大学の学生食堂のTVが、大相撲中継を映している。
相撲取りにしてはスマートでしかもイケメンの若い男が立ち上がった。ほ~、こんなのもいるんだ。
その若者は相手を押して押して土俵際、相手も徳俵で頑張る、その瞬間、相手の両脇にさしていた両腕をすっと抜いてその両手でどんと相手の胸を押した。途端に勝負あり。
へえ~、あんなきわどい瞬間にそんな芸当ができるんだ、すごい。
これがわたしがはじめて見た大鵬であった。
1958か9年あたり、大学食堂で遅い昼飯を食っていたのだから、大相撲もまだ番付が下位の取り組みである。
だから後の大横綱大鵬が、幕内に登場したての頃だろう。わたしは相撲好きでも何でもないのだが、その勝負のTV映像は奇妙に印象に残っている。
TV受像機の普及は、1964年の東京オリンピックまで待たなければならない。そのころは駅前に「街頭テレビ」なるものがあった。
東横線自由が丘駅の軒先にTVがぶら下がっていて、大鵬と柏戸が登場する時刻には、駅前広場に人があふれたものだった。
そのTV電波は1958年に建った東京タワーから発していた。
大鵬と東京タワーは日本がようやく戦後から脱しようとしていた時代の象徴であった。
そうだ、建設途中の東京タワーを見た記憶がある。
1956年、経済企画庁の経済白書は「もはや戦後ではない」と書いたが、大鵬をはじめて見たころの学生食堂での飯は、「外食券」(コメは政府による配給制だった)を出すと2円だったか安くなったものだ。定食が20~30円の頃である。
庶民はまだまだ戦後を引きずっていた。
「巨人・大鵬・卵焼き」とは、その頃に流行ったフレーズだが、だれが最初に言ったのだろうか。庶民の一番人気者を皮肉を込めて並べているから、大宅壮一あたりか。(追記、違っていた、言いだしっぺは堺屋太一だったとネット情報あり)
わたしはもっとひねくれていて、「阪神・柏戸・カレライス」と、自分で発明して言ってたものだった。要するに1番手に対する反感と、2番手に対するシンパシーである。
後に「江川・ピーマン・北の湖」とのフレーズがあったらしいが、それは知らなかった。ただ、この並べ方には見え見えの意地悪さがあって、上手ではない。
今の世ではなんというのか。TVを見ない都心隠居老人にはさっぱりわからない。
見え見えの底意地悪さを承知で言えば、ただ今のわがNOTORIOUS御三家は、「東電、橋下、ノロウィルス」
大鵬が逝き、2代目東京タワー(スカイツリーとかいうらしい)が建ち、軍隊を持とうという首相が出てきて、戦後復興東京駅は姿を消して戦前の姿に戻った。
もはや戦後ではないどころか、今や戦前である、かもしれない。戦前の次は、いうまでもなく戦中である。
2013/01/20
2013/01/17
708核毒の地で懸命に生きる脱走豚と野良猪の愛の賜物イノブタも駆除されるのか
福島県富岡町でイノブタ発見とか。
東京電力福島第1原発事故で立ち入り禁止となった地域で豚舎から逃げたブタと、野生のイノシシが交配して生まれたとみられるイノブタの目撃情報が、原発周辺地域で相次ぎ、福島県が今月下旬から実態調査を行うことが16日、県への取材で分かった。(産経ニュース 2013.1.16 08:44)
おやおや、がんばって生きてますねえ、ブタとイノシシが協力して子孫を残そうって、涙ぐましいなあ。
東電原発から降り注いだ核毒にまみれながら、ちゃんとやることやってるんだ。どっちが雄でどっちが雌なんだろうか、どちらの組み合わせも再生産可能なんだろうか。
でもこのニュースの続きには、増えすぎると農地を荒らすので、駆除するのだそうだ。可哀そうだなあ、その努力は虚しいんだ。
でも、農地ったって、何も植えてるはずはないなあ、あ、そうか、核毒境界領域での農地かもなあ。そこは東電に柵を造らせましょうよ。
鉄砲で撃っても、核毒にまみれているから、福島名物イノブタ鍋ってわけにもいかないしなあ。
ウシもヤギもイヌも核毒の地をさまよっているから、ヤギウシとかウシイヌとかできるって、それはないか。ウナギイヌはどうか。
そういえば、昔々どこかの動物園でレオポンが生まれたってニュースがあったなあ、え、ご存じない?、ライオンと豹の子。
これって人間が生命をもてあそんでるよなあ。その点、核毒イノブタは、飼育から逃れて自然に還ってるんだもんなあ、おおらかなもんだ。
そのおおらかさと核毒のギャップに、こちらが考え込んでしまう。
まあ、まだまだ消えることのない核毒に負けずに、イノシシもブタもウシもヤギもイヌもウナギも頑張っていてください。
そのうちに東電が「核毒の森」自然動物園を作ってくれて、安楽に余生を過ごさせてくれるでしょうから、それまでの我慢です。
「核毒の森」についてはこちら。
●地震津波火事原発コラム集
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html
東京電力福島第1原発事故で立ち入り禁止となった地域で豚舎から逃げたブタと、野生のイノシシが交配して生まれたとみられるイノブタの目撃情報が、原発周辺地域で相次ぎ、福島県が今月下旬から実態調査を行うことが16日、県への取材で分かった。(産経ニュース 2013.1.16 08:44)
おやおや、がんばって生きてますねえ、ブタとイノシシが協力して子孫を残そうって、涙ぐましいなあ。
