わたしの生まれ故郷は高梁盆地、そこの鎮守の神社に生まれて少年時代を過ごした。そう、まさに故郷である。
そこは岡山県の中西部にある市域は広大な高梁市の、臍のように小さな中心部である。四方を丘陵で囲まれた小さいながらも典型的な盆地の景観を持っている。この辺りは吉備高原と言われる準高地平原で、そこを高梁川が切り込んで作ったのだ。
今は世界中が新型コロナウィルスパンデミックで、日本列島も2月頃からそのコロナ禍の中にある。この山間部の人口1万人ほどの小さな高梁盆地には、その災いが及ばない平穏な日々がつづいていた。だが2020年7月22日、その盆地最初の感染者2名が、とうとう発生した。
それがスリランカ人であると聞いて、そんな遠くからこの山間の小さな町に何故と意外だった。でも実は、盆地内にある吉備国際大学は、外国人留学生誘致に力を入れているから、十分にありうることだ。インド洋の島国からはるばるやってきた地で、パンデミックに追いつかれるとは気の毒なことだ。
●生まれ故郷「高梁盆地」が舞台の本
その高梁盆地を舞台とする『荘直温伝 忘却の町高梁と松山庄家の九百年』(序・荘芳枝、松原隆一郎著 吉備人出版)という本が出版されました。それをを知ったのは、新聞書評を読んだかつての仕事仲間の旧友が教えてくれたからからでした。(ここから口調が丁寧語に変わったのは、この本に倣うことにしたからです。)
うーむ、買うかなあ、だが老い先短いのに、家に蔵書がたまりすぎて困る、蔵書は他人に差し上げる、これからは本購入一切禁止、そう自分に言い渡して10年ほどになります。
でもなつかしい故郷の本ならば、禁を破って購入しようかな、政府がコロナ給付金とて、税金10万円を返してくれたからなあ、それでも定価税込み3300円とはちょっと高い、そこで近所の市立中央図書館に購入を申請をしました。
ところが嬉しいことに故郷の幼馴染の同期生から、入手したけどもう読んだからそちらに回す、近くに住む同級生たちと読み回すようにと、その本がやってきました。さっそく興味深く読んだので書評を、というにはあまりに私的なことなので、読書感想文としてここに書こうと思います。
故郷の本を読むときは、自分にかかわることがどう記述されているか、知っている人が出てくるか、知っている場所が出てくるか、そんな極々私的なことにどうも興味が行きます。そして著者が読者よりも知らないことや、間違いがあると、もう鬼の首でも取ったような良い気分になります。
さて、表題『荘直温伝 忘却の町高梁と松山庄家の九百年』と著者「序・荘芳枝、松原隆一郎著」が気になります。
荘直温(しょうなおはる)は、主人公の氏名でしょう。わたしはその名を知らなかったのですが、荘という姓の人に出会ったは、高校で歴史教師が荘智心先生だけですが、ご親戚かもしれません。
忘却の町高梁とはどういう意味でしょうか、高梁の町が世間から忘却されているのでしょうか、逆に高梁はなにか大きな忘却をした町なのでしょうか、気になります。
松山庄家とはなにか、庄家となっていますが、庄は荘の略字ですから主人公の家系なのでしょう。松山とは、今の高梁盆地あたりを近世までは松山と言っていましたから分かります。だが九百年となると、源平合戦時代にさかのぼるのですが、松山がそのころの歴史に登場するとは聞いたことがありませんから、読むのが楽しみです。
荘芳江さんについても知りません。わたしの母校の小学校教師だったと経歴にあるのですが、在校の時期が一致しないようです。
松原隆一郎さんのお名前だけを知っていますが、著書を読むのはわずか2冊目です。その1冊目は都市景観に関する本で、もう20年も昔の発行前でしたか、その本の編集者からメールがあり、わたしのネットページの一部を引用したいとのこと、それでその名を知ったのでした。その本を書棚に探したが見つからないのは、だれかに差し上げたのでしょう。今、ネット検索したら「失われた景観―戦後日本が築いたもの 」(PHP新書 2002)と分かりました。
書評ならば、本の内容の紹介から書き始めるものでしょうが、そのあたりは池澤夏樹さんにお任せします。これは極私的な読書感想文ですから、本の中のわたしに関係深いことから記していきます。もちろん全部読んでからこれを書いているのですが、極私的に関係することは次の件だけだったので、それから開始することにします。
●幕末地図に百年後のわが生家を探す
巻末に付録として、高梁盆地の幕末のころの地図「備中松山城下図」(松山とは当時の高梁の地名)があり、市街部には商家や武家の居住者名の記入があります。
わたしは都市計画を仕事にしていたし、大学を建築史研究で出ましたから、こういう歴史地図を見るのを大好きです。
そして歴史地図ならば、とうぜんに御前神社(おんざきじんじゃ)があるはずです。御前神社とは、この地図の時代から100年ほど後に、わたしの生家となる城下町の鎮守社です。15世紀半ばには確実に存在していたとわかる文献がありますから、幕末には当然ありました。
この地図には御前神社があるはずと探すと、なんとそこは空き地です。なぜ?
