2017/03/18

1256【オペラ見物】モーツアルト「魔笛」を勅使河原三郎演出で観てきたがバレエ・ミュージカルだったなあ

 う~ん、川瀬賢太郎指揮のオーケストラの出来はわからないけど、勅使河原三郎の演出・装置・照明・衣装は、よいともわるいとも、なんとも言い難いなあ。
 今日、神奈川県民ホールでモーツアルトのオペラ「魔笛」を観てきた。忘れぬうちに感想を書いておこう。


勅使河原の演出については、全体にバレー・ミュージカル(というジャンルがあるのかどうか知らないが)だった。つまり舞踏と歌唱がメインで、歌手に演技というか芝居を求めないオペラだったのである。
 だから、歌手に台詞を一言もしゃべらせないで、ダンサーによる日本語ナレーション(佐東利穂子)で繋ぐのであった。
 佐東の語りの発声とダンスはよかったのだが、語り内容そのものがなんともつまらなかった。なんだか高校生に初めてオペラを見せて解説しているいるみたいな内容だった。この支離滅裂オペラには、支離滅裂ナレーションの方がよろしい。
 歌手にセリフを吐かせないから、シチュエーションごとの演技もほとんどなくて、歌うばかりなのであった。見るこちらも不満だったが、オペラ歌手のほうも不満だろう。

 分りやすくしようとてこうしたのなら、これってちょっと違うよなあ。トントンと歌とセリフが勢いよく進むのがモーツアルトオペラだろうに、このナレーションでたびたび一時停止するのが、いらいらする。
 もともとこの魔笛ってオペラは、はっきり言って支離滅裂、コミックもシリアスも、恋愛も憎悪も、宗教もニヒルも、もうなんでもありのパッチワークめちゃめちゃバラエティ番組だから、スジなんかどうでもいいのである。これは見世物つき音楽なのである。
 わたしもそのあたりをどう演出するか見たいとは思わなくて、とにかく魔笛の素晴らしい音楽を聴きたくて行ったのである。
 今回はそれにバレエダンスがついていたので、そこの見世物演出はなかなかよかった。もっともわたしはバレエダンスの上手いも下手も全然わからないので、単に視覚的な興味だけで言っている。

 勅使河原の舞台装置は、巨大な金属質のリングが、舞台の上に吊り下げられて登場する。直径が5m位のが9個、20m位のが1個、状況に応じて出たり入ったり、並んだり重なったり、垂直だったり傾いたり水平だったり、いろいろに変化して登場する。
 舞台に不思議な奥行きを与えて面白く観たが、はじめから終いまでこれだから、そのうちに飽きてきた。
 そのほかは照明によって舞台上に格子や道の形を映し出すだけで、魔笛によくあるおどろおどろしい装置は何もなかった。紗幕への映像投影もなかった。

 おどろおどろしいと言えば、最初に登場してオドロオドロ芝居だぞって見せる大蛇は、灰色のバレエダンサーたちが列になって舞う演出なので、全くオドロしくない出だしであった。まあ、いいでしょう。
 衣装でオドロオドロシかったのは、モノスタトスと神官で、珍妙な着ぐるみで苦笑してしまった。これと3童子が、モーツアルト好みのオドロだった。これらの着ぐるみはどういう意味なんだろうかと、首をかしげつつ苦笑した。
 特にモノスタトスのあの珍妙さは、魔笛芝居のユルキャラ狙いかよ~。
 だのに、タミーノとパミーナは、まったく普通の街着のような衣装、もうちょっとなんとかしたらどうだ~。

 パパゲーノの衣装が、定番のあのモジャモジャバサバサ鳥の羽じゃなくて、なにやらえらく格好のよい真っ白な毛皮のようだった。
 パパゲーナの衣装もそれに対応していたが、それよりも彼女の歌の出番が、パ、パ、パ、パの歌のたったの1回だけ、セリフがないから例の老婆から美女に変身する面白い場面がなくて、つまらん。
 狂言回し役のパパゲーナとモノスタトスからはセリフを奪わないで、しっかり芝居させてほしかった。
 まあ、ゴチャゴチャイチャモン付けているが、全体的には音楽は素晴らしくて、オペラを楽しんだひと時だった。
◆◆◆
神奈川県民ホール3階席から舞台を見る
 今回、はじめて県民ホールの天井桟敷とも言うべき3階の最上部どんつまりの席だったが、音も視野もけっこうよかった。
 舞台装置のリングの変化と人物の動きとが重なって見えるのは、なかなか楽しかった。これからも3000円の最安席に限るなあ。
この前にここに来たのはいつだったかなあ、あそうだ、2年前の「オテロ」だった。

 これまでに劇場で見たモーツアルトの歌劇は「ドンジョバンニ」だけである。魔笛について知ったかぶりして書いているが、実は劇場じゃなくて、TVとyoutubeによるものである。なにしろ西洋オペラは、見物料金が高くて貧乏人にはとても無理だ。
 わたしのオペラ見物は、もっぱら日本伝統オペラ、つまり能楽ばかりで、こちらはこれまで100回以上見ている。もっとも、近ごろは能楽も高価だなあ、いや、こっちが貧乏になって相対的に高価になったか。
  
 これまで観た西洋オペラを思い出してみる。
 ドンジョバンニ(ウィーン・フォルクス・オパー、これは2階の真ん中あたりで3000円ほどだった)、ローエングリン(新国立劇場)、マダムバタフライ(横須賀芸術劇場)、オテロ(神奈川県民ホール)、オルフェーオ(神奈川県立音楽堂、東京北とぴあ)、カーリューリバー(神奈川芸術劇場)、こうもり(2回見てるけど、どこでだったかなあ)、椿姫(神奈川県民ホール)、他にあったかなあ、、少ないなあ。
ウィーン・フォルクス・オパー ドンジョバンニ公演の夜景 1994年 
ついでにミュージカルとバレエも思い出してみるか。
 キャッツ(新橋?キャッツシアター、ニューヨークのどこか忘れた劇場)、ヘア(ニューヨークオフブロードウェイ)、レミゼラブル(帝劇)、42nd Street(帝劇)、、、白鳥の湖(よこすか)、くるみ割り人形(よこすか)、、、、他にあったかなあ、、。
 でもまあ、現代ではありがたいことに、youtubeにほとんどのオペラでもミュージカルでも登場するので、貧乏人には嬉しい時代に人生が間に合ったものである。

2017/03/09

1255【五輪騒動】新国立競技場設計騒動が鎮静したら次は絵画館前サブトラック常設でまたひと騒ぎありそうで楽しみだなあ

 おお、これも揉めるぞ、たぶん、景観保存原理主義者たちが、ケシカランと騒ぐだろうなあ、久しぶりにまたヒマツブシにもってこいだな。
神宮外苑創建時の絵画館玄関より見る広場と銀杏並木
現在の絵画館前広場と銀杏並木
●今度は絵画館前広場にサブトラック常設とか?

 2020オリンピックの陸上競技会場になる新国立競技場は、競技期間中に使うサブトラックを絵画館前広場に仮設すると聞いていた。
 昨日の新聞によると、オリンピックばかりか、大きな陸上競技会をやるにはサブトラックが必要なので、陸上業界(というのか?)が言うには、オリンピックが終わってもそのまま常設施設にしてくれと。
サブトラックに?

