2020/08/15

1484【コロナの街徘徊】酷暑コロナ禍敗戦記念日の東京九段靖国神社風景にいつもと変わりなしが何だか怖い

熊五郎:こんちわーご隠居、おや、どこかから戻ってきたばかりですかい。
ご隠居:おや、熊さん、うん、ちょっと東京までね、まあお上がりよ。
:超ホット日に超コロナの東京へなんて、そりゃ”基地外”沙汰ですよ。
:それは心配してくれてるのかい,バカにしてるのかい。
:で、どこに行ったので?、あ、今日は8月15日敗戦記念日、さては今年も靖国神社”産廃”ですか。
:おお、そのとおりだよ。ホット禍コロナ禍だから今年はやめるかと悩んだよ、でもねコロナ過の敗戦念日の靖国神社って組合せは、今日しかないから行った。
:しょうがない歳より野次馬だね、死にますよ、で、どうでした?

:久しぶりの東横線、子どもの遠足みたいにキョロキョロ、この前に乗った時の風景を思い出した、桜の花が咲いてたから3月末だ、大岡山に花見に行ったなあ、あれ以来だよ。今回は太陽がギラギラだな。
:ほぼ半年ぶりで、窓の外ばかりじゃなくて、車内風景も変ったでしょ。
:今日は東京の地下鉄もあわせて1時間も乗った、コロナ風景をじっくり観察したね。
大きく変わったのは、妙に空いてること、だれもかれもがマスクしてることだね、白いの黒いの花柄などの覆面だらけで、中に2人だけ素顔の奴がいたけど、なんだか信念ある偉い奴にみえたね。
:いや、単に忘れて出ただけかも、そういうご隠居だってマスクでしょ。

覆面風俗がこうも普遍的になると、素顔露出してると世間からヘイト対象、話もしてくれない、店にも図書館にも入れてくれないんだもん、しょうがないよ。
:もう流行ファッションというよりも必需衣料の上着ですね。
:でもねえ、マスクと衣服を合わせるファッションデザインしてる人はいなかったね。
:マスクとシャツを同じ柄にするとか、異形のマスクとかですか、見ないですね。
:みんながマスクしてるだろ、ふとね、前の席の女がマスクを指でつまんで引きおそろうとしてるんだよ、アッ、オレは見てはいけないもの見てるかもと、一瞬思ったね。
:下着脱ぐんじゃないでしょ、ウーム、そういう妄想が涌くかなあ。
:その女はジュース飲んで元に戻したがね。
:そりゃそうでしょ。
:でもね、考えてもごらんよ、今や顔の下半分は人間の陰部になったんだね、そこを隠すべき衣類を、公衆の面前で脱ごうとしてたんだよ、、。

:はいはい、ま、そりゃいいとして、肝心の靖国神社はコロナでだれも居ないとか、。
:それがね、去年よりも参拝者がずいぶん多い感じだったねえ、覆面人間たちで大繁盛していた、特に若い人たちが多い、不思議だね、境内にはわたしが最高齢かも。
:そりゃ、この状況の東京でわざわざ外出する年寄りのほうが不思議でしょ。それに、ご隠居のように、戦死者たちは戦争加害者でもあったと、深く考えない人たちが増えてるんでしょ、何しろ首相も天皇も戦争知らない世代ですもんね。
:数年前よりも境内でのウヨク的な示威宣伝行為は減った感じけど、まだいることは居たね。喪服の人たちもいたけど、黒マスクじゃなかったな。
:こうもホットなコロナ東京で、なんだか修行の苦行のようですね。


九段坂にはウヨクさんたちの宣伝露店

境内へ

境内にはいつものコスプレおじさんたち健在

境内のウヨクさんたちの幟
神門の外にまでつづく参拝者の行列
 
街で演説ウヨクさんもソーシャルディスタンシング

:そうそう、あまりに暑いから、千鳥ヶ淵墓苑へは行かなかったよ。
:そりゃま良い判断としましょう。でも去年ご隠居がブログに書いたけど、千鳥ヶ淵墓苑で礼拝して頭下げる先は皇居宮殿に向かい、逆にその礼拝で突き出す尻の先は靖国神社本殿に向かうという位置関係の発見は、面白いですねえ。
:あそこは海外で戦死した日本人を慰霊する場だけど、同時にその場で死んだ現地の人のほうがそれ以上に多いのに、そちらへの眼差しが欠けているのが、なんだか嫌だね。
●参照:(2019/08/20)1【戦争の八月(3)】日本人戦没者より多い被侵略国の死者を想う


靖国神社横歩道橋から九段下方向 中央に昭和館


九段会館はいまだに建設工事中

:でも昭和館へは今年も寄ったよ。それなりに見学者は居たね。
:あの戦中と戦後の暮らしの展示館ですね、コロナで休館じゃないのですね。
:そう、でもいろいろとコロナだからとて、あちこち一部展示休止でつまらない。例の敗戦放送も休止なんだけど、ラジオの前に集まるのがいけないんだろうね。
:ご隠居のように戦中から戦後を体験した人から見てどうですか。
:今年はじっくりと見たんだが、どうも収集物をあれこれ順序良く並べてあるだけで、内容に深く突っ込む展示がないんだね。これにはこういう背景があり、こういう実話もあるとか、体験的な展示方法はないもんかね、体験者からあらためてじっくりと見ると、つまらなかった。まあ、よく集めたとは思うけどね。
:最近のミュージアムは写真撮ってもよいところが増えたけど、昭和館はどうですか。
:ダメなんだよ、フラッシュしなけりゃ撮ってもよかろうにねえ、ポスターなど2枚をコッソリ撮ってきたがね。

木造の都市を焼夷弾から防御する術とは
 

1946年の銀座の屋台

●参照:(2019/08/28)【戦争の八月(4)】昭和館敗戦放送、旧軍人会館定番復元保存開発

:ま、こんな地獄みたいな日にご帰還を祝って、一杯やりましょうよ、ビール持ってきました。、
:ありがとよ、このところだれも一緒に飲んでくれない、コロナは人を薄情にするね、涙が出るほど嬉しいよ、乾杯。
:では狂歌を一つ。
  坂上へ九段をよぎる敗戦忌 真昼に会う人みな白き覆面
:お、与謝野晶子の本歌取りだ、うまいね。


