2013/04/12

754これでまた村上春樹を読むチャンスが遠のいてしまった

 村上春樹なる小説家が長編小説を上梓したとて、なにやら本屋が騒がしいと、新聞のニュースにある。
 その題名が長たらしくも『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』なんだそうである。
 今日、近くの本屋に「本の雑誌」を買いに行ったら、沢山の『色彩……』が積んであった。

 えーと、この村上春樹ってずっと前に、『ノルウェイの森』って小説で評判になってたことあったよなあ、あ、そうだ「IQナント」かって、知能検査?の本もあったような。
 なんにしても、村上春樹が書いた本を読んだことは一度もない。
 読んでやってもよいのだが、これだけ世間が騒ぐと、偏屈の虫が起きてしまう。これでまた村上春樹を読む機会が遠のいてしまった。まあ、遠ざけているのはわたし自身だが、、。

 なんでも、出版社がインタネットによるチラチラお漏らし宣伝をしたのが効いたとかって、新聞に書いてあるけど、インタネット好きのおれは知らなかったぞ。
 どうもわたしのインタネット世界は、世の中の一般的傾向とは違うところを覗き込んでいるらしい。

 それにしても、本ってのは世間の評判(インタネット)とか、出版社の宣伝(直木賞、芥川賞)とか、本屋の推薦(本屋大賞)とかに頼って読むものかい。
 本くらいは自分で選べよ。

 小説家で村上と言えば、わたしには村上龍である。
 この人の小説は、『限りなく透明に近いブルー』はもちろん読んでない。だって、世間が騒いだから偏屈虫が鳴いたのだ。
 で、『トパーズ』、『希望の国のエクソダス』、『半島を出よ』、それから他にも何か読んだような気がする。

 あ、昔々のこと、村上元三という時代小説家がいたなあ、。

 でも、村上と言えば、なんといっても村上隆である。
 なんだよ、このヘンなアーティストは、こんなのが何億円もするなんて、、??、、。

●参照→伊達の眼鏡「世相戯評いちゃもん

2013/04/07

753「震災核災3年目」の連続記事を再編集して掲載

 2013年3月11日の東日本大震災から3年目の2013年3月11日から、連続して書いてきた「震災核災3年目」の記事を再編集して、「まちもり瓢論」として「まちもり通信サイトに掲載しました。
 これをお読みいただく方のために、はじめにお断りしておくが、わたしは何も東北の復興に役立つ行動をしていない。
あれから3年目になっても、ただ心配しているだけの「復興心配書斎派」にすぎない。
 それでも、昨年の秋に小さなボランティア活動ついでに宮城県の被災地(東松島、石巻)を見てきた。
 見れば、ますます心配が募るばかりである。聞いても募る。


震災核災3年目

目次

核災3年目(その1)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme
復興計画の向こうにある次の災害への対策は

震災核災3年目(その2)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme2
大被災地区を海や森の自然に還す考えはないのか

震災核災3年目(その3)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme3
まちづくりとして公営住宅建設を進め、これを機に居住政策を転換せよ

震災核災3年目(その4)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme4
南三陸町の復興を遠くから眺めて

 

2013/04/06

752【言葉の酔時記】返還可能な時期は明日またはその後って借金返済のがれに使いたい

 そうか、そういう表現が政府間で公式に使えるんだな。ならば、庶民も使おう。
 今度、だれかから金を借りるとき、「返還可能な時期は、明日またはその後」と言おう。
 これは、いつまでたっても返さなくても、約束違反にならない便利な言葉であるよなあ。
 あ、でも、これで金を貸してくれる人がいるはずがないよなあ。
 やっぱり借りてしまったやつは強いなあ、「返還可能な時期は、明日またはその後」なんて言って、いつまでも返さなければいいのだからね。

 日本とアメリカ両政府が、沖縄県にある6件の米軍基地について、その返還可能な時期を発表した。
 その中で、普天間飛行場(宜野湾市)は、「2022年度またはその後に返還が可能」になるのだそうである。
 これって、要するに「2022年までに返すことは絶対に不可能だし、返すとしてもそれよりも後になれば可能かもしれない」ということである。
 これは「返還可能な時期」じゃなくて、「返還不可能な時期は無期限」という発表である。
 英語ではどう書いてあるのか知らないが、日本語では、そうとしか読めない。

コラム「言葉の酔時記」一覧
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#kotoba

2013/04/05

751近頃の若者はPMナントカにも黄砂にも花粉にも負けぬように体を鍛えているようだ

 ようやく春めいた天候に誘われて、老爺5人がふらふらと東京近郊の街に、博物館、弥生期遺跡など訪ね歩いた。
 4時過ぎにもう疲れたからとて、駅前繁華街に戻り、昔の記憶にある裏町で喉を潤そうと、その裏街に懐かしい店を探せども、はて、どこもかしこも表通りの明るい街に変ってしまっている。
 あのどこか湿った、軒の低い商店街と、超安売りの汚い昔々の店々はどこに行ったのだろうか。