東電原発から降り注いだ核毒にまみれながら、ちゃんとやることやってるんだ。どっちが雄でどっちが雌なんだろうか、どちらの組み合わせも再生産可能なんだろうか。
でもこのニュースの続きには、増えすぎると農地を荒らすので、駆除するのだそうだ。可哀そうだなあ、その努力は虚しいんだ。
でも、農地ったって、何も植えてるはずはないなあ、あ、そうか、核毒境界領域での農地かもなあ。そこは東電に柵を造らせましょうよ。
鉄砲で撃っても、核毒にまみれているから、福島名物イノブタ鍋ってわけにもいかないしなあ。
ウシもヤギもイヌも核毒の地をさまよっているから、ヤギウシとかウシイヌとかできるって、それはないか。ウナギイヌはどうか。
これって人間が生命をもてあそんでるよなあ。その点、核毒イノブタは、飼育から逃れて自然に還ってるんだもんなあ、おおらかなもんだ。
そのおおらかさと核毒のギャップに、こちらが考え込んでしまう。
まあ、まだまだ消えることのない核毒に負けずに、イノシシもブタもウシもヤギもイヌもウナギも頑張っていてください。
そのうちに東電が「核毒の森」自然動物園を作ってくれて、安楽に余生を過ごさせてくれるでしょうから、それまでの我慢です。
「核毒の森」についてはこちら。
●地震津波火事原発コラム集
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html
2013/01/16
707豪雪3mの中の年中行事「賽の神」から戻れば東京横浜も豪雪10cm
青空の東京を出発して、上越国境トンネルを抜けると越後は雪降りだった。
ことしも法末集落の小正月行事「賽の神」と「初釜茶会」に行ってきた(2013年1月14日)。
「賽の神」はこのあたりの昔から伝わる年中行事のひとつで、日本各地で「ドンド焼き」とか「左義長」あるいは「三九郎」と言われる小正月行事である。
集落の中心部にあるキャンプ場の雪の中に、笹の葉がついたままの青竹を2本立てて、その周りに稲藁やマメガラを巻きつけて、藁でぐるぐると巻いて高さ6mほどの塔にする。
藁やマメガラは、この日に備えて各家に保管してあり、各自が背負って持ってくる。わたしたちも稲刈りの時にとっておいた藁束を納屋から出して運んだ。
塔の正面と決めたほうに、正月飾りやしめ縄類を塔にぶら下げ、その手前に雪で祭壇をつくって、お神酒や肴を供える。
雪の降る中、ここまでを午前中に集落の男衆10数人があつまってやるのだ。毎年のことで、その協力の仕方も要領がよい。
雪は降りやまないが、午後1時から行事開催、60人くらい集まってきた。
このうち集落住民は4分の1くらいだろうか、それぞれの子や孫がこの日のためにやってきたのだ。めずらしく子どもの声が聞こえる。
わたしたちは、毎年バスを仕立てて関東からやってくる。今年は15人がやってきた。中越大震災の翌年の2005年以来、毎年やってきている。
今年は巳年なのでその年男や年女が、その塔の根元に火をつけることから行事が始まる。でも神事はない。昔はあったのだろうか。
お神酒を祭壇から下げて、紙コップで参加者に配り、最長老94歳の正平さんが音頭をとって、祝唄「法末天神囃子」をみんなで歌うのも恒例である。
正平さんはあい変わらぬ元気ぶりである。この人は太平洋戦争の悪名高い負け戦インパール作戦に参加した、数少ない生き残りである。
燃え上がる藁から黒い灰が落ちてくる。これをコップ酒に受けて、藁の火であぶったするめや餅を肴にして飲めば、今年は無病息災。
久しぶりの出会いの挨拶などしながら、降りしきる雪の中で、突っ立ったままの宴会は続く。
子どもはみんな宴会に飽きて、そばの雪の斜面を登り滑りを繰り返して歓声を上げている。この集落で子どもの歓声を聞くことはめったにないから、大人たちも嬉しくなる。
1時間ほどで、藁の塔はくずおれて燃え尽き、今年の賽の神もお開きである。まだ雪は降りやまない。
さて次は、会場を屋内に替えて「初釜茶会」である。ぞろぞろと会場のやまびこ食堂に集まる。本式のお手前で立てた抹茶をいただくのである。
集落の人々が神妙なお手付きでお茶いただく様子は、賽の神の陽気な気分と対になって、なかなかに法末らしい小正月の雰囲気を醸し出している。
茶会は法末の新しい年中行事である。中越大震災の翌年に「復興見守り隊」として入った国際女性建築家会議日本支部(UIFA)のメンバーが始めたのである。
初釜茶会は、いまではもう法末の年中行事に定着した感がある。
わたしが乗ってきた貸し切りバスは、じつはUIFAのお茶会担当が法末に行くために出したので、それに便乗したのだ。
おわって17時ころにバスは出発して帰途についた。
ところがこの日、関東地方も北部から南部まで思わぬ積雪だそうで、交通路線は大混乱、かなりの渋滞が予想されるので覚悟せよとのこと。
高速道路は閉鎖で、雪の一般道を南下するが、2時間近くたっても新潟県を抜けられない。このままだと東京着は、夜中の2時か3時ころとの予想である。
そうなると東京からまだ南下するわたしは、電車が無くなってしまう。タクシー料金と新幹線代を比べ、さらに体力も考慮して即座に決断、越後湯沢駅で新幹線に乗り換えることにした。
意外にもこの判断をしたものは15人中の3人だけ。なんだか仲間を置き去りにして逃亡する気分であったが、残る方もそれなりの判断であろう。
