復興で仙台・名取都市圏はどう変わるのだろうか
1.仙台空港に何もない風景を見に行く
仙台空港に行ってきた。仙台と名付けながら仙台市内にはなくて、その南の名取市と岩沼市にまたがってある。
ならば、なぜ宮城空港と言わないのか。たぶん、仙台平野にあるからだろう。千葉県浦安市にありながら東京ディズニーランドというがごとしで、あれは東京湾に面しているからだそうだ。
さて、仙台空港駅についたが、べつに飛行機に乗る用事はないのだ。空港を背にしてすたすたと外に出て東に向かう。
外に出てもなにもない、まったくと言ってよいほど、な~んにもないのである。
今日はその何もない風景を見学にやってきたのだ。そう、津波被災地である。仙台平野は見事といってよいほどに3.11津波に洗われた。
特に名取市の北部の閖上地区の消失を、わたしはその当時にメディアでいろいろと見て、息をのんだ。閖上なる地名もユリアゲなる読み方も、初めて知った。
今日やってきたこのあたりは、名取市の南端部の太平洋沿岸で、地名を下増田地区の北釜集落という。
空港の東に海岸に並行して貞山堀という運河がある。伊達正宗が掘らせて17世紀初頭にできたという。背後に空港のエンジンが轟々となる音を聞きながら運河にかかる橋を渡れば、前にはただただ草が地面をおおう巨大な広場である。
以下、続きの項目は
2.あまりにもきれいすぎる被災跡地
3.この平地でも社叢林のあった神社が津波に耐えた
4.もしかしたらこの大通りが津波の侵攻を招いたか
5.海岸砂丘の松林と屋敷林(いぐね)は津波を止めなかったのか
6.新たな海岸森林に津波減災機能を期待する
7.集団移転は名取市の都市構造をどう変えるか
全文は「東北に大津波被災地を訪ねて【名取市北釜地区】」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama
関連ページ
・東北に大津波被災地を訪ねて【東松島・野蒜】
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama
・地震津波原発コラム集
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#jisin
2013/04/29
2013/04/24
756・半世紀の憧れ期間を超えて奥州の名建築にようやく出会ったが津波被災地との落差に泣いた
ついにその姿にお目にかかった。半世紀余のあこがれた想いが叶った。
あのはじめて写真で見た日の姿そのままに、いや、白い綿帽子をかぶって薄化粧までして、迎えてくれたのであった。
今から半世紀余も前のこと、学生だったわたしは、発行されたばかりの写真集にある、その美しい姿に、一目ぼれしてしまった。
それがたたずむのは東北の奥地、西から関東にやってきたわたしは、そこがどこかさえもわからぬままに美しさに惚れこみ、建築学生を卒業するディプロマ(卒業設計)に、その姿をデザインモチーフとして織り込んだほどであった。
それから半世紀たっても、いまだに憧れのままに、その実物の姿に接しないままだったが、でも決して忘れていない。ときどき、もう古書となって表紙の糊が取れそうな、その写真集をとりだして眺める。
かの奥州の奥地を訪ねていつかは会いに行かなければならぬと思いつつも、いや、あこがれのままに行かぬほうが良いかもしれない、などとも思う。
だが、そろそろ行っておかないと、遂に行けぬままに人生を終わるかもしれぬ、そんな年齢となってしまった。
そしてこの春ついに、その名も遠野という地に、はるばると訪ねたのである。
4月も下旬となったというのに、その日は朝から雪であった。そう、白く化粧をして待ってくれているに違いない。
タクシーで行くのはもったいない。いや、お金もそうだが、いきなり乗り付けては、半世紀の楽しみが瞬間に壊れるかもしれない。ここは歩いて行こう。
ローカル線の小さな無人駅で降りた客は、わたしひとりだけ。目的の地は、広い谷間の2キロほど上流の右向こうで、山際に隠れている。
小降りになった氷雨交じりの春の雪のなかを、田んぼの中の道から山沿いへと、わずかな登りをゆるゆると歩く。森は半分霞みがかかり、木々は雪の帽子をかぶっている。
緩やかな傾斜地に広がる田畑、そして点在する農家の墨絵の風景のなかに、自分もその点景となって歩く。
さすがにいまでは、あたりに見える家に茅葺屋はない。
道脇に大屋根の家を二つ見たが、ひとつは茅葺にトタンをかぶせており、もうひとつは放棄されたらしく、サスも垂木も小屋組みが露出して立ち腐れ進行中の茅葺の家であった。
それでもこれから出会うはずの半世紀の憧れを、予知させるのに十分であった。
やがて道の右に迫っていた山際が広くなったと思うと、それが姿を見せた。
おお、これがあの千葉家住宅!、あの二川幸夫の写真の通り、美しい姿である。しかも、折からの時ならぬ春の雪で、綿帽子をかぶっているのであった。歓迎のお化粧か。
このプロポーションの良さ、ダイナミックな石垣、バランス良い棟の並び方、山を背景に真っ白な三角形の屋根が浮き出ている。これはもう、たまらない。
石垣から飛び出す石の数々のカンチレバーにもあこがれたのだった。今、目の前に惜しげもなく見えている。
というわけで、遂に半世紀を超えての名建築探訪が叶ったのであった。
建築を見て感動することはほとんどなかった。これまで唯一の感動した建築というか、建築をめぐる風景と言った方がよいが、シドニーのオペラハウスであった。
今回の千葉家住宅も同じく、建築もそうだが周りの環境と合わせての風景に、久しぶりに感動したのである。
二川幸夫と伊藤ていじによる「日本の民家 陸羽・岩代」(1958年)という名写真と解説に出会い、ちょうどそのときに卒業研究の丹波民家調査で伊藤ていじ先生にも出会ったのだった。
伊藤先生も二川さんも亡くなったが、千葉家住宅はいまも健在であった。
実は、ここに来る前の2日間は、3・11大震災の三陸津波被災地を巡っていたのだ。
そこでは、なにもかも失われ消滅した風景ばかり見てきたので、ここにきてわたしの半世紀余前からの憧れを、2世紀余の前からの姿で迎えてくれたことが、ひとしお眼と心に沁みこんだのでもある。
遠野ではほかに何も見ずに、またローカル線と新幹線を乗り継いで、名取市の浜のあたりの、何もなくなって草原となった住宅地と傷だらけの石塔が並ぶ墓地を訪ねて、またもやその喪失感に打ちのめされたのであった。(2013.04.24)
●関連ページ:728二川幸夫・伊藤ていじ「日本の民家」に53年ぶりに出会って年寄りになったと自覚して懐古譚
http://datey.blogspot.jp/2013/03/728.html
あのはじめて写真で見た日の姿そのままに、いや、白い綿帽子をかぶって薄化粧までして、迎えてくれたのであった。
今から半世紀余も前のこと、学生だったわたしは、発行されたばかりの写真集にある、その美しい姿に、一目ぼれしてしまった。
それがたたずむのは東北の奥地、西から関東にやってきたわたしは、そこがどこかさえもわからぬままに美しさに惚れこみ、建築学生を卒業するディプロマ(卒業設計)に、その姿をデザインモチーフとして織り込んだほどであった。
それから半世紀たっても、いまだに憧れのままに、その実物の姿に接しないままだったが、でも決して忘れていない。ときどき、もう古書となって表紙の糊が取れそうな、その写真集をとりだして眺める。