 そうか、競技する側としてはごもっともである。あんなにでっかい新競技場にサブトラックがない方がオカシイと、わたしも思う。
 建築で言えばオペラハウスを作ったのに、大ホールはあるがリハーサル場がないようなもんで、これじゃあ半端物だな。

 さて常設となると、これまたひと騒ぎありそうだ。陸上業界じゃなくて景観業界(っていうのか?)からイチャモンつける人たち登場するに違いない。
 明治神宮外苑は明治大帝の偉業を顕彰する場であり、聖徳記念絵画館なる聖なる施設の前庭を、騒がしい運動競技の場にするとはけしからん、戦前そうであったように美しい芝生の広場に戻せ、、、とか。

 ようやくあの生ガキデザイン新国立競技場を駆逐して、不十分ながらも日本的デザイン競技場に変えることにしたのに、今度は高層ホテルが建つとて、聖徳絵画館の背景景観が乱れようとするところに、更にまた前面景観も運動場になって乱れるとは、なにごとであるか、、、とか。

 なによりもかによりも明治大帝に申し訳ない、、造園設計者の折下吉延にも申し訳ない、、とか。
 歴史的景観を大切にして、昔の姿に復元するべきだ、あの東京駅のように、、、とか。
 
●さて、これからどんな騒ぎになるか楽しみ

 でもなあ、あの絵画館前広場は敗戦直後に占領軍に接収されて静かな芝生じゃなくなって、今やもう70年以上も経ったのだよなあ。静かな芝生期間の戦前20年よりも、戦後こっちの歴史がはるかに長いよなあ。庶民の運動広場だよなあ。
 おまえはそういうけど、あの東京駅も昔の姿は30年間、戦後の姿は60年間だったのに復元したぞ、外苑だってそうするべきだよ、なんて、おっしゃるでしょうねえ、そうなんです、トホホ、わたしはその復原反対をずっと唱えて来たけど、蟷螂の斧で無視されたんですよ。

 景観も建築もなんでもかんでも最初の姿がいちばん良かった、昔に戻せ復元せよという風潮が世間を風靡しているけれど、これって復元帝国主義といいましょうか、景観原理主義と言いましょうか、なかなか思い切りがスゴイもんですねえ。
 なにしろ、それができてからあとの時代の影響というか要請による変化の歴史を、いっさい無視しようってんですからねえ。
 あ、帝国とか原理とか言ってますが、わたしはレーニンも秋水も読んだことないし、神学にも触れたことなくて、そのお、オチョクリムードで言っておりますです、ハイ。
どうせならなにもかも、ここまで復元しましょうよ、とか
あえて言えばあそこは、キチンとしたスポーツグラウンドになれば、兵士となる青年の体育に熱心であった明治大帝もお喜びでしょう。外苑にスポーツ施設をたくさん作った由縁はそこにあったのですからね。
 さらに言えば、入ってみたい気にならない絵画館だって、これをスポーツマンたちのクラブハウスとして有効に使えばよろしい。今ある絵画はそのまま展示してあれば、歴史文化に無関心なスポーツマンたちも競技会の度に大帝のご聖徳に触れる、、、これも大帝はお喜びか、、タイテイのことはお許しが出るのか、それともタイテイにせいってお叱り受けるのか、、な~んて。
スポーツクラブハウスに?
●立体公園決定を廃止して元に戻せという提言は?

 ところで、これは若干旧聞になったが、去年5月、新国立競技場と緑の環境のあり方について日本学術会議からイチャモンが出された。これはその後どうしてるんだろ?
 参照「神宮外苑の環境と新国立競技場の 調和と向上に関する提言
  http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-t211-1-1.pdf
 ザハ案に合わせるために立体公園制度の趣旨に反して無理矢理公園変更したのを、白紙見直し案に沿って元に戻せ、更に渋谷川を復活せよ、と言うのである。
 ごもっともである。

 わたしはやり直しコンペに応募した2案を眺めていて、どちらも立体公園にしなくても済むような配置に気が付いて、そうか、立体公園をやめるだと思った。
 てっきり当然そうするのかと思ったら、なぜだかそうしなかった。
 白紙見直しの看板を掲げながら、新競技場のために新規や変更決定した公園計画や都市計画は一切見直さないという、実に奇妙な白紙見直しだった。白紙じゃなくて灰紙だな。

 この公園緑地系の学者たちの異議申し立ては当然であるが、さて、事業者がそれを受けてどうするのか、その後はなんにも聞かないから、言いっぱなし、言われっぱなしなんだろうか。
 設計者としてしゃしゃり出る隈研吾さんも、大学の学者建築家なんだから、何とか言うとかなんとかするべきだろうに、だんまりを決め込んでいるのは何故か。工事はどんどん進む。

 さてさて、これらばっかりじゃなくて、近いうちに青山通り沿い大企業用地に外苑容積移転で超高層開発騒ぎが起きるんだろうなあ、神宮球場と秩父宮ラグビー場の土地交換も面白そうだなあ、超高層ホテルつき神宮球場ができるかもなあ、当分まだまだ楽しみがあるなあ。
最も景観が変りそうなラグビー場とその隣の青山通り沿い
 オリンピックにゃ興味はないけど
便乗騒ぎにゃ興味津々

参照記事●五輪騒動瓢論集:新国立競技場と外苑再開発
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html

2017/03/01

1254【横浜水上徘徊(1)】寒の船で川巡りして見上げる関東大震災復興橋梁から想う水の都だった横浜

 天気の良い冬の日、川風も穏やかな船遊び、横浜の関内と関外をとりまく川を、船に乗って巡るまち歩きイベント(2017年2月25日、JIA建築祭)に参加した。
 狙いは関東大震災復興時に架けた橋梁群を、川面から見上げようというのである。いつもの陸上徘徊とは全く異なる視点でみる橋と街は、建築家の笠井三義さんの該博知識によるガイドで実に面白かった。

●横浜の復興橋梁

 関東大震災復興事業の時に架けた橋は「復興橋」と称しているが、東京と横浜に今もたくさん存在する。東京で有名なものは、隅田川の清洲橋や御茶ノ水の聖橋などである。
 横浜の復興橋は178か所を架け、今も横浜駅あたりや関内と関外を囲むあたりの川には、補修・改修されながら健在である。
 橋の見どころは、基本的には建築と同じで、その構造と意匠の構成である。わたしは構造的なことはよく分らないから、ここでは意匠的なことだけ観よう。その意匠の中でも、渡る時にいちばん目につく親柱に眼を付けよう。

 一般に、橋には「親柱」というものがある。橋の渡りはじめの両側に建つ柱状のもので、橋の名前や作った年月が書いてあるのが普通である。
 名前の通りに柱の形の場合が多いが、高いのや低いのや、板状とか団子状とか、彫刻だったり、その形はさまざまである。
 中には凝った形もあって、橋を渡るときに親柱のデザインがちょっと気になったりする。もっとも、親柱が全くない橋もあるから、機能的に必要なものではない。
 橋ごとにどれもこれも異なっており、しかもモダンデザイン風の姿であるのが面白い。ここに横浜復興橋の親柱の姿を載せておこう(『横浜復興史』1932年)。

これらの親柱は、いったい誰がデザインをしたのだろうか。橋梁設計の土木技師ではないだろうから、建築家あるいは画家彫刻家によるのだろう。
 横浜の復興橋は、内務省復興局によるものと、横浜市によるものがあるが、復興局のものならば建築家の山口文象が担当しているものがあるかもしれない。山口文象が戦後に主宰したRIAの山口文象アーカイブスには、横浜の復興橋梁の工事写真が何枚かある。