わたしたち逃亡組は21時30分には東京駅に着いたのだが、後で聞いたらバス組は、やはり練馬ICを降りたのは午前2時ころであったという。
そこから先もタクシー探し騒動やら、都心仕事場泊り込み始発電車帰宅やらと、大変だったらしい。
それはそれで貴重な体験であるが、年寄りにはつらいから、われらが判断はよかった。
それにしても豪雪3mで平然としている法末から戻ってみると、こちらは10cmで豪雪騒ぎであった。
関連サイト
●法末集落の四季
●中越山村の暮らし
ことしも法末集落の小正月行事「賽の神」と「初釜茶会」に行ってきた(2013年1月14日)。
「賽の神」はこのあたりの昔から伝わる年中行事のひとつで、日本各地で「ドンド焼き」とか「左義長」あるいは「三九郎」と言われる小正月行事である。
●真っ白な法末集落
●私たちの拠点「へんなかフェ」は雪の中
集落の中心部にあるキャンプ場の雪の中に、笹の葉がついたままの青竹を2本立てて、その周りに稲藁やマメガラを巻きつけて、藁でぐるぐると巻いて高さ6mほどの塔にする。
藁やマメガラは、この日に備えて各家に保管してあり、各自が背負って持ってくる。わたしたちも稲刈りの時にとっておいた藁束を納屋から出して運んだ。
塔の正面と決めたほうに、正月飾りやしめ縄類を塔にぶら下げ、その手前に雪で祭壇をつくって、お神酒や肴を供える。
雪の降る中、ここまでを午前中に集落の男衆10数人があつまってやるのだ。毎年のことで、その協力の仕方も要領がよい。
●できあがった「賽の神」の前でわたしの喜寿記念撮影
雪は降りやまないが、午後1時から行事開催、60人くらい集まってきた。
このうち集落住民は4分の1くらいだろうか、それぞれの子や孫がこの日のためにやってきたのだ。めずらしく子どもの声が聞こえる。
わたしたちは、毎年バスを仕立てて関東からやってくる。今年は15人がやってきた。中越大震災の翌年の2005年以来、毎年やってきている。
今年は巳年なのでその年男や年女が、その塔の根元に火をつけることから行事が始まる。でも神事はない。昔はあったのだろうか。
お神酒を祭壇から下げて、紙コップで参加者に配り、最長老94歳の正平さんが音頭をとって、祝唄「法末天神囃子」をみんなで歌うのも恒例である。
正平さんはあい変わらぬ元気ぶりである。この人は太平洋戦争の悪名高い負け戦インパール作戦に参加した、数少ない生き残りである。
燃え上がる藁から黒い灰が落ちてくる。これをコップ酒に受けて、藁の火であぶったするめや餅を肴にして飲めば、今年は無病息災。
久しぶりの出会いの挨拶などしながら、降りしきる雪の中で、突っ立ったままの宴会は続く。
子どもはみんな宴会に飽きて、そばの雪の斜面を登り滑りを繰り返して歓声を上げている。この集落で子どもの歓声を聞くことはめったにないから、大人たちも嬉しくなる。
●「賽の神」は燃え上がる。
1時間ほどで、藁の塔はくずおれて燃え尽き、今年の賽の神もお開きである。まだ雪は降りやまない。
さて次は、会場を屋内に替えて「初釜茶会」である。ぞろぞろと会場のやまびこ食堂に集まる。本式のお手前で立てた抹茶をいただくのである。
集落の人々が神妙なお手付きでお茶いただく様子は、賽の神の陽気な気分と対になって、なかなかに法末らしい小正月の雰囲気を醸し出している。
茶会は法末の新しい年中行事である。中越大震災の翌年に「復興見守り隊」として入った国際女性建築家会議日本支部(UIFA)のメンバーが始めたのである。
初釜茶会は、いまではもう法末の年中行事に定着した感がある。
わたしが乗ってきた貸し切りバスは、じつはUIFAのお茶会担当が法末に行くために出したので、それに便乗したのだ。
おわって17時ころにバスは出発して帰途についた。
ところがこの日、関東地方も北部から南部まで思わぬ積雪だそうで、交通路線は大混乱、かなりの渋滞が予想されるので覚悟せよとのこと。
高速道路は閉鎖で、雪の一般道を南下するが、2時間近くたっても新潟県を抜けられない。このままだと東京着は、夜中の2時か3時ころとの予想である。
そうなると東京からまだ南下するわたしは、電車が無くなってしまう。タクシー料金と新幹線代を比べ、さらに体力も考慮して即座に決断、越後湯沢駅で新幹線に乗り換えることにした。
意外にもこの判断をしたものは15人中の3人だけ。なんだか仲間を置き去りにして逃亡する気分であったが、残る方もそれなりの判断であろう。
わたしたち逃亡組は21時30分には東京駅に着いたのだが、後で聞いたらバス組は、やはり練馬ICを降りたのは午前2時ころであったという。
そこから先もタクシー探し騒動やら、都心仕事場泊り込み始発電車帰宅やらと、大変だったらしい。
それはそれで貴重な体験であるが、年寄りにはつらいから、われらが判断はよかった。
それにしても豪雪3mで平然としている法末から戻ってみると、こちらは10cmで豪雪騒ぎであった。
関連サイト
●法末集落の四季
●中越山村の暮らし
2013/01/08
706地球に雑巾がけするような原発核毒掃除なんてできっこないことをなぜやるのだろう
このところ「手抜き除染」なる記事がマスメディアに出ている。
福島原発事故でまき散らされた核毒を浴びた地域の、家や庭や道や山などをきれいにする「除染」なる工事が進められているが、これがいい加減であることがばれたそうだ。
