2023/05/19

1686【横浜寿町・地域活動の社会史】都市下層集住社会の課題解決に活動する人々に敬服するばかり

●横浜都心名所「寿町」の歴史の本が出た

 横浜市の都心の中に「寿町地区」と呼ばれる名所がある。そこはいくつかの町名があるのだが寿町で代表されている。
 似たような名所が東京では「山谷地区」、大阪では「愛隣地区」と呼ばれている。それらはいずれも都市下層社会地区の代名詞のようになっている。 

 今年1月出版の書籍「横浜寿町 地域活動の社会史」上下(寿歴史研究会編 社会評論社)を、実に興味深く読んだ。上下巻2冊、いずれも300ページを超える厚さ、しかも横組みだから、見かけはとっつきにくい。目次を見ても硬そうな中身だが、実際に読みだすと止まらなかった。

 横浜都心に移ってきて20年半、この間に都心部のあちこちほぼ残らず歩き回りつくした。もちろん寿町にもちょくちょく足を運んでいる。この機会に少しまとめ的なことと、この本を読んで発見したことなど書いておこう。

 寿町の街並ををちょっと見たところでは、特別に変わったところはない。中高層のホテルのような中高層住宅のような建築群が隙間なく立ち並んで、日本の大都市の中では普通の風景である。知らないとなぜここが名所なのかと思うだろう。
 だが、この本を読むと、その平凡な街並みの中では、こんなにも熱いドラマが日夜繰り広げられていたのか、そして登場人物たちの多彩なことに驚くのである。

 ここに密度高く肩を並べて建ち並ぶ平凡な都市建築群は、通称はドヤビルと呼ばれ、ドヤとは宿の隠語に起因する。つまり宿と呼ぶにはいかがわしいというかレベルが低い宿泊施設であり、法的には簡易宿泊所と言う。要するに超安宿である。それに似合った施設とサービスである。
 宿とは本質は旅人が短日の仮寝の場であるのだが、ここでは都市下層民の生活の本拠になっているという大きな変質がある。

 都市社会の底辺に生きる人間たちが、小部屋の個室に住みついて、居住密度が極端に高く暮らしている。しかも低所得の高齢者層が8割を占める偏りである。
 それは日本社会の戦後諸問題が時間とともに変質しながら凝縮されて詰め込まれてきた姿である。ハードソフト両面でのあまりの密度の高さに、読んでいて息苦しくなる。それは街を見ただけでは分からないのが、この寿町の特色かも知れない。

 それに気づかされるのは、書き手が第三者ではなくて、ここで起きてきた諸問題の現場に真正面から取り組んできたた活動の実践者たちだからだ。
 都市横浜の悲惨な戦争直後からの社会史の現場の語り手たちの言葉は、日本の戦争の語り部のそれに匹敵し、戦後社会戦争の語り部といってよいだろう。

 わたしは横浜都心部の一角に住みついて今や20年を越えようとしている。都市計画を専門にしていたわたしは、現代の隠者は都心に住むにかぎると思い込んでいて、高齢者の仲間入りした年に実践した。
 いまや都市の変化を眺めて楽しむのが趣味である。隠居してからやってきたよそ者としては、この都心部のどこもが単なる傍観者であり、繁華街も観光街も住宅街も、そして寿町もそのひとつにすぎない。だが、この本に登場するトピック中のいくつかには、わたしも遭遇もしているので個人的興味もそそられた。

 このブログ読者で、横浜寿町あたりをよくご存じない方にちょっとだけ概要紹介。
 約6ヘクタールの範囲にこのような人々がいる。1000人/haとは超過密である。



 概要をもう少し知るには、わたしが4年前に作った寿町ガイドパンフをご覧ください。

●寿町にも徘徊の足を入れた

 わたしが横浜関外の一角に住むようになったのは、2002年の秋だった。それまでは鎌倉の谷戸の奥で深い緑に埋もれていたのを、街なかの空中の広く開ける住まいに、つまり正反対の環境に大きく変えたのである。
 日常買い物にもバスで通う不便から変わって、歩く範囲に何でもある超便利生活になった。鳥の声が一日中の日々は、街の多様な騒音の日々となった。
 それでも歳をとると便利な方がはるかに良い。

 関内と関外の街の表も裏も、海港のあたりも山手のあたりも、ヒマさえあれば眺め歩く徘徊の日々である。この都心にはありとあらゆるものが存在するとほとほと感心しつつ、好奇心はますます増すのである。もちろんそれは年寄りのヒマツブシに役立つだけである。

 街の表の顔として見せる観光街やビジネス街、日々の生活のある住宅街、それぞれ違う商店街などなど、観光客向け、買い回り向け、最寄り向けなど多様な街のゾーニングがある。
 それら多様な中でも特異なゾーンは寿町周辺地区である。ここがドヤ街として有名であることは知っていたので、他の街とは違う先入観と好奇心でこわごわと通り過ぎていた。

 わたしが横浜都心徘徊を始めた2000年代の半ば過ぎまでの寿ドヤ街は、その中心部の広場に酒を飲みつつ焚火をかこむ野宿人たちが大勢いて、道端に用もなく座り込む人たちがあちこちに居て、ちょっと怖い雰囲気と風景が印象的だった。
 沢山のゴミがあちらこちらの道端に積みあがっていて、小便臭い所も多かった。そんな街でも何度も通りぬけるうちに、普通の街の姿に見えてきた。

2008年の暮れの寿町風景には街角のあちこちにまだゴミの山があった

2007年の夏、寿町の職安前の待合広場には野宿の人たちがいた

 わたしがこの辺りも徘徊しだしたころはまだ汚かったが、200年代半ばあたりから寿の街が、特に道が次第にきれいになってきた。路上放置自転車の整理並べ替え、路上のゴミの片づけ、路上の各所に花が置かれて、それが勝手な焚火や立小便をなくしていったようだ。
 この本を読んで知ったが、その契機は2002年サッカーワールドカップ大会だったという。やってくる外国人に恥ずかしいからとの不純な動機でも、結果はそれで良しとしよう。寿は21世紀初め10年余で次第に普通のきれいな街の姿になる事実を、徘徊で眺めてきた。

 だが、わたしがこの街にあまり興味がわかなかったのは、街並風景に特徴がなかったからだ。これが壊れかけ家屋だらけで迷路のような路地だらけの、いわゆるスラム街ならば興味がわいたのだが、ただの平凡な小規模共同住宅ビルが立ち並ぶだけの姿は、特に面白くもない。
 ところが実はその中ではとんでもない社会的問題の数々があったのだが、新聞情報以上には思いは及ばなかった。それをこの新刊『横浜寿町』でつぶさに知った。

2007年夏、寿のドヤビルが立ち並ぶ平凡な街並

 ついでに書いておくが、わたしが横浜都心隠居して最も関心をもって変化を眺めてきたのは、都心部街並の戦後復興として計画的に建設した「防火建築帯事業」の姿である。

●寿町に泊まりに行ったこと

 2007年夏の初め、ある都市研究会が主催する寿町見学会に参加した。都市計画の専門家たち10人ほどで、寿町ホステルビレッジの受付フロントロビーを拠点にして、ドヤ街を歩き、ドヤビル(簡易宿泊所)の内部にも案内してもらった。
 わたしはそれ迄は勝手に道を歩いていただけだったが、はじめて建物の中に入り、この街で活動する人たちの話を聞いた。興味がわいてきた。