●参照:2018靖国神社 
 2017靖国神社  2015靖国神社 
    2014靖国神社  2005年、2013年靖国神社

2020/08/12

1483【望郷と忘却:『荘直温伝』読後感想文:1】故郷生家の神社を探した歴史地図の忘却

  わたしの生まれ故郷は高梁盆地、そこの鎮守の神社に生まれて少年時代を過ごした。そう、まさに故郷である。
 そこは岡山県の中西部にある市域は広大な高梁市の、臍のように小さな中心部である。四方を丘陵で囲まれた小さいながらも典型的な盆地の景観を持っている。この辺りは吉備高原と言われる準高地平原で、そこを高梁川が切り込んで作ったのだ。


  今は世界中が新型コロナウィルスパンデミックで、日本列島も2月頃からそのコロナ禍の中にある。この山間部の人口1万人ほどの小さな高梁盆地には、その災いが及ばない平穏な日々がつづいていた。だが2020年7月22日、その盆地最初の感染者2名が、とうとう発生した。

 それがスリランカ人であると聞いて、そんな遠くからこの山間の小さな町に何故と意外だった。でも実は、盆地内にある吉備国際大学は、外国人留学生誘致に力を入れているから、十分にありうることだ。インド洋の島国からはるばるやってきた地で、パンデミックに追いつかれるとは気の毒なことだ。

●生まれ故郷「高梁盆地」が舞台の本

 その高梁盆地を舞台とする『荘直温伝 忘却の町高梁と松山庄家の九百年』(序・荘芳枝、松原隆一郎著 吉備人出版)という本が出版されました。それをを知ったのは、新聞書評を読んだかつての仕事仲間の旧友が教えてくれたからからでした。(ここから口調が丁寧語に変わったのは、この本に倣うことにしたからです。)

 うーむ、買うかなあ、だが老い先短いのに、家に蔵書がたまりすぎて困る、蔵書は他人に差し上げる、これからは本購入一切禁止、そう自分に言い渡して10年ほどになります。
 でもなつかしい故郷の本ならば、禁を破って購入しようかな、政府がコロナ給付金とて、税金10万円を返してくれたからなあ、それでも定価税込み3300円とはちょっと高い、そこで近所の市立中央図書館に購入を申請をしました。

 ところが嬉しいことに故郷の幼馴染の同期生から、入手したけどもう読んだからそちらに回す、近くに住む同級生たちと読み回すようにと、その本がやってきました。さっそく興味深く読んだので書評を、というにはあまりに私的なことなので、読書感想文としてここに書こうと思います。

 故郷の本を読むときは、自分にかかわることがどう記述されているか、知っている人が出てくるか、知っている場所が出てくるか、そんな極々私的なことにどうも興味が行きます。そして著者が読者よりも知らないことや、間違いがあると、もう鬼の首でも取ったような良い気分になります。

 さて、表題『荘直温伝 忘却の町高梁と松山庄家の九百年』著者「序・荘芳枝、松原隆一郎著」が気になります。
 荘直温(しょうなおはる)は、主人公の氏名でしょう。わたしはその名を知らなかったのですが、荘という姓の人に出会ったは、高校で歴史教師が荘智心先生だけですが、ご親戚かもしれません。

 忘却の町高梁とはどういう意味でしょうか、高梁の町が世間から忘却されているのでしょうか、逆に高梁はなにか大きな忘却をした町なのでしょうか、気になります。
 松山庄家とはなにか、庄家となっていますが、庄は荘の略字ですから主人公の家系なのでしょう。松山とは、今の高梁盆地あたりを近世までは松山と言っていましたから分かります。だが九百年となると、源平合戦時代にさかのぼるのですが、松山がそのころの歴史に登場するとは聞いたことがありませんから、読むのが楽しみです。

 荘芳江さんについても知りません。わたしの母校の小学校教師だったと経歴にあるのですが、在校の時期が一致しないようです。
 松原隆一郎さんのお名前だけを知っていますが、著書を読むのはわずか2冊目です。その1冊目は都市景観に関する本で、もう20年も昔の発行前でしたか、その本の編集者からメールがあり、わたしのネットページの一部を引用したいとのこと、それでその名を知ったのでした。その本を書棚に探したが見つからないのは、だれかに差し上げたのでしょう。今、ネット検索したら「失われた景観―戦後日本が築いたもの 」(PHP新書  2002)と分かりました。

 書評ならば、本の内容の紹介から書き始めるものでしょうが、そのあたりは池澤夏樹さんにお任せします。これは極私的な読書感想文ですから、本の中のわたしに関係深いことから記していきます。もちろん全部読んでからこれを書いているのですが、極私的に関係することは次の件だけだったので、それから開始することにします。

●幕末地図に百年後のわが生家を探す

 巻末に付録として、高梁盆地の幕末のころの地図「備中松山城下図」(松山とは当時の高梁の地名)があり、市街部には商家や武家の居住者名の記入があります。
 わたしは都市計画を仕事にしていたし、大学を建築史研究で出ましたから、こういう歴史地図を見るのを大好きです。

 そして歴史地図ならば、とうぜんに御前神社(おんざきじんじゃ)があるはずです。御前神社とは、この地図の時代から100年ほど後に、わたしの生家となる城下町の鎮守社です。15世紀半ばには確実に存在していたとわかる文献がありますから、幕末には当然ありました。
 この地図には御前神社があるはずと探すと、なんとそこは空き地です。なぜ?


松原図の御前神社付近拡大(御埼丁と記入の上の空地が御前神社の位置)

 この地図は既存資料二つ(国分胤之「昔夢一斑」、泉順逸「備中高梁城下絵図下絵」高梁市歴史美術館蔵)を参考にして、この本のため新たに製作したとあります。ここでは著者の名をとって「松原図」という言うことにします。

 他の八重籬と八幡の各神社や寺院の記入はあるから、寺社名を書かないルールではないようです。更に御前神社がある地名を、「御埼丁」と書いてあります。「御前丁」のはずです。もちろん神社名による名称です。
 これらは参考にした二つの資料がそうなっているか、あるいは写し間違えたか、あるいは理由あってそのように変えて編集したのか、どうなのでしょうか。

 参考資料と記してある〔国分胤之「昔夢一斑」〕と〔泉順逸「備中高梁城下絵図下絵」高梁市歴史美術館蔵〕を探しました。
 「昔夢一斑」(1928年発刊)は、国会図書館がデジタル化してネット公開しているので見ることができます。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190202