松原図の御前神社付近拡大(御埼丁と記入の上の空地が御前神社の位置)
この地図は既存資料二つ(国分胤之「昔夢一斑」、泉順逸「備中高梁城下絵図下絵」高梁市歴史美術館蔵)を参考にして、この本のため新たに製作したとあります。ここでは著者の名をとって「松原図」という言うことにします。
他の八重籬と八幡の各神社や寺院の記入はあるから、寺社名を書かないルールではないようです。更に御前神社がある地名を、「御埼丁」と書いてあります。「御前丁」のはずです。もちろん神社名による名称です。
これらは参考にした二つの資料がそうなっているか、あるいは写し間違えたか、あるいは理由あってそのように変えて編集したのか、どうなのでしょうか。
参考資料と記してある〔国分胤之「昔夢一斑」〕と〔泉順逸「備中高梁城下絵図下絵」高梁市歴史美術館蔵〕を探しました。
「昔夢一斑」(1928年発刊)は、国会図書館がデジタル化してネット公開しているので見ることができます。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190202
御崎か御前かについては、「増補版高梁市史」に次のようなことが書いてあります。1444年にこの神社の神職が書き残した「神社祭礼次第」があり、その文中には「御前神主」とあり、また1622年及び1704年の神社寄進帳には、「御崎神社」と書かれているとのことです。
1651年に時の鐘がこの神社に作られましたが、その由緒が鐘に鋳込まれた文字の銘文があり、そこには「御前大明神」の語があります。御前も御崎も同義語のようですが、わたしの記憶の範囲では御前でした。
幕末の1850年前後頃の各町丁ごとの武家と商家の名称のリストがあり、付属の地図「松山城下之図」(ここでは「国分図」と言いましょう))には主な町丁名と主な施設や社寺を記しており、御前神社がその鐘撞堂(かねつきどう:現存する)とともに大きく記してあります。
ただし国分図には、松原図のような住民名記入はないので、リストから判定するしかありませんが、いずれにしても御前神社も御前丁も記入してあります。
「松原図」が参考にしたもう一つの泉順逸「備中高梁城下絵図下絵」(ここでは泉図という)は、ネットを探してもみつかりません。現物を見るしかないので、高梁盆地に住む旧友に頼み、一方で歴史美術館にメールで問合せをしました。
泉図の御前神社あたり その結果として分ったのは、泉図には御前神社があります。そして下絵と書いてあるごとく鉛筆によるモノクロ画ですが、驚いたことには、これをもとに色彩絵図に仕上げたもう一つの泉図があるのです。
それは泉順逸「松山城下屋敷図 幕末頃 昭和44年6月13日作成を終る」とあります。「下図」にもこれにも御前神社の記入があり、御崎丁ではなく御前丁とあります。
泉順逸「松山城下屋敷図」の御前神社付近部分拡大 こちらの図のほうが美しく詳しいのに、松原図の作成の参考にしなかったのどのような理由でしょうか。
なお、泉順逸「松山城下屋敷図 幕末頃」には、次のような参考文献の記入もあります。
弘化二年正月二十六日作成城下之図 杉木家蔵
嘉永四年御家中席順表 杉本家蔵
慶応四年二月坪井○○備中松山城下絵図 信野友春氏蔵
昔夢一斑 国分胤之氏著
延享元年差出帳之内町屋之部 芳賀氏蔵
高梁町切図、同土地台帳 高梁市役所
松原図は、なぜこれらを参考にしなかったのでしょうか。御前神社は1839年に火災で炎上し、1845年に再建したそうですから、この間の地図とすれば、神社も鐘撞堂定番の家も滅失していたかもしれませんから、松原図はその表現でしょうか。しかしそれならこの火事で600軒も焼けたのですから、他にも空白地が多くあるはずです。
この地図を持って高梁盆地をめぐって、往時の美しかった城下町を偲べと、松原さんは書いているのですが、たまたまわたしの生家だった神社に関することなので気が付いた疑問ですが、この他にも疑問とすることがあるかもしれません。
