2026/09/27

1976【老酔碌(終)・耄碌PC】PCも持ち主も共に老いにけりオークションにて調達すべし

  自分の老酔碌をPC(パソコン)に書き綴っている。そのPCも持ち主のわたしと同じように老いてきたらしい。立ち上がりに時間がかかる、ネット反応が遅いし、時に勝手に休んだり、突然に再起動したりするようになった。わたしよりも老いているぞ。

 この耄碌PCを、リハビリで若返りさせるのは面倒なので、もうちょっと反応が速いものを買い入れた。新品をウン十万円もかけて購入しても超高齢持ち主がすぐ死ぬ可能性もあるから、それではもったいないし悔しい。そこで、その方面に詳しい旧友T君に相談し、ネットオークションで中古品を2万円で落札してもらった。立ち上げに迷うのは面倒なので、これまでと同じダイナブックである。

 落手したのは9月7日、それから面倒な初期設定をボチボチヨロヨロ腹も立てながらやってきて、昨日9月26日、20日もかけてまあこれでいいやと思う状態にようやくなった。まったく手間のかかるやつだ。買ってすぐ使える商品じゃなくても平気で売るのがこの業界の常識だ。困ったもんだが、でもまあ卒呪老人の呆け進行遅延策にはなる。

3台のノートPC 左から2012年、2026年、2022年購入

 さすがに立ち上がりは早いし、途中で止まることはなくなった。当たり前だ。上の写真の中央にみるような、これまでの見慣れたデスクトップ画面になるまでには、あれこれ面倒なことをやらされた。いわば新飼い犬のしつけである。

 その最初は、所有するWi-Fiルータへの接続だった。ルータの長い長いパスワードを何回打ち込んでもつながらない。やり方が違うのかもしれないと、T君に問い合わせて教えてもらうなど他人にも迷惑かけた、すまん。息子に頼もうかと考えたりしたが、結局はこれが最後と何十回めの念入りに確かめPW入力で、やっとつながったときは歓声を上げた。

 次の苦労はMSWORDである。これまでMSOffice2010を使ってきているので、今回購入PCにはオフィスをプレインストールとあるから落札したが、実は似た別物WPSWriterなるものだった。それでこれまでのWord文書は動くが、操作は同じではなく使い勝手が違う。

 わたしは図形を扱うよりも主に長文をかくのだが、その物書きを円滑にできない。印刷の設定も違うところがある。それでは困るから、所持している古いOffice2010のディスクからインストールした。これでもう一歩進んだ。

 もっとも頭を悩ましていたのは、デスクトップ壁紙カレンダーである。これまで20年以上も使ってきた軽量のアプリがあが、どうやってもインストールできないので、新たに無料壁紙カレンダーをあれこれ探したが、どうも気に入らない。また初心に戻ってアプリマニュアルをじっくりと読んで、じっくりとやっていたら新PCで目を覚ましてくれた。手がかかる。

 わたしの最も大きなPC利用目的は、手仕事で自作本を作る趣味である。2010年5月に思いついて本づくり趣味を始めた。それ以来もう2~300冊の手製本を発行してきた。だからプリンターの作動との良好な連携できるかどうか、大きな危惧であった。

 これは意外に簡単にWi-Fiつながり、さっそく試験的に一冊の歌集本を作った。その本は題して「九十路今日歌抄」(読みは”クソジイキョウカショ”)である。実は丁度9月末応募締め切りで某出版社主催の歌集懸賞募集があり、これを応募した。詳しくはそれに入選してから語ることにする。

試験駅的に1冊の歌集を制作、懸賞募集に応募

 それにしてもわたしのPC歴は長い。1988年のMACからはじまり、Win95、98、ME、CE、XP、7、10 、そして今のWin11へ、何度も何度も買い替えさせられ、これまで何台のPCを使いつぶしたことだろうか。