その降り注いだ核毒まみれの土・草・枝葉・枯葉・ゴミ・ホコリなどなどを、人力でかき集めている。
そんな、地球をせっせと雑巾がけしてどうするんだよ~。
雑巾がけなら、汚れ水はその辺にまけばよいが、核毒水はそうはいかない。ゴミも汚れ水も汚れ作業着も集めて、それをまたどこか別のところに集めるそうだ。
要するに核毒が移動して、移動先でさらに核毒の濃度が高まるという、危険物移動毒力強化工事である。
さてそれで、除染作業を終えましたよ、元の住民の皆様、安心してお戻りください、と言えば、みなさま喜んで戻ってくるのだろうか。
まあ、よほどの愛着がある年寄りだけが戻ってくるだけで、特に若いものが戻ることは皆無のように思う。
だって、そうやって核毒を除去したとしても、その周りの掃除しない山や野原にある核毒が風や雨で移動してくるから、また汚染する恐れが十分にあるからだ。
子どもを育てる環境では断じて、ない。
福島は除染産業で雇用回復だといっても、いくら仕事して金にはなるとしても、人間はこんな虚しい作業をやるのはバカバカしくなるのが当たり前だろう。
もちろん手抜きがよいことではないが、賽の河原の石積みを仕事にして出すほうがおかしい。
そんなことに金を使うよりも、被災者の生活再建を積極的に支援するべきである。
ところで、これまで核毒事故関連で、なんだかんだとかかっている費用は、もちろん核毒汚染犯人の東電が支払っているんでしょうね。
まさか税金で出しっぱなしってことじゃないでしょうね。
東電は、いくらでも金がある会社なので、核毒除染にも被災者補償にも、じゃぶじゃぶと金を使うことができるのでしょうね。
そうか、株主が反省してお金を出してるのだな、そうに違いないぞ、うん。
もしも、東電がその費用を電気料金で取り返そうとするのなら、わたしは東電の電気を使わないことにする。
そのためには東電じゃない電気屋と契約したいけど、どうやればよいのだろうか。それとも沖縄に移住するかなあ。でも軍事基地が怖いもんなあ、、。
まあ、歳が歳だから、近いうちにあの世に逃げてしまうから、東電の電気も使わないし、福島問題で毎日悩むこともないし、はやくそうしたいもんだ。
あ、そうか、悩みから逃れるにはボケりゃいいんだ。
核毒で汚れた地域は、汚した犯人の東電に高く売りつけて、核毒汚染した何でもかんでもを集めて、核毒処分の「核毒の森」をつくるのである。
その管理はもちろん東電が行う。それしかないであろう。
ついでに言えば、わたしが福島核毒事故直後から唱えている
「福島原発世界文化遺産」登録も推し進めてほしい。
原発事故に関するあらゆる情報も
「福島原発世界記録遺産」として登録してほしい。
これほどの「人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」をもつ物件」は、ちょっと見当たらない。
その有名さ(notoriety)をホコリとすべき日本の大文化遺産である。
●参照 福島原発を世界遺産に
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hukusimagenpatu-worldheritage
●参照 地震津波火事原発コラム
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html
福島原発事故でまき散らされた核毒を浴びた地域の、家や庭や道や山などをきれいにする「除染」なる工事が進められているが、これがいい加減であることがばれたそうだ。
その降り注いだ核毒まみれの土・草・枝葉・枯葉・ゴミ・ホコリなどなどを、人力でかき集めている。
そんな、地球をせっせと雑巾がけしてどうするんだよ~。
雑巾がけなら、汚れ水はその辺にまけばよいが、核毒水はそうはいかない。ゴミも汚れ水も汚れ作業着も集めて、それをまたどこか別のところに集めるそうだ。
要するに核毒が移動して、移動先でさらに核毒の濃度が高まるという、危険物移動毒力強化工事である。
さてそれで、除染作業を終えましたよ、元の住民の皆様、安心してお戻りください、と言えば、みなさま喜んで戻ってくるのだろうか。
まあ、よほどの愛着がある年寄りだけが戻ってくるだけで、特に若いものが戻ることは皆無のように思う。
だって、そうやって核毒を除去したとしても、その周りの掃除しない山や野原にある核毒が風や雨で移動してくるから、また汚染する恐れが十分にあるからだ。
子どもを育てる環境では断じて、ない。
福島は除染産業で雇用回復だといっても、いくら仕事して金にはなるとしても、人間はこんな虚しい作業をやるのはバカバカしくなるのが当たり前だろう。
もちろん手抜きがよいことではないが、賽の河原の石積みを仕事にして出すほうがおかしい。
そんなことに金を使うよりも、被災者の生活再建を積極的に支援するべきである。
ところで、これまで核毒事故関連で、なんだかんだとかかっている費用は、もちろん核毒汚染犯人の東電が支払っているんでしょうね。
まさか税金で出しっぱなしってことじゃないでしょうね。
東電は、いくらでも金がある会社なので、核毒除染にも被災者補償にも、じゃぶじゃぶと金を使うことができるのでしょうね。
そうか、株主が反省してお金を出してるのだな、そうに違いないぞ、うん。
もしも、東電がその費用を電気料金で取り返そうとするのなら、わたしは東電の電気を使わないことにする。