2007年夏の寿町の中心部風景

 この時に案内役だったのがYさんとYTさんで、ファニービーという地域活動組織の人であった。「さなぎ達」というNPOもあったようだ。寿町ツアーはこのファニービーの収益事業であったらしい。地域資源をもとに活動資金を得てる事業のひとつであろう。そのころわたしもあるNPOの番頭格をやっていたから、よく分かる。

 ファニービーのリーダーのYTさんとは名刺交換したので、以後はファニービーから時々は活動情報がメールで来るようになった。たまには会合に顔を出したこともあり、ホステルビレッジの宿になっている林会館の屋上で、賑やかなパーティーに参加したことがある。
 YTさんは気さくに人と人を結び付ける役目をしていた。地域社会に活躍する女性活動家として、どこかの団体から表彰されて、マスコミに評判になったこともある。

 Yさんはこわもて風体でよくしゃべる男で、リーダー的地位にいるような態度だったが、名刺交換してくれなかった。どこかインテリヤクザの気配で、正体不明のような雰囲気があり、わたしは敬遠したくなる人だった。実はその気分は当たっていたと、この『横浜寿町』のなかの一文を読んでわかった(後述)。

2007年夏の寿町ツア風景 YさんもYTさんもいる

 その2007年夏の終りに、わたしが深く関係するNPO活動のひとつとして、寿町宿泊見学会を行った。ホステルビレッジに予約してドヤ林会館の5階に泊まった。
 このときも前述のYさんとYTさんにいろいろ案内してもらった。さなぎ食堂で300円定食を食べたのはもちろんである。
 この時のことはわたしのブログのここに書いている。

2007年夏 寿町で泊まったドヤの3畳間

 ホステルビレッジ、さなぎ達、ファニービーという名称の活動と事業の組織があり、このころはなんとなく妙に寿町あたりが上昇している雰囲気があった。それが2000年代初めから半ば過ぎまでのことであった。
 「ドヤの街から宿の街へ」というキャッチフレーズがあった。徘徊の通りすがりに見れば、ホステルビレッジのフロントはいつも賑わっていた。この街にも外国人やスポーツ少年たちの泊り客が行き来するのに出くわしたものだ。ドヤは安宿に変化しつつあるのかと思ったが、今になると実際はそうはいかなかったようだ。

●「横浜寿町」で知ったある顛末

 それから1年くらい後になった頃だろうか、メール情報が来なくなった。徘徊途中の覗くホステルビレジのフロントあたりの賑わいも、あまり見えない感じになっている。いつも見えていたYさんもYTんも、消えた如くに見えなくなった。
 事情を知っていそうな人に聞いても口を濁すばかり。なにか寿町らしい?事件でもあったのだろうか、わたしはそう思って、あい変わらず街の姿観察の徘徊をやってきて、ふたりのことを忘れていた。

 寿町の街は相変わらず貧困ビジネス街として繁盛している様子である。古い中層ドヤビルがあちこちで高層ドヤビルに建て替わってきている。街の中核施設の「寿町総合労働福祉会館」は老朽化で建て替えられて、「寿町健康福祉交流センター」なる名前で立派になった。労働がなくなって健康が入ってきたのが、時代の変化を表して居るのだろう。

1974年に新築した寿町総合労働福祉会館は2016年に建て替え開始


寿町健康福祉交流センターが2019年6月に開館した
 でも、寿公園ではあい変わらぬ炊き出しなどは行われていて、寿町の中身に大きな変化はないらしい。そして今、出版されたのが「横浜寿町 地域活動の社会史」である。それで思い出して、もしかして上記の消えたYさんとYTさんのことが書いてあるかと読んだら、あった。

 そうかそうだったのか、やっぱりなあ、それでYさんは消えたのであったか。「さなぎ達」の集まる場所も消えたし、300円定食の店も消えたのはそうだったたのか。おぼろに想像していたが、どうやら犯罪がらみらしい。わたしが彼に出会った2007年頃にはすでに暗雲がたちこめていたのであったか、2008年に彼は寿を追われたとのこと。

 でもその話に隔靴掻痒の感があるのは、その顛末を記す「横浜寿町 第6章第4節」の筆者の推理小説家山崎洋子さんでさえも、現実の良く知る人間の犯罪がらみは書きにくかったのだろう。いや、山崎さんだからここまで書き得たのだろうか。
 Yさんがが消えたことは書いてあるが、あの女性のYTさんも消えたのはなぜか、とばっちりなのか、まさかと思うが彼女も共犯だったのか。

 そしてちょっと驚いたのは、そこに登場する多様な活動の中心にいる赤ひげ医者のことだ。わたしはそのころはまだ知らない人だったが、いまはこの山中修医師に面識がある。3年前のコロナワクチン注射を契機に、山中さんはわたしの妻の持病治療のかかりつけ医になっている。

 「さなぎ達」という活動組織が、寿町に旋風を起こし、そこの中心人物2人は姿を消し、組織も消えたが、実質的な中心人物として登場した山中さんの医療活動は今も続いている。つまり私にも赤城げ活動が及んでいるのである。どさくさは決して無駄ではなかった。
 「横浜寿町」下巻第6章第4節「NPOさなぎ達の設立」を、そのように読んだのだった。そしてそこに紹介してある「ポーラのクリニックのブログ」で更に深く知った。

 横浜寿町ドラマは、いつも深刻な現実を抱え込みながら、中山さんをはじめとする多くの役者たちが登場して、ひとつひとつ解決させてゆき、地域社会を前進させている。
 そして、その端っこに超高齢になったわたしもいるのだと、妻の診察に付き添って先生の言葉を聞くことで、ようやく分ってきた。

●寿町について次に書いておきたいこと

 ところで、横浜市は都心部の「都市デザイン」で有名である。都市デザインとは街の姿を美しく整えるばかりではないが、さて、横浜都心の重要な一角を占める寿町あたりに、横浜都市デザインはあったのか、例えば首都高速道路と寿町とか、緑のネットワークと寿町とか、なにか関係あるのか、ないのか、それを「横浜寿町」なる書籍の中をさがすのだ。

 また、その本にこのテーマがあるかと探したのは、ゼントリフィケーションである。最近になって高層簡易宿泊所ビル(いわゆるドヤビル)ならぬ高層一般分譲共同住宅ビル(いわゆる高層マンション)が、ドヤ街の中に建ち上った。ドヤならぬホテルの建築計画もある。
 こればかりではないがこの20年に徘徊での観察で、寿町の土地利用の変化を興味を持ってみてきたが、それらの変化がどのような方向に行こうとしているのか、ますますドヤ化が進むのか、次第にいわゆるマンション化が進むのか、ゼントリフィケーションが始まるのか、いやそうはならないのか、どうなるのか興味がある。

(20230517記  つづく

2023/05/11

1685【飲料屋は道端自動販売機で丸儲け】コーラ買おうと160円入れたが瓶が出てこない顛末記

 さわやか季節になって、街なか徘徊で定点観測の裏道や坂道の変化を楽しむ。1時間ばかり歩いて喉が渇いたので神社境内で一休みしようと、道端の飲料自動販売機に160円を入れた。
 銭は箱に入ったが、瓶が出てこない。コカ・コーラボトルが出てくるはずだ。取り出し口の蓋を開けてしげしげと眺め、指を突っ込んで撫でまわした。なにもない。返金レバー回しても赤い箱は平然としている。

 この自販機は駐車場ビルの前にあるのだが、問うべき人がいない。しょうがないなあ、160円あきらめるか、いや、このままだと癪だし、どうせ暇だし、まだ日は高いから、ちょっと遊んでみよう。