 浦島太郎老爺たちは、ただ、うろうろ、足が疲れた、もうどこでもいいや、なになに、シシリー料理かい、まあいいや、早くビール飲もうよと店にはいった。
 まだ5時、客は誰もいない、ゆったりと席について、ビール、ワイン、ピザ、カルパッチョなどなど、結構うまいうまいとやっていた。

 次第に客席が埋まってきた。若者男女ばかりである。
 いつものようにわたしたちはその場の最高齢者というか、不良老人隊。
 そのうちにどうも煙たくなってきた。あたりに煙が漂っている。
 あ、いや、火事じゃなくて、見回せば、若者男女のどいつもこいつもが、タバコを吸っているのだ。
 ふーむ、近頃は喫煙の店で飲み食いしたことがないなあ、珍しいことだ。

 あ、そうだ、たしか、神奈川県条例で、レストランでの喫煙は原則禁止、喫煙させるには分離することになっていたはずだぞ、え、、。
あ、そうか、ここは、東京都内であった。町田市は、神奈川県の地形に奇妙に張りだしている東京都である。地形的には神奈川県だけど、県条例適用外である。

 
 それにしても、最近は喫煙族を見る機会がすくない。
 騎兵隊に虐待されて少数民族になったスウ族どもは、どこに行ったのかとおもったら、こんな東京郊外都市の一角に隠れ家をもっていたのか。
 なんだねえ、若者喫煙者が多いのが、なんともはや頼もしい限りである

 何が頼もしいって、大陸方面から黄砂とかPMナントカとかって、あるいは山からはスギ花粉とか、喉や鼻に悪い代物がやってくる時代に、こうやって自ら煙を吸い込み吐き出して、おのれを鍛えているらしい。
 これからの高齢社会を支えていくためには、若者は悪い空気にも耐える肉体を持つべきと考えているらしい。
 エライものである。まあ、頑張ってくれたまえ。

 そう思いつつ家に戻って床に入ったが、夜中にどうも喉が痛くて、タンが溜まってくる。風邪をひいたかなあ、いや、タバコの煙にやられたのだな。
 もう、老人はいまさら鍛えようもないから、もうあの店に行くのは止そう。
 あ、東京都内の店は危ないから、できるだけ神奈川県内の店にしようっと、ゲホゲホ、、。

●参照→神奈川県受動喫煙防止条例
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f6955/p23022.html

2013/04/02

750建て直し五代目歌舞伎座の姿に斬新さは全く無いのは歌舞伎はもう傾奇時代じゃないってことか

建て替え前の歌舞伎座
(吉田五十八設計、1950年改修竣工、2009/03/03撮影)

熊五郎 こんちわー、ご隠居、花見に行きましょうよ。
ご隠居 おお、熊さん、花見もいいけど芝居に行こうよ。
熊 え、そりゃまたなんで。
隠 ほら、東京の歌舞伎座が新しくなったって聞いたからね、行ってみたいなと。
熊 そうそう、なんでも元のまんまの形で建て直して、上に超高層ビルを乗っけたとか。どうせ建て直すのなら元のまんまより、なんか新しい形にすりゃよさそうなもんですがねえ。
隠 おや、そうかい、わたしは違うね、やっぱり伝統芸能の場は伝統を踏まえて、もとの形を伝えるもんだよ。

熊 おお、面白いことになってきましたね。あのですね、歌舞伎ってのはもともとは、傾奇(かぶき)といって斬新で派手な格好をすることで、傾奇モンてえと時代から飛んでるへんちくりんな格好した奴らのことでしょ。
隠 ああそうだね、出雲阿国が大人気者になったのも、そういうことだったようだな。あのころはアンダーグラウンド劇団だったからね。変ったことや斬新さが売り物だった。
熊 なのに、なんです、こんどの歌舞伎座の格好は、なんの斬新さもないですよね、どこに時代の最先端の風俗を採りいれてるんですかねえ、どこが歌舞伎なんです?

隠 おお、きついことを言うねえ。いまや歌舞伎はアンダーグラウンドじゃなくて、陽の目を見過ぎてる大御所芝居だからなあ。う~む、なんだな、こんどの時代の最先端の形ってのは、まあ、その、上に建ってる超高層建築のことなんだろうなあ。
熊 あ、なるほど、伝統衣装の上に山高帽子をかぶってるって、それが傾奇モンなんですかねえ。まあ、大学の卒業式で、袴はいた女性が革靴を履いてるみたいなもんですね。なんだかさえない傾奇モンですね。劇場が元のまんまなら、せめて超高層部分ででも傾奇デザインにしてくれればよかったのになあ、ほら、新宿の包帯ミイラみたいなデザイン学校のように。
隠 そういえば、今度は5代目の建物だけど、初代は洋風だったからこれは当時としては傾奇デザインだったな。 
熊 なるほど、洋館に瓦屋根の玄関がついてる。

初代の歌舞伎座建築は洋風デザイン
(高原弘造設計、1889年竣工、1907年改修、 wikipedia)