かの奥州の奥地を訪ねていつかは会いに行かなければならぬと思いつつも、いや、あこがれのままに行かぬほうが良いかもしれない、などとも思う。
だが、そろそろ行っておかないと、遂に行けぬままに人生を終わるかもしれぬ、そんな年齢となってしまった。
そしてこの春ついに、その名も遠野という地に、はるばると訪ねたのである。
4月も下旬となったというのに、その日は朝から雪であった。そう、白く化粧をして待ってくれているに違いない。
タクシーで行くのはもったいない。いや、お金もそうだが、いきなり乗り付けては、半世紀の楽しみが瞬間に壊れるかもしれない。ここは歩いて行こう。
小降りになった氷雨交じりの春の雪のなかを、田んぼの中の道から山沿いへと、わずかな登りをゆるゆると歩く。森は半分霞みがかかり、木々は雪の帽子をかぶっている。
緩やかな傾斜地に広がる田畑、そして点在する農家の墨絵の風景のなかに、自分もその点景となって歩く。
さすがにいまでは、あたりに見える家に茅葺屋はない。
道脇に大屋根の家を二つ見たが、ひとつは茅葺にトタンをかぶせており、もうひとつは放棄されたらしく、サスも垂木も小屋組みが露出して立ち腐れ進行中の茅葺の家であった。
それでもこれから出会うはずの半世紀の憧れを、予知させるのに十分であった。
やがて道の右に迫っていた山際が広くなったと思うと、それが姿を見せた。
おお、これがあの千葉家住宅!、あの二川幸夫の写真の通り、美しい姿である。しかも、折からの時ならぬ春の雪で、綿帽子をかぶっているのであった。歓迎のお化粧か。
このプロポーションの良さ、ダイナミックな石垣、バランス良い棟の並び方、山を背景に真っ白な三角形の屋根が浮き出ている。これはもう、たまらない。
石垣から飛び出す石の数々のカンチレバーにもあこがれたのだった。今、目の前に惜しげもなく見えている。
建築を見て感動することはほとんどなかった。これまで唯一の感動した建築というか、建築をめぐる風景と言った方がよいが、シドニーのオペラハウスであった。
今回の千葉家住宅も同じく、建築もそうだが周りの環境と合わせての風景に、久しぶりに感動したのである。
二川幸夫と伊藤ていじによる「日本の民家 陸羽・岩代」(1958年)という名写真と解説に出会い、ちょうどそのときに卒業研究の丹波民家調査で伊藤ていじ先生にも出会ったのだった。
伊藤先生も二川さんも亡くなったが、千葉家住宅はいまも健在であった。
実は、ここに来る前の2日間は、3・11大震災の三陸津波被災地を巡っていたのだ。
そこでは、なにもかも失われ消滅した風景ばかり見てきたので、ここにきてわたしの半世紀余前からの憧れを、2世紀余の前からの姿で迎えてくれたことが、ひとしお眼と心に沁みこんだのでもある。
(消えた南三陸町志津川地区)
●関連ページ:728二川幸夫・伊藤ていじ「日本の民家」に53年ぶりに出会って年寄りになったと自覚して懐古譚
http://datey.blogspot.jp/2013/03/728.html
2013/04/14
755開園30周年祝賀の東京ディズニーランドを計画した頃の思い出とこれからの津波の心配と
下から地震、横から津波、上からミサイルとPMナントカとサーズ鳥、これに加えて懐に値上げときては、もう日本中に安心して住むところはない。
どこか安心できる国を探して、移民として引っ越すしかない。
よく知らないけど、あの世は安心して住めるのだろうと、わたしはそう遠くないうちに行くことになっているから、いま、じたばたしないことにした。
あの世にもよその国へも避難できない日本人は、とりあえず今の不安を忘れようと、いろいろとやりだす。
てっとりばやいのは酒での憂さ晴らしだが、それは家族には通じない。そこでナントカランドにいって、とりあえずその日だけは現実の不安を忘れようってことになる。
東京ディズ二ーランドが開園30周年だそうである。とりあえず今の不安を忘れるための、有名な装置である。
いまじゃあ東京ディズニーリゾート(TDL)っていって、ディズニーランドはその一部で、ディズニーシーってのもあるらしい。
実は、わたしはまだ行ったことがないのである。もうこれだけ有名な遊び場で、行ったことのないものは少数だろうから、こうなったら一生行かない人って希少価値を狙うしかない。ついでにスカイツリーにものぼらないぞ。
でも、白状すると、一回だけディズニーランドに入ったことがある。しかも裏口から。ある会議が浦安市であり、その後の懇親会で特別招待客としてディズニーランドに入れてもらったのである。
一般客とは別のルートで招待客用のルートがあった。一部施設とエレクトリカルパレードを楽しませてもらった。その裏口入門の一回だけがわたしのTDL経験である。
正門から金を払って入ったことはないから、まだTDL童貞としておこう。
なお、カリフォルニア・アナハイムのディズニーランドには、正面から金を払って入ったことがある。
実はとまたいうが、40年も前のこと、わたしはディズニーランドの計画に携わっていたのである。まだ何もない野っぱらの浦安埋立地の頃のことである。
だから1983年の開園の前から、舞浜(まだ鉄道はなかった)にあったオリエンタルランド会社(浦安の埋め立て会社でありTDLの経営会社)には、打ち合わせにはしょっちゅう行っていた。
開園してからも拡張計画などでたびたび行った。その事務所はディズニーランドの裏手にあった。そこの会議室の窓からスタッフたちの部屋が見えていた。ミッキーマウスがぬいぐるみを脱ぐのが見えた、ってことはなかった。
手もとにあるわたしの仕事の記録を見ると、1970年から広大な浦安埋立地の利用計画をオリエンタルランドの委託でやっているから、その頃からディズニーの話もあったような気がする。
ディズニーランドそのものは、アメリカのそれを忠実に作るものだったから、中身については日本の法律に合わせる仕事が日本側の専門家の仕事であった。
わたしは建築的なことにはタッチしなかったが、都市計画的な土地利用などに携わった覚えがある。たとえばTDLも含む埋立地全体の人口や施設配置計画とか、TDLのホテル配置計画があった。
思い出したが、ディズニーランドが開園してしばらくたって、まだ土地を半分くらしか使っていないので、残り半分に何をつくるかという指名提案コンペを、オリエンタルランドが募集したことがあった。
わたしは日本的な遊園地を新しいコンセプトで提案したが、落選した。もっとも、他のコンペチターも全員落選、当選者なしであった。
そして今、その場所にできているがディズニーシーである。これができた経緯は知らない。
浦安ではオリエンタルランドの広大な埋め立て地計画での仕事は、TDLばかりではなく、舞浜駅前の商業地や住宅地の都市計画も面白かったし、昔の漁村からつづく旧市街地の街づくり計画も興味深いものであった。
1970年頃からほぼ30年にわたってTDL会社や浦安市役所の仕事をして、全く新しい土地の都市計画から、既成市街地の改善計画まで、いろいろと勉強もさせてもらった街である。
あの何もない茫漠たる千葉の埋め立て地に、東京と詐称した遊園地(もっともTDLの東京とは東京湾のことだそうだが)ができたときは、わたしはその仕事はしていたが、どこかうさん臭さを免れなかったものだ。
それがこれほどにも時代に受け入れられて、浦安は東京都内と思わせてしまったのだが、ディズニーなる天才の仕業に脱帽するばかりである。そしてTDL経営者の力量にも。
