島田紳助なる芸人がいて、暴力団の人と付き合いがあるのがばれて、引退するというニューズ。
TV番組をめったに見ないから知らなかったが、新聞の写真を見て、いつだったか骨董品の鑑定の番組に出ていた人だと気がついた。
そのときは、なんとまあ品のない口ぶり、ついでにお顔のほうもお品のない方、何者だろうって思ったものだ。
新聞によれば、そんな人がいくつものTV番組を司会する人気芸人だそうである。
まあ、どうでもよろしいが、全国紙の読売新聞は第1面の記事なんですね、しかも「さん」付けですよ。
朝日新聞も社会面の半分も占めているんだからなあ、よくわからん。
記事の中身が奇妙だと思ったのは、ひとつは、暴力団がいけないのではなくて島田なにがしが付き合ったのがいけないというニュアンスであることだ。片一方にずれているような気がする。
もうひとつは、芸人当人は悪いこととの自覚はまったくないらしいことだ。上から言われたので悪いことらしいと気がついたので、いさぎよく引退するって、なんだか粋がっているらしい。
引退といえば菅さんを連想するが、彼はなんで首相引退するのだろうか。
暴力団と付き合ったのかしら、なにか失言でもしたのだろうか、それとも大失政でもあったのだろうか、相撲取りみたいに八百長したのかしら、内や外からの政治屋・新聞屋にたたかれて、もういやになったのだろうか。どうもよくわからん。
あ、そうか、日本の首相は1年で引退ってルールがあるんだっけな。
で、次は誰なんだろうか。
芸人島田の引退した後の番組の司会業を引き継ぐ人は、今度は顔と口に品のあるゴ清潔なお方なんでしょうね。
でもなあ、芸人が清潔でイケメンじゃあ人気でないよなあ、昔から無頼と芸人とは紙一重でしょ。
首相のほうの後継も、なにとぞ品のある口とお顔の方になっていただきたいものである。
アンチャン顔のお方では困るのである。こちらは芸人じゃないんだからね。
ま、どうでもいいけど、どうぞご勝手に。
引退の話の追加(110826)
アップル社のスティーブ・ジョブズが、病気療養のためにCEOを退くのだそうだ。天才経営者と言われる人も、病には勝てない。その年齢が56歳、まだ若い。
で、あの島田某の年齢が55歳である。まだ若い。
お粗末引退芸人と比較しては、ジョブズが怒るだろうが、たまたま同時期に起きたので、ついその顔つきとか言動とか評判とか比較してしまった。
2011/08/24
2011/08/23
480ネパールからモティさんがやってきた
ネパールからモティ・マハジャンさんがやってきた。
モティさんは、カトマンヅ日本語学院の教員である。今年3月末から4月にかけてわたしが遊び仲間とネパール旅行に行ったときに、通訳兼ガイドをしてくださった。
国際交流基金による日本語研修を受けるために来た。埼玉県に研修宿泊施設があり、50カ国程度から90人ほどの研修生が、遠くは南米コロンビアからもいるそうだ。
モティさんはもう4回目の来日、横浜はまだというので、研修が休みの土・日曜日に、関東南部から行ったF、Y、Dの3人が横浜の港の街を案内、Fが自宅に宿泊招待した。
元町を歩いていて、モティさんが突然立ち止まって店の看板を見ながら、このパン屋さんのご夫婦をネパールで案内したことがあるといい出した。
閉店直前の店に入り、確かめたらまさにそうであった。そこを訪ねる予定はなくて適当に歩いていたのだから、まったくもって国際的偶然であった。
数日前の休みには、研修生仲間の数人で富士山にも登ったという。モティさんはヒマラヤのある地の人だから、富士山の登りははたいしたことはなかったが、下りの須走りには困ったそうだ。
翌日の弘明寺観音で、ネパールから来たと聞いた僧侶が、近くにネパール料理店があると教えてくれて、早速にたずねたら店中をあげて大いに盛り上がる。
「ゴルカキッチン」の名のごとく、カトマンヅからきたゴルカ出身者の経営である。
経営者の弟の若者が給仕をしてくれて、横浜国大のドクターコースでバイオテクノロジーの研究をしているとのこと。さすがに日本語がうまい。
久しぶりにネパールの味に再会した。評判の品はなんですかと聞くと、それはナンです、と答えるので、食ってみたがたしかに美味かった。ただし年寄りには1枚でも多すぎるのが、ナンである。
つい先日、ネパールでは肝心の憲法はいまだにできないままに、首相が3ヶ月でまたもや辞任するというニュースがあった。
その裏をちょっと聞いてみたが、南北にインドと中国という大国にはさまれた多民族国家の深い悩みは、政治素人外国人にはよくわからない。
ネパールで案内してもらっているときは、忙しくてじっくりと話が聞けなかったが、こちらでは飯を食いながらあれこれと日本とネパールの違いやら同じところやらを聞いて、実に面白かった。
長い昼飯となったその店を出て、「今度はヒマラヤでまた会いたいね」と、わたしはそこで別れた。東京に用事あるFが、銀座に案内して行った。
参照→●ネパールの旅 ●ネパール逍遥 ●草の根校舎の会
モティさんは、カトマンヅ日本語学院の教員である。今年3月末から4月にかけてわたしが遊び仲間とネパール旅行に行ったときに、通訳兼ガイドをしてくださった。
国際交流基金による日本語研修を受けるために来た。埼玉県に研修宿泊施設があり、50カ国程度から90人ほどの研修生が、遠くは南米コロンビアからもいるそうだ。
モティさんはもう4回目の来日、横浜はまだというので、研修が休みの土・日曜日に、関東南部から行ったF、Y、Dの3人が横浜の港の街を案内、Fが自宅に宿泊招待した。
元町を歩いていて、モティさんが突然立ち止まって店の看板を見ながら、このパン屋さんのご夫婦をネパールで案内したことがあるといい出した。
閉店直前の店に入り、確かめたらまさにそうであった。そこを訪ねる予定はなくて適当に歩いていたのだから、まったくもって国際的偶然であった。
数日前の休みには、研修生仲間の数人で富士山にも登ったという。モティさんはヒマラヤのある地の人だから、富士山の登りははたいしたことはなかったが、下りの須走りには困ったそうだ。
翌日の弘明寺観音で、ネパールから来たと聞いた僧侶が、近くにネパール料理店があると教えてくれて、早速にたずねたら店中をあげて大いに盛り上がる。
「ゴルカキッチン」の名のごとく、カトマンヅからきたゴルカ出身者の経営である。
経営者の弟の若者が給仕をしてくれて、横浜国大のドクターコースでバイオテクノロジーの研究をしているとのこと。さすがに日本語がうまい。
久しぶりにネパールの味に再会した。評判の品はなんですかと聞くと、それはナンです、と答えるので、食ってみたがたしかに美味かった。ただし年寄りには1枚でも多すぎるのが、ナンである。
つい先日、ネパールでは肝心の憲法はいまだにできないままに、首相が3ヶ月でまたもや辞任するというニュースがあった。
その裏をちょっと聞いてみたが、南北にインドと中国という大国にはさまれた多民族国家の深い悩みは、政治素人外国人にはよくわからない。
ネパールで案内してもらっているときは、忙しくてじっくりと話が聞けなかったが、こちらでは飯を食いながらあれこれと日本とネパールの違いやら同じところやらを聞いて、実に面白かった。
長い昼飯となったその店を出て、「今度はヒマラヤでまた会いたいね」と、わたしはそこで別れた。東京に用事あるFが、銀座に案内して行った。
参照→●ネパールの旅 ●ネパール逍遥 ●草の根校舎の会
2011/08/22
479●21世紀の「谷中村」は「核毒の森」
その地の人々には気の毒ではあるが、福島第1原発から出る核物質で強度に汚染された地域は、21世紀の谷中村にならざるを得ないと、わたしは思っている。
昨日、政府がそれをこわごわながらも言い出したのは、近日中に代わることになっているらしい首相の菅さんが、最後の一手として火中の栗を掴んだのであろうか。