 御崎か御前かについては、「増補版高梁市史」に次のようなことが書いてあります。1444年にこの神社の神職が書き残した「神社祭礼次第」があり、その文中には「御前神主」とあり、また1622年及び1704年の神社寄進帳には、「御崎神社」と書かれているとのことです。
 1651年に時の鐘がこの神社に作られましたが、その由緒が鐘に鋳込まれた文字の銘文があり、そこには「御前大明神」の語があります。御前も御崎も同義語のようですが、わたしの記憶の範囲では御前でした。

 幕末の1850年前後頃の各町丁ごとの武家と商家の名称のリストがあり、付属の地図「松山城下之図」(ここでは「国分図」と言いましょう))には主な町丁名と主な施設や社寺を記しており、御前神社がその鐘撞堂(かねつきどう:現存する)とともに大きく記してあります。

 ただし国分図には、松原図のような住民名記入はないので、リストから判定するしかありませんが、いずれにしても御前神社も御前丁も記入してあります。

 「松原図」が参考にしたもう一つの泉順逸備中高梁城下絵図下絵」(ここでは泉図という)は、ネットを探してもみつかりません。現物を見るしかないので、高梁盆地に住む旧友に頼み、一方で歴史美術館にメールで問合せをしました。


泉図の御前神社あたり

 その結果として分ったのは、泉図には御前神社があります。そして下絵と書いてあるごとく鉛筆によるモノクロ画ですが、驚いたことには、これをもとに色彩絵図に仕上げたもう一つの泉図があるのです。
 それは泉順逸「松山城下屋敷図 幕末頃 昭和44年6月13日作成を終る」とあります。「下図」にもこれにも御前神社の記入があり、御崎丁ではなく御前丁とあります。


泉順逸「松山城下屋敷図」の御前神社付近部分拡大

 こちらの図のほうが美しく詳しいのに、松原図の作成の参考にしなかったのどのような理由でしょうか。

 なお、泉順逸「松山城下屋敷図 幕末頃」には、次のような参考文献の記入もあります。
   弘化二年正月二十六日作成城下之図 杉木家蔵
   嘉永四年御家中席順表 杉本家蔵
   慶応四年二月坪井○○備中松山城下絵図 信野友春氏蔵
   昔夢一斑 国分胤之氏著
   延享元年差出帳之内町屋之部 芳賀氏蔵
   高梁町切図、同土地台帳 高梁市役所 

 松原図は、なぜこれらを参考にしなかったのでしょうか。御前神社は1839年に火災で炎上し、1845年に再建したそうですから、この間の地図とすれば、神社も鐘撞堂定番の家も滅失していたかもしれませんから、松原図はその表現でしょうか。しかしそれならこの火事で600軒も焼けたのですから、他にも空白地が多くあるはずです。

 この地図を持って高梁盆地をめぐって、往時の美しかった城下町を偲べと、松原さんは書いているのですが、たまたまわたしの生家だった神社に関することなので気が付いた疑問ですが、この他にも疑問とすることがあるかもしれません。

 ついでに言えば、松原図では高梁盆地はこれだけしか家がなかったように見えますが、実際はもっとあったのです。対岸には備中鍬を生産した鍛冶屋町があったし、山すそや中腹には農村集落があったのです。住人名を書かないにしても、それらがあったことを表現してほしかったと思います。泉順逸「松山城下屋敷図」にはそれがあります。

 さらに言えば、現在の鉄道の線路と駅の位置を記入し、地図づくりの基本であるスケールを記入してあれば、持ち歩くときに往時と現今の対比照合をしやすかったろうにと思うのです。
 ということで、御前神社と御前丁は参考資料に存在していますので、松原さんは何らかの理由で神社名を削除し、町名を別名にされたのでしょう。聞いてみたい。

●御前神社の鐘撞堂・時鐘撞定番高梁

 「昔夢一斑」の丁町別人名リストの中に興味深い発見をしました。「鐘撞定番」として3名が書いてあります。この「鐘撞」の鐘とは、御前神社の「鐘撞堂」にある時の鐘のことで、「定番」士分の3名は定時にその鐘を撞いて、城下に時刻を知らせる役割の武士たちです。もちろん吊り鐘と鐘撞堂の管理をしたのでしょう。
 なお、そこにある藤本又兵衛の名は、今の下町にある藤本呉服店の先祖だと、その末裔になるわたしの同級生の藤本さんが教えてくれました。
 国分図と泉図には、その鐘撞堂を描いてあります。


『昔夢一斑』にある「鐘撞定番」の氏名

 他の資料によると、鐘撞堂の南隣の敷地に長屋があり、この3名が住んで居たとあるように、泉図ではその3名の名が記入してありますが、松原図にはありません。
 
 その「時の鐘」は1651年にここの鐘撞堂に設置したと、藩主の名で鐘にその旨が鋳文字で銘記されていました。そして1940年まで290年も盆地に、大時計のようにその音が響いていたでしょう。もちろん近代になってからは鐘撞堂定番はなくなり、神社の神職が撞いています。わたしの祖父や父がそうでした。

御前神社付近 (グーグルアース)


御前神社参道坂道の登り口(グーグルストリート)


参道坂道の途中から振り返り鐘撞堂を見る(グーグルストリート)



1926年の写真 鐘撞堂の北に旧制高梁中学のテニスコートがあった

御前神社境内と付近 1950年代の記憶(2011描画)

御前神社社殿・社務所・宮司宅 1950年代の記憶(2011描画)


御前神社とその周辺の現況 (グーグルアース)

 しかしその鐘は1940年に、戦争の武器となるために軍に供出して出て行ったままで、吊り鐘のない鐘撞堂がいまもむなしく建っているばかりです。
 その鐘が出ていった年は紀元2600年の節目とて、元日にこの鐘を2600回撞き鳴らす行事がありました。その時の音と騒がしい雰囲気が、2歳半の幼児だったわたしの人生最初の記憶となっています。
 その年、日本開催予定だったオリンピック大会を、戦争で返上しました。


1940年元旦紀元2600年祝賀2600回撞鐘記念写真


290年間ここにあった鐘が戦争に出ていく日 1940年

 この出て行った吊り鐘を、戦争が終わった次の1946年に、まだあるかもしれないと瀬戸内海の島に、父に連れられて捜索に行きました。伯父と従弟も一緒です。暑い夏の日、小さな船に乗って着いたのは直島でした。今はすっかり観光の島になっているようですが、そのころは三菱の金属精錬工場だけで、戦中に武器にするべく各地から集めた金属を溶かしていました。