隠 元のまんまのデザインにしたのは、興業元の松竹の営業方針もあったのかもしれないね。これまでの歌舞伎を見る主要な客層の保守派ばあさんたちから、あらガラス張り建物なんていやよ、なんて嫌われないように、とかね。
熊 じゃあ、この格好は誰が考えたんですか。やっぱり松竹の舞台装置をつくってる人でしょうかね、和風はお得意でしょ。それとも建設会社ですかね。
隠 歌舞伎座のウェブサイトを見ると、設計監理は三菱地所設計、意匠・デザインは隈研吾建築都市設計事務所、劇場監修は杉山隆建築設計事務所の今里隆と書いてあるね。

熊 え~とね、設計監理とか意匠デザインとか劇場監修ってなんのことですか。建物ってのはゼネコンというか建設会社が設計して建てるんでしょ。あ、そうか、建設会社にその三菱とか隈とかが雇われているんだ。
隠 そうじゃないよ。建物ってのは設計事務所とか建築家が設計して、その図面をもとに建設会社が建てるんだよ。
熊 あ、そうなんですか。その建築家って、なんです。家を建て築くって書くんですから、やっぱり家を建てる工事屋さんでしょ。
隠 いや設計だけをする人だよ。
熊 設計だけするなら建築設計士っていうんでしょ。
隠 まあ、めんどくさいから、もういいや、とにかく設計する会社や人がいて、建てる会社があるってことなんだよっ。

熊 はいはい、で、あの元のまんまの格好にしたのは、その中のだれなんです?
隠 うん、それは意匠・デザイン担当の隈研吾ってことになるな。この人は東大教授の建築家なんだよ。
熊 あら、東大教授なんて偉い人なんですね。じゃあ、ボランティアでタダでデザインしたんでしょうね。だって国家公務員だから、よそから報酬もらっちゃいけないんでしょ。
隠 おまえね、偉い先生にそんな下世話なこと言っちゃいけないよ。

熊 えへへ、庶民はついつい。で、ちょっと伺いますが、できあがったのは元あったのと同じ格好、つまり意匠・デザインなんでしょ。それがどうしてわざわざエレエセンセに頼む必要があるんですか。元と同じならだれでも設計できるでしょ、まあ、いっちゃなんだけど、あっしだってできますよ。
隠 アッ、そりゃそうだ、でもね、エスカレーターがついたり、舞台機構が新しくなったそうだよ。
熊 そりゃあデザインじゃなくて技術でしょでしょ。技術的なことはわざわざトーデー教授でなくても、もう一人の三菱のほうが丸の内であれだけやってるんだから、よっぽどうまいような。

隠 う~む。マイッタね、あのね、これはわたしの勝手な推測なんだがね、初めに隈研吾を意匠デザイン担当で入れたときの松竹の考えは、隈の傾奇デザイン、つまりだな、変わったデザインを期待していたのだろうよ。なにしろ隈が世に有名になった建築のデザインは、実にへんちくりんなものだったからなあ。あれこそホントの傾奇デザインだったよ。ところがだんだんと設計を煮詰めていくうちに、世間の要望やら松竹の営業方針がカブくのをやめて、もとのままがよろしいって保守的回帰した、で、せっかくの隈傾奇デザインは封印されてしまった。たぶん、こうなんだろうよ。もちろん実際はどうなのか知らないよ。これなら熊さん、じゃなくて隈さんがいるわけがわかる。

熊 あたしと同じクマさんだけど、腕が振るえなくてさぞがっかりしたでしょうねえ。でもね、報酬もらえないんだからからしょうがないやって、あきらめたかもね。
隠 いや、報酬はもらっているだろうよ、だって東大教授個人じゃなくて、隈研吾建築都市研究所が仕事してるって建前だからね。
熊 あ、なるほど、そうなんだ。でもね、もとのコピーなら技術だけの仕事で、意匠とかデザインとかの仕事じゃないでしょ。そこが建築家の仕事ってよくわかりませんね。
隠 ああ、三菱一号館美術館、東京駅、歌舞伎座とコピーデザインが続くと、建築家の創造性ってなんだろうねえ。あ、そうだ、今思い出したけど、大阪に村野藤吾が1950年代に設計した新歌舞伎座ってのがあってね、これはあの時代のいかにも傾奇ってな感じのデザインだったねえ。

熊 あっしもご隠居に負けずに勝手な想像ですが、建設中に東日本大震災があったから、このご時世じゃあ、やっぱり歌舞伎→傾奇→傾き建築はまずい、ってことかも。
隠 そりゃまあともかく、下司がかんぐってもしょうがないから、こりゃやっぱり芝居見物に行って、どこが傾奇デザインか確かめなきゃしょうがないね。天井桟敷の一幕見なら安いよ。