そのためには東電じゃない電気屋と契約したいけど、どうやればよいのだろうか。それとも沖縄に移住するかなあ。でも軍事基地が怖いもんなあ、、。
まあ、歳が歳だから、近いうちにあの世に逃げてしまうから、東電の電気も使わないし、福島問題で毎日悩むこともないし、はやくそうしたいもんだ。
あ、そうか、悩みから逃れるにはボケりゃいいんだ。
核毒で汚れた地域は、汚した犯人の東電に高く売りつけて、核毒汚染した何でもかんでもを集めて、核毒処分の「核毒の森」をつくるのである。
その管理はもちろん東電が行う。それしかないであろう。
ついでに言えば、わたしが福島核毒事故直後から唱えている
「福島原発世界文化遺産」登録も推し進めてほしい。
原発事故に関するあらゆる情報も
「福島原発世界記録遺産」として登録してほしい。
これほどの「人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」をもつ物件」は、ちょっと見当たらない。
その有名さ(notoriety)をホコリとすべき日本の大文化遺産である。
●参照 福島原発を世界遺産に
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hukusimagenpatu-worldheritage
●参照 地震津波火事原発コラム
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html
2013/01/07
705カリフォルニア歌人の朝日歌壇賞の受賞歌は原発と原爆の両悲劇を結ぶ
今朝(2013年1月7日)の朝日新聞の朝日歌壇に第29回朝日歌壇賞が発表されている。2012年入選歌から各選者が選らんだ。
永田和宏選者が選んだ歌
あれしきの被曝で何を騒ぐかと言ってはならぬ我は被爆者
(アメリカ 大竹幾久子)

この歌のことは、それが昨夏に掲載されたときにここですでに紹介した。
●日本人は5度目の大被爆体験をしても原発を動かす
http://datey.blogspot.jp/2012/07/648.html
大竹さん、おめでとうございます。
このカリフォルニア歌人の夫なる男も兄なる男も、半世紀以上にわたる畏友であるから、わがことのようにうれしく思ってしまう。
●関連 「カリフォルニア歌人」
http://datey.blogspot.jp/2011/09/500.html
永田和宏選者が選んだ歌
あれしきの被曝で何を騒ぐかと言ってはならぬ我は被爆者
(アメリカ 大竹幾久子)

この歌のことは、それが昨夏に掲載されたときにここですでに紹介した。
●日本人は5度目の大被爆体験をしても原発を動かす
http://datey.blogspot.jp/2012/07/648.html
大竹さん、おめでとうございます。
このカリフォルニア歌人の夫なる男も兄なる男も、半世紀以上にわたる畏友であるから、わがことのようにうれしく思ってしまう。
●関連 「カリフォルニア歌人」
http://datey.blogspot.jp/2011/09/500.html
2013/01/06
704日産自動車のバカ赤広告が消えてホッとしていたら跡地に高層住宅ビルが建つらしい
横浜都心の関外にある空中陋屋にわたしは住んでいる。
南東方向に見える景色の真んなかに、屋上に真っ赤な広告塔が立つビルがある。
周りはそんなものがないのにここにだけ広告塔がある。夜はライトアップするので目立つ。周りはほとんどが住宅ビルであるから無神経さが目立つ。
その広告主は日産自動車である。自動車屋はどこでも風景を乱す元凶だ。特に郊外の道路沿いで、その醜いことがおびただしい。
(その広告塔がある2010年の風景)
去年2012年の4月に、その広告塔のあるビルが消えた。ほっとしたのであった。
無くなってみるといかにあれがひどかったかよくわかる。
(ビルが無くなった2012年の風景)
でも後に何が立つか心配で、前よりももっとひどいものが建つかもしれない。例えばこんなものが。
(もしもこんなのが建ったらどうしようと描いてみた風景)
さて、2013年の正月、そのビル跡地に重機が入って仕事が始まっている。
囲いの塀に建つ予定のビルの絵が描いてある。分譲共同住宅(いわゆる名ばかりマンション)らしい。
「開放感抜群の希少立地」の意味が、周辺を見てもよくわからない。少なくとも目の前にうるさい高速自動車道路がとおっていることは確かである。
(塀に書いてある完成予想図らしい絵。)
そこで、その絵をもとにして、今度はどんな風景が見えることになるのかやってみた。邪魔だけどまあしょうがないか。
(こんなになるらしいと描いてみた予想風景)
問題は、さらにこの上にまたもや真っ赤な広告が乗るかもしれないことである。それだけは勘弁してちょうだいよ。
(まさかこんなになるのじゃあるまいなと描いてみた風景)
今戦々恐々は、目の前の低層ビルと駐車場が共同開発して、高層ビルになることである。そんな予想図は描いてみたくもない。
参照→「景観戯造」世の中の変な景観にちょっと画面で手を加えて
http://homepage2.nifty.com/datey/keikangizo/index.htm
