検索キーワード「寿町」に一致する投稿を日付順に表示しています。 関連性の高い順 すべての投稿を表示
検索キーワード「寿町」に一致する投稿を日付順に表示しています。 関連性の高い順 すべての投稿を表示

2025/09/01

1906【早朝の公園に行列】誰もが参加できる野外炊き出し活動は救貧策からコミュニティつくりへの動きか

●衰える歩行能力に逆らって 

 さすがに88歳ともなれば、これが老衰というものかと、じわじわと老いが押し寄せる気配を感じる。身体のどこといって痛くもかゆくもないのだが、日夜にわずかづつなんでもない動作がノロノロ方向へと引きずられている。

 特に歩く速度が普通の半分くらいになった。わが身の得意は歩くことだったのが、こうもノロノロになると、これが老いて衰えると書く老衰なんだなと納得。それに無駄だと分かっている抵抗をしているのが、日課とする早朝徘徊である。

 毎朝6~7時ころに出発して、1~3時間かけてふらふらと歩いてくる。どこと決めているのではなく、家の周りを日によってコースを変えて四角にまわるとか、ちょうどやってきたバスがどこ行きでもかまわないから乗って、適当なところで降りて歩いて戻ってくるとか、地下鉄に乗って遠くまでいってウロウロしてまた地下鉄で戻るとか、日によって気分を変える。

 気分を変えるというよりも、その日に歩いてみる街の風景の変化を楽しむのだ。この町に住んでもう23年だから、ほとんどの道を歩いた。この前ここを歩いたときはどうだったかなと思いだしつつ、ああこの街も衰えたかとか、相変わらずにぎやかだとか、おや、こんなところでこんなビルがっ立ったのかとか、定点観測的に見るのが面白い。

 自然の豊かな郊外の大規模な公園も好きだが、自然は四季しか変化しないし、変化の仕方が決まっている。もちろんそれを楽しむのが公園だが、それよりも短いサイクルで多様な変化が著しい大都市の真ん中を歩く方が、はるかに面白い。

●早朝炊き出しを待つ行列に出くわす

 さて、今朝も6時半頃に出発、まず大通り公園に行ってから、次の方向を考えようと来てみれば、いつもは早朝でほとんど人はいないのに、なんだか異様に人影が多い。
 今朝の伊勢佐木警察署前のブロックには、年配らしき大人たちが長い行列をして何かを待っている様子。行列の先頭あたりの広場では若者たち数人、机を並べたり、テントを立てようとししたり、何やら荷物を運びこもうとしている。

炊き出し食事を待つ人たちの行列

炊き出し食事をつくり配布する若者たち

 はて、どんなイベントか見当がつかないので、支度している若者に尋ねてみた。
「これって、何があるのですか?」
「ああ、8時からカレーの炊き出しをするのです」
「あ、そうですか、毎週日曜日の朝ですか?」
「いや、月に1回です」
「おお、ボランティアですか」
「はい、そうです」
「ほお、どうもありがとうございます」

 自分が炊き出しを受けるのではないにしても、若者たちに礼を言う気になった。そうか、ここでも炊き出しを行っているのか、でも初めて出会った。炊き出しと言えば、寿町の公園で正月に数日を行っているのに、毎年に出会う。

 あれもボランティアなんだろう。寿町のそれがある種の貧窮救済政治闘争的雰囲気もあるのに対して、こちらは総じてのんびりしているようだ。宗教団体かとも思ったが、その雰囲気もない。

 炊き出しを受けようと並ぶ行列が長い。200人くらいはいるが、まだ7時前だから、8時まで立ったまま1時間以上を待つのも、公園の林の下でもこの暑い日では結構大変だ。先頭に人は6時前に来ているようだ。行列の中の話声では、250人分で打ち切りになるとかだから、もうすぐ満杯だ。

 わたしは足の健康のためにここに来たのだから、一応大通り公園の南終点まで歩いて引き返してきた。そしてもう8時直前なので、ベンチに腰かけて見学することにした。部外者のようで何となく気が引けるが、ここは公園だから誰がいてもかまわない。もしかして炊き出しをいただこうかとも思う。

 先ほどから行列は長くなり、ここが最後尾と書いたプラカードを掲げる若者がいたから、そこが250人目なのだろ。でもその後にも数人がならんんでいるのは、余分にありつけるかもと期待しているのだろうか。寿町では4~500人くらいいた規模が違う。

 ボランティアの若者たちは十数名に増えて、おそろいの黒いシャツを着て、きびきびと動いてカレー配布の用意をしている。数名は大きなプラ袋をもって、行列に沿って歩きつつゴミ拾いをしている。彼らが連れてきた幼児たちが数人いて、遊んだり手伝わされたりしているのがほほえましい。まなじりあげるボランティアではないのが気持ちよい。

●公園の緑の中にカレーの匂いが満ちた

 やがて、配布の用意ができたらしく、全員集合記念撮影をしているのも、楽しい活動の様子だ。若者たちの子らしい幼児たちもうろうろ遊んでいる。
 「皆様、おはようございます。では、第16回炊き出しをただいまから行います。メニューは○○提供のから揚げと□□提供のカレーで~す」

 宗教団体ではないらしい、何もそれらしいことも言わずに炊き出し配布が始まった。思い出したのは、十数年前までは、大通公園の北の端あたりで。定期的に炊き出しをやっていたことがあった。それは宗教団体であったらしく、炊き出し食事配布の直前に待っているみんなを集めて、何やら宗教的な説教をしていたものだった。

 ベンチの隣に座った人を見ると炊き出し食事は、水のプラボトル1本と、白い発砲スチロール製の船形皿にご飯・カレー・鶏唐揚げ・千切りキャベツが盛られている。ベンチに座る人、立ったまま食べる人、公園の柵に腰かける人、座りこむ人、あたりにカレーのにおいが充満する。

 やがて列が進んで最後尾のプラカードがやってきたが、その後には30人くらいが続いて行列している。どの人も空のカレー皿をもっていて、後のほうは食べながら歩いている。お代わりを期待する行列らしい。

