街も、そして寿町もそのひとつにすぎない。だが、この本に登場するトピック中のいくつかには、わたしも遭遇もしているので個人的興味もそそられた。

 このブログ読者で、横浜寿町あたりをよくご存じない方にちょっとだけ概要紹介。
 約6ヘクタールの範囲にこのような人々がいる。1000人/haとは超過密である。



 概要をもう少し知るには、わたしが4年前に作った寿町ガイドパンフをご覧ください。

●寿町にも徘徊の足を入れた

 わたしが横浜関外の一角に住むようになったのは、2002年の秋だった。それまでは鎌倉の谷戸の奥で深い緑に埋もれていたのを、街なかの空中の広く開ける住まいに、つまり正反対の環境に大きく変えたのである。
 日常買い物にもバスで通う不便から変わって、歩く範囲に何でもある超便利生活になった。鳥の声が一日中の日々は、街の多様な騒音の日々となった。
 それでも歳をとると便利な方がはるかに良い。

 関内と関外の街の表も裏も、海港のあたりも山手のあたりも、ヒマさえあれば眺め歩く徘徊の日々である。この都心にはありとあらゆるものが存在するとほとほと感心しつつ、好奇心はますます増すのである。もちろんそれは年寄りのヒマツブシに役立つだけである。

 街の表の顔として見せる観光街やビジネス街、日々の生活のある住宅街、それぞれ違う商店街などなど、観光客向け、買い回り向け、最寄り向けなど多様な街のゾーニングがある。
 それら多様な中でも特異なゾーンは寿町周辺地区である。ここがドヤ街として有名であることは知っていたので、他の街とは違う先入観と好奇心でこわごわと通り過ぎていた。

 わたしが横浜都心徘徊を始めた2000年代の半ば過ぎまでの寿ドヤ街は、その中心部の広場に酒を飲みつつ焚火をかこむ野宿人たちが大勢いて、道端に用もなく座り込む人たちがあちこちに居て、ちょっと怖い雰囲気と風景が印象的だった。
 沢山のゴミがあちらこちらの道端に積みあがっていて、小便臭い所も多かった。そんな街でも何度も通りぬけるうちに、普通の街の姿に見えてきた。

2008年の暮れの寿町風景には街角のあちこちにまだゴミの山があった

2007年の夏、寿町の職安前の待合広場には野宿の人たちがいた

 わたしがこの辺りも徘徊しだしたころはまだ汚かったが、200年代半ばあたりから寿の街が、特に道が次第にきれいになってきた。路上放置自転車の整理並べ替え、路上のゴミの片づけ、路上の各所に花が置かれて、それが勝手な焚火や立小便をなくしていったようだ。
 この本を読んで知ったが、その契機は2002年サッカーワールドカップ大会だったという。やってくる外国人に恥ずかしいからとの不純な動機でも、結果はそれで良しとしよう。寿は21世紀初め10年余で次第に普通のきれいな街の姿になる事実を、徘徊で眺めてきた。

 だが、わたしがこの街にあまり興味がわかなかったのは、街並風景に特徴がなかったからだ。これが壊れかけ家屋だらけで迷路のような路地だらけの、いわゆるスラム街ならば興味がわいたのだが、ただの平凡な小規模共同住宅ビルが立ち並ぶだけの姿は、特に面白くもない。
 ところが実はその中ではとんでもない社会的問題の数々があったのだが、新聞情報以上には思いは及ばなかった。それをこの新刊『横浜寿町』でつぶさに知った。

2007年夏、寿のドヤビルが立ち並ぶ平凡な街並

 ついでに書いておくが、わたしが横浜都心隠居して最も関心をもって変化を眺めてきたのは、都心部街並の戦後復興として計画的に建設した「防火建築帯事業」の姿である。

●寿町に泊まりに行ったこと

 2007年夏の初め、ある都市研究会が主催する寿町見学会に参加した。都市計画の専門家たち10人ほどで、寿町ホステルビレッジの受付フロントロビーを拠点にして、ドヤ街を歩き、ドヤビル(簡易宿泊所)の内部にも案内してもらった。
 わたしはそれ迄は勝手に道を歩いていただけだったが、はじめて建物の中に入り、この街で活動する人たちの話を聞いた。興味がわいてきた。

2007年夏の寿町の中心部風景

 この時に案内役だったのがYさんとYTさんで、ファニービーという地域活動組織の人であった。「さなぎ達」というNPOもあったようだ。寿町ツアーはこのファニービーの収益事業であったらしい。地域資源をもとに活動資金を得てる事業のひとつであろう。そのころわたしもあるNPOの番頭格をやっていたから、よく分かる。

 ファニービーのリーダーのYTさんとは名刺交換したので、以後はファニービーから時々は活動情報がメールで来るようになった。たまには会合に顔を出したこともあり、ホステルビレッジの宿になっている林会館の屋上で、賑やかなパーティーに参加したことがある。
 YTさんは気さくに人と人を結び付ける役目をしていた。地域社会に活躍する女性活動家として、どこかの団体から表彰されて、マスコミに評判になったこともある。

 Yさんはこわもて風体でよくしゃべる男で、リーダー的地位にいるような態度だったが、名刺交換してくれなかった。どこかインテリヤクザの気配で、正体不明のような雰囲気があり、わたしは敬遠したくなる人だった。実はその気分は当たっていたと、この『横浜寿町』のなかの一文を読んでわかった(後述)。

