2013/05/09

765東北被災地徘徊譚8【野蒜2】津波は堤防を越え海岸林も森林もなぎ倒し運河も渡ってやってきた

   【野蒜1】からの続きhttp://datey.blogspot.com/2013/05/764.html


●図5:廃墟となっているJR仙石線野蒜駅
   3.11大津波は、野蒜海岸から堤防を越え、海岸砂丘の松林をなぎ倒し、更に広大な余景の松原もなぎ倒し、東名運河も渡ってやってきた。まったくもってそのあまりの攻撃ぶりの結果の広大なる荒涼の地を眺めて、ただただ驚くばかりである。

 東名運河に接するJR仙石線の野蒜駅は、ホームも駅舎も付属の観光施設も廃墟の風景をまざまざと見せて、津波の攻撃にすさまじさを想像させる。まわりの瓦礫塵芥がかたずけられていればいるほど、廃墟の意味がよくわかるのである。鉄路が砂や草にに埋もれる風景は、あれから2年という時間を視覚化する。
 この駅も鉄道も、数年後には北部丘陵の上に移るのだが、いまは代行バスが廃墟の駅前停留所に止まる。


●図6:東名運河は明治政府の野蒜築港関連の歴史的遺産
   東名運河の護岸も運河沿いの松林も、津波により大きく損傷した。東名運河は津波の時にどのような挙動をしたのだろうか。河川のひとつだから、これが津波遡上のルートになったのだろうか、それとも東西のある水門が防いだのか。

 野蒜地区の東に流れ込む鳴瀬川河口に、かつて明治政府が大築港をした。そして最初の設計にはなかったのだが追加して、野蒜の西の松島湾からこの野蒜築港まで開削した運河が東名運河であり、野蒜地区を東西に横断する。(明治政府野蒜築港図
 この運河は野蒜築港からさらに東に向かって北上運河となり、反対に西には松島湾の向こうの貞山運河に航路がつながって、日本で最長の運河である。

 野蒜築港は完成するとすぐにその立地が失敗と分かり、明治政府は放棄した。いまでは築港も東名運河も日本の近代化遺産として新たな評価の光が当てられている。
 復興計画には、これらを歴史的資産として復元することがうたってある。玄人筋には有名だったが、一般には無名だった野蒜築港が、これを機会に歴史的遺産として再生することになれば、それはまさに復興である。


●図7:津波被災前の野蒜駅周辺地区の空中写真(2010/04/04)
   この空中写真を一見すると、海岸には防波堤があり、防波堤に沿って厚い海岸林があり、更にその内側の街には深い森がある。
 それ等の森に囲まれた街は、津波から守られているかのように見える。
 だが、 東名運河の南の地区は地盤の海面からの高さが-1~+2m程度で低く、北側は4m以上である。

 
●図8:津波被災直後の野蒜駅周辺地区の空中写真(2011/04/06)
   運河の南北地区共に津波被災したが、運河より北の地区には残存家屋が多いが、南はほぼ壊滅である。
 海からの距離の遠さもあるだろうが、土地の標高の違いが津波被害の差になって表れている。
 海岸林や街を囲む森は、津波にどう抵抗してくれたのだろうか。抵抗が無駄なほどにもものすごい津波であったのだろうか。津波は松林をもろともせずになぎ倒して、東名運河の北にまで押し寄せて街を破壊した。


●図9:津波被災1年後の野蒜駅周辺地区の空中写真(2012/04/12)
   津波から1年の後には、瓦礫・塵芥・倒木類はきれにかたずけられている。この徹底ぶりには頭が下がる。
 松林から出た沢山の津波による倒木や潮による枯れ木がかたずけられて、緑も住家もほとんどない丸裸の土地が姿を現した。

 あの深い森と見えたものが、これほどもあっけなく消え去ったのが不思議である。標高が1m以下の地に生えていた松林は、地下水位が高いので根が浅かったために、津波に耐えきれなかったのだろうか。

 津波で倒木となると、それは液体の波が固体の破壊力をもって街を襲ったに違いない。伊勢湾台風(1959年)が高潮とともに名古屋を襲った時に、港にあった大きな貯木場の海面に浮かんでいた無数の大丸太が街の中を暴れまわって、被害を増大した事件を思い出す。


●図10:野蒜駅前から東名運河を渡ってみる風景
   廃墟の野蒜駅を背にして東名運河の壊れた様子を見ながら橋を渡れば、一面の野原である。右向こうに中学校であった建物廃墟と、ほかに工場だったらしい建物廃墟、そしてここだけは復旧したらしい墓地が見えるだけである。

 図7に見るように、このあたりは一面の深い森林であり、中学校はその森の中にあり、そのむこうには住宅地があり、更に向こうにはまた海岸林の松林があったはずだ。
 それが一面の野原の向こうに、海岸林らしいまばらな松がみえるだけとは、あの松原はどこにいったのか。


