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2022/05/30

1622 【横浜寿地区観察徘徊】簡易宿泊所ドヤ街に登場した新築分譲共同住宅マンションのコンセプトは

 横浜の古い都心部にもう20年も住んでいる。
 年寄りの健康維持のために行く先の宛てもなく近所を徘徊する日常である。経路になる場所はある程度一定しており、それらの順番は日によって気分で異なる。
 繁華街、観光街、エスニック街、ドヤ街、元赤線街、元青線街、裏路地街、急坂町、墓街などなど、単に歩くだけではつまらぬので、キョロキョロと横浜都心風景の変化を追う。
 住宅街は静かだが、何年も同じところを見ていると、じわじわと変わるが実に興味深い。今日はドヤ街の観察徘徊記録である。
横浜都心部の寿町から松蔭町を中心に「寿簡易宿泊所街」がある











 





●寿簡易宿所街は繁盛らしい

 その徘徊住宅街のひとつに、大勢の貧困階層が高密度に集まって、林立する簡易宿泊所(通称「ドヤ」)という低級ホテルで暮らしている街で、通称「寿地区」あるいは「寿ドヤ街」である。
 正確に言えば住宅ではないが、実態は簡宿の泊り客たちのほとんどが住み着いているから住宅街である。実際にその街の風景は、知らない人が街を通ってみると、ワンルームの共同住宅ビルが多い街だなあと思うだけだろう。

横浜寿地区簡宿街メインストリート風景


寿地区簡易宿泊所分布状況


  横浜都心に住みだしてからもう20年、その間に寿町あたりも徘徊観察を続けて、このブログにも折に触れて観察記録を載せている。観察するだけで研究とか活動を一切しないのは、そんな気力がない老人だからだ。寿徘徊はその名称からおめでたい気分になる。

 それにしてもこの20年間、寿町の簡易宿泊所は増えこそすれ、減るようには見えない。ということは普通の住宅に住めない貧困階層は減らないということらしい。古くなった4~5階の簡宿が、次第に10階程度の高層ビル簡宿に建替えがじわじわと進んでいるようだ。
 新築簡宿ビルの入り口あたりに、エレベータ、インタネット、車いす対応等が完備と、時代に対応する設備を宣伝している。特に増える傾向にある老人対応が今の最先端らしい。

2020年1月 5階建て簡宿ビルが取り壊されて空き地に

2021年1月 その空き地に新築高層簡宿ビルが建った

看板アレコレ

●建替えられて高層化する簡宿

 今月(2022年5月)の寿徘徊で見つけた新しい動きのひとつは、周囲を簡宿ビルに囲まれた大きな空き地に、建設工事のお知らせ看板が登場したことである。読めばこれも簡宿である。その規模は10階建て、延べ床面積は2400㎡余とあり、部屋数とか宿泊定員を書いてない。例えば1室をグロス15㎡としても160室、160人くらい寿町の収容力が増えるようだ。

この空き地に新築お知らせ看板が立った

そのお知らせ看板を読むと高層簡宿ビル

 この寿町地区で去年に建て替えた簡宿が、観察徘徊では5棟あり、いずれも4~5階建てだったのが8~10階建ての高層ビルに替った。元に比べてかなり収容数が増えただろう。
 そして今年になって取り壊して空き地になった簡宿ビルが2棟ある。これらもいずれ新たな高層簡宿ビルになるだろう。この貧困ビジネス事業は景気が良いらしい。

 いずれにしても簡宿は簡宿であり、一室が3畳間から6畳間程度便所とシャワー室共用の構成には変わりはないらしい。何しろ泊まる客(実は暮らす客)の大半が生活保護費受給者だから、その収入から逆算して一泊1700円から2000円程度が支払い可能額だから、オーナーの投資もそれに対応するレベルで、できるだけ高密度に建てることになる。

新旧たち並ぶ簡宿ビル群

簡宿の典型的な部屋と基準階平面図

 その証拠には、どの簡宿ビルも同じような建築の姿になっている。中廊下を挟んで両側に3畳か4畳半の部屋がずらりの並ぶプランが標準らしい。
 住宅なら隣との建築の距離が採光通風のために法的に必要だが、宿泊施設はそんな考慮は不要で、隣との隙間もなく建てるから、窓と窓が真正面に向き合う。もっとも、近頃はファサードだけ妙に建築的デザインしている簡宿ビルが登場しているが、その中身はこれまでと同じらしい。
 思うに、その辺のドヤ建築と経営ノウハウは、これまでの長い歴史からしっかりと構築されているだろう。その運営受託を専門にする業者もいるらしい。

モダンぽいファサードデザインの簡宿

 近年はコロナ禍による観光低迷で普通のホテルなら経営難だろうが、ここは毎日を生活している宿泊者ばかりだから、宿泊客はコロナに何の関係もない。むしろコロナによる生活困難者の増加は、簡宿へと吹き寄せられて、宿泊客は増えているのかもしれない。
 ということで、この伝統ある貧困ビジネス街は、どうやら盛況らしい。
 その簡易宿泊所街の中に、この春になんと高層分譲マンションが登場した。

●マンションじゃなくて共同住宅という

 ここでちょっとマンション談議をする。マンションmansionとはアメリカ人に聞いたたら英語の意味は、大統領のホワイトハウスのような広大な庭もある邸宅、つまり日本語ならば御屋敷のことだそうだ。
 ところが日本語のマンションときたら、兎小屋のような狭い住居もあれば、オクションなる超広い住居もある共同住宅ビルのことであり、どっちにしても庭園なんてものはない。このようなビルを英語ではアパートメントハウスapartment houseというそうだから、要するにアパートである。

 ところが日本語のアパートときたら、2階建て程度の兎小屋が並ぶ共同住宅のことだから困ったものだ。もっとも、戦前は中層以上のコンクリ造共同住宅をアパートメントと言っていた。ちょっと高級感があった。
 それが戦後になって中高層共同住宅ビルが登場し、不動産業者がそれまでのアパートメンハウスと差別するために誇大広告としてマンションと言って売り出した。そのうちに世間ではアパートメントは取り残されてアパートとなり、共同住宅ビルはマンションと言うようになった。更に奇妙だが「マンション建て替え円滑化法」なんて行政用語にもなった。

