2012/10/24

680中越山村の美しい風景には柏崎刈羽原発からの死の灰の脅威が潜んでいた

熊五郎 やあ、ご隠居、元気かい。
ご隠居 ああ、熊さん、おまえはいつもうるさいね。
 え、珍しくご機嫌ななめですね。
 熊さんにあたってもしょうがないけど、ちょっと、聞いとくれ。まずこの写真をご覧よ。
 おお、いい景色だなあ、これ見て不機嫌なんて、ご隠居もモウロクしたね。
 そうじゃないよ、これは私がもう7年も通っている新潟県の山村だよ。
 ああ、いつもご自慢の法末集落でしょ。棚田の米がうまい、人情が厚い、四季の風景が美しいってね。
 そうだよ、いまはちょうど新米ができたてて、毎日3食とも美味い飯を食ってて、生きててよかったと思ってるんだよ。
 いいねえ、それなのに何で不機嫌なんです?
 じゃあね、これをご覧よ。

 地図ですかい、なになに、「柏崎刈羽原発事故で放射性物質が拡散した場合に避難すべき量が落下する方位別の原発からの距離」って、なんです、こりゃ?
 今日(2012年10月24日)、原子力規制委員会が日本の各地の原発事故によるシミュレーションを発表したんだけどね、その法末集落が避難するべき位置にあるんだよ。
 この赤い印のところが法末ですか、で、なんで避難するんです?
 それがだな、緑の線があるだろ、風向きのせいで、その線から原発に近い側は「国際的な避難基準である1週間の積算の被ばく量が100ミリシーベルトに達する地点」なんだそうだよ。
 それがどうしたんです?
 早く言えば、そこには核毒の死の灰が死ぬほど降り積もるってんだな。
 ウワッ、ブルブルッ、そうなりゃ美味い米も篤い人情も美しい景色もあったもんじゃない、なにもかも放り出して逃げるに限るってことになっちゃうんだ。
 そうだよ、わたしが通ってる自慢の村がそうなるなんて、不機嫌なわけがわかるだろ。まあ、この写真をご覧よ。
 ウワッ、冬の雪ですね。
 そう、4メートルも積もるんだ、今見えてるのは2階だよ、こうやって出入りするんだ。
 ってことは、もしも冬に原発事故あると、こんなふうに死の灰が積もったのが目に見えるんですね。
 これが毎日降ってくるから毎日雪堀りしなきゃ、閉じ込められて出られなくなるし、家がつぶれるんだな。でも、雪堀りすると死の灰を浴びてしまう、どっちにしても死ぬんだな。
 でも、まあ、明日や明後日にあるわけじゃなし。
 いや、いつ起きるかだれもわからないよ、福島の人たちだってそうだったんだから。
 そうですねえ、こわいこわい、ご隠居、こうなりゃ法末に通うよりも、国会議事堂や首相官邸周辺に通って、原発反対デモするんですね。
 国会デモには7月に一度行ったきりだが、またいかなきゃならないね。
 今度はあたしも連れてってくださいよ。 デモにも法末にも。
 こうやって自分の身近なことになって初めて目が覚めるんもんだね、なさけないけど。

(訂正:2012年10月29日に原子力規制員会が、24日発表の資料の訂正を発表したので、地図を差し替えた。どちらにしても法末は危ない地域である)
参照⇒原子力規制委員会の発表
http://www.nsr.go.jp/committee/kisei/20121024.html

2012/10/21

679東京駅復原出戻り譚(その4)戦災復興東京駅は世の噂のように本当に仮の仕事だったのか

 東京駅の赤レンガ駅舎は、1945年5月に空爆によって炎上して、残ったのはレンガ壁とコンクリートの床だけになった。
 その壁と床を再利用して再建したのが1947年の「復興」東京駅で、2007年まで62年間を姿を見せていたであった。
 1914年の「創建」東京駅が姿を見せていた1945年までは32年間だから、「復興」東京駅のほうが寿命は長かった。
 そして2012年10月、こんどは「復旧」東京駅が姿を現した。創建時の旧の姿に戻ったのだから「復旧」なのである。また新たな東京駅の歴史が始まった。