それは多分、後継の人が言い出しにくい種のひとつであるこの栗を、辞める菅さんに言いだしっぺとして掴ませたのであろう。
「平野復興相は21日、東京電力福島第一原子力発電所事故で高濃度の放射性物質に汚染された周辺地域への立ち入り禁止措置が長期化した場合の対策として、他地域に避難している住民が長期間住むことができる住宅を新たに整備する意向を明らかにした。(
読売新聞 8月21日(日)18時16分)」
「政府は、東京電力福島第一原子力発電所の事故で、放射線量が極めて高いなどの理由で、相当長期にわたって帰宅が困難な、原発周辺の一部区域については、当面、警戒区域のまま解除しない方向で、こうした区域の土地については、国が買い取るなどの対策も検討していくことになりました。(NHKニュース8月21日 18時39分)」
「菅政権は、東京電力福島第一原発の周辺で放射線量が高い地域の住民に対し、居住を長期間禁止するとともに、その地域の土地を借り上げる方向で検討に入った。(朝日新聞8月21日朝刊)」
わたしでさえ予想していたのだから、その筋の業界のかたがたは、現地地権者との折衝に、すでに動いていらっしゃるかもしれない。
こうなったら、政府は土地建物立木等権利移動凍結・価格凍結の施策を今すぐにでも打つべきである。
もたもた遅れている間に、妙なことをする人々が介入してきて権利移動・価格高騰が起きると、結局は住民にも国民にも迷惑がかかることになる。
足尾鉱毒事件は19世紀末からのながながい公害事件で、古河鉱山と手を結んだ政府が、渡良瀬川下流域の村々を強制収用して農民を追い払ったのであった。
その跡には、銅山から出た重金属に汚染された広大な土地が広がる。これを渡良瀬遊水地という。鉱毒の言葉がないのは、鉱毒のためではなく治水のためと詐称して作った巨大空地だからだ。
福島核毒事件は、今年3月から始まったが、やはりこれもながいながい公害事件にさしかかっていて、東京電力と手を組んだ政府が、福島第1原子力発電所を取り巻く広範な地域から、住民を追い出すのである。
その跡には、原発から出たセシウムなどの核物質に汚染された広大な土地が広がる。さてこの地をなんと名づけるか。
鉱毒の重金属は今も遊水地にあるが、核の毒もこれから百年以上も地に残るらしい。人間はそこに住むことも、そこから産物を得ることもできない。
人間ばかりか生物はみなそうであろう。
人間の手が全く加わらなくなったら、日本の気候は多雨だから、ここにはかつての太古にあったような森林が復活してくる。これを自然遷移という。
福島県の太平洋沿岸地域は、植生学上の潜在自然植生分類ではヤブツバキクラス域だから、タブを中心にしてシイやカシの類の常緑広葉樹の森になり、内陸部はブナクラス域だからブナ、ミズナラ、ツガなどの森になるであろう。
この森を「鎮魂の森」とか「望郷の森」とか言いたい人もいるだろうが、わたしは「核毒の森」と名づけたい。当然ながら人々の進入を規制する禁断の森である。
この禁断の森を後世の人々が忘れないように、その所以を伝えていくべきであると思うからこそ、渡良瀬遊水地のような欺瞞の名称ではなく核毒をもって名づけたい。
この「核毒の森」のイニシャルコストとランニングコストは、巨大公害を起こした原因者の東京電力の企業および株主が負担して、国有の公園とする。
それらの費用の一部は、多分、わたしにもいろいろな形で負担を強いてくるだろうが、それは原発の発した電力を享受した罰として、負担可能な相応額は引き受けざるを得ない。
だが一儀的には、東京電力という企業とこれを支えた株主たちであることを、忘れないようにしたい。
もちろん森の中心地には福島第1原発の廃炉群が無残な姿を見せている。
廃炉の管理のための投資は長く長く続くだろうが、できるだけ無残な姿を露出して保存してもらいたい。
放射線を出し続ける炉などはカバーするとしても、あの無残な建屋鉄骨はどこかにそばに移してでも、必ず保存してもらいたいのは、この大事故を後世伝えるには、目に見える姿が最も訴求力があるからだ。原爆ドームのように。
そしてこの地を今すぐに世界文化遺産に登録するのだ。
この深い禁断の森と発熱する廃炉群を、そしてそこに至る道程のすべてを、現世と後世の地球上の人々にしっかりと伝える役割を持たせるべきである。
それがこの土地を追われた現代の谷中村民に対する、わたしたちの基本的な礼儀であると思う。
悲惨であった足尾鉱毒時代とは違うから、十分な金銭補償等はなされるであろうが、それで済む問題ではない。
だから登録は今すぐ行うべきである。3.11以来起きている物事のすべてを文化遺産として、後々まで伝えるべき重要なる人類の資産であるからである。
世界遺産登録の基準に適合しないからできないなどという、手続きで反論があるだろう。
だが、今の基準に適合しないような世界文化遺産に相当する事件が起きてしまったのだから、今の基準に拘泥する理由はまったくないのだ。
もちろん世界遺産が観光資源と思われている世の中だから、その視点から登録の是非が議論されるかもしれない。だがこれは、論外の誤解曲解そのものである。
できればチェルノブイリとスリーマイルも合わせて世界遺産に登録したいものである。
そうすれば、すでに世界遺産登録となっている広島原爆ドームとビキニ環礁を合わせて、一連の人類愚行の核毒遺産として認識されるであろう。
●地震津波核毒事件コラム
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html
昨日、政府がそれをこわごわながらも言い出したのは、近日中に代わることになっているらしい首相の菅さんが、最後の一手として火中の栗を掴んだのであろうか。
それは多分、後継の人が言い出しにくい種のひとつであるこの栗を、辞める菅さんに言いだしっぺとして掴ませたのであろう。
「平野復興相は21日、東京電力福島第一原子力発電所事故で高濃度の放射性物質に汚染された周辺地域への立ち入り禁止措置が長期化した場合の対策として、他地域に避難している住民が長期間住むことができる住宅を新たに整備する意向を明らかにした。(
読売新聞 8月21日(日)18時16分)」
「政府は、東京電力福島第一原子力発電所の事故で、放射線量が極めて高いなどの理由で、相当長期にわたって帰宅が困難な、原発周辺の一部区域については、当面、警戒区域のまま解除しない方向で、こうした区域の土地については、国が買い取るなどの対策も検討していくことになりました。(NHKニュース8月21日 18時39分)」
「菅政権は、東京電力福島第一原発の周辺で放射線量が高い地域の住民に対し、居住を長期間禁止するとともに、その地域の土地を借り上げる方向で検討に入った。(朝日新聞8月21日朝刊)」
わたしでさえ予想していたのだから、その筋の業界のかたがたは、現地地権者との折衝に、すでに動いていらっしゃるかもしれない。
こうなったら、政府は土地建物立木等権利移動凍結・価格凍結の施策を今すぐにでも打つべきである。
もたもた遅れている間に、妙なことをする人々が介入してきて権利移動・価格高騰が起きると、結局は住民にも国民にも迷惑がかかることになる。
足尾鉱毒事件は19世紀末からのながながい公害事件で、古河鉱山と手を結んだ政府が、渡良瀬川下流域の村々を強制収用して農民を追い払ったのであった。
その跡には、銅山から出た重金属に汚染された広大な土地が広がる。これを渡良瀬遊水地という。鉱毒の言葉がないのは、鉱毒のためではなく治水のためと詐称して作った巨大空地だからだ。
福島核毒事件は、今年3月から始まったが、やはりこれもながいながい公害事件にさしかかっていて、東京電力と手を組んだ政府が、福島第1原子力発電所を取り巻く広範な地域から、住民を追い出すのである。
その跡には、原発から出たセシウムなどの核物質に汚染された広大な土地が広がる。さてこの地をなんと名づけるか。
