2013/05/08

764東北被災地徘徊譚7【野蒜1】あれから2年経っても未だに津波が戻って行かない

 3・11大震災の津波被災地である東松島市の野蒜地区に行ってきたので、その観察記録を連載する。といっても、なにか提案するのでもなし、ましてやなにか実行する能力はなし、単なる昔都市計画家好奇高齢徘徊老人のたわごとである。

 昨年秋に東北被災地に、小さなボランティア活動に行った。仙台からJR仙石線に乗って被災地を訪ね、東松島の惨状を見てこのようなことを書いた。
 「東北に大津波被災地を訪ねて【東松島市野蒜地区】自然と人間はどこで折り合って持続する環境を維持できるのか」(2012年11月26日)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru


●図1:野蒜の仙石線東名駅近くの陸橋の上から南方面を撮影
2012/11/11
 その去年の記事の初めに、この写真を載せた。2012年11月11日に、仙石線東名駅近くの陸橋から南東方向に向いて、東松島市野蒜洲崎方面を撮っている。
 向こうに海のように見えるのは、実は2011年3月11日の津波から、いまだに居座っている海水である。ここから惨状をくみとって調べていろいろと書いた。

 震災前は緑の田畑であったが、2年後も海水は引いていない。ここは昔の遠浅の海を干拓して、入浜式の塩田であったのを田畑にしたのだそうだ。それならば昔は、海水が出入りしなければならなかったのだ。いまそれが再現したのだろう。そこに行ってみることにした。

●図2:野蒜地区空中写真google earth
2012/04/12
  図1の写真は、陸橋の上からこの写真の黄色矢印方向に撮った。
津波から2年後の先般(2013年4月19日)、その野蒜のいまだに海水が居座る洲崎地区に入ったのである。 

●図3:野蒜の洲崎の中に取り残された小屋 
2013/04/19
 図1の中央上方の水中に小屋がみえる(図2の黄色丸の中)が、それがこれ。
  もともとは何だったのだろうか。農業用のなにかだったのだろう。
  ここまでは元の田んぼのあぜ道を高く盛り上げてある海の中の道になっていて、入ることができる。
 
●図4:上の小屋あたりから図1陸橋(禿げた稜線部の下あたり)のほうを見る
2013/04/19
あたりは一面の海水で、そこに半分沈む機械のようなものがある。他にも小屋などが半分沈んでいたりする。土地が沈下したのであろう。

 向こうの山の稜線の一部が禿げているが、ここが野蒜地区被災者の高台移転先で、ただいまニュータウン造成工事中である。
 そこから出る残土を、こちらの海に捨てて埋立するのか、それとも移転跡の宅地に盛り上げて地盤を高くするのか。
 5、6年後にはその山の上にJR仙石線も移転して、家家が立ち並ぶのが見えるようになるのだろう。そして山のふもとにも街が復興するだろう。どのような景観が生れてくるのだろうか。(つづく)

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