●図11:被災前に東名運河の南にあった余景の松原
   この写真はウェブサイトで拾ったのが、野蒜駅前から東名運河を渡ってちょっとの位置の松林風景(「余景の松林」というらしい)である。図10とほぼ同じあたりで撮ったらしい。この森を抜けると住宅地で、右のほうに中学校があるはず。
 空中写真で深い森と見えたが、明るいスカスカの松林であった。もしもこれに広葉樹の中木・低木のある密な混交林だったら、もうちょっとは津波に抵抗してくれたかも知れないと思う。

 しかし、日本人が好む森林は、木々がすっくと立ち並び、低木がきれいに刈り取られて、いつでも入りやすい明るい林である。深い森は好まれない。
 特に海岸林は、白砂青松と称して、白い砂に緑の松がまばらに立ち並ぶ風景が好まれる。だから侵食してくる広葉樹を常に刈り取る手入れをしてきた。あの消えてしまった高田の松原もそうであった。
 津波にどこまで抵抗できるかわからないが、少しでも抵抗するなら、密に樹木が重層する混交林にしておくほうがよいような気がする。


●図12:東名運河の北側の街の津波被災の様子
  東名運河の南の地区に比べて北側の街は土地が高いので、山沿いは被災を免れたし、被災した地区でも被害をありながらも取り壊さないで、修理して住んでいる住宅、未修理のままに空き家で建つ住宅がたくさんある。
 未修理の住宅は、今後に修理して住むつもりか、放棄のままだろうか。このあたりは元の住宅街に戻っていきそうな気配がある。(つづく)

参照⇒東北に大津波被災地を訪ねて【東松島市野蒜地区】

2013/05/08

764東北被災地徘徊譚7【野蒜1】あれから2年経っても未だに津波が戻って行かない

 3・11大震災の津波被災地である東松島市の野蒜地区に行ってきたので、その観察記録を連載する。といっても、なにか提案するのでもなし、ましてやなにか実行する能力はなし、単なる昔都市計画家好奇高齢徘徊老人のたわごとである。

 昨年秋に東北被災地に、小さなボランティア活動に行った。仙台からJR仙石線に乗って被災地を訪ね、東松島の惨状を見てこのようなことを書いた。
 「東北に大津波被災地を訪ねて【東松島市野蒜地区】自然と人間はどこで折り合って持続する環境を維持できるのか」(2012年11月26日)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru


●図1:野蒜の仙石線東名駅近くの陸橋の上から南方面を撮影
2012/11/11
 その去年の記事の初めに、この写真を載せた。2012年11月11日に、仙石線東名駅近くの陸橋から南東方向に向いて、東松島市野蒜洲崎方面を撮っている。
 向こうに海のように見えるのは、実は2011年3月11日の津波から、いまだに居座っている海水である。ここから惨状をくみとって調べていろいろと書いた。

 震災前は緑の田畑であったが、2年後も海水は引いていない。ここは昔の遠浅の海を干拓して、入浜式の塩田であったのを田畑にしたのだそうだ。それならば昔は、海水が出入りしなければならなかったのだ。いまそれが再現したのだろう。そこに行ってみることにした。

●図2:野蒜地区空中写真google earth
2012/04/12
  図1の写真は、陸橋の上からこの写真の黄色矢印方向に撮った。
津波から2年後の先般(2013年4月19日)、その野蒜のいまだに海水が居座る洲崎地区に入ったのである。 

●図3:野蒜の洲崎の中に取り残された小屋 
2013/04/19
 図1の中央上方の水中に小屋がみえる(図2の黄色丸の中)が、それがこれ。
  もともとは何だったのだろうか。農業用のなにかだったのだろう。
  ここまでは元の田んぼのあぜ道を高く盛り上げてある海の中の道になっていて、入ることができる。
 
●図4:上の小屋あたりから図1陸橋(禿げた稜線部の下あたり)のほうを見る
2013/04/19
あたりは一面の海水で、そこに半分沈む機械のようなものがある。他にも小屋などが半分沈んでいたりする。土地が沈下したのであろう。

 向こうの山の稜線の一部が禿げているが、ここが野蒜地区被災者の高台移転先で、ただいまニュータウン造成工事中である。
 そこから出る残土を、こちらの海に捨てて埋立するのか、それとも移転跡の宅地に盛り上げて地盤を高くするのか。
 5、6年後にはその山の上にJR仙石線も移転して、家家が立ち並ぶのが見えるようになるのだろう。そして山のふもとにも街が復興するだろう。どのような景観が生れてくるのだろうか。(つづく)