160円丸儲けのコカ・コーラ自販機
 自販機の表面に、こういう時の連絡先電話番号を記した紙が貼ってあるので電話した。コカ・コーラ屋関連企業らしい機械音声の反応があり、番号を次々と告げて用件に対応する番号を押せという。めんどくさい。
 で、3番を押したらこういう時の対応係らしい女性らしい声の人間が出てきた。

「どんなご用件でございましょうか」
「自販機でコーラを買おうとしたら、お金だけとられてど品物が出てこないんです」
「どうも申し訳ございません、お買い求めの商品は何でしょうか」
「コカ・コーラの瓶1本のはずが、空気だけでで160円だったね」

「まことに申し訳けございません。恐縮ですがその自販機の番号をおっしゃてていただいてよろしいでしょうか」
「え?、通りすがりのわたしにそんな質問をなさっても、この番号を君に教えて良いのか悪いのか、判断できません」
「あ、失礼しました、その番号をおしえて下さい」
「●●●●●と書いてあります」
「ありがとうございます、今調べます、、、その自販機は横浜市日ノ出町2丁目の○○駐車場の前にあるでしょうか」
「ああ、ここが2丁目かどうか知らないが、近くに日ノ出町駅はあるね、このビルには大きな看板に○○と書いてある」

「ありがとうございます。お金をお返しいたします。ご自宅に160円を現金書留で送りたいのですが、よろしいでしょうか」
「あのねえ、それじゃあ160円よりもはるかに多くの費用が掛かるでしょ、そんなこと要求したらこちらが理不尽になるでしょ」
「はあ、いえ、それでもお返ししたいのですが、いかがでしょうか」
「それよりもこうしなさいよ、自販機設置しているこの駐車場ビルと君のところとは設置の契約してるでしょ、ビルの人にそちらから今直ぐ連絡して、外の自販機の前で待つ人に160円を持って行けと言いなさいよ、それが一番手っ取り早いでしょ」
「すみません、それはできないのです。スマフォをお持ちでしょうか」
「なんでできないんだよ、ああスマフォ持ってるよ、今かけているこれですよ」
「そのスマホにナントカカントカカントカナントカシテ、自販機から飲み物を1本差し上げるようにしたいのですが、いかがでしょうか」

 このスマフォ利用弁償方法とは、さすがに今の時代であると思った。だが、言ってることを理解できない。わたしのスマフォ利用はSNSとブログを読む専用なのだ。金銭を伴うアプリケイションは全くない。

「おお、さすが今どきだなあ、電話とネットを使って弁償か、いいねえ、でもね、わたしは90歳近い爺さんだよ、若者の様にスマホでそんな芸当できないんですよ、ダメですね」
「はあ、そうですか、では、電話番号を教えていただき、後ほど担当の者から直接に電話を差し上げて、お返しする方法を相談させていただきますが、よろしいでしょうか」
「はあ、しょうがないですね、そうしましょうかね」

 実のところ、わたしはもうどうでもよくなってきた。だが、ここで引き下がっては、160円と言えども何の関係もないコーラ屋に、この貧しいわたしが丸儲けをさせるのが癪だ。こちらは暇だから、この事件を面白がることにして、次の展開を期待して電話を切った。
 徘徊をふらふらと続けても、電話はかかってこない。あのまま逃げるのかな、まあいいけど、なんて思っていると、1時間半ほどたって男の声の電話が来た。

「お金をどうしてもお返ししたいのです。どちらにお伺いすればよろしいでしょうか」
「おお、今すぐなんだね、さっきの自販機から200mほどのところだよ」
「あ、すみません、今わたしは遠くにいるのです」
「なんだい、それじゃあしょうがないでしょ」
「後日お宅に伺うのはいかがでしょうか」
「あのね、どこから来るのか知らないけど、160円持って横浜都心くんだりまで来るのかい、交通費も人件費もムダすぎることだねえ」

「いえ、はあ、では、現金をご自宅に送付させて下さい」
「実はね、10年ほど前にも同じようなことが田舎の畑の中の道にあった自販機で起きてね、その時に電話したら120円の現金を郵送してきたね、それを受け取って考えたねえ、わたしはなんという馬鹿な要求をしたものか、いくらなんでもこんな無駄をさせるなんてねえ、と、後悔しましたよ、自分が嫌になりましたよ、今回もそんなことしたくないですね」
「はあ、すみません、でもお返ししないわけにはいきませんので、なんとか、、」

 話は堂々巡りする長話の気配になってきた。もうケリを付けよう。

「あのね、君のところの自販機は日本中にものすごい数があるでしょ、そしてこのような事件は日常茶飯事でしょ、そのほとんどの被害者はめんどくさくてあきらめて何も言わないでしょうね、少額でも積み上げると膨大な金額でしょうね、コカ・コーラ屋さんはそれで丸儲けしているんですよね、そうでしょ」
「はあ、いや、分かりませんが、そうでしょうね」
「それは自販機と言うもの宿命というか、それも企業の商売方法だろうが、それでいいと思ってるのかい?、コカ・コーラってそんな企業かい?、イメージ悪いよ、何とかしなさいよ」
「いやあ、はあ、あの、すみません」
「もうわたしはこれでおしまいにしたい、だから君は上の人にわたしの話をきちんと伝えなさい、企業イメージにかかわることだ、何とかせよと言われましたと。いいですね、それを条件にして、こうやって電話をかけてきた貴方の誠意に免じて、これでおしまいにします、電話切ります、さようなら」

 結局は、コーラ屋の作戦に引っかかったのかもしれない。ヒマツブシにはなった。
 家に戻る途中にコカ・コーラ配達用の真っ赤なトラックを見つけた。そうだ、このような車があちこちにいるよなあ、これに連絡して160円返済させると簡単なのになあ、。

 ということで五月晴れの街で、徘徊中のヒマツブシでした。

(20230511記)


2023/05/10

1684【海外郵便発送の超面倒】昔は袋に宛名書けば済んだのに今じゃ郵政ドジシステムに悩むばかり

  コンピュータと会話しつつ用を言いつけると、それにちゃんと回答してくれるAI(生成AIというそうだ)が出てきたとか。大学の教師は学生が出してくるレポートの類が、AIが作ったものかどうかわからない、なんて悩みがあるらしい。学生の方は悩みがなくなったかしら。

 要するに、これまで世の中のコンピュータに誰か彼が書き込んだ文字や絵など超大量の情報を、GAFAMとかナントカと言う情報屋がどこかに蓄えてあるのを、生成AIの奴が片端から見てその知識にしているらしい。そして人間の要求に対応するアウトプットを生成して教えてくれる。

 なんだか面白いことになった。学校教育が変わるだろうし、ちょっと考えて思いつくのは、裁判官も検察官も弁護士もそれぞれの生成AIを従えておけば、各法律PCデータはいらなくなるのか。裁判はそれぞれ生成AIが丁々発止と闘うのだね。生成AIをいかに使いこなすかが有罪無罪の分かれ目か、当たりまえのことだね。

●今や国際郵便もネットで

 そんな時代が来ようとするときに、今日もあい変わらぬ訳の分からないPCの中でやる手続きに振り回される経験をやった。去年夏に国民背番号カードによる5000ポイント獲得手続き以来である。
 今回はカリフォルニアに住む友人に本を送るための外国郵便発送手続きで、実は生まれて初めてのことだ。これが全く面倒なことこの上ない。いまは慣れたがまるで初めてやった所得税確定申告である。

 昔は外国に郵便を出すときは、国内と同じように袋の表に宛先を書けばよかった。今は違う。郵便局の提供するコンピューターシステムの中に入って、あれこれとたくさんのデータを書き込む必要があるし、いろいろな発送方法から選ぶ必要がある。コンピューターで事前に申し込む必要があるのだ。