●関連ページ「歌舞伎座の改築」
http://datey.blogspot.jp/2009/02/blog-post_04.html

2013/04/01

749震災核災3年目(16) 南三陸町の復興計画は森と人と海の小宇宙が語る大叙事詩のひとつのページであった

「748震災核災3年目(15)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 南三陸町の復興計画の図面を観て、その拡散型の理由を知りたいと、face bookに書いたら、知人がこんなことを教えてくれた。
 それは南三陸町の各地にある「契約講」が、地域社会を結ぶ強い絆があることによるのだろうというのである。

 そこでまた貧者の百科事典のウェブサイト情報をひっくり返して調べたら、芋づる式にいろいろとわかった。契約講は江戸時代から東北地方にはあるらしい。

 南三陸町の復興計画の土地利用計画図にある黄色い円の数だけ、津々浦々の大小の入り江の奥には、漁業を生業とする集落があり、それぞれに昔からの「契約講」あるいは「契約会」と称する、いまでいえば自治会組織があるそうだ。(黄色の円と一致するのでもないようだが)
 時代による変遷もあるが、今もれっきとした力をもっている。

 契約講は集落を運営する組織であり、前浜ではかつては漁業権も持っており、裏山には大きな共有林をもっている。横つながりになって地域を育てている。
 なるほど、そうであるか、そのような生業を支える地域社会が強力ならば、これほども分散するのは当然のことかもしれない。

 その小さな漁業集落の一種漁港は19カ所あり、その背後地の集落戸数は平均57戸、高齢化率は28.9%である(南三陸町復興計画委員会議事録より)。
 意外といってはおかしいが、それなりの戸数があり、高齢化率も高くない。地域社会が成り立つはずである。

 それが成り立つのは、前にある豊かな海と背後の豊かな森がそれを維持しているからであろう。生業をもっている生活圏は持続するということである。しかも漁業は農業よりも協同する作業も多いから共同体が成り立つのであろう。
 都市を見る目だけでは、わからないことを教えられたのであった。

 問題があるとすれば、海に近い暮らしから、裏山の台地に登っても、海に出て漁をするという生業はうまくいくのだろうか、ということである。
 これまで明治三陸、昭和三陸、チリ地震と各津波で被災して、高台に居を移しても、いつの間にかまた平地に下りて被災する繰り返しであった。被災した土地の範囲を利用禁止にしてもそうなった。

 それは経験者も忘れるということと共に、知らない新入り住民が浜近くに暮らしだして漁で先駆けするのをみて、高台移転者も我慢できなくなる、ということだったらしい。
 これからも、それはありうることだろう。どうすればよいか、わたしにはわからない。いっそのこと被災地を海に戻して港を広げると、だれも住まないだろうから名案に思うが、どうかしら。

 そしてまた心配することは、これから工事をして戻るまでには2、3年はかかるだろうが、その間に海を離れる人たちもあるだろう。
 戻ってこないかもしれない。台地の上の街は空き家だらけになるかもしれない。

 だが、長い長い目で観ると、豊かな森と海がこれまで人をはぐくんできたように、人間が災害をも受け入れつつ自然の一員として暮らしてきたこの理想的な風土を、これからも末永く継承していくような気がしてきた。
 地球史的な時間間隔で起こる大津波で、人間が築いた海と山の小宇宙とでもいうべき生活文化圏がご破算になる、そしてまた人間は営々と小宇宙を築き上げる、そしてまた、、、、これは超長編一大叙事詩である。

 小さな入り江、中くらいな入り江、大きな志津川湾、それらにはそれぞれに川がそそぎ人々の暮らしがあり、背後に森を持つ。それらはまるで入れ子である。
 南三陸町という人間が自然とともに生きてきた小宇宙に、悠久の時間と空間の輪廻を観るのである。
 復興計画は大叙事詩のなかのひとつのページにすぎないのであった。その表からも裏からも、それを読み取る必要があると教えられたのであった。

 
 3月になって、「震災核災3年目」と題するシリーズをだらだらと書いてきたが、3月も終わったので、ここらで区切りをつけることにする。
 ここまでの16回分のコラムを再編して「まちもり通信」に「震災核災3年目」として載せた。
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme

●参照⇒地震津波原発コラム一覧

2013/03/30

748震災核災3年目(15) これほどの分散型復興でコンパクトシティ時代に逆行する理由を知りたい

「747震災核災3年目(14)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 ここに南三陸町の地図がある。「南三陸町土地利用構想図」(2013年2月13日公表)とあり、これは南三陸町のウェブサイトに掲載されている震災復興計画図のひとつである。
 志津川湾の周りにいくつもの黄色の丸があり、矢印がつないでいる。これは実線黄色丸は被災した集落や街で、点線黄色丸は新しくつくる集落や街であり、矢印は移転する元と先を結んでいるらしい。

●南三陸町土地利用計画図

 移転先の点線黄色丸の数を数えたら30か所ある。ということは、これから30か所に大小のニュータウンを造成して、三陸町の被災移住民たちが集団で大移動するのである。
 いや、すごいことである。移動住民が何人になるのかわからないが、町の作った復興計画書を見ると被災者総数は町民の55%、9800人弱だから、その全部ではないにしても、大変な人数である。それが30か所で起きるのである。
 町民にとって津波、避難につづく巨大イベントである。