 島は工場の煤煙のせいでしょうが、草木一本もない禿げ上がった赤い小山でした。その丘の上の赤い土の大きな空き地に、吊り鐘の大群が待っていました。
 さまざまな吊り鐘が暑い陽に照らされて黒々と、校庭の子供のように広がり並んでいました。幼少年の記憶でも、それは実にシュールな風景でした。

 子供の背丈ほどの吊り鐘群の中を歩き回り、御前神社の鐘を探しまいたが、見つかりませんでした。もう溶かされて武器になっていたようです。この鐘が何人かを殺したかもしれません。その帰り道、瀬戸内海のどこかの美しい砂浜海岸で生まれて初めての海水浴をしました。まだ、だれもいない海水浴場でした。
 ●参照:2016/08/22【敗戦忌】兵器となった鐘は戻らない
       http://datey.blogspot.com/2016/08/1209.html

 なお、70年代だったと思いますが、奇特な人がこの鐘撞堂に吊り鐘を寄付して、街に時の鐘の音が再び響いたのでした。その吊り鐘はプラスチックでできており、鐘の音は録音機から放送していたそうです。
 戦後再び、見上げれば小さいけど黒い鐘が見え、鐘の音が聞こえた時期がどれくらい続いたのか知りませんが、今はそれもありません。
 グーグルストリートには、鐘撞堂が立っている姿が見えるので健在のようです。これは少なくとも95年前には建っています。社殿も拝殿は1877年築、本殿は1881年築だから、いずれも長寿の木造建築です。

 ついでに「昔夢一斑」の幕末の町丁ごとの人名リスト中に、わたしのご先祖の名を探しました。わたしの祖父の代から御前神社宮司(社掌)になりましたから、御前神社にはいません。
 父が編集制作した伊達家系の資料には、高梁での伊達ファミリーの先祖は、伊勢の亀山からきたそうです。転封(1744年)された板倉家の士分として、殿様についてきてそのころの姓は増田だったそうです。だから幕末には誰かいるはずです。
 そのリストの中に、東間之町に2名の増田〇〇(判読不能)と増田忠治という名前が見えるのですが、これでしょうか。

 ●参照:広報たかはし 地名をあるく 92.御前町

  https://www.city.takahashi.lg.jp/site/koho/onzakicho.html

 以上で、荘直温伝の本筋とは全く関係ない極私的なことですが、無理に関係つけるとすれば、荘直温は私の祖父が撞く御前神社の時の鐘の音を聞いたことだろうし、荘芳江さんは父が撞くそれをお聞きになっていたでしょう。
 次から本文を読んでの、いろいろな望郷と忘却の故郷への感想を書きましょう。

(追記 20200813)
 今朝の新聞を見たら、コロナが蔓延するからお盆の帰省を控えろ、という世論があるという。わたしはもともとお盆帰省の習慣がなかったし、もしあったとしても今や帰るべき家がない。
 そうか、この記事は一種のリモート帰省だなと気が付いた。リモートの先は空間と時間の両方である。そうだ、8月15日が来るのだから、この話も書いておこう。1945年のことである。これも荘直温には関係ないが、御前神社のことならこれも外せない。

 当時の憲法が定める戦争開始と終結の責任者たる天皇が、1945年8月15日の正午から、初めて肉声で放送する事件、これにわたしは遭遇した。場所は岡山県中西部の高梁盆地の、生家の神社社務所であった。
 その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から兵庫県芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて住んでいた。盆地内のほかの寺社などに児童51名が疎開して来ていた。

 当時ラジオのある家は限られていたが、その疎開学級が持っていた。社務所の玄関口に近所の人々が集まって、敗戦の詔勅を聴いていた。
 放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、列になって黙々とぼとぼ参道の石段を下って行くのを、わたしは社務所縁側から見ていた。緑濃い社叢林の上はあくまで晴れわたり、暑い日であった。
 もちろん8歳のわたしには内容を分らない。その場の情景の記憶のみである。
 聞いていた人たちがこれを敗戦と分かったのは、たぶん、疎開学級の教員がそれを伝えたのであろう。

 その半月後に父が兵役解除で戻ってきた。父は満州事変、支那事変、太平洋戦争と3度も繰り返して、日本の十五年戦争のうち半分の通算延べ7年半も兵役に就いた。
 最後は本土決戦に備えるとて、小田原の海岸から上陸する敵を迎え撃つ陣地構築をしていたが、「父の十五年戦争」がようやく終わった。

 だが、わたしの家では戦後戦争とでもいうべき難が始まった。戦後農地改革で小作田畑を失い、食料源がなくなったのであった。支払われた補償金は数年間の分割払いで、戦後超インフレで紙切れ同様になった。
 戦争で思い出すのは、とにかく腹が減っていたことばかり、3人の子に満足に食わせてやれないのが、父母の一番の悩みだったろう。今のコロナ禍では、食い物の苦労がないだけ良しとするか。

                (つづく

高梁盆地に関する記事はこちらにも

2020/08/11

1482【コロナ禍の日々】今日の新聞のトップ記事は少年の野球大会とてこの平和をよろこぶべきか

  今日の朝日新聞朝刊(東京版)の第1ページである。


 これはなんだよ、今どき高校野球がトップ記事とはどういうこと?
 いつもはGoTo政策を批判しているのに、なんだよこれは、まさにGoTo TravelでGoToIvenntだよ、高校生や観客がコロナに感染しない保障でもあるのか。
 ちょうどこの日の社会面には、松江でクラブ活動の高校生たちが88人も集団感染したとの記事があるぞ、おい真面目なのかい?。
 あそうか、自分ところが主催か後援してるんだな、そうなると途端に贔屓の引き倒しになるのか。情けないね。

 コロナは日本でも世界でも着々と版図を広げつつある。とうとう世界中では200万人近い感染者と、73万人の死者、日本では5万人超えの感染者、1000人を超える死者となっている。
 もっとも、これが他の病と比べて数で多いのでもないらしく、問題はその病原体のわからなさにあるらしい。歴史上のパンデミックを参考にして今後の対応をしようにも、コロナの振る舞いに似た例がないので、それが分からないところにあるらしい。

 なんにしてもパンデミック非常時に、少年たちを集めて遊ばせるのは非常識だろ
う。非常時と非常識との取り合わせがなんともすごいな。
 わたしは見るスポーツを嫌いだから、この時期に新聞を賑わわせる高校野球が無くなってホッとしていた。それよりもコロナがなければ東京オリパラで今頃は、紙屑新聞が毎日来ているはずだった。それがなくて、こればかりはコロナ様様である。