 それはそうするべきでもよいのだが、問題はどうやって書き込むのか、どうやって選ぶのか、まことに面倒で分かりにくいのだ。要するにシステム(というよりデザインと言うべきか)を作ったやつには分かりやすいが、顧客には実にわかりにくいのだ。
 文章が悪い、レイアウトが悪い、書き込みに齟齬がある、設計がドジだ。

 初めに入門ページを見て、いちおうは全体像を知った。そして発送方法の種類や料金やらをあれこれ沢山知った。
 そして発送方法の内で「国際eパケットライト」がまあまあ安くて1300円前後、速くて5日前後と分かった。注意書きに、この発送方式を扱っているが今は書留はできないとあるが、その必要ないからこれで発送すると決めた。

 そこで送り状作成に取り掛かったのだが、作れという「国際eパケットライトラベル」なる送り状を作るページが出てこない。何回やってもこれを作るページにたどりつかない。
 しょうがないから、とりあえず出てくるものでやってみようかと進めば、料金4400円ほどになっている。これは高すぎる、違うなと、また初めからやり直し、でもやはりだめ。

 気を取り直してまた入門から始めるとことにして、面倒だけど「よくある質問」を読み始めた。アレ、なんとそこには、この「国際eパケット」は今は扱っていない、とあるのだ。
 おいおい本流の方には扱ってるけど書留できないと書いてあるぞ、なのにこちらには扱っていないとある。ということは、これまでどうしても出てこないのは、扱ってないからなんだろう。
 あのなあ、よくある質問に書いてあるなら、本流の方もそう書いておけよ、おかげで1日丸損したぞ、バカヤロ。

●船便で発送したが、

 では一番安い方法にしようと「船便」で送ることにして、不親切な書き込み方法指示にヨロヨロ行ったり来たりしつつ出てくる画面に従って書き込み作業を進めて、ようやく送り状プリント2枚に至った。そのアウトプットの紙を見たとて、なにがなんだかわからない。
 とにかくその紙と送る品物(本2冊)を持って、近所の郵便局に行き、これをどうするのか分からないから後を頼む、と押し付けた。ここでまたうまく行かないと喧嘩だなと感じた。

 受け付けた係員の応対はそれなりに丁寧だが、不慣れらしくマニュアル出したり、奥に聞きに行ったりしている。料金は440円、日数は1か月ほどとて、急ぐものでも腐るものでもないから、これでよしとした。
 終るまで20分くらいもかかった。じっと我慢していた。

 カウンタの前に張り紙があって、近ごろ大声で社員を怒鳴りつける人がいるが警察に通報するぞ、なんて趣旨のことが書いてある。なんだよお、おれじゃないよ。
 そうだろうなあ、うちでもPCの前でじっとあれこれ我慢して、ここに来てもじっと我慢では、怒鳴るやつがいるかもなあ、でもなあ、怒鳴る原因は多分にあの郵便局側のドジシステムデザインにあるんだよ、あれをまず改良しなさいよ。

 そうか、いまに生成AIになって、グっと便利になるのかね。ヤレヤレ、待ってますが、間に合うかなあ、わが生きているうちに。

(20230510記)

(追記2023/08/02)
 本日、USA CALIFORNIAに住む畏友から電話あり、わたしが5月発送した書籍が本日到着した、とのこと。1か月の約束が3カ月かかるとはねえ、でも着いてよかった。
 この間、この受け取りて友人と電話やZOOMで話すときに、まだ来ない、え、未だつかないのか、と何度かやり取りしていた。太平洋で遭難したらしいから航空便で送りなおそうかと考えていたところだった。
 ともかく、着いてよかった。その本はわたしが本づくり趣味で自作しものだが、中身はその畏友の著書である。この5年ほどの間に仲間で発行する同人誌に載せた彼のエッセイを集めて編集した著作集で、67年にわたる友情の記念誌ともいうべき書籍である。

 一昔前の郵便やりとりが普通だった頃の世間一般の物事のゆったり感を思い出し、今どきのスピード感におぼれている自分を顧みるのである。(完)

参照:【本づくり趣味自製ブックレットまちもり叢書シリーズhttps://datey.blogspot.com/p/machimorisosyo.html

 

2023/05/08

1683【コロナ格下げで諸事解禁】みとせ余もつづきしコロナ禍けふよりはただの風邪かやそはまことかや

 今日2023年5月8日から、これまで3年半も続いて世を悩ませつづけるコロナウィルスの、行政上の取り扱うレベルを大きく格下げするそうだ。
 これまでは感染法上の2類にしていたが、今日から5類に分類しなおすという。3段分格下げである。相撲で言えば横綱に続く2番目の地位である大関だったのを、その下の3番目の関脇も4番目の小結も飛ばしてしまって、一気に前頭に転落ということか。

 ということはあんなに猛威を振るったコロナの奴は、今やそれほど弱ってしまったか、あるいはどこかに行ってしまたのか、それとも地球上から消え去ったのか、そしてまだわずかに残党がいるから完全廃業引退をさせないでいるのだろうか。
 おお、とにかくよかったなあ、もうマスク要らない、惑珍注射要らない、ふらふら出かけてよし、飲み会やってよし、どこに旅行に行ってもよし、、、なんだね。

 ほんとうかなあ
みとせ余もつづきしコロナ禍けふよりは
ただの風邪かやそはまことかや

 これまで8回もの波状攻撃をしてきたのが、もうこれでパタッと消滅かい?、え?、あれほども何回も大波が来たのにさ、あのねえ、波ってのはだんだんと小さくなっていくもんだろ?、池に石を投げ込んでごらんよ、そうだろ?、え?、違うの?

 ほら厚労省サイトに載せているこのグラフ、これまでのコロナの奴の波だよ、見てごらんよ、次々と襲い来る波はしだいしだいに高くなって来てるでしょ、この波が消えるまでには、しだいいひくいなみになっていくものだろ?、え?、それがさ、8回目でパタッと力尽きてまっ平ら、もう9回目はないというのかい?、いいねえ、でも、ほんとうかい?

 あのね、このグラフのいちばん最後の右下を見てごらんよ、なんだか蛇がシッポか首をちょいともたげようとしている感じだろ?、え?、そう見えるだろ。
 これがじわじわと持ち上がって第9波になる、なんてことないんだろうね、いや、なんだかありそうな気がしてならないなあ。
 あ、そうだなあ、この次にくるとしたら多分、年の暮れだね、そう、なんしろ「第九」だからね、「第五」の出だしもつれてきて、ジャジャジャジャ~ンって、跳ね上がる!