 山口文象は復興局橋梁課の嘱託技師であり、土木技師のための橋梁設計代替案検討資料として、全体完成予想透視図を何枚も描く作業をしていた。また親柱、高欄、照明などの附属物の設計をしていたが、これにはその頃に主宰していた創宇社建築会の仲間がアルバイトで加わっていたという。

●橋を見上げる
 船で廻ったのは、右の図の濃い水色の川である。V字型に関内と関外を囲っている。ようするに、この範囲が入江であったのを埋め立てたのである。薄い水色は今は埋立てられた水路。
 さて、船から見上げる橋は、いつもと違う視点である。解説の笠井さんが、親柱を見るときに、いつものように橋の上だけではなくて、そこから下に続けて水面までを観よと言う。
 観ればなるほど、親柱は橋の上で終わるのではなくて、実は水面まで続いているのだった。いや、親柱は水底から水面を突き破って、塔のごとくにすっくと地上を超えて立ち上がり、まるでこれで橋を支えている姿である。
 それは橋台と(ときには橋脚と)一体になって立ち上がるから、それでこそ親柱という名に値する。

わたしは橋の構造的なことは知らないが、もともと親柱とは、昔の木橋の桁や梁を支えて水底あるいは礎石の上に建つ柱のことを言ったのであろう。構造的には橋の上までなくてもよいが、いつしか地上にも突出させて欄干を支えるようになったのだろう。
 それが構造材料も形態も変っても、いまも親柱という名が形骸化しながら伝わっているのなら、水面からみる復興橋梁の親柱に、その原型の姿の継承を見たことになる。橋の上にちょこんと立つものではないのだ。
水上から見る谷戸橋は左右の親柱が橋を支える姿
谷戸橋は海と川の間にある門構えだった
地上から見る谷戸橋は左右の親柱はゲートの姿
 そうか、もともと橋というものは、陸上のものであると同時に、水上のものであったのだが、わたしはそれをすっかり忘れていた。
水上のものは水上からデザインされるべきだから、親柱が水の底から立ち上がる塔状であるのは当たり前、だから橋の設計者は水上からの視点に向けて設計をしていたのだ。
 昔の橋の写真を観ると、川から見るそのプロポーションが美しく、また橋桁側面や橋台など、川の方に向けて装飾がしてあるものが多い。それは橋を渡るものには見えない。橋は川から観てこそ生きるデザインだと、あらためて気が付いた。
この橋は横浜ではないが、親柱の基本的意味を表現する例として挙げる
東京の山手線の橋が外堀に架かっているが川に向けての姿を美しく装っている
 今はほとんどなくなったが、かつては水上からの視点が、陸上からの視点と同じように存在していたのだった。
横浜は港町であるから、関内と関外を取り囲む大岡川、中川、堀川にはもちろん、今は埋め立てられた派大岡川などの運河には、たくさんの艀が水上に浮かんでいた。
 そこには家族で住む水上生活者たちがいたし、水上ホテルという安宿もあった。水上の街があったのだった。
1940年、中川に停泊する多くの艀
●水の都だった横浜

 ここで思い出したのは、東京の日本橋の妻木頼黄によるデザインについて、建築評論家の長谷川堯がその名著『都市回廊』(1975年)のなかで書いていたことだった。
「妻木はこの橋の総合的なデザインを、人や電車が快活に通り抜ける橋の表面(道路面)から構想したのではなく、実はひそかに日本橋川の河面からイメージし、その視覚的基盤から橋を一つの巨大な空間的構築物として発想して、それに関するすべての「意匠」を決定しようとしていたのではないか、という点に思いあたるのだ。」

 それはつまり、旗本の末裔の妻木にとっては、江戸の町がいくつもの運河がめぐらされていた「水の都」であったのに、明治維新でやってきた薩長などの田舎者たちによって「陸の東京」に変えられつつあることに悲憤慷慨し、日本橋のデザインに水上からの視点を据えること抵抗者の立場を表現したと、長谷川は言うのである。
東京・日本橋 1911年竣工
 さて、横浜の関内関外という都心部も、まさに水であったことを思いだす。もともと海の入江を埋め立てたのだから、水はけのために水路が網の目にめぐらされていた。それは埋立地の排水路であり、農地の灌漑用水路であり、港とつながり運輸交通路であり、水上生活者たちも多かった。関内関外は水の都であったのだ。
 関東大震災で破壊した多くの橋を、内務省復興局と横浜市と分担して架け替え、1930年頃にはほぼ完了した。

 その頃は、まだまだ水路には船が多く動き回り、水路の岸には荷上げの場が随所に設けられていた。橋の上の陸上を往来する車や人と、水上を往来するそれ等は同じくらい重要だった。
 橋というものは、陸上では単に川という暮らしの障害物を越えるための施設であるのに対して、水上ではそこで働き暮らす人々のためのランドマークであった。
 横浜都心の最も重要な位置に、1911年に2代目吉田橋が架かった。現在の吉田橋の先代にあたる。この橋は、まさに東京日本橋と同じ年に竣功したのだが、水の都の江戸に負けない水の都横浜のこの橋も、水に向かって華やかな装飾性を誇るデザインだった。
これは復興橋梁の以前の吉田橋の1911年竣功時の姿
横浜都心の最も重要な位置の橋として川に向けての過剰なる装飾意匠
1922年 関東大震災の時の横浜の水路
(つづく)

2017/02/14

1253映画「MERU」を観たがヒマラヤ超難関絶壁登攀をテーマにしつつ、なかかよくできた人生ドキュメンタリー映画だった

 映画「MERU]を観た。インド北部のヒマラヤ山脈にあるMERU(メルー)中央峰にそびえる“シャークスフィン”となづける岸壁を直登するドキュメンタリー映画である。
 街を徘徊していたら映画館の前にでて、ものすごい岩壁にクライマーがいる写真ポスターを発見、ちょうど上映開始時刻、昔山岳部員だった記憶に背中を押されて、フラフラと入った。映画館なんて3年ぶりか。

 映画「MERU]は、なかなか良いできだった。
 製作・監督ジミー・チンが、クライマー、スキーヤー、写真家そして映像作家であり、メルー登攀チームのメンバーだから、長い歳月をかけて多くの撮影をしてきたらしく、入念に編集してある。
 3人の登攀者の葛藤を、単に山岳登攀劇としてではなく、人生の目的追及とその転機を見事に撚り合わせるドキュメンタリー映画だった。

 何も予備知識ないままに観はじめた。
 初めのうちは、登攀者たちやその関係者たちが、幕間の解説みたいに何度も登場してきて、うるさいなあ、はやく登攀の現場を見せろと思ったものだ。
 そのうちに、この映画は登攀を見せるには、そこに至るまでの登攀者やその関係者の人生と、登攀に関連して起きたいくつかの事件を見せるのだと気が付いた。

 普通の山岳映画のように、登攀の技術的苦労を見せようとする映画ではないらしい。
 コンラッド・アンカー、ジミー・チン、レナン・オズタークという、3人のクライマーたちの過去の人生と山での事件を克明に描く。
 巨大雪崩に巻き込まれて友を失いつつも生き残って長く悩みぬくジミー、親友だった山仲間を遭難で失ってその家族を支えるコンラッド、頭がい骨が露出する瀕死の重傷から驚異的なリハビリで復帰するレナン、それぞれの映像が劇的である。

 もちろんMERU登攀場面はすごいのだが、劇映画のような俗っぽい悲劇やら失敗が起るのではないから、山岳登攀の手法を知っているとそのテクニックなどが実に面白いが、そうでないと映像は美しいと思っても登攀の苦労はそれほどでもないと思うかもしれない。
 それにしても現代の登攀用具は、岩場に吊りさげるテントといい、各種道具類と言いすごいものである。ただ、生身の人間だけは変わりようがない。