 それらも一通り配布が済んで、ボランティアの若者がカレーの入った皿を持ってきて、「いる方には差し上げます」というので、わたしもいただこうかと一瞬思ったが、いやいやとひっこめた。周りのカレーのにおいの中で、わたしはもうの満腹気分になっていた。

 配布が始まってこの間は20分ほどだったから、300食ほどがその間に行き渡ったことになる。食べ終わった人々は三三五五にどこかに消えていった。この人たちはどこからやって来たのだろうか。ほとんどが老年~中年男であり、若者も見かけた。女性は5人ほどしかいなかった。見かけから言えば、わたしも立派に仲間の一人である。

●炊き出しを通じてコミュニティ活動へ

 この人たちは、やはり寿町からだろうか。真冬の寿町炊き出しと、真夏の大通公園炊き出しとは、並ぶ人たちは同類だろうか。寿町からここまでは600mほどだから遠くはない。いや、わたしがいただいても一向にかまわない雰囲気だったから、寿町に限るのではあるまい。

 そしてまた、炊き出しをする方の若者たちは、いったいどこのひとたちだろうか。彼らの所属を示すらしい幟が数本立っていて、「横浜チェイヨー45横浜炊き出しの会」と書いてある。さっそくネット検索した。SNSにこの炊き出しの予告が載っている。そこにはこうも書いてある「お子様 親子 外国人の方 どなたでも歓迎いたします」、おお、やっぱりそうなんだ。

 ということは、これはいわゆる貧民救済ではなくて、新たなコミュニティづくりの試みかもしれない。そこが寿の炊き出しとは異なるのだろう。食材を提供する人、労力提供の人、そして炊き出しを受給する人などなどが、月に一度は公園に集まって朝食会をやるイベントなのだろう。

 そこに通りすがりの人がどちらへも加わることもできるのだから、そこが寿公園とは異なる。寿町炊き出しは、まるで異界のごとくこわばっていて、通りすがりで入る人を拒否はしていないだろうが、躊躇させる雰囲気に十分に満ちている。

 わたしも見物する人で、今朝はそのコミュニティの一員だった。非力なよたよた超年寄りにできるのは、その若者たちの楽しそうで意義ある活動の様を、こうしてSNSに書くことで、感謝して紹介するくらいしかできない。

(2025/09/01記)

ーーーこのブログで関連する記事--- 2025/01/31・1866【横浜徘徊】寒空の公園での炊き出しに行列貧困風景 https://datey.blogspot.com/2025/01/1866.html

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

2025/08/11

1903【都市漂流人生】人生19番目、最後から2番目の住み家へ、わが都市流浪はついに漂着するか

 わたしは八十八回目の夏を迎えており、それなりに元気で過ごしている。

    願わくは熱に中りて夏死なむ文月葉月の真昼真中

と、西行法師をもじって、今年も夏の狂歌を詠むのだ。それにしても暑い日々だ。

●人生19番目にして最後から2番目の住まいへ

 国際紛争の多発そして内外ともに極右台頭の世界情勢で、どうやら、わが人生で二度目ので戦争に出会うことになりそうな気配だ。そこでそろそろ、"究極の安全避難地"へ早期移転したいと考えているところだ。

 そんなときもとき、今年(2025年)7月半ばに、わたしの住まいを移した。生まれた家から数えると、19番目の住まい(一年以上継続)である。これまで西から東へまた西へ東へと、日本列島の都市を漂流した。これが人生最後から2番目の住まいだろう。

 と言っても、同じ共同住宅ビル内の2階分上に移っただけにて、これまでと変わらぬ生活環境である。もう88歳という歳も歳だから、当然のように高齢者施設に移ることも検討ししたが、結局はこうなった。

同じ共同住宅ビルの7階から9階へ縮小移転

 ここ横浜都心部に移転してきた時は65歳だったから、それから23年も経った。それまでは鎌倉の谷戸の中で、一戸建ての木造住宅に23年間住んでいた。そこは緑豊かだが、街までバスで15分のところだった。買い物不便が一番問題だった。

 だから、高齢者の仲間入りした時に、その生活環境を考えて、ここ横浜都心部の公的借家(県住宅供給公社)の共同住宅を選択したのだった。鎌倉では静かな森の中で鳥の声ばかりだったが、こちら横浜都心住宅街は交通騒音に溢れている。それを凌駕する環境は、あらゆる都市施設が歩ける範囲にあり、生活には便利なところであることだ。

 ここを選んだもう一つ重要なことは、ひとつのビル全部が公的機関による運営の「賃貸借方式の共同住宅」であることだ。鎌倉の小さな庭の小さな家でも、一戸建ての住宅の管理は面倒なことであった。自分で管理しなくてもよい公的借家を探した。

 ここ横浜都心では、歩ける生活圏に医療や福祉の施設も数多くあり、図らずも遭遇した3年にわたる病妻の在宅介護も、それらを目いっぱい活用して円滑にできたのだった。ここに来た時は介護までも予測できなかったが、ここに老後の住まいを選んだことは、正しかったと再認識したのであった。

 ここを選んだ時に、もう一度の引越しがあるだろうと妻は言っていた。それは高齢者施設のことを指していたのだが、彼女はこの家で3年の在宅介護ののち、昨夏に独りで最後の移転をして行った。

 さて、独居老人となったわたしは、このままここにいるか、どこか他に移るかといろいろ検討した。自分の年齢と体調と懐具合そして初老の息子と相談しつつ、高齢者向け施設をいくつか見分にも行ってきた。しかし、どれも帯に短し襷に長し状態で、唯一移りたいと思い入居仮申込した近所の「サービス付き高齢者住宅」は、満員状態が続いており、1年たってもお呼びが来ない。

 そこで、現住居の同じ共同住宅ビル内で、独居老人には広すぎる4LDK住戸から、相応の1LDK住戸に移ったのである。掃除も簡単だし、2階分上なので眺望も開け、家賃もそれなりに安くなった。

 これまで22年間を住んだ横浜都心で、今の公的借家生活の継続が、わたしの身体がまだ動くから、ある程度の期間はこのビル内で暮らせるだろう。いずれ介護が必要になるとしても、病妻の在宅介護体験から、超高齢者にも住みよいと分かったから、ある程度は生活可能だろう、高齢者施設でなくてもよいだろう、という判断である。甘いかもしれないが、、。