 ポケコンやワードプロセサも数えると、さらに多くの電子器機を使いつぶしてきた。最新PC調達で、大学同期仲間とのZOOMもこれで付き合うことを続けられそうだ。
 だが思うに、たぶん、これでわが卆呪九十路の最後のお供だろう。

PCも持ち主も共に老いにけりオークションにて調達すべし

(2026/09/27記)

ーーーこのブログ内の関連記事ーーー

2020/01/10・1438【怪しいハイテク】Win7が3段飛び10 に…https://datey.blogspot.com/2020/01/1438.html

2022/08/05・1638【怪しいハイテク】超高齢PCの後継機を…… https://datey.blogspot.com/2022/08/1638pc.html

ーーー老 酔 録ーーー
米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡/老酔録 https://datey.blogspot.com/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

2026/09/15

1975【老酔録㊿介護認定】これやこの呆けも呆けぬも分かれては病むも病まぬも老い坂の関

●介護認定面接テスト

 介護保険による介護認定を獲得するための面接テストを受けた。何しろ卒呪だから、それ相応の身体的不具合が進行している。赤瀬川原平流に言えば老人力の増強である。そこでいつ呆けて転んでも、介護保険をすぐ使えるように準備することにしたのだ。そしてまた、これまで支払い続けている巨額の介護保険料を、取り戻すのだ。

 最も認識が顕著な老人力増強現象は、歩行速度低下である。普通なら時速4kmだが、わたしは今やせいぜい1km/hである。突然にそうなったのではなく、この半年くらいの間にじわじわと毎日その退行を自覚する。抵抗して毎日長時間徘徊に出ているのに、無駄だった。

 昔から歩くのを大好きで、毎日徘徊するから、その速度退行がよくわかる。早く歩こうと思っても、どういうわけか足の奴は前に出てくれない。さらに困惑するのは、踏む地面や床にスポンジ板が敷いてあるらしく、足元に何となく不安定感があるのだ。

 このまま歩き続けると、今に転倒するだろう。亡妻が自宅介護に陥るきっかけは、公道上での転倒・救急搬送だった。以後転倒を繰り返して半身不随となり、息子とわたしによる3年余の自宅介護看護の末に逝った。原因は脳内血腫にあると分ったのは死の半年前だった。

 それを思い出すと、いま自分もその後継時が目前にあるようだ。今のうちに介護認定をとって備えておこうと思う。認定申請手続きを息子がやってくれて、今日、市の区役所から担当者が、介護認定面接テストに自宅にやってきた。、たくさんの質疑応答した。

●面接テスト問答

 質問はどこの誰にでも同じだそうだ。気になった質疑応答を書く。
「5分前のことを忘れていることがよくありますか」
「う~む、そんなことがあるのかどうか、わかりませんね。独り暮らしだから、他人に指摘されることもないからね」

 「ではこんな質問をします。ここにお見せする三つのもの、腕時計、ボールペン、手指のイラストを覚えておいていただき、5分後にそれらが何であったか伺いますので、よろしく」
 「はい、覚えました」 しばらく質疑応答いくつかの後、
 「5分経ちました、先ほどの三つのうち、腕時計とボールペンの他は、何でしたか」
 「えっ、3つとも聞いてよ、せっかく覚えてるのに、、、手指のイラストでした」

 「台所で鍋焦がしをしたことがありますか」
 「ありますが、そんな時はガスが自動切断するレンジだから、問題ありません」
 わたしの答えは、正しい答えになっていないのだった。訊かれているのは設備のことではなく、わが脳の忘却能力のことだった。問題あるのである。

 身体能力についての動作のテストは、そこらあたりを歩くこと、片足で立つこと(立てない)、両手を左右に広げたり上にあげること、椅子に座って脚を前に水平に伸ばすこと、等。こんなときはついつい正常に見せるように頑張るのが人間の癖だ。

 でも、ここでは介護認定を取得するためだから、いかに能力が退行しているか、それを見せねばならない。それはなかなか難しい。仮病を装うには芝居を下手である。このテストが実は最も難しかったと言える。