鉱毒の重金属は今も遊水地にあるが、核の毒もこれから百年以上も地に残るらしい。人間はそこに住むことも、そこから産物を得ることもできない。
人間ばかりか生物はみなそうであろう。
人間の手が全く加わらなくなったら、日本の気候は多雨だから、ここにはかつての太古にあったような森林が復活してくる。これを自然遷移という。
福島県の太平洋沿岸地域は、植生学上の潜在自然植生分類ではヤブツバキクラス域だから、タブを中心にしてシイやカシの類の常緑広葉樹の森になり、内陸部はブナクラス域だからブナ、ミズナラ、ツガなどの森になるであろう。
この森を「鎮魂の森」とか「望郷の森」とか言いたい人もいるだろうが、わたしは「核毒の森」と名づけたい。当然ながら人々の進入を規制する禁断の森である。
この禁断の森を後世の人々が忘れないように、その所以を伝えていくべきであると思うからこそ、渡良瀬遊水地のような欺瞞の名称ではなく核毒をもって名づけたい。
この「核毒の森」のイニシャルコストとランニングコストは、巨大公害を起こした原因者の東京電力の企業および株主が負担して、国有の公園とする。
それらの費用の一部は、多分、わたしにもいろいろな形で負担を強いてくるだろうが、それは原発の発した電力を享受した罰として、負担可能な相応額は引き受けざるを得ない。
だが一儀的には、東京電力という企業とこれを支えた株主たちであることを、忘れないようにしたい。
もちろん森の中心地には福島第1原発の廃炉群が無残な姿を見せている。
廃炉の管理のための投資は長く長く続くだろうが、できるだけ無残な姿を露出して保存してもらいたい。
放射線を出し続ける炉などはカバーするとしても、あの無残な建屋鉄骨はどこかにそばに移してでも、必ず保存してもらいたいのは、この大事故を後世伝えるには、目に見える姿が最も訴求力があるからだ。原爆ドームのように。
そしてこの地を今すぐに世界文化遺産に登録するのだ。
この深い禁断の森と発熱する廃炉群を、そしてそこに至る道程のすべてを、現世と後世の地球上の人々にしっかりと伝える役割を持たせるべきである。
それがこの土地を追われた現代の谷中村民に対する、わたしたちの基本的な礼儀であると思う。
悲惨であった足尾鉱毒時代とは違うから、十分な金銭補償等はなされるであろうが、それで済む問題ではない。
だから登録は今すぐ行うべきである。3.11以来起きている物事のすべてを文化遺産として、後々まで伝えるべき重要なる人類の資産であるからである。
世界遺産登録の基準に適合しないからできないなどという、手続きで反論があるだろう。
だが、今の基準に適合しないような世界文化遺産に相当する事件が起きてしまったのだから、今の基準に拘泥する理由はまったくないのだ。
もちろん世界遺産が観光資源と思われている世の中だから、その視点から登録の是非が議論されるかもしれない。だがこれは、論外の誤解曲解そのものである。
できればチェルノブイリとスリーマイルも合わせて世界遺産に登録したいものである。
そうすれば、すでに世界遺産登録となっている広島原爆ドームとビキニ環礁を合わせて、一連の人類愚行の核毒遺産として認識されるであろう。
●地震津波核毒事件コラム
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html
2011/08/19
478本日の広告イチャモン
ときどき新聞広告にいちゃモンをつけている。今日は朝日新聞の全面広告3つ。
●罰当たりな時代になったもんだ
満足に食っても半分しかカロリーがない、そんなことが売り文句になる時代である。
66年前のあの日から、毎日が腹の減る日々で、少なくてもカロリーあるものをと、必死に食料をあさった時代があった。
それは今でも、地球上のどこかで同じことがおきている。
罰あたりな宣伝文句が通用する時代は、平和なのか、ちょっと不気味でもある。
●汚い魔法のパンツ
この広告にはずっと前にもお目にかかって、そのときは「魔法のパンツ 一度はいたらやめられない」と書いてあったので、そんな脱げないパンツなんて、ウンコでキタナイよとイチャモンつけたことがある。
参照→怪パンhttp://datey.blogspot.com/2010/08/307.html
今日は「魔法のパンツが手放せない」とある。ちょっと変えてるなあ。
●道で冒険するなよ
いつもの道で、忘れかけてた冒険を蘇らせる、なんて、ああた、いい加減にしなさいヨッ。
自分の行為に「ご用意」と書くし、「乗れる」「試せる」なんてら抜き言葉も平気で書くしなあ。
このコピーライターはどんな頭してんだよ。
(追記20140613)本日、コメント欄に匿名さんから投書が来た。曰く『「「乗る」も「試す」も五段活用の動詞ですけど?」』
あ、そうか、ら抜きしてもOKなんだ、この場合は、。動詞が五段活用あるいはサ行変格活用のときは「れる」OK、分りましたありがとう。
ゴメン、ゴメン、お詫びして当該部分の罵倒を取り消します。
●罰当たりな時代になったもんだ
満足に食っても半分しかカロリーがない、そんなことが売り文句になる時代である。
66年前のあの日から、毎日が腹の減る日々で、少なくてもカロリーあるものをと、必死に食料をあさった時代があった。
それは今でも、地球上のどこかで同じことがおきている。
罰あたりな宣伝文句が通用する時代は、平和なのか、ちょっと不気味でもある。
●汚い魔法のパンツ
この広告にはずっと前にもお目にかかって、そのときは「魔法のパンツ 一度はいたらやめられない」と書いてあったので、そんな脱げないパンツなんて、ウンコでキタナイよとイチャモンつけたことがある。
参照→怪パンhttp://datey.blogspot.com/2010/08/307.html
今日は「魔法のパンツが手放せない」とある。ちょっと変えてるなあ。
●道で冒険するなよ
いつもの道で、忘れかけてた冒険を蘇らせる、なんて、ああた、いい加減にしなさいヨッ。
自分の行為に「ご用意」と書くし、「
このコピーライターはどんな頭してんだよ。
(追記20140613)本日、コメント欄に匿名さんから投書が来た。曰く『「「乗る」も「試す」も五段活用の動詞ですけど?」』
あ、そうか、ら抜きしてもOKなんだ、この場合は、。動詞が五段活用あるいはサ行変格活用のときは「れる」OK、分りましたありがとう。
ゴメン、ゴメン、お詫びして当該部分の罵倒を取り消します。
2011/08/18
477 原発船で安心だあ~?
あるブログで、なんと原子力発電船の建設が紹介されている。
もっとも、造船所の倒産で頓挫したらしいけど。
「ロシア、世界初の洋上原発プロジェクト頓挫」
http://infrascape.exblog.jp/16126557/
http://www.reuters.com/article/2011/04/18/us-nuclear-industry-floating-idUSTRE73H3S020110418
そのブログではロイターの記事を紹介して、要点をこう書かれています。
「2つの原子炉で構成されており、これにより35000世帯を賄う70mWの発電が行える。プラントはドックまたは沿岸に停泊しそこからケーブルで送電を行う」
「ロシアの国営原子力エネルギー企業のPosatomは、輸出目的で12の洋上発電所を建設する予定だ。」
「最初の原子炉の建設費用は5億500万ドルで、当初見積もりより4倍超も高額になっているが、それでも従来の大型原子炉に比べてればごく小額だ」
******
驚きました、あるんですねえ、世の中に本当にそういう計画が、。
実はわたしのブログ「伊達な世界」に、3年前に冗談に書いたことがあるのです。
その要旨は、次のとおり。
「巨大な原子力空母は巨大な原子力発電所を抱えているのだろうが、波にゆれる洋上では地震の真上にいると同じだけど大丈夫なのか?