 で、ほんとにもうマスクもなしに飲み歩いてもいいのかしらと、いつもはナナメ読み新聞を今朝はしげしげと眺めて見た。おお、こんなことを言ってるよ、あのオミ先生が、。

「新型コロナウイルスの感染症法上の位置付けが8日に季節性インフルエンザと同じ5類に移行するのを前に、政府対策分科会の尾身茂会長が東京新聞のインタビューに応じた。 5類になっても、高齢者らにとってはリスクの高さは変わらないと指摘。「地域で流行が拡大した際には、不特定多数の人が利用する電車ではマスクを着用するなど、より慎重な感染対策が求められる」と話した。

 今後の見通しについて「波の高さはともかく、第9波が来ることを想定した方がよい」と強調。重症化リスクが高い人をいかに守るかがポイントだとして、「高齢者と接触する機会が多い人だけでなく、それ以外の人でも地域の流行レベルが高い時に高齢者と会う際には、感染対策により注意を払ってほしい」と話した。(東京新聞2023年5月8日 06時00分)」

 なんだよ、よく読むとよく分かったよ、コロナは消滅なんかしてないんだ、「第九」はくるんだってさ、ほら言ったとおりだろ。

 それにマスクしなくてもよいって政府は言ってるが、オミさんはより慎重にしろと言ってるよ。考えてみるとすごいのは、わたしのような超高齢者にとっては、コロナリスクがむしろ今後は高まるってことだよ、だって若い者はみなマスクしないでよいのだから、そこら中にコロナをばらまくようになるだろ、でも老人だけはマスクしてコロナをばらまかないようにしろって、一方的受け身老人だよ、不公平極まるぞ、そりゃまあ老人が増えすぎて世の中は困っているだろうけどさ、コロナを格下げした目的は、そうやって老人を減らすためであったか、露骨すぎるよ。

コロナ百人一首狂歌

春過ぎて夏来にけらし四六時のマスク捨てたり風のかぐわし

ひさかたの光のどけき初夏の日に静心なくコロナ消ゆらむ

  ま、とにかくこうなるんだそうだ、なんかよく分からんが、。


とりあえず15日に近所の医院で第6回目惑鎮注射だあ。 

(20230508記) 

参照:コロナ大戦おろおろ日録


2023/04/30

1682【神宮外苑騒動】10年ぶりに神宮外苑あたりが騒がしいが再開発・都市・建築・植生の専門家はどうした?

外苑騒動戯像2013年作 ザハ競技場出現図

●10年ぶりに神宮外苑あたりが騒がしい

 東京の明治神宮外苑再開発について、世間が、と言うよりもネット空間が騒がしい。
 三井不動産を施行者とする市街地再開発事業に仕立てて、東京都知事による事業施行認可が今年の2月16日におりて、事業に着工したとのこと。

 その一方で、この市街地再開発事業に関する環境影響評価の審議が、都環境影響審議会で行われてきて、これはまだ審議が終わっていないようだ。施工認可が先になっても、アセスは事業が進むうちに審議も継続してもよいらしい。

 事業者が公表する事業内容の絵がネットに出たから、世間も興味を持つようになったらし。とくに外苑名所の公孫樹並木が再開発で切られるとか枯れるとか、だれもが分かりやすい問題があるとの情報がネット上にながれるようになった。

 そこに緑地に関する専門家の石川幹子さんが、イコモスの委員会の名で植生計画ついて問題提起と、独自開発計画案を提示した。
 それから「再開発で伐り倒される樹木が10000本」と数字があるだした。わかりやすい数字になると世間も話に乗りやすいのは、かつて国立競技場の建物の高さで、次いで工事費の高さで反対運動が高揚したことに似ている。今年になって次第に「樹を伐るな」テーマの運動がいくつか起きてきた。

 そして事業者が審議会に提出した「環境影響評価書」が公表されると、石川さんは植生学専門家として、評価書の植生調査に多くの問題を含むので、調査をやり直せ、アセス審議会をやりなおせと提案をしたのだった。

 調査方法がおかしい、間違い調査だ、記述間違いがあるなど多くの項目で環境影響審議会で説明させよと提案した。だが、東京都側はそれをうけることなく環境影響評価審議会開催、そして事業者側はそれに対して間違いも無いし、調査方法もこれでよし、と回答した。こうして今年も4カ月が過ぎた。

 その間、次第にばらばらの市民たちによる再開発反対運動が起きてきて、今の時代らしくネット活用による情報流通で、活動は次第に櫃のネット空間にまとまろうとして、熱を帯びてきている様子である。この面のリーダらしい人たちも登場している。
 わたしは知らないが、著名な音楽家やタレントが反対運動に加わっているようで、盛り上がりに関係しているのだろう。

 10年前の国立競技場騒動のころは、都市計画家が反対運動に登場することはなかったが、今回は珍しくも都市計画家の大方潤一郎さんがこれに加担なさっている。大方さんは10年前も専門家として事情をよくご存知のはすで、国立大学を退職なさったからだろうか。
 ところで競技場騒動では多くの建築家が登場したが、今回もいるのかしら。

 さて外苑再開発事業は、市街地再開発事業としての施行認可で法的にGOサインが出てしまったし、アセス審議会も事業進行中に適宜審査継続するとウヤムヤ通過しそうだ。どうなるおろうか。
 これから外苑再開発は本格的に動き出すようで、現場はもう板囲いに囲まれて、工事中雰囲気に満ち満ちているようだ。

●五輪外苑騒動史わが10年前妄想予測は当ったか

 このところ外苑前再開発について何やら騒がしい。あの有名人が反対してるからとか、あのいちょう並木が切られるとか、卑俗なレベルになって、急に世に知られるようになったらしい。と言っても世間的には東京あたりの人に限られるのであろう。

 そしてこれまでこの再開発計画は、10年前から立案が行政と事業者たちだけで密かに進められてきた、なんて、隠某論みたいなことを言う人も出てきた。
 それはそれで社会現象として面白いのだが、わたしに言わせると、実は不十分ながらも基10年前には基本的なことは公表されていたので、そこから今日の現象をある程度予想することもできたのだ。

 それなのに秘密裏に関係者だけでで進めたと世間が言うのは、要するに世間では都市計画なる公共的な空間計画制度にほとんど関心がなくて、知ろうとしなかっただけなのである。
 都市計画は身の回りの生活空間の将来像を示しているのだが世間は無関心であり、その都市計画が目に見える事業になってようやく気がついて、俺は知らなかったとか、秘密に進めたとかいうのである。

 10年前には外苑再開発の概略が分かっていた証拠として、2013年に書いたわたしのブログ記事がある。そのころにおきた外苑地区の地区計画という都市計画について、あれやこれやと指摘をしていたのだ。

 わたしはかつてフリーランスの都市計画家だったが、2013年には仕事の現役をしりぞいてしまい、ただの隠居老人だった。だから仕事を通じて特別に外苑地区計画を知っているのではなくて、ネット空間徘徊で素人でも知りうる情報により、批評やオチョクリや妄想やらを書いていたのだ。

 いまごろになり急にネット空間に外苑再開発がなんだかんだ登場するので、思い出して2013年のブログ記事を読み返してみた。
 おお、そうだったよなあ、今ごろ起きている問題をあの頃にもう予想もしているなあ、当たり外れもあるけど、われながら面白いなあ、フムフムと読んだのであった。

 これをお読みのあなたも、お暇なら長文だけどお読みくださいませ。

2013年12月【五輪騒動)神宮外苑都市計画談議1~10
http://datey.blogspot.com/2013/12/866.html

2013年~2023年【五輪外苑騒動】国立競技場改築騒動と神宮外苑再開発騒動瓢論集http://datey.blogspot.com/p/866-httpdatey.html

●神宮外苑再開発コンサルタントは答えよ

 いまイコモスの石川幹子さんから指摘されている環境アセスメントの問題だが、このアセスコンサルも日建設計だろうか。間違いだ虚偽だレベル低いなどと、石川さんにあれほど言われても表に出て答えないのは、答えられない事情があるのかしら?、専門家としてさぞや苦しいだろう、お気の毒になあ。

 神宮外苑再開発は誰がやっているのかしら、いわば雇われ事業者の三井不動産ばかりがやり玉に挙がっている感がある。
 しかし、本当の事業主は大地主の宗教法人「明治神宮」と独立行政法人「日本スポーツ振興センター」(JSC)であることは明白。三井不動産は再開発事業の権利者ではないようだから、都市再開発法が許す形式上の事業主である。それはそれでよい。