 マンションという日本語には、外国人に話すときにこんがらかるし、業者の誇大広告にのせられるのも癪にさわるし、わたしにはどうも違和感が大きい。建築基準法が言うように「共同住宅」ということにしている。丁寧になら「区分所有型共同住宅ビル」とでも言うか。

●簡宿街の中に一般分譲の共同住宅ビルが建った

 話を寿町に戻して、簡宿街の中に1棟の10階建ての共同住宅ビルが立ち上り、この春から入居が始まっている。ということは、この街の中で普通に暮らしたい家族が大勢住み始めつつあることだ。

周りは簡宿ビル街の中の登場した分譲共同住宅ビル 2022年5月

 もちろんこの街は簡宿専用ではなくて、普通の街として店も事務所も診療所もある。事務所ビルの上層階が共同住宅のビルもいくつかあるし、市営住宅もあるから普通の住宅も少ないが存在する。
 この新登場共同住宅ビルも、じつはその土地には以前に1,2階が民間事務所で3~5階が都市再生機構(UR)賃貸住宅であった。UR前身の日本住宅公団が市街地住宅を幾つも建てているが、そのひとつが建替えられたのだ。

上の写真の共同住宅ビルが建つ前にはこんなビルが建っていた 2018年11月

 寿地区(正確にはこのビルは松陰町にあるのだが)ではかなり大きな敷地の建築であり、それが取り壊された2018年から跡地に何が建つのか興味を持って徘徊観察していた。
 その工事看板に分譲式の共同住宅が高さが2倍くらいなになって登場すると知った。この立地で普通に売れるものだろうかと興味があった。
 先にその結果を書くと、当該共同住宅ビルの公式サイトによると、既に「完売御礼」とあった。どんな販売作戦だったのか気になる。

●外人専用かとカン違いした

 まずはその共同住宅ビルのネーミングであるが、竣工間近らしい2月中頃に、看板など付いただろうかと見に行った。入り口上の壁に「DEUXFLE YOKOHAMA ISHIKAWCHO」とある。また一階壁面の照明器具に「THE LIGHT HOUSE」ともある。元かドアの横に小さな字で内部の施設案内らしいこと掲示があるが、これも全部英語らしいローマ字である。ほかに日本語の掲示を探したが全くない。

どれがこの共同住宅の名前なのだろうか

 おおそうか、外国人専用のAPARTMENT HOUSEにするのだな、なるほどそれなら地域的偏見がない市場開拓でなかなか良い作戦だ。5月初めに行ったら、引っ越し荷物トラックが来て入居者たちらしい姿もあるが、どうも外国人には見えない。

 そのローマ字名でネット検索したらあった。「THE LIGHTHOUSE(デュフレ横浜石川町)」というらしい。各項目のタイトルは英語だが、説明文などは日本語であり英訳はない。内容を読めども外国人専用ではないらしい。
 周りにある簡宿群の名は〇〇荘とか〇〇館とかが多く、なかには〇〇ホテルもあるから、ローマ字だけでしかも読めないDEUXFLEとは、簡宿との差別化の意図があるのだろう。

●販売宣伝文の中の寿地区表現

 デュフレ横浜石川町の住戸構成は、129戸の1LDK~3LDKの専有面積は34.80㎡~75.47㎡で、普通の世帯向けの分譲区分所有型共同住宅、つまり世間でいうマンションである。
 デュフレビルの姿かたちも簡宿とは大きく異なるかと言えばそうでもない。また、いかにも共同住宅に見えるようでもなく、街並み景観を乱すほどの差異化デザインでもない。

簡宿とデュフレがつくる街並み景観

 デュフレ横浜石川町のウエブサイトに、寿町地区(松蔭町も含む)の環境についてどう書かれているか、そもそも書かれているだろうか。いわゆるマンションポエム流の説明が、英語の項目で日本語で書かれている。

 寿町に触れているのはTOWN LIFEの中のAREAページにあった。寿町地区でホステルヴィレッジという地域活動を続けている岡部友彦さんへの取材形式で地域の歴史を語っている。寿町地区ではなくて松蔭町エリアとして、その多様性とコミュニティの存在に触れるが、寿町地区の実像には遠い。

 LIFE INFORMATIONに近隣の公園や公共施設がリストアップされてるが、そのなかに最も近い「寿公園」はない。寿公園では休日に、ボランティアによる貧窮者たちへ炊き出しで食事提供がなされる。

寿公園で炊き出しを待つ人々 2020年元旦
 また、この地区の最も重要な公共施設である「横浜市寿町健康福祉交流センター」も載っていない。そこは市民に日常的に開かれ、広いラウンジには図書室もあって住民たちが静かに昼間を過ごしている。
横浜市寿町健康福祉交流センター
 これらがデュフレ公式サイトに載ってないということで、この共同住宅販売の意図的な寿簡宿街無視の方向を察することができるが、現に住めばすぐわかることだ。

●共同住宅は簡宿を駆逐するか

 わたしの興味は、簡易宿泊所街の中に登場した新たな普通の共同住宅が、これから街に変化をもたらすきっかけになるのか、あるいは何の影響もないのか、である。もちろんこのあたりにこれまでも共同住宅ビルがあるのだが、それらはいずれも寿地区の外郭の幹線道路沿いに面している。四週を簡宿ビルの囲まれてこれほど大きな共同住宅ははじめてである。

 実は今年になってこのデュフレ共同住宅のある通り沿いの2軒の簡宿ビルが取り壊されて空き地が発生している。これらの跡地利用が簡宿の再建か、それとも普通の共同ビルが出現するのか気になっている。
 このデュフレを契機にして、ゼントリフィケーションが始まるかもしれないとも思う。だが一方では初めに述べたように簡宿需要は盛んな様子もある。

デュフレ近くで6階建て簡宿が取り壊されて空き地になった
(追補2022/06/11)この跡地に8階建て簡易宿泊所建設工事が始まった

 






   デュフレの価格を知らないが、ネットスズメ情報に8階75㎡5,930万円(坪単価260万円)とあるが、市場でどの位置かわからない。ネットには投資目的の購入者だろうか、すでに賃貸住宅として市場に出ている。2階、賃料(管理費等)13.8万円(10,000円)、39.63㎡とあるから、㎡あたり約3500円/月である。

 周りの簡宿の宿泊料は、一室6㎡くらいで一泊2000円くらいだから約330円/日、9900円/月である。これはデュフレの賃貸住宅の3倍近い稼ぎになる。荒っぽく見ても不動産運営事業としては簡宿の方が断然に利益が高い。

 ということは現在の簡宿経営者が一般賃貸住宅事業に乗り換えることは、現状では予想しがたい。むしろ分譲共同住宅を簡宿に改造する事業者が登場するかもしれない。
 つまり簡宿駆逐のゼントリフィケーションは起こりにくいことになる。う~む、これって、正しい見方だろうか?