 たぶん、これがわたしの人生で最後から2番目の引っ越しであろう。いや、ホスピスに移るかもしれないが、そうなると最後から3番目になるのか、、。
 ともかくも、今は9階からの広くなった空を眺めつつ、これまでと同様に街なか徘徊をして、日本の都市がどう変わっていくのかを弥次馬として眺め楽しむ日々である。

●わたしの住宅漂流一覧

 今回の引っ越しは、わたしの人生で19件目の住まいである。ただし1年以上を継続して暮らした住居であり、単身赴任等で家族とは別の住まいもある。
 実はこれまでのわたしの住宅漂流記は、このブログに既に書いている(参照:2000年2月~2008年7月 賃貸借都市の時代へ-体験的住宅論)。
 それに今回の引っ越しを加えて書くと、わが人生住宅漂流は一覧は下記の通りとなる。

持家:1937~56戸建て2階建:生家、高梁市御前町御前神社内 漂流以前      

漂流以前の高梁盆地の生家があった神社(矢印の位置)(google earth)

間借:1957~58大学寮木造2階建て長屋2階、川崎市高津 漂流開始

間借:1958~60大学寮木造平屋、目黒区大岡山東京科学大構内 

間借:1960~61大学寮木造平屋、目黒区緑が丘東京科学大構内 向岳寮

東京科学大学大岡山キャンパス内の学生寮があった位置(矢印) (google earth)

間借:1961~62公団賃貸借10階建て共同住宅4階、大阪市西区靱本町

借家:1962~63民営木造2階建て共同住宅2階、寝屋川市平池

借家:1963~65民営木造2階建て共同住宅2階、名古屋市東山区園山町

借家:1965~66公団営RC造5階建て共同住宅2階、名古屋市鳴海区鳴子団地

借家:1966~68民営ブロック造2階建てテラスハウス、太田市西矢島

借家:1968~79公団営RC造5階建て共同住宅2階、横浜市港北区南日吉団地

借家:1973~74公団営RC造14階建て共同住宅12階、堺市?、単身赴任

借家:1975~76民営RC造10階建て共同住宅3階、大阪市新大阪駅近、単身赴任

⑬持家:1979~2002木造2階建て戸建住宅鎌倉市十二所 

鎌倉の谷戸の中の自宅(矢印)(google earth)

借家:1991~94民営RC造3階建て共同住宅2階、品川区戸越銀座駅近、仕事用別宅

借家:1994~96民営RC造14階建て共同住宅2階、大田区梅屋敷駅近、仕事用別宅

借家:1996~98民営RC造14階建て共同住宅7階、品川区大崎駅近、仕事用別宅

借家:1998~99民営RC造14階建て共同住宅8階、目黒区目黒駅近、仕事用別宅

⑱借家:2002~25 県RC造公社営10階建て共同住宅7階、横浜市中区山田町

⑲借家:2025~現 県公社営RC造10階建て共同住宅9階、横浜市中区山田町

横濱関外の自宅がある共同住宅ビル(矢印)(google earth)

●わたしの住宅漂流以前:故郷の生家

 わたしのこのような都市漂流の旅も、そろそろ終わりの時が来そうである。だから、ちょっと振り返ってみよう。
 わたしの都市漂流が始まる前の19年間の出発地は、88年前の初夏、小さな盆地の街にある神社の森の中であった(上記①)。これは普通の家庭のそれと比べると、かなり異なる環境であったと言えよう。
 
 その神社の境内地は、盆地の中の街と山林の境界あたりにあったが、背後の神社山林も含めて広さは5ヘクタールくらいはあった。少年時代は、一般的にみると、かなり広い土地に暮らしていたことになる。

 そこには山林と森と広場と社殿群があり、戦前と戦中は盆地内の別のところにも、広い小作田を神社は所有しており、ここからの小作代金が神社運営の基礎を支えていたらしい。だが戦後に農地改革政策で小作田は小作人に譲渡(その割賦債権金額は戦後インフレで紙屑同様となった)させられてて消滅した。父は宮司と高校事務職の二股で家族を支えていた。後になって気がついたのは、普通ではない環境に育ったということだった。
石段を登った広場の森の中に社殿と生家があった

 街の山際の道路から参道の石段を昇った。参道脇には高楼の鐘撞堂(かつては時鐘があった)が建っている。高さにして20mほど登ると最初の広場があり、そこにわたしの生家社務所があった。そこから直角に方向を変えてまた石段を高さにして10mほど登ると上段の広場に至り、拝殿、本殿,御輿蔵等の社殿が建っている。

 広場の周りは高木群竹林で囲まれた森である。今もその景観構成はほとんど変わらないままである。変わったと言えば、参道の石段が坂道となってアスファルト舗装され、自動車で登れるようになったことと、神社境内の南にあった人い畑地が住宅地になったことだ。 (参照:→境内図、→社殿・生家

 この生家のあった高梁盆地は、気候は温暖だし、歴史のある城下町の小さな街だったが、生活の場としても教育の場としてもほぼ何でもそろっている暮らしよいところであった。そのような街を都市計画で「コンパクトタウン」というが、まさにそれであった。

 だが、少年のわたしには、周りを山々に囲まれた街にも、鎮守の森の中に閉じ込められた生家にも、その閉鎖的環境に辟易していた。この盆地を抜け出すのが少年時代の夢であった。実際に空に舞い上がり飛び出す夢を何度も見たものだった。その閉所恐怖症は今もある。

●わたしの都市漂流住まい
 
 19歳の終わりころ東京の大学に入ることで、盆地脱出という少年の願望をようやく叶えることができた。その後は、日本列島本州南部を東西の都市へ、そして都市の中でもまたあちこちの街へと、まさに漂流してきたのであった。

 敗戦後の日本がようやく高度成長に足をかけようとする頃に社会に出たが、そのころは住宅難の時代にも突入していた。仕事の都合で東京、大阪、名古屋、横浜など、日本の大都市で、多種多様な住宅に暮らしてきた。住宅難の荒波をかぶった。