浦安はTDLによって、かつての山本周五郎が書いた「青べか」の漁師町から、東京のリゾート的居住地として大きく地域イメージが変わっって、20世紀型開発の都市の理想像のようになった。
関西方面から関東に転勤する人たちは、浦安に居を求める傾向が強いと聞く。住み始めて初めて、ここは東京ではないのか、と気が付くらしい。
さて、はじめの地震の話にもどると、3・11地震の時に浦安埋立地は、みごとにその元漁師町の正体を現したのであった。埋め立て地下からの昔の海が顔を出そうとしてきたのだ。これを液状化現象という。大地は海に戻ろうとしたのだろうか。
もしも大津波が来たら、東北被災地のどこかの海岸平地のように、海の底になったまま、陸に戻らなかったかもしれない。
いや、それはこれから起きるかもしれないことだ。
TDLで遊んでとりあえず今の不安を忘れているところに、不安の種のほうから追いかけてくるかもしれないのである。
時あたかも淡路島で95年再来の大地震、考え込んでしまう海辺軟弱地盤リゾート30周年である。
どこか安心できる国を探して、移民として引っ越すしかない。
よく知らないけど、あの世は安心して住めるのだろうと、わたしはそう遠くないうちに行くことになっているから、いま、じたばたしないことにした。
あの世にもよその国へも避難できない日本人は、とりあえず今の不安を忘れようと、いろいろとやりだす。
てっとりばやいのは酒での憂さ晴らしだが、それは家族には通じない。そこでナントカランドにいって、とりあえずその日だけは現実の不安を忘れようってことになる。
東京ディズ二ーランドが開園30周年だそうである。とりあえず今の不安を忘れるための、有名な装置である。
いまじゃあ東京ディズニーリゾート(TDL)っていって、ディズニーランドはその一部で、ディズニーシーってのもあるらしい。
実は、わたしはまだ行ったことがないのである。もうこれだけ有名な遊び場で、行ったことのないものは少数だろうから、こうなったら一生行かない人って希少価値を狙うしかない。ついでにスカイツリーにものぼらないぞ。
でも、白状すると、一回だけディズニーランドに入ったことがある。しかも裏口から。ある会議が浦安市であり、その後の懇親会で特別招待客としてディズニーランドに入れてもらったのである。
一般客とは別のルートで招待客用のルートがあった。一部施設とエレクトリカルパレードを楽しませてもらった。その裏口入門の一回だけがわたしのTDL経験である。
正門から金を払って入ったことはないから、まだTDL童貞としておこう。
なお、カリフォルニア・アナハイムのディズニーランドには、正面から金を払って入ったことがある。
実はとまたいうが、40年も前のこと、わたしはディズニーランドの計画に携わっていたのである。まだ何もない野っぱらの浦安埋立地の頃のことである。
だから1983年の開園の前から、舞浜(まだ鉄道はなかった)にあったオリエンタルランド会社(浦安の埋め立て会社でありTDLの経営会社)には、打ち合わせにはしょっちゅう行っていた。
開園してからも拡張計画などでたびたび行った。その事務所はディズニーランドの裏手にあった。そこの会議室の窓からスタッフたちの部屋が見えていた。ミッキーマウスがぬいぐるみを脱ぐのが見えた、ってことはなかった。
手もとにあるわたしの仕事の記録を見ると、1970年から広大な浦安埋立地の利用計画をオリエンタルランドの委託でやっているから、その頃からディズニーの話もあったような気がする。
ディズニーランドそのものは、アメリカのそれを忠実に作るものだったから、中身については日本の法律に合わせる仕事が日本側の専門家の仕事であった。
わたしは建築的なことにはタッチしなかったが、都市計画的な土地利用などに携わった覚えがある。たとえばTDLも含む埋立地全体の人口や施設配置計画とか、TDLのホテル配置計画があった。
思い出したが、ディズニーランドが開園してしばらくたって、まだ土地を半分くらしか使っていないので、残り半分に何をつくるかという指名提案コンペを、オリエンタルランドが募集したことがあった。
わたしは日本的な遊園地を新しいコンセプトで提案したが、落選した。もっとも、他のコンペチターも全員落選、当選者なしであった。
そして今、その場所にできているがディズニーシーである。これができた経緯は知らない。
浦安ではオリエンタルランドの広大な埋め立て地計画での仕事は、TDLばかりではなく、舞浜駅前の商業地や住宅地の都市計画も面白かったし、昔の漁村からつづく旧市街地の街づくり計画も興味深いものであった。
1970年頃からほぼ30年にわたってTDL会社や浦安市役所の仕事をして、全く新しい土地の都市計画から、既成市街地の改善計画まで、いろいろと勉強もさせてもらった街である。
あの何もない茫漠たる千葉の埋め立て地に、東京と詐称した遊園地(もっともTDLの東京とは東京湾のことだそうだが)ができたときは、わたしはその仕事はしていたが、どこかうさん臭さを免れなかったものだ。
それがこれほどにも時代に受け入れられて、浦安は東京都内と思わせてしまったのだが、ディズニーなる天才の仕業に脱帽するばかりである。そしてTDL経営者の力量にも。
浦安はTDLによって、かつての山本周五郎が書いた「青べか」の漁師町から、東京のリゾート的居住地として大きく地域イメージが変わっって、20世紀型開発の都市の理想像のようになった。
関西方面から関東に転勤する人たちは、浦安に居を求める傾向が強いと聞く。住み始めて初めて、ここは東京ではないのか、と気が付くらしい。
さて、はじめの地震の話にもどると、3・11地震の時に浦安埋立地は、みごとにその元漁師町の正体を現したのであった。埋め立て地下からの昔の海が顔を出そうとしてきたのだ。これを液状化現象という。大地は海に戻ろうとしたのだろうか。
もしも大津波が来たら、東北被災地のどこかの海岸平地のように、海の底になったまま、陸に戻らなかったかもしれない。
いや、それはこれから起きるかもしれないことだ。
TDLで遊んでとりあえず今の不安を忘れているところに、不安の種のほうから追いかけてくるかもしれないのである。
時あたかも淡路島で95年再来の大地震、考え込んでしまう海辺軟弱地盤リゾート30周年である。
2013/04/12
754これでまた村上春樹を読むチャンスが遠のいてしまった
村上春樹なる小説家が長編小説を上梓したとて、なにやら本屋が騒がしいと、新聞のニュースにある。
その題名が長たらしくも『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』なんだそうである。
今日、近くの本屋に「本の雑誌」を買いに行ったら、沢山の『色彩……』が積んであった。
えーと、この村上春樹ってずっと前に、『ノルウェイの森』って小説で評判になってたことあったよなあ、あ、そうだ「IQナント」かって、知能検査?の本もあったような。
なんにしても、村上春樹が書いた本を読んだことは一度もない。
読んでやってもよいのだが、これだけ世間が騒ぐと、偏屈の虫が起きてしまう。これでまた村上春樹を読む機会が遠のいてしまった。まあ、遠ざけているのはわたし自身だが、、。
なんでも、出版社がインタネットによるチラチラお漏らし宣伝をしたのが効いたとかって、新聞に書いてあるけど、インタネット好きのおれは知らなかったぞ。
どうもわたしのインタネット世界は、世の中の一般的傾向とは違うところを覗き込んでいるらしい。