 たとえ転倒しても介護保険をすぐ使いたい。だからこのテストを受けているのに、元気に見せて軽い認定では意味がない。かといって下手な芝居で担当者を騙すこともできそうにない。矛盾した心と行動に戸惑う。しかし、相手は専門家だから、多くの老人テスト例から適切に察して判断してくれるのだろうと、思うことにした。

●知るも知らぬも老い坂の関

 こんな会話もした。相手の面接テスト係は、中年女性である。
 「お歳にしてはかなりお元気ですね」
 「あのね、その言葉をよく聞く歳になりましたが、高齢者をほめる儀礼的文句ですよね。そう言われる歳になってみて初めて分ったのですが、それを聞くと腹が立ちますね」
 「あ、ごめんなさい、でもどうしてですかあ」
 「褒誉め言葉のように思うでしょうが、言われるこちらは反対に、”この人はその言葉の前提としてこう思っているに違いない、あなたはもうよれよれ爺ですよ、それなのに格好つけて……、と実はけなしているんだ”、と思うのです、まあ、年寄りの僻目ですがね」

 さて、吉と出るか凶と出るか、いや、そうじゃなくて、要支援とか要介護とかのランキングに入るものかどうか。今日のテスト結果を、認定委員会にかけて、一月後くらいに結果が出るのだそうだ。待ちきれずにその前に、どこかの劇場ホールの手すりのない客席階段状通路で転げ落ちる予感、、衆人環視で杖もろともに・・・。

どこも手摺なしで足弱には超怖い劇場客席の階段状通路

 このテスト問答は人生の最後に通らねばならぬ関所の通過儀式の感があった。この逢坂ならぬ老い坂の関で誰もかれもが検問チェックを受けて、その旅の終わりへと足を踏み出して行くのだ。もちろん、関所破りピンピンコロリもいる。ふと思った、これはかつて二十歳で受けた徴兵検査の現代老人版だな。

 そこで本歌取り狂歌を一首(蝉丸さんごめんなさい)。

これやこの呆けも呆けぬも分かれては病むも病まぬも老い坂の関

(2026/09/15記)

(2026/09/25追記)
 かかりつけ医に月例の診察に行ったら、介護認定テストを受けさせられた。30問だったが記憶問題が2つあった。「これからいう三つの言葉を覚えてください、このあとほかの質問回答の5分後に又聞きますから答えてください」。やがて五分後のわが答え「さくらねこでんしゃ、でしょ」

 もうひとつ記憶問題は、目の前に鉛筆、ハサミなど5つの小さなものを並べて見せられ、すぐに布をかぶせて、何々があったか全部を答えよという。これに4つしか答えられなかったのだ。悔しいから「一つくらい忘れないと89歳の年齢に反しますからね」

 これはボケ度認定らしく簡単な30質問のうちの29問に正常回答できた。「認知症がないから要介護ではなく要支援2になるだろう」と医師が言った。歩行速度低下だけ認定OKの対象らしい。

ーーー老 酔 録ーーー
米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡/老酔録 https://datey.blogspot.com/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  

2026/09/14

1974【能楽見物】横浜能楽堂再開祝いの舞台は獅子2頭が牡丹の花に舞い遊ぶ能「石橋」(しゃっきょう)

 横浜能楽堂に2年ぶりに能楽見物に行ってきた。工事で休館していて、このほど再開したのだ。コロナ中もそれが終わっても能見物に行けない日々は、30年以上も見てきた能楽好きには、禁断症状が出そうだった。  

 見所(客席)はほぼ満員だった。演目狂言「鍋八撥」と能「石橋」で、どちらも再開場お祝いにふさわしい演目らしい。だが、内容はそれほど面白いものではないが、「石橋」の後場の獅子の舞いだけが楽しかった。

 能「石橋」(しゃっきょう)では、2頭の獅子がボタンに花に舞い遊ぶ勇壮な相舞も、甲高い音で弾み響く笛も、実に楽しかった。能にはよくあることだが、つまらない眠くなる前場を我慢した甲斐がある後場だ。