そこで突然に思いついた、アッ、そうだっ、原子力発電船を作ればよいのだっ、いい考えだぞこれは、。
海に浮かんでいても、アメリカ政府や日本政府の言うように絶対に事故がおきないのなら、電力需要の多い地域の港に停泊して発送電すれば、エネルギー効率が断然良くなる。大規模工場はたいてい海べりにあるから、原子力自家発電船を作ればよい。
万が一、事故がおきたらすぐにはるか沖に出て行ってしまえば、害を及ぼす範囲は格段に小さくなる」
●全文は→「地震に強いかも原子力発電船」2008年9月29日
http://datey.blogspot.com/2008/09/nuclear-carrier.html.
*****
どうです、思いがけずに福島第1原子力発電所の大事故です。
あれがもし福島第1原子力発電船だったら、津波が来るぞとわかったらすぐに沖合いに出ちまえば、こんなことにはならなかったでしょうに、、なんて、、う~む。
冗談と現実の境目が取り外されると、困ってしまうよ。
もっとも、造船所の倒産で頓挫したらしいけど。
「ロシア、世界初の洋上原発プロジェクト頓挫」
http://infrascape.exblog.jp/16126557/
http://www.reuters.com/article/2011/04/18/us-nuclear-industry-floating-idUSTRE73H3S020110418
そのブログではロイターの記事を紹介して、要点をこう書かれています。
「2つの原子炉で構成されており、これにより35000世帯を賄う70mWの発電が行える。プラントはドックまたは沿岸に停泊しそこからケーブルで送電を行う」
「ロシアの国営原子力エネルギー企業のPosatomは、輸出目的で12の洋上発電所を建設する予定だ。」
「最初の原子炉の建設費用は5億500万ドルで、当初見積もりより4倍超も高額になっているが、それでも従来の大型原子炉に比べてればごく小額だ」
******
驚きました、あるんですねえ、世の中に本当にそういう計画が、。
実はわたしのブログ「伊達な世界」に、3年前に冗談に書いたことがあるのです。
その要旨は、次のとおり。
「巨大な原子力空母は巨大な原子力発電所を抱えているのだろうが、波にゆれる洋上では地震の真上にいると同じだけど大丈夫なのか?
そこで突然に思いついた、アッ、そうだっ、原子力発電船を作ればよいのだっ、いい考えだぞこれは、。
海に浮かんでいても、アメリカ政府や日本政府の言うように絶対に事故がおきないのなら、電力需要の多い地域の港に停泊して発送電すれば、エネルギー効率が断然良くなる。大規模工場はたいてい海べりにあるから、原子力自家発電船を作ればよい。
万が一、事故がおきたらすぐにはるか沖に出て行ってしまえば、害を及ぼす範囲は格段に小さくなる」
●全文は→「地震に強いかも原子力発電船」2008年9月29日
http://datey.blogspot.com/2008/09/nuclear-carrier.html.
*****
どうです、思いがけずに福島第1原子力発電所の大事故です。
あれがもし福島第1原子力発電船だったら、津波が来るぞとわかったらすぐに沖合いに出ちまえば、こんなことにはならなかったでしょうに、、なんて、、う~む。
冗談と現実の境目が取り外されると、困ってしまうよ。
476足尾鉱毒事件と福島核毒事件
19世紀末から始まった足尾鉱毒事件という大公害があった。福島第1原発事件は、その21世紀版のような気がする。鉱毒ならぬ核毒である。
栃木県足尾の山中にある銅山から発生した毒煙・毒水の鉱毒が、周辺や下流域の地域に大きな災害をもたらした。
足銅山周辺地域は、山林は硫黄を含む毒煙で丸裸になり、田畑も汚染で作物もできす、いくつかの村が廃村となった。
銅ややカドミウムの毒水は、銅山下流の渡良瀬川流域の田畑に流れ込んで、作物を汚染して、流域の農業を立ち往生させた。
洪水のときは利根川をへて関東平野東部にも毒水が及んだ。
どんな公害があろうとも、どんな抗議があろうとも、銅山経営者の古河鉱業は、責任をとろうとしない。
流域被災農民からの鉱業停止運動は、官憲の弾圧を受ける。ついにリーダーの田中正三の天皇直訴事件が功を奏して、マスコミが取り上げて社会問題となる。
窮した明治政府は、富国強兵殖産興業のために銅山に対する公害対策を後回しとし、たびたび起こる渡良瀬川の洪水の調整池づくりを理由として、その毒水の沈殿地としで渡良瀬遊水池を計画する。
遊水地の場所は、鉱業停止運動の根拠地である。その村と住民を根こそぎ取り除いてしまう作戦であった。
それは20世紀末まで工事が続けられて、今、栃木・茨城・群馬・埼玉の諸県境にひろがる広大な湿地草原と谷中湖となっている。
その広大な遊水地のためにために、田中正造の反対運動で有名な谷中村をはじめとしていくつかの村が強制廃村、強制移転させられた。
今、強制避難させられている福島第1原発の周辺の市町村のことを、わたしはいやおうなく連想してしまうのである。
毒煙・毒水を核汚染物質に置き換えると、その発生も、その毒を取り除くことができなくて、人間のほうを強制的に動かすのもそっくりである。
21世紀の谷中村が福島に出現するに違いない、と、わたしは思う。
19世紀末に発生したこの大公害は、原因者の古河鉱山が認めて賠償金を支払ったのは、20世紀末のことであった。被害者にとっては、大企業と政府を相手とする100年かかった争いであった。
廃止となった銅山は、その後も毒水を出し続けるために、その処理を延々と続けなければならない。これも核汚染物質の処理と同じである。
鉱毒もものすごい毒であるが、それよりも核毒のほうがもっと強烈である。ここが科学が人間の毒の方向に進歩した証拠である。
わたしは1958年だったか、その廃村のひとつである松木村の跡にある松木沢に入ったことがある。
谷の両側に赤茶けた荒涼たる岩山が続いていて、草木はほとんど見えない。ここは日本だろうかと思わせる、凄絶な景観であった。
渡良瀬川にたびたび洪水が起きたのは、この禿山のせいであったに違いない。洪水被害も公害であったのだ。
そこに行った目的は、所属していた大学山岳部の合宿で、その日本的でない岩肌が屹立する岸壁を利用して、ロッククライミング登山の訓練をしたのであった。
その後、緑は回復しているのだろうか。
20年くらい前に、愛媛県新居浜の別子銅山跡地に行ったこともある。ここも谷だが両側の切り立つような山には、濃い緑が繁っていた。
別子銅山でも19世紀末に煙害や銅山川の洪水による毒水公害が起きている。
しかし、別子銅山経営の住友はここが本拠地であり、地域全部が住友銅山の町であったので、かなり早期から公害対策をしてきた歴史があるようだ。
植林も住友の産業のひとつとなっているくらいだから、足尾の古河鉱業とはかなり態度が異なる企業である。
この廃鉱跡地を産業遺産を生かした観光施設に転換しようというプロジェクトがあり、わたしはそのマスタープランづくりメンバーのひとりとして、現地を視察に行ったのであった。
その計画は実現して、「マインとピア別子」として営業をしている。
廃鉱となって40年ほど、いまだに発生する鉱毒水の処理を続けている。原発廃炉後も、長期にわたる核燃料や汚染物質の処理が必要なことと似ている。
足尾鉱毒事件とその対策のあり方が、今の福島核毒事件になんらかの示唆を与えてくれそうだ。資料を読みこんで考えてみたい。
参照:ついに始まった東電核毒事件の福島貯蔵地は百年前の足尾鉱毒事件の渡良瀬遊水地そっくり