●木造飲み屋街を再開発して

 松蔭町も含めて寿地区の現在の簡宿群は、時代の要請に対応すように内容を変えて建替えられていく。だが気になる街区が一つある。
 そこは細い路地を挟んで、零細な木造2階建て飲み屋が密集して立ち並んでいる。簡宿でさえ堂々たる不燃中高層建築が立ち並ぶのに、この一角だけが取り残されている。見ようによればこここそは横浜戦後混乱期プータローの街の雰囲気を今に伝えている。

飲み屋街 2015年

懐かしいような街並みの飲み屋街 2016年



 



ちょっと怖い雰囲気の飲み屋街路地

 この街区はかつては日ノ出川であり、1956年に埋め立てて街になった。わたしは実情を知らないが、その埋め立ててできた公有地の不法占拠があり、その状況が今も継続しているのだろうと推測する。それならば戦後混乱期の建物が今に続くことになる。

 この街区がその内にどう変わるか、簡易宿泊所が林立するか、それとも共同住宅ビルが林立するか、あるいは公共施設が登場するか、楽しみである。もしもこの飲み屋街の土地が公的所有地ならば、再開発をしてこの地域にふさわしい都心型老人福祉施設を創ると良いのになあと夢想している。

寿地区当たり空撮2018年 google map

(2022/05/30記)

●もっと寿地区を知りたいお方はどうぞ
◎【コロナ正月】寿町・中華街・元町・伊勢佐木へ旧横浜パッチワーク都心新春徘徊2022
◎【コロナ横浜徘徊】コロナどこ吹く風の繁華街とコロナ景気が来たか貧困街2020

2021/12/13

1599 【山口文象作品探訪】旧前田青邨邸・アトリエにようやく出会いその健在を喜ぶ

●ようやく出会った前田青邨邸

 山口文象設計の前田青邨邸(1936年)については、「建築家山口文象 人と作品」(1982年刊行)の年表に小さな写真を載せているが、それ以上のことを知らなかった。
 鎌倉市内に現存すると鎌倉の知人建築家にずいぶん前に聞いていて、まだ現存するかなあと思いつつ、いつか出会いたいと思いながら今日まで来た。
 そして昨日(2012年12月12日)、紅葉の鎌倉でついに出会う機会に恵まれた。

「建築家山口文象 人と作品」(1982年刊行)掲載の前田青邨邸

2021年に出会った旧前田青邨邸の健在姿

衛星写真による旧前田青邨邸 右から居住棟・アトリエ棟・茶室棟

 簡単に近づくことも眺めることも難しい山中の寺院の奥深くにあり、今も住居として昔の姿で生きていた。一部に改変もあるようだが基本的には当初のままらしく、さすがに元の住人の画家・前田青邨に敬意を払った使われ方をしていた。

 建築学的には、案内していただいた建築史家の小沢朝江さん(東海大学教授)の資料に下記の様にある。

・居住部、アトリエ、茶室の3棟で構成
・関与した大工・山田源市は、三渓園白雲亭、西郷邸(原三渓長女の住宅)、和辻哲郎邸などを手掛け、田舎家を得意とする
・切妻造・桟瓦葺で、妻側に梁組を見せる、ただし、柱や梁は細めで簡素。
・居住部:応接間は椅子座。長押や鴨居を略して壁で構成。作り付けの棚も幅が狭く瀟洒。
アトリエ:面皮柱や大面取の長押、間隔が狭い竿縁天井、簡素な板欄間など、すっきりとした構成。床の間は高さの無い踏込床。落掛を間口いっぱいに掛け、床板を内側にずらす。
茶室:古材を利用、古材や煤竹に合せて新材や障子も古色をつける。なぐりや丸太を多用。壁床・長炉・野郎畳も田舎風。山田源市の好みが強いか。茶室だが内椽を持つ点、点前座に付書院と仏壇を儲ける点が異例。

●前田邸・林芙美子邸・山口文象自邸

 山口文象の1940年の作品に、小説家林芙美子邸と自邸がある。
 林芙美子邸の居住棟とアトリエ棟の2棟を並べて建て渡り廊下でつないだ配置と姿は、前田青邨邸によく似ている。
 前田邸には東から居住棟、アトリエ棟そして更にその西に茶室棟が付くのだが、この茶室は見えがかり材に古色を施し、一部に古材も使っていて田舎民家風であるのが興味深い。

 実はその4年後につくった山口文象自邸が、全くの田舎民家風であった。もちろんプランは近代建築そのものだが、意匠は内外ともに見えがかり材には黒く古色を施し、連子格子窓や民芸風照明器具もあった。この民家風デザインが前田青邨邸にもあったことにちょっと驚いた。山口に民家風デザインはこのほかには無いはずだ。
 岐阜県中津川出身の青邨が、故郷の田舎家風デザインをリクエストしたのだろうか。

 山口の言によると、富山でダムや旅館の仕事をしていたころに現地で民家デザインに惹かれたとのことだが、前田邸も自邸も建築系の雑誌に発表することは無かった。
 そもそも幾つも設計しているはずの和風住宅を、ほとんど発表をしなかった。大工棟梁の家に生まれて身にしみこんでいた和風建築は得意だったが、モダニズム建築家として売り出したからには裏芸としておきたかったのか。

●前田青邨と山口文象の縁

 前田青邨と山口文象との関係は、たぶん、創宇社建築会建築会活動で、多くの美術家たちに出会ったことによるのだろう。安井曾太郎のアトリエの設計もしているから、そのあたりから前田につながったのかもしれない。

