2017/08/18

1283【戦争を思い出す8月】悪名高い大敗北「インパール作戦」から生還した中越山村の最長老の物語

戦慄の記録 インパ―ル」という、つい先日の8月15日にNHKが放送したTV映像をネットで見た。
https://youtu.be/DTsRiFeTOIo
 この映像は海賊版だろうか。海賊版なら早晩消えるだろうが、「インパール作戦」という稀代の大敗北戦の悪名は、その企画段階から反対されながら、実行段階では部下から反旗を翻されても、途中で負けると分っても無理矢理に突き進んだ、牟田口廉也司令官の名と共に消えはしない。

2017/08/15

1282【敗戦記念日定点観測】金モール軍服長靴の若者がスマホをいじる靖国の夏

 なんだか涼しい真夏の日である。今日(2017年8月15日)は靖国神社に敗戦記念日定点観測徘徊に行ってきた。3年ぶりである。

この前の2014年の記録、その前の2005年と2013年の記録もある。

 九段坂の途中にいつもはたくさんの“ウヨク屋台”が出ているのに、今日は雨もよいのためか、なんだか少ないがいつものヤツも見える。
 わたしがギョッとしたのは、若い大学生あるいは高校生とも見える女性たち5人、並んでパンフを配りながら、黄色い声をてんでに張り上げているその声であった。
 「憲法9条を廃止しましょう
 「憲法9条を廃止しましょう

2017/08/10

1281【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド.10】DNタワーの設計者たちと歴史的建築の保存と再生の表現

【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド・9】のつづき

●DNタワーの設計者ー渡辺仁
 この超高層のある「DNタワー21」の設計は、清水建設設計部とアメリカの建築家ケビン・ローチによるものです。
 しかしここで注意したいのは、外観保存した第一生命館は1938年にできたものであり、この設計者は渡辺仁と松本與作でしたから、この人たちも設計者としておかねばならないことです。

2017/08/08

1280【癌かもしれない日々・1】紫外線のせいで顔が癌になりそうな診断だけどさてどうなるか身体ゲームのはじまり

 わたしは日光角化症のことをぜんぜん知らなくて、
ある日偶然のきっかけから治療することになったのです。
この報告が、まだ日光角化症を知らない人たちに
役立つことを期待しています。

●顔癌ガンガンかもしれない
 今日も暑い日々が続く。数年前から顔の3か所(右眉の中、両こめかみ)に、小さな丸いピンク模様ができて、ちょっとかゆい。
 いずれも眉毛と頭髪の陰になるので、人相に影響ないのだが、気にはなっていた。
 近くに長者町ファミリークリニックという皮膚科の医者が開業したので、昨日、そこに行って診てもらった。
 女医さんが言うには、眉毛下の症状には薬を出すが、両こめかみの症状は皮膚がんの可能性があるので、大きな病院で診てもらえと言う。
 エッ、とうとうわたしも癌かよ~、おお、ようやく病気らしい病気にありついたのか。

2017/08/03

1279【日本の家展と超高層建築群】近代美術館で「日本の家」展を見てきたが、なんとも“建築家”好みであったなあ

 暑い日々の中で涼しい日となった昨日(2017/08/01)、突然に思いついて江戸城あたり定点観測徘徊に行ってきた。今日なら熱中症になるまい。
ついでに近代美術館に立ち寄って、「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」展を見てきた。結論から言うと、“建築家”好みの企画で、あまり面白くなかった。


2017/08/02

1278【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド・9】キメラ建築DNタワーがになう歴史的景観の背景にある日本の戦争

1278【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド・9】キメラ建築DNタワーがになう歴史的景観の背景にある日本の戦争

【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド8】のつづき

東京駅丸の内独断偏見ガイドは、明治生命館の跡は日比谷通りを南に歩いて、DNタワーに参りましょう。
明治生命館の前の馬場先門から南に日比谷通りを見る
白い超高層ビルがDNタワー(2007)

2017/07/25

1277【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド8】明治生命館は今や丸の内では超一級重要文化財、自社オフィスなのに一般公開しているのがいまどき偉いなあ

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド7】からのつづき
東京駅周辺ガイドマップはこちら
●東京駅周辺ガイドルート(グーグル画像マップ)

 では、馬場先通りを西へ、堀端の方へ歩きましょう。
 この日比谷通りと馬場先通りの角地に立つのが1934年に建った「明治生命館」です。重要文化財指定の建築です。
 丸ノ内の重文指定建築と言えば、最初の東京駅がそうでした。そして三菱1号館美術館は重文なりそこね、鳥取藩池田家上屋敷表門は今は上野の山にお出かけ中ですね。
明治生命館(馬場先通り側)

2017/07/22

1276【日本橋首都高撤去話】懐かしや、またぞろ登場、でもねえ、高度成長開始期日本記念碑としてここだけは保存してはいかが?