それにしても、本ってのは世間の評判(インタネット)とか、出版社の宣伝(直木賞、芥川賞)とか、本屋の推薦(本屋大賞)とかに頼って読むものかい。
本くらいは自分で選べよ。
小説家で村上と言えば、わたしには村上龍である。
この人の小説は、『限りなく透明に近いブルー』はもちろん読んでない。だって、世間が騒いだから偏屈虫が鳴いたのだ。
で、『トパーズ』、『希望の国のエクソダス』、『半島を出よ』、それから他にも何か読んだような気がする。
あ、昔々のこと、村上元三という時代小説家がいたなあ、。
でも、村上と言えば、なんといっても村上隆である。
なんだよ、このヘンなアーティストは、こんなのが何億円もするなんて、、??、、。
●参照→伊達の眼鏡「世相戯評いちゃもん」
その題名が長たらしくも『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』なんだそうである。
今日、近くの本屋に「本の雑誌」を買いに行ったら、沢山の『色彩……』が積んであった。
えーと、この村上春樹ってずっと前に、『ノルウェイの森』って小説で評判になってたことあったよなあ、あ、そうだ「IQナント」かって、知能検査?の本もあったような。
なんにしても、村上春樹が書いた本を読んだことは一度もない。
読んでやってもよいのだが、これだけ世間が騒ぐと、偏屈の虫が起きてしまう。これでまた村上春樹を読む機会が遠のいてしまった。まあ、遠ざけているのはわたし自身だが、、。
なんでも、出版社がインタネットによるチラチラお漏らし宣伝をしたのが効いたとかって、新聞に書いてあるけど、インタネット好きのおれは知らなかったぞ。
どうもわたしのインタネット世界は、世の中の一般的傾向とは違うところを覗き込んでいるらしい。
それにしても、本ってのは世間の評判(インタネット)とか、出版社の宣伝(直木賞、芥川賞)とか、本屋の推薦(本屋大賞)とかに頼って読むものかい。
本くらいは自分で選べよ。
小説家で村上と言えば、わたしには村上龍である。
この人の小説は、『限りなく透明に近いブルー』はもちろん読んでない。だって、世間が騒いだから偏屈虫が鳴いたのだ。
で、『トパーズ』、『希望の国のエクソダス』、『半島を出よ』、それから他にも何か読んだような気がする。
あ、昔々のこと、村上元三という時代小説家がいたなあ、。
でも、村上と言えば、なんといっても村上隆である。
なんだよ、このヘンなアーティストは、こんなのが何億円もするなんて、、??、、。
●参照→伊達の眼鏡「世相戯評いちゃもん」
2013/04/07
753「震災核災3年目」の連続記事を再編集して掲載
2013年3月11日の東日本大震災から3年目の2013年3月11日から、連続して書いてきた「震災核災3年目」の記事を再編集して、「まちもり瓢論」として「まちもり通信サイトに掲載しました。
これをお読みいただく方のために、はじめにお断りしておくが、わたしは何も東北の復興に役立つ行動をしていない。あれから3年目になっても、ただ心配しているだけの「復興心配書斎派」にすぎない。
それでも、昨年の秋に小さなボランティア活動ついでに宮城県の被災地(東松島、石巻)を見てきた。
見れば、ますます心配が募るばかりである。聞いても募る。
震災核災3年目
目次
●核災3年目(その1)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme
復興計画の向こうにある次の災害への対策は
●震災核災3年目(その2)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme2
大被災地区を海や森の自然に還す考えはないのか
●震災核災3年目(その3)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme3
まちづくりとして公営住宅建設を進め、これを機に居住政策を転換せよ
●震災核災3年目(その4)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme4
南三陸町の復興を遠くから眺めて
これをお読みいただく方のために、はじめにお断りしておくが、わたしは何も東北の復興に役立つ行動をしていない。あれから3年目になっても、ただ心配しているだけの「復興心配書斎派」にすぎない。
それでも、昨年の秋に小さなボランティア活動ついでに宮城県の被災地(東松島、石巻)を見てきた。
見れば、ますます心配が募るばかりである。聞いても募る。
震災核災3年目
目次
●核災3年目(その1)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme
復興計画の向こうにある次の災害への対策は
●震災核災3年目(その2)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme2
大被災地区を海や森の自然に還す考えはないのか
●震災核災3年目(その3)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme3
まちづくりとして公営住宅建設を進め、これを機に居住政策を転換せよ
●震災核災3年目(その4)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme4
南三陸町の復興を遠くから眺めて
2013/04/06
752【言葉の酔時記】返還可能な時期は明日またはその後って借金返済のがれに使いたい
そうか、そういう表現が政府間で公式に使えるんだな。ならば、庶民も使おう。
今度、だれかから金を借りるとき、「返還可能な時期は、明日またはその後」と言おう。
これは、いつまでたっても返さなくても、約束違反にならない便利な言葉であるよなあ。
あ、でも、これで金を貸してくれる人がいるはずがないよなあ。
やっぱり借りてしまったやつは強いなあ、「返還可能な時期は、明日またはその後」なんて言って、いつまでも返さなければいいのだからね。
日本とアメリカ両政府が、沖縄県にある6件の米軍基地について、その返還可能な時期を発表した。
その中で、普天間飛行場(宜野湾市)は、「2022年度またはその後に返還が可能」になるのだそうである。
これって、要するに「2022年までに返すことは絶対に不可能だし、返すとしてもそれよりも後になれば可能かもしれない」ということである。
これは「返還可能な時期」じゃなくて、「返還不可能な時期は無期限」という発表である。
英語ではどう書いてあるのか知らないが、日本語では、そうとしか読めない。
●コラム「言葉の酔時記」一覧
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#kotoba
今度、だれかから金を借りるとき、「返還可能な時期は、明日またはその後」と言おう。
これは、いつまでたっても返さなくても、約束違反にならない便利な言葉であるよなあ。
あ、でも、これで金を貸してくれる人がいるはずがないよなあ。
やっぱり借りてしまったやつは強いなあ、「返還可能な時期は、明日またはその後」なんて言って、いつまでも返さなければいいのだからね。
日本とアメリカ両政府が、沖縄県にある6件の米軍基地について、その返還可能な時期を発表した。