2013/05/05

763アベさんの憲法96条改訂作戦は実は陽動作戦かもしれないなあ

 昨日、ここにこんなことを書いて、アベさんはスゴイお方といったが、続きを書いておかないと誤解されそうだから、今日も憲法のゴタクを書く。

 まず、昨日のその部分のコピー。
 5月3日は憲法記念日、その右のほうのお方と言えばアベさん、この憲法を何とかして改訂したいとの執念をもって、とうとう総理大臣にまでなってしまった。
  しかもそれが実に皮肉なことに憲法違反の選挙結果によるのだから、その執念たるやまったくもってエライものである。
  憲法違反で当選して憲法改正するって、冗談にしたらよくできているとおもうが、これが現実らしいから、今の世の中スゴイもんだ。
  それに輪をかけてスゴイのは、真正面の玄関から入って9条改訂をしたいが、どうもうまくいきそうにないので、まず96条の改訂条件を緩和する改訂という、勝手口から入ろうという姑息ななりふり構わぬ作戦をするのだそうだ。
  ま、考えようによれば、これはうまい作戦である。アベさんの次にまたもっと改訂したい人が出てきて、改訂し易くなった96条をさらに緩和改訂するのだな。どんどん憲法改訂が簡単にできるようになる。
  そこで第9条を改訂どころか廃止、人権制限確立、そういう作戦らしい。ドえらいもんだ。


 ここからは本日のその続き。
 この96条作戦がスゴイと言ったが、褒めているのではないので、お間違いにならないように。世の中には、だれかが言ってることを、まともに受け止める人が多いので、念のため。
 さて、96条は裏口入学でケシカランという、憲法学者の意見をチョイチョイ見るようになった。
 なるほど、改訂したい本論をさておいて、改訂手続きを突っついて改訂方法を容易にするって、この迂回作戦で憲法改訂しようってのは、アベサンそりゃ卑怯だよ、てなふうにこの裏口論は分かりやすくて、わたしのような庶民はそうだそうだって乗りやすいのである。

 だが待てよ、そうやって本質を隠して卑怯だ、裏口だ、なんて言ってると、頭の良いアベさんは、さっとばかりに96作戦を引っ込めるにちがいない。
 そして曰く、そうおっしゃいますならば、じゃあ、96条改訂はひっこめましょう、そうしましょう、ではおっしゃる通り本質となる、1条でも9条でも全面改訂憲法案を出しますよ、ほれ、あんたがたが出せ出せって言ったでしょ、そのとおりにして何が文句がおありになるのでございましょうか、、、、、。
 たぶん、こういう風に作戦が展開されるのでしょうなあ。
 つまり、96条作戦は陽動作戦であり、それをまともに受け止めていると、護憲派連中はまんまと引っかかるのである。
 陽動作戦には陽動作戦をもって応えよう。


2013/05/04

762ゴールデンウィークどうでもいい雑感:昭和節、憲法改訂、緑色、子どもたちの日、わが誕生記念日

 いまやゴールデンもシルバーもウィークにも関係ない日々をすごしているが、この連続休日の発明はいつ頃からだろうか。
 4月29日は、先代の天皇が存命中は天皇誕生日と言っていた。その天皇が死んだので、祝日はなくなると思っていたら、みどりの日と名付けて生き残った。そのうちに思い出したのか、復古派の執念か、昭和の日ということになった。
 戦前は11月3日は明治節(その前には天長節)であった。明治天皇誕生日である。今は文化の日と言っている。たぶん、右のほうの方は、明治節と復活させ、昭和の日は昭和節にしたいだろうな。
 ついでに、誕生日は生まれたその日だけで1日しかない。毎年毎年、誕生日というのは間違っている。誕生記念日とういうべきである。日本では、毎年毎年12月に天皇が生れているらしい。

 5月3日は憲法記念日、その右のほうのお方と言えばアベさん、この憲法を何とかして改訂したいとの執念をもって、とうとう総理大臣にまでなってしまった。
 しかもそれが実に皮肉なことに憲法違反の選挙結果によるのだから、その執念たるやまったくもってエライものである。
 憲法違反で当選して憲法改正するって、冗談にしたらよくできているとおもうが、これが現実らしいから、今の世の中スゴイもんだ。
 それに輪をかけてスゴイのは、真正面の玄関から入って9条改訂をしたいが、どうもうまくいきそうにないので、まず96条の改訂条件を緩和する改訂という、勝手口から入ろうという姑息ななりふり構わぬ作戦をするのだそうだ。
 ま、考えようによれば、これはうまい作戦である。アベさんの次にまたもっと改訂したい人が出てきて、改訂し易くなった96条をさらに緩和改訂するのだな。どんどん憲法改訂が簡単にできるようになる。
 そこで第9条を改訂どころか廃止、人権制限確立、そういう作戦らしい。ドえらいもんだ。