 だが、本当に事業主は土地所有トップの権利者は明治神宮である。第2の権利者はJSCである。第3、第4がいるが弱小権利である。ところが事実上の事業者の明治神宮と第2のそれのJSCがまったく表に出てこない。
 つまり、雇われマダム(マスター)の三井ばかりが表に出てくるから、反対運動者たちもこの目くらまし陽動作戦に誘導されて、三井ばかりをやり玉に挙げている。もちろん三井は忠実に役目を果たしているのだろう。

 ところで、世間の反対運動者たちは、どうして三井の雇い主である明治神宮やJSCを相手にしないのだろうか。直接に文句言うのは何か不都合があるのだろうか、あるいは作戦か。
 例えば最大権利者の宗教法人明治神宮にアピールするには、その本拠の神宮内苑にも行くべきだろう、初詣デモとか、、。
 あるいはJSCに文句言うのは、その親分の居る文科省にデモかけるとか、、。そもそも都市公園の計画決定を外したから可能になったこの事業の元凶は、文科省の子分のJSCなのだ。

 更にこの騒動の当事者として登場するべきなのは、それにこの市街地再開発事業にかかわるその専門家たちである。この再開発の計画から事業に至るには、都市計画家や建築家などの専門家が大きな役割をしているはずだが、どうして世間はやり玉にあげないないのだろうか?

 その専門家はどなたでしょうか?、少なくとも日建設計が関わっていることは確実ですよね、市街地再開発事業コンサルタント、都市計画家、ランドスケープアーキテクト、建築家など、全部の役割を請け負っているのかしら、ほかにも下請けの専門家も多くいるだろう。

 今話題のアセスについては、石川幹子さんから植生調査について論争を挑まれているのだから、その調査担当の植生専門家は堂々と名乗り出て、石川さんとの論争を受けて立ってはいかがすか、それが専門家というものでしょ。

 神宮再開発についての公的発表は下記にある。
●神宮外苑地区におけるまちづくりファクトシート(東京都都市整備局)https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/bosai/toshi_saisei/data/jinguu_factsheet03.pdf?230224=

神宮外苑地区のまちづくり(東京都都市整備局)https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/bosai/toshi_saisei/saisei07.htm

(20230430記)

2023/04/05

1681【春来てコロナ逝くか】まだまだ減衰していく波をいくつか経てから消滅するのだろうなあ

 


 とうとう春になり、桜も散りだした。地球の季節模様はほぼ予定通り変わるが、地球の人間模様のコロナパンデミックとプーチン戦争は、どうなるのだろう?
 3月末は年度代わりだから、この世間記録ブログの役割として、コロナも年度末状況を見ておくことにする。

 全国都道府県ランキング表を見よう。あい変わらず防疫王者の地位にあるのは鳥取県、以下は徳島、島根、高知と続き、ここまでで10万人台は終りになった。東北地方の秋田山形は20万人だに脱落した。

 どうやら日本のコロナ防疫先進地は中四国地方がよろしいということらしい。今後の日本人口移住は、そちら方面に動くかもしれない。もっとも単に県の総人口が少ないということもあるかも知れないが、つまり、人口が多いのは危険も多いと証明されたのだ。

 コロナは一段落らしく、御上からこんなお達しがでているようだ。

 コロナと言えばマスクだったが、オカミのお達しでは、マスク着脱は「個人の自主的判断にゆだねる」とて、つまり各人の勝手にいたせ、とのことである。
 と言われても御下賜アベノマスクから始まり、この3年間も覆面強要というか励行社会だったので、その癖が従順なる下々にはすっかり身についてしまい、マスク無しで街を歩くなんてストリーキングやってる気がするのだ。

 こうも世に席捲したマスクなるもの、新たな文化を生み出しただろうか。このブログをちょっと振りかえると、2020年9月に「覆面社会到来を妄想」する与太話を書いていた。
 例えば「鼻と口は陰部秘所になり、マスクしないと猥褻物陳列」なんて書いたが、そうならないでいるから大外れの与太話だった。あるいは、マスキズム思想が台頭して政治が大きく変革するとか、ま、どれも当たらないなあ。

 あるいは、会話が感染の最大危険行為だから、スマフォ音声のみで会話するようになるとも書いたが、当たらなかったなあ。マスク反対派が大きく台頭して、覆面派人類と非覆面派人類の戦いになる、これも当たらなかったなあ。
 ついでに真面目に考えたのに当たらなかった予測で最も大きいのは、「コロナ巣ごもりで人口増加」であった。人口減少の起死回生にコロナが貢献すると思ったのに現実は逆で、コロナで人口が減ったとは予想外だった。

 個人的には、コロナによって一般にマスクが大きく普及したことを喜んでいた。それは美女美男が街に増えたからである。どんな人でもマスク顔を見ると、その隠れている部分を想像することになるが、それは美女美男の幻想が働く。
 コロナのおかげでこの美女美男が増えて喜んでいたのに、マスク着脱自由となると元に戻るのは残念。せめて自分だけでもこれからもマスクを着けて、他人を不愉快にしないようにするしかない。でもだんだん暑くなるとそうもいくまいなあ。

 でも、本当にコロナはもう風邪並みなんだろうか、今の第8の大波は終ろうとしているように見えるが、その先でいつまた上昇するか分からない。これまでなんどもそうしたのだから、これでバタッと波が消えるわけがない。

 始めのころからの波の形を見ると、小さな波から次第に大きな波になって、今が最大の波である。これでもう波は来ないのだろうか。突然消えるのだろうか。まさかね。

 凡人の常識から考えると、これからコロナが衰えるとなると、これまでやってきた波の形の逆をたどるだろうと思う。つまり、まだまだ7~8回の波が繰り返して、だんだんと小さくなるのだろう。とするとまだ1年以上はコロナが居座るのだろうか。

 それを妄想グラフにするとこうなるのかしら、、期待はしないが、予想できる。

(20230404記)

2023/04/03

1680【来年の花は?】まったくもって世の中に絶えて桜の無かりせば、、な春だ

 遂に4月も3日になって本格的な春到来、今年の桜開花は去年よりも早いようで、3月半ば過ぎからこちらの心が落ち着かずに、花ばかり気にしているのは、今の自分の年齢のこともあるが、なんとなくコロナ明けという世間の様子もある。

 ほぼ毎日徘徊に出かけるが、今日も根岸森林公園の桜を見てきた。近くの森林公園には何度も行っていながら、春の梅の花はみても桜の花見は初めてだ。もう盛りを過ぎていたが満開の時はかなりすごい風景と想像することができる。来年の花見をするなら、ぜひとも盛りの時に来よう。

根岸森林公園の桜、狂気のごとく咲く花というのもしらけるものだ

根岸森林公園の花見

 今年3月末からこれで花見を目的とする徘徊(徘徊定義は無目的だから正確には徘徊ではないが)に、もう5回も出かけたことになる。
 花吹雪は波もいいものだから、まだまだ花見徘徊やれそうだ。大岡山キャンパスには2回も花見に行ったし、横浜の近くの大岡川も掃部山ももちろん、わが家から見下ろす花見もあるのだ。

大岡川の花見

自宅下に咲く花には小さな布の花も咲く


大岡山のキャンパス花見

 桜の花見に心が急くのは、何しろ花の期間が1週間もないから、花に追いかけられている感があるからだ。
 来年もあるから急がなくてもいいよと言われそうだが、それがわたしの歳になるとそうはいっていられない。八十路半ばとなると、来年も花を見られるかなあと本気で思うことが、まわりから起きてくる。訃報である。

