2011/04/11

411カトマンヅ市街と旧王宮

 ネパールの首都カトマンヅは、この10年ほどで人口急増、まさに一極集中らしい。
 だが、特の都市計画の土地利用規制も道路計画もないらしく、旧王宮のある丘の上の旧市街を中心に、四方にだらだらと広がっている。
 カトマンヅ中心街の街並みは、自然発生的な曲がりくねった細い道沿いに、4~6階程度の煉瓦増を中心とした建築が立ち並ぶ景観は、まるでヨーロッパ中世の町とソックリである。ここはアジアとはとても思えない。
 ヨーロッパとの違いは、こちらが広告物、電線、汚れ、そして人、バイク、車、牛までもいて、どこもごった返していて、なんとも汚らしいことである。この活気はオリンピック頃の東京か。
 カトマンヅ盆地にある古都のパタン(ラリトプル)、バクタプル(バドガオン)にも行ったが、どこも似たようなものである。なかではバクタプルが比較的キレイであり、カトマンヅが最も汚かった。
   ◆
 旧王宮のダーバー広場に入る。入場料金をとるのだが、どうも外国人団体だけを対象にしているらしい。あちこちに街の路地がつながっていて、回りこめばタダで入ることがいくらでもできる。これはパタン、バドガオンでも同様である。
 旧王宮には、16世紀からのネパール式というかネワール族の建築様式というか、煉瓦と木材を組み合わせた建物と、20世紀はじめの洋風様式石造建築とが並んでいる。
 白い洋風様式建築はそれなりにスタイルが整っているのは、ラナ専制時代にイギリスの建築家にこれを設計させたからそうだ。
 この16世紀と20世紀との建築様式のとり合わせは、建築史家はもちろん観光客にも評判が悪い。同行した友人たちにも不評だった。
 だが、日本でも19世紀中ごろに一生懸命に洋風様式建築で近代化を目指したのと同じことのようにも見える。日本で似たような銀行建築がいまや重要文化財となっているものがあるから、ネパールのこれが100年後に世界遺産の一角に加わっていても当たり前であるといえる。わたしにはそれらの歴史の重層する風景が実に興味深く面白い。
 ほかにもラナ時代の白い洋風建築がたくさんあって、今は官庁となっている。
 しかし、日本の明治洋風建築の摂取と、ネパールのラナ専制時代(1951年までの104年間)のそれとの異なる点は、ネパールでは国家の西欧型近代化とまったく関係がないことである。ネパールの洋風建築は南隣の英国植民地インドからもたらされたものであろう。
   ◆
 王宮と道を隔てた向かい側の民間の建物群も、店舗や住宅らしいがどこか伝統的デザインコードをまとう様子であり、それは市街のメインストリートの建築にも見られる。いわばにほんでビルに格子状の窓と勾配屋根をつけるようなものである。
 それはパタンやバクラプルでも同様であった。それらの世界文化遺産のコア施設としての旧王宮建築のバッファゾーンとしての市街地の建築を、どう見れば良いのだろうか。どこからどこまでは世界遺産のコア施設か分りにくい。
 興味深いのは、あきらかに世界遺産コア施設となっている旧王宮や寺院建築に、大勢の人たちが何の規制もなく入り込み、座り込んでいる。観光客もいるが地元の老人たち、しかも男がほとんどである。ホームレスの居場所のようにも見える。
 世界遺産の重要文化財に上がりこんで大勢寝込んでいるなんてことは、ちょっと日本では考えにくい。この文化財の人間臭い生活臭にあふれている身近さは一体どう考えればよいのか。
 ここはかつて世界遺産としては危機遺産に登録されて廃止になるかもしれなかったのが、今はそれも解除されたそうなので、ガイドになにをしたのか聞いてみた。答えが正しいかどうか分らないが、かつては土産店が入りこんでいて汚かったのだが、それらを排除して、車も入れないようにし、修復もしたからだという。
 物売りや物乞いが近づいてくるのは、かつてのローマやアテネで経験したが、久しぶりだった。