 それはポットでの田舎少年が、身一つで日本の高度成長期の荒波を泳ぐ漂流の旅であった。あらゆる生活環境を巡った感がある。それは、まさに日本の成長期の居住環境政策の欠如そのものの荒海であった。都市計画家として自身の身を都市住宅政策のモルモットとして生きてきた感がある。実際に実験的に3年ごとに仕事場別宅を移転して、多様な都市居住を体験していた期間もあった(上記一覧表の⑭~⑰)。

 そんな中でも生活拠点として家族と共に住んだのは、鎌倉郊外)に23年、そして今も継続中の横浜都心⑱、⑲)に今年で23年である。生家に住んだのが19年だったから、今や東男になってしまった。ふりかえるとこれら3つの拠点的な暮らしの場は、どれも共通していることは盆地であることだ。(参照:3つの盆地

 一覧に見るように、わたしはこれまでに一寧以上住んだ住まいは計18件を数えるが、そのうちで家族と住んだのは計8件、単独で住んだのが10件である。この単独住まいの10件は企業所属時代の転勤での大阪単身赴任と、フリーランス時代の東京での仕事別宅である。

 フリーランスの都市計画家となってからは、仕事時間が不規則であるし、仕事先は日本全国各地に出かけた。そのために東京品川区内に小さなオフィスとその近くに寝泊まり別宅として小さな共同住宅を借りた。その別宅は実験的にいろいろな場所とタイプを選んで住んで、都市住宅を身をもって研究した。鎌倉の家から息子たちが巣立ってからは、拠点自宅に戻ったが、更に漂流は続く。

●老いを見据えた横浜都心借家

 これらの数多い居住体験により、わたしは都市住宅について、ひとつの信条を持つようになて来た。それは、都市住宅は土地を個々に所有し個々に建設するのではなく、計画的に共同して作り暮らすべきものとすることである。総有という考えかたがあるが、たぶんそれである。

 それは具体的には、区分所有方式の共同住宅(世間では<名ばかり>マンションという)をさけるばかりか、それに反対するのである。必然的にわたしの住むのは賃貸借型の共同住宅で、しかも公的な所有と運営管理下にある住宅選択となった。
 その理由は数多くあり、このブログに別に「くたばれマンション」)として多くの論を載せて来ているので、そちらに譲る。

 だからいよいよ老いを見据えた時が来た2002年、鎌倉の自己所有の小さな戸建て住宅を出て、おそらく最後になるであろう住み家として選んだのは、共同住宅の借家であった。神奈川県住宅供給公社が所有し賃貸運営している、横浜都心部にある共同住宅ビルの中の住戸を賃借したのであった。

 県公社運営住宅は郊外部も都心部も数多いが、わたしが選んだのは横浜都心部の伊勢佐木町に近くて、都市施設が歩ける範囲に充実している立地にある。病院も診療所も数多く、商業施設も文化施設も多様で数多く、大小の公園も多い。興味ないが野球スタジアムもある。もし生活保護世帯になれば一泊1700円の寿町ドヤ街もある。さすがに横浜都心部である。

 特に病院が多さが予想通りに、大いに役立った。介護施設も数多くあり、それは思いがけなく直面した病妻の長期在宅介護に、この立地が大いに役立った。近隣の専門家たちの訪問による看護、診療、リハビリテーション、入浴などと共に、近隣に立地するデイサービス施設などを、効率的に利用できたのであった。

 その共同住宅規模は3ブロックに3棟が建ち計381戸という大規模であるので、それなりの管理体制が整っている。住戸の規模も1DKから4LDKまで各種ある。2002年から住んできたが昨夏に独り者になったので、それまでの4DK住戸から1LDKに移り、面積も家賃も6割になった。同じ生活環境内での移転は、高齢者には迷いが少ない。
左は2002年から2025年まで住んだ7階の住戸、右は2025年移転後の9階の住戸

 こうしてわたしの人生は、緑の森の中の神社境内から出発して、ビルの森の中の空中陋屋で終わりを告げようとしている。ここにどれほどの期間を今後に暮らすだろうか。現在88歳だから長くはないはずだし、長くここに住む願望もない。だが、幸か不幸かたぶん同年配の男と比べると健康な方であろうから、やむを得ずに長くなるかもしれない。困ったことだ。
 
 世界の情勢はきな臭い。わたしが生まれた88年前は、日本は十五年戦争の真っただ中であった。ところが今、またもや世界戦争になる気配だから、不幸にも人生で2度もの世界戦争経験者になるかもしれない。その前にあの世という「究極の避難地」に移転したいものである。そこは最後の引っ越し先として20番目の住み家になるはずだ。
                (2025/08/11記)

ーーこのブログ内の関連する記事ーー
●まちもり通信サイト「くたばれマンション
●「体験的住宅論」賃貸借都市の時代へ-2000年2月~
 ●【片想いの賃貸住宅政策】住宅供給公社よがんばってくれ 2010/02/28
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



2025/01/31

1866【横浜徘徊】内外観光客で賑わう春節中華街の隣には寒空の公園での炊き出しに行列する貧困風景

  今年になって初めて久しぶ横浜都心徘徊、いつものコースの半分しか歩けなかった。それだけ足が弱ってきたということだ。街を歩くのを大好きだが歳が歳だから仕方ない、と、思うことにする。なんでも不都合なことは齢のせいにすればよいのだ。便利なものだ。

 今はチャイナ当たりでは春節という旧正月であり、横浜もチャイナタウンの中華街あたりは春節を祝う雰囲気で、内外からの観光客も多く、にぎわっている。
 その一方で、そこから100mほど離れた線路を隔てた南には、貧困者が密度高く多く住み着くドヤ街の寿町地区がある。その中央にある寿公園で炊き出しがあり、大勢の人たちが行列を作って今日の昼飯の配給を待っていた。中華街の人出とは全く対照的な風景である。

 寿町で毎年恒例の正月の炊き出しに出くわした。寿町地区の中央にある小さな寿町公園から長い行列が出てきて、街区を取り巻いていて、ざっと見たところ300人くらいいる。弁当か雑炊か知らないが、今日の炊き出しを待つ人々である。毎年のことであるが、その人数が減ることが無いのは、やはり世の中は不況なのである。