栃木県足尾の山中にある銅山から発生した毒煙・毒水の鉱毒が、周辺や下流域の地域に大きな災害をもたらした。
足銅山周辺地域は、山林は硫黄を含む毒煙で丸裸になり、田畑も汚染で作物もできす、いくつかの村が廃村となった。
銅ややカドミウムの毒水は、銅山下流の渡良瀬川流域の田畑に流れ込んで、作物を汚染して、流域の農業を立ち往生させた。
洪水のときは利根川をへて関東平野東部にも毒水が及んだ。
どんな公害があろうとも、どんな抗議があろうとも、銅山経営者の古河鉱業は、責任をとろうとしない。
流域被災農民からの鉱業停止運動は、官憲の弾圧を受ける。ついにリーダーの田中正三の天皇直訴事件が功を奏して、マスコミが取り上げて社会問題となる。
窮した明治政府は、富国強兵殖産興業のために銅山に対する公害対策を後回しとし、たびたび起こる渡良瀬川の洪水の調整池づくりを理由として、その毒水の沈殿地としで渡良瀬遊水池を計画する。
遊水地の場所は、鉱業停止運動の根拠地である。その村と住民を根こそぎ取り除いてしまう作戦であった。
それは20世紀末まで工事が続けられて、今、栃木・茨城・群馬・埼玉の諸県境にひろがる広大な湿地草原と谷中湖となっている。
その広大な遊水地のためにために、田中正造の反対運動で有名な谷中村をはじめとしていくつかの村が強制廃村、強制移転させられた。
今、強制避難させられている福島第1原発の周辺の市町村のことを、わたしはいやおうなく連想してしまうのである。
毒煙・毒水を核汚染物質に置き換えると、その発生も、その毒を取り除くことができなくて、人間のほうを強制的に動かすのもそっくりである。
21世紀の谷中村が福島に出現するに違いない、と、わたしは思う。
19世紀末に発生したこの大公害は、原因者の古河鉱山が認めて賠償金を支払ったのは、20世紀末のことであった。被害者にとっては、大企業と政府を相手とする100年かかった争いであった。
廃止となった銅山は、その後も毒水を出し続けるために、その処理を延々と続けなければならない。これも核汚染物質の処理と同じである。
鉱毒もものすごい毒であるが、それよりも核毒のほうがもっと強烈である。ここが科学が人間の毒の方向に進歩した証拠である。
わたしは1958年だったか、その廃村のひとつである松木村の跡にある松木沢に入ったことがある。
谷の両側に赤茶けた荒涼たる岩山が続いていて、草木はほとんど見えない。ここは日本だろうかと思わせる、凄絶な景観であった。
渡良瀬川にたびたび洪水が起きたのは、この禿山のせいであったに違いない。洪水被害も公害であったのだ。
そこに行った目的は、所属していた大学山岳部の合宿で、その日本的でない岩肌が屹立する岸壁を利用して、ロッククライミング登山の訓練をしたのであった。
その後、緑は回復しているのだろうか。
20年くらい前に、愛媛県新居浜の別子銅山跡地に行ったこともある。ここも谷だが両側の切り立つような山には、濃い緑が繁っていた。
別子銅山でも19世紀末に煙害や銅山川の洪水による毒水公害が起きている。
しかし、別子銅山経営の住友はここが本拠地であり、地域全部が住友銅山の町であったので、かなり早期から公害対策をしてきた歴史があるようだ。
植林も住友の産業のひとつとなっているくらいだから、足尾の古河鉱業とはかなり態度が異なる企業である。
この廃鉱跡地を産業遺産を生かした観光施設に転換しようというプロジェクトがあり、わたしはそのマスタープランづくりメンバーのひとりとして、現地を視察に行ったのであった。
その計画は実現して、「マインとピア別子」として営業をしている。
廃鉱となって40年ほど、いまだに発生する鉱毒水の処理を続けている。原発廃炉後も、長期にわたる核燃料や汚染物質の処理が必要なことと似ている。
足尾鉱毒事件とその対策のあり方が、今の福島核毒事件になんらかの示唆を与えてくれそうだ。資料を読みこんで考えてみたい。
参照:ついに始まった東電核毒事件の福島貯蔵地は百年前の足尾鉱毒事件の渡良瀬遊水地そっくり
2011/08/16
475無差別空襲の日々
3月の地震以来、朝起きると新聞を広げて、二つの定例の記事を見る日々である。東日本大震災の「被災者数」と「各地で観測された大気中の放射線量」である。
被災者数にある死者・行方不明者数は、震災から5ヶ月過ぎた8月15日は、行方不明者4,666人、死者15,698人となっている。
この二つの数字は毎日変化していて、死者は増えて行方不明者が減るのだが、合計値が漸減傾向で、どうやら20000人ちょっとのあたりに収斂しそうである。
もうひとつ毎日掲載記事の「各地で観測された大気中の放射線量」は、地図の上に数値が載っている。前日の核汚染物質空襲状況報告である。
太平洋戦争末期にあった空襲警報が、またもや出され手いるようなものだが、あの時は飛び飛びだったが、今度はず~っと出され続けているから大変だ。
福島原発を中心に、遠くは山形、南魚沼、わたしの住む横浜までの地図に数値(毎時マイクロシーベルト)が出ている。
実は勉強していないので、その数字の意味するところをよくは知らない。わたしの横浜は13日は0.027、この日の最高値は飯舘の2.62、この差はなんだろうか。
なんにしても毎日、減少を願うばかりである。
◆
ところで、この死者・行方不明者数と放射線量の記事は、西日本地域でも毎日の新聞に掲載しているのだろうか。
この数値を毎朝見るのと見ないのでは、ずいぶん意識が違うような気がする。
わたしはもしも見ないでいたら、すぐに忘れそうである。そして、まだ余震が毎日あるので、そのたびにはっと思い出すってことになりそうだ。
ということは西日本ではこれらの数字を見ることがないだろうから、おのずと東日本とは意識が異なるだろう。
思い出せば(といっても、もう思い出せないのだが)、阪神淡路大震災については、これと逆の状況であったのかもしれない。
核汚染物質の空襲が続く毎日であるが、太平洋戦争の末期は、爆弾と焼夷弾が日本全土に降り続く日々であった。
それは敗戦とともに止んだが、いまの核汚染物質はいつ降り止むのだろうか。そして地に降り積もった核汚染物質はいつ無害になるのだろうか。
66年前に降り止んだ爆弾は、その後の世にもたまに不発弾が被害を及ぼし、広島・長崎の核爆弾はいまも死者を作り続けている。
焼夷弾空襲は津波襲来であり、原子爆弾は原発事故であるとの、アナロジーが成り立つか。
◆
太平洋戦争の空襲の話で思い出したが、アントニン・レーモンドという人ががいた。
チェコ生まれだがアメリカに渡って、後に日本で有名な建築家となった人である。そのころはそうでもなかったが後に世界的な大建築家となったフランク・ロイド・ライトの弟子となる。
ライトが設計した東京の帝国ホテル(1924竣工)の建設のために日本に来た。ホテル建設が終わってもそのまま日本で仕事をしていた。
太平洋戦争中にアメリカに帰国した。そしてアメリカ軍への東京大空襲アドバイザーをやっていたそうだ。
砂漠の中に木造長屋群の実物大模型を作って、日本の都市や家屋の燃やしかたを実験し研究した結果が、ヨーロッパのような破壊型爆弾ではなく、焼夷弾による焦土攻撃になったという。
日本の家屋や街をよく知っている専門家だけに、その指導で効果的な無差別攻撃となった。
戦後はまた日本に来て、有名な建築家として活躍した。さてこれをどう考えるか。
建築家の林昌二さんは、レイモンドのデザインや技術はすばらしいけれども、「人間としてはとんでもないやつだ」と言っている(2010『著者解題・内藤廣対談集2』)。