2011/04/07

410ネパールに行ってきた

 3月10日にネパール旅行の航空券を買ったら、次の日が東北太平洋沖大地震。
 旅の出発日は28日、揺れはだんだんとおさまってきたが、原発事故が拡大している。
 これから横浜にも放射能が降ってくるのかしら、毎日停電かしら、そうしたら疎開しなけりゃならない、そんなときに海外で遊んでたら帰ってきてどんなこと言われるか、その後の人生が窮屈なことになりそうだなあ、う~む、さて、行って良いものかどうか、楽天的なわたしでもちょっとは悩んだ。
 役に立たない老人が日本にいて食糧やエネルギーを消費しているよりも、外国に行っているとその分だけでも被災地に回るかもしれないなんて屁理屈をひねり出して、ネパールに疎開をしたのであった。
   ◆
 大学同期の畏友から、ネパールに行こうと誘われたのは今年1月のこと。
 なんでもカトマンヅにある日本語学校を支援している大阪にあるNGOの主催だそうで、旅程の一部にはその支援活動も入っているという。
 ミニトレッキングもあるそうだから、ヒマラヤに出会う経験もできるだろう、もうこれが最後の海外旅行だろう、なんて思って、行くとすぐに返事した。
 やはり同期の畏友たち2人が加わって老人組4名の仲間が、関西の4名とで行くことになった。後で分ったが、生まれ月からわたしが最年長であった。
   ◆
 行くと決めてから調べてみたら、それなりに目的が定まった。
 そのひとつは大学山岳部以来の憧れのヒマラヤと出会うことである。2006年にもうひとつの憧れだったヨーロッパアルプスに行ってきたから、これで仕上げとなる。
 ヨーロッパルプスで感激したから、あれよりも雄大なヒマラヤ山脈に囲まれる体験をしたいという願望は、残念ながら叶わなかった。
 トレッキングと書いているから、早とちりして、ヒマラヤの麓まで行くのだろうと思ったのだが、ポカラの山の上からはるかに遠望するだけであった。
 ではヒマラヤ遊覧飛行に乗ろうと思ったら、予定したポカラ飛行場からは飛んでいないのであった。
   ◆
 第2の目的は、カトマンヅ盆地の歴史的市街地を見ることである。これは短時間ではあるが、それなりに目的を達した。
 旧王宮については、大学時代の恩師である藤岡通夫先生が、晩年にその調査に力を入れておられて、調査報告書や随想集「ネパール建築逍遙」(1992年 彰国社)をあらかじめ目を通してから行くことができた。
 カトマンズ盆地は世界文化遺産に登録してあるので、こちらの鎌倉(暫定登録中)の大先輩格である。
 鎌倉と同様に市街地と歴史的資産が交じり合っている環境にあるのだが、その混じり方は大きな違いがあって、それが実に興味深いものであった。
 この世界遺産と市街地とのことについては別に書きたい。
   ◆
 第3の目的は、釈迦の生誕地ルンビニを訪問することである。といっても、釈迦の生誕地としてのルンビニには、わたしは何の興味もないし、実際にも面白くなかった。
 実はそこにある「ルンビニ博物館」と「ルンビニ図書館」に用があるのだ。これら二つの建築の設計は丹下健三である。
 実はその設計担当がそのころ丹下事務所に所属していた同期の親友・後藤宣夫(故人)なのである。後藤は1984年にここに滞在している。
 2000年に先に逝ってしまった親友の仕事に図らずも出会うのが楽しみである。この目的は半分だけ達した。
   ◆
 今回の旅で予測しなかったことでもっとも印象的だったのは、カトマンヅからポカラを経てルンビニに至るまでの400キロメートルに及ぶ長距離バスの旅であった。
 中高地から低地へ、山地から平原へ、温帯から亜熱帯へ、多様な植生、農山村集落、街道筋の地方都市、大都市の市街、そしてそこに暮す多様な民族の姿、次々と展開するネパールの人間と自然の景観に興奮した。
 ほんの通りすがりにすぎないのだが、たくさんのことを考えた。