 登攀者本人が持つカメラ撮影だから、当然のことに劇映画のように、トップをいくクライマーが登ってくるところを待ち構えて撮った映像は無い。あるいは岸壁に取り付くクライマーをヘリコプターで撮ることもない。
 しかし、プロの映像作家が登攀者本人であり、そのプロによる撮影だから、ドキュメンタリーとして劇映画にはない現実的迫力がある。変りゆくMERUの姿の長時間露出映像が美しい。

これは山岳映画というテーマで3人のクライマーの人生を浮き彫りにしたドクメンタリーである。彼らの人生とクライマーとしての数々の事件が面白く、時間をかけて多くの場所で撮影し、巧みに編集して、できのよい映画となった。
 
 それにしても映画館はなんてさびしいのだろ。まあ、平日の昼間だからなあ、年寄りの男ばかり、、でも若い女性がちらほらいたのは、山好きなんだろうか。

●参照
http://meru-movie.jp/
http://eiga.com/official/meru/

2017/02/09

1252【東京駅周辺徘徊その8】東京駅八重洲口の開設は十河信二の都市計画法抜け穴突破策略にはじまるらしい

東京駅周辺徘徊その7】のつづき

●東京駅開業から38年目にして八重洲口駅舎完成

 東京駅の東側にあった外堀が戦後に埋め立てられた。東京駅は京橋、銀座胃、日本橋などの江戸以来の市街地と陸続きになった。外堀の埋立っで生れた新たな土地には、八重洲口駅前広場が開設され、八重洲口駅ビルがやいくつかのビルが建ち始めた。
 1952年に本格的な駅ビルを着工し、1954年10月14日に6階建て(後に増築して11階建て)の東京駅八重洲口新駅舎・鉄道会館が使用を開始した。10月21日にはそこに大阪から進出してきた大丸百貨店が開店した。
 わたしはその工事中に東京駅を初めて訪れて、足場の間を通り抜けた記憶がある。その後の地下街工事、新幹線工事、近年の建替え工事など、東京駅八重洲口はいつも工事中のイメージがある。
鉄道会館と国際観光会館 1958年撮影
 
 東京駅は開業時には帝都東京の玄関として西のミカドに顔を向けても、東の商都東京の商人の町には固く閉じて出入りお断りだった。
 それから15年目にして、震災復興でようやく小さな裏口を東に開けた。もう一度の災害の後、小さいながらもそれなりに駅舎を建てて、ようやく顔を向けた。だが、すぐに姿を消したのは、この地の霊魂が戦後になってもミカドの駅に固執したのか。
 さらに時が経ち、東京駅開業以来38年目にして、ようやく東京本来の街に東京駅も顔を向けたのであった。
 この後、1964年には東京駅に東海道新幹線が入ってきて、八重洲側がその乗降の場となって、東京駅はようやく帝都の玄関から商都の玄関となった。
 八重洲口に入ってきた新幹線といえば、十河信二がその父と言われる。十河が戦後に国鉄総裁になって1964年に大阪まで開通させたのだ。  
1988年製作「駅からマップ」東京駅とその周辺
この絵の建物のいくつが今も建っているか数えると面白い

●十河信二の策略による八重洲橋架橋
 東京駅に八重洲口の駅舎が、なぜこうも長い間仮のままであったのだろうか。その原因のひとつに、戦中の弾丸列車の東京駅乗入計画が絡んでいて、それが固まらないままに新駅舎をつくるのを躊躇していたのだろうと、勝手に推測してた。
 ところが、弾丸列車計画が出る1938年頃よりも前の震災復興当時にも、国鉄は八重洲口開設に消極的であったことが、十河信二の言にあることが分かった。
 八重洲口には十河が重要な役割を果たしている。それが奇妙に面白いので書いておく。

 1923年の震災当時は、十河信二は鉄道省の経理課にいたが、関東大震災後にできた内務省復興局に移って、経理部長として震災復興事業に携わっていた。当初の理想的な復興計画は、当時の政争のなかで保守派によって、余りにも縮小されたことは有名である。
 十河が復興局時代の思い出を語っている中に、東京駅八重洲口のことに触れている(『内務省外史』地方財務協会発行1975年)

 復興局で財布を預かる経理部長の十河は、復興計画を都市計画委員会に諮ると、政争による反対論によって、事業規模がどんどん縮小されていくのを苦々しく思っていた。
 そこで、都市計画法の抜け穴を考え出したというのである。
それは都市計画法によると、委員会にかけるのは道路計画だけで、橋というのは指定していない。だから橋は計画外になっておるのだという解釈で、材料を買って、政府の原案に従って橋だけ先にかける。これ以外にはどうにも方法がありません。」
「……それでいたるところに橋ができた。そのいちばん顕著なのは…東京駅の八重洲口、今は堀をつぶされておるけれども、あそこには堀があって、八重洲橋という橋を架けた。今、八重洲口を出ると広い道路になっておるが、原案にあの道路は無かった。当時、国鉄も八重洲口をつくることには賛成をしなかった。都市計画委員会は盛んに反対をしている。それを復興局の原計画に従って先にやってしまった。

 八重洲橋を架けたというか、架ける策謀をやったのは十河であるというのだ。乱暴なことだが、橋を先にかけてしまって、後から八重洲通りの道路計画を委員会に諮ったのか。そういえば八重洲通りも、超過買収方式で沿道まちづくりを同時に進める計画だったが、委員会で潰されて道路だけになったことも有名である。

 この十河の話のどこまでほんとうか、八重洲橋だけのことか八重洲通りも含むのかも分らない。本当ならば、復興橋梁がいまだに立派に評価されるのは、十河が橋梁だけは財布を絞らせなかったおかげということになる。
 我田引水的には、建築家山口文象が橋のデザインに関ることができたのも、十河の策略のおかげとなる。特に八重洲橋の設計図には、山口の当時の姓である岡村のサインがある。
八重洲橋設計図 岡村(山口文象)のサイン

●30余年にもわたる十河信二の機略による八重洲口
 鉄道省出身の十河のことだから、東京駅八重洲口の開設を前提にして(あるいは画策して)八重洲橋を架けたことは想像に難くない。
震災復興後の1930年の東京駅、外堀、八重洲橋

復興事業では外堀に八重洲橋が架かり、
立派な駅舎はできなかったが駅裏に電車専用乗降口が開設した

 国鉄が八重洲口開設を嫌がったのに、東京駅の八重洲口にしか用がない八重洲橋を架けて八重洲口を開設させたのが十河信二であり、後に国鉄総裁となって新幹線を入れて本格的八重洲口駅舎につくったのもこの十河であった。もしかして30数年を隔てても、十河には一連のことであったのだろうか。

 余談になるが、十河は震災復興局に後藤新平の要請で入る時に、土木部長として太田円三をひきいれて、財布担当と技術担当のコンビで復興事業に取り組んだ。だが復興局の用地買収贈収賄事件で太田は自死、十河は無罪になったが身を引き、復興事業を全うできなかった。
 戦後に十河が国鉄総裁になった時に、新幹線事業のために技師長として島秀雄をひきいれて、また財布と技術のコンビで取り組んだ。だが開業時には二人とも政治的な事情等で国鉄を退いていた。
     ◆◆
 東京駅のことは、昔々仕事としてわたしは調べていたのに、今を趣味で考えてみている。これから八重洲側が面白そうだが、こちらも保存と開発の問題が出て来るかしら。
 そしてまた、帝都玄関丸の内と商都玄関八重洲とを比較すると、聖と俗とか、官と民とか、三菱対三井とか、面白い対立的構図で我田引水社会論ができそうだ。 終わり

●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
東京駅周辺徘徊その7】まぼろしの戦後初の八重洲口駅舎
・【東京駅周辺徘徊その6】控えめ過ぎる初代八重洲駅舎
http://datey.blogspot.jp/2017/01/1247.html
・【東京駅周辺徘徊その5】復興記念館にあった東京駅八重洲口駅舎らしい絵は幻か
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・ 
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・ 


東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2017/02/06

1251【言葉の酔時記:ムサコ】「むさしこすぎ」とは日本古語だと「むさ苦しい小杉」なんだけど「ムサコ」にすると?