 だからこういう野球の記事なんぞいつもは見もしないのだが、わざわざ1面に載せるにはそれなりに意味があるのかと読んでみて、やっぱり馬鹿を見ただけだった。
 高校生に変なことを語らせている。「災害被災者に勇気を与える言葉」を宣誓に込めたというのだ。子供の野球ごときで勇気を「与えられる」人がいるものかね、何様か知らないが語る位置がヘンに高いよ、子供がいうことじゃない、いや、大人でも言われたくない、背中がゾワッとするね、ま、どうせ教師や新聞屋にそう言えとか指示されてるんだろうがね。

 こんな遊びの記事よりも、その左にある香港の記事のほうがはるかに重要だろうになあ。これはまさにかつて日本の暗黒時代の法律の主役だった、その検挙者10万人とされる治安維持法の始まりによく似ている。
 日本の当時の新聞記事を見ておかしかったのは、そのころ日本で検挙される側の共産党が、現在の香港では検挙する側であることだ。 
 その様な国家権力の横暴がたどったのが日本と周辺国との15年戦争という悲劇だった。対岸の火事と思っていると、戦争となって大きな飛び火がやってくるかもしれない。子供の野球なんかよりも、そのほうがトップ記事であろうに、と思う。

 コロナ余談、近頃しょっちゅう、隣の共同住宅ビル4階のバルコニーで、真夜中にテレワークを素っ裸でやる男がいて、無神経に大声でしゃべる。何語か知らないが、安眠妨害で腹が立つ。多分、自分の家の中から追い出されているんだな。
 これもコロナ禍だな、うむ、いっそのことあの野郎コロナになっちまえ、写真を撮ったのでこれもって文句言いに行こう。けんかになるかな、外国人らしい。

2020/08/03

1481【コロナ横浜徘徊】コロナどこ吹く風の繁華街とコロナ景気が来たか貧困街

 このところ、新型コロナウィルス感染が勢いをぶり返して、緊急事態の頃よりも多い感染者が出現する毎日である。
 8月になったとたんに久しぶりの青空が2日連続、ようやく夏が来たらしくて、暑い。
今日は日曜日、横浜繁華街の様子を見物に、いつものコースを自転車徘徊してきた。

●コロナどこ吹く風の賑わいの街

 中華街は、コロナってどこ吹く風とばかりの大勢の観光客の人出で、コロナ前同然に大いに賑わっている。コロナの痕跡は、土産物屋でマスクと顔面シールドを売っていること、中華料理店が店の戸をあけ放っていることくらいかしら。
 歩く人たちは手をつなぎあって密になっていて、平和にして喧騒な風景が戻ってきた。

 元町商店街も、この街らしいそれなりにしゃれた人たちが、大勢行き交う。家族連れも多い。ここもコロナってなんだっけ、である。
 
 馬車道商店街は、人通りがあまりなくて、なんだか寂しい。これはコロナのせいではなくて、この街はもうこういうものかもしれない。

 伊勢佐木モールは、すっかりコロナ前の賑わいである。例の安売り衣料店+なんでも100円屋ビルの入り口には、行列ができているありさまだ。それは入り口で検温し、アルコール消毒をさせているからだから、やはりコロナの時代らしい風景だ。
 あけ放った居酒屋の中は繁盛している。コロナんなんて知らないよ。

 横浜橋商店街は、もともとコロナに関係なく賑わっていたが、今日もその通りである。空き店舗の一軒が骨董屋になって再開したし、空き地だったところにビルの建設が始まった、景気よろしい。
 
 というわけで、だれもが覆面しているからコロナ怖い気分はあるのだが、見たところコロナ前の賑わいが戻っかてきてる。
 これは人間に景気が戻ってきた良いことなんだろうか、それともコロナに景気をつけているだけで、人間の不幸の前兆なんだろうか、分からない。
 もしかして次の緊急事態でまた閉店の街になるだろうから、今のうちに遊んでおこうって、これはもう終末思想が行き渡ったのか。

●貧困の街も景気がもどって

 繁華街じゃないが、貧困の街である寿町界隈も観察した。ここは生活街だから、コロナであろうがなかろうが、人々が日常的に生きている。
 今日のような暑くて天気の良い日は、小さな簡宿部屋よりも外が気持ちよいと、日陰の道や広場に人々が出てきてたむろしている。これも通常のこの街の風景である。

 コロナ以後で変わったというか、変わりつつあるのは、あちこち4か所でビル建設が始まりつつあることだ。もともと少しづつは古いドヤビルが建て替えされて高層ドヤビルになってきているのだが、同時に4か所とは、なんとも景気がよろしい。





 つまり貧困者のためのドヤの需要は、コロナのせいで盛んになったのかもしれない。ありうることのような気がする。川崎あたりではドヤが減っているとの話を聞いたことがあるから、ドヤ需要層が横浜寿町に集まりつつあるのだろうか。
 一泊1700円が標準らしいから、何かでうちを追い出されたときに泊まろうと思うので、日頃から観察しておくのだ。

2020/08/01

1480【コロナの現在】世界パンデミックリーダーはアメリカ、第2波到来日本リーダーはやはり東京、ああ生き過ぎた

 
2020年の7月末でのコロナ統計を記録しておく。

●地球全体のコロナ
 
 新型コロナヴィルス感染者の最初は、2019年12月8日ユーラシア大の東部の中華人民共和国湖北省武漢市からとされるが、それから8か月、見事に地球全体に及んだ。

 さすがに世界の大国を誇るアメリカが、群を抜いて感染者も死者数も多いし、どんどん増えている。そして南アメリカ大陸、インド亜大陸、ユーラシア大陸、アフリカ大陸と来て、残るはオーストラリア大陸と南極大陸である。さすが南極は登場しないが、オーストラリアとニュージーランドには既にコロナは上陸しており、このさきはアフリカ大陸の爆発だろう。これをパンデミックという。

 これまでパンデミックはいろいろあったが、今回はすでに70万に近い死者を出しているから、多分100万人以上が死ぬだろう。これまでで100万人死者とされるのは1957~58年のアジア風邪インフルエンザとされるが、わたしは大学生だったが記憶にないから大したことなかったのだろう。