南東方向に見える景色の真んなかに、屋上に真っ赤な広告塔が立つビルがある。
周りはそんなものがないのにここにだけ広告塔がある。夜はライトアップするので目立つ。周りはほとんどが住宅ビルであるから無神経さが目立つ。
その広告主は日産自動車である。自動車屋はどこでも風景を乱す元凶だ。特に郊外の道路沿いで、その醜いことがおびただしい。
(その広告塔がある2010年の風景)
去年2012年の4月に、その広告塔のあるビルが消えた。ほっとしたのであった。
無くなってみるといかにあれがひどかったかよくわかる。
(ビルが無くなった2012年の風景)
でも後に何が立つか心配で、前よりももっとひどいものが建つかもしれない。例えばこんなものが。
(もしもこんなのが建ったらどうしようと描いてみた風景)
さて、2013年の正月、そのビル跡地に重機が入って仕事が始まっている。
囲いの塀に建つ予定のビルの絵が描いてある。分譲共同住宅(いわゆる名ばかりマンション)らしい。
「開放感抜群の希少立地」の意味が、周辺を見てもよくわからない。少なくとも目の前にうるさい高速自動車道路がとおっていることは確かである。
(塀に書いてある完成予想図らしい絵。)
そこで、その絵をもとにして、今度はどんな風景が見えることになるのかやってみた。邪魔だけどまあしょうがないか。
(こんなになるらしいと描いてみた予想風景)
問題は、さらにこの上にまたもや真っ赤な広告が乗るかもしれないことである。それだけは勘弁してちょうだいよ。
(まさかこんなになるのじゃあるまいなと描いてみた風景)
今戦々恐々は、目の前の低層ビルと駐車場が共同開発して、高層ビルになることである。そんな予想図は描いてみたくもない。
参照→「景観戯造」世の中の変な景観にちょっと画面で手を加えて
http://homepage2.nifty.com/datey/keikangizo/index.htm
2013/01/02
703ヨボヨボ旧PCが息子の腕であっという間に元に戻った、さすがに餅は餅屋
去年7月にわたしが8年ほどかわいがってきたPC(MSXP)が、その飼い主に似てヨボヨボになっってしまった。
あれこれいじっても元に戻らない。イライラして血圧によくないので、新PC(MS7)を買った。さすがに新PCはなんでも早くなって、よいものである。
だがしかし、唯一困ったのは、使い慣れたHP制作ソフト(MSFRONTPAGE)がないことである。いまさら買って入れるのもアホらしい。HP制作フリーソフトを探してKompoZerを入れたが、機能的にはイマイチであるのは無料だから仕方ない。
わたしのHPサイト「まちもり通信」の基本レイアウトは、もうほとんど完成の領域に達していて、新記事も文字が多いので、その無料版でも、まあ、ほとんど問題ない。
でも、もしもなにかちょっと凝ったことをするには、ヨボヨボ旧PCを使うしかないので、捨てないで机の隅で埃だらけになりながら佇んでいる。
昨日の元日、息子夫婦が年賀挨拶にやってきた。息子はどうもIT関係の仕事で飯を食っているらしいのだ。
このPCを治せるかいとけしかけたら、チョロッといじって、あっという間にヨボヨボPCはしゃんと腰が立った。すらすら動くのである。
さすがに餅は餅屋で、あのバカ息子を見直した。
プロ仕事に報酬よこせというので、長岡・法末集落棚田産の超うまいコシヒカリを持たせた。江戸時代は米が通貨だったんだぞ、オレの小学校修学旅行は米を出して旅館に泊まったのだぞ。
●参照http://datey.blogspot.jp/2012/07/642pc.html
http://datey.blogspot.jp/2012/07/637.html
あれこれいじっても元に戻らない。イライラして血圧によくないので、新PC(MS7)を買った。さすがに新PCはなんでも早くなって、よいものである。
だがしかし、唯一困ったのは、使い慣れたHP制作ソフト(MSFRONTPAGE)がないことである。いまさら買って入れるのもアホらしい。HP制作フリーソフトを探してKompoZerを入れたが、機能的にはイマイチであるのは無料だから仕方ない。
わたしのHPサイト「まちもり通信」の基本レイアウトは、もうほとんど完成の領域に達していて、新記事も文字が多いので、その無料版でも、まあ、ほとんど問題ない。
昨日の元日、息子夫婦が年賀挨拶にやってきた。息子はどうもIT関係の仕事で飯を食っているらしいのだ。
このPCを治せるかいとけしかけたら、チョロッといじって、あっという間にヨボヨボPCはしゃんと腰が立った。すらすら動くのである。
さすがに餅は餅屋で、あのバカ息子を見直した。
プロ仕事に報酬よこせというので、長岡・法末集落棚田産の超うまいコシヒカリを持たせた。江戸時代は米が通貨だったんだぞ、オレの小学校修学旅行は米を出して旅館に泊まったのだぞ。
●参照http://datey.blogspot.jp/2012/07/642pc.html
http://datey.blogspot.jp/2012/07/637.html
2013/01/01
702 賀春
賀春
日本海側の日本は大雪らしい。
地球の太陽ひとまわり分の出発点と決める日を元日というらしい。
どうしてこんな寒い盛りにしたのだろうか。
6か月ずらして真夏だってよさそうなものを。