 これが歌舞伎舞踊に翻案されて、派手な毛振りの「連獅子」になっている。歌舞伎狂言の「勧進帳」も能「安宅」からの翻案だが、武士の能と庶民の歌舞伎との基本的違いがよくわかって面白い。 

 出演は、狂言が大蔵流山本東次郎家、能は観世流梅若家で、もう30年以上も能を見てきたわたしにも、能役者も囃子方も見たことがない人ばかりだ。それはコロナ中から始まり、横浜能楽堂休館による、能楽見物から強制的に遠ざけられた期間が長かったからだ。

 唯一の例外は、能ワキ方の宝生常三だった。パンフにあるこの名を知らなかったが、舞台上には昔からよく見てきた森常好が出てきた。はて、急な交代役か、と思ってみていた。後でネットで調べたら、祖父がワキ方宝生家の能役者であり、最近その名を継いだそうだ。わたしより若いのに舞台上の所作があやしい、老いたか。

 一応出演者の名を書いておく。
・狂言「鍋八撥」(大蔵流)
 シテ(鍋売り)  山本則重、アド(鞨鼓売り) 山本則秀、
 アド(目代) 若松隆、後見   水木 武郎

・能「石橋 大獅子」(観世流)
 シテ(童子・白獅子) 梅若紀彰、ツレ(赤獅子)梅若景英
    ワキ(寂昭法師) 宝生常三、
 アイ(せがれ仙人) 山本則秀
 笛:杉信太朗、小鼓:飯田清一、大鼓:柿原光博、 太鼓:林雄一郎
    地謡:山崎正道、馬野正基、伊藤嘉章、角当直隆、
                 松山隆之、谷本健吾、川口晃平、土田英貴

 能楽堂は2年間も工事をしたというのに、見たところではどこも変わっていないのは、耐震補強工事だったかららしい。ついでに内装もどこか変えたのだろうか。ここの一階メイン客席の床が、緩やかな勾配だから年寄りには安心だ。これを改装しなくて安心した。
 ついでに書くと、ここの隣にある県立施設の二つのホールは、階段だらけで実に使いにくいので近頃は敬遠している。改装して階段に手すりを付けてほしいものだ。
 能楽堂の話に戻ると、いまどきだから女性便所の便器数増加をすればよかったろうに、相変わらず女便所だけが長蛇の列だったのは残念だ。

横浜能楽堂


(20260914記)
ーーーこのブログの関連記事ーーー
趣味の能楽鑑賞瓢論集

ーーー老 酔 録ーーー
米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡/老酔録 https://datey.blogspot.com/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

2026/09/07

1973【老酔録㊾大往生】大学山岳部同期仲間の白川秀樹君(ノーベル化学賞)がピンピンコロリ

 2000年ノーベル化学賞を受けた白川英樹君が、8月24日に永眠した。合掌
 彼とわたしとは大学山岳部の同期仲間であり、1950年代末の学生時代は一緒にあちこちの山に登った。しかし専攻が全く違うので、彼の栄誉の専門的なことは何も知らない。

東京工業大学山岳部白馬岳合宿 1958年5月1日撮影
前列左から5人目が白川英樹君、後列右から3番目が伊達

●白川君の緊急入院の朝のこと

 実はこの8月17日朝に、白川君とカリフォルニア在住の友人とわたしの三人でZOOMをやっていた。そこに夫人と一緒に顔を見せていた白川君は、「今から入院するので、さようなら」と言って、すたすたと歩いて画面から立ち去って行った。

白川英樹君入院の朝のZOOM画面(下段) 2026年8月17日

 白川君はこの日のZOOM予定を約束後に、健康診断で重篤な病が見つかり、この日の朝の急遽入院に決まったが、ZOOMには参加してくれたのだった。その律義さに頭が下がった。
 「行っていらっしゃい、退院を待っているよ、戻ってきたらすぐ続きのZOOMやろうよ」と送り出した。