 同年の親友のひとりが重病でこの1年を送っているが、彼からのメ―ルに「来年も見られるかな」と一言あって、ズキンと響いた。もう10数年前にも、ある親友が病床で同じことを言い、次の花を見ることはなかった。
 わたしがそういう時はいつだろうかと思う。何かもっと格好良い言い方を、今の内から考えておこう。

 コロナがやって来た次の年の2021年春に、願わくは花のもとに春死なんその如月の望月のコロナと狂歌を詠んだ。そして22年もそう詠み、今年も詠んだ。
 いつになれば最後の「ナ」を言わなくて済むようになるか。いや、その時が来たらもとにもどって、狂歌でなくなるから詠まないな。

 実のところはコロナ禍であろうとなかろうと、今やわたしはこの心境である。西行は73歳でこの歌の通りに春に死んだそうだ。しかしこの歌が載る歌集が世に出されたのは死の5年前だから、この歌を彼が詠んだのは少なくとも死の5年以上前だ。つまり68歳以前だから、わたしよりも15年以上も若い頃だから、偉いものだ。いや、昔はいまより若くて死んだものだから、実年齢は同年くらいなんだな、と思うことにしよう。

 老いると桜の花見の視線が変わる。母校の大学キャンパスの花見を同期仲間と毎年やっているが、その桜の樹がもうヨレヨレの老木なのである。樹幹は広がっているから花は大きく広く咲く。もう70歳くらいの超老木なのに偉いものだ。
 だが、花の下の幹を見ると黒々とひと一抱え以上もあり、ごつごつとして左右に凸凹とし、そこからいくつもの枝が、自由自在に上下左右に伸びる。地を這うように横に伸びる枝もあるし、半分皮がむけて筋肉が見える枝もある。
 そんな老木が花お咲かせているのは、どうも無理やりやっているような、それはそのままわれらが老いの無理矢理姿に思えてしまう。花見ならぬ幹見をして、気の毒になる。

大岡山キャンパスの桜 老幹にも一輪づつ咲かせる健気さ

 今年の花見の時は、コロナ明けともいえる時期に重なったから、なおさら感慨深い。本当にコロナが明けたとは到底思えないが、とりあえずは政府がマスクはいらないよと言ったから(本当に言ったかしら)、いつもは政府嫌いなのに、こんな時ははいはいと便乗していうことを聞いてしまい、マスクを外して人に会って喜んでいる。

 言い訳すれば、じつはそれには切ない心情が裏にあるのだ。そう、花に来年は会えないかもと思うように、人にも同じ様に思うのである。
 3月から急に親しい知人たちに会う機会が多くなった(多くした)。リタイアした仲間同士では特に用事があるでもないが、花と同じでいま会わないと次がないかもしれないから、今のうちに会おう会おうと言いあう。これでコロナがぶり返すかもしれない。そうなると本当に会えなくなる。

 一緒に花見酒を飲もうよと言いあっている人も多いだろう。だが、わたしはコロナで逼塞中に酒飲む気がなくなってしまった。コロナ前にはよく一緒に飲んでワイワイとやる人たちも、互いに敬遠しあうしかなかった。
 その時期がこれほども長くなり、わたしはひとりで飲むのもバカらしいままでいたら、酒の美味さも誰かと飲む楽しさも、どうやら忘れてしまったらしい。

 先日、久しぶりに大学時代の山岳部仲間7人で飲み会やった時に、わたしはビールをグラス一杯だけで後はお茶を飲んでいたが、それで十分に楽しかった。これは年寄りには懐にも健康にもよいこと思うと、われながら殊勝げで、かえって癪に障る。まあ飲まないでいいや。
 でも、なんだか他人とじっくり話す方法も忘れたような感もある。これは年寄りのボケが進んだということだろう。

(2023年4月2日記)


2023/03/26

1679【大岡山花見2023】毎年恒例人生最後の花見を今年も雨中ながらも決行

 毎年、大学同期仲間数人と、春になると母校の花見で一杯の集まりをやってきた。コロナ中も人数は激減したが、欠かさなかった。
 今年はコロナ忌が明けたらしいのだが、仲間に誘いメールしても反応がない。そうこうするうちに花は待ってくれず、咲き出したらしい。とにかく下見にでも行ってくるかと、自由が丘に用事を作って、そのついでという名目で出かけた。

 大岡山駅に1年ぶりに下車、地上に出ると、おお、なんということ、本格的にザアザアと雨が降っている。駅前広場に何やら露店が出ているのは、花見客を狙ってか駅前商店街イベントらしい、雨で気の毒。篠原建築の百年館はキャンパスランドマークとして健在。

 
   

 模様替え中の校門を入ろうとすると、大きなキャンパス案内板の展示、フムフムこれが最新のキャンパスか、全体の形は昔と変わらぬが建物は激変。
 でもこれが近いうちにまた激変するとか、なんでも田町にある付属高校を緑が丘にもってきて、田町の高校跡地にの校舎や貸室の超高層ビルを建てて、こちらから一部学部など移転するとかで、建築系もこ田町に移すらしい。そうだ、近日中に大学名も激変らしい。





















 校門あたりから見る雨で何となくうす暗い風景の間に、桜の花の華やぎがほの見える。手前左にあるクマ建築が邪魔、お前のせいで桜も本館もろくに見えないぞ。















 
 本館の正面に回ってバックして階段を上って全体を見る。左のクマの滝プラザは変な格好だなあ、屋根に木を植えるなら、白壁にツタをまとわせてはどうか。中央に本館前桜広場、右に図書館。今年の桜は花は去年よりも何となく密度があり、まとまっているような。去年の老桜の枝枝はもっと暴れていた記憶がある。






















 本館前の花の広場は、花でおおわれてしまっている。今年の老桜はなんだか頑張っているみたいだ。何か老いを止める治療でもやったのか。





















 たしかに去年まではもっと暴れた枝があちこちに跳ね上がっていた。どうやらそれなりに剪定されたらしい。そしてそれに応じてどこやら行儀よく咲き誇ったらしい。雨が降りしきるのに合わせて花びらも散り敷きつつある。
 カメラもリュックサックも肩もズボンも雨に濡れる。まあ、花の下の暗がりでしっぽり濡れるのも悪くないと思うが、一人なのが残念だ。それにしても老桜の幹の迫力というか、けなげというか、老残というか、わが身を見るがごとき。


 左に列植してある若木の桜がこの老桜にとって代わる頃を、わたしが見ることはもちろんない。わたしがこのキャンパスに初めて来た頃、今の老桜があの若木であった。





















 スロープ下に2軍ともいうべき桜並木が色とりどりに咲き誇っている。

 スロープ途中から、谷口吉郎建築と清家清建築に敬意を表しつつ、雨中花見をする。


 緑が丘方面へとトンネルをくぐり、呑み川の橋を渡りつつ、坂を登りつつ宇宙花見を続ける。実のところは、雨に負けてもうやめたい気分でもあったが、ここまで来たらいつものコースを行くぞと、意地になってきた。






















 緑が丘上から呑川にかかる木造橋の手すりに触れるばかりに、土手に狂気のごとく咲きそろい、絶え間なく雫を垂らす花々を見つめる。濡れた妖気が漂う。
 緑が丘の上から裏門に向かって下る道から振りかえってみる。昔々大学寮からこの坂道を歩き下って、緑が丘や自由が丘の街に出かけたものだ。今はこの一帯は建築系のエリアらしいが、遠くないうちに付属高校になるとか。そうしたら建築系は入れ替わって、田町に移るらしい。いつ頃のことだろうか。