 ところで、今回の復原というか復元というか復旧というか、その姿を現した東京駅赤レンガ駅舎を、なぜ戦災前の姿にしたかという理由について、世にこんな噂が流れている。
 それは、戦災後の復興東京駅は、金がなくて元の姿に復旧することができなかったので、とりあえず使えるように応急措置として作り、そのあと本格的に建てる予定で、2、3年も保てばよいような全くの仮の仕事の建物であったからだ、というのである。

 まったくの仮のものという人は、敗戦後の焼け野原の東京に累々として出現した、そこらあたりのありあわせの材料を使って造ったバラック建築と同じだと言いたいのだろう。
 ではそのバラック建築であったと言われる「復興東京駅」を、いま姿を現した「復旧東京駅」と、ちょっと比べてみよう。

 一般に良く見えるもっとも大きな違いは、南北二つのドームの外観と内観、そして外壁である。
  南と北のドームについて、復興と復旧両東京駅の風景を比較する。
 まずは外観、これらを見てどれほどの違いがあるか、わかるだろうか。

これは戦後復興東京駅(2004年撮影)

これは今回の復旧東京駅(2012年撮影)

 そう、復旧東京駅は丸頭、復興東京駅は台形頭である。復興東京駅が仮の仕事なら、切妻の3寸勾配のトタン屋根でもよかったろうに、なぜこんなに巨大な台形ドームを造る必要があったのか。

 当時の東京駅復興の工事現場で設計と工事管理のトップとして采配を振るっていた、鉄道省の建築家である松本延太郎(1910~2002)が書いた「東京駅戦災復興工事の思い出」(1991年自費出版)という本がある。
 そこに松本の上司であった建築課長の伊藤滋(1898~1971)が、ドームの根元は8角形、上に行くと4角形になるドームをつくることを指示したことが記されている。高さは戦前のドームと同じである。
 これは決して仮の姿ではない。

 ドームの中の天井デザインを比較してみる。
 これは戦後復興東京駅のドーム天井(2003年撮影)

これは今回復旧東京駅のドーム天井(2012年撮影)

 今あらわれた復旧東京駅のドームは、華やかな西洋宮殿風に見えるが、よく見ると上部では和風建築の折り上げ格天井をモチーフとしていることも分かって、その折衷ぶりが面白い。
 これに対して戦後の復興東京駅の天井は、まるでローマのパンテオンをベースにして、モダンデザインを展開したように見える。
 これは戦争終結で生産が止まった飛行機工場に残った、戦闘機の材料のジュラルミンを成形したのだそうである。

 このデザインは、上記の松本の本によれば、工事現場で設計監理を担当していた鉄道省の建築家たち12人がデザインコンペをして、今村三郎の案が採用されたとある。
 仮の仕事なら真っ平らに天井を張ってもよさそうなものだったのに、この頑張りはいったい何なのだろうか。

 外壁をみよう。戦後の復興東京駅は2階建て、今回の復旧東京駅は3階建てである。
これは戦後復興東京駅(2006年撮影)
 
これは今回の復旧東京駅

 戦後復興の工事のときに、3階の屋根と壁を取り壊して2階建てにしたので、レンガ外壁についている装飾付け柱(ピラスター)も上部をちょん切られて、柱頭部には何も飾りはないはずだが、上の写真をよく見ると、柱頭飾りがある。
 仮の仕事ならちょん切られたままでもよさそうなものを、わざわざ3階にあったと同じ柱頭を付けて、柱には短くなってもバランス良いように膨らみ(エンタシス)もつけ直したそうである。丁寧な左官仕事であった。まったくもってご苦労なことである。

 だが、さすがに裏側(東側)までは手が回らなかったと見えて、こちらはのっぺらぽうの赤ペンキ塗りであった。これならまさに仮の仕事といえる。西側外壁にいかに力を入れたかよくわかる。
         
戦後復興東京駅の東側の風景(1987年撮影)

 ほかにもいろいろとデザインと工事の苦労を書いている。
 日本が疲弊しきっていた当時、鉄道省の仕事だからこそできたのだろうが、鉄道を使って資材を全国から集め、戦争から本来の仕事に戻った鉄道省建築家たちの努力に頭が下がる。
 この本をどう読んでも、そしてできあがった戦災復興東京駅をどう見ても、それは仮の仕事ではなかったと、断言できる。