 今日の新聞(2017年2月6日朝日新聞朝刊神奈川面)に、「ムサコなの?、小杉でしょ」と見出しがある。

 なんだよ、わたしが去年7月にもう書いてるんだけどなあ。
http://datey.blogspot.jp/2016/07/1206.html

武蔵小杉じゃないよ、小杉だよ
 なになに、「武蔵小杉最大の免震ツインタワー」だってさ、あんなところに超高層かい。
 あのね、ムサコってね、今はタワマンばっかりですよ。
 なんだい、ムサコってむさ苦しい、タワマンて撓まん、な~んてね。
 ケッ、武蔵小杉を略してムサコ、タワーマンションを略してタワマン。
 ふむ、ワイセツ語とも知らずに二子玉川をニコタマって言うようなもんだな、あのね、あの街は本当は小杉なんだよ、武蔵小杉ってのは鉄道駅の名だよ。町名に小杉一丁目はあっても、武蔵小杉なんて無いよ。東横沿線の人たちは武蔵なんてつけないよ。

         ◆◆
 「ムサコ」って、「ニコタマ」と同じに、若者の隠語が広がったものとばかりに思っていたら、なんと川崎市が2005年に街の愛称募集して、応募数1700件から選んだそうだ。
 選んだ当時は批判が多かったらしい。へえ~、、面白いなあ、隠語が顕語化する過程のひとつの例だな。
 そういえば「ニコタマ」はどうなんだろうか。こちらも世田谷区が公募して隠語を顕語にしたのか。

 でもなあ、「むさしこすぎ」でも「ムサコ」でも、なんともヘンな別の意味があるのだけど気が付かないのかなあ、ニコタマのようにね。
 「むさし」とは、いまでも「むさ苦しい」というように、古語では「不潔である。心ぎたない。卑しい」なんて意味である。
 狂言には「むさとした」という言葉がよく出る。「いいかげんな、うっかりした、つまらない」などの意味で、何かにケチを付けたり非難するときに使う。
 だから武蔵小杉の意味は、、、、まあ、なんでもよろしいが、たくさんの超縦細長アパートメントハウス(俗にタワーマンションという)が建ち並んで、なにやら「むさとした」街になってきているような気もする。

 なお、辞書にはこうかいてある。

むさ・し  形容詞ク活用
 活用{(く)・から/く・かり/し/き・かる/けれ/かれ}
 むさくるしい。不潔である。心ぎたない。卑しい。
 「塩籠(しほかご)にむさき事どもして」<出典西鶴織留 浮世・西鶴>
   [訳] (油虫どもが)塩籠に不潔なことごとをして。

むさ‐と  [副]《「むざと」とも》
 1 軽率にことをするさま。うっかりと。
  「やいやい、むさと傍へな寄りおっそ」〈虎清狂・蟹山伏〉
 2 いいかげんにことをするさま。やたらに。
  「松茸(まつだけ)なども、むさと食ぶるは」〈咄・きのふはけふ・上〉
 3 取るに足りないさま。
  「むさとしたる食物をつつしむべし」〈仮・東海道名所記・一〉

(追記 2017/02/07)
 この記事を読んだ旧友から、こんなことを昔聞いたがとSNS経由のコメント。
今の関東はかつて「むさ」と言って、その上の方を「むさがみ」即ち「相模」、下の方は「むさしも」即ち「武蔵」と言う・・これって本当?
 う~む、面白いなあ、まあ、京の都から見れば、「東の国々はどこもかしこも、むさくるしいところ」だったんだろうなあ。


2017/02/05

1250【言葉の酔時記:バンドル】食品量販店にあった新種?の魚の切り身


 かなり前のことだが、量販店の魚売り場、数枚の切り身がプラスチック皿に乗って透明シートで包まれている。
 書いてある魚の名は「バンドル」、はて、聞いたことがない名の魚だ。サバとかタイとかヒラメとかなんて書いてないのだ。
 どうでもよいのだけど、気になる。
こんな感じで、値段とか店名とか書いたシールが貼ってあった

 通りかかった中年男店員を呼びとめて、「このバンドルってどこで採れる魚なの?」と聞いた。男は、妙な顔をしてむにゃむにゃ言っている。
 「最近採れるのようになったの?」とさらに聞く。男はむにゃむにゃ、わたし「どうなの?」、男「もう勘弁してください」というと、そそくさと消えて行った。

 わたしはあっけにとられた。なにか聞いてはいけないことを聞いたのだろうか、バンドルって魚って実は採取も販売も禁止なんだろうか、、そしてそれきり忘れていた。
 いま、ひょいと思い出して、貧者の百科事典をひいて見たら、ありましたねえ、わかりました、バンドル魚の正体が、、こうなんですって。

 スーパーで使う用語http://fanblogs.jp/kobarutodesk/archive/54/0
 バンドル販売。これは、バンドル=束という意味で、いつもは1つずつ売っている商品を2個以上のセットにして売る販売方法です。これをするときは1個売りのときよりも、1個当たりの値段が安くなるように設定します。こうすることで、お客様の買い上げ点数が増え、売上高の増加に繋がります。

 なんだ、bundle(束)のことかよ、そういえばあの時のプラ皿には、何枚か違う色した切り身が乗ってたなあ、束にして売るとて「バンドル」としていたのか。
 でもなあ、それって売る方の業界専門用語でしょ、商品に業界隠語をつけて店頭に並べるって、どういうことなんだろ。魚なのになんで魚の名をつけないのだろう?

 買う方で「今日は魚をバンドルで買おう」なんて思うものかしら。日常で魚の切り身を買うことがないわたしだけが知らないけど、実はこれは常識なのだろうか。
 あの量販店中年男は、そのあまりにも常識的なことを聞かれて、この男客はオレをカラカッているのか」と思ったのだろうなあ、、う~む。
 でも、バンドルってのは、切り身の盛り合わせのことだって、世の中のみんなが知ってるんだろうか?