寿公園に並ぶ炊き出しを待つ人々の行列は300人くらいか

 この20年ほどの間、この街に時々徘徊に来て観察しているのだ。街は徐々に変化している。かつての港湾労働者の街で活気ががあり、汚かった。今はきれいにあったが、貧困高齢者たちが小さな安宿に身を寄せあって暮らす街になって、活気は全くなくなった。

 街の風景は大都市のビル街であるが、それらのほとんどはドヤと呼ばれる簡易宿所である。一泊1700円が相場で、多くの宿泊人が実は住宅として使っている。格好つけて言えばホテル住まいであるが、一室は5~8㎡、便所やシャワー室は共同である。1700円という金額は、生活保護費の算定による金額であり、市場価格とは異なるようだ。

 そんな部屋が5階建てや10階建てのビルに積み重なっているから、人口密度はかなり高く、たぶん1000人/haくらいだ。高齢者がほとんどだから介護を必要とする人の比率も高いに違いない。この10年ほどでそれらのビルの1階には、福祉看護関係事業者が軒を並べるようになった。

 古いドヤビルは建て替えが進む。それらは近代的な高層ドヤビルに建て替わるものが多い。4階建てドヤが12階建てドヤになったとしても、ドヤという営業形態に変わりはないから、ますます高密度になってくるのだ。

5階建てドヤビルが8階建て建て替わった

 ところが最近のドヤ建て替えは、徐々に傾向が変わりつつある気配が見えてきた。ドヤビルから建て替えると、共同住宅になる事例がちらほら出てきた。街の中央の寿公園斜め前の街区が工事に入ったと思って見ていたら、出現したのはどうやら賃貸借型共同住宅であるらしいのだ。

 寿町の最も寿町らしいあたりから典型的なビジネスモデル簡宿所が変わろうとしているのは興味深い。この立地に入居するのはどのような人であろうか。地区に無関係な生活をする若い人たちあろうか。この新ビルから寿町公園の炊き出し風景を眺め下すことができる。

寿公園の隣にドヤビルが建て替わって出現した賃貸借型共同住宅ビル

 それらしい建て替えはここだけはなく、寿町地区内とその周囲にいくつか発生しつつある。

5階建てドヤビルを10階建て賃貸借型共同住宅に建て替えた事例


寿町フリンジの長者町通りで戦後復興防火建築帯の4階建て店舗付き共同住宅を
賃貸借型共同住宅に建て替えた事例

寿町地区内でドヤビルを共同住宅に建て替えた事例

寿町地区内でかつての「下駄ばき公団住宅」を一般分譲住宅に建て替えた事例

 長らく空き地であったところが最近工事を始めた。その「建築工事のお知らせ」掲示板を見れば、「ホテル・旅館」と書いてある。実はドヤもホテルと称して営業しているところがあるがそれらは法的には簡易宿所と言わねばならない。工事の掲示は法的な定めの表示だから、ドヤすなわち「簡易宿所」ではなくて、必要な規模と設備を備えた「ホテル・旅館」であるらしい。

新しく建つホテル旅館の周りはドヤビルばかり

 それではドヤが減少しているのだろうか。既存ドヤビルが賃貸借型の高層共同住宅ビル、あるいはホテル旅館、あるいは一般分譲型共同住宅等に建て替えられるとドヤが減るが、その一方で建て替えでは高層化すれば室数が増えるはずだからドヤは増加するだろう。

 ということは、さしひきドヤは減っていはいないのかもしれない。増えてもいないのかもしれない。ということはドヤ需要は増えてはいないということだろうか。
 しかし、あの炊き出しに並ぶ大勢の人々の行列を毎年の正月に見ると、この世にドヤ需要階層が減っているとは思えないが、どうなのだろうか。じわじわと街が変わるのを定点観測するのは面白い。日本流のゼントリフィケイションというものがあるのだろうか。
空から見る寿町地区 見えるビルのほとんどが簡易宿所(ドヤビル)

 寿町地区のそんな風景を眺めてから、そこから100mほど隣と言ってよいほど近くにある横浜の観光名所「横浜中華街」に移って徘徊しようと、電車線路高架下通路を通り抜けようとしたら、ここにたくさんの財産を段ボールに抱えた自由人が独り住んでいるのに出会った。たぶん、一泊1700円を払えぬのであろう。先ほどの炊き出し行列に並んでいないとは、自由人となって間がないお方で炊き出し情報を知らないだろうか。教えてあげるべきだったかしら。

 さてチャイナタウンへ来てみれば、寿町と大違いの賑わいであり、派手な街である。外国からも日本中からも若い人も年寄りもやってきている。寿町とは大違いの街である。観光客が寿町を訪れることはあるまい。

内外の観光客たちで大賑わいの春節の横浜中華街

 またその隣には「元町商店街」という高級さを売り物する街があり、ここの賑わいは中華街とはまったく別種のものであるのが面白い。横浜の都心部は、「横浜港」あたりの観光名所、そして「伊勢佐木モール」あたりの中心商店街、あるいは「野毛飲み屋街」、あるいは「横浜橋商店街」という下町市場そのものの庶民的な賑わい、これらピンからキリまでの都市を一つの盆地状の狭い土地の中に収めて共存しているところが実に面白い。

 ここに住まうようになって23年、これらの街を歩いて一巡すると10キロくらいになる。それが日常の身近の楽しみだったが、今では足が弱ってもう半分も歩けなくなった。歩き残した町は次の日に歩いたり、バスを使うのだ。歳とっての街歩きは健康維持のためでもあるが、実は都市計画を専門としていたわたしには、脳力維持のオベンキョウであるのだ。

(20250131記)

このブログの寿町に関する瓢論記事はこちらをクリック

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


2024/04/04

1808【三島・湧水の街と観光と】富士の白雪が解けて流れて湧き出る街に生活と湧水の景観を見に

●ノーエ節の街へ

♩富士の白雪ゃノーエ~、富士の白雪ゃノーエ~、富士のサイサイ、白雪ゃ朝日でとける~、ソリャとけて流れてノーエ~、とけて流れてノーエ~、とけてサイサイ、流れて三島にそそぐ♩

