2013/03/28

746玉久三角ビルから東横デパートへと渋谷の変わりゆく姿を追う

 駒場から渋谷まで、なんの用もないけどふらふらと歩いた。
 駒場公園の旧前田侯爵邸をちょっと見た。デザインは悪いが昔のお殿さまってのは金持ちだったんだと思った。
 40年ぶりくらいで日本民芸館に入った。大昔に入った時のほうが感動があったが、今回は柳宗悦というひとも金持ちだったんだなあ、なんて思い、わたしは年寄りになってひがみが出たらしい。

●三角ビルのある町
 住宅街をふらふらと行くと、おっ、三角の家だ。横尾忠則が好きそうなY字路の角に、鋭角そのままに見せて建つ家である。

  ▼三角住宅とその空中写真


せまい土地に建つこんな家は大都市では珍しいわけではない。思いついて渋谷までの間に三角ビルを探して歩いた。
 元は四角な土地だったのが、都市計画道路で斜めに切り取られて残ったのが三角土地になり、やむを得ず三角ビルを建てる。そういうのは探せばいっぱいある。
 好きで三角の建物をつくる人は、まあ、いない。変形土地では建物の設計に苦労すると思うが、建築家の中にはそういうのに意欲を燃やす人もいる。
 この写真の家を設計した建築家もそうだろうと思う。

 三角ビルで有名なのは、新宿駅西にある住友三角ビルである。
 土地は三角でもないのにわざわざ三角の平面の超高層ビルである。オフィスビルとしては使いにくいだろうと思う。
 最近は超高層ビルだって平気で壊すから、これもあまり長くない運命かもしれない。

 ▼空中写真による渋谷三角地帯の三角ビルふたつ
「クロサワ楽器店」(左上の円の中)と「玉久」(右下)

 ▼クロサワ楽器店

●玉久三角ビル
 わたしが渋谷で昔から知っている三角建物は、「玉久」ビルである。三角ビルになる前の三角木造平屋時代から知っている。
 むかしむかし、このあたりは恋文横丁とよばれる三角地帯で、戦後バラックそのままの店が連なる狭い路地が錯綜していた。学生時代にウロウロしたことがある。
 その頃のことについては、「50年代の渋谷三角地帯」というページに、よく調べて細かく書いてある。
http://tokyo.txt-nifty.com/tokyo/2003/04/50_39c7.html

  
 玉久(たまきゅう)は、その一角で表通りにあった。外も中も汚い木造の平屋の店だったが、三角地帯の中でこの建物そのものが三角であった。
 汚いながらも実に美味い魚を食わせていて、お値段もけっこう高かった。渋谷の放送局関係者のふところ暖かい連中が、粋がって常連だったようだ。

 この玉久もある三角地帯を地上げして、東急が109ビルを建てたのは1979年だった(ウィキペディア)。竹山実設計の銀色にかかがやく建物は、戦後バラックイメージをさっぱりと払しょくした。
 工事が終わったら玉久もなくなるのか、109ビルに入るのだろうと思っていたら、周りはそうなったが玉久だけは残った。

 109のアルミ板壁にペタッとくっつく真っ黒な木造建物には緑の葉が茂る1本の木が立っていて、それらの取り合わせが奇妙に面白い風景であった。
 格好よく言えば、変わりゆく渋谷の象徴的な点景であった。そのころ気になる風景として、わたしが撮った写真がどこかにあるのだが、みつからない。
 ネットに昔の玉久の絵と写真があるから紹介する。
http://www.makoart.com/Report/reportImages111027/Report1110-5.jpg
http://www.hachiyamayumi.mydns.jp/~hachiya/19930320tokyo45091.jpg

 ずっとこのままでいてくれるといいなあ、なんとなくそう思っていたが、あれは何年ごろだったか、玉久ビルになってしまった。
 今見ると109ビルと合体したかのように見えるが、実は隙間があって、三角木造店は独立した三角ビルになっているのであった。三角鉛筆ビルである
 ビルになって8階あたりの高みに登ったらしい玉久には、いまだ入ったことがない。値段も高みに登っていそうだから。

 ▼玉久(ガラス張りビル)と109(アルミ板張りビル)

 ▼上のと反対から見上げると二つのビル間に隙間が見える

●渋谷東横デパート
  渋谷東横百貨店を見上げたら、「さようなら東館」と壁に大きくかいてある。そうか、これを壊すのか。東横線が地下に入って地上も大改造計画のはじまりか。
 このあたりの風景の変化は、わたしが生きているうちに間に合うだろうか。無理だな。
 ▼東横デパート東館 

 ついでながら東横線が地下鉄に乗りいれして、これまでは横浜から座って寝ていれば渋谷に到着していたのが、今やうっかりすると秩父の山奥まで連れて行かれるらしい。
 渋谷で井の頭線に乗り換えるのに15分も歩いたぞ。横浜でも中華街まで連れて行かれてしまうし、まったく不便になったものだ。バリヤーだらけになった。
 偶然だが、新聞博物館で「東横百貨店開店披露大売出し」の広告を見つけた。日付は1934年10月31日らしい。ということは79年前である。

 ▼東横百貨店開店時の新聞広告
 後に西館と南館を増築(設計は坂倉順三)したが、そちらはまだ解体しないらしい。
 この東館と西館をつないで山手線の上をまたぐのが中央館である。4(5?)階建ての橋のような建物で、東西二つのビルを足場にして架かっている。東館が無くなれば片方の足場が消えるから、ここもとり壊すのだろう。
 1950年代としてはかなり珍しい建築構造方式で、その構造設計はわたしが大学時代に教わった(が単位は落した)二見秀雄教授であったと、なにかで読んだ記憶がある。

2024年4月13日追記)今や東横デパートはすっかり消滅、まったく違う風景の渋谷となった。わたしはもう4年も訪ねていないが、もうすっかり浦島太郎である。

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