 5月4日はみどりの日、由緒はよくわからないが、4月29日からこちらに引っ越してきたらしい。まあ、このころはの木々が緑に萌える時期だからいいだろう。
 それにしても、おかしいのは、木々の葉の緑という色である。樹木や草など緑色の植物は、太陽光線の中にある色の中で、緑色だけを嫌いらしいのである。
 太陽から降り注ぐ光の中で、緑色だけを吸収しないで反射するから、人間の目には植物の葉が緑色に見えるのである。秋になると緑も好きになるが、こんどは赤や茶色が嫌いになるらしい。
 わたしたちが春の野山に行って、ああ、木々の緑は気持ちがよい、なんて言っているが、植物のほうは緑色光線を大嫌いらしい。さて、この矛盾をどう考えようか。


 5月5日は、こどもの日。昔は端午の節句で、男の子が祝った。だから、こどもの日は、この男女同権時代に男の子の祭日である(のだろう)。
 なぜ桃の節句の3月3日を女の子のための国民の祝日にしないのかって、怒ってる女性たちはいないのかしら。

 ついでに、ちかごろは「子どもたち」という言い方がはやっている。いまに「こどもの日」は「子どもたちの日」に改定されるに違いない。
 でもなあ、これっておかしいぞ。「子ども」が複数なのに、これにさらに「たち」をつけて複数にするのは屋上屋を重ねている。「おみおつけ」(御御御つけ)なるアホバカ丁寧語と同じだ。単数は「子」、複数は「子ども」、ここまででよいのである。
 またつついでだが、5月5日はわたしの誕生記念日である。この日が祝日である真の理由はこれなのよ!。今日で75年の生涯を終えて、あすから76年目に突入する(であろう、たぶん)。

2013/05/03

761東北被災地徘徊譚6【名取3】海から直角に砂丘を切り開いて集落を貫通する大通りが津波の侵攻を容易にしたのかもしれない

 宮城県名取市の仙台空港の東のある、津波で消滅した北釜集落跡にきている。
貞山堀にかかる橋を渡って東へ、海に向かって直角につけてある広い道を歩いて行く。海辺のほうには砂丘があり、その上にまばらな林が見える。津波が通り抜け、倒してやってきた海岸林である。
この道は、集落の中心を東西に貫き、その先は砂丘を低く切り開いて、砂丘の向こうの海まで続いているようだ。
<海辺につづく集落中心道路>

  国土地理院サイトの古い空中写真を見ると、この道は1980年代にはまだ開通していないようだから、比較的最近になって作ったものだろう。
 古い順に北釜地区を見ていこう。
1948年
     1984年
   2009年
   2011年3月14日(津波直後)
 
この道は、津波の侵攻する大通りになったようだ。まるで集落に招き入れるように、真ん中を貫いている。
 一般に、海岸に直角になって砂丘を切り開く道路が津波の道になることは、すでに指摘されている。ここには昔からの教訓はなかったのだろうか。
 かつては歩くだけでよかったので、曲がった細い道が砂丘の上を越えて海につづいていたのだろう。それが自動車時代となって、津波のことは忘れて砂丘を切り、直線で広く勾配のない道をつくった結果が、この惨事となった遠因かもしれない。

  もうひとつ自動車時代となっての問題は、空港利用に伴う自動車駐車需要の波がこの集落に押し寄せていることだ。
 多くの農家で、広い屋敷地の畑、植栽地、生け垣などをつぶして舗装して駐車場とした。それは農業でない新たな収入源が得られるメリットがある一方で、津波は集落内を円滑に流れやすかっただろうとも思うのである。

 道の右にひとつだけが建っている2階建て木造の壊れかけ住宅に、ときどき車がやってきて、降りて眺めては出ていく。もしかして被災地観光コースに組み込まれているのだろうか。
  このようにあたり一面がきれいになってしまっては、集落の悲劇を目で訴えるものがない。
 この住宅は悲劇伝承の役割を背負って、わざわざ残しているのだろう。もしこれが無いと、津波事件を知らないで見るこの地の風景は、ただただ平和な原っぱである。  
<津波瓦礫塵埃が撤去された中にわざと残しているらしい破壊された一軒家>

  南三陸町の防災対策庁舎の悲劇がその名とともに有名であるが、いま、鉄骨の悲惨な姿で建っている。記念碑として残すかどうか、地元では論争中だそうだ。
  悲劇の当事者に対してよそ者があれこれ言えないが、なにか眼に訴えるものは残してほしいと思う。
 人間は忘れるものである。あらゆることを覚えているのもかなり辛いことだろうが、忘れて悲劇を招くこともある。

●全文は「東北に大津波被災地を訪ねて【名取市北釜地区】」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama

2013/05/02

760【東北被災地徘徊譚5名取2】津波被災跡地はあまりにもきれいすぎて喪失感よりも空漠感がただよう

 仙台平野は見事といってよいほどに3.11津波に洗われた。
 特に名取市の北部の閖上地区の消失を、わたしはその当時にメディアでいろいろと見て、息をのんだ。閖上なる地名もユリアゲなる読み方も、初めて知った。
 今日やってきたこのあたりは、名取市の南端部の太平洋沿岸で、地名を下増田地区の北釜集落という。
  空港の東に海岸に並行して貞山堀という運河がある。伊達正宗が掘らせて17世紀初頭にできたという。背後に空港のエンジンが轟々となる音を聞きながら運河にかかる橋を渡れば、前にはただただ草が地面をおおう巨大な広場である。