 JR東日本や建築界の方々は、辰野金吾にばかり目を向けず、鉄道省の伊藤滋(復旧東京駅づくりの音頭をとった同姓同名の都市計画家と混同しないように)や松本延太郎たちにも、しっかりと目を向けてはいかがですか。
 特にJR東日本の建築家の方たちは、ご自分の先輩たちに、もっと敬意を表してはいかがですか。

 わたしは復旧東京駅の出現を怪しからんとか残念に思っているのではなく、新たな歴史が始まったことに興味津々なのである。
 だが、あの復興東京駅への評価が、あれは進駐軍に命令されてやった仮の仕事だ、としてさげすむのが、わたしは気に食わないのである。
 まるで日本国憲法への右のほうからの言い分みたいである。

 さて、復旧東京駅を、これから建築や都市関係専門家たちがどう評価し、社会人文系の専門家たちがどう評価するか、楽しみである。        

●参照
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/10/17

678東京駅復原出戻り譚(その3)お供に引き連れて戻ったノッポビルに取りま巻かれて日陰者になったなあ

 わたしが1987~88年に撮った東京駅とその周辺の写真がある。これは国が行った東京駅周辺再開発調査(これで保存が決定)のときの資料だが、今の風景と見比べると実に面白い。
 髷を結い直し、簪を取り揃え、真っ赤に紅の厚化粧で出戻ってきた赤レンガ東京駅は、たくさんのお供を引き連れてのご帰還である。そのお供のどれもが大男(大女?)であるのが、ご自分の背が低いだけに目立つのである。

 まずは東京駅の真正面からの、出戻り前の姿である。

 出戻り前の姿の左端に見える2棟の超高層ビルは、大手町の東海朝日ビルと新日鉄ビルである。中央の屋根の左右に少しだけ黒く見えるのが、八重洲口の大丸百貨店(鉄道会館ビル)である。
 
 それが出戻りしてきた今は、5棟も超高層ビルを従えている。

 これらの中よりの2棟が、赤レンガ駅舎の不利用容積率を移転した八重洲側にあるビルで、まさに連れ戻ったお供である。

 連れ戻ったお供のっぽビルは、丸の内側にもたくさんいるのだ。
 東京駅のホームを越えて丸の内側を眺めよう。
 肝心の赤レンガ東京駅舎は、中央線ホームが高いので屋根しか見えない。

 この写真は、八重洲側の北にあるのっぽビルの下層部に移転した大丸百貨店の12階の便所から撮ったものである。この便所の窓は巨大な一枚ガラスで、小便しながらの眺めが実に宜しい。たいていの便所は裏のほうにあるのに、この便所の設計は素晴らしい。

 で、ご覧のようにこちらにはぞろぞろとノッポお供がいる。このうち赤レンガ東京駅が容積を移転した先は、左端の新東京ビル、その右隣のJPタワー、中央の丸ビルを飛ばしてその右の新丸ビル、このほかにJPタワーの陰にあるパークビル、これらの4棟である。
 だから八重洲側の2棟と合わせて6棟が、赤レンガ東京駅のお供である。

 では、4半世紀前の丸の内側を眺めよう。
 これは1987年10月に、八重洲口にあった大丸百貨店の屋上(10階か11階か忘れた)から撮った。

 東京駅の三角ドームと赤レンガ壁(赤ペンキ)がよく見えるのは、中央線ホームが今のように高くなっていないからである。
 周りはスカイラインが31mでそろっていることがよくわかるが、赤いタワーの東京海上ビルをはしりとして、スカイラインが崩れつつあることもよくわかる。

 これから25年、先の写真のようになったのである。わが身のお化粧代を稼ぐために、わが身を切り売りした結果が、ノッポお供に取り巻かれて、なんだかいつも日陰になってしまった。
  ♪ あれ、なにをいわんすか、あたしゃ日陰者じゃないわいなあ~

 では上空からの眺めを、1997年と2011年の比較をしてみる(google earthより)。
 まず1997年である。

次は2011年である。黄色い矢印が、敷地を超えての容積移転である。特定街区、特例容積率による移転例だが、ほかにもあるかもしれないが、全部は知らない。

八重洲側も大きく変化中である。さてどうなるのだろうか。

●参照→
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/10/15

677能「定家」を初めて見て主人公が救われない夢玄能もあるのだと知った

 あれ、シテの式子内親王が蔦に絡まれた墓に戻ろうとしているぞ、あの救いのない墓の中にまた戻るのかい、どうしてだよ~。
 能によくある、なにがなんでも主人公を成仏させてしまう救済が、この能にはないのか、珍しい。