2007年夏の寿町ツア風景 YさんもYTさんもいる

 その2007年夏の終りに、わたしが深く関係するNPO活動のひとつとして、寿町宿泊見学会を行った。ホステルビレッジに予約してドヤ林会館の5階に泊まった。
 このときも前述のYさんとYTさんにいろいろ案内してもらった。さなぎ食堂で300円定食を食べたのはもちろんである。
 この時のことはわたしのブログのここに書いている。

2007年夏 寿町で泊まったドヤの3畳間

 ホステルビレッジ、さなぎ達、ファニービーという名称の活動と事業の組織があり、このころはなんとなく妙に寿町あたりが上昇している雰囲気があった。それが2000年代初めから半ば過ぎまでのことであった。
 「ドヤの街から宿の街へ」というキャッチフレーズがあった。徘徊の通りすがりに見れば、ホステルビレッジのフロントはいつも賑わっていた。この街にも外国人やスポーツ少年たちの泊り客が行き来するのに出くわしたものだ。ドヤは安宿に変化しつつあるのかと思ったが、今になると実際はそうはいかなかったようだ。

●「横浜寿町」で知ったある顛末

 それから1年くらい後になった頃だろうか、メール情報が来なくなった。徘徊途中の覗くホステルビレジのフロントあたりの賑わいも、あまり見えない感じになっている。いつも見えていたYさんもYTんも、消えた如くに見えなくなった。
 事情を知っていそうな人に聞いても口を濁すばかり。なにか寿町らしい?事件でもあったのだろうか、わたしはそう思って、あい変わらず街の姿観察の徘徊をやってきて、ふたりのことを忘れていた。

 寿町の街は相変わらず貧困ビジネス街として繁盛している様子である。古い中層ドヤビルがあちこちで高層ドヤビルに建て替わってきている。街の中核施設の「寿町総合労働福祉会館」は老朽化で建て替えられて、「寿町健康福祉交流センター」なる名前で立派になった。労働がなくなって健康が入ってきたのが、時代の変化を表して居るのだろう。

1974年に新築した寿町総合労働福祉会館は2016年に建て替え開始


寿町健康福祉交流センターが2019年6月に開館した
 でも、寿公園ではあい変わらぬ炊き出しなどは行われていて、寿町の中身に大きな変化はないらしい。そして今、出版されたのが「横浜寿町 地域活動の社会史」である。それで思い出して、もしかして上記の消えたYさんとYTさんのことが書いてあるかと読んだら、あった。

 そうかそうだったのか、やっぱりなあ、それでYさんは消えたのであったか。「さなぎ達」の集まる場所も消えたし、300円定食の店も消えたのはそうだったたのか。おぼろに想像していたが、どうやら犯罪がらみらしい。わたしが彼に出会った2007年頃にはすでに暗雲がたちこめていたのであったか、2008年に彼は寿を追われたとのこと。

 でもその話に隔靴掻痒の感があるのは、その顛末を記す「横浜寿町 第6章第4節」の筆者の推理小説家山崎洋子さんでさえも、現実の良く知る人間の犯罪がらみは書きにくかったのだろう。いや、山崎さんだからここまで書き得たのだろうか。
 Yさんがが消えたことは書いてあるが、あの女性のYTさんも消えたのはなぜか、とばっちりなのか、まさかと思うが彼女も共犯だったのか。

 そしてちょっと驚いたのは、そこに登場する多様な活動の中心にいる赤ひげ医者のことだ。わたしはそのころはまだ知らない人だったが、いまはこの山中修医師に面識がある。3年前のコロナワクチン注射を契機に、山中さんはわたしの妻の持病治療のかかりつけ医になっている。

 「さなぎ達」という活動組織が、寿町に旋風を起こし、そこの中心人物2人は姿を消し、組織も消えたが、実質的な中心人物として登場した山中さんの医療活動は今も続いている。つまり私にも赤城げ活動が及んでいるのである。どさくさは決して無駄ではなかった。
 「横浜寿町」下巻第6章第4節「NPOさなぎ達の設立」を、そのように読んだのだった。そしてそこに紹介してある「ポーラのクリニックのブログ」で更に深く知った。

 横浜寿町ドラマは、いつも深刻な現実を抱え込みながら、中山さんをはじめとする多くの役者たちが登場して、ひとつひとつ解決させてゆき、地域社会を前進させている。
 そして、その端っこに超高齢になったわたしもいるのだと、妻の診察に付き添って先生の言葉を聞くことで、ようやく分ってきた。

●寿町について次に書いておきたいこと

 ところで、横浜市は都心部の「都市デザイン」で有名である。都市デザインとは街の姿を美しく整えるばかりではないが、さて、横浜都心の重要な一角を占める寿町あたりに、横浜都市デザインはあったのか、例えば首都高速道路と寿町とか、緑のネットワークと寿町とか、なにか関係あるのか、ないのか、それを「横浜寿町」なる書籍の中をさがすのだ。

 また、その本にこのテーマがあるかと探したのは、ゼントリフィケーションである。最近になって高層簡易宿泊所ビル(いわゆるドヤビル)ならぬ高層一般分譲共同住宅ビル(いわゆる高層マンション)が、ドヤ街の中に建ち上った。ドヤならぬホテルの建築計画もある。
 こればかりではないがこの20年に徘徊での観察で、寿町の土地利用の変化を興味を持ってみてきたが、それらの変化がどのような方向に行こうとしているのか、ますますドヤ化が進むのか、次第にいわゆるマンション化が進むのか、ゼントリフィケーションが始まるのか、いやそうはならないのか、どうなるのか興味がある。

(20230517記  つづく