2017/01/31

1249【東京駅周辺徘徊その7】戦争直後にさっそう登場して5か月で消えた幻のモダン建築八重洲口駅舎


東京駅とその周辺の太平洋戦争による空爆被災
 太平洋戦争の空爆で、1945年5月25日に東京駅も被災した。丸の内駅舎は焼夷弾を食らって炎上、煉瓦壁とコンクリ床とぐにゃぐにゃ屋根鉄骨だけが残った。
 下の地図はピンク塗りつぶし部分が被災したところで、丸の内側は東京駅舎の外は比較的被災が少ないようだ。だが八重洲側の京橋、銀座、日本橋、そして大手町も、街はどこもかしこもすっかり炎上した。
東京駅周辺の戦災被災区域図
 上の地図だと東京駅の東の八重洲口あたりの被災は無かったようだが、どうだろうか。
 次の写真は、戦争直後の京橋上空から西を俯瞰している。焼け跡がある程度片付いているようだから1945年末か1946年の撮影だろう。

 次は上の写真の八重洲口あたりの拡大である。
 八重洲橋の正面に2階建ての駅舎らしい建物があるが、丸の内駅舎が丸焼けになったので、こちらに機能を移しているのだろうか。
 その左には初代の八重洲口駅舎らしい形も見えるから、こちらは被災しなかったのかもしれない。 
 

 ついでにこの時の丸の内駅舎の様子を見よう。丸の内の赤レンガ駅舎は、1945年5月20日の空襲で焼夷弾を浴びて炎上した。
 下の写真は、鉄骨造の屋根が焼け落ちてしまい、内部は全焼、煉瓦の壁とコンクリート床が焼け残っている。まだ修復工事が始まっていないから、1945年末ごろの写真だろうか。手前の池は、工事中断したままだった新丸ビルの地下にたまった水である。


 次の空中写真は1947年11月撮影である。東京駅八重洲口側の中央あたりに外堀にかかる八重洲橋がある。八重洲口の駅舎は小さすぎてよく分らない。
 この写真の外堀は埋め立て工事中なので水が見えない。外堀埋立は1947年11月20日に完了し、れによって生じた土地は、東京駅拡張用地や民間開発事業用地となった。
 西側の丸の内駅前広場に面して南に東京中央郵便局、北に鉄道省(後に国鉄本社)があり、正面の南には丸ビルが見える。丸ビルの北側には工事中断した新丸ビルの地下部分に水が溜まっていて黒く見えている。
1947年 東京駅の東側の外堀を埋立工事中

 次は1947年の外堀通り、外堀、八重洲橋そして東京駅の写真である。
 この八重洲橋の右に見えるのは、上の拡大写真に見る駅舎だろう。次の年にできる新駅舎とも形が異なるから、戦災直後の仮設建築だろうか。
 右上に修復中の丸の内駅舎の南ドーム(外は台形、内部は半球形)が見える。この年3月に外観はほぼ修復完了した。その左は東京中央郵便局。
 

  まだ戦後の混乱期であり、この行列は乗車券を買うために並んでいるのだそうである。丸の内駅舎が使い物にならないので、こちらが乗車券発売の機能を持っていたのだろうか。
 外堀の中にトラックがあって埋め立て工事中だろうが、翌年に埋立は完了した。

●戦後初の八重洲口新駅舎のさっそう登場とはかない命
 1948年11月16日に、次の写真のような八重洲口新駅舎が登場した。木造2階建てだが、ようやくいかにも戦後駅舎らしいモダンな姿である。
 この設計は鉄道省建築課長の伊藤滋のデザインだろう。まさにモダニスト伊藤の作品であり、有名な御茶ノ水駅(1932年)を想起させる。
 ついでにいえばこのころ伊藤は、戦災で炎上した丸の内駅舎の修復工事も指揮しており、辰野金吾デザインの異国趣味葱坊主型ドームを、台形角型ドームのモダンデザインに再生した。(参照⇒「空爆廃墟からよみがえった赤レンガ駅舎」伊達美徳)
この写真のネットサイトでの説明に1953年とあるが1948年の間違いであろう
丸の内駅舎の南ドームが修復されており、その左は中央郵便局、右は丸ビル 

 この写真で見ると、手前に路面電車が走る外堀通りと駅と地続きなっているから、外堀は埋め立てられている。その地面から八重洲橋の欄干や照明ポールが立っているのが見えるが、それらの位置から判断して八重洲橋は右の方であるらしい。つまり、八重洲通りのつきあたり正面に新駅舎が建っているのではなくて、南に寄っていることになる。
 八重洲橋と地続きになった外堀埋立地は、新駅舎の駅前広場になった。

 ところが、新駅舎は半年も経たないうちに姿を消した。
 1949年4月19日午前、駅舎工事現場の失火から、烈風のなかを火は燃え広がって、この八重洲口モダン駅舎と周辺の6棟が燃え、更に飛び火で300m離れた家屋1棟が焼失した。新駅舎の命はたったの5か月だった。
 下の写真は、それを伝える当時の新聞記事である。附図で駅舎と八重洲橋の位置関係が分る。下右の半楕円のような形は、八重洲橋であろうから、この下方に八重洲通りが続くのである。
 

●八重洲口駅舎とその位置について推測

 わたしは鉄道については全く門外漢である、興味があるのは駅舎のデザインとか景観である。
 だから八重洲口駅舎が、その位置で、そのようなデザインで、しかも丸の内側よりずいぶん遅れてなかなか整備されんかったのは、何故であったのか気になる。
 その理由はいくつか考えられる。
(1)天皇の駅として作ったのだから、庶民が必要なら有楽町駅でも神田駅でも使えばよろしい。
(2)外堀から西の丸の内側は三菱村の領分、東側は三井村の領分、その確執があったから。
(3)駅東側に将来の弾丸列車(新幹線)乗入計画があったが、なかなか定まらなかったから。

(1)と(2)については、勝手な推論で面白がって書いてみたいとおもうが、それは次の機会にする。ここでは(3)の新幹線計画がらみについて、国鉄の人が書いた資料を基に、勝手に推測する。
 東京駅丸の内側については、赤レンガ駅舎や初期の電車ホーム等で、その整備は固まっていたが、八重洲側については、弾丸列車計画との関係でかなり多様な計画やらその変更やらがあったようだ。
 そのために八重洲口駅舎は位置も建物もながらく固まらず、仮の計画であったのだろうと、門外漢として推測する。

 弾丸列車とは、今の新幹線であり、これは既に1938年頃から計画が進められていたとのことでる。それは、1931年からの中国大陸での日本軍の軍事行動が広がると、軍事輸送からと、大陸植民地経営の観点からとで、新輸送鉄道の要請が出たのだそうだ。
 そして東京から下関に高規格新幹線計画が始まり、1940年度から実施に入って線路時期などの一部用地取得や工事が実施された。しかし、太平洋戦争により新幹線事業は中止された。

 この下の図は1940年頃につくった東京駅に新幹線が乗り入れる計画案である。
 八重洲側に新幹線のおおきな駅舎(裏本屋と記述)があり、駅前広場も外堀通りと八重洲通の交差点を東に三角形に広くして計画している。
 この大きな駅前広場は、鉄道側で勝手に描いたものか、それとも都市側でこのような計画があったのか、どうなのだろうか。
 だが、八重洲通りは、震災復興事業でいろいろと地元反対の中で、駅前広場をつくることができないままに完成したばかりであった。
 新幹線は中止になってもいずれは再開するとして、ここまでみたように、八重洲口側は駅舎など作るとしても小規模木造建築で、位置的にはその場あたりで仮設的に過ごしてきたのであろうと推測するのである。
 結局は本格的な八重洲駅舎が建ったのは、戦後になってからだったから、丸の内とは40年ものギャップであった。(つづく

●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
・【東京駅周辺徘徊その6】控えめ過ぎる初代八重洲駅舎
http://datey.blogspot.jp/2017/01/1247.html
・【東京駅周辺徘徊その5】復興記念館にあった東京駅八重洲口駅舎らしい絵は幻か
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・ 
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・ 