2011/04/06

409停電が普通の地から戻ってみれば

 ネパールは停電が当たり前である。水力発電だけだから、乾季の今は1日のうち14時間も停電している。
 レストランで食事中でも、ホテルの便所の中でも、突然に真っ暗になっても慌てることはない。そのあたりにローソクを用意してあるから火をつければ良いのだ。
 とは言うものに、わたしは煙草を吸わないからマッチもライターもなくて、風呂場で真っ暗になってもローソクが役に立たない。だからしばらくそのまま待つ。やがて自家発電機が動いて、必要最小限なる明るさが戻ってくる。
 どこの店も家も自家発電機を備えているそうだ。日本語学校のネパール人教師から、日本でもそうかと聞かれて、とまどった。そうか、日本でわたしたちは停電がないことを前提に生活しているのである。
 太平洋戦争で敗戦して数年間は、日常的に停電をしていた。自家発電機はなかったが、ローソクもマッチもいつも用意していたものだ。
 ネパールから9日ぶりに横浜に戻ってきてみれば、停電しないのが当たり前の生活に戻った。そして揺れないのが当たり前の生活にもなっていた。
 でも原発の放射能恐怖はあい変らずで、原発のないネパールでお見舞いの言葉をいただいたのを恥かしく思いだした。
    ◆
 ただし、ネパールは世界有数の地震の地である。インド大陸とユーラシア大陸がぶつかって、そのせいでヒマラヤ山脈ができたところなのだ。
 首都のカトマンズでは1934年の大地震で4296人、1988年にはウダイプール地震で721人が死んだそうだ。
 ところが、世界遺産登録になっている歴史的な市街地では、目でみてわかるくらいに古い建物、それも3階、4階建てのものがたくさんある。
 それらは伝統的な木材と煉瓦を組み合わせた構造なので、目に見えて傾いていてかなり怖いものもたくさんある。隣の新築煉瓦ビルに寄りかかっているものもある。
 新築のビルも多くは4~5階建て、20センチ角くらいの細いコンクリート柱を5m間隔くらいに建てて細い梁でつなぎ、間に鉄筋の補強もなしに煉瓦あるいはコンクリートブロックを積み上げている。開口部のマグサは厚さ10センチ程度で頼りにならない。
 1932年とは比べ物にならないくらいに人口集中が著しいカトマンズで、もしも大地震が起きたら、万を超える人が死にそうだ。停電は平気でも地震は怖い。

2011/03/21

408福島第1原発を世界遺産に登録しよう

 東北地方太平洋沖地震による被災者のかたがたに深甚のお見舞いを申しあげます。
 地震動と津波で大変なところに加えて福島第2原発事故という3重の被災には、驚愕するばかりです。
 一介の年金暮らしの徘徊老人としては、救援物資を送る仕事をしている息子を、ちょっとだけ手伝ったくらいなもので、お見舞いの言葉と節約と寄附ぐらいしか、被災者のかたがたへの対応はできません。お詫びします。
   ◆
 地震動→津波→原発の順に、自然災害から人工災害の度合いが高まってくる。
 特に福島第1原子力発電所事故による被災の広域拡大には、事業者が日ごろから大丈夫であると宣伝していただけに、人災の度合いが高い。
 多くの人々が放射能の飛散地域から避難せざるを得なくなって、その人々の多大な損害はいくばくになるのだろうか。
 そしてこれは地域だけの問題ではなく、原子力発電所のあるところは世界中のどこでも起きうる災害であり、世界の原子力政策の転換を促しつつある。
 チェルノブイリ事故のときは、どこか後進国の未熟な技術がなさしめたこと、スリーマイル事故ではバカなヤツのうっかり間違い結果のこと、で、先進技術大国の日本ではそんなことはありません、てなことだったようだと、わたしのような普通の人は思っている。
 ところが、そんなことがおきてしまったのだから、人災と言われても仕方ないだろう。
    ◆
 常識的に考えて、これで福島第1原発は閉鎖になるだろう。
 技術大国日本の先進技術でもってして技術的に再稼動が可能となったとしても、これだけの広大な地域に被害を与え、そして世界の原子力政策に影響を与えたのでは、社会的には再稼動できるはずがない。
 そこでわたしの提案だが、福島第1原発を世界文化遺産に登録してはどうか。
 人類の英知の結晶である技術文化が、自然の威力の前にこれだけの災害となった記念建造物である。
 廃炉となってもすぐに取り壊すことは不可能だから、今後ともその爆発による姿を人々の目に見せることで、人類の英知の限界を警告する世界的遺産となるだろう。
    ◆
 既にその前例は、日本では広島原爆ドームが世界文化遺産登録している。
 昨年は、太平洋のまんなか水爆実験(第5福竜丸の被災で漁民が命を奪われ、汚染マグロで日本漁業は大打撃)のビキニ環礁を、世界文化遺産に登録した。
 原爆ドーム、ビキニ環礁、福島第1原発は一連のものとして、原子力のもっている脅威をまざまざと世界の人々が認識できることだろう。
 このような遺産登録こそが、人類のこれからの文明永続のために必要なことだ。
 世界遺産登録で観光振興なんていうチャラチャラした考えは吹き飛ぶのだ。