 山口文象が帰国して日本歯科医専校舎でデビューして売り出したころに、前田の長女と結婚したという深い因縁にある。有名画家の娘と新進建築家の結婚として、今でいえば女性週刊誌で当時の女性月刊誌がインタビュー記事にしているのが面白い。
 ブルーノ・タウトの日本日記に山口文象と前田青邨の名が何度も登場するが、山口から前田の長女との結婚式に招かれておおいに困惑する話がある。

 山口建築事務所の最初の所員だった河裾逸美さん(創宇社建築会メンバー)から直接に聞いた話だが、結婚して芝白金に事務所と住まいを構えて、夫婦は日中はいつも遊びに出かけ、夜に戻る所長に仕事の指示を受ける生活であったとのこと。
 3年半で破局するのだが、それは山口の才能を見込んだ青邨が跡取りにしようとして山口が反発したことが原因らしいと、これも河裾さんと山口の弟の山口栄一さんから聞いた話。

●山口文象作品木造住宅の現在

 山口文象作品で今も存在する和風住宅建築は4件あるが、このほかに昔の姿のままの建物は、寺院の茶席になった「宝庵」(旧関口邸茶席)と、行政の博物館施設となった「林芙美子記念館」(旧林芙美子邸)の3件のみ。
 もう1件は「山口勝敏邸」(旧山口文象邸)だが、これは山口自身によって大幅に改造されている。
 数多くあった木造洋風住宅は今や一軒も存在していない(と思う)。軒出が無くて勾配の緩い屋根は雨の多い風土では無理だったらしい。

 前田青邨邸の現状については、今も生活の場だから詳しくは書けないので、どうでもよい周辺のことを忘れないうちに書いておいた。
 70年代から続けてきたわたしの山口文象追跡は、これで遂に終わりを迎えたらしい。

(2021/12/13記)

参照:・建築家山口文象+初期RIA
   ・前田青邨邸







2020/07/06

1475【横浜コロナ風景その2⑤】横浜馬車道商店街の変化はコロナにあまり関係無さそうだが、、

 横浜コロナ風景その2④横浜元町からのつづき

 コロナ緊急事態で不要不急外出自粛要請される日々、それなのに横浜都心の繁華街を3日にあげす不要不急のご近所徘徊をしている。これはコロナ前からの日常そのままを続けているにすぎないのだが、コロナで街がどう変わるか新しい興味が加わった。
 そしてコロナ出現でにわかに人出が見えなくなった街を見て、単なる好奇心からの感想を書くこのシリーズは、これまで赤レンガパーク、中華街、元町とやってきたが、今度は「馬車道商店街」である。

 馬車道商店街のコロナ緊急事態最中の状況は、人出はかなり少ないのはたしかだが、中華街や元町のようにほとんど無人の街ではない。それなりに人がいる様子である。どうも印象としては、コロナ前と極端な違いがないような気がする。
 人通りがわずかなのに何故そう思うのか、自分でも不思議である。関内ホール前広場のベンチに座り込んで眺めながら、ちょっと考えた。
 その変らなさの原因は、歩道に緑が多いので、元町のように人通りの見通しがきかないせいなのかもしれない。また、ここは歩行者専用道路ではなくて、自動車の行き来がけっこうあるので、コロナ最中の商店街にも動きがあることによるかもしれない。

 そもそもコロナ前の馬車道は、人通りが多かった記憶が、わたしにはない。でもさびしかった記憶もない。中華街の喧騒はもちろんないし、元町のウィンドショッピング型の人出もない。
 もっとも、わたしは買い物や食い物にあまり関心がないので商店街の店の客になることはかなり稀である。馬車道商店街には、博物館と関内ホールとギャラリーと古本屋くらいしか用がない。店や人通りにあまり興味がないから、商店街としての記憶が薄いかもしれない。
32年前の馬車道風景 1988年11月23日
29年前の馬車道風景 1991年2月8日

27年前の馬車道風景 1993年5月11日

16年前の馬車道風景 2004年10月2日
 わたしはここの街並みを好きである。中華街や元町のような風景が一律になっているよりも、ここは品の良い多様さがある。それぞれ多様な一般の商業建築にすぐれたものはないが、要所に県立博物館、関内ホール、日動ビル、旧富士銀行などの公共施設や歴史的建築物があり、防火建築帯の共同ビルもあって、全体として街並みが一種の風格を見せている。
道路空間と建築セットバック空間とが、外部デザインとして、快く作りこまれているのもよい。よそから来ただれかを商店街に案内するとしたら、ここにしたいと思う。
コロナ緊急事態下の馬車道 2020年4月14日

同上 2020年5月17日

コロナ緊急事態解除直後の馬車道風景 2020年7月2日
同上 2020年7月2日


 ところで、コロナ前の馬車道では、街並みに大きな変化が起きようとしていたことを思い出した。横浜都心では関内と関外の主な通り沿いに、戦後復興期に計画的に建設した「防火建築帯」が数多くあり、これらが都心街並み景観形成に大きな影響を持っている。
 防火建築帯には単独ビルもあるが、複数の隣り合い連続する地権者たちによる3-4階建ての共同ビルが多い。それらは一階に表向きに小規模な店舗が並んでおり、全体は間口も広くて特徴的である。

 馬車道通りにも早川ビル、馬車道会館、商栄ビルなどの防火建築帯共同ビルがあり、連続する街並みを特徴づけている。
 「商栄ビル」は、馬車道通りに面して間口が一街区分あり、3・4階は共同住宅、1・2階に6店舗があり、街並み景観の特徴となっていた。3年ほど前からこれを建て替えすることになり、ながらく空き地そして工事仮囲いとなっいて、商店街の連続を断ち切っていた。この商店街の街の中心部であるだけに、これが街を寂れさせていた観があった。
60年ほど昔の商栄ビル(『BA』12より引用)