名取市沿岸部の被災前と被災後(google erth) 

 
 仙台空港の東の名取市北釜地区、ここに2011年3月11日まで、古い農村集落があった。ずっと向こうに見えるまばらな林は、海岸砂丘にあった松林の名残だろう。
  集落は大津波で完全に破壊された。波は空港をも浸して機能を停止させた。

いまは集落跡地は瓦礫もゴミもきれいに片づけられている。見渡すかぎり空き地というよりも野原は、ここにちゃんとした集落があったとは、とても思えない。空港用地の一部かと思ってしまう。

  眼に見える人工物は、工事の仮設物や駐車場の車を別にすれば、橋を渡った運河脇にあるコンクリート3階建ての建物(後で調べたら東北大学ボート部の合宿所)、右向こうにポツンと一軒の木造家屋、左向こうに数本の松の間に祠のようなもの、これら3つだけである。
 それにしても、このあまりにきれい過ぎる片づけようはどうだろう。
 津波直後は壊れた家屋や塵埃でむちゃくちゃであったろうに、まるで掃除機をかけたようだ。被災直後の空中写真をみれば、何軒かの家は壊れながらも残っていたのだが、あまりにきれいだ。
 ここに来る前の2日間は、三陸海岸地域の津波被災地を視察して巡っていたのだが、そこでもそうだった。これって、外国でもそうなのだろうか。それとも日本人はきれい好きなのか。
 たいていの津波被災地は、もう住宅を再建することを放棄しているから(個人的にも法的にも)、片づけるのはずっと後回しでもよさそうなものだ。
 しかし行方不明者とか貴重品とかの捜索のために片づけたのだろう。あるいは公衆衛生上のためだろう。それはまるで大津波の破壊への怒りが、復讐戦のごとくその跡を消し去らせたようにも見える。被災当事者でないわたしには分りようがない何かがあるのだろう。
 


参照⇒758【東北被災地徘徊譚4名取1】あの大津波にこの平地でも社叢林の中にあった神社が耐えたとは! http://datey.blogspot.com/2013/04/758.html

●全文は「東北に大津波被災地を訪ねて【名取市北釜地区】」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama

2013/05/01

759冨士鎌倉世界遺産登録騒動の三保の松原除外条件で高田の松原の消滅を連想した

 鎌倉落選、富士山条件付き当選だそうである。
 昨夜、日本の17番目と18番目の世界遺産登録にしたいと、ユネスコに申請していた鎌倉と富士山について、勧告団体のイコモスが出した内容である。
 これを受けてユネスコが6月に登録可否を決めるらしいが、大方の見方は富士合格、鎌倉落選のようだが、さて、どうなるだろうか。
 けっこう政治力が物いう世界らしいから、これから富士山は三保の松原を入れろ、鎌倉はそりゃないよって、ロビー活動で巻き返しするのかしら。
 それとも、まあ、しょうがないやって、どちらもあきらめるのか。もっとも、同じあきらめでも、冨士は登録、鎌倉不登録で全く逆の結果である。

 鎌倉についてイコモスの判定は、真正面から不合格だそうで、鎌倉にとっては暫定登録から20年も待ってたのに、泣き!!!
 暫定登録は20年も前の日本が条約批准して間もなくのことだから、登録条件などあまり深く考えずに、古都法に対応する奈良、京都、鎌倉をあげておかなくっちゃあ、なんてことだったのだろうが、その後に登録条件が厳しくなったのが今になって逆目にでたってことか。

 鎌倉のことは何度か書いているので、ここではこれ以上は書かない。
参照→◆裏長屋の世界遺産談義(2009)
http://homepage2.nifty.com/datey/kama-sekaiisan.htm
◆102世界遺産よりも宇宙遺産
http://datey.blogspot.com/2009/03/102.html
◆世界遺産とはなんだろうか(2008) 
http://homepage2.nifty.com/datey/sekaiisan0803.htm
◆山並み眺望をついに守りとおした鎌倉(2008)
https://sites.google.com/site/machimorig0/home/kamasyun0803.pdf?attredirects=0&d=1
 鎌倉について一つだけ書くとすれば、西欧文化帝国主義のイコモスの外国人どもにはわからなくても、日本人には十分に鎌倉の歴史文化の価値は分かりすぎるほどわかっている。
 鎌倉市民がこれにへこたれずに、これからもたゆまぬ登録運動を続けていくことが、まちづくりにおおきく役立つはずだ、ということである。