 これは民謡の「三島ノーエ節」の出だしであり、幕末の野毛節の元歌であるらしい。この続きに三島女郎衆が出てくるのだが、まあ、鉄砲が出てくる野毛節よりは平和でよろしい。
 コロナ明けの春の初旅は、駿河の三島に行ってきた。あいにくの天候で富士は見えなかったが、その白雪が解けて地中を流れ下って湧き出す水の流れる街を見てきた。

●源兵衛川を歩く

 源兵衛川がその代表的景観であるらしい。そして観光の目玉であるらしい。わたしは観光的な場所には興味はないが、いくつかの生活と川のとりあい景観をのせる。

源兵衛川はの駅前の楽寿園の湧水を水源とする自然景観の流れ
川の中の遊歩道へ導入部 幽谷景観だが背景に高層建築があるように実は街の中


源兵衛川の修景された景観 暮らしと水の接点の井戸手押しポンプ

生活と水と接する仕掛けの橋、階段、石垣、かつての洗濯場等の修景的景観

源兵衛川下流部の水と生活とが背を向けあう原風景的景観 
無理矢理に通す
水路内を観光遊歩道が川を汚す行為を防ぐか

●蓮沼川を歩く

 三島の街の中には湧水の流れがいくつかあるので、少し見てきた。蓮沼川はいかにも街中の川らしい表情である。かつては家々に水を引き込んでいたかもしれない。あるいは家々の前に洗濯場があったかもしれないと、偲ばせる。観光の景観ではない。
生活景としての蓮沼川 源兵衛川と同水源で並行する流れだが全く異なる景観


蓮沼川には私設の橋が多く架かる 金沢の鞍月用水を思い出させる
 
蓮沼川の堰

●御殿川を歩く
 
 さらに、源兵衛川とは湧水源を異にする御殿川の上流部も見てきた。まさに街の中を流れる川で、生活景観の川であるようだ。

御殿川の水流、このビルは湧水の流れに囲まれる

白滝公園の御殿川の中の建物

御殿川と街並み景観 このありふれた修景が好もしい

●水の街の都市再開発

 もう一つ三島の街の水環境に関して重要な場所も通りすがりに見た。それは三島駅南口東街区再開発事業地区である。これが三島の湧水の水脈を断ち切るおそれがあると、市民の再開発反対運動に直面したことは、かなり前に聞いていた。いかにも水環境の街三島らしい再開発反対運動である。

 地元の知人の話では、富士からの水はポーラスな地下溶岩を透過して流れ下るのである。かつて駅の北側に大工場が建ったころに、あるいは新幹線ができたころ、三島の街の湧水が枯れたことがあったそうだ。それらの地下構造物を地中の溶岩を掘って作ったために、水流を遮断したのであった。再開発ビルも同じ恐れがあるということで反対運動になった。

 経緯は知らないが、ネット資料によると昨年2023年末に事業認可から権利変換認可までも進んだそうから、再開発工事にGOサインが出たことになる。その水流対策は再開発建築が地下水脈を切断しないように、地下の溶岩に建築基礎をのせるという。それよりも下の地中には建設をしないから溶岩内を流れる水を遮断しないということらしい。現地で外まわりから見きた現場の様子は、既存建築群を撤去中だったから工事に着手していた。これからは現地と周辺の湧水モニターが常に監視するのだろう。

●水の街とノーエ節と

 実はもう30年も前になるだろうか、三島の街を訪れて富士の湧水の様子を見たことがある。あまりに昔で記憶が薄れているが、三島グラウンドワークなる活動団体の案内であった。かつてどこの街でもそうであったように、三島でも湧水豊かに流れる水路はドブ川だったが、この団体が三島の水環境の再生活動を始めたころであった。

 その後はどうなっているか見たかった。グラウンドワークの活動は成功しているようで、美しい水環境の街として三島は有名になっている。そこで久しぶりに見たかったのは、特に水環境再生と都市生活そして街なか観光がどのように折り合っているのかであった。結果的には、眼で見ただけではよくわからなかった。

 なるほど三島は川の街として環境再生してるようであったが、そもそも水の姿は千差万別で空中、地表、地中を動き回り、動植物の体内を通り抜けて、産業や生活にあらゆる場面に登場し、眼で見てすべてがわかるようなものではない。富士山から三島に流れて駿河湾にそそぎ、また蒸発して富士の高嶺に戻り、また解けて流れ下り、、、。

 そうだ、これは冒頭に書いたノーエ節である。「♪富士の白雪やノーエ・・・娘島田は情けで解ける・・・解けて流れてノーエ・・・♩」というように、これがエンドレスの歌であるのは、水循環を意味していたのであったか、そんな意義深さをひそめる歌であったとは、、、さすがに水の街三島である。

 わたしが訪れた川の水と生活が融和する景観の街は、内外に多くあった。日本での印象的な街は、滋賀県高島市の新旭町飛騨古川町、福岡県柳川市などがある。外国ではベネチアは別格だが、印象に残っているのはアムステルダムトレヴィゾである。
 
トレヴィーゾ 街の風景 1995年

トレヴィーゾ 橋の広場 1995年

 三島の街なかを歩いているときに「農兵節資料室」と看板を掲げる店舗に出くわした。のうへいせつ?、アッ、そうか、おお、富士の白雪の~えのあのノーエ節は、実は農兵節と書くのであったか。店を覗きこんだら、なんとまあゴミ屋敷だった。あの有名なノーエ節の資料をたぶん私的に蒐集公開していらした川口洋服店の店主氏は、どこにどうされたのだろうか。
 ということで、エンドレス民謡ノーエ節に倣って、冒頭のその歌の話に戻った。(20240404記)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

2024/03/16

1803【横浜寿町の変化】ドヤビル建て替え進化と一般共同住宅ビルの進入でドヤ街は変わるか

●横浜寿町ドヤ街のこと

 簡易宿泊所が多く集まる街「横浜寿町地区」は、横浜市中区寿町や松陰町などの都心部の一角を占める。ちょっと見ると安ホテルのような高層ビルが立ち並んでいて、普通の街に見える。