ついでに言えば、松原図では高梁盆地はこれだけしか家がなかったように見えますが、実際はもっとあったのです。対岸には備中鍬を生産した鍛冶屋町があったし、山すそや中腹には農村集落があったのです。住人名を書かないにしても、それらがあったことを表現してほしかったと思います。泉順逸「松山城下屋敷図」にはそれがあります。
さらに言えば、現在の鉄道の線路と駅の位置を記入し、地図づくりの基本であるスケールを記入してあれば、持ち歩くときに往時と現今の対比照合をしやすかったろうにと思うのです。
ということで、御前神社と御前丁は参考資料に存在していますので、松原さんは何らかの理由で神社名を削除し、町名を別名にされたのでしょう。聞いてみたい。
●御前神社の鐘撞堂・時鐘・鐘撞定番高梁
「昔夢一斑」の丁町別人名リストの中に興味深い発見をしました。「鐘撞定番」として3名が書いてあります。この「鐘撞」の鐘とは、御前神社の「鐘撞堂」にある時の鐘のことで、「定番」士分の3名は定時にその鐘を撞いて、城下に時刻を知らせる役割の武士たちです。もちろん吊り鐘と鐘撞堂の管理をしたのでしょう。
なお、そこにある藤本又兵衛の名は、今の下町にある藤本呉服店の先祖だと、その末裔になるわたしの同級生の藤本さんが教えてくれました。
国分図と泉図には、その鐘撞堂を描いてあります。
『昔夢一斑』にある「鐘撞定番」の氏名
他の資料によると、鐘撞堂の南隣の敷地に長屋があり、この3名が住んで居たとあるように、泉図ではその3名の名が記入してありますが、松原図にはありません。
その「時の鐘」は1651年にここの鐘撞堂に設置したと、藩主の名で鐘にその旨が鋳文字で銘記されていました。そして1940年まで290年も盆地に、大時計のようにその音が響いていたでしょう。もちろん近代になってからは鐘撞堂定番はなくなり、神社の神職が撞いています。わたしの祖父や父がそうでした。
御前神社付近
(グーグルアース)御前神社参道坂道の登り口
(グーグルストリート)参道坂道の途中から振り返り鐘撞堂を見る
(グーグルストリート)
1926年の写真 鐘撞堂の北に旧制高梁中学のテニスコートがあった
御前神社境内と付近 1950年代の記憶(2011描画)
御前神社社殿・社務所・宮司宅 1950年代の記憶
(2011描画)御前神社とその周辺の現況
(グーグルアース) しかしその鐘は1940年に、戦争の武器となるために軍に供出して出て行ったままで、吊り鐘のない鐘撞堂がいまもむなしく建っているばかりです。
その鐘が出ていった年は紀元2600年の節目とて、元日にこの鐘を2600回撞き鳴らす行事がありました。その時の音と騒がしい雰囲気が、2歳半の幼児だったわたしの人生最初の記憶となっています。
その年、日本開催予定だったオリンピック大会を、戦争で返上しました。
1940年元旦紀元2600年祝賀2600回撞鐘記念写真
290年間ここにあった鐘が戦争に出ていく日 1940年
この出て行った吊り鐘を、戦争が終わった次の1946年に、まだあるかもしれないと瀬戸内海の島に、父に連れられて捜索に行きました。伯父と従弟も一緒です。暑い夏の日、小さな船に乗って着いたのは直島でした。今はすっかり観光の島になっているようですが、そのころは三菱の金属精錬工場だけで、戦中に武器にするべく各地から集めた金属を溶かしていました。
島は工場の煤煙のせいでしょうが、草木一本もない禿げ上がった赤い小山でした。その丘の上の赤い土の大きな空き地に、吊り鐘の大群が待っていました。
さまざまな吊り鐘が暑い陽に照らされて黒々と、校庭の子供のように広がり並んでいました。幼少年の記憶でも、それは実にシュールな風景でした。
子供の背丈ほどの吊り鐘群の中を歩き回り、御前神社の鐘を探しまいたが、見つかりませんでした。もう溶かされて武器になっていたようです。この鐘が何人かを殺したかもしれません。その帰り道、瀬戸内海のどこかの美しい砂浜海岸で生まれて初めての海水浴をしました。まだ、だれもいない海水浴場でした。
●参照:2016/08/22【敗戦忌】兵器となった鐘は戻らない
http://datey.blogspot.com/2016/08/1209.html
なお、70年代だったと思いますが、奇特な人がこの鐘撞堂に吊り鐘を寄付して、街に時の鐘の音が再び響いたのでした。その吊り鐘はプラスチックでできており、鐘の音は録音機から放送していたそうです。