 
  今は2重橋になっている東京の日本橋、この下の段の20世紀初期の橋だけ残して、上の段の20世紀中期の高架橋を取っ払おうって話である。
 懐かしや、小泉内閣の時にそのブレーンだった伊藤滋さんが音頭を取って、構想を練っていたのを思い出す。

2017/07/17

1275【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド7】明治建築を再現したんだから次は丸の内に昔あって今は上野にある江戸大名屋敷黒門を連れ戻しましょうよ

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド6】からのつづき

●1丁倫敦メインストリート馬場先通りの景観

 さて、三菱1号館美術館の南側の通りは、江戸城の馬場先門に続く通りなので、
馬場先通りと呼ばれています。実は丸ノ内でこの通りこそがメインストリートだったのです。三菱地所がロンドンの街を真似して作って、赤レンガ建物が軒を接して立ち並んだ景観は、「1丁倫敦」と20世紀の初めに謳われたのでした。
馬場先通り一丁倫敦を西に見る景観
右手前が三菱一号館

2017/07/11

1274【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド6】丸の内に40年ぶりに浦島太郎が美術館になって戻ってきた理由はなんだろうか

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド5】からのつづき

●三菱一号館再現登場の意義を考える

 さらに三菱1号館独断偏見ガイドを続けます。
 低層建築の「三菱一号館」を壊したのが1968年、その跡地に建てた高層建築をまたもや壊したのが2006年、そしてその跡地に登場したのが低層建築の「三菱1号館美術館」です。
 19世紀末の建築である「三菱一号館」という浦島太郎は、あたりの風景を見てさぞや、ビックリしてるでしょうね。
 どんな玉手箱を持って返ってきたのか気になって見れば、なんと乙姫様はものすごい箱をもたせてくれましたねえ、超高層の丸の内パークビルという巨大な箱ですよ、え、まさかあれを開けたら、白い煙が出てきてあたり一面を燃やす、つまり関東大震災再来ってんじゃないでしょうね。

 この美術館を設計して建てたのは三菱地所ですが、昔のコンドル設計の三菱一号館とソックリに作ったのだそうです。単に見た目の姿だけじゃなくて、煉瓦造、木造屋根などの作り方も昔のままにしたとか、ご自慢です。
最初の設計者J.コンドルが描いた三菱一号館立面図

 ご自慢の中でもその赤レンガ、その数なんと230万個、昔風の焼き方するには日本じゃ無理とて、中国で手づくり生産、そしてレンガ職人が一個づつ積んだそうです。
 でもさすがに昔の設計のままのレンガ造では地震で倒れるので、地下に免震構造を設けて、建物をゴムの上に乗っけている。まあ、地面が揺れても関係ないように浮いているんでしょうか。
 もちろん美術館として使うためるには、昔は無かった階段とか冷暖房設備とかが新たにくっついていますし、内装も2階はぜんぜん違うそうですから、完全に昔そっくりではありません。しかし、それにしてもよくやるもんです。 

 そんな努力して昔そっくり再現をしたのは、三菱地所にどんな意図があったのでしょうか。
 三菱地所の再現担当のお方に、トップから昔の三菱一号館を再現建築しろとの命が下ったのだそうですが、じゃあ、なぜそのようなことをやろうとトップは思い付いたのでしょうか。
 もちろん三菱一号館が、三菱地所の丸の内不動産事業の出発点の記念建築だったことがあるでしょう。かつてそれを保存して重要文化財にとの学会から声に反発?して、無理矢理取り壊した事件を知っているトップにとっては、もしかして罪滅ぼし感覚もおありだったのでしょうねえ、たぶん。

●不動産業としての意義はどうか
 
 独断偏見ガイドはまだまだつづきます。三菱地所は丸の内の大地主、大家主として、19世紀末からの建築を1930年頃からドンドンと建て替えをしてきました。
 ボロビルを保存なんてしない、効率よいビルを建てて、高い家賃を取る、これが不動産業としての使命ですから、当然のことでしょう。
 そしてその建て直しビル群は、決して建築界とか不動産業界の先端を行くような現代先進的なデザインではなくて、四角な頑丈な箱で使いやすい管理しやすい、文字通り保守的な姿勢で、堅実そのもの建築でした。
 でも、丸の内という立地が幸いし、それは大成功の不動産業でした。