 だが、いわゆるドヤ街と隠語で言われるように、ホテルとは段違いに格が下がる超安価な宿屋ビルばかり立ち並ぶ地区である。その安宿に事実上は住み暮らす人々は約6千人、その約8割は生活保護対象の単身高齢男性たちである。その宿賃は標準的には1泊1700円だが、普通の宿屋と違うのは水光熱費は別支払いだ。

 この街がここに生まれたのは、いかにも横浜らしい戦後史を背負っている。かつては横浜港での働き手の若者たちの街であったが、そのまま老いて今は福祉対象の高齢者の街になっている。中層の古いドヤビルは次第に建て替えられて高層ドヤビルになりつつある。それは単に老朽化への対応ではなくて、居住者が高齢者に変化したことでの機能的変化への対応でもある。

 それにつれて街も次第に変化してきている。街路に面しては飲み屋も多いのだが、近年にになって特に増えたのは高齢者福祉関係施設である。これだけ多くの高齢者たちが集中的に住めば、介護関係施設が軒並みに登場するのは当然である。まさに高齢者しかも貧困層の街になっている。

 街の変化はドヤビルの高層建築への更新が顕著な一方で、別の方向も見られるようになってきた。それは一般住民対応とでもいおうか、いわゆる一般共同住宅ビルも登場するのが顕著にもなってきていることだ(参照ードヤ街のマンション)。それは区分所有型分譲共同住宅ビル(いわゆるマンションだが、わたしはこの誤用和製英語を使わない)、あるいは賃貸借共同住宅ビル(1棟の各住戸すべて賃貸借型住宅)である。ドヤばかりでない街に徐々に変わりつつある気配がある。

●ドヤ街に一般共同住宅ビル登場

 立地が横浜都心の一角であり交通も生活も便利だから、一般住宅需要があるということだろう。ドヤビルを立て直すにあたって、一般共同住宅に変化する傾向も見えてきた。寿町のまさに中心部である寿公園の斜め前の街区にあった3棟のドヤビルが、1棟の一般共同住宅に建て替えが進行中である。10階建て61戸とてたぶん分譲だろうがついにここまできたか。

左向こうが寿公園、手前右がドヤビル跡に建設中の一般共同住宅

 そしてつい最近、新しい賃貸借一般共同住宅が、寿町地区の南入り口の長者町通りに竣工した。その近くには新しい高層ドヤビルもあるのだが、明らかに姿が異なり、それがドヤ街地区の外観イメージを一般の街イメージへと変えていくことになるだろう。

長者町に防火建築帯ビル建て替え新築賃貸借共同住宅ビル 背後は首都高高架道路


 それが建つ以前のそこには、戦後横浜復興期の市街地建築である防火建築帯ビルが建っていた。3階建てで1階は店舗で上階は共同住宅であった。長者町通りにはこの種の防火建築帯ビルが軒並みに立ち並んでいたものだが、さすがに70年もたつと、ほとんどが建て替えられて、残るはもう10指にならぬくらいだ。

戦後復興期の防火建築帯ビルとして建っていた従前建築

 この新築賃貸借共同住宅ビルの敷地は、南側を底辺として北東と北西を2辺とする三角形である。そして出来上がった住戸のほとんどが北東と北西向きで、日当たりが実に悪いことだ。なぜ常識的な南向き住戸を避ける配置にしたのか。

左下赤枠が新賃貸借共同住宅ビルの敷地の位置 (上が北)

 それは敷地の南側には首都高速の上下2段2階建ての高架道路があるからだ。南面だから陰になるし、高架道路から騒音と排ガスが昼夜とも押し寄せて、相当にひどい環境である。もしもこの高架道路がなけば、そこには中村川が流れているから、こちらにこそ住戸が向くべきであったはずが、道路に乗っ取られてしまっているのだ。

 この環境では分譲住宅にしても売れないので、賃貸借住宅ビルにしたのであろう。この高架道路は寿街地区の南側を覆うように横たわるのだが、ドヤという底辺居住悪環境にはそれでも耐えうるものであったのかもしれない。いや、それだからこそドヤ街が成立しえたのかもしれない。

 ところが今や、都心部の住宅需要が伸長してして、このような悪環境でも需要と供給が成り立つ関係になってきたということだろうか。たしかに、ここより西部の高架道路沿いにいくつか新しい共同住宅ビルが建ってきている。さぞや、住みにくい住まいだろう。

 ところで、東京の日本橋のあたりの首都高速道路の高架を、地下に入れてしまう工事が進んでいるそうだ。それならば、その次は横浜のここ中村川上空の高架道路を、地下道路に改造するに違いない。そうすれば横浜都心部の居住環境は格段に回復する。おおいに期待をしている。(参照:横浜首都高地下化

(20240316記)

参 照
1690【横浜寿町の変化・1】横浜都心部の関外にある貧困ビジネス街はどう変わりつつあるか2023/06/10 https://datey.blogspot.com/2023/06/1690.html

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

2024/01/01

1773【コロナ明け寿正月】今年も無料弁当配布に並ぶ長い長い行列が取り巻くドヤ街風景に凍える

  今日は1月1日、年の初めである。それがどうした、なにも変わりないでしょ、単に365日前から見ると地球が太陽を一周したんでしょ、人間ごとき微小なるものがそれに何の関係もないでしょ、そう、わたしは生まれから80数回も経験していると、すっかりすれっからしになって、正月なんて面白くもない。

 と、人間が思っていたら、地震の方はこの日を特別に扱ってくれたらしく、われらが列島があるあたりの地球の一部を揺すって、人間どもを大いに驚かし脅してくれたのだ。これはすれっからしでいられない。なんでも能登半島のあたりで大揺れ震災がおきて、正月どころではない事件になっているらしい。能登半島西岸の志賀町にある核発電所でなにか故障が起きたらしい。怖い

 わたしの住み家はそこから遠く離れた横浜、そこの地上20mの空中陋屋だからユラ~リユラ~リと長周期に長時間揺れているのだ。その間にTVがヒステリックに「津波が来ます~っ、すぐ逃げて~っ」てな感じで叫んでいる画面をついつい見ていた。ずいぶん久しぶりにTVなるものを1時間ぐらいも続けて眺めた。この前に見たTVも東北の津波だったなあ。