 その前は1918~20年のスペイン風邪インフルエンザで、1億人も死んだといわれる。もちろん生まれる前のことで、わたしは知らないが、第1次世界大戦とも関係深いとされるのが興味深い。
 いずれにしてもめったに起きない地球的大事件に遭遇しているので、興味深く状況観察しておきたい。文化にも大きな影響があるはずだ。

●日本のコロナ感染者
 初めて日本で感染者が出たのは2020年1月16日に、武漢から帰国した男だそうだ。その後の日ごとの発生数は4月初めまでに幾何級数的に増進、全国に広がった。
 人口の多い地域ほど感染者が多いのは当然で、東京・愛知・大阪・福岡圏域に多い。都道府県単位の統計で、岩手県だけただひとつ、7月末頃まで感染者ゼロを続けていたのが特異だった。
 7月になると再びその数が上昇傾向になり、終わるはずだったのに何故だろうと、どこもかしこもアタフタしているが、外出控え、3密控え、マスクするしか、どうしようもないのが現実である。
 
●東京のコロナ感染者

 5月に入り、近畿感染者数が減少傾向になりほっとしていたら、7月に そして感染者数再度急上昇のトップを行く東京都内では、もっともアタフタの度合いも高い。夜の新宿風俗営業がいちばんのやり玉にあげられている。

 若い者の感染が多いというが、もしかしてもう自暴自棄になって、コロナで死ぬ前に楽しんでおこうと、酒を飲み性交渉を求めて歩きまわっているのかもなあ。
 そうなればもうマスクしろとか、透明カーテンしろとか言っても、聞こえない状況かもなあ。

 とにかく、ウィルスという自然相手にモグラたたきのような戦いを挑んでも、まったく勝ち目がないらしい。コロナと休戦協定するしかない、つまりコロナに罹って、その代わりに免疫をもらうという、手打ちしかないらしい。

●日本人の平均寿命

 そんな末期的世の中なのに、厚生労働省の7月末発表とて、日本人も平均寿命がまた延びたのだそうだ。女は87.45歳までも生き、それが男は81.4歳だそうだ。
 え、なんだあ、オレは平均を超えてるよ、ほんとかあ、うかうかしてたら死に損ねたらしい、ホントに困ったもんだ。コロナに期待するかなあ。

 コロナで老人の死者が多いそうだから、来年はこれよりも下がるような気がするが、それにしても生き過ぎてるな、みんな、あ、生きさせられすぎてるのかもなあ。
(20200801)

2020/07/31

1479【フェイクバカ7月掲載コロナ狐乱夢まとめ】もういやだ今月もまだコロナコロナしかも雨雨雨つづく日々

7月1日 ブログ「【フェイクバカ狐乱夢2020年6月号】
 ああ、今月もコロナコロナで明け暮れ、もう飽きたなあ https://datey.blogspot.com/2020/07/1474.html」

【マイナーなコロナショック復興策】
 政府のコロナショック復興策は、「強盗(GO TO)キャンペーン」なんて妙なネーミングをすると思っていたら、こんどは「マイナーポイント」なる名の施策があると知った。5千円をくれるらしい。なるほど、このネーミングは正しい。これぽっちでメジャーポイントと言ったら総スカンだもんな。
 で、この5千円を得るにはマイナンバーカードが必要とのこと。またこの「マイナンバー」が、奇妙なネーミングであることよ。お上が一方的に付けた番号だから、「ユアナンバー」でしょうに。こちらの好きな数字にするならマイナンバーだけどね。 
 でもわたしには、そのカードがあってもスマートフォンがないのでダメ。PCならあるけど、カードリーダーがないからダメ、ふーん、いい加減にせえ。あ、そうか、2枚マスクと10万円に続いてこんどは、スマートフォンとカードリーダーを給付するんだな、給付申請用紙到着を待っています。

7月6日 ブログ「【横浜コロナ風景その2⑤】
横浜馬車道商店街の変化はコロナにあまり関係無さそうだが、、https://datey.blogspot.com/2020/07/1475.html

7月8日 【コロナオンライン会議公害】
 隣のUR住宅4階バルコニーから、毎晩のように深夜まで長時間のオンライン会議を、大声でする奴がいて、安眠妨害で腹が立っていた。昨日、思い立って、やめてくれと書いた紙を封筒に入れて、その住戸の郵便受けに入れてきた。その手紙の効果があったようで、12時ころの寝るまでは声が聞こえなかった。夜中に目覚めたときに、少しそれらしい声が聞こえて、またやってるのかと耳を澄ましたが、あまり大声ではなくて、そのうちにこちらが眠った。どうやら効いたかとおもったら、今日午後、大声がまたするので見たらやっている、昼だから良いと思っているのか、それともあの手紙無視かな。

7月11日 【アメリカ産コロナ直輸入】
 沖縄のアメリカ軍基地でコロナ感染者大増加とのこと、ということは、神奈川県でも厚木、座間、根岸、池子、相模原、横須賀で同様かもね、あ、青森県の三沢でもか、欧米型ウィルス感染闇ルートだな、怖い。
 沖縄のアメリカ軍基地でコロナ感染大発生って、そこはトランプの領地だからドンドン増えるだろうがアメリカのカウントになるんだろうな。トランプが言うかな、「外国にある基地のせいでアメリカのコロナ感染者数が増えるのはけしからん、即刻、沖縄の基地を廃止返還してしまえ」

【世界覆面ごっこ時代】
 日本白覆面、アメリカ黒覆面、赤覆面とか青覆面とかどこ?

7月13日 コロナ狂歌2首 
 StayHomeしつつGoToトラベルで股が裂けても経済復興
 コロナ教ついに世界を折伏し色とりどりの覆面が踏み絵

7月14日 【三密の本当の意味】
「三密」と聞いて仏教の僧侶がびっくりしたという話、実はわたしもびっくりはしないが、へんだなあと思ったことは、以前にこのfbに書き込んだ。わたしがコロナ以前に「三密」を知っていたのは、能「葵上」にそれが出てくるからだが、意味を調べても理解できなかった。この記事を読んで、さすがに専門家の解説というか解釈はうまいものだ、見事にというか強引に「コロナ3密」と「真言三密」をつなげてしまった。コロナ3密発明者は知っていたのだろうか?