関連ページ
再び唱える「福島第一原発を世界遺産に登録しよう」(2013年2月25日)
http://goo.gl/kEtO9
◆大佛vs観音世界遺産談義(2010.12)
http://homepage2.nifty.com/datey/kamakura-sekaiisan2010.htm
◆裏長屋の世界遺産談義(2009.12)
http://homepage2.nifty.com/datey/kama-sekaiisan.htm
◆300南海の苦楽園世界遺産
http://datey.blogspot.com/2010/08/300.html
◆Bikini Atoll Nuclear Test Site
http://whc.unesco.org/en/list/1339
◆Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome)
http://whc.unesco.org/en/list/775

(追記110429)こんなことを言うのはわたしひとりかと思っていたら、WEB検索してみてほかにもいることが分った。例えば、http://ameblo.jp/worldheritage-next/entry-10859655181.html

407NPOネットワークはないのか

 新潟県にいる友人が、いても立ってもいられなくて、会津若松の避難所まで救援の灯油を運びこんで喜ばれたという。
http://irp1999.at.webry.info/201103/article_14.html
 首都圏から行くよりも近いし、ガソリンも食糧もあるのに、これを送り出しあるいは受け入れるシステムがあるのかないのか分らない。個人で行っては混乱するかもしれない、でも待っていられない。行動力ある友人は、とりあえず個人ネットワークを生かして、車を駆ったのであった。
 平常時からNPOのネットワークがあると、こういうときには柔軟な活動で救援ができそうだと思ったのであった。

2011/03/20

406内陸母都市に疎開定住公共賃貸住宅を

 民主党政権になって、公共政策としての居住政策が強化されるのかと思っていたが、反対で自民党よりも劣った政策であった。
 公営・公社・都市機構などによる公共賃貸借住宅が、このところ縮小に縮小を続けている。
 東北関東東部大震災で、これだけ多くの人たちが避難や疎開をしているが、これに対応する仮設住宅の建設がこれから進められるが、それまで待っている人たちの生活が思いやられる。
 しかし、仮設住宅はあくまで仮設であり、いつの日か本設の自分の家にもどるのが筋道である。
   ◆
 ところが今回の場合は、戻るべき自分の家のあった土地が、沈下して水面下になっている、海に近くて再び住む気にならない、放射能汚染されていて戻りたくない、今後も放射能汚染事故があるかもしれないから戻りたくない、高齢でいまさら戻る資力も気力もない、などなど、今までの地震災害とはかなり異なる局面があるように思うのである。
 つまり元に戻らないで疎開先に定着することになる。
 そこで浮かび上がってくるのが、それらの人たちに、適切な地域に安価な疎開定住住宅として公共賃貸借住宅の供給である。
 ところがはじめに書いたように、公共住宅賃貸借住宅は少なくなっているので、現在の空き家を提供しようとすると、元の居住地とはかけ離れた遠くの地に、しかもバラバラと求めざるを得ない。これでは移る人たちにとってはまことに不安である。
 わたしは公共賃貸借住宅の減少政策に反対、更なる建設促進をこれまで唱えていた。それは大規模震災への対応がベースにはあったが、今回のような移転疎開用までは思いが及ばなかった。これでその面でも必要と分った。
   ◆
 これからぜひとも公共賃貸借住宅を災害疎開者のために建設してほしい。新たな住宅建設のための負担を、持家優遇政策で被災者に借金させてはならない。
 それも被災した地域の内陸にある母都市の中心部に、疎開者の元のコミュニティ集団に対する単位として建設するのだ。
 こうすることで、災害疎開者のコミュニティの継続と、空洞化する地方都市の再生とをセットにする震災復興都市計画、いや震災再生国土計画とするのである。
 繰り返すが、災害復興政策として持家建設やマンション購入を優遇する金融や税制を優先するのではなく、震災疎開先定住用の公共賃貸借住宅を内陸母都市の市街地に計画的に建設してほしい。