 能楽を観はじめて20年くらいになる。わたしの観能記録によれば、はこれまで115曲を観ている。ただし、同じ曲を何回も見ているから延観能回数はこの3倍にはなるだろう。
 能の演目は650年も伝えて今も演じている古典は226曲、そのほかにまれに演じられる復曲や新曲もある。
 何度も観ている曲ももあれば(「清経」は9回、「葵上」と「隅田川」は8回)、有名な曲なのにまだ見ていないものも、けっこう多い。
 禅竹作の「定家」もまだ見ていない演目であった。作者の金春禅竹(1405~1471年)は、能楽のスーパースター世阿弥(1363?~1443年)の娘婿にあたる人である。

 2012年10月7日に、観世能楽堂で「定家 袖神楽 露之紐解 甲之掛」を、シテ:観世清和、ワキ:宝生欣也、地頭:梅若玄祥で観てきた。
 今回の演出はかなり特殊なものであるらしく、小書に関する解説の紙が一枚添えられていて、11件もの特別の演技や演奏が記されている。
 でも能の演出や作者のことは、よく知らないのでここであれこれ言わない。観てきた感想のみを書く。

 実は初めての「定家」なのだが、予備知識はなんでも定家蔓というツタの草があって、恋人の墓にまとわりついて悩ましている、そんな程度のままで特に予習して行かなかった。
 能楽鑑賞は予習したほうが断然よくわかるのだが、長いあいだ見ていると予備知識なしでどこまでわかるか、ときには実験をするのだ。予習した知識に引きずられながら見るのもよいが、自分で発見したいこともある。

 そして、今回は最後のどんでん返しに出会って、能の常識とは違うぞと驚いたのである。
 たいていの能は、主人公が死んでも成仏できない人が幽霊になって出てきて、旅の僧に救済を求め、僧が祈って成仏するのである。ほとんどこじつけで成仏させるものも結構ある(砧、通小町)。これが違ったのだ。

  「定家」の話は、式子内親王(1149~1201年)と藤原定家(1162~1241年)という、皇女と貴族の稀代の歌人同士の苦しい恋の因縁物語である。
 史実は真偽は怪しいらしいが、それらしい話は昔から伝えられていたらしく、その200年ほどのちに演劇としての能に仕立てたのである。

 身分の違いにありながら身を焼くほどの恋は、二人とも死んでからもつづいているごとくに、定家はツタ蔓になって式子(しょくし)の墓にまとわりついて離れずにいるのである。
 前場では、作り物の墓が灰色の引き回しにつつまれて草に覆われて舞台の中央に立つ。そこに雨が降っている設定だから、舞台は暗いのである。もちろん照明を落としているのではないが、後場となってそれがよくわかる。

 旅の僧の前に、里女の姿で式子の幽霊があらわれる。死んでからも定家が蔦蔓となって墓にまとわりついて苦しくてたまらないので仏の救済を求めて、墓の中に消える。
 僧は経文を唱え、墓の蔦蔓を切り開いてやると、後見が作り物の墓の引き回しを取り払う。なかから式子が華やかなときの姿であらわれると、にわかに舞台が明るくなった。もちろん照明が上がったのではない。時雨の墓場の暗い雰囲気が一転し華やかになる。

 式子はツタ蔓の墓から解放されて出てきて喜び、昔を思い出して賀茂の斎院であったころに舞った神楽を舞い、そして笛の異常に高い調子(甲之掛)での序の舞いとなり、前場の暗さと対照的な華やかさである。
 ところが舞を途中で止めて、涙をおとし、恥ずかしいと顔を隠して、墓の中に戻ってしまう。それもツタ蔓に再びまといつかれながら、沈み込むのである。

 え、どうしてなの、、せっかく解放されたのだから、僧の読経で成仏して消えてゆくのが、能の常道だろうに、またあの苦しみの恋のなれの果ての世界に戻るのは、なぜだろうか。仏による救済よりも永遠の恋の苦悩をとったのであるか、う~む。
 わたしは意表をつかれたのであった。悲劇のままで終わらせる有名な能は「隅田川」である。「道成寺」とその原型の「鐘巻」もそうである。
 これらは現在能だからそれもありとしても、夢玄能にも悲劇とする作り方もあるのか。パイオニア期の世阿弥と成熟期の禅竹との違いかしら、などと思った。