参照http://blog.livedoor.jp/shyougaiitisekkeisi2581/archives/cat_50031934.html#
戦中の日本の建築研究者は、防空都市の研究もしていたが、現実には木造ばかりの日本でできる空襲対策は延焼防止の強制疎開であった。
ここで言う疎開とは児童疎開とは違って、燃えやすい家を撤去して、広い空間を作るのである。火がついても燃え広がらないように、街をあらかじめ疎らに切り開いておくことで、これが疎開の本来の意味に近い。
戦争末期には都市の密集地や駅や鉄道近くでは、木造家屋の引き倒し破壊をやっていた。その跡はいまも広いままに使われていて、例えば谷中銀座もそのひとつである(『谷中根津千駄木』80号2005)。
あまりに簡単に燃え続けた日本の都市の反省で、戦後の都市再生の出発は不燃都市を標榜して、いろいろな政策を行ってきたのであった。
◆
空襲といえば、連合軍の無差別爆撃に対する被害の怨嗟が語られている。それは当然である。
太平洋戦争を始めたのが1941年12月、次の年の4月にはもう東京が空襲された。
その時は洋上の空母から発進した爆撃機だったが、次第に日本が太平洋の島々で負け続けて、敵は近くの島から発進してくるようになった。1945年は空爆されるのが日常になってしまった。日常の死の恐怖はつらい。
だが、日本軍も無差別空爆をやっているのである。
1932年の上海事変では、洋上の戦艦からとんだ偵察機の10次にもわたる爆撃で、軍事施設のほかに市街地も破壊して多くの一般人死者を出した。以後、中国ばかりではない。
1938年から43年まで国民政府の本拠の重慶を200回以上も空爆している。この無差別爆撃が、後の広島・長崎の原爆を正当化するとも、連合国側では言ったらしい。
もっとも、中国やフィリピンなどでは地上の市街戦だから、空爆どころではない無差別攻撃に一般住民はさらされたのだった。
市街戦は日本では沖縄だけであったから、被害意識に大きな違いが出るのだろうが、無差別空襲、無差別攻撃は日本軍もやったことを忘れてはなるまいと、わたしは思うのである。
被災者数にある死者・行方不明者数は、震災から5ヶ月過ぎた8月15日は、行方不明者4,666人、死者15,698人となっている。
この二つの数字は毎日変化していて、死者は増えて行方不明者が減るのだが、合計値が漸減傾向で、どうやら20000人ちょっとのあたりに収斂しそうである。
もうひとつ毎日掲載記事の「各地で観測された大気中の放射線量」は、地図の上に数値が載っている。前日の核汚染物質空襲状況報告である。
太平洋戦争末期にあった空襲警報が、またもや出され手いるようなものだが、あの時は飛び飛びだったが、今度はず~っと出され続けているから大変だ。
福島原発を中心に、遠くは山形、南魚沼、わたしの住む横浜までの地図に数値(毎時マイクロシーベルト)が出ている。
実は勉強していないので、その数字の意味するところをよくは知らない。わたしの横浜は13日は0.027、この日の最高値は飯舘の2.62、この差はなんだろうか。
なんにしても毎日、減少を願うばかりである。
◆
ところで、この死者・行方不明者数と放射線量の記事は、西日本地域でも毎日の新聞に掲載しているのだろうか。
この数値を毎朝見るのと見ないのでは、ずいぶん意識が違うような気がする。
わたしはもしも見ないでいたら、すぐに忘れそうである。そして、まだ余震が毎日あるので、そのたびにはっと思い出すってことになりそうだ。
ということは西日本ではこれらの数字を見ることがないだろうから、おのずと東日本とは意識が異なるだろう。
思い出せば(といっても、もう思い出せないのだが)、阪神淡路大震災については、これと逆の状況であったのかもしれない。
核汚染物質の空襲が続く毎日であるが、太平洋戦争の末期は、爆弾と焼夷弾が日本全土に降り続く日々であった。
それは敗戦とともに止んだが、いまの核汚染物質はいつ降り止むのだろうか。そして地に降り積もった核汚染物質はいつ無害になるのだろうか。
66年前に降り止んだ爆弾は、その後の世にもたまに不発弾が被害を及ぼし、広島・長崎の核爆弾はいまも死者を作り続けている。
焼夷弾空襲は津波襲来であり、原子爆弾は原発事故であるとの、アナロジーが成り立つか。
◆
太平洋戦争の空襲の話で思い出したが、アントニン・レーモンドという人ががいた。
チェコ生まれだがアメリカに渡って、後に日本で有名な建築家となった人である。そのころはそうでもなかったが後に世界的な大建築家となったフランク・ロイド・ライトの弟子となる。
ライトが設計した東京の帝国ホテル(1924竣工)の建設のために日本に来た。ホテル建設が終わってもそのまま日本で仕事をしていた。
太平洋戦争中にアメリカに帰国した。そしてアメリカ軍への東京大空襲アドバイザーをやっていたそうだ。
砂漠の中に木造長屋群の実物大模型を作って、日本の都市や家屋の燃やしかたを実験し研究した結果が、ヨーロッパのような破壊型爆弾ではなく、焼夷弾による焦土攻撃になったという。
日本の家屋や街をよく知っている専門家だけに、その指導で効果的な無差別攻撃となった。
戦後はまた日本に来て、有名な建築家として活躍した。さてこれをどう考えるか。
建築家の林昌二さんは、レイモンドのデザインや技術はすばらしいけれども、「人間としてはとんでもないやつだ」と言っている(2010『著者解題・内藤廣対談集2』)。
参照http://blog.livedoor.jp/shyougaiitisekkeisi2581/archives/cat_50031934.html#
戦中の日本の建築研究者は、防空都市の研究もしていたが、現実には木造ばかりの日本でできる空襲対策は延焼防止の強制疎開であった。
ここで言う疎開とは児童疎開とは違って、燃えやすい家を撤去して、広い空間を作るのである。火がついても燃え広がらないように、街をあらかじめ疎らに切り開いておくことで、これが疎開の本来の意味に近い。
戦争末期には都市の密集地や駅や鉄道近くでは、木造家屋の引き倒し破壊をやっていた。その跡はいまも広いままに使われていて、例えば谷中銀座もそのひとつである(『谷中根津千駄木』80号2005)。
あまりに簡単に燃え続けた日本の都市の反省で、戦後の都市再生の出発は不燃都市を標榜して、いろいろな政策を行ってきたのであった。
◆
空襲といえば、連合軍の無差別爆撃に対する被害の怨嗟が語られている。それは当然である。
太平洋戦争を始めたのが1941年12月、次の年の4月にはもう東京が空襲された。
その時は洋上の空母から発進した爆撃機だったが、次第に日本が太平洋の島々で負け続けて、敵は近くの島から発進してくるようになった。1945年は空爆されるのが日常になってしまった。日常の死の恐怖はつらい。
だが、日本軍も無差別空爆をやっているのである。
1932年の上海事変では、洋上の戦艦からとんだ偵察機の10次にもわたる爆撃で、軍事施設のほかに市街地も破壊して多くの一般人死者を出した。以後、中国ばかりではない。
1938年から43年まで国民政府の本拠の重慶を200回以上も空爆している。この無差別爆撃が、後の広島・長崎の原爆を正当化するとも、連合国側では言ったらしい。
もっとも、中国やフィリピンなどでは地上の市街戦だから、空爆どころではない無差別攻撃に一般住民はさらされたのだった。