戦後再び、見上げれば小さいけど黒い鐘が見え、鐘の音が聞こえた時期がどれくらい続いたのか知りませんが、今はそれもありません。
グーグルストリートには、鐘撞堂が立っている姿が見えるので健在のようです。これは少なくとも95年前には建っています。社殿も拝殿は1877年築、本殿は1881年築だから、いずれも長寿の木造建築です。
ついでに「昔夢一斑」の幕末の町丁ごとの人名リスト中に、わたしのご先祖の名を探しました。わたしの祖父の代から御前神社宮司(社掌)になりましたから、御前神社にはいません。
父が編集制作した伊達家系の資料には、高梁での伊達ファミリーの先祖は、伊勢の亀山からきたそうです。転封(1744年)された板倉家の士分として、殿様についてきてそのころの姓は増田だったそうです。だから幕末には誰かいるはずです。
そのリストの中に、東間之町に2名の増田〇〇(判読不能)と増田忠治という名前が見えるのですが、これでしょうか。
●参照:広報たかはし 地名をあるく 92.御前町
https://www.city.takahashi.lg.jp/site/koho/onzakicho.html
以上で、荘直温伝の本筋とは全く関係ない極私的なことですが、無理に関係つけるとすれば、荘直温は私の祖父が撞く御前神社の時の鐘の音を聞いたことだろうし、荘芳江さんは父が撞くそれをお聞きになっていたでしょう。
次から本文を読んでの、いろいろな望郷と忘却の故郷への感想を書きましょう。
(追記 20200813)
今朝の新聞を見たら、コロナが蔓延するからお盆の帰省を控えろ、という世論があるという。わたしはもともとお盆帰省の習慣がなかったし、もしあったとしても今や帰るべき家がない。
そうか、この記事は一種のリモート帰省だなと気が付いた。リモートの先は空間と時間の両方である。そうだ、8月15日が来るのだから、この話も書いておこう。1945年のことである。これも荘直温には関係ないが、御前神社のことならこれも外せない。
当時の憲法が定める戦争開始と終結の責任者たる天皇が、1945年8月15日の正午から、初めて肉声で放送する事件、これにわたしは遭遇した。場所は岡山県中西部の高梁盆地の、生家の神社社務所であった。
その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から兵庫県芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて住んでいた。盆地内のほかの寺社などに児童51名が疎開して来ていた。
当時ラジオのある家は限られていたが、その疎開学級が持っていた。社務所の玄関口に近所の人々が集まって、敗戦の詔勅を聴いていた。
放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、列になって黙々とぼとぼ参道の石段を下って行くのを、わたしは社務所縁側から見ていた。緑濃い社叢林の上はあくまで晴れわたり、暑い日であった。
もちろん8歳のわたしには内容を分らない。その場の情景の記憶のみである。
聞いていた人たちがこれを敗戦と分かったのは、たぶん、疎開学級の教員がそれを伝えたのであろう。
その半月後に父が兵役解除で戻ってきた。父は満州事変、支那事変、太平洋戦争と3度も繰り返して、日本の十五年戦争のうち半分の通算延べ7年半も兵役に就いた。
最後は本土決戦に備えるとて、小田原の海岸から上陸する敵を迎え撃つ陣地構築をしていたが、「
父の十五年戦争」がようやく終わった。
だが、わたしの家では戦後戦争とでもいうべき難が始まった。戦後農地改革で小作田畑を失い、食料源がなくなったのであった。支払われた補償金は数年間の分割払いで、戦後超インフレで紙切れ同様になった。
戦争で思い出すのは、とにかく腹が減っていたことばかり、3人の子に満足に食わせてやれないのが、父母の一番の悩みだったろう。今のコロナ禍では、食い物の苦労がないだけ良しとするか。
(つづく)
◎高梁盆地に関する記事はこちらにも