 その後に院内または退院のメールが来るかと待っていたが、来ないままに気をもんでいた。8月31日になって白川君の子息からメールが来て、24日に永眠との訃報であった。ズーム画面から歩いて出て行って、わずか一週間後だったか。合掌

 そのズーム前の日程決めのためのいくつかのメールやり取りから察すると、白川君も自分が入院するほどの重篤であると気が付かないままであったらしい。なにしろ8月10日前後には、かれが力を入れていた科学教育のイベントに、遠くに出かけていたとあったからだ。
 そう、彼の死こそがわれらが理想とするピンピンコロリだ。

●大学山岳部同期「Q人会」のこと

 わたしは白川君とは、1961年大学卒業後はまったく違う道だったので会うこともなかったが、2000年のノーベル賞受賞を新聞トップで知った。新聞の顔写真を見て、あれ、この人知ってるよ、同期の白川君だよ、と家族に叫んだものだ。急いで記事を読んだ。

 それからの彼は超忙しい状況にまきこまれたようで、わたしたち山岳部同期仲間による祝賀会は控えていた。そのほとぼりが冷めた7年のちになり、1961年卒業の山岳部同期仲間の当時の生き残り9人で集まり、ようやく白川君祝賀会を開いたのだった。日比谷の松本楼だった。それを機に「Q人会」なる山岳部同期会をつくり、ときに集まり飲み会をやってきた。

Q人会メンバー勢ぞろい 左から4人目が白川君 2019年5月

 その仲間のひとりが、USA市民権を持っていてカリフォルニアに住んでいる。年一回の日本訪問旅行の機会を、Q人会全員の集まる日としていた。そして、わたしは「本作り趣味」を生かして、「Q人会誌」なる年刊の冊子を作って、仲間に配布してきた。(参照:Q人会誌目次)

 しかし、コロナパンデミックで集まることが難しくなり、PC画面でZOOMによる隔月に画面集会を開くことにした。このシステムは、カリフォルニアからも気軽に顔を出すし、高齢で移動困難になっても集まることができる。コロナのおかげだ。時々は全員ではなく、必要なものだけでZOOMを使うこともある。上記の白川入院の日がそれだ。

 最初9人であったから9人会ならぬ「Q人会」と名付けたが、これで2人が消えた。7人会だが誰も改名しようとは言わない。ただし、もう卒寿前後ともなると、PCの扱いが不調になるものあってZOOMは事実上は6人会、そのうちに5~4人会になるのは仕方ない。

 わたしも山岳部だった由縁か、脚は丈夫で歩くだけが得意だったが、近頃は衰えて時速1キロ程度に落ち込んでしまった。もう何があって驚かない卆呪という歳だが、白川君のピンピンコロリ大往生には、驚くよりも大いにうらやましく、わが憧れの逝き方である。

●白川君の人となりを知るには

 白川君は生真面目ないかにも研究者らしい風貌と物言いであった。大学山岳部で一緒に日本アルプスの山々に春夏秋の合宿に一緒に行った。真面目に黙々と歩き登り、写真をたくさん撮ってくれた。

 白川君の人となりについて、最近の彼についての新聞記事にあれこれと載っているようだ。白川君自身が語る彼自身に関することを書いた文章が、わたしが編集した東工大山岳部同期会「Q人会誌」に彼のいくつかの寄稿がある。

 学生時代にはまだ少なかったカメラを持っていた彼が、山岳部合宿で撮った仲間とのたくさんの写真は「Q人会誌2018」に寄稿している。1960年3月には剱岳に春山合宿に行った。積雪が深く長い早月尾根を、キャンプを順々に進めて行くポーラーメソッド登山を行い、最後にアタック隊が登頂に成功した。その合宿中の素晴らしい一枚をここに掲載する。

「劔岳三ノ窓の月」 1960年3月 白川秀樹撮影

 また「Q人会誌2018」に寄稿した単独行冒険譚「北海道無銭旅行ー知床半島一人旅」が面白い。「Q人会誌2019」掲載の「アメリカ留学雑記」は、この留学がノーベル賞への大きな役割だったようで、共同受賞者も登場する。