16年前の商栄ビル 2004年10月2日
 商栄ビルがなくなって塀ばかりでくつまらなく思いながらも、新しいビルでどんな商店街としての街並みが再出現するのか楽しみだった。
それがコロナ禍の真っ最中の今年になって完工したようだが、なんと4つの高層ビルに分かれている。共同ビルを解消したらしい。
 馬車道沿いの2棟の一階には馬車道に面して外向きに、処方箋薬局、小さなファッションブチック、またも処方箋薬局と3店舗が並んだ。こんなに薬屋が必要なのかと思う。6店が3店に減って商店街としては寂しくなった。
 だが、高層となって上層階にたくさんの共同住宅が乗ったから、それなりに商店街の客が増えたのかもしれない。
商栄ビルは4つに分割して建て替え、馬車道側の2棟 2020年4月14日
同上の2棟の馬車道側にセットバック歩道が出現 2020年5月17日
 関内ホール前ベンチから、コロナ緊急事態が終わったこの街のこの新ビルの前の人通りを眺めても、人出が特に戻ってきた雰囲気を感じない。改めて街にある店を眺めてみると、飲食店が結構多いのに気が付いた。まったくグルメじゃないからわからないが、居酒屋もあるが、なんだか老舗のような癖のある飲食店も多いようだ。そこが元町とは違うし、この後で行く軽薄な伊勢佐木モールとも違うようだ。

どうも、コロナというショックの視点からこの街をとらえにくい。コロナ前、コロナ中、コロナ後もあまり変わりない感じ(あくまで個人的な感じ)で、それはこの商店街の何を意味するのだろうか。
 このさき、そう遠くないうちに、早川ビルも馬車道会館も、商栄ビルのように建て替えられるだろうが、さてそれでどうなるだろうか興味がある。そう、コロナがこの街の不動産的変化にどう影響するのか、しないのか、興味がある。
防火建築帯のひとつである馬車道会館 2020年7月2日

 あ、そうだ、昔々、馬車道で奇妙な女性を見かけた記憶を書いておこう。それは1980年代半ば頃だったろうか、何かで通りかかった馬車道、あるビル前の小広場の椅子に頭も顔も衣装も真っ白づくめで、異様の厚化粧女が座っている。いや、頭髪は紫色だったかな、若くはなかった。
 その後にも2回だったか同様に見かけて、横浜という都会には不思議な人がいるもんだと思った。ずっとのちに通称浜のメリーなる数奇にして奇矯なる娼婦であったと知ったのは、五大路子が彼女をモデルにした演劇で話題となった1993年だった。
 その場所は、りそな銀行(当時は協和銀行だった)があるビル前の、セットバック歩道だったような気がする。あるいはアートビル前だったか。そう、馬車道が演劇舞台であった。
浜のメリーさんがいた記憶がある場所 1988年11月23日
さて次は伊勢佐木モールへ。   (つづく

追記2020/07/19
 最近になって、伊勢佐木モールでちょくちょく出会う不思議な格好の女性がいる。これが、なんだか浜のメリーさんが生まれ変わって出てきたかと思わせる雰囲気なのだ。
 大柄な女性(だろう)で、派手な色彩ではないが、短い丈のひだが多くあるスカート、襟周りにもヒラヒラが付いているブラウス、頭にはリボンと帽子が載っている。
 どうも女性の服装をうまく言えないが、まあ、コスプレである。それはまるで小学生が着飾って誕生会にでも行くようだ。モールをしゃなりしゃなりと流していく。
 顔を見れば、その皺の様子はけっこうな年齢の様だ。わたしが昔々に浜のメリーさんを見かけたときも、顔を見てエッと思ったものだった。
 

2020/02/06

1442【国家試験】昔々わたしも建築士と技術士の試験を受けたなア

●一級建築士試験には1回で合格
 Twitterに昨日(2020年2月6日)から、一級建築士試験合格した乾杯とか、また落ちた涙とか、悲喜こもごもtweetだらけ、そうか、今はそのシーズンなのか。
 わたしの時はどうだったか思い出せば、60年代中頃だったかなあ、1回で合格した。卒業後2年の実技経験で受験資格が発生するが、その年に受験するのに気がつかず、次の年の受験した。
 受験の動機は、所属の設計事務所での給与に資格給がつくから、その金を欲しかった。

 今のように学科と製図は別試験ではなくて一体だった。製図は楽だったが、学科には弱った。もう内容を忘れてしまったが、問題は5つから正解を1つを選んで番号に〇をつけるのだった。それがたくさんの問題の飛び飛びに3分の1くらいしか解らない。
 あとを埋めるには、出題者の心理を読んで、同じ番号を続けて解答にしないだろうと、〇の位置をばらまいた。これじゃあとても合格無理と思ったら、意外にも合格だったから、作戦成功。

 給与がちょっぴり上がったが、仕事上では必要なかった。自分の名で建築確認申請書類を出したのは、60年代半ば設計の父の家と、70年代半ばの自宅だけだった。
 必要もないのにその登録番号を第47879号(死ねば泣く)と記憶しているのはどいうわけか。ネットで調べたら現在では373490人登録だそうだ。

●技術士試験には面接で失敗
 そして90年代末からフリーランスの都市計画家になった。一級建築士の資格はあるとしても、都市計画の国家資格が必要になるので、技術士(建設部門 都市及び地方計画)の試験を受けた。
 わたしはもうベテランになっていたから、なんの事前勉強もしなくても合格する自信があった。実はそうではなかったのだが、。

 1次の筆記試験で、あれは夏、青山学院の冷房でない古い教室で、暑かった。前半はらくらくだったが、後半の論文で困った。長い論文を書くのにいつもはワープロのキーボードを打つのに、鉛筆でシコシコと書くものだから、手が痛くなってしまった。
 この1次試験に合格、合格率は1割くらいだった。

 2次試験は面接である。試験官二人よりもわたしのほうが年上である。どちらとも直接面識はなかったが、ひとりは建設省官僚の都市計画課の緑地担当者だった。
 いくつかの質問に、自信もってとうとうと答えた。ところが不合格、これには仰天した。現場主義のわたしの仕事で人と話すのは得意だったし、歳が歳だから専門分野の知識はある。不思議である。いったい何がいけなかったか、一生懸命に考えた。

 当時リゾート法が話題になっており、それについての意見を求められ、自然破壊や地域との軋轢が生まれて大きな問題になるだろうと指摘したのが、建設省の試験官の気に入らなかったのだろうと思いついた。リゾート法はのちにそれで失敗した。
 この面接で落ちるという合格率は1割くらいだったから、わたしは1次も2次も難関を突破したのであった。なんだか馬鹿らしくなった。