 富士山の世界遺産登録については、三保の松原を除外すれば合格というのがイコモスの条件だそうである。
 その除外する理由が、富士山から遠すぎることと、三保の松原から見る富士山の風景を防波堤が壊している、というのだ。
 これは文化論としても風景論としても、実に面白い。

 遠すぎるとは、いかにも外国人らしい判断である。日本人には冨士には三保の松原はつきもので、遠かろうが近かろうが切り離せないものである。
 それは冨士には月見草がよく似合う(これもガイジンに分るかな)というよりも、もう大昔から伝説的にも文化的にも民俗的にも、日本人には身にも心にも沁みこんでいるのだ。

 え、今の若いもんはどっちも知らないの?、え、そお~?
 あのね、では、教えましょうか、能「羽衣」ってのがあるんだけどね、それと太宰治って、、、、あ、また年寄りの教え癖が出るって嫌がられるよな、うん、やめておこう。

 では、防波堤風景論である。これはどうもしょうがないよなあ。
 安全と風景、あるいは経済と風景となると、風景が必ずと言ってよいほど負けるのが、日本である。ガイジンにそこをつかれてしまった。
 三保の松原から眺める富士山の風景を大切にするならば、たとえば、この防波堤をコンクリ剥き出しではなくて、新たに防波堤となる砂丘を築いて松原をつくっておけばよかったのだ。
 そこは風景のほうが譲ってしまう日本であったのだ。
 ところで、イコモスが言う防波堤って、このことかい。
http://kura2.photozou.jp/pub/23/147023/photo/170879535_624.jpg

 防波堤と言えば、津波である。津波と言えば、高田の松原である。
 三保の松原の5万本、こちらは7万本と妍を競っていたが、先般の大津波で一本もなくなった。
 もうすぐ東海大地震がくるかもしれない時代だそうである。それが来たら三保の松原も高田の二の舞であることは確実である。と、わたしでさえ断言できる。
 羽衣の天女は富士の高嶺に飛翔して「♪天つみ空の霞にまぎれて失せにけり」だったが、松原は「♪泡立つ白浪津波にまぎれて失せにけり」となるのか。
 グーグルアースで、二つの松原を同じ高度から見る。



 ここにネットに載っている二つの松原の写真を見る。
三保の松原
http://blog-imgs-53.fc2.com/n/a/n/nanapapamodelcars/20121208020945a95.jpg
高田の松原(津波で消滅する前)
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/ed/02c8886a3aac641ea1caf27aa11bd2c0.jpg 
 ご覧のように、どちらも同じように、松は上のほうで葉を茂らせているが、胸から下というか下半身は丸出しスッポンポンである。
 自然な植生であれば、松の下には多様な中木や低木が生えているのが日本の気候風土なのだが、それが全くないのは、人間が伐り取っているからだろう。日本人は白砂青松が好きなのである。
 これなら津波は通り抜けやすい。通り抜けついでに松林をどんどん倒して、持っていくのだ。時にはこの倒木群が凶器となって陸の家々を襲う。

 思い出せば、伊勢湾台風が名古屋を襲った時、海の貯木場に浮かべていた大量の丸太類が高潮とともに街に押し寄せてきて、あらゆるものを破壊して、浸水による被害を更に増大した事件があった。1959年のことである。
 2013年三陸津波の被災地でも、松倒木による被害も語られていることがネットで読むことがができる。
 神奈川県の湘南海岸にある防災林は、松とともに常緑広葉樹が繁って、非常に密な植生状況である。ここでは松の下に生えてくる常緑樹を伐らないのである。これなら津波も通り抜けにくいだろう。

三保の松原も、そう遠くないうちに大津波で消えることは、高田の松原の先例でよくわかったはずだ。さあ、どうする?
 幸か不幸かイコモスがNOと言ってくれたから、世界遺産なんてどうでもいいことにこだわらないで、人命保護優先にしてここに大津波防潮堤を築こう、てなことになるだろうか。

 それとも、それじゃああんまりだ、せめて湘南海岸のようにでもしよう、なんてことになるだろうか。
 さて、世の人々はどういうだろうか。どっちにしても日本文化を理解しない奴らだと、白砂青松信仰組が反対するだろうなあ。

追記20130623
 本日のニュースでは、三保の松原もあいれて富士山は世界文化遺産になったそうである。
 そこでこんなことを書いた。
 富士山が文化遺産とはどういうわけ?http://datey.blogspot.com/2013/06/799.html





2013/04/30

758東北被災地徘徊譚4【名取1】あの大津波にこの平地でも社叢林の中にあった神社が耐えたとは!