 そして白川君のノーベル賞までの生き方や未来への思いを書いた「思索のノート」(「Q人会誌2018」掲載)は、実に興味深い。それを白川英樹 著『思索のノート 』をエッセイ集の私家版の本として制作した。 

 (2026/09/07記)

ーーこのブログ内の関連記述ーー

【Q人会誌総目次】(2017~2023)

ーーー老 酔 録ーーー
米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡/老酔録 https://datey.blogspot.com/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

2026/09/03

1972【地球破滅中】巨大山津波の破壊力を建設力に変換する能力がネパールにあれば・・・

 ●ネパールで巨大山津波発生

 日本ばかりではなくて今や地球は災害惑星らしい。いま日本列島では豪雨による水害で大変である。ところがネパールでは雨も降らないのに、巨大水害で大勢の死者行方不明者続出だそうだ。ヒマラヤ山脈と氷河を抱える地勢のせいらしい。

 8月26日のこと、ネパール・チベット国境あたりの、ヒマラヤ山岳氷河が崩壊して、巨大土石流が急峻峡谷を流れ下り、沿川の自然と人間の暮らしを破壊しつくした。今のところ全貌は分からないが死者100人を超え、不明者5000人以上ににもなるらしい。

 わたしはネパールに遊びに行ったことがある。2011年の3月末から4月にかけの1週間ほど、そう、東日本大震災の真っ最中だった。「われら年寄りは日本にいても手足纏になるだけだから、海外に避難しよう」という理由をつけて、大学同期仲間4人で遊びに行った。

 そのころ東日本では、震災のために停電が毎日のようにあった。ところが行った先のネパールでも毎日停電時間があった。災害ではなくて慢性的電力不足のせいだった。日本でも昔々戦争直後のころにはそうだったことを、ネパールで追体験した。

 その旅のことを、このブログにも載せている(こちらをクリック)。カトマンズの街の過密さと建物の脆弱さを見て、こう書いていた。

 ネパールの全人口は2300万人、一極集中カトマンズ首都大都市圏エリアはこの20年でも倍増の勢いでその13パーセントの300万人が住み、カトマンヅ盆地には100万人近くも住んでいる。ここで大地震が起きると大変なことになりそうだ。海からの津波はないが、ヒマラヤの氷河湖が決壊したら、山の上から津波がやってくる。一方、原子力発電所はないから、その点での危険性はない国である。

  ところがその後に、こう書いた大変なことが起きた。4年後の2015年4月に、カトマンヅ北西7キロのあたりを震源とする巨大地震が発生、首都も大きく破壊された。そして今回の巨大土石流の、山津波がやってきたのだ。ただし今回はカトマンヅは被災地ではないらしい。


●ランタンリルンの氷河崩落し峡谷を急襲

 今回の山津波発生源は、ヒマラヤのランタンリルン峰(高さ7200m)の北側のようだ。標高5,200mあたりで起きた巨岩の崩壊がもとになり、急峻な谷沿いに氷や岩や土砂を巻き込みつつ、標高差4,500メートル以上を猛スピードで一気に駆け下った氷と岩の泥流は、20~70キロ以上先まで集落や道路、橋、国境検問所、水力発電施設を丸ごと飲み込み、寸断、破壊、流失させた。

 発生の翌日からネット上には現地山津波動画が次々と掲載されてきた。わたしはTVを持たないからPCのFB(FaceBook)、YT(YouTube)、Xなどを一日中見て過ごした。それは2011年の東日本震災で東北地方海岸部が津波に襲われる動画を見た日々を思い出させた。



 その発生源あたりをグーグルアースで見ると、どこもかしこも同じような氷河と急峻山岳だから、今後も同じようなことが起きるに違いない。 日本列島が周囲の海からの津波の危険にさらされているように、ネパールは北のヒマラヤからの山津波の危険にさらされている。 