 人口が1万8千人もいない小さな町で、どうしてこれほどたくさんのニュータウンをつくる分散型復興計画にする必要があるのだろうか。
 図面を見ると、リアス式海岸の小さな入り江ごとにある集落それぞれにニュータウンをつくるからだと読むことができる。
 つまり津波で壊滅した集落を社会をそのまま近くに再現するという、復旧優先であるようだ。このあたりの人たちは、それほどにも、いわゆる「絆」につながれた暮らしをしてきていて、これからもそれを求めているのだろうか。それは世代に関係なくそうなのだろうか。

 おおぜいが集まるニュータウンならまだしも、少人数のニューヴィレッジならば、人口減少の波をかぶって、早晩消えざるを得ないようにも思う。
 そう、人間自身が起こす人口減少という津波が、いま日本列島を襲っている最中なのである。
 南三陸町の人口はこれまで減少に減少を重ねてきていて、被災直前は17666人、その55.2%も被災してしまった。被災後もこの町に、その集落に住み続ける人たちは、どれくらいの数だろうか。
 災害が人口減少のスピードを早めるのは、わたしは中越震災復興の現地で見聞きした。

 南三陸町だけが人口が減らない、ということはありえない。復興計画にはこれからも減少していくが、2021年の町人口総数を14555人に見込んでいる。そこには政策的な意図も入っている。
 しかし、国立社会保障・人口問題研究所が2013年3月に発表した日本の各市町村の将来推計人口のうち、南三陸町の2020年の値は14448人で高齢化率35.3%、そして2030年には12385人で41.3%になる。

 これから超高齢化して減少する町の人口が、ばらばらと散らばって暮らすのは、どういうことになるだろうか。
 自然の豊かさを享受する生活と言えば聞こえはよいが、20年後に高齢人口が35.9%(町復興計画)になると、そうはいかないことが起きてくることは目に見えている。
 これほどに分散型となる生活圏を復興という名目で作り上げても、南三陸町は大丈夫なのだろうか。

 どうせ移動して新しい街、集落、家にすむのだから、これほど分散しなくて、ある程度に集まる方が、これからの生活のためにはよいだろうとおもう。
 そう思うのは、現地事情を全く知らないものの言い分であることは承知している。地域共同体の緊密さ、三陸漁業のありかたなど、まったく知らない。
 なにかそれらの地元固有の文化や産業のありようが、この分散型復興計画が出てくる所以なのだろう。それを知りたいのである。

 海岸近くの多くの場所で、しかも短期間に同時に、これほどの大土木工事を進めても、海には影響がないものだろうか。
 先般、三陸町の人から聞いたのだが、南三陸町の母なる志津川湾は、養殖漁業が発達していて、一年中なにかが水揚げされていたが、近年はそれゆえにかなり汚れていた。
 ところが先般の津波が、海底にたまっていたヘドロを沖に持ち去ってくれて、この海は若返って生産力が復活したそうだ。

 これだけ一度にニュータウン工事をすると、その湾のまわりの土木造成による土砂が流れ込むように思うが、大丈夫なのだろうか。
 せっかく復活した海が汚れるかもしれないと、わたしは遠くから机上でよけいな心配をするのである。
 どこか3、4か所くらいに、まとまることはできないのだろうか。そのほうが土砂流出対策もしやすいだろう。

 そしてまた、分散型よりもまとまりのある生活圏を構成するほうが、なにかと便利なはずである。コンパクトシティ、コンパクトタウンがこれからはあるべきまちづくりの方向だとされている時代に、せっかくそれを実行することができるチャンスなのに、これほども逆行するには何か特別の理由があるに違いない。
 もちろん、各小さな入り江ごとに分散する生活を否定するものではないが、それには覚悟が要るし、お金も要りそうだ。(つづく

●地震津波原発日誌コラム一覧

747震災核災3年目(14)大被災した南三陸町の応急仮設住宅地を衛星写真で見て心配になった

「745震災核災3年目(13)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 三陸津波被災地の南三陸町の一枚の地図がある。
 応急仮設住宅地の位置が記してあるのだが、その箇所数の多さに驚いた。人口がさぞ多いからだろうと思ったら、被災直前は1万8千人弱の町である。
 なぜこれほどの分散しているのだろうかと、google earthの衛星写真と照合してしげしげと見ていった。

●南三陸町応急仮設住宅位置図(南三陸町ウェブサイトより)

 
 リアス式海岸特有の大小の入り江ごとの狭い平地に街や集落があって、それらがほとんどすべて被災して壊滅したようだ。
 そこでその街や集落がチリジリになりながらも、できるだけ元の位置に近いところで、仮設住宅を建てるために、津波に襲われなかった近くの台地の空き地を応急的に探したので、これほどたくさんの場所になったらしい。