3か月ずらせば学校だって役所だって企業だって便利だろうに。
どうしてその日を祝うのだろうか。
地球が太陽を無事に回ったのがそんなに嬉しいのか。
もしかして今年は太陽を回りきれないと毎年思うのだろうか。
とにかく去年も地球は無事に太陽を回りきれたらしく元日の新聞が 来た。
地球の太陽ひとまわり分の出発点と決める日を元日というらしい。
どうしてこんな寒い盛りにしたのだろうか。
6か月ずらして真夏だってよさそうなものを。
3か月ずらせば学校だって役所だって企業だって便利だろうに。
どうしてその日を祝うのだろうか。
地球が太陽を無事に回ったのがそんなに嬉しいのか。
もしかして今年は太陽を回りきれないと毎年思うのだろうか。
とにかく去年も地球は無事に太陽を回りきれたらしく元日の新聞が
2012/12/31
701新年になっても手帳を持たなくてもよい身分になりたいようななりたくないような
本年の締めくくりは、自作1年手帳の制作である。3年前から手帳を買うのをやめて、自分でMSWORDで編集、卓上で印刷して綴じる。裏表冊子印刷でたったの16ページ、1か月が1ページである。
百円店で買ってきたカードフォルダーなるビニルのカード袋がいっぱい綴じこんで手帳に、自作手帳を合わせて綴りこんだだけである。
材料原価は120円くらいか、とりあえず見た目はそれなりに立派である。
カード入れに諸カードやら名刺を入れるとけっこう分厚い。カードの数を勘定したら、なんと25枚もある。
オレはカード嫌いなのにいつの間にこんなに、、、医院、図書館、銀行、電器屋、学会などなど、今や何でもカードである。
自慢じゃないがと自慢するが、乗り物カードは持っていないのだ。あ、1枚あるなあ「横浜市敬老特別乗車証」、タダじゃないよ、市内の地下鉄バス乗り放題で年間8000円である。
4年前までは、だれもするように毎年の暮れに文房具屋で買っていた。今から考えると、もっと前から自作してもよかったはずだが、知恵がなかった。
わたしは1974年からの手帳を39冊を保存している。39年分の簡単自分史である。
それよりも前にも手帳を持っていただろうが、その年から勤め先の経理システムができて、何の何をいつ何時間やったか記録することになったので、手帳を克明につけ出した。
もちろん仕事の記録だけではなくて、いろいろな行動記録がある。日記をつける習慣を持っていなかったけれど、この手帳を見ればほぼその日に何をしたかがわかる。
ただし、ほとんど符牒書いてあり、その符牒が何であるかもう忘れているので、その頃何をしたのか手帳を見て思い出そうとしても困ることが多い。
毎年買ってきた手帳の仕様は、大きさだけは一定だが、中身は毎年のように違うものを買っている。
要するに毎年気に入らなくて、毎年今年こそは適切なものをと、毎年探していたのである。自分の行動を自分流に書き込む手帳は意外にないものである。
それでいつかは自作をしようと思っていたのだが、技術がなくてできないままできて、今頃になってようやくできる様になったのだ。
だが、今はもう仕事をほとんどしていないから、昔のように毎日びっしりと書き込むことがない。
かつての手帳は原則として1週間が2ページであったのが、今や1か月が1ページで済むのが、嬉しいような情けないような。だから自作手帳も簡単で済むのだ。
技術的には市販品のようなあれこれと付録をつくることもできるのだが、今や電話帳も地下鉄路線図も、その他あれこれも不要であるのが悔しい。
そのうちに手帳そのものが不要な身分、というか境遇になるだろう。その日は近い。
とりあえず今年は終わり、来年の手帳もできた。あと1時間半で2013年となる。
今年は世は右回りになってイヤな年であった。身には歯と眼と手の故障があった。
ここまで生きてくると、まあ、年が明けようが明けまいが、ほとんど気にならない。
では、これをお読みいただいたあなたに、来年はよいことありますように。
百円店で買ってきたカードフォルダーなるビニルのカード袋がいっぱい綴じこんで手帳に、自作手帳を合わせて綴りこんだだけである。
材料原価は120円くらいか、とりあえず見た目はそれなりに立派である。
カード入れに諸カードやら名刺を入れるとけっこう分厚い。カードの数を勘定したら、なんと25枚もある。
オレはカード嫌いなのにいつの間にこんなに、、、医院、図書館、銀行、電器屋、学会などなど、今や何でもカードである。
自慢じゃないがと自慢するが、乗り物カードは持っていないのだ。あ、1枚あるなあ「横浜市敬老特別乗車証」、タダじゃないよ、市内の地下鉄バス乗り放題で年間8000円である。
4年前までは、だれもするように毎年の暮れに文房具屋で買っていた。今から考えると、もっと前から自作してもよかったはずだが、知恵がなかった。
わたしは1974年からの手帳を39冊を保存している。39年分の簡単自分史である。
それよりも前にも手帳を持っていただろうが、その年から勤め先の経理システムができて、何の何をいつ何時間やったか記録することになったので、手帳を克明につけ出した。
もちろん仕事の記録だけではなくて、いろいろな行動記録がある。日記をつける習慣を持っていなかったけれど、この手帳を見ればほぼその日に何をしたかがわかる。
ただし、ほとんど符牒書いてあり、その符牒が何であるかもう忘れているので、その頃何をしたのか手帳を見て思い出そうとしても困ることが多い。
