2013/05/03

761東北被災地徘徊譚6【名取3】海から直角に砂丘を切り開いて集落を貫通する大通りが津波の侵攻を容易にしたのかもしれない

 宮城県名取市の仙台空港の東のある、津波で消滅した北釜集落跡にきている。
貞山堀にかかる橋を渡って東へ、海に向かって直角につけてある広い道を歩いて行く。海辺のほうには砂丘があり、その上にまばらな林が見える。津波が通り抜け、倒してやってきた海岸林である。
この道は、集落の中心を東西に貫き、その先は砂丘を低く切り開いて、砂丘の向こうの海まで続いているようだ。
<海辺につづく集落中心道路>

  国土地理院サイトの古い空中写真を見ると、この道は1980年代にはまだ開通していないようだから、比較的最近になって作ったものだろう。
 古い順に北釜地区を見ていこう。
1948年
     1984年
   2009年
   2011年3月14日(津波直後)
 
この道は、津波の侵攻する大通りになったようだ。まるで集落に招き入れるように、真ん中を貫いている。
 一般に、海岸に直角になって砂丘を切り開く道路が津波の道になることは、すでに指摘されている。ここには昔からの教訓はなかったのだろうか。
 かつては歩くだけでよかったので、曲がった細い道が砂丘の上を越えて海につづいていたのだろう。それが自動車時代となって、津波のことは忘れて砂丘を切り、直線で広く勾配のない道をつくった結果が、この惨事となった遠因かもしれない。

  もうひとつ自動車時代となっての問題は、空港利用に伴う自動車駐車需要の波がこの集落に押し寄せていることだ。
 多くの農家で、広い屋敷地の畑、植栽地、生け垣などをつぶして舗装して駐車場とした。それは農業でない新たな収入源が得られるメリットがある一方で、津波は集落内を円滑に流れやすかっただろうとも思うのである。

 道の右にひとつだけが建っている2階建て木造の壊れかけ住宅に、ときどき車がやってきて、降りて眺めては出ていく。もしかして被災地観光コースに組み込まれているのだろうか。
  このようにあたり一面がきれいになってしまっては、集落の悲劇を目で訴えるものがない。
 この住宅は悲劇伝承の役割を背負って、わざわざ残しているのだろう。もしこれが無いと、津波事件を知らないで見るこの地の風景は、ただただ平和な原っぱである。  
<津波瓦礫塵埃が撤去された中にわざと残しているらしい破壊された一軒家>

  南三陸町の防災対策庁舎の悲劇がその名とともに有名であるが、いま、鉄骨の悲惨な姿で建っている。記念碑として残すかどうか、地元では論争中だそうだ。
  悲劇の当事者に対してよそ者があれこれ言えないが、なにか眼に訴えるものは残してほしいと思う。
 人間は忘れるものである。あらゆることを覚えているのもかなり辛いことだろうが、忘れて悲劇を招くこともある。

●全文は「東北に大津波被災地を訪ねて【名取市北釜地区】」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama

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