 そのとき、壊滅した元の平地さえも狭いのに、台地の上はさらに狭いから、まとまることもできずに、これほどたくさんの位置に配置せざるを得なかったということなのだろう。
 もちろんあくまで、わたしの勝手な推測である。 

 
 衛星写真でそれらひとつひとつの場所を見ていくと、心配なことが出てくる。
 生活の拠点であった集落が一切なくなったのだから、もちろん生業の場もなくなり、日常の買い物の場もなくなったのだろう。山の中に10数戸で孤立しているような仮設住宅もある。
 日常生活はうまく成り立つのだろうか。病院通いはどうするのだろうか。

●南三陸町波伝谷地区の仮設住宅(2012年2月22日撮影google earth)
 
 衛星写真で仮設住宅を探すのは難しいだろうなあと思いながら見はじめたら、すぐに仮設住宅とわかる特徴を見つけた。
仮設住宅地は、真っ白な(茶色もあるが)な屋根の細長い建物が、平行してびっしりと建ち並ぶから、まわりの山林や戸建て住宅地とは際立って異なるのである。一か所だけ例外があったが、いずれも狭い隣棟間隔で同じ向きに平行して並ぶのである。
 土地がどこもかしこも四角というわけでもないし、学校の校庭とか公共施設のような広い敷地でも、大昔の公営住宅団地を彷彿させる並び方である。

●南三陸町 志津川小中学校あたりの仮設住宅(2012年2月22日撮影google earth)
左の仮設住宅地だけが例外的に平行配置ではない。
 
●上と同じ位置の震災直後(2011年3月30日撮影google earth)
 これで見ると左の仮設住宅地は津波被災地であるようだ。
 
これは応急仮設住宅設置の補助要綱とかにそうせよと書いてあるに違いない。でなければこれほどまでに右へ倣えということはあるまい。
 でも、一か所だけ例外的な平行でない配置もあったから、必ずしも制度上の縛りではないのかもしれない。
 同じ敷地でも、もう少しは暮らしやすそうなプラニング技術が、この時代にはありそうなものである。
 あるいは実例があるので言うが、被災した土地でもよいならもっと楽に建てられるところがありそうなものである。
 南三陸の人たちは、いくら狭い入り江の奥の谷戸であっても、これほど狭い路地に好んで暮らしていたので仮設住宅もそうしたいとの希望であったとは考えにくい。
 どうも、土地がここにある、とにかく機械的に配置して行こう、そうしたとしか思えないのだ、どうなのだろうか。

 南三陸町では事実上は初めての応急仮設住宅ではあるだろうが、日本で初めてではあるまい。
 日本ではやむを得ない大災害がかなりの頻度であり、災害時の応急仮設住宅に経験のある専門家とか建設業者がいるだろうと思うのだが、同じ戸数を入れるにしても、こういう時の配置のあり方のノウハウ蓄積はありそうなものだ。
 わたしはその暮らしの実態は何も知らないのだが、これで快適なのだろうか。応急だからこれでいいのだと、そういう慣習というか制度かもしれないと思うと、心配である。

●南三陸町 歌津地区平成の森仮設住宅地(2012年2月22日撮影google earth)
町内最大規模の246戸を詰め込んでいる
 
●同じく津波から1か月後の平成の森(2011年4月6日撮影google earth)
 
実はわたしは南三陸町に行ったことはない。たまたま先日、南三陸町の住民の方を東京に招いて話を聞く会があり、そこに参加して若干の現地情報を得たので、いろいろ考えることがあった。
 そこで、これまでは一般論的に心配ごとを書き連ねたが、これからはケーススタディ的に考えることにしたのだ。

 わたしは生れは岡山県で、東北には縁者も知り合いもなし、引っ越しは多かったが住んだことはなし、仕事では秋田県内のいくつかの都市にかかわったが、そのほかは全く縁がなかった。
 三陸というからには、リアス式海岸だから岩手県と思ったら、ここは宮城県であったというお粗末なレベルである。
 しかし、今度の震災で被災直後の壮絶なる風景を新聞やネットで沢山観た中で、南三陸町のボロボロの姿は最も強烈に脳内に残っている。それで町の名前だけは覚えた。

 google earthで被災地を南から北まで見るのが日常になっていたが、地理不案内のわたしにはどこも同じように見えて、地上のその場の惨事と結びつけるのが難しい。要するに岡目八目で、本当の悲惨さはちっともわからないのである。
 それを承知の上で、岡目八目のもつ意義もなにほどかはあるだろうと勝手に思い、よそ者の心配事を書き連ねる日々である。(次は復興計画を考える。つづく

2013/03/28

746玉久三角ビルから東横デパートへと渋谷の変わりゆく姿を追う

 駒場から渋谷まで、なんの用もないけどふらふらと歩いた。
 駒場公園の旧前田侯爵邸をちょっと見た。デザインは悪いが昔のお殿さまってのは金持ちだったんだと思った。
 40年ぶりくらいで日本民芸館に入った。大昔に入った時のほうが感動があったが、今回は柳宗悦というひとも金持ちだったんだなあ、なんて思い、わたしは年寄りになってひがみが出たらしい。