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2017/01/26

1248【能「隅田川」を観る】傘寿となった人間国宝・野村四郎が演じる隅田川を観てきた

 東京の隅田川に「言問橋」(ことといばし)という面白い名の橋がある。その橋は関東大震災の復興橋梁として1928年に架けられた名橋のひとつである。
 この橋のことを川端康成が『浅草紅団』のなかで、「清洲橋が曲線の美しさとすれば、清洲橋は直線の美しさだ。清州は女だ。言問は男だ」と書いている。
言問橋の透視図 復興局橋梁課嘱託技師時代の山口文象によるパース
  言問いとは、質問という意味である。その由緒は9世紀ごろに成立した歌と紀行の「伊勢物語」にさかのぼる。
 そのころの隅田川は、たぶん自然堤防の流路で橋は無く、船による渡し場があったのだろう。その物語の主人公である在原業平がやってきて詠んだ歌がある。

  名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

 川の上に入る鳥の名が都鳥と聞いて、業平の故郷の京の都を思い出して、愛しい人は無事に過ごしているだろうかと、都鳥に問いかけるのである。
 この歌が有名になり、後に橋を架けた人が言問い橋と名付けたのだろう。

 なぜ有名になったのか。それは16世紀初につくられた能「隅田川」が有名になり、その主題歌とでもいうべき歌がこれであったからだ。
 もっとも、庶民にまで知られたのは、17世紀以後のことだろう。いまもある名物「言問団子」のネーミングも、有名な歌を利用した宣伝である。それが地名となり、橋の名になったというわけである。

          ◆◆

 さて話はその能「隅田川」のことである。2017年1月25日に国立能楽堂でその能を観てきたことを書くために、ここまでがその前置きであった。
 わたしが能の隅田川を見るのはこれで6回目である。そのほかに能からアレンジした「隅田川」物を2つ見ている。ひとつはベンジャミン=ブリテン作のオペラ「カーリューリバー」、もうひとつは浄瑠璃とコラボレーション能「謡かたり隅田川」である。
 分りやすい悲劇を、いかに演劇あるいは芸能にするかという、それぞれの工夫が面白い。

 さて、今回の能「隅田川」は、シテ野村四郎で地頭は梅若玄祥という、実に強力な組み合わせである。わたしはこれまでに四郎の隅田川を2回、玄祥のそれを1回観ているが、今回久しぶりに観て感動したのであった。
 能「隅田川」は、誘拐された幼子を捜し歩く母が、その子の埋葬された塚にたどり着き、嘆き悲しむという実に分りやすい悲劇である。
 離別した子を探す筋書きの能は多くあり、最後は親子が出会ってめでたしになるのが普通だが、この「隅田川」だけが唯一の悲劇であるところに、能としての特徴がある。
「能の図 隅田川」 狩野柳雪

         ◆◆

 これまで観た能「隅田川」の詳細な記憶があるのではないが、今回は最後のところがこれまで観たことのない演技であったと思う。
 塚から亡くなった子の亡霊が出現し、母はかけよって手を差し伸べると消え去り、ふりかえると再び亡霊出現、母は抱こうと駆けよるが、亡霊はまた塚の中に消え去る。
 そして母の嘆きのうちに、ほのぼのと夜が明けて、もう子の亡霊は現れない。まわりは荒涼とした野が広がり、能はおわった。

 子方を追いかけて崩れ込んだシテは、舞台上の作り物の塚にすがりついて、ゆすらんばかりに嘆く所作のうちに、地謡が歌い終えた。
 これまで観た能「隅田川」では、嘆く母は立ち姿のままでシオリ止めとなっていたと思うから、ここは四郎の新演出だろう。これまでの抑制的な嘆きの型を、激情的な表現の型へと工夫したのであろう。
 それを論評するほどの見識をもちあわせないが、これで「哀れなりけり」と謡い納める嘆きの深さに、激しさをも加えたことがよく分かった。

 激情的な嘆き表現と言えば、六代目歌右衛門が得意とした歌舞伎舞踊「隅田川」がある。そこでは狂乱とも言えるほどの激しい所作で、子の死を嘆き悲しむ。
 能にもとをとる歌舞伎は多いが、能の抑制した表現を歌舞伎一流のオーバーな表現に転換する。隅田川では歌舞伎では過剰な嘆きが舞台に溢れ、能では深い重い嘆きが舞台に積もる。

 野村四郎は、いま傘寿だが決して枯淡の演技ではなく、最後の所作ばかりか、全体にその謡や言葉は哀れさよりも激情的な表現であったように観た。
 ただし、さすが年には勝てないのか、あの華麗なる謡にいくぶんかの錆と淀みを聴いたのが、ながくその美声ファンのわたしには寂しいと感じた。

         ◆◆

 能「隅田川」は、観世元雅の原作とされる。その父は能の大成者の世阿弥元清である。
 その親子が、この隅田川の能の演出についての論争したことが、世阿弥が書いた『申楽談儀』にある。元雅は塚から死んだ子の亡霊を舞台に登場させる演出を、世阿弥は登場させない演出をそれぞれ主張したというのだ。

 今回の能「隅田川」は、亡霊が登場したから、元雅の演出によるものだ。もっとも、わたしはこれまでに子方の亡霊が登場しない隅田川を1度しか見たことがない。喜多や金剛など下ガカリでは、子方の出ない演出を普通にしているのだろうか。
 子方の出ない演出を観たいと思う。子方がいないシテひとりの舞台で、塚の中から子が謡う念仏の声と塚から現れる子の亡霊という母の幻聴幻視を、観客にも幻聴幻視させる演技を、ぜひとも観たいものである。

 もうひとつわたしが考えている観たい演出がある。それは、母がただただ嘆くままに終るのではなくて、子の死を確認して再出発する母を表現して終るのである。
 母はこれまで、「人の親の心は闇にあらねども子を思う道に迷う」ばかりだったが、今、子の死を確認したことで、ようやく「ほのぼのと明け行」く時を迎えた。朝日の光りの中、4月の春の日、緑が萌えてたつ「草茫々」の「浅茅が原」に立ちあがった母は、、次の人生へ歩みだすのである。
 つまり、その母を「哀れなりけれ」と悲しみの目で見るのではなく、もうひとつの古語の「あはれなりけれ」として、その母の再出発をしみじみといとおしく謡うのである。そんな演出はどうだろうか。

 能「隅田川」の母の次の運命を描く芸能は、いくつもあるらしい。
 そのひとつをアレンジしたのが浄瑠璃とのコラボレーション能「謡かたり隅田川」である。そこではなんと、母は絶望のあまりに隅田川に入水するのであった。

 余談だが、隅田川に登場する狂女は、笹の枝を手に持って面白く舞う姿を人々にみせて群衆を集め、失踪した子の行方を尋ねていたのだろうか。ほかの狂女物の能ではそのような狂女が登場する。
 今なら、どのような人物なのだろうか。ちかごろ街なかで、独りごとをブツブツ言いながら歩き回る女にであうことがある。これが笹の枝をもっていると、そのまま隅田川の狂女である。昔々、地下鉄飯田橋駅地下道に、いつ通っても、木の枝を持ちブツブツ言いつつ舞う狂女がいたことを思い出す。

         ◆◆

2017/1/25(水)14:30 国立能楽堂
狂言 大蔵流「神鳴」  シテ:山本東次郎、アド:山本則俊
能  観世流「隅田川」 
   シテ:野村四郎、子方:清水義久、ワキ:宝生欣哉
   囃子  笛:藤田六郎兵衛、小鼓:観世新九郎、大鼓:亀井忠雄
   後見:浅見真州、野村昌司
   地謡:梅若玄祥、武田宗和、岡久広、青木一郎 ほか
   後見:浅見真州、野村昌司