 世阿弥の「砧」とか「通小町」のように、なんだかわけがわからないうちに主人公を成仏させてしまうよりは、この禅竹の「定家」のほうがよほど正常だし、また近代的思考で考えさせられることがおおくて、観る楽しみがあると思う。
 また観たい能である。

定家 袖神楽 露之紐解 甲之掛
シテ  観世清和  ワキ 宝生欣哉  アイ 野村萬
大鼓 亀井広忠  小鼓 観世新九郎  笛 杉 市和
地謡 梅若玄祥 岡 久広 梅若紀彰 浅見重好 
    藤波重孝 清水義也 坂井音雅 木月宣行
後見 片山幽雪 木月孚行 山階彌右衛門
(二十五世観世左近二十三回忌秋の追善能 2012年10月7日 観世能楽堂) 

●能楽関連ページ
577能「船弁慶」を見た
http://datey.blogspot.com/2012/01/577.html
459義経千本桜を能の目で見る
http://datey.blogspot.com/2011/07/459.html
050能「摂待」と「安宅」
http://datey.blogspot.com/2008/10/noh.html
217野村四郎の能「鵺」を観る
http://datey.blogspot.com/2009/12/217.html
099能幻想の清水寺
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280能楽師の死
http://datey.blogspot.com/2010/06/280.html
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134三代の能楽
http://datey.blogspot.com/2009/05/134.html
070高千穂夜神楽
http://datey.blogspot.com/2008/12/blog-post.html
501杉本博司演出の三番叟
http://datey.blogspot.com/2011/09/501.html
◆能楽師・野村四郎師サイト
http://homepage2.nifty.com/datey/nomura-siro/
◆能を観に行く
http://homepage2.nifty.com/datey/nogaku.htm

2012/10/13

676東京駅復原出戻り譚(その2)今や人気者東京駅の隣で誰も見てくれない気の毒中央郵便局JPタワー


 ようやく腰を上げて、昔の姿で出戻りした東京駅を見てきた。
 実はわたしは見なくても、20年以上の研究知識と近頃のネット情報で、どうなっているか分かっているのだが、一応は見ておかなばなるまい。

 で、現実にはわかっている通りであった。
 だが、ちょっと驚いたのは、なんだか見物客がやたらに多いことであった。南北ホールでは、顔やカメラを上に向けている人がやたらに多い。
 外にもカメラはもちろんだが、東京駅外観を絵を描いている人があちこちにいるのであった。

 たしかに見物に値する異様な景観が出現した。
 ディズニーランドが出張してきたようだというと、けなしていると思う人もいるかもしれないが、わたしは褒めているつもりである。よくぞまあ、コピーをここまで成し遂げたものだという意味である。
でも、わたしはあのホールのデザインは、なんだか好きになれない。前のパンテオンデザインのほうがはるかに良かった。(下図)
南北二つのドームがあるのだから、どちらかひとつは戦後復興の姿で「保存」してほしかったと思うのである。これを戦争直後に作り上げた人たちの努力は、すさまじいものがあったのに、それには敬意を表しないのだろうかと、わたしは不満である。
 参考までに、その人たちの努力を書いたわたしの記事東京駅復興(その1)を読んでください。

 ただ、わたしは思うのだが、わたしのような東京駅に特別の関心のマニア、あるいは建築史に精通した専門家は別として、ごく普通の人々の眼には、この復元した姿がどのように映っているのだろうか。
 こうやって再現した戦前の東京駅を見た人は今やごく少数であるが、戦災から戦後復興した東京駅を見た人は、ごく普通にわんさといる。

 だがさて、その戦後の姿を見てきた人々に、今の姿はそのどこが変わったのか、わかるのだろうか。
 なんだかキレイになったなあ、屋根を葺き替えて壁のレンガもきれいに洗ったなあ、なんてその程度であろうとおもうのだが、いかがか。現にわたしの息子は、そんなことを言っていた。

 これは世の庶民をバカにしているのではなくて、一般に建築への関心はそんなものである。これを読んでいる、専門でないお方たちに聞いてみたい。
 念のために、今回の復原前の姿を載せておく。冒頭の写真と比べてください。