 そうやって来たのでしたが、はたと気が付けばありふれた事務所ばかり作って、休日はだれも通らない寂しい街になってしまった。
 そう、昔の丸の内は、日曜日やお正月はほんとにゴーストタウンでしたね。わたしは人がいない丸おうちを歩いてみたくて、わざわざ正月にここに散歩に来たこともあります。
 これではいけないと三菱は考えた、1990年代からでしょうか、仲通りを中心に高級ファッションブランド物販店中心の商店街つくりに力を入れて、休日の人寄せに成功しました。仲通りも樹木を植えて、歩行者優先にして、気持ちよいモールになりました。ビジネス街が商店街にもなったのです。もっとも、わたし縁のない店ばかりですが。
丸の内仲通り 2009.7.25

 でも、10年ほどしてまた気が付けば、文化が無い街と気が付いたのでしょうねえ。美術館も博物館もない、三菱所有の歴史的な建物もひとつも残っていない。
 丸の内にある重要文化財の建築は、明治生命ビルと東京駅、歴史的な姿の建築は日本工業倶楽部と銀行協会ですが、どれも三菱地所の建物ではありません。
 たくさんあった赤レンガ建築をこわしては、四角な変哲もないビルに建てなおしてきたのでした。三菱所有の中では、丸ビルが比較的最近まで残っていた歴史的建築でしたが、これも学会の保存要請に眼もくれずに建てなおしましたね。

東京駅の前から皇居方面を眺めて、左側にあった丸ビルが無くなった珍しい写真
右の新丸ビルはまだあるが、丸ビルを建替えのため壊した直後の1998年9月撮影

 ところが、ライバルの三井不動産が、すぐ近くの三井の本拠地とも言うべき日本橋地区では、大規模な再開発を進めて超高層ビルを次々と建てている。
そこには超高層ビルだけじゃなくて、保存した重要文化財の三井本館や美術館もあるのに、こちらにはそれらしいものがなにもない。
 これはいかん、企業イメージで負けてしまう、なんとかしようと三菱地所のトップは思ったのでしょうね、たぶん。
三井の本拠地日本橋にある重要文化財の三井本館 2005年10月撮影

 で、昔壊した三菱1号館という重要文化財指定直前だった建築を、そのままそっくり再現すれば、もしかしたら重要文化財になるかもしれない、そして美術館にすれば三井本館に負けない文化イメージがつくぞ、重文指定になれば容積ボーナスがつくだろう、なんて思ったかも。あ、私ならこう思うってことですよ。

 ついでに言えば、昔々、三菱が丸の内開発計画を描き始めた19世紀末の頃、コンドルが描いたが実現しなかった建築計画には、劇場とか美術館の文化施設もあったそうです。三菱の丸ノ内開発は、120年ほど後にようやくに文化に到達したのですね。

●三菱一号館美術館は歴史的文化財か

 その作戦は成功したでしょうか。まず、重要文化財指定は無理でした。そっくりに作っても新築ですから、指定の基本にある築50年以上になりません。だからこれによる容積ボーナスは無かったのです。
 でもねえ、どうも不思議なのは東京駅が重要文化財指定になっていますよね、あれって実は3階と屋根は新築再現建築だから、ざっと見て半分はここと同じでしょ。
 それであちらは重文指定、こっちは100%新築再現だから重文指定はできないってことなら、じゃあ何%まで当初部分が残っていれば重文指定になるんでしょうか、気になります。

 それでも美術館にしたので文化施設としての社会貢献評価で100%ボーナスが付きました。それと東京駅からの移転容積が130%、それに地域冷暖房施設で35%を足して計265%を、基準容積率1300%にして合計1565%としたのです。
 美術館は昔の姿で3階建てですから、これらの容積のほとんどは同敷地内の丸の内パークビルに盛り上げたので、あの太くて高いビルになったというわけです。
盛り上がる丸の内パークビルと足元にうずくまる三菱一号館美術館

 いまの三菱一号館美術館界隈の賑わいを見れば、レンガの美術館と緑の中庭は大成功でしたね。これで休日も人々が遊びに来てとどまっていますからね。昔の寂しい休日とは比較になりません。
 でも、建築専門家やマニアはともかくとして、普通の人がこの新美術館は昔そっくり再現建築だと分るのでしょうか。東京駅と合わせて見れば、ディズニーランドの日本版なんて思うでしょうね。

 素人が分らなくても、こんなに力を入れて三菱地所草創期の記念建築を再現することに企業としての意義があるのだとすれば、それはまことにごもっともなことです。歴史を視覚的に伝え、近代日本における建築技術継承という、まさに文化的事業です。

 ところで、1968年の取り壊し事件への反省があると、更に歴史的深みが重なると思うのですがねえ、どこかにその経緯を書いた看板でも立ててありますか、三菱さん。
三菱一号館抜き打ち解体事件ニュース 1968年3月26日朝日新聞
つづく

注:三菱1号館美術館については下記の「まちもり通信」(伊達美徳)記事に詳しく書いているので参照されたい。

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)