7月17日 ブログ「【横浜コロナ風景その2⑥】
 伊勢佐木モールはコロナ前も後も街並みはあまり変化しないが商売は変幻自在に生きる https://datey.blogspot.com/2020/07/1476.html

7月19日 【伊達の眼鏡ブログ新掲載記事】
 横浜繁華街コロナ模様探訪シリーズの今回は、下町市場的な「横浜橋通り商店街」、コロナなんてどこ吹く風とばかり、コロナ最中もコロナ前と同じの賑わいが続く。もしかして三密街並みの下町商店街こそが、実は「新しい生活様式」に対応する「古くて新しい商売様式」なのか?https://datey.blogspot.com/2020/07/1477.html

【分からんコロナ言葉】
 最近、ポストクラブ、キャパクラってよく聞くけれど、何するところなのか具体的に教えてください、でないとコロナ対策できません。どーでもいいけど。

7月20日【給付金】
 コロナ禍施策の給付金とか助成金とか、実は受け取る国民の借金、自分を身売りして生き延び、いずれ返済に苦しむ頃には私は生きてないけど、GoToキャンペーン #コロナ対策借金57兆円

【夜の新宿へ】 
 何事も深く正しく知るには最先端の現場に行かねばならん、新宿歌舞伎町夜間探検に行こう、GOTO corona safari」

7月22日 【コロナ時代のあいさつ】
 欧米では「握手」は危険とて、ナントマア「ひじ鉄砲」撃ち合い、ならば日本はもっと安全なこれだあ、「アッカンベー」

7月23日 【おお、昨日は全国最多感染日!】
 国民の皆様、コロナ緊急事態で大変な思いだったでしょうが、その憂さ晴らしに政府特別企画の四連休、感染スリル満喫旅行をお楽しみ下さい GoTo trouble

7月24日 【今朝の新聞から:東京オリンピック】
 今朝(2020/07/24)の朝日新聞に、女性が野外競技場で写る全面広告がある。そして別面には同じ女性らしい写真があり、重病療養中だがオリンピック競技出場を目指していると美談のようだ。わたしは観戦スポ-ツに全く興味なくて、スポーツニュースを読まないので前後事情が分からないが、どうも理解できない。
 第1に、そんな重病療養中の人がコロナ禍中の競技場に出てきて写真撮ってよいのかということ、
 第2は、その名前に「選手」とついているからオリンピック出場権を持つ競技者なのだろうが、病気療養になっても来年も出場権保持できるのかということ、
 第3は、その全面広告を出す企業は高額な掲載料を新聞社に支払うよりも、オリンピック開催を願うならコロナ克服関係のために寄付するべきと思うが、何故そうしないのかということ。(朝日新聞サイトによると全国版朝刊色刷 47,435,000円)

【今朝の新聞から:おお、よその国でも、、】
 アレ、あの対外強権国家も内政はそんなもんですかあ、オロオロウロウロしてるのは極東の列島国だけじゃないんですねえ、同類がいてなんだか安心するなあ、国名と首相名を入れ替えて読むと先取りされてるみたい、負けるなジャパン!

7月25日 【コロナ狂歌】
  欧米で握手に替えてひじ鉄砲 ならば日本はアッカンベー
  Stay HomeしつつGo Toトラベルで 経済復興股裂きの刑
  何事も目で見て正しく知るために 歌舞伎町へGo To Safari

7月27日、ブログ【コロナ大戦の日々】
 人生でめったに出会えないこのパンデミックを、千載一遇のチャンスとして暇つぶしと老化防止に役立てよう。https://datey.blogspot.com/2020/07/1478.html

7月29日【エーッ、ついに岩手県にも感染者2名発生とは!】
 よくまあここまでゼロ人で頑張った、表彰もんだなあ、コロナ終ったらみんな移住しよう!
 
【お上が近頃勧めるワーケイション】
 working+vacation=wor-cation、ならばvacation+working=vaca-king、おお、バカの王者ってか

7月30日 【地下鉄の異教徒】 
 地下鉄に乗った。午後の車両は立つ人はいないが座席はほぼ満席、だれもかれもが白覆面、なかに2,3人の黒覆面もいる。コロナ時代の徹底流行ファッションだなあ。 車内をよく見まわしたら、あ、居たっ、マスクしない中年男がひとりだけ。うーむ、この時代に抗して偉いっと褒めたくなった。いや、単に忘れただけかもなあ、居心地悪いだろうなあ、わたしもよく忘れる、それに備えてカバンには自分用の予備マスクがあるから、これを差し上げようかな、余計なお世話かな。もうすっかりコロナ教が行き渡り、マスクしない奴は異教徒として迫害されるもんなあ。生きにくい世の中。

2020/07/27

1478【コロナ大戦の日々】人生でめったに出会えないこのパンデミックを、千載一遇のチャンスとして暇つぶしと老化防止に役立てよう。

 ●身に迫るコロナ大戦

 こんなコロナ・パンデミックなる世界史的事件に巻き込まれるのも、あまりに長く生きているからだな。昨年末に逝った親友を羨ましい。
 せっかくだから、まことに興味あるめったに会えない事件で、どたばた騒ぎもあちこちで発生するから、老後の暇つぶしとボケ防止になるから、面白がって付き合っていこうと思う。
 もっとも、患者になるとまわりが困るだろうから、その手前あたりで、。

 わたしのこれまでの人生で、このような世界史的事件に巻き込まれたことは、一度だけあった。それは第2次世界大戦、日本の位置から言うとアジア太平洋戦争である。
 田舎町に住んでいたから、都会のように空爆に出会うことはなかったが、戦争末期と直後の頃の食料難が酷いものだった。日々の空腹に襲われて、少年のわたしにはこれが戦争による大被害だった。

 今回のコロナ大事件は食糧難に至っていないが、もしかして各国での食料の囲い込みになると、日本の自給率は4割以下だそうだから、またもや空腹に襲われるかもしれない。
 まあ、先の大戦の時と違って歳とってしまっているから、少食だし、たとえ食えなくて死んでも構わないとも思う。

 これまで出くわしてきたいろいろ大事件を思い出せば、ベルリンの壁崩壊、阪神淡路大震災、リーマンショック、東日本大震災などあるが、いずれも身に迫ることとして実感したことはなかった。
 だが、今度のコロナ事件は、自分の身に及ぶ世界的事件として、ひしひしと実感がある。こんな感じは、あの戦争のとき以来だから、これは「コロナ大戦」と言いたいのだ。