 東京駅に人気に比べて、お隣の中央郵便局の改築(JPタワー)に目を向けている人は、皆無といってよい。誰も写真を撮らないし、誰も写生していないのである。
 こっちだって、あちこちから保存せよとなんやかや言われて、東京駅に負けない苦労して一部保存して、つい先日やっと復元したのに、この人気の落差はどういうことだ、こんなことならぶっ壊して立て直せば苦労しなかったのに、なんて、JPタワーは嘆いているに違いない。
 やっぱり芸者厚化粧姿の東京駅に、モダンすっぴん姿の中央郵便局が対抗しても、庶民の人気はとてもかないっこない、らしい。

 民営化した郵政会社がこれを壊して建て直すと発表したとき、ひと騒ぎあったことを、庶民のだれが覚えているのだろうか。
 建築の専門家たちが、中央郵便局は吉田鉄郎の設計で、日本モダニズム建築のお手本だ、だから保存すべきだと叫んだのだが、東京駅の時ほどの保存の声は庶民からは上がらず、しょせん専門家のコップの中の騒ぎであった。
               (2012年、東京駅と中央郵便局のどちらも復元工事後)

 と、そこに鳩山邦夫さんという切手マニア?が登場、中央郵便局は新発売切手を買いに通った親しい建築であった(?らしい)。
 彼がたまたま時の郵政所管大臣だったので、地位を利用してかどうか知らないが政治介入して、この郵政建築への愛着と保存を言い立てたのだった。
 これに、一般ジャーナリズムが飛びついて、郵政民営化騒動にからめて面白おかしく記事にした結果が、今の形での部分保存復元である。
      (2008年、東京駅と中央郵便局のどちらも復元工事前)

 でも、隣に派手な東京駅ができたら、一般ジャーナリズムはそっちに気をとられてしまった。東京駅はニュースにとりあげても、JPタワーをとりあげないのである。
 庶民はあの時の騒ぎは忘れて、なんだか超高層がもう一本立ったなあと思うくらいなものである。  

 復元した東京駅が好きな庶民は、このJPタワーにはほんとは感謝するべきなのである。
 だって、東京駅の余剰容積率の一部をこのタワーが買ってあげたから、そのお金であっちは復元できたのだからね、その功績者の写真を撮って、写生もしてあげたら、どうですか。
 復原した中央郵便局の内部もご覧ください。あの8角柱がちゃんと立ってますよ。
 
●関連ページ
101東京中央郵便局と保存原理主義
 105中央郵便局再開発と都市計画
522紙ヒコーキ超高層ビル
022文明批評としての建築
093歌舞伎座の改築
585出戻りお目見え近い東京駅姐さんと紙ヒコーキビル

東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/10/10

675のどかな法末集落の初秋風景はいつもの秋と同じようだが実は変化してきている

2012年、初秋の10月初め、法末集落を訪れた。
 5月の田植えのあと、草刈りにも、9月末の稲刈りに来ることができなかったので、4か月ぶりである。
 その間で何かが変わるほどのこともあるまいと思うのだが、やはり変わっていることがある。もちろん自然や農業の風景は変わるのは当たり前だが、人間の営み風景が変わっているのだ。


 では、久しぶりに集落を一巡してこよう。
 わたしたちが現地活動拠点の家(通称「へんなかフェ」)がある地区名は「おじゃんち」と呼ばれる。小千谷道のことである。


              (おじゃんち地区の全景)

 
「おじゃんち」地区には6軒の住家がある。今年はそのうちの2軒の家で土蔵が消えた。豪雪で傾いたので取り壊したのだ。
 そして今年は住む人の一部も変わった。一軒の家では家長がなくなり、年老いた女性の一人暮らしが始まった。これはこの集落では珍しいことではない。互いに助け合って暮らしているし、近くの街に暮らす子や親せきがちょくちょくやってくるのだ。

 この家長が耕作していた棚田を、集落の他の農家やわたしたちの仲間で引き継いだのである。そうやって集落の人々で農耕地を維持していくのである。だが、いつまで続けることができるだろうか。