  裏門を出て街から振り返る。裏門というには立派過ぎるほどに大きくなっている。

   緑が丘の「緑が丘百貨店」という市場は昔もあった気がする。健在である。





















 緑が丘駅は立派な高架駅である。この効果の下をくぐって向こうに行けば、そちらにも裏門ができている。





















 これで今日の雨中単独花見はおしまい、また晴れた日に仲間と語らって出直し、花吹雪を浴びようか、それとも葉桜見物でもやりたいものだ。(20230325記)

(20230329追記)
 物好きにも3月29日に今年2度目の大岡山花見をしてきた。この前が雨だったので、晴れた日に見ておこうと、同期同クラス仲間も誘ったら5人が集まった。その中には私と同様に2度目が一人いた。晴れたり曇ったりだったが、桜はやはり雨より晴れた空のもとで見る方が美しい。





























 ついでに2018年の参加者も見よう。故人となったものが一人いる。



1678【創宇社建築会創設百年】関東大震災の余燼の中に立ち上った若者たちの建築運動グループ

 1923年9月1日の関東大震災、今年はそれから100年、天災は今も盛んになるばかり、関東大震災100年で何か大きなイベントがあるだろうとは予想できる。
 その大震災の余燼がくすぶる中の東京駅前、中央郵便局裏の掘立小屋で若者建築家たちが、建築運動のグループ「創宇社建築会」を立ち上げた。それから百年目になるので、誰かが何か記念行事をやるのかなと、ちょっと期待を持っていた。

 3年前の2020年に「分離派建築会100年展」なるものが分離派100年研究会によって、開催された。建築史界では、創宇社建築会をその分離派の亜流のごとくにを位置づけているようだ。
 創宇社建築会が創設100年目にあたるなら、こちらも研究会を作って何か展覧会とかシンポジウムをやるだろう。どうせなら研究を推し進めて、亜流説を脱するような展開があると面白いだろうと思っているのである。

 そんなところにドンピシャ、『創宇社建築会100年研究会 第1回シンポジウム「建築運動」を語る  アーカイブズをめぐって』への参加お誘いが、名古屋市立大学の佐藤美弥さんから来た。3月25日、東京都市大学世田谷キャンパスである。


 おお、やっぱりこちらも100年目イベントがあるか、分離派ほどに有名エリート建築家グループではないので、世間が知らないのは当たり前としても、建築界、建築史界でもどれほど興味持つのだろうか、特に若い建築家たちが知っているだろうか、それがわたしの興味の一つでもある。第2回、第3回へと期待する。

 分離派が東京帝大出の石本喜久治、堀口捨巳、山田守らの、後に有名建築家になるメンバーたちに比べると、創宇社は帝大出は一人もいない。後に有名建築家になった海老原一郎がエリート学校といえばそうである東京美術学校出であるのみ。
 会のリーダーの山口文象は後に有名になったが、東京職工徒弟学校出であったし、多くが実業専門学校出であった。これらの出自のせいであるということもできないだろうが、これらふたつの会の活動の展開方向がおのずから異なっていったのが、実に興味深い。

 コロナでこのところシンポジウムとか会合参加はZOOMやU-tubeばかりで、参加度合いが浅いままに終わるから不満がたまる。たとえ自分の発言がなくても、実際にその場の雰囲気で面白度合いも理解度合いも大いに異なる。ズームやっててムズムズしてきた。
 そんなところにこのお誘いで、ちょっと顔を出して知ってる人たちに会うかもしれないなと、久しぶりにちょっとうれくなって参加した。この3年間ロクに遠出していないから、子どもの遠足の気分でもある。

 せっかくだから久しぶりに会った旧知のお方たちを書いておく。会場参加者は全部で20人ほど、ネットではどれほどか知らない。
 挨拶した順に、岡山理香さん、佐藤美弥さん、鈴木進さん、山口勝敏さん、山口麗子さん、小町和義さんである。
 4年ぶりの小町さんには驚いた。山口文象の最後の弟子で95歳のはずだ。こういう会合に参加するとほとんどの場合、わたしが最高齢になってひそかに当惑するが、今回は小町さんにその地位を奪われた。小町さんから「北鎌倉の宝庵に一緒にまた行きたい」と誘われてしまった。う~む、元気すぎるお方だ。

 さてシンポジウムの内容である。「アーカイブズをめぐって」京都大学の西山卯三、東京都市大学の蔵田周忠、建築家竹村新太郎が、それぞれ遺した資料についての各報告、次いで討論や質疑であった。
 いずれの資料も近現代の建築や社会を語る歴史的資料として貴重であると分ったが、その膨大な数をどのように評価し、どう整理して、世にどう公開するか、課題はいっぱいらしい。特に公開するときのプライバシー問題が深刻らしい。

 わたしは研究者でも学者でもない趣味人だから、聞いていて気楽なものである。わたしが建築家のアーカイブズらしきものにかかわったのは、建築家山口文象が遺したRIAにある資料である。山口は西山や蔵田と違って資料を積極的に保存する性格ではなかったが、それでもかなりの点数がある。

 それらをアーカイブズとして保存し、時に外部からの閲覧に対応するには、それなりの組織体制と人材が必要である。
 わたしがRIAにいるころに、その基礎的な仕掛けは作っておいたが、大きくもない民間組織でアーカイブズ化をどこまで可能か。わたしがRIAを出てから収集した紙資料類は、RIAの文象アーカイブズに数年前にエクセル目録と共に全部納めた。
 この創宇社建築会100年という節目で、また山口文象資料への需要が出るかもしれない。シンポ会場にRIAの若い人が3人来ていたから、文象アーカイブズに取り組むらしく、頼もしくも楽しみだ。

 わたし個人としてもアーカイブズがある。ほとんどデータ化してネット空間とPCディスクに入れてある。そのうち山口文象関係に関しては、そのサイトでわたしに自主研究遊びとして公開しているが(山口文象+初期RIA)、個人趣味のサイトだから勝手なものである。
 しかし、大学あるいは企業のような立場でのサイトでは、わたしのような勝手な個人と違って、著作権や版権あるいはプライバシーに厳重に配慮しなければならないから、半端では公開できないだろう。

 実を言えば、わたしの山口文象関係のサイト掲載分もPC内データ分も、勝手な言い分だがどこかに引き取ってもらいたい気がしている。わたしはこれらの維持管理が不可能になる日が、もうすぐくるに違いないからだ。
 その時にすべて消滅させてもわたしはかまわないのだが、ちょくちょく院生や学生から問い合わせがあるように(最近は東北大のドクターコースの人から高松美術館についてのインタビューを受けた)、もしかして誰かが研究用に使うこともあるなら、どこかのアーカイブズに今のうちに引き取ってほしいとも思う。

 シンポジウムの主催者側の佐藤美弥さんが、創宇社建築会の本「創宇社建築会の時代 戦前都市文化のゆくえ」を今月末に上梓するとのことである。最上の創宇社建築会創立100年記念になった。http://yoshidapublishing.moon.bindcloud.jp/pg4784863.html

 そういえば思い出したが、創宇社建築会リーダーの山口文象にその出世作となる黒部第2発電所とダムの設計にあたらせた人は、日本電力技師長の石井頴一郎だった。後に関東学院大学の教授になり、その遺した資料が大学の図書館に寄贈されたと聞いたことがある。山口が関わった黒部川や庄川のダムや発電所などの資料があるはずなので、閲覧したいものである。寄付されてしばらくはまだ整理されていないので非公開だったが、もう10数年たつからアーカイブズとして公開されているだろうか。
                      (20220326記)