●三角ビルのある町
 住宅街をふらふらと行くと、おっ、三角の家だ。横尾忠則が好きそうなY字路の角に、鋭角そのままに見せて建つ家である。

  ▼三角住宅とその空中写真


せまい土地に建つこんな家は大都市では珍しいわけではない。思いついて渋谷までの間に三角ビルを探して歩いた。
 元は四角な土地だったのが、都市計画道路で斜めに切り取られて残ったのが三角土地になり、やむを得ず三角ビルを建てる。そういうのは探せばいっぱいある。
 好きで三角の建物をつくる人は、まあ、いない。変形土地では建物の設計に苦労すると思うが、建築家の中にはそういうのに意欲を燃やす人もいる。
 この写真の家を設計した建築家もそうだろうと思う。

 三角ビルで有名なのは、新宿駅西にある住友三角ビルである。
 土地は三角でもないのにわざわざ三角の平面の超高層ビルである。オフィスビルとしては使いにくいだろうと思う。
 最近は超高層ビルだって平気で壊すから、これもあまり長くない運命かもしれない。

 ▼空中写真による渋谷三角地帯の三角ビルふたつ
「クロサワ楽器店」(左上の円の中)と「玉久」(右下)

 ▼クロサワ楽器店

●玉久三角ビル
 わたしが渋谷で昔から知っている三角建物は、「玉久」ビルである。三角ビルになる前の三角木造平屋時代から知っている。
 むかしむかし、このあたりは恋文横丁とよばれる三角地帯で、戦後バラックそのままの店が連なる狭い路地が錯綜していた。学生時代にウロウロしたことがある。
 その頃のことについては、「50年代の渋谷三角地帯」というページに、よく調べて細かく書いてある。
http://tokyo.txt-nifty.com/tokyo/2003/04/50_39c7.html

  
 玉久(たまきゅう)は、その一角で表通りにあった。外も中も汚い木造の平屋の店だったが、三角地帯の中でこの建物そのものが三角であった。
 汚いながらも実に美味い魚を食わせていて、お値段もけっこう高かった。渋谷の放送局関係者のふところ暖かい連中が、粋がって常連だったようだ。

 この玉久もある三角地帯を地上げして、東急が109ビルを建てたのは1979年だった(ウィキペディア)。竹山実設計の銀色にかかがやく建物は、戦後バラックイメージをさっぱりと払しょくした。
 工事が終わったら玉久もなくなるのか、109ビルに入るのだろうと思っていたら、周りはそうなったが玉久だけは残った。

 109のアルミ板壁にペタッとくっつく真っ黒な木造建物には緑の葉が茂る1本の木が立っていて、それらの取り合わせが奇妙に面白い風景であった。
 格好よく言えば、変わりゆく渋谷の象徴的な点景であった。そのころ気になる風景として、わたしが撮った写真がどこかにあるのだが、みつからない。
 ネットに昔の玉久の絵と写真があるから紹介する。
http://www.makoart.com/Report/reportImages111027/Report1110-5.jpg
http://www.hachiyamayumi.mydns.jp/~hachiya/19930320tokyo45091.jpg

 ずっとこのままでいてくれるといいなあ、なんとなくそう思っていたが、あれは何年ごろだったか、玉久ビルになってしまった。
 今見ると109ビルと合体したかのように見えるが、実は隙間があって、三角木造店は独立した三角ビルになっているのであった。三角鉛筆ビルである
 ビルになって8階あたりの高みに登ったらしい玉久には、いまだ入ったことがない。値段も高みに登っていそうだから。

 ▼玉久(ガラス張りビル)と109(アルミ板張りビル)

 ▼上のと反対から見上げると二つのビル間に隙間が見える

●渋谷東横デパート
  渋谷東横百貨店を見上げたら、「さようなら東館」と壁に大きくかいてある。そうか、これを壊すのか。東横線が地下に入って地上も大改造計画のはじまりか。
 このあたりの風景の変化は、わたしが生きているうちに間に合うだろうか。無理だな。
 ▼東横デパート東館 

 ついでながら東横線が地下鉄に乗りいれして、これまでは横浜から座って寝ていれば渋谷に到着していたのが、今やうっかりすると秩父の山奥まで連れて行かれるらしい。
 渋谷で井の頭線に乗り換えるのに15分も歩いたぞ。横浜でも中華街まで連れて行かれてしまうし、まったく不便になったものだ。バリヤーだらけになった。
 偶然だが、新聞博物館で「東横百貨店開店披露大売出し」の広告を見つけた。日付は1934年10月31日らしい。ということは79年前である。