 おじゃんち地区の中の空き家に、都会から新たな住人が入ってきた。その家からピアノの音が聞こえるのは、法末の新しい息吹である。
 こうして、おじゃんちの6軒の家のうち、3軒は余所からやってきた人が住んでいる。こうやって集落は存続していくのかもしれない。

この続きと全文は「棚田の稲刈りが終わった初秋の法末風景
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hosse201210




2012/10/01

674東京駅復原出戻り譚(その1)これは「記憶を守る」仕業の「保存」なのだろうか

 東京駅の丸の内駅舎、いわゆる赤レンガの東京駅が戦災前の姿になって、今日から正式に出戻りのお目見えだそうである。
 これからしばらくこの「事件」について、世の人々があれこれ言うだろうから、わたしはそれらの世間のウワサをとりあげて、あれこれと戯瓢を連載することにした。

 わたしのこの事件についてのスタンスは簡単である。要するに「もったいないことをしたもんだよなあ」ってことである。
 その理由は「東京駅復原反対論」に書いているので、そちらを参照されたい。

 さて、今朝(2012年10月1日)の朝日新聞東京版には、2面見開きで東京駅の出戻り姿の広告が載っている。
 曰く「東京駅丸の内駅舎保存復原 誕生からまもなく百年。赤レンガ駅舎として親しまれてきた東京駅が百年の時を越え、創建時の姿に。これまでの百年を、これからの百年へ。」  

 あのねえ、これって「保存」って言ってよいのかしら。何を保存したのかしら。
 だって「創建時の姿」って言っても、1945年月20日に丸焼けになっって、残ったのはレンガ壁と鉄骨だけだったのだから、それを「保存」したのだとしたら、まあ、その通りではあるが…。
 だから「創建時」の「保存」はその程度であり、実はそのほとんどは「復原」と称するコピーレプリカである。

 わたしはコピーレプリカが悪いと言っているのではない。
 保全、保存、保護、復原、復元、コピー、レプリカなどなど、いろいろの言い方があるが、「保存復原」とはどういう意味だろうかと聞いているのである。
 ま、現物を見てくださいよ、これがそうなんだよ、ってことなんだろうが。

 でも、1947年にそのレンガ壁を再利用して修復した「復興東京駅」は、戦後復興にシンボルともいうべき存在だった。
 わたしはそれを「保存」してほしかったのだが、残念ながら「消滅」させてしまった。

 同じく今朝の朝日新聞の1面「天声人語」は、東京駅をテーマとしているのだが、このような一文があって、ちょっと引っかかる。
建造物の復元は、そこにまつわる無数の、そして無名の記憶を守ることである

 これは文脈からいって、東京駅の復元を賛美しているらしいが、ちょっと待ってくれよ。
 JRがいうところの「保存復原」という「復元」(ややこしい)によって、あの戦災の悲劇とそこからの復興という「そこにまつわる無数の、そして無名の記憶を」継承してきた記念的な姿を「守ること」なく、消し去ってしまった、わたしはこう思うのである。
 うっかりすると美名に聞こえる「復元」という言葉に、うっかりひきずられてはならない。

 とはいいつつも、今こうやって東京駅は創建時の厚化粧姿で出戻りして、歴代4つ目の姿で次の歴史を歩みだしたのである。
 それなりの歴史の記憶をひきずりながら。 おめでたいことである。

参照→東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/09/30

673赤レンガ東京駅が戦災前の姿に厚化粧して出戻りしてきたのはどうして?


 明日(2012年10月1日)から、東京駅丸の内駅舎が新しくて古い姿で正式登場だそうです。その東京駅については1988年に、建て替えて当然という時代の中にありながら、国の方針として保全継続使用方針を決めたのでした。

 それからず~っと、わたしが提唱してきたことは、保全継続使用にあたっては1947年からの姿を本旨とすべし、戦災前の姿に復元するな、ということでした。
 なぜなら、復元すれば、悲惨な戦火による焼失とそこからの復興という、日本のもっとも重要な時代の記念碑が失われる、わたしたちが生きてきた戦後の歴史の証人が消えるからです。

 それが今、継続保全せずに、なぜ戦前の姿のほうを選んで復原(復元)したのか、問題提起したいのです。
 1947年からの姿の歴史的意義を、きちんと評価したうえでの復古再現コピーの選択だったのでしょうか。