その中で、普天間飛行場(宜野湾市)は、「2022年度またはその後に返還が可能」になるのだそうである。
これって、要するに「2022年までに返すことは絶対に不可能だし、返すとしてもそれよりも後になれば可能かもしれない」ということである。
これは「返還可能な時期」じゃなくて、「返還不可能な時期は無期限」という発表である。
英語ではどう書いてあるのか知らないが、日本語では、そうとしか読めない。
●コラム「言葉の酔時記」一覧
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#kotoba
2013/04/05
751近頃の若者はPMナントカにも黄砂にも花粉にも負けぬように体を鍛えているようだ
ようやく春めいた天候に誘われて、老爺5人がふらふらと東京近郊の街に、博物館、弥生期遺跡など訪ね歩いた。
4時過ぎにもう疲れたからとて、駅前繁華街に戻り、昔の記憶にある裏町で喉を潤そうと、その裏街に懐かしい店を探せども、はて、どこもかしこも表通りの明るい街に変ってしまっている。
あのどこか湿った、軒の低い商店街と、超安売りの汚い昔々の店々はどこに行ったのだろうか。
浦島太郎老爺たちは、ただ、うろうろ、足が疲れた、もうどこでもいいや、なになに、シシリー料理かい、まあいいや、早くビール飲もうよと店にはいった。
まだ5時、客は誰もいない、ゆったりと席について、ビール、ワイン、ピザ、カルパッチョなどなど、結構うまいうまいとやっていた。
次第に客席が埋まってきた。若者男女ばかりである。
いつものようにわたしたちはその場の最高齢者というか、不良老人隊。
そのうちにどうも煙たくなってきた。あたりに煙が漂っている。
あ、いや、火事じゃなくて、見回せば、若者男女のどいつもこいつもが、タバコを吸っているのだ。
ふーむ、近頃は喫煙の店で飲み食いしたことがないなあ、珍しいことだ。
あ、そうだ、たしか、神奈川県条例で、レストランでの喫煙は原則禁止、喫煙させるには分離することになっていたはずだぞ、え、、。
あ、そうか、ここは、東京都内であった。町田市は、神奈川県の地形に奇妙に張りだしている東京都である。地形的には神奈川県だけど、県条例適用外である。
それにしても、最近は喫煙族を見る機会がすくない。
騎兵隊に虐待されて少数民族になったスウ族どもは、どこに行ったのかとおもったら、こんな東京郊外都市の一角に隠れ家をもっていたのか。
なんだねえ、若者喫煙者が多いのが、なんともはや頼もしい限りである。
何が頼もしいって、大陸方面から黄砂とかPMナントカとかって、あるいは山からはスギ花粉とか、喉や鼻に悪い代物がやってくる時代に、こうやって自ら煙を吸い込み吐き出して、おのれを鍛えているらしい。
これからの高齢社会を支えていくためには、若者は悪い空気にも耐える肉体を持つべきと考えているらしい。
エライものである。まあ、頑張ってくれたまえ。
そう思いつつ家に戻って床に入ったが、夜中にどうも喉が痛くて、タンが溜まってくる。風邪をひいたかなあ、いや、タバコの煙にやられたのだな。
もう、老人はいまさら鍛えようもないから、もうあの店に行くのは止そう。
あ、東京都内の店は危ないから、できるだけ神奈川県内の店にしようっと、ゲホゲホ、、。
●参照→神奈川県受動喫煙防止条例
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f6955/p23022.html
4時過ぎにもう疲れたからとて、駅前繁華街に戻り、昔の記憶にある裏町で喉を潤そうと、その裏街に懐かしい店を探せども、はて、どこもかしこも表通りの明るい街に変ってしまっている。
あのどこか湿った、軒の低い商店街と、超安売りの汚い昔々の店々はどこに行ったのだろうか。
浦島太郎老爺たちは、ただ、うろうろ、足が疲れた、もうどこでもいいや、なになに、シシリー料理かい、まあいいや、早くビール飲もうよと店にはいった。
まだ5時、客は誰もいない、ゆったりと席について、ビール、ワイン、ピザ、カルパッチョなどなど、結構うまいうまいとやっていた。
次第に客席が埋まってきた。若者男女ばかりである。
いつものようにわたしたちはその場の最高齢者というか、不良老人隊。
そのうちにどうも煙たくなってきた。あたりに煙が漂っている。
あ、いや、火事じゃなくて、見回せば、若者男女のどいつもこいつもが、タバコを吸っているのだ。
ふーむ、近頃は喫煙の店で飲み食いしたことがないなあ、珍しいことだ。
あ、そうだ、たしか、神奈川県条例で、レストランでの喫煙は原則禁止、喫煙させるには分離することになっていたはずだぞ、え、、。
あ、そうか、ここは、東京都内であった。町田市は、神奈川県の地形に奇妙に張りだしている東京都である。地形的には神奈川県だけど、県条例適用外である。
それにしても、最近は喫煙族を見る機会がすくない。
騎兵隊に虐待されて少数民族になったスウ族どもは、どこに行ったのかとおもったら、こんな東京郊外都市の一角に隠れ家をもっていたのか。
なんだねえ、若者喫煙者が多いのが、なんともはや頼もしい限りである。
何が頼もしいって、大陸方面から黄砂とかPMナントカとかって、あるいは山からはスギ花粉とか、喉や鼻に悪い代物がやってくる時代に、こうやって自ら煙を吸い込み吐き出して、おのれを鍛えているらしい。
これからの高齢社会を支えていくためには、若者は悪い空気にも耐える肉体を持つべきと考えているらしい。
エライものである。まあ、頑張ってくれたまえ。
そう思いつつ家に戻って床に入ったが、夜中にどうも喉が痛くて、タンが溜まってくる。風邪をひいたかなあ、いや、タバコの煙にやられたのだな。
もう、老人はいまさら鍛えようもないから、もうあの店に行くのは止そう。
あ、東京都内の店は危ないから、できるだけ神奈川県内の店にしようっと、ゲホゲホ、、。
●参照→神奈川県受動喫煙防止条例
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f6955/p23022.html
2013/04/02
750建て直し五代目歌舞伎座の姿に斬新さは全く無いのは歌舞伎はもう傾奇時代じゃないってことか
建て替え前の歌舞伎座
(吉田五十八設計、1950年改修竣工、2009/03/03撮影)
熊五郎 こんちわー、ご隠居、花見に行きましょうよ。
ご隠居 おお、熊さん、花見もいいけど芝居に行こうよ。
熊 え、そりゃまたなんで。
隠 ほら、東京の歌舞伎座が新しくなったって聞いたからね、行ってみたいなと。
熊 そうそう、なんでも元のまんまの形で建て直して、上に超高層ビルを乗っけたとか。どうせ建て直すのなら元のまんまより、なんか新しい形にすりゃよさそうなもんですがねえ。
隠 おや、そうかい、わたしは違うね、やっぱり伝統芸能の場は伝統を踏まえて、もとの形を伝えるもんだよ。
熊 おお、面白いことになってきましたね。あのですね、歌舞伎ってのはもともとは、傾奇(かぶき)といって斬新で派手な格好をすることで、傾奇モンてえと時代から飛んでるへんちくりんな格好した奴らのことでしょ。
隠 ああそうだね、出雲阿国が大人気者になったのも、そういうことだったようだな。あのころはアンダーグラウンド劇団だったからね。変ったことや斬新さが売り物だった。
熊 なのに、なんです、こんどの歌舞伎座の格好は、なんの斬新さもないですよね、どこに時代の最先端の風俗を採りいれてるんですかねえ、どこが歌舞伎なんです?