●参照
たった一人キャンペーン:分譲マンション反対論
http://homepage2.nifty.com/datey/kyodojutaku-kiken.htm
384また住宅政策の後退
 http://datey.blogspot.com/2011/02/384.html
357今度はURも賃貸住宅縮小か
 http://datey.blogspot.com/2010/12/357.html
353公営住宅縮小の愚策
http://datey.blogspot.com/2010/11/353.html
095貧困な住宅政策
http://datey.blogspot.com/2009/02/blog-post_13.html
187民主党の居住・住宅政策は?
http://datey.blogspot.com/2009/10/187.html

2011/03/19

405巨大津波と原発被災言説等

高度情報時代で、WEBサイトでいろいろと知りたいことが出てくる。
内容はともかくとして、ここに気になったものを後々のために挙げておく。

●巨大津波の大災害とその復興の事例はほんのちょっと前にもあった。
北海道南西沖地震と復興への道のり
北海道南西沖地震の概要
●原子力発電の問題
破局は避けられるか:広瀬隆
大前研一
原子力資料室

●津波の前と後
津波前後
http://picasaweb.google.com/118079222830783600944/Japan#
「まちもり通信」編集の津波前後写真

2011/03/18

404戦時中のような

 太平洋戦争の時代みたいな言葉が行き交っている。
挙国一致」というのがいちばんすごいと思う。そのうちに大政翼賛になるか。
 西日本に住む知人たちから、関東に住むその子や孫が「疎開」してきたと、Eメイルで教えてくれた。そのような例は多いだろう。
「疎開」も懐かしいといっては語弊があるが、戦中の言葉である。
 阪神淡路大震災のときには避難とは言ったけど、疎開はなかったような気がするが、どうか。
 広辞苑によると
そ‐かい【疏開・疎開】
①とどこおりなく通ずること。開き通ずること。
②戦況に応じて隊形の距離・間隔を開くこと。
③空襲・火災などの被害を少なくするため、集中している人口や建造物を分散すること。疎散。「学童―」「強制―」
    ◆
 太平洋戦争末期には、空襲に対応して避難路や延焼防止のために街を壊したり、空き地を作ったり、あるいは軍施設をつくったりしたこともあった。強制疎開である。
 今回はどうか。今後のまちづくりでは、津波に対応して街の疎開が必要かもしれない。
 太平洋戦争末期に、都市空襲出被災し、あるいは空襲を避け、あるいは上に述べたような疎開にひっかかって強制されて移転せざるを得ない都市住民が、都市から離れて地方各地の移動したことがあった。
 小学校がまるごと地方の町などに移ったのは、学童疎開である。
 1945年のはじめ頃、わたしの生家の神社の社務所には、芦屋市から小学校6年生のひとクラスが空襲を避けて学童疎開してきた。
 親戚の家などに避難するのは縁故疎開といった。
   ◆
 今回の原発疎開は、まさに空襲そのものである。そして強制疎開の再現である。
 避難よりもこの疎開が使われるのは、そのあまりの規模の大きさが、かつての戦争時代を思い出させるからだろうか。
 外国人がどんどん国外脱出しているし、関東の企業も関西に移動しつつあるらしい。これもまさに疎開である。
 外国人が脱出するのは、理解できる。もし自分が言葉も不自由な外国でそのような目にあったら脱出しかない。
 今、外国にいる日本人も心配で帰国したいだろう。もしかして、あの時の「交換船」のような交換飛行機が出るかも。
    ◆
 自衛隊の予備自衛官に召集令状が来たとニュースで言っている。「予備自衛官」という制度があったのか。
 これはまさにあの戦争時代の予備役軍人への非常時招集の再現である。
 太平洋戦争末期には、40歳以上の老兵の予備役も招集され、兵役年齢も21歳から19歳に下げて、若者だけでなく少年も中年も戦場に駆られたのであった。
 まさに「挙国一致」の翼賛体制になり、その後は歴史の示すとおりになったが、あれとこれは違うとしても、さて、この大災害がどのように日本を変えるのだろうか。
 ちょっと気になるのは、震災対策への批判、例えば東電や当局の発表の仕方などが下手で分りにくいのでこのブログで批判したら、ある人から今はマイナスの言を慎め、現場は寝ずにやっているんだと、なんだか「非国民」みたいに逆に非難されてしまったことだ。これも戦時中の言葉である。
 戦争中は、政府、軍部、兵士への批判を、そして遊びをも「非国民」なる言葉で、庶民自身が互いに封じたのであった。