 上の山津波が駆け下ったルートの下流部と、2011年のわたしのネパール旅行ルートの一部は重なっているようだ。あのカトマンヅからポカラへのバス旅で見たいくつかの街と道と川や橋はどうなったのだろうか。
2011年ネパール旅行行程図 カトマンズ・ポカラ・ルンビニ400キロバス旅

2026年8月26日山津波発生源あたり ランタンリルン google earth

●巨大土石流の破壊エネルギーに圧倒
 
 そして巨大な暴れ龍のように流れ下り、建築も橋梁も消滅させるほどの猛威を振るう土石流を見ていて、その破壊エネルギーに圧倒された。このエネルギーはどこから湧き出すものだろうか。昔々に中学校あたり教わった「位置のエネルギー」というものだろうか。

 この位置のエネルギーを電力エネルギーに変換する仕掛けが水力発電所だろう。ということは、ネパールには実は超豊富なエネルギーを潜在させていることになる。石油とどう比較できるのかわからないが、あの最貧国は実はエネルギー長者国なんだ、う~む。
  
 2011年にネパールに行ったときに、上記のように停電が常態だった。日本語学校の社会人生徒たちと食事する機会があった時に聞いた話がある。ネパールには川は多くあるが、発電所が少ない、その重要な理由の一つに、どの河川もその下流はインドに流れ込むが、そのインドに水利権を抑えられていて発電所設置が難しいからという。歴史的な何かあるのだろう。

 せっかくの巨大な位置のエネルギーという資源を抱えながら、それが破壊に使われるままとは、あまりにもったいなさすぎる、何とか利用できぬか。YOUTUBE動画でその凄まじい破壊風景を繰り返し見つつ、またランタンヒマールの様相をグーグルアースで探検しつつ、こんなことを思った。

 もちろん素人考えに過ぎないが、水をインドに垂れ流しのままとは、なんとももったいない。ネパールに有り余る自然のエネルギー資源を、人間の動力エネルギーに変化して使う能力はありそうなものだろうに。技術はあるが資金がないのかしら。

●ヒンズー教の火葬寺院

 さてネパールでもチベットでも多くの死者があるらしい。それで思い出したのが、ネパール旅行で立ち寄ったカトマンヅのパシュパチナート寺院である。ネパールのヒンヅー教徒はこの寺院の川辺に並ぶ火葬場で死者を灰にして、そのバグマティ川に流すのだそうだ。今はその煙が立ち込めているだろうか。合掌

ネパール パシュパチナート寺院の野外火葬場 2011年撮影・伊達美徳

パシュパチナートのバグマティ川と火葬場

カトマンヅ市内のバグマティ川(パスパチナートの下流)

 せっかくネパールに来たのだからと、ポカラからヒマラヤの峰々を眺めるサランコットという山の頂上に、早朝にやってきた。その雄大な峰々の夜明けを眺めてきた。その時は考えもしなかったが、今起きている巨大山津波は、これの右のほうにも連なるヒマラヤから起因するものだ。
ポカラから見るヒマラヤ 左からダウラギリ・アンナプルナ・マチャプチャレ
  
サランコットからヒマラヤ展望 あの山々は巨大なエネルギー源か

 その巨大さは、ポカラの街から雪の山脈を見上げると、首が痛くなるほどにも近く高いものだった。あいにくタイミングが悪くて、ヒマラヤ、エベレストを遊覧飛行に乗れなかったのが残念だった。あの高みから氷と岩と泥水に襲われたら、逃げようがほとんどないと思うのである。

(2026/09/03記)
ーーこのブログの関連記事ーー
◎2011/04/12・412・地震大国ネパールのカトマンヅ盆地には…
◎【ネパール風土探訪】
カトマンズ・ポカラ・ルンビニ400kmバス旅2011(冊子pdf)

◎ネパール:フォトエッセイ「異文化への旅・ネパール風土逍遥」(2012.01)

ーーー老 酔 録ーーー
米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡/老酔録 https://datey.blogspot.com/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━