●参照
 参照・能役者野村四郎サイトhttps://nomura-shiro.blogspot.com/p/at.html
  ・趣味の能楽等鑑賞記録 https://matchmori.blogspot.com/p/noh.html

2017/01/19

1247【東京駅周辺徘徊その6】震災復興初代八重洲口駅舎が丸の内駅舎や八重洲橋と比べてあまりにも控え目なのはなぜだろうか

東京駅周辺徘徊その5】からつづく
 (読者に伺い中の復興記念館の写真について、まだどなたからもご教示はありません)

●関東大震災で東京駅の東側が大きく変わった

 東京駅は1914年に西側の丸の内口だけに出入り口を設けて、巨大な駅舎を作った。
 その目の前は野原であり、その向うの元江戸城の皇居があった。だが京橋や日本橋の繁華街があった東側には、出入り口を設けなかった。つまり天皇のための駅であったのだ。

 1923年9月1日、関東大震災が起きた。東京から横浜は大被災、丸の内の東京駅舎は無事だったが、駅東側の外堀端の鉄道省は炎上、外堀の東側の京橋や銀座や日本橋の街は燃えた。
関東大震災直後の東京駅周辺 矢印と線は震災時火災の飛び火と延焼
東京駅の東側の鉄道省施設が火災にあったことが分る

 後藤新平の大風呂敷震災復興計画は、紆余曲折の末に縮小に縮小しながらも復興事業にとりかかって、1930年頃には大方が完了した。
関東大震災復興事業後の東京駅周辺図 駅の西側は変化がほとんどない
東側では、東京駅の裏口駅が開業、八重洲橋がかかり、八重洲通りが開通した

 復興事業により、駅東の外堀には八重洲橋がかかった。その幅44m、長さ38mの、コンクリートアーチ橋の完成は1929年6月だった。
 そこから東に向かって築地へと結ぶ八重洲通りが開通した。その道幅は44mで東京駅がその西端の突き当りになる。
 そしてついに東京駅東口の八重洲橋口駅舎開業したのは1929年12月16日だった。 
 これでようやく京橋や銀座日本橋から東京駅にまっすぐに入ることができるようになった。

●復興した東京駅と八重洲橋あたり

 ではどんな駅舎が登場したのだろうか。先ず、全体像を見よう。
 次のカラー写真は戦前の絵葉書だが、丸の内方面から東を俯瞰しており、右上に外堀通りがあり、そこには広い八重洲橋がかかっている。1930年頃の撮影だろう。
 外堀にかかる八重洲橋の手前に、列車基地をまたぐ陸橋につながっている駅舎が見えるが、復興記念館の絵とは似ていないようだ。
 

 これで見ると、八重洲通りと八重洲橋の立派さに対して、八重洲橋のこちらに見える駅舎やその周りのゴタゴタぶりはどういうことなのだろうか。それら多くの建物はいずれの鉄道関係の施設であり、左上の呉服橋手前にある大きな建物は鉄道省であった。
 八重洲通りを通し、八重洲橋をかけ、都市側の整備がこれほど進んでも、鉄道側は小さな駅舎を建てて出入り口を設けただけ、まわりは何も整備をしていないように見える。ギャップが大きい。

 東京駅裏口(八重洲橋口、今の八重洲口)の開設当時の新聞記事を載せておく。
 この記事には、初日の乗降客数が約6700人で、予想していた東京駅1日乗降客数7万人余の5~6割の4~5万人よりもはるかに少なかったと報じている。それは電車しか扱わないし、駐車場もタクシーも不便な作りであるからとある。

●初代八重洲口駅舎と八重洲橋の姿

 次の写真はネットにあったものだが、駅舎と周辺がよく分る。
 1931年初代八重洲口と書いてあるから、これが本当だとすれば、先の復興記念館の駅舎はやっぱり幻の代物であったか。 

 跨線橋に接続する駅舎らしい建物は、小さな平屋のようだ。駅を出るとほとんどいきなり八重洲橋であり、自動車も見えないから橋が歩行者専用の駅前広場だったのだろうか。
 木造2階建てだろうが、橋上広場の南西角にあって斜めに配置している。復興記念館にあったあの絵のような八重洲橋への正面性はみられず、丸の内に比べると実に実用的な建物のようだ。
 これで東京駅裏口駅舎(八重洲口)の初代駅舎は、復興記念館にあった絵の姿とは全く異なるものであったことが分かった。

 駅舎は仮設的だし、その周りの建物はバラックだったが、そこから東に踏みだして外堀にかかる八重洲橋と、そこから東に伸びる八重洲通りは、丸の内に負けない立派な都市整備であった。
 新設の復興道路八重洲通りの幅員44mは、国会議事堂間通りの55mに次ぐ広さであり、ほかには昭和通があるだけだったから、かなりの力の入れようである。なお、八重洲通りも含め主要な22の復興道路の名を公募してつけた。昭和通りや新大橋通りなど今も使われているが、歌舞伎通りは今は晴海通りといっている。

 そしてこの駅専用と言ってよい八重洲橋は、外堀をわたる長さ38m、幅は八重洲通りにの幅に合わせて44mであった。コンクリートアーチ橋は石張りの実に堂々たるものである。
 八重洲通の西詰めにあって、それ自体が広場になるほどの大きさである。この橋と初代八重洲口駅舎の貧弱さと比べると、月とすっぽんの差であった。

 関東大震災の復興橋梁のひとつであった八重洲橋は、1929年6月に完成しており、その設計図面には、建築家山口文象のサイン(岡村)があるから、彼がデザインをしたのであろう。このことは、このブログに2014年に書いたことがある。

 1948年、この八重洲橋は外堀の埋立てで地中に埋もれた。その後に八重洲地下街や首都高地下道路ができたから、外堀の江戸城の石垣ともに消えてしまっただろう。

●八重洲橋口駅舎はなぜこんなにも貧弱なのか

 こうしてようやく東京駅の裏口と言われる東口駅舎が新たに登場したのだが、丸の内駅舎開設から15年もの後であった。なぜ1929年まで待たねばならなかったのか。
 物理的には、それまでは外堀に橋がなかったからだろうが、もともと木橋の八重洲橋があったのを、1914年の東京駅開業時に撤去したという。橋をかけ替えようという計画もなかったのか。
 そして開設しても、周辺の駅施設は駅前広場整備はさしおいて、小さな駅舎だけを建てた感じである。常識的には駅前広場の整備も行うだろうに、これはどうしたことだろうか。

 そしてまた、丸の内側に比べて、八重洲橋口駅舎はなぜこれほどに貧弱なのだろうか。丸の内口よりもこちらの八重洲橋口の方が、利用者が多いと言うのに、この差別は何故だろうか。
 15年前につくった皇居にいる天皇のための丸の内側の駅舎・広場と、このたびの京橋・日本橋側の庶民のための駅舎・広場との、あまりに大きなギャップに驚く。
丸の内駅舎

 もしかしたら、新開設した八重洲口駅舎は、実は仮設であって、いずれはあの復興記念館にあった絵のような駅舎を立てる予定だったのだろうか。
 なんにしても、あの復興記念館の絵は幻の駅舎であったらしい。あのような計画案があったが、諸事情で実現しなかったのか、それともあの絵は復興記念館の展示のためだけに画いたものか。

 やがて太平洋戦争の戦禍が東京駅周辺にも及んできて、丸の内口にも八重洲口にも再び大きな変化をもたらすのである。(つづく

●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
・【東京駅周辺徘徊その5】復興記念館にあった東京駅八重洲口駅舎らしい絵は幻か
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・ 
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・ 

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)