2011/03/16

403地震津波火事原発で酔生夢死

 こう毎日毎日四六時中ゆらゆらと揺すられていると、地震だろうか、脳梗塞がきたのだろうか、それともオレは酔っ払っているのか。
 どうせなら酔っ払ったことにして、酒代を節約している。
 こうやって、起きているときは酔っぱらい、夢見ているときに崩落する本の山に埋もれて死ぬ、つまり今や酔生夢死の世界にいるのだ。
    ◆
 今日も今日とて、朝早くから地下鉄に乗って友人の家を訪ね、その案内で近くの商店街あたりを、被災地に送るガソリン携行缶を探し求めて、ふらふらと荒物屋を巡り歩く。
 5軒のうち2軒で5リットル分をひとつづつ買い求めたが、いずれも最後の品であった。
 こんなものが売れているのは、多分、家庭に備蓄するためなのであろうと思うが、おかげで被災地救援にしわ寄せが行っている。
    ◆
 開店前の量販店のシャッターの前に長い長い待ち行列ができている。
 ガソリン屋の前から道路に長い長い車の待ち行列ができて、渋滞している。
 これって、もしかしてこちらにも大地震が来るかもしれないので、それに備えての買いだめなのだろうか。
 確かにそれらの行列をみていると、買わなくちゃって群集心理に駆られる。
 その分、ガソリン缶みたいに、被災地へのとばっちりが、あるかもしれない。
    ◆
 教訓「怖いもの」の変化:
  昔「地震雷火事泥棒」
  3日前まで「地震雷火事親父」
  今は「地震津波火事原発

2011/03/15

402ガソリン携行缶を探して

 独法の某機構の本社総務にいる息子が、東北地方被災地へ送る救援物資の調達を担当している。
 その息子からお願い電話が来た。「ガソリン携行缶」を探してくれというのだ。
 救援物資(ガソリンもそのうちのひとつ)を積んだ車を出すのだが、往きはなんとかなってもあちらや帰りにガス欠になったら、救援される側になる。
 高速道路の途中で自衛隊がガソリン供給しているとの話もあるが、万一に備えてガソリンを積んで行きたい。
 ところが、そのガソリン携行缶がどこにもなくて調達できないそうだ。
 徘徊老人の父親に、徘徊ついでに街場の商店街で荒物屋に立ち寄って、ガソリン携行缶を見つけてくれというのだ。
 で、横浜都心の商店街をうろうろ、売っているかもしれないと思う店にいくつも立ち寄ってみたが、これがないのである。
 ようやく小さな荒物屋でひとつだけ見つけて、息子に教えて買った。ささやかな被災地支援となったかもしれない。
  ◆
 それにしても、どうして横浜のような被災地でもないのに、コンビにも量販店も小売商店に物がないのだろうか、不思議である。
 まさかと思うが、不埒な買占めが起きているのかしら。
 横浜市内のどこかにガソリン携行缶を売ってる店をご存じありませんか。