 
 仙台空港から東へ貞山堀の橋を渡って、津波被災で何もかもなくなった名取市北釜集落跡の野原に踏み出した。
 まずは神社らしい疎林に行ってみよう。
 むき出しの土の上にコンクリート舗装の長い参道があるから、鳥居や灯篭が立ち並んでいただろうが、消え去っている。

 参道の先のまばらな木立のなかに10段ほどの石段があり、両側に狛犬1対と灯篭2対(うち1対は新品)があり、ほんの少しだけ高いところに二つの社殿が並んで建っている。どちらも小さくて祠というほうがふさわしい。
 下増田神社と紙に書いてベニヤ板に張り付けた。急ごしらえの案内がある。

 あたりに建物らしいものが何も見えないのに、この祠二つは、まさか津波前のままであったわけではあるまい。しかし流されてしまったのでもなく、壊れた様子も見せずに建っているのは、修復したのであろう。
 あとで調べてみたら、WEBサイトに震災前の写真があり、ここに拝殿などもあったらしい。震災後の夏に撮った本殿と脇社の二つだけがある写真(2011.07.31下増田神社)もあったから、被災した住民たちがいち早く復旧したらしい。
 住宅は破壊されたらいち早く片付けてしまうが、寺社の社殿はいち早く復旧するところが、いかにも日本的というか、興味深い。

 それにしても下増田神社は、この真っ平らな野原のなかで、わずかに高くなったところに(それとて周りのとの差は2mもあるかどうか)、小さな社叢林に囲まれて建っていたのだ。
 その微高地は、神社をここに勘定したときに盛り上げたのだろうか。
 その故に本殿だけでもいち早く復旧できたのだとすれば、3.11津波から被災をのがれた神社が各地に多いという事象のひとつなのであろう。
 

 山裾ならわかるが、ここのような4mもの津波に襲われた平地の真っただ中というのは珍しいだろう。社叢林が効果があったのだろうか。神社の隣に観音寺という寺院があったが、こちらは破壊され流された。そこは周りを囲む森はなかった。新しい本堂らしい建物を建築中であった。

 寺の裏には墓地があったらしく、今は野の中に石塔が立ち並ぶので近づいてみる。新しい墓石も多いのだが、傷があちこちについてる墓石も立ち並ぶ。津波の傷跡だろう。
 津波は墓石群をも倒して、もしかしたら骨壺も流したのかもしれない。被災直後の墓地の空中写真では、墓石群は見えない。
 今この形になっているのはいち早く修復した結果だろう。墓碑銘に新しく刻んだ戒名に、あの惨事の日付をいくつか読んだ。


 神社本殿といい墓地といい、人間は肉体の棲む家はきれいさっぱり片づけてもも、心の世界の棲家は消えることを許さない。神社で生まれ育ちながら無神論者のわたしには、なかなかできないことだが、、。

●全文は「東北に大津波被災地を訪ねて【名取市北釜地区】」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama

693【東北被災地徘徊譚3東松島野蒜】自然と人間はどう折り合うのか
691【東北被災地徘徊譚2仙台塩竈】森の長城で津波に備える市民プロジェクト
689【東北被災地徘徊譚1石巻】マンガッタンで映画「猿の惑星」の主人公の眩惑

2013/04/29

757東北に大津波被災地を訪ねて【名取市北釜地区】

復興で仙台・名取都市圏はどう変わるのだろうか

1.仙台空港に何もない風景を見に行く

 仙台空港に行ってきた。仙台と名付けながら仙台市内にはなくて、その南の名取市と岩沼市にまたがってある。
 ならば、なぜ宮城空港と言わないのか。たぶん、仙台平野にあるからだろう。千葉県浦安市にありながら東京ディズニーランドというがごとしで、あれは東京湾に面しているからだそうだ。
 さて、仙台空港駅についたが、べつに飛行機に乗る用事はないのだ。空港を背にしてすたすたと外に出て東に向かう。
 外に出てもなにもない、まったくと言ってよいほど、な~んにもないのである。
 今日はその何もない風景を見学にやってきたのだ。そう、津波被災地である。仙台平野は見事といってよいほどに3.11津波に洗われた。
 特に名取市の北部の閖上地区の消失を、わたしはその当時にメディアでいろいろと見て、息をのんだ。閖上なる地名もユリアゲなる読み方も、初めて知った。
 今日やってきたこのあたりは、名取市の南端部の太平洋沿岸で、地名を下増田地区の北釜集落という。
 空港の東に海岸に並行して貞山堀という運河がある。伊達正宗が掘らせて17世紀初頭にできたという。背後に空港のエンジンが轟々となる音を聞きながら運河にかかる橋を渡れば、前にはただただ草が地面をおおう巨大な広場である。



以下、続きの項目は

2.あまりにもきれいすぎる被災跡地
3.この平地でも社叢林のあった神社が津波に耐えた
4.もしかしたらこの大通りが津波の侵攻を招いたか
5.海岸砂丘の松林と屋敷林(いぐね)は津波を止めなかったのか
6.新たな海岸森林に津波減災機能を期待する
7.集団移転は名取市の都市構造をどう変えるか


全文は「東北に大津波被災地を訪ねて【名取市北釜地区】」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama

関連ページ
・東北に大津波被災地を訪ねて【東松島・野蒜】
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama
・地震津波原発コラム集
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#jisin

2013/04/24

756・半世紀の憧れ期間を超えて奥州の名建築にようやく出会ったが津波被災地との落差に泣いた

 ついにその姿にお目にかかった。半世紀余のあこがれた想いが叶った。
 あのはじめて写真で見た日の姿そのままに、いや、白い綿帽子をかぶって薄化粧までして、迎えてくれたのであった。

 今から半世紀余も前のこと、学生だったわたしは、発行されたばかりの写真集にある、その美しい姿に、一目ぼれしてしまった。
 それがたたずむのは東北の奥地、西から関東にやってきたわたしは、そこがどこかさえもわからぬままに美しさに惚れこみ、建築学生を卒業するディプロマ(卒業設計)に、その姿をデザインモチーフとして織り込んだほどであった。

 それから半世紀たっても、いまだに憧れのままに、その実物の姿に接しないままだったが、でも決して忘れていない。ときどき、もう古書となって表紙の糊が取れそうな、その写真集をとりだして眺める。
 かの奥州の奥地を訪ねていつかは会いに行かなければならぬと思いつつも、いや、あこがれのままに行かぬほうが良いかもしれない、などとも思う。
 だが、そろそろ行っておかないと、遂に行けぬままに人生を終わるかもしれぬ、そんな年齢となってしまった。

 そしてこの春ついに、その名も遠野という地に、はるばると訪ねたのである。
 4月も下旬となったというのに、その日は朝から雪であった。そう、白く化粧をして待ってくれているに違いない。
 タクシーで行くのはもったいない。いや、お金もそうだが、いきなり乗り付けては、半世紀の楽しみが瞬間に壊れるかもしれない。ここは歩いて行こう。


ローカル線の小さな無人駅で降りた客は、わたしひとりだけ。目的の地は、広い谷間の2キロほど上流の右向こうで、山際に隠れている。
 小降りになった氷雨交じりの春の雪のなかを、田んぼの中の道から山沿いへと、わずかな登りをゆるゆると歩く。森は半分霞みがかかり、木々は雪の帽子をかぶっている。
 緩やかな傾斜地に広がる田畑、そして点在する農家の墨絵の風景のなかに、自分もその点景となって歩く。

 さすがにいまでは、あたりに見える家に茅葺屋はない。
 道脇に大屋根の家を二つ見たが、ひとつは茅葺にトタンをかぶせており、もうひとつは放棄されたらしく、サスも垂木も小屋組みが露出して立ち腐れ進行中の茅葺の家であった。
 それでもこれから出会うはずの半世紀の憧れを、予知させるのに十分であった。

 
 やがて道の右に迫っていた山際が広くなったと思うと、それが姿を見せた。
 おお、これがあの千葉家住宅!、あの二川幸夫の写真の通り、美しい姿である。しかも、折からの時ならぬ春の雪で、綿帽子をかぶっているのであった。歓迎のお化粧か。

 このプロポーションの良さ、ダイナミックな石垣、バランス良い棟の並び方、山を背景に真っ白な三角形の屋根が浮き出ている。これはもう、たまらない。
 石垣から飛び出す石の数々のカンチレバーにもあこがれたのだった。今、目の前に惜しげもなく見えている。


 
 
 
   というわけで、遂に半世紀を超えての名建築探訪が叶ったのであった。
 建築を見て感動することはほとんどなかった。これまで唯一の感動した建築というか、建築をめぐる風景と言った方がよいが、シドニーのオペラハウスであった。
 今回の千葉家住宅も同じく、建築もそうだが周りの環境と合わせての風景に、久しぶりに感動したのである。

 二川幸夫と伊藤ていじによる「日本の民家 陸羽・岩代」(1958年)という名写真と解説に出会い、ちょうどそのときに卒業研究の丹波民家調査で伊藤ていじ先生にも出会ったのだった。
 伊藤先生も二川さんも亡くなったが、千葉家住宅はいまも健在であった。

 実は、ここに来る前の2日間は、3・11大震災の三陸津波被災地を巡っていたのだ。
 そこでは、なにもかも失われ消滅した風景ばかり見てきたので、ここにきてわたしの半世紀余前からの憧れを、2世紀余の前からの姿で迎えてくれたことが、ひとしお眼と心に沁みこんだのでもある。
(消えた南三陸町志津川地区)
 
遠野ではほかに何も見ずに、またローカル線と新幹線を乗り継いで、名取市の浜のあたりの、何もなくなって草原となった住宅地と傷だらけの石塔が並ぶ墓地を訪ねて、またもやその喪失感に打ちのめされたのであった。(2013.04.24)

●関連ページ:728二川幸夫・伊藤ていじ「日本の民家」に53年ぶりに出会って年寄りになったと自覚して懐古譚
http://datey.blogspot.jp/2013/03/728.html