毎年買ってきた手帳の仕様は、大きさだけは一定だが、中身は毎年のように違うものを買っている。
要するに毎年気に入らなくて、毎年今年こそは適切なものをと、毎年探していたのである。自分の行動を自分流に書き込む手帳は意外にないものである。
それでいつかは自作をしようと思っていたのだが、技術がなくてできないままできて、今頃になってようやくできる様になったのだ。
だが、今はもう仕事をほとんどしていないから、昔のように毎日びっしりと書き込むことがない。
かつての手帳は原則として1週間が2ページであったのが、今や1か月が1ページで済むのが、嬉しいような情けないような。だから自作手帳も簡単で済むのだ。
技術的には市販品のようなあれこれと付録をつくることもできるのだが、今や電話帳も地下鉄路線図も、その他あれこれも不要であるのが悔しい。
そのうちに手帳そのものが不要な身分、というか境遇になるだろう。その日は近い。
とりあえず今年は終わり、来年の手帳もできた。あと1時間半で2013年となる。
今年は世は右回りになってイヤな年であった。身には歯と眼と手の故障があった。
ここまで生きてくると、まあ、年が明けようが明けまいが、ほとんど気にならない。
では、これをお読みいただいたあなたに、来年はよいことありますように。
2012/12/29
700海軍聯合艦隊司令部として戦争に翻弄された谷口吉郎設計の戦前モダン建築
◆丘の上のモダンデザイン建築
横浜市の北に位置する日吉に、慶応義塾大学日吉キャンパスがある。広大なキャンパスの南に半島状に張りだした台地の端に白亜の建築が見える。1937年に建った慶応義塾日吉寄宿舎である。
建築史の専門家には、日本の戦前モダンデザインのはしりの典型的な建築として、その設計者とともに知られていたが、慶應関係者は別にしても一般には全く知られていない。 ここでこれをとりあげるのは、現代の視点で見ると、実はただ物でない歴史を背負っていると知ったからである。
これは日本近代史上において、教育機関としての慶應義塾としてはもちろんだが、日本の近代建築史においてばかりか、太平洋戦争において実に重要な役割を果たした記念的な建造物であり場所であるのだ。
もしかしたら、復原前の東京駅赤レンガ駅舎と並ぶ戦争記念碑かもしれない。戦争及び戦後復興記念碑としての東京駅赤レンガ駅舎は、復原という仕業で記念的造形が消えてしまったが、この日吉寄宿舎も同じ轍を踏むかもしれないのが心配である。
所有者の慶應義塾大学が、老朽化していたこの建物を再評価し、2012年からその一部をリニューアルして現代的な学生寮として再生したと聞いて、興味をもっていろいろと調べたのである。
(以下全文は下記へ)
第1章<戦前>慶応モダンボーイの日吉新キャンパス
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hiyosi
第2章<戦中>海軍中枢の秘密基地となった日吉キャンパス
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hiyosi/hiyosi2
第3章<戦後そして今>戦争の傷を癒しきれない日吉寄宿舎
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hiyosi/hiyosi3
横浜市の北に位置する日吉に、慶応義塾大学日吉キャンパスがある。広大なキャンパスの南に半島状に張りだした台地の端に白亜の建築が見える。1937年に建った慶応義塾日吉寄宿舎である。
建築史の専門家には、日本の戦前モダンデザインのはしりの典型的な建築として、その設計者とともに知られていたが、慶應関係者は別にしても一般には全く知られていない。 ここでこれをとりあげるのは、現代の視点で見ると、実はただ物でない歴史を背負っていると知ったからである。
これは日本近代史上において、教育機関としての慶應義塾としてはもちろんだが、日本の近代建築史においてばかりか、太平洋戦争において実に重要な役割を果たした記念的な建造物であり場所であるのだ。
もしかしたら、復原前の東京駅赤レンガ駅舎と並ぶ戦争記念碑かもしれない。戦争及び戦後復興記念碑としての東京駅赤レンガ駅舎は、復原という仕業で記念的造形が消えてしまったが、この日吉寄宿舎も同じ轍を踏むかもしれないのが心配である。
所有者の慶應義塾大学が、老朽化していたこの建物を再評価し、2012年からその一部をリニューアルして現代的な学生寮として再生したと聞いて、興味をもっていろいろと調べたのである。
(以下全文は下記へ)
第1章<戦前>慶応モダンボーイの日吉新キャンパス
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hiyosi
第2章<戦中>海軍中枢の秘密基地となった日吉キャンパス
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hiyosi/hiyosi2
第3章<戦後そして今>戦争の傷を癒しきれない日吉寄宿舎
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hiyosi/hiyosi3
登録:
投稿 (Atom)