 先の大戦を身に染みて実感したが、わたしが住んでいた小さな街(高梁盆地)を敵が襲うことは、直接的にはなかった。
 しかし今回のコロナはその盆地にさえも、遅ればせながらこの7月末になって、ついに初の感染者2名を出した。敵は直接にやってきたのだ。
 その感染者たちは、スリランカから地元大学への留学生だという。はるばる勉強にやってきて感染とは気の毒なことだが、これがまさにパンデミックである。どこにいても身に迫る。

 実は忘れていたが、わたしが少年時代に実感していた感染症の恐怖があった。それは結核である。田舎町でも身近に患者がいた時代で、同期生で亡くなった者や、治療で学年を遅らせたものが数人いた。
 いまPCRとかワクチンとか疾病検査治療専門語を普通に言うように、ツベルクリンとかBCG接種とか言ってたものだ。

 かなり大昔から世界中にある病だから、今のコロナのような騒ぎはしなかったが、実態としてはかなりのパンデミックだった。
 だからそのための「結核予防法」を作って、今回活躍している保健所システムを作り上げて対処してきた。
  
 50年代だったかにストレプトマイシンの登場で、劇的に治療が進んでいまは忘れられた病となった。そこで保健所を大幅縮小したところに、今回のコロナに不意打ちを食らった。でもネットで調べると、今もコロナ並みに患者や死者がいるらしい。
 もしかして、コロナも結核並みに人間と共存して生きていくのかもしれない。
 
●活動促進と活動自粛との矛盾政策

 今年早春からはじまった新型コロナウィルス流行は、感染者数がこの夏前になっていったん落ち着いて、低下方向になったかに見えていた。
 ところが、このところまたもや日々増加傾向にある。それも日本だけでなく、世界中がそうである。定説通りに第2波がやってきたらしい。

 その一方では、4月以来の活動自粛続きで産業界は沈滞し、人々も閉塞状態なので、世のあちこちから自粛をやめたい活動したいの声も大きになる。
 そこで政府としては、緊急事態の活動自粛要請を解除して、しかも活動促進施策実施をあじめた。だがもういっぽうでは、活動の自粛継続を呼びかけざるを得ないという、なんとも矛盾した政策をやっている。

 活動促進政策はいろいろあるらしいが、「GoTo●●」というのが良し悪しの評判である。旅にでもイベントでも買い物にでも、どこかに出かけて金を落として産業振興しなさい、その支出費用に対して、税金から一定の金銭補助をしましょう、というのである。
 当然のことに、出かけることはコロナ感染チャンスを拡大する。つまり補助金はコロナ拡大に税金を投入することになる。
 これこそコロナ予防治療対策に投入する税金とは逆方向の投資である。

 もう一つの施策に「マイナポイント」なる政府補助事業がある。今日の新聞に詳しく書いてあったので目を通したら、要するに現金払いでない買い物には、いくばくかの補助金をだすから、せっせとお金を使いなさい、ということらしい。現金支出を相手にしない。
 これの恩恵を受けるには、背番号カードやらクレジットカードやらナントカポイントカードとかスマートフォンとか、あれこれ現金払いでないシステムに加入していなければならない。

 わたしは、マイナポイントの条件となる背番号カードだけは持っているが、スマートフォンがない。PCを持っているがカードリーダーがない。システムに対応していないのだ。要するにマイナポイント政策からお断りされているのだ。
 他人様が使えば使うだけ、わたしの払った税金を損すると思ってしまう「マイナスポイント」なのである。

 わたしのような超高齢者としてはネットに親しむものでも、どちらの施策の恩恵も受けられないのである。それは補助金であるから、一定以上の家計支出をしなければ得られないからだ。
 だが貧乏人の私には、その支出をできないから、補助政策の出番がない。他人がこれを利用すればするほど、わたしの税金を損する仕掛けである。

●21世紀人体に発生した新たな陰部

 ウーム、悔しいことである。こうなればひとつだけ思いつく「コロナで税金取戻し策」にとりかかるかな。それはコロナに感染し、公費負担で治療してもらうのである。
 なんともリスキーながら、これなら可能である様な気がする。どうせ先は長くないのだし、高額の後期高齢者健康保険料だって、ほとんど取り戻していないから、やってみる価値はあるかも、。

 それが目的ではないが、日々、ご近所の横浜繁華街を徘徊して、コロナの街の変化を観察し続けている。
 そうして発見したというのもおこがましいが、大変化は人々の風俗である。そう、貧富男女階層人種に関係なく、だれもかれもが布や合成繊維などによるマスクをつけて、覆面姿が一般化したことである。これは激変である。だれもかれもが覆面する社会が、こうも突然に来るとは思わなかった。

 法律の定めでもないのに、これほども覆面姿が行き渡るとはねえ、太平洋戦争末期の防空頭巾もこれほどではなかったし、スモッグ公害の70年代もこれほどではなかった。
 覆面こそが21世紀中葉の一大流行ファッションとなるに違いない。そうだ、イスラム教徒に覆面ファッションがあったが、あの宗教こそ世界の最先端を行っていたのか。

 実はわたしは2月、3月頃までは、マスクしないで出かけるのが普通だった。ところが店先や道端で、そばにいる人に妙に避けられる雰囲気になり、あるとき店で支払い行列の前に立つ男から「寄るな」と言われた。そうか、マスクが要るのかと、ようやく気が付いたのだった。
 そう、マスクはコロナ教時代の踏み絵になったのだ。覆面しないでは店にも図書館にも入れなくなった。これを踏むことで初めて社会が受け入れるとは、なんとも居心地が悪い、息苦しい。

 ふと思う、もしかしてマスクは陰部を隠すパンツになったのかと。つまり、これまでは下方に陰部があり、それを隠すためにパンツをはいていたが、これからは人体の上方にも陰部が登場し、それを隠すのがマスクである。
 かくて覆面姿こそが正しい服装となり、鼻と口を公衆に露出すると猥褻物陳列罪に問われるのである。

 まあ、初めてのことで、政治家も専門家も市民も、だれもかもが、ああせよこうせよと百家争鳴である。だが、現実にはコロナ禍は一向に収まらないから、生物としての人間はあきらめて、文化としての人間が表に出てくることになる。
 しかし、感染による死という生物的現実が何もかも押し流す。こんな混乱社会に生きていることを、直視していくしかないが、どこか楽しんでいる自分がいる。

 おお、コロナよ、新たな社会秩序をもたらす神よ、わたしも踏み絵を踏んでしまったコロナ教信者です、お導き下さいピンピンコロナへってね。(2020/07/27)