隠 おお、きついことを言うねえ。いまや歌舞伎はアンダーグラウンドじゃなくて、陽の目を見過ぎてる大御所芝居だからなあ。う~む、なんだな、こんどの時代の最先端の形ってのは、まあ、その、上に建ってる超高層建築のことなんだろうなあ。
熊 あ、なるほど、伝統衣装の上に山高帽子をかぶってるって、それが傾奇モンなんですかねえ。まあ、大学の卒業式で、袴はいた女性が革靴を履いてるみたいなもんですね。なんだかさえない傾奇モンですね。劇場が元のまんまなら、せめて超高層部分ででも傾奇デザインにしてくれればよかったのになあ、ほら、新宿の包帯ミイラみたいなデザイン学校のように。
隠 そういえば、今度は5代目の建物だけど、初代は洋風だったからこれは当時としては傾奇デザインだったな。
熊 なるほど、洋館に瓦屋根の玄関がついてる。
初代の歌舞伎座建築は洋風デザイン
隠 元のまんまのデザインにしたのは、興業元の松竹の営業方針もあったのかもしれないね。これまでの歌舞伎を見る主要な客層の保守派ばあさんたちから、あらガラス張り建物なんていやよ、なんて嫌われないように、とかね。
熊 じゃあ、この格好は誰が考えたんですか。やっぱり松竹の舞台装置をつくってる人でしょうかね、和風はお得意でしょ。それとも建設会社ですかね。隠 歌舞伎座のウェブサイトを見ると、設計監理は三菱地所設計、意匠・デザインは隈研吾建築都市設計事務所、劇場監修は杉山隆建築設計事務所の今里隆と書いてあるね。
熊 え~とね、設計監理とか意匠デザインとか劇場監修ってなんのことですか。建物ってのはゼネコンというか建設会社が設計して建てるんでしょ。あ、そうか、建設会社にその三菱とか隈とかが雇われているんだ。
隠 そうじゃないよ。建物ってのは設計事務所とか建築家が設計して、その図面をもとに建設会社が建てるんだよ。
熊 あ、そうなんですか。その建築家って、なんです。家を建て築くって書くんですから、やっぱり家を建てる工事屋さんでしょ。
隠 いや設計だけをする人だよ。
熊 設計だけするなら建築設計士っていうんでしょ。
隠 まあ、めんどくさいから、もういいや、とにかく設計する会社や人がいて、建てる会社があるってことなんだよっ。
熊 はいはい、で、あの元のまんまの格好にしたのは、その中のだれなんです?
隠 うん、それは意匠・デザイン担当の隈研吾ってことになるな。この人は東大教授の建築家なんだよ。
熊 あら、東大教授なんて偉い人なんですね。じゃあ、ボランティアでタダでデザインしたんでしょうね。だって国家公務員だから、よそから報酬もらっちゃいけないんでしょ。
隠 おまえね、偉い先生にそんな下世話なこと言っちゃいけないよ。
熊 えへへ、庶民はついつい。で、ちょっと伺いますが、できあがったのは元あったのと同じ格好、つまり意匠・デザインなんでしょ。それがどうしてわざわざエレエセンセに頼む必要があるんですか。元と同じならだれでも設計できるでしょ、まあ、いっちゃなんだけど、あっしだってできますよ。
隠 アッ、そりゃそうだ、でもね、エスカレーターがついたり、舞台機構が新しくなったそうだよ。
熊 そりゃあデザインじゃなくて技術でしょでしょ。技術的なことはわざわざトーデー教授でなくても、もう一人の三菱のほうが丸の内であれだけやってるんだから、よっぽどうまいような。
隠 う~む。マイッタね、あのね、これはわたしの勝手な推測なんだがね、初めに隈研吾を意匠デザイン担当で入れたときの松竹の考えは、隈の傾奇デザイン、つまりだな、変わったデザインを期待していたのだろうよ。なにしろ隈が世に有名になった建築のデザインは、実にへんちくりんなものだったからなあ。あれこそホントの傾奇デザインだったよ。ところがだんだんと設計を煮詰めていくうちに、世間の要望やら松竹の営業方針がカブくのをやめて、もとのままがよろしいって保守的回帰した、で、せっかくの隈傾奇デザインは封印されてしまった。たぶん、こうなんだろうよ。もちろん実際はどうなのか知らないよ。これなら熊さん、じゃなくて隈さんがいるわけがわかる。
熊 あたしと同じクマさんだけど、腕が振るえなくてさぞがっかりしたでしょうねえ。でもね、報酬もらえないんだからからしょうがないやって、あきらめたかもね。
隠 いや、報酬はもらっているだろうよ、だって東大教授個人じゃなくて、隈研吾建築都市研究所が仕事してるって建前だからね。
熊 あ、なるほど、そうなんだ。でもね、もとのコピーなら技術だけの仕事で、意匠とかデザインとかの仕事じゃないでしょ。そこが建築家の仕事ってよくわかりませんね。
隠 ああ、三菱一号館美術館、東京駅、歌舞伎座とコピーデザインが続くと、建築家の創造性ってなんだろうねえ。あ、そうだ、今思い出したけど、大阪に村野藤吾が1950年代に設計した新歌舞伎座ってのがあってね、これはあの時代のいかにも傾奇ってな感じのデザインだったねえ。
熊 あっしもご隠居に負けずに勝手な想像ですが、建設中に東日本大震災があったから、このご時世じゃあ、やっぱり歌舞伎→傾奇→傾き建築はまずい、ってことかも。
隠 そりゃまあともかく、下司がかんぐってもしょうがないから、こりゃやっぱり芝居見物に行って、どこが傾奇デザインか確かめなきゃしょうがないね。天井桟敷の一幕見なら安いよ。
●関連ページ「歌舞伎座の改築」
http://datey.blogspot.jp/2009/02/blog-post_04.html
2013/04/01
749震災核災3年目(16) 南三陸町の復興計画は森と人と海の小宇宙が語る大叙事詩のひとつのページであった
「748震災核災3年目(15)」からのつづき
(現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)
南三陸町の復興計画の図面を観て、その拡散型の理由を知りたいと、face bookに書いたら、知人がこんなことを教えてくれた。
それは南三陸町の各地にある「契約講」が、地域社会を結ぶ強い絆があることによるのだろうというのである。
そこでまた貧者の百科事典のウェブサイト情報をひっくり返して調べたら、芋づる式にいろいろとわかった。契約講は江戸時代から東北地方にはあるらしい。
南三陸町の復興計画の土地利用計画図にある黄色い円の数だけ、津々浦々の大小の入り江の奥には、漁業を生業とする集落があり、それぞれに昔からの「契約講」あるいは「契約会」と称する、いまでいえば自治会組織があるそうだ。(黄色の円と一致するのでもないようだが)
時代による変遷もあるが、今もれっきとした力をもっている。
契約講は集落を運営する組織であり、前浜ではかつては漁業権も持っており、裏山には大きな共有林をもっている。横つながりになって地域を育てている。
なるほど、そうであるか、そのような生業を支える地域社会が強力ならば、これほども分散するのは当然のことかもしれない。
その小さな漁業集落の一種漁港は19カ所あり、その背後地の集落戸数は平均57戸、高齢化率は28.9%である(南三陸町復興計画委員会議事録より)。
意外といってはおかしいが、それなりの戸数があり、高齢化率も高くない。地域社会が成り立つはずである。
それが成り立つのは、前にある豊かな海と背後の豊かな森がそれを維持しているからであろう。生業をもっている生活圏は持続するということである。しかも漁業は農業よりも協同する作業も多いから共同体が成り立つのであろう。
都市を見る目だけでは、わからないことを教えられたのであった。
問題があるとすれば、海に近い暮らしから、裏山の台地に登っても、海に出て漁をするという生業はうまくいくのだろうか、ということである。
これまで明治三陸、昭和三陸、チリ地震と各津波で被災して、高台に居を移しても、いつの間にかまた平地に下りて被災する繰り返しであった。被災した土地の範囲を利用禁止にしてもそうなった。
それは経験者も忘れるということと共に、知らない新入り住民が浜近くに暮らしだして漁で先駆けするのをみて、高台移転者も我慢できなくなる、ということだったらしい。