 ▼東横百貨店開店時の新聞広告
 後に西館と南館を増築(設計は坂倉順三)したが、そちらはまだ解体しないらしい。
 この東館と西館をつないで山手線の上をまたぐのが中央館である。4(5?)階建ての橋のような建物で、東西二つのビルを足場にして架かっている。東館が無くなれば片方の足場が消えるから、ここもとり壊すのだろう。
 1950年代としてはかなり珍しい建築構造方式で、その構造設計はわたしが大学時代に教わった(が単位は落した)二見秀雄教授であったと、なにかで読んだ記憶がある。

2024年4月13日追記)今や東横デパートはすっかり消滅、まったく違う風景の渋谷となった。わたしはもう4年も訪ねていないが、もうすっかり浦島太郎である。

2013/03/27

745震災核災3年目(13)まちづくりの一環として中心街に復興公営住宅を建設することに期待する

「744震災核災3年目(12)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 実は発災直後の2011年3月20日に、わたしは自分のブログに「内陸母都市に疎開定住公共賃貸住宅を」と題して、次のようなことを書いた。

「これから、ぜひとも公共賃貸借住宅を災害疎開者のために建設してほしい。新たな住宅建設のための負担を、持家優遇政策で被災者に借金させてはならない。
 それも被災した地域の内陸にある母都市の中心部に、疎開者の元のコミュニティ集団に対する単位として建設するのだ。
 こうすることで、災害疎開者のコミュニティの継続と、空洞化する地方都市の再生とをセットにする震災復興都市計画、いや震災再生国土計画とするのである。
 繰り返すが、災害復興政策として持家建設やマンション購入ばかりを優遇する金融や税制を優先するのではなく」


 2013年3月6日の報道(NHK NEWS WEB)にはこう書いている。 
「政府がまとめた住宅再建の工程表によりますと、集中復興期間に当たる平成27年度までに、被災した住宅を自力で再建できない人のための災害公営住宅を、岩手県では計画の9割に当たる5100戸、宮城県では計画の7割に当たる1万1200戸を建設するとしています。
 一方、津波に加えて原発事故による影響を受けている福島県では2900戸を建設するなど、3県合わせて2万戸近くを建設するとしています。
 さらに、住宅の高台への集団移転事業などについて、ことし9月までに、岩手県では計画の6割の、宮城県では計画の7割の宅地の整備を進捗させるとしています。」


 つまり、2016年3月までとしても、これから3年間である。3年で3県に計2万戸も公営住宅を建てるというと、これは忙しい。
 もちろん必要なことは分かるし、わたしは賃貸借居住主義者だから、大賛成なのだが、どうも気になる。
 あまりに建設の速度が早すぎてしかも大量だから、わたしが期待するような公営住宅ができるのだろうか。

 公営住宅政策は長らく日陰者だったから、自治体に計画、建設、管理のノウハウはあるのだろうか。
 よい交通立地、よい生活環境、よい買い物や地域施設が整うのか、よいプラニングになるのか、よい景観になるのか、そしてよい管理体制が整うのだろうか。土地の手当てができるのだろうか。
 大急ぎでつくるから、とりあえず取得できた土地にとりあえず造る、なんてことになっているかもしれないと危惧する。
 あるいは公営住宅は公営住宅だけ、民間住宅は民間住宅だけ、商店街や公共施設はまたそれ独自に、それぞれの別個のゾーニングの範囲でのみ計画して建設するかもしれないと危惧する。これではまちづくりにならない。

 日本のこれまでのような経済政策としての「住宅政策」ではなく、これからは社会政策としての「居住政策」として、今後の模範となるような、公営住宅ができることを期待しているのだが、現場はどうなのだろうか。
 新たな都市づくりのひとつとして公営住宅建設をしてほしい。特に内陸部の被災しなかった中心市街の空洞化対策と連携して、その既成市街地の中に埋め込むように建設してほしいものだ。
 その方がインフラ整備の必要がないし、居住者の生活も便利で、高齢化時代に対応するとともに、コンパクトタウン形成になるからだ。
 あるいは被災地から集団移転する台地上の新市街地につくるとしても、ミックスコミュニティとすることや、戦後ニュータウンのような寝るだけの街にしないようにしたい。生業が成り立つ新たな街を作ってほしい。
 公営住宅はその街づくりのリーダーとなってほしい。

 賃貸の公営住宅の良いところは、計画的に良い環境住宅をつくり、一体的に管理してよい環境を維持できること、次世代へ円滑に継続することなどがあるのだから、それらに力を注ぎ込んでほしい。
 わたしは今、都心の公的賃借住宅に住んでいる。ここを積極的に選んだのは、上のようなことを期待しているからである。賃料を除けば、ほぼ満足している。

 とにかく、戸数消化主義が今は求められているようだが、場当たりの土地、場当たりの計画、場当たりの入居制度、場当たりの管理になって、結局は住みにくくて元の津波被災地に戻るってことにならぬように、頑張ってほしいものだ。

 関東大震災のあとで同潤会によって建設した共同住宅は、のちのちまでも都市住宅の模範であり続けた。
 東北地方の復興公営住宅も、地域における模範となる共同住宅となってほしい。(次につづく)