●2回目の技術士試験面接合格
 それでもフリーランスとしては資格が必要なので、次の年に2回目に挑んだ。当時はまた最初の1次試験から受ける必要があった。
 この時も1次の筆記試験に合格、さて問題は2次の面接である。今度も不合格ならもうやめると考えた。
 それでもさすがに嫌いな事前勉強をしようと考え、八重洲ブックセンターで2次試験参考書を、立ち読みした。そこに意外なことが書いてあるのを見つけて、昨年の不合格原因が明確に判明した。
 面接試験で技術士の倫理について必ず問われるから、技術士法第44条から46条を答えるべし、と書いてあった。あれ、これ去年聞かれたぞ、技術士法なんて読んでないな。

 確かに去年の面接で聞かれた。だが、わたしは「技術士」ではなくて「技術者」の倫理と聞き、技術者のあるべき倫理や役割などをとうとうと述べたのであった。今どき大臣の国会答弁である。
 試験官は困ったにちがいない。言ってる内容はごもっとも、問うたのはそれではないんだよ、時々こういうのがいるんだよなあ、って嗤いつつね、。

 そうして2回目の面接試験に臨んだ。試験官の一人は、ある委員会で面識のあるT大学のT教授だった。「これは聞かなければならないことですが、、」と前置きを付けて、技術士倫理についてご下問があった。
 待ってましたあ、とうとうと答えた。もちろん今度は合格、立ち読み事前勉強が役に立った。ずっとのちにT教授にこの話をしたが、もちろんご記憶になかった。

●受験勉強や習い事を嫌い
 昔もあったのかもしれないが、これらの国家試験事前受験勉強について、民間の受験スクールが繁盛しているらしい。
 わたしの二つの国家試験は、上に書いた本屋での立ち読みのほかは受験のための勉強を一切しなかった。自信があるのではなくて、国家試験というものはそういうものだと思っていた。それは既にその専門課程の大学を卒業し、一定の力量がある者をその力量に応じて免許を与えるのだから、力量がないのは受験資格がないと思うのだ。

 いまどきは国家試験準備でも趣味の遊び技術体得でも、人様に金を出してナントカ教室に通うのが普通のようである。
 例えばテニス教室なんてのは、私に言わせるとやんちゃらおかしい。あんなのはラケット振り回してれば自然にうまくなるもんだよ。パソコンだってそうだよ、キーボードたたいてりゃ何とかなるもんだよ、わたしのように。 

 わたしはどうも人様から習う勉強を嫌いである。大学までは仕方なかったが、その後に何かを教室で習うことをしたことがない。
 大学入学試験でも、準備の受験勉強するのは邪道だと思ってしなかったら、失敗した。でも大学浪人中は自宅で自主勉強をして次の年に合格した。前年にわたしを落とした大学に腹を立てて別の大学に替えた。思えばこの時のことが教訓になっていなかったから、技術士試験で失敗をしたんだな。

 だがなにごとも例外はある。わたしの人生における唯一の習い事は、能楽の謡を野村四郎師(今では人間国宝)に20年間も個人教授してもらったことである。
 習うのは嫌いでも、大学で教えることはしてきた。しかしデスクワークよりも現場に出ていくことをメインに据えていた。

2019/09/27

1421都市プランナー田村明の呪い…いつだれが解くだろうか

都市プランナー田村明の呪い
いつだれが解くだろうか
伊達 美徳

●横浜B級都心生活街暮らし

 都心隠居と称して横浜都心部に住み、地上20m空中陋屋借家から地上に降り下って街を徘徊する日常である。
   三方を丘に囲まれて一方が港のこの街は、19世紀半ばの開港後に形成されたから、歴史的にはたいして古くはないが、わたしは出自は建築史で、建築設計の後に都市計画に転向して飯を食っていたから その眼で見ると実に多彩で興味が尽きない。
 近ごろは横浜都心に観光来街者がものすごく多いのだが、それは港の辺りや中華街の関内エリアばかりであり、わたしの隠居する関外エリアはごく普通の商住混合の生活街である。アジア系外国人住人が多いのが、いかにも港町横浜らしい。

 徘徊には、そのA級観光街の関内にも行くけれども、むしろ人間臭いB級生活街の関外である。興味深い場所の例を挙げると、現役ドヤ街の寿町、元娼婦街の黄金町、昔の永真遊郭街、下町日韓エスニック横浜橋商店街、現役風俗店街の曙町、高架道路下の石川町三角街と堀川・中村川、あちこちの戦後復興の防火建築帯を辿るのも面白い。
 高層共同住宅が多い普通の都心生活街だが、なんとも奇妙な個性的な味があちこちに埋め込んであるので、歩き飽きず見飽きないのである。
横浜都心部

●石川町三角街

 さてその中で石川町三角街(わたしが勝手に名づけた)をここで紹介する。そこは関内と関外の境目で、堀川・中村川に接するあたり、JR石川町駅前で、1970年代以降に都市計画で造った街である。空から見ると3角形の街であるが、三角が大きすぎて地上ではそうとわからない。

 ある日の徘徊中に広い駐車場に四方を囲まれた中に、金網で囲った小さな児童遊園を発見した。こんな悪環境で子供を遊ばせるのかと不思議に思い、ちょうど出てきた子連れの母親に聞いたら、近くに建っている大きな高層共同住宅(通称マンション)と駅の下にある保育園の専用の遊び場だと言う。開発関連の提供公園らしい。

 見まわせばぐるりと高速道路の高架でとり囲まれていて、ここは首都高速道路石川町ジャンクション真っ只中である。どちらを向いても自動車走行の騒音と振動がひっきりなしに降ってくるし、目に見えないが排ガスもすごいに違いない。高速道路だから昼も夜もそうだろう。
   それに加えて鉄道高架もある。こんな悪環境の中の高層共同住宅に子供と共に住む人がいるのだと驚いたが、その母親には言わなかった。