これからも、それはありうることだろう。どうすればよいか、わたしにはわからない。いっそのこと被災地を海に戻して港を広げると、だれも住まないだろうから名案に思うが、どうかしら。
そしてまた心配することは、これから工事をして戻るまでには2、3年はかかるだろうが、その間に海を離れる人たちもあるだろう。
戻ってこないかもしれない。台地の上の街は空き家だらけになるかもしれない。
だが、長い長い目で観ると、豊かな森と海がこれまで人をはぐくんできたように、人間が災害をも受け入れつつ自然の一員として暮らしてきたこの理想的な風土を、これからも末永く継承していくような気がしてきた。
地球史的な時間間隔で起こる大津波で、人間が築いた海と山の小宇宙とでもいうべき生活文化圏がご破算になる、そしてまた人間は営々と小宇宙を築き上げる、そしてまた、、、、これは超長編一大叙事詩である。
小さな入り江、中くらいな入り江、大きな志津川湾、それらにはそれぞれに川がそそぎ人々の暮らしがあり、背後に森を持つ。それらはまるで入れ子である。
南三陸町という人間が自然とともに生きてきた小宇宙に、悠久の時間と空間の輪廻を観るのである。
復興計画は大叙事詩のなかのひとつのページにすぎないのであった。その表からも裏からも、それを読み取る必要があると教えられたのであった。
3月になって、「震災核災3年目」と題するシリーズをだらだらと書いてきたが、3月も終わったので、ここらで区切りをつけることにする。
ここまでの16回分のコラムを再編して「まちもり通信」に「震災核災3年目」として載せた。
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme
●参照⇒地震津波原発コラム一覧
(現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)
南三陸町の復興計画の図面を観て、その拡散型の理由を知りたいと、face bookに書いたら、知人がこんなことを教えてくれた。
それは南三陸町の各地にある「契約講」が、地域社会を結ぶ強い絆があることによるのだろうというのである。
そこでまた貧者の百科事典のウェブサイト情報をひっくり返して調べたら、芋づる式にいろいろとわかった。契約講は江戸時代から東北地方にはあるらしい。
南三陸町の復興計画の土地利用計画図にある黄色い円の数だけ、津々浦々の大小の入り江の奥には、漁業を生業とする集落があり、それぞれに昔からの「契約講」あるいは「契約会」と称する、いまでいえば自治会組織があるそうだ。(黄色の円と一致するのでもないようだが)
時代による変遷もあるが、今もれっきとした力をもっている。
契約講は集落を運営する組織であり、前浜ではかつては漁業権も持っており、裏山には大きな共有林をもっている。横つながりになって地域を育てている。
なるほど、そうであるか、そのような生業を支える地域社会が強力ならば、これほども分散するのは当然のことかもしれない。
その小さな漁業集落の一種漁港は19カ所あり、その背後地の集落戸数は平均57戸、高齢化率は28.9%である(南三陸町復興計画委員会議事録より)。
意外といってはおかしいが、それなりの戸数があり、高齢化率も高くない。地域社会が成り立つはずである。
それが成り立つのは、前にある豊かな海と背後の豊かな森がそれを維持しているからであろう。生業をもっている生活圏は持続するということである。しかも漁業は農業よりも協同する作業も多いから共同体が成り立つのであろう。
都市を見る目だけでは、わからないことを教えられたのであった。
問題があるとすれば、海に近い暮らしから、裏山の台地に登っても、海に出て漁をするという生業はうまくいくのだろうか、ということである。
これまで明治三陸、昭和三陸、チリ地震と各津波で被災して、高台に居を移しても、いつの間にかまた平地に下りて被災する繰り返しであった。被災した土地の範囲を利用禁止にしてもそうなった。
それは経験者も忘れるということと共に、知らない新入り住民が浜近くに暮らしだして漁で先駆けするのをみて、高台移転者も我慢できなくなる、ということだったらしい。
これからも、それはありうることだろう。どうすればよいか、わたしにはわからない。いっそのこと被災地を海に戻して港を広げると、だれも住まないだろうから名案に思うが、どうかしら。
そしてまた心配することは、これから工事をして戻るまでには2、3年はかかるだろうが、その間に海を離れる人たちもあるだろう。
戻ってこないかもしれない。台地の上の街は空き家だらけになるかもしれない。
だが、長い長い目で観ると、豊かな森と海がこれまで人をはぐくんできたように、人間が災害をも受け入れつつ自然の一員として暮らしてきたこの理想的な風土を、これからも末永く継承していくような気がしてきた。
地球史的な時間間隔で起こる大津波で、人間が築いた海と山の小宇宙とでもいうべき生活文化圏がご破算になる、そしてまた人間は営々と小宇宙を築き上げる、そしてまた、、、、これは超長編一大叙事詩である。
小さな入り江、中くらいな入り江、大きな志津川湾、それらにはそれぞれに川がそそぎ人々の暮らしがあり、背後に森を持つ。それらはまるで入れ子である。
南三陸町という人間が自然とともに生きてきた小宇宙に、悠久の時間と空間の輪廻を観るのである。
復興計画は大叙事詩のなかのひとつのページにすぎないのであった。その表からも裏からも、それを読み取る必要があると教えられたのであった。
3月になって、「震災核災3年目」と題するシリーズをだらだらと書いてきたが、3月も終わったので、ここらで区切りをつけることにする。
ここまでの16回分のコラムを再編して「まちもり通信」に「震災核災3年目」として載せた。
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme
●参照⇒地震津波原発コラム一覧
2013/03/30
748震災核災3年目(15) これほどの分散型復興でコンパクトシティ時代に逆行する理由を知りたい
「747震災核災3年目(14)」からのつづき
(現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)
ここに南三陸町の地図がある。「南三陸町土地利用構想図」(2013年2月13日公表)とあり、これは南三陸町のウェブサイトに掲載されている震災復興計画図のひとつである。
志津川湾の周りにいくつもの黄色の丸があり、矢印がつないでいる。これは実線黄色丸は被災した集落や街で、点線黄色丸は新しくつくる集落や街であり、矢印は移転する元と先を結んでいるらしい。
移転先の点線黄色丸の数を数えたら30か所ある。ということは、これから30か所に大小のニュータウンを造成して、三陸町の被災移住民たちが集団で大移動するのである。
いや、すごいことである。移動住民が何人になるのかわからないが、町の作った復興計画書を見ると被災者総数は町民の55%、9800人弱だから、その全部ではないにしても、大変な人数である。それが30か所で起きるのである。
町民にとって津波、避難につづく巨大イベントである。
人口が1万8千人もいない小さな町で、どうしてこれほどたくさんのニュータウンをつくる分散型復興計画にする必要があるのだろうか。
図面を見ると、リアス式海岸の小さな入り江ごとにある集落それぞれにニュータウンをつくるからだと読むことができる。
つまり津波で壊滅した集落を社会をそのまま近くに再現するという、復旧優先であるようだ。このあたりの人たちは、それほどにも、いわゆる「絆」につながれた暮らしをしてきていて、これからもそれを求めているのだろうか。それは世代に関係なくそうなのだろうか。
おおぜいが集まるニュータウンならまだしも、少人数のニューヴィレッジならば、人口減少の波をかぶって、早晩消えざるを得ないようにも思う。
そう、人間自身が起こす人口減少という津波が、いま日本列島を襲っている最中なのである。