 TVを飽きてPCに変えてSNSを見ていると、助けて!と言う投稿がいっぱい出てくる、被災動画も次々と出現してくる。現実のもたらす迫力がありすぎる情報の襲来に、なにもできずにオロオロ見るしかない自分を嫌になってしまい、それも切り、これを書いている。

戦争で明けくれる年を逃れ出で迎える年は震災で明ける

SNS投稿の能登震災実況動画のひとつ

 そんな物騒な正月突入ちょっと前の昼過ぎに、ふらふら出て行った先は、神社初詣でもなければ繁華街初売りの買い物でもなければ観光街で雑踏見物でもなくて、その名も正月らしく?おめでたい「寿町」徘徊であった。

 もちろん普通の人出がある街ではないが、実は正月だけに発生するこの街特有の行列となる大勢の人出があるのだ。今年もあるかしらと確かめに行ったのだ。場所はこの地区の真ん中あたりにある小公園である。

中高層ドヤビルに囲まれた寿公園(赤丸内)

 その公園に近づくと、おお、今年も人が大勢いる、いる。この晴れた寒空の下に黒々と立ち並ぶ。あの行列の後端はどこかと、そちらに回れば、この公園のあるブロックを一回り近くもの長さ約250mもある。およその勘定で500人くらいだろうか、でも今や行列は進んでいるから、始めはもっといたのだろう。

行列最先端

行列最後尾

街区を一周する長い長い行列 左向こうが公園
 
ようやく公園へ 左端が最先端

 ほとんどが男ばかり、女は10人もいただろうか、若い人はいないようだ。モクモクボチボチと列は進み、寿公園にしつらえられた正月特別仕立ての弁当配給所へと行列は吸い込まれていく。2段重ねプラケースに飯とおかず、プラカップの味噌汁、ミカンが袋に入れて配られている。これは去年もその前もその前もあった正月風景だ。

公園に掲げられたスローガン?

センター庇下にたたずむ野宿者

 ここから500mも離れていない先には、有名な観光街の横浜中華街がある。そこは今や一年中の四六時中も人が多いから、コロナ明けの今年の今日は特別多くの観光客が内外から集まって、華やいで騒いでいることだろう。それと比べて、寿町のこの人出の特別さはどうだろう、全く世の中どうなっているのかと思う。今年は中華街に回る気力が湧かない。
2023年正月中華街雑踏賑わい風景 今年はもっとすごいだろう

 実は毎年の正月におめでたい寿詣でをしているのだが、変わってよくなってきているのかしら、貧困の風景は相変わらずのようだ。
(20240101記)

これまでこのブログに載せた寿町の正月風景

・2023/01/05【横浜ご近所正月徘徊】港あたりにタワー群、貧困街で炊き出し、中華街は大混雑 https://datey.blogspot.com/2023/01/1665.html

・2022/01/04【コロナ正月】寿町・中華街・元町・伊勢佐木へ旧横浜パッチワーク都心新春徘徊 https://datey.blogspot.com/2022/01/1604.html

・2019/01/05【初徘徊は寿町に】B級横浜ガイド・寿町・松影町あたり:デラシネ日雇労務者が高齢化定住した貧困ドヤ街 https://datey.blogspot.com/2019/01/1180b.html

・2018/12/19【寿町の繁栄】貧困で超高齢化する日本の縮図のようなこのドヤ街は縮図どころが拡大しているような https://datey.blogspot.com/2018/12/1173.html

・2015/01/05横浜寿町ドヤ街は新築高層ドヤ建築が林立して周辺へも拡大中にて貧困ビジネス繁盛 https://datey.blogspot.com/2015/01/1046.html

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

2023/11/26

1750【横浜ご近所探検隊が行く】もしかして家を追い出された時のため安宿住いを考えておく

  街を徘徊していると、こんな安宿に出くわす。どうしてこれらに注目しているかと言えば、年寄りになると、年寄りには賃借アパート入居が簡単ではないらしいからだ。
 もしも今の住処をなにかの都合で追い出されることになったら、直ぐに泊まることができるホテルを平素から考えておく必要があるのだ。そこでこれらのホテルに目が行く。

 ひとつは伊勢佐木町界隈に何棟かある「ウィークリーマンション」と称するが実質はホテルである。最も安くて1泊4900円(水道光熱費込み)、シングルルームでバストイレ付、約20㎡とある。通常のビジネスホテル並みだろう。
 一泊2650円の安い部屋もあるらしいのは、新築らしい建物もあれば、戦後復興期の防火建築帯の改装ビルもあるからだろう。


 ただし一週間以上連泊が条件であるようで、長期になるほど安くなるらしい。独り暮らし老人にはちょっと魅力的である。わたしがまだ足腰立つうちにならば、ここに住んでもよいように思う。ほかにもあるか探してみるか。

 もうひとつは寿町あたりに多く集まる「簡易宿所」(俗称ドヤ)で、一泊1700円(水道光熱費別)であり、室内にバストイレはなくて、共同便所とコインシャワーがある。これは多分7㎡くらいの広さだろう。
 寿町で下記画像の表示がある「ベイサイド横浜」なる簡易宿所は、一番最近にオープンしたもので、ドヤでは最も新しい設備と言ってよいのだろうっと思う。

 こちらは通常のホテル並みの設備ではないが、何しろ安い。この値段には理由があるらしく、生活保護受給者が住宅に支払うことができる上限という。どの簡易宿所も同じ様な宿泊室と設備でこの値段だから、古いそれよりもこの新築に泊まる方がはるかに良い。

 わたしは十数年前に寿町の簡易宿所に泊ったことがある。友人たちと寿町見学会をやり、ホステルヴィレッジ運営で1泊3000円のドヤだった。その時のドヤ建物は清潔だったが古いので、人間の垢のような臭気がこびりついていて愉快ではなかった。

 新しいならば値段にひかれて泊まりたいが、年とると小便が近くなり、室外の共同便所通いを嫌だから、いまや敬遠したい。もっとも、最近のドヤ建築はもしかしてバストイレ付になっているのかしら。でもそうなると一泊1700円ではあるまいが。

(20231126記)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━