市街戦は日本では沖縄だけであったから、被害意識に大きな違いが出るのだろうが、無差別空襲、無差別攻撃は日本軍もやったことを忘れてはなるまいと、わたしは思うのである。
2011/08/15
474 66年目の空襲と疎開
あれから66年、またもや空襲を逃れて疎開する日々が来ている。東日本大震災による原発事故で、核汚染物質の飛来から逃れるためである。
太平世戦争末期の焼夷弾の空襲におびえたあの日々の死の恐怖は、どこまで次世代・次次世代に伝えられているのだろうか。
日本全土の都市が攻撃された空爆による死者の総数は、(諸説あるらしいが)約50万人だったそうだ。そのうち半分は原爆によるから、今も死者は増加中である。
あのときの恐怖は66年前のこの日8月15日に終わった。
この核汚染物質の空襲におびえる日々に、8.15はいつ来るのだろうか。
◆
東日本大震災の死者と行方不明者を合わせると、約2万人程度になるようだ。
核物質汚染による被害は地域的にも内容的にも範囲を広げつつある。
この空爆による死者は、今は出ていないのかもしれないが、その性格からして原爆のように後々に出るかもしれない。
特に食品汚染への恐怖は、真綿で首を絞められるようにじわじわと迫る恐怖である。
66年前のこの日、戦争による死の恐怖は去ったが、次は食糧不足による飢えの恐怖が始まったことを思い出す。
少年だったわたしの戦争に関連しての恐怖は、日々の飢えだけであった。毎日腹が減っていたなあ。また飢えるのか。
◆
この日が来ると、毎度書いているような気がするが、また書く。
わたしの生家は岡山県の中部にある、小さな城下町の盆地にある神社であった。
あの日の正午、その鎮守の森の中の社務所の前に、ラジオを囲んで集まったのは、大人と小学生を合わせて20名足らずだったろうか。
大人は近所の人たちだったが、小学生たちはその社務所に遠く兵庫県から疎開してきていた女子児童たちである。当時はラジオが初期のTV程度の普及だったろうか、その疎開学級はラジオを持っていた。
わたしはなにしろまだ8歳だから、これが終戦の詔勅放送だったとは後から聞いたのだろう。日ごろにない集まりを眺めていただけで、放送の音についての記憶はまったく無い。
だが鮮明な記憶は、聞き終わった大人たちが、なんとなく列を作って誰も一様に黙りこくったままに、森の中から暑い日差しの町へと、参道の石段をおりて帰っていく姿である。子供心にも異様であったから覚えているのだろう。
◆
その盆地は、B29空襲はこない平穏な日々であったが、空襲から疎開してきた学童たちがいたという現実に戦争の影はあった。
その疎開児童がどこから来たのか調べいて『学童疎開の記録』(1994全国学童疎開連絡協議会)という本でわかった。芦屋市の精道小学校の学童が、岡山県上房郡高梁町(現・高梁市)の頼久寺に126名、同じく金光教会に47名が疎開したと記してある。
わたしの生家の御前神社は出ていないが、これら2箇所と至近にあるから、どちらかの分教室であったのだろう。
その芦屋が8月6日に空襲に遭って、学童たちの家族も被災し、親の死で孤児となった悲劇もあったようだ。
空襲のもうこなくなった焼け野原の都市に戻っていったあの少女たちは、その後どのような人生を歩んだのだろうか。
◆
わたしの父はそのころ小田原で、湘南海岸に上陸すると見られるアメリカ軍を迎え撃つ本土決戦の準備中の通信兵であった。
小田原は8月15日の前夜半に、この戦争の最後の爆撃を受けた。父は郊外の山中で陣地構築の穴掘りをしていて、炎上する市街地の火を見ていた。
その月末に兵役解除となって帰宅してきた。
彼の戦争は、1931~34年と1938~41年の2度の中国、そして1943~45年の内国と、実に15年戦争の半分を兵役に送り、これが3度目の生還である。このとき35歳の老兵であった。
参照「父の15年戦争、本土決戦」
太平世戦争末期の焼夷弾の空襲におびえたあの日々の死の恐怖は、どこまで次世代・次次世代に伝えられているのだろうか。
日本全土の都市が攻撃された空爆による死者の総数は、(諸説あるらしいが)約50万人だったそうだ。そのうち半分は原爆によるから、今も死者は増加中である。
あのときの恐怖は66年前のこの日8月15日に終わった。
この核汚染物質の空襲におびえる日々に、8.15はいつ来るのだろうか。
◆
東日本大震災の死者と行方不明者を合わせると、約2万人程度になるようだ。
核物質汚染による被害は地域的にも内容的にも範囲を広げつつある。
この空爆による死者は、今は出ていないのかもしれないが、その性格からして原爆のように後々に出るかもしれない。
特に食品汚染への恐怖は、真綿で首を絞められるようにじわじわと迫る恐怖である。
66年前のこの日、戦争による死の恐怖は去ったが、次は食糧不足による飢えの恐怖が始まったことを思い出す。
少年だったわたしの戦争に関連しての恐怖は、日々の飢えだけであった。毎日腹が減っていたなあ。また飢えるのか。
◆
この日が来ると、毎度書いているような気がするが、また書く。
わたしの生家は岡山県の中部にある、小さな城下町の盆地にある神社であった。
あの日の正午、その鎮守の森の中の社務所の前に、ラジオを囲んで集まったのは、大人と小学生を合わせて20名足らずだったろうか。
大人は近所の人たちだったが、小学生たちはその社務所に遠く兵庫県から疎開してきていた女子児童たちである。当時はラジオが初期のTV程度の普及だったろうか、その疎開学級はラジオを持っていた。
わたしはなにしろまだ8歳だから、これが終戦の詔勅放送だったとは後から聞いたのだろう。日ごろにない集まりを眺めていただけで、放送の音についての記憶はまったく無い。
だが鮮明な記憶は、聞き終わった大人たちが、なんとなく列を作って誰も一様に黙りこくったままに、森の中から暑い日差しの町へと、参道の石段をおりて帰っていく姿である。子供心にも異様であったから覚えているのだろう。
◆
その盆地は、B29空襲はこない平穏な日々であったが、空襲から疎開してきた学童たちがいたという現実に戦争の影はあった。
その疎開児童がどこから来たのか調べいて『学童疎開の記録』(1994全国学童疎開連絡協議会)という本でわかった。芦屋市の精道小学校の学童が、岡山県上房郡高梁町(現・高梁市)の頼久寺に126名、同じく金光教会に47名が疎開したと記してある。
わたしの生家の御前神社は出ていないが、これら2箇所と至近にあるから、どちらかの分教室であったのだろう。
その芦屋が8月6日に空襲に遭って、学童たちの家族も被災し、親の死で孤児となった悲劇もあったようだ。
空襲のもうこなくなった焼け野原の都市に戻っていったあの少女たちは、その後どのような人生を歩んだのだろうか。
◆
わたしの父はそのころ小田原で、湘南海岸に上陸すると見られるアメリカ軍を迎え撃つ本土決戦の準備中の通信兵であった。
小田原は8月15日の前夜半に、この戦争の最後の爆撃を受けた。父は郊外の山中で陣地構築の穴掘りをしていて、炎上する市街地の火を見ていた。
その月末に兵役解除となって帰宅してきた。
彼の戦争は、1931~34年と1938~41年の2度の中国、そして1943~45年の内国と、実に15年戦争の半分を兵役に送り、これが3度目の生還である。このとき35歳の老兵であった。
参照「父の15年戦争、本土決戦」
2011/08/13
473仮想水、仮想電力
沖大幹さんて人が言ってるけど(『本の雑誌』9月号33ページ)、1杯の牛丼を作るのに必要な水の量は大体2000リットル、湯船にして10杯くらいだそうだ。
え、どうして?