南三陸町の人口はこれまで減少に減少を重ねてきていて、被災直前は17666人、その55.2%も被災してしまった。被災後もこの町に、その集落に住み続ける人たちは、どれくらいの数だろうか。
災害が人口減少のスピードを早めるのは、わたしは中越震災復興の現地で見聞きした。
南三陸町だけが人口が減らない、ということはありえない。復興計画にはこれからも減少していくが、2021年の町人口総数を14555人に見込んでいる。そこには政策的な意図も入っている。
しかし、国立社会保障・人口問題研究所が2013年3月に発表した日本の各市町村の将来推計人口のうち、南三陸町の2020年の値は14448人で高齢化率35.3%、そして2030年には12385人で41.3%になる。
これから超高齢化して減少する町の人口が、ばらばらと散らばって暮らすのは、どういうことになるだろうか。
自然の豊かさを享受する生活と言えば聞こえはよいが、20年後に高齢人口が35.9%(町復興計画)になると、そうはいかないことが起きてくることは目に見えている。
これほどに分散型となる生活圏を復興という名目で作り上げても、南三陸町は大丈夫なのだろうか。
どうせ移動して新しい街、集落、家にすむのだから、これほど分散しなくて、ある程度に集まる方が、これからの生活のためにはよいだろうとおもう。
そう思うのは、現地事情を全く知らないものの言い分であることは承知している。地域共同体の緊密さ、三陸漁業のありかたなど、まったく知らない。
なにかそれらの地元固有の文化や産業のありようが、この分散型復興計画が出てくる所以なのだろう。それを知りたいのである。
海岸近くの多くの場所で、しかも短期間に同時に、これほどの大土木工事を進めても、海には影響がないものだろうか。
先般、三陸町の人から聞いたのだが、南三陸町の母なる志津川湾は、養殖漁業が発達していて、一年中なにかが水揚げされていたが、近年はそれゆえにかなり汚れていた。
ところが先般の津波が、海底にたまっていたヘドロを沖に持ち去ってくれて、この海は若返って生産力が復活したそうだ。
これだけ一度にニュータウン工事をすると、その湾のまわりの土木造成による土砂が流れ込むように思うが、大丈夫なのだろうか。
せっかく復活した海が汚れるかもしれないと、わたしは遠くから机上でよけいな心配をするのである。
どこか3、4か所くらいに、まとまることはできないのだろうか。そのほうが土砂流出対策もしやすいだろう。
そしてまた、分散型よりもまとまりのある生活圏を構成するほうが、なにかと便利なはずである。コンパクトシティ、コンパクトタウンがこれからはあるべきまちづくりの方向だとされている時代に、せっかくそれを実行することができるチャンスなのに、これほども逆行するには何か特別の理由があるに違いない。
もちろん、各小さな入り江ごとに分散する生活を否定するものではないが、それには覚悟が要るし、お金も要りそうだ。(つづく)
●地震津波原発日誌コラム一覧
(現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)
ここに南三陸町の地図がある。「南三陸町土地利用構想図」(2013年2月13日公表)とあり、これは南三陸町のウェブサイトに掲載されている震災復興計画図のひとつである。
志津川湾の周りにいくつもの黄色の丸があり、矢印がつないでいる。これは実線黄色丸は被災した集落や街で、点線黄色丸は新しくつくる集落や街であり、矢印は移転する元と先を結んでいるらしい。
●南三陸町土地利用計画図
移転先の点線黄色丸の数を数えたら30か所ある。ということは、これから30か所に大小のニュータウンを造成して、三陸町の被災移住民たちが集団で大移動するのである。
いや、すごいことである。移動住民が何人になるのかわからないが、町の作った復興計画書を見ると被災者総数は町民の55%、9800人弱だから、その全部ではないにしても、大変な人数である。それが30か所で起きるのである。
町民にとって津波、避難につづく巨大イベントである。
人口が1万8千人もいない小さな町で、どうしてこれほどたくさんのニュータウンをつくる分散型復興計画にする必要があるのだろうか。
図面を見ると、リアス式海岸の小さな入り江ごとにある集落それぞれにニュータウンをつくるからだと読むことができる。
つまり津波で壊滅した集落を社会をそのまま近くに再現するという、復旧優先であるようだ。このあたりの人たちは、それほどにも、いわゆる「絆」につながれた暮らしをしてきていて、これからもそれを求めているのだろうか。それは世代に関係なくそうなのだろうか。
おおぜいが集まるニュータウンならまだしも、少人数のニューヴィレッジならば、人口減少の波をかぶって、早晩消えざるを得ないようにも思う。
そう、人間自身が起こす人口減少という津波が、いま日本列島を襲っている最中なのである。
南三陸町の人口はこれまで減少に減少を重ねてきていて、被災直前は17666人、その55.2%も被災してしまった。被災後もこの町に、その集落に住み続ける人たちは、どれくらいの数だろうか。
災害が人口減少のスピードを早めるのは、わたしは中越震災復興の現地で見聞きした。
南三陸町だけが人口が減らない、ということはありえない。復興計画にはこれからも減少していくが、2021年の町人口総数を14555人に見込んでいる。そこには政策的な意図も入っている。
しかし、国立社会保障・人口問題研究所が2013年3月に発表した日本の各市町村の将来推計人口のうち、南三陸町の2020年の値は14448人で高齢化率35.3%、そして2030年には12385人で41.3%になる。
これから超高齢化して減少する町の人口が、ばらばらと散らばって暮らすのは、どういうことになるだろうか。
自然の豊かさを享受する生活と言えば聞こえはよいが、20年後に高齢人口が35.9%(町復興計画)になると、そうはいかないことが起きてくることは目に見えている。
これほどに分散型となる生活圏を復興という名目で作り上げても、南三陸町は大丈夫なのだろうか。
どうせ移動して新しい街、集落、家にすむのだから、これほど分散しなくて、ある程度に集まる方が、これからの生活のためにはよいだろうとおもう。
そう思うのは、現地事情を全く知らないものの言い分であることは承知している。地域共同体の緊密さ、三陸漁業のありかたなど、まったく知らない。
なにかそれらの地元固有の文化や産業のありようが、この分散型復興計画が出てくる所以なのだろう。それを知りたいのである。
海岸近くの多くの場所で、しかも短期間に同時に、これほどの大土木工事を進めても、海には影響がないものだろうか。
先般、三陸町の人から聞いたのだが、南三陸町の母なる志津川湾は、養殖漁業が発達していて、一年中なにかが水揚げされていたが、近年はそれゆえにかなり汚れていた。
ところが先般の津波が、海底にたまっていたヘドロを沖に持ち去ってくれて、この海は若返って生産力が復活したそうだ。
これだけ一度にニュータウン工事をすると、その湾のまわりの土木造成による土砂が流れ込むように思うが、大丈夫なのだろうか。
せっかく復活した海が汚れるかもしれないと、わたしは遠くから机上でよけいな心配をするのである。
どこか3、4か所くらいに、まとまることはできないのだろうか。そのほうが土砂流出対策もしやすいだろう。
そしてまた、分散型よりもまとまりのある生活圏を構成するほうが、なにかと便利なはずである。コンパクトシティ、コンパクトタウンがこれからはあるべきまちづくりの方向だとされている時代に、せっかくそれを実行することができるチャンスなのに、これほども逆行するには何か特別の理由があるに違いない。
もちろん、各小さな入り江ごとに分散する生活を否定するものではないが、それには覚悟が要るし、お金も要りそうだ。(つづく)
●地震津波原発日誌コラム一覧
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