山手のイタリア公園から俯瞰する横浜都心部

首都高羽横線と狩場線の石川町ジャンクション三角街

首都高と鉄道高架の中の街

都市計画がつくった街

 ここは首都高速道路の横羽線と狩場線の2ルートが出会って、三角形のジャンクションを構成している。地下から出てくる路線と、空中を走る路線とが高架でTの字に出会うとともに、地上からの出入りランプウェイもあるから、道路は平面的には3角形だが立体的には地下地上空中で重層交差する複雑な形状で、数十匹のトグロ巻く蛇のスパゲッティである。

 その三角地を首都高の高架道路の城壁が囲み、中には都市機能がそろっている。JR根岸線高架鉄道と石川町駅、商業施設つき超高層共同住宅ビル、中小共同住宅ビル、学校、保育園、小店舗、葬儀場、児童遊園、大駐車場、一般道路、河川等が、どうみても都市計画的とは見えない配置で建っている。この街には城壁をくぐって入る。
 この高速道路が都市計画事業であることから、そのなかの土地利用も都市計画によるだろうから、つまりこの三角街は横浜の都市計画の産物であるはずだ。
駐車場と高速道路高架の中に建つ高層高額共同住宅ビル
トグロの中の高層高額共同住宅

四百戸の超高層オクション

 これ等の中で高層住宅と学校が、主な大規模な施設である。生活と教育の場という都市の重要な機能を持っている街であることがわかる。
 それらがこのジャンクション(1990年開通)ができる前からあったのかと調べたら、どちらも後から建ったのだった。高層住宅ビル(2001年完成、23階建て、395戸)は高速道路の蛇にトグロ巻かれて建ち上っているが、実はトグロの中に自分から入り込んだのであった。そのような中の住宅での暮らしは、どのようなものだろうか。

 最近の中古販売広告に、この高層住宅が通称オクションで売り出されているのを見つけた。この騒音・振動・排ガスの中にあっても、駅前の便利さを買うのだろうか、元町や山手に近いのがイメージ誤解をよぶのか。
 実は横浜都心の中でこの場所は、この劣悪環境もさることながら、すぐ隣は寿町ドヤ街であって、決してイメージは高くないから、なんとも不思議きわまることである。
鉄道高架と高速道路高架の谷間に建つ小・中学校

●生徒六百人の小中学校
 
 学校(2010年、幼稚園、小・中学校、生徒592人)は、山手の静かな環境にあったのを、わざわざこの悪環境に移転してきたのだそうだ。変形三角敷地にある校舎と校庭は、2辺を高速道高架に、もう1辺を鉄道高架に囲まれている。教育環境としてこれがよいのだろうかと思う。
 JR駅前だから生徒集めの学校経営上で好ましい立地として選んだのかもしれないが、このような悪環境で学ぶ子供は、もしかしたら都市計画に目を向けてくれるかもしれないと期待するしかない。

 その学校敷地の一辺の高速道路を隔てた外側には大きな公園があり、これはジャンクションと合せて作った都市計画公園だろう。土地利用の常識からは、この公園を学校用地に、今の学校用地を駅前広場と公園にするべきだったろうと思う。
 この公害溢れる三角街の中に、六百人余の幼児児童生徒が毎日やって来るし、五百戸ほどの大小共同住宅に千人以上が住んでいることになる。都市計画で高速道路はつくったが、土地利用には計画性がない悪例だろう。

●上空を覆われた河川

 ジャンクションの高速道路は高架だけではなくて、地下から高架に登ってくるルートとのとりあいになっているから、地上部にもかなり高速道路があり、半端な残地もおおい。せめて高架下や残地を緑地や公園にすればよいのだが、どこもかしこも空いているところは裸の駐車場ばかりで、なんとも殺風景きわまりない街である。石川町駅前にはせっかく広い公開空地を設けてあるのだが、その上空は高速道路で覆われている有様である。

 ジャンクション高架の三角形の1辺は、堀川・中村川の上空を覆いつつ、港方面と内陸方面の2方に延びる。川の上の高架は水辺の環境保全にも景観上でも邪魔なばかりか、川沿いの住宅地に騒音排ガス振動を振りまいている。川の両岸に高架を支える柱を建てて上空に高架道路をべったりとあるいは2段構えに通しているから、まるで大きなムカデが川の上を跨いで居座っている感じである。川に架かるいくつかの歴史的意義のある震災復興橋梁などの特色あるデザインも、これでは台無しである。

首都高が股を広げて上空を覆った堀川(元町付近)

首都高が上空を2段構えに覆う中村川(中村町付近)

参考:首都高に覆われていない大岡川の春

●都市プランナー田村明の仕事だった

 さて、なぜこのような奇妙な街が横浜都心に、都市計画によってできたのだろうか。それはたぶん、街を作ることは二の次にして、高速道路をつくることを主目的にしたからだろう。ジャンクションの土地の大部分は国有地と河川敷きだったから、まわりの少ない民有地も含めて街区再編成による適正な土地利用策があったろうにと思う。

 高速道路は都市計画事業でありながら、その土地利用はこんな奇妙な状況であるのは、まさに都市プランナーが不在であったのだろう。その横浜で都市プランナーと言えば、田村明である。横浜市在職中(1968~81年)に飛鳥田市政の下で横浜の街づくりに腕を振るった人である。
 田村が、都市プランナーとして采配を振ったいわゆる6大事業のひとつに、この高速道路計画があった。このジャンクションはその一部である。田村はこの石川町ジャンクションづくりに大いに関わったのである。

 このジャンクション開通は、田村が横浜市を去って9年後だが、その計画段階で石川町にジャンクションを決め、堀川・中村川の上空に高速道路を通すことにしたのも、まさに田村明が深くかかわった仕事だった。
 田村がこの計画に取りかった時にすでにルートは都市計画決定されていた。横浜駅・桜木町方面から大岡川を越えて、関内関外の境の派大岡川上空をJR根岸線に並行して石川町に至り、堀川の上空を港方面へ抜ける高架のルートだった。そのルート上の関内駅前の上空位置にジャンクションを設けて分岐し、大通公園の上空を内陸部へ南に伸びるルートをつくる計画であった。

 この都心部上空をTの字に横切って走る高架構造物が、関内関外の都心市街地空間を3つに分割し、しかも都心部の真ん中に三角のジャンクションができるのである。これには地元商店街はもちろんだが、当時の飛鳥田市長が「眉間の傷」になると言って大反対、田村がその解決にあたったのであった。
高速道路都市計画既決定ルート 中心部の三角が眉間の傷
(『都市プランナー田村明の闘い』田村明2006年より)