その丼の中のコメを作るのに200リットル弱、乗っている牛肉85グラムを作るには1700リットル、ほかにもタマネギとかショウガとかを作るに要る水を足すと、そうなるのだそうだ。
これをヴァーチャルウォーター、仮想水という。
仮想水の重さは牛肉は20000倍、豚肉は6000倍、鶏肉は1500倍を必要とするのだってさ。
こうなると日本の半分以下の雨量のヨーロッパで、牛肉を食う文明が育ったのはどういうわけだろうかと思ってしまう。
雨量が多いということは、それだけ食料が豊かで、自給自足しやすいってことか。なのに日本の食料自給率は4割を割ったそうだ。
重さの何千倍もの水を使うといっても、垂れ流しているのではない。また雨になって戻ってくるから、まさに再生可能な原料である。
水の無い地域の人々は、水を輸入するのではなくて、それを千分の1、万分の1に圧縮した食料として輸入するってことである。逆に言うと、牛肉を輸入するとその2万倍の水を輸入することになるのか。
人間も1キロ太ると10トンもの水を消費したのだろうか。
こうして見ると、太陽と水と土を資源とする農業が、もっとも再生能力が高い産業であることに思い至る。
ところが、福島第1原発の事故が、その再生の循環の輪を断ち切りつつある。
核物質に汚染されたらもう再生循環できないのである。今年だめでも来年があるさって、そういう期待をできない農業となった。
毎日降り注ぐ核汚染物質は、来年からの未来がある生活圏の復興をさえさせてくれない。生活圏が縮んでいく。
この食料と生活の場を奪われていく日々の状況が、わたしの心のなかになんともたまらない閉塞感を蔓延させる。
仮想水で思いついたが、仮想電力ってのもありそうだ。
近代農業は機械、プラスチック製品、農薬、合成肥料、照明など、多くの電力を使っている。
コメ1キログラムに何キロワットの電力を使うのだろうか。昔はトマトを真冬に食うなんてことはしなったが、温室栽培では1個に何キロワット要るのだろうか。
農業も原発の電力に頼るようになって、再生能力が低減しているかもしれない。
人間が生きるために働いているとしたら、そのもっとも根源にある目的は、毎日の安定した食料の確保である。
そこに避けようも無く遮断の手を突っ込んでくる核汚染事故の怖さが、人間の身に染みるには、もう一度くらい同じことが起きることが必要なのだろうか。
え、どうして?
その丼の中のコメを作るのに200リットル弱、乗っている牛肉85グラムを作るには1700リットル、ほかにもタマネギとかショウガとかを作るに要る水を足すと、そうなるのだそうだ。
これをヴァーチャルウォーター、仮想水という。
仮想水の重さは牛肉は20000倍、豚肉は6000倍、鶏肉は1500倍を必要とするのだってさ。
こうなると日本の半分以下の雨量のヨーロッパで、牛肉を食う文明が育ったのはどういうわけだろうかと思ってしまう。
雨量が多いということは、それだけ食料が豊かで、自給自足しやすいってことか。なのに日本の食料自給率は4割を割ったそうだ。
重さの何千倍もの水を使うといっても、垂れ流しているのではない。また雨になって戻ってくるから、まさに再生可能な原料である。
水の無い地域の人々は、水を輸入するのではなくて、それを千分の1、万分の1に圧縮した食料として輸入するってことである。逆に言うと、牛肉を輸入するとその2万倍の水を輸入することになるのか。
人間も1キロ太ると10トンもの水を消費したのだろうか。
こうして見ると、太陽と水と土を資源とする農業が、もっとも再生能力が高い産業であることに思い至る。
ところが、福島第1原発の事故が、その再生の循環の輪を断ち切りつつある。
核物質に汚染されたらもう再生循環できないのである。今年だめでも来年があるさって、そういう期待をできない農業となった。
毎日降り注ぐ核汚染物質は、来年からの未来がある生活圏の復興をさえさせてくれない。生活圏が縮んでいく。
この食料と生活の場を奪われていく日々の状況が、わたしの心のなかになんともたまらない閉塞感を蔓延させる。
仮想水で思いついたが、仮想電力ってのもありそうだ。
近代農業は機械、プラスチック製品、農薬、合成肥料、照明など、多くの電力を使っている。
コメ1キログラムに何キロワットの電力を使うのだろうか。昔はトマトを真冬に食うなんてことはしなったが、温室栽培では1個に何キロワット要るのだろうか。
農業も原発の電力に頼るようになって、再生能力が低減しているかもしれない。
人間が生きるために働いているとしたら、そのもっとも根源にある目的は、毎日の安定した食料の確保である。
そこに避けようも無く遮断の手を突っ込んでくる核汚染事故の怖さが、人間の身に染みるには、もう一度くらい同じことが起きることが必要なのだろうか。
2011/08/12
472日本語下手くそグーグルクローム
インタネットブラウザーがいろいろあるが、わたしはMSinterenet explorerを使っている。
わたしのブログ「伊達な世界」には、その閲覧者がどんなブラウザーで見てるのか、統計が出てくる。
それだとMSi.e.が3分の2で圧倒的の多く、2割がfirefox、以下chrome、safariなど。
ついでにOSは、MSが77パーセントと圧倒的で、MACはそれに次ぐがわずか11パーセントである。
ブラウザーをほかのやつに乗り換えようかと、あれこれやってみるが、やっぱりMSi.e.に戻るのだ。
わたしの評価ポイントは、縦書き用htmlタグが有効か、こちらの指定したフォント形式が登場するか、その2点である。
こ難しいことはもともとできないし、文章主体だからそれが重要なのだ。
さて、4つのブラウザー(i.e. chrome firefox opera)を、わたしの作っているサイト「まちもり通信」の「景観戯造」ページで、表示の仕方を比較してみた。
まず、縦書き表示だが、これはi.e.だけしかできない。あとは全部不合格。
これって、どうも縦書きhtmlタグがMSi.e.だけにしか通用しないらしい。それってけしからんと思う。MSが開発したタグだからほかのメーカーは読んでやらないって、狭量である。
次は文字であるが、隷書を表示できるのはMSi.e.だけなのである。
chromeは無茶無茶文字に化けしてしまった。日本語を知ってるのかよ。
operaは隷書と角ゴシックの混合表現に化けた。
fire foxはすべて角ゴシックに化けた。
隷書以外のフォントでも文字の化け方はあるのかもしれない。
こうしてみると一番だめなのはchrome、とりあえず合格はi.eである。
縦書きと隷書をどうやったらMSi.e.以外のブラウザでも表示できるのだろうか。
なお、画像の上にポインターを置くと別の画像に換わる仕掛け(参照「景観戯造」)は、どのブラウザでもできたが、これがMACだと全然できないらしい。
わたしのブログ「伊達な世界」には、その閲覧者がどんなブラウザーで見てるのか、統計が出てくる。
それだとMSi.e.が3分の2で圧倒的の多く、2割がfirefox、以下chrome、safariなど。
ついでにOSは、MSが77パーセントと圧倒的で、MACはそれに次ぐがわずか11パーセントである。
ブラウザーをほかのやつに乗り換えようかと、あれこれやってみるが、やっぱりMSi.e.に戻るのだ。
わたしの評価ポイントは、縦書き用htmlタグが有効か、こちらの指定したフォント形式が登場するか、その2点である。
こ難しいことはもともとできないし、文章主体だからそれが重要なのだ。
さて、4つのブラウザー(i.e. chrome firefox opera)を、わたしの作っているサイト「まちもり通信」の「景観戯造」ページで、表示の仕方を比較してみた。
まず、縦書き表示だが、これはi.e.だけしかできない。あとは全部不合格。
これって、どうも縦書きhtmlタグがMSi.e.だけにしか通用しないらしい。それってけしからんと思う。MSが開発したタグだからほかのメーカーは読んでやらないって、狭量である。
次は文字であるが、隷書を表示できるのはMSi.e.だけなのである。
chromeは無茶無茶文字に化けしてしまった。日本語を知ってるのかよ。
operaは隷書と角ゴシックの混合表現に化けた。
fire foxはすべて角ゴシックに化けた。
隷書以外のフォントでも文字の化け方はあるのかもしれない。
こうしてみると一番だめなのはchrome、とりあえず合格はi.eである。
縦書きと隷書をどうやったらMSi.e.以外のブラウザでも表示できるのだろうか。
なお、画像の上にポインターを置くと別の画像に換わる仕掛け(参照「景観戯造」)は、どのブラウザでもできたが、これがMACだと全然できないらしい。
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