●田村明の闘い

 田村はこの都市計画決定していた派大岡川上空のルートの、分岐ジャンクションの位置を関内駅前から隣の石川町駅周辺に、そして分岐ルートを大通公園上空から堀川・中村川上空のルートに、それぞれ変更したのである(1970年都市計画変更決定)。同時に、派大岡川上空の高架としていた高速道路を、高架ではなく川を空堀にしてその底に通すことにした。
  その頃の都市計画決定権限は横浜市にはなくて県にあったが、事実上は国の建設省にあったから、横浜市長の意思による変更は難しいことだったが、田村の大仕事だった。

  こうして高速道路を都心周縁部に追いやって都心心臓部の景観の保全をしたのであると、この変更の目的を田村の自著にしっかりと書いている。詳しくはそちらに譲るが、飛鳥田市長に外から迎えられた都市プランナーが、市庁内の抵抗を納め、建設省テクノクラートの圧力を乗り越え、対案を検討して実現計画に至るのだ。もちろんこれは市長の強い意向のもとにインハウス都市プランナーとして田村が動いたのである。

 田村の自著だから当然のことに田村からの視点による計画評価であって、建設官僚側の考えはよく分らないが、官僚をヤッツケタという書きっぷりが痛快である。だが、どんな案がどのように検討されたか詳細が分からないから、どこか一方的な自慢話の感もある。
既決定都市計画を変更後の高速道路のルート(1970年変更決定)
(『都市プランナー田村明の闘い』田村明2006年より)
実現した都心部高層道路ルートを俯瞰  
左から地下を来て横浜球場右辺りから地上に出て中村川上空の高架となる
 しかしながら現実を見ると、それでうまくいったとは言えないのである。高速道路が地下のまま都心を抜けるのではなく、途中で地上に出てきて石川町駅と堀川・中村川あたりは、トグロ蛇と巨大ムカデが街の周りも上空も覆ってしまっている。関内関外の区間の半分以上は上空に高架が走るので、その周辺の環境と景観は大きく損傷したのである。

 そしてこの変更計画を選んだ田村もそれを予測しており、こう書いている。「中村川の上を通るのは景観的には問題だが、他の案よりはましだ(『都市プランナー田村明の闘い』田村明著2006年 学芸出版社 84ページ)
 さてこれをどう考えようか。

●変更前ルートのほうがましだった

 田村は気軽にこう書いたのではなかろうが、「ましな案」は都心部を鳥瞰したときにはその中枢部の傷(眉間の傷)にはならないが、こめかみと片頬の傷になっている。
 そのこめかみと頬の地の住民は、「ましな案」によって傷ついたのであるが、実はわたしも若干ながらもその傷を受けているひとりである。

 わたしの住む空中陋屋のバルコニーから眺めれば、200mほど向うに中村川上空の高速道路が山手の緑の景観を横断し、行き交う大型コンテナ―トラックの騒音が日夜聞こえるのだ。この10年ほどで高速道路の手前に建った高層共同住宅ビル数棟が、遮音壁となってくれて騒音は減った。だが、その騒音・振動・排ガスを受け止める共同住宅を、わざわざ買って住む人たちがいるのが不思議である。
わたしの住いから見る山手の緑を上下に分ける中村川上空の首都高高架
 
 わたしから言えば、あの高架が既決定ルートの大通り公園上空にあれば、わたしの家からそちら側は高層ビル群で視界が遮られているから、騒音は全く聞こえないはずだった。
 もしも今、わたしがここに住んでいて、この都市計画変更の騒ぎが初めて起こったとし、今現実になっている変更ルート案が出されたならば、わたしは地域エゴイズムとして反対運動にかかわっていただろう。

 これは鳥瞰的な行政計画に対して、虫の目的な住民の立場である、と書いて思い出した事件がある。飛鳥田時代の横浜で起きた「横浜貨物線反対運動」である。地域エゴイズム正当論を振りかざし、直接民主制を標榜する革新市政と真正面対立した市民運動が、1960年代中頃から15年間も続いた。田村がこれに関わったのかどうか知らないから、これ以上は書かない。(参照:『いま、「公共性」を撃つ : 「ドキュメント」横浜新貨物線反対運動』新泉社 1975年)

 ●田村明の呪い

 田村明が「他の案」という変更計画ルート案はいくつもあったことだろうが、詳しくはわからない。それらの中には、石川町ジャンクションも堀川・中村川上空ルートも、全部を地下にする理想案が、当然あったろうと思う。
 例えば、派大岡川の空堀から地下で石川町へそして中村川の下を抜けて、山手の丘の中にトンネルで高速道路を通す案があったかもしれない。だが残念にも、そこまでもの変更をできなかったのだろう(たぶん)。

 これで連想するのは、東京の眉間を傷つけた日本橋川上空の首都高を、いまになり地下に潜らせる計画である。この地下化計画は環境アセスメント手続き中と聞くから、実現に進んでいるのだろう。ならば、横浜の首都高だって地下に入れてほしいものだ。ついでに書くが、わたしは日本橋の上だけでも高架橋を保存して、高度成長時代の記念碑にすべきと思う。東京駅の悪例のように、善意のつもりの復元で、近現代史を忘却してはならない。

 誤解のないように附記しておくが、わたしは田村の計画が失敗したと非難しているのではない。田村でも頑張りきれなくて残った高速道路の高架がもたらした街の姿は、田村に言わせれば、都市デザインの分らぬやつらに任せておくと街はこうなるのだと、後世(現代)のためにワザと地獄絵を実現させたのであろう。これは田村が後世に向って「これを解いて見よ」と、かけた呪いなのだ。

 そして地獄絵の出現から30年もの今、その呪いを解いて極楽絵に変える力ある都市プランナーが、横浜市にはいるにちがいない。おりから東横線跡の高架活用プロジェクトが動き出したから、首都高跡高架活用も構想していることだろう。(2019/09/25)

(現代まちづくり塾『塾報』50号2019年9月号に掲載、一部補綴してここに掲載)

参考記事