 あれは一時しのぎの仮の姿としてつくったから、ようやく本来の形に戻したのだという世間のウワサがあります。
 本当に一時しのぎの工事ならば、それがどうして60年も保ったのか不思議に思い、これを修復した人たちの苦労話を読んでみました。

 それは、あの戦争直後のまったく物資のない時代に、もう頭の下がる実に頑張りすぎるほどの大変な仕事ぶりでした。
 ご参考までにそのことを書いた東京駅復興(その1)(伊達美徳)をぜひ読んでください。  

参照
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/09/27

672男も女も電車でお化粧大道芸の時代が来たか

 地下鉄で座っていたら、前に立つ人が窓を見つめてしきりに、手を振っている様子である。
 外は暗闇なのになにしてるんだろうと見上げたら、若い男が手を振ってるのじゃなくて、窓ガラスを鏡にして、しきりに前髪をかきあげかきおろしして、いつまでも恰好を整えているのであった。

 おやおや、男も電車の中で化粧する時代が来たか。
 そういえば、そういう男を何回も見ている。カバンからやおら櫛と鏡を持ち出して、何やら遣り出した男の高校生らしいやつも見たことがある。

 それにしても、女が電車の中で化粧しているのを見るのは、楽しい。
 すっぴんのオカチメンコが、なんだかいろいろな道具や器械をカバンから取り出して、自分の顔に仕上げ工事をほどこしていくうちに、みるみるそれなりに見られる別の顔に変わっていく。
 これって、大道芸そのものである。
 
 こうなると男も電車の中で、オシロイをなでつけたり、つけまつげをいじったり(ペンチをつかっている)、口紅を塗りたくる日が来るのは近いな。
 毎朝、男女で競ってやっていただいて、電車の中を楽しませてほしい。芸の内容によっては、投げ銭をしてもよろしいですよ。
 そう、世は男女均等化粧時代なのである。

 実は白状すると、白内障の手術をして、視覚が明瞭になったら、鏡の中の自分の顔の老醜がはっきりと見えて、これは化粧するしかないかなあと、思ったのがつい最近のこと。
 そうだ、化粧品屋は男の老人を市場として開拓するといいですよ。
 そう、老醜の男も電車の中で化粧をするのである、、キモチワルイカ、。

2012/09/25

671やっぱり名ばかりマンションは地震被災の根源のような気がする

被災マンション解体滞る」との見出しが、2012年9月24日の朝日新聞東京版社会面にでている。
 東日本大震災で被災した区分所有型共同住宅ビル(いわゆるマンション)を、建て替えるために取り壊さなければなない(解体という言葉はおかしい)のだが、所有者の全員同意ができなくて、多くのその類の建物が立ち往生しているというのである。

東北6県の分譲マンションの6割が集中する仙台市では約210棟が全壊・大規模半壊となったが、解体が決まったのは5棟」とある。
 そんなことが起きるのは、とっくに阪神大震災でも姉歯事件でも経験して、だれもがわかりきっていたことである。
 所得、年齢、資産、加速構成、生活感など千差万別の、もともと知らないどうしの大勢の人間が、ひとつの運命共同体に無理やりに乗っているのだから、こういうことになれば一致するほうがおかしい。

 それなのにいまだに「分譲マンション」(正確には区分所有型共同住宅ビル)なるものをつくって売るやつ、ほいほい買うやつ、どちらもいけない。
 そんな「名ばかりマンション」(マンションとはもともと大邸宅のこと)を容認するどころか、容積緩和とか優遇税制などで支援する政策があるのが間違っている。

 日本の住宅政策はまったくなっとらん。即刻、「名ばかりマンション禁止法」をつくるべきである。
 だって、今度やってくる南海トラフとかいうやつの大揺れでは、これまでとは比べ物にならないほどの区分所有型共同住宅が被災するに違いないからだ。
 大量の「マンション難民」が発生する前に、即刻、禁止の手を打て!。

 で、解体できないのは全員同意の法律のせいだから、これを全員でなくても取り壊せるように法整備しようという動きがあるそうだ。
 でもねえ、全員同意しなくても取り壊すことができる様に法律的にはなったとしても、実際の現場はやっぱり調整は大変だし、それなりの買い取り補償金が必要だろうから、法を替えたって容易ではないはずですよ。そんな小手先技で解決する問題ではないだよ。

 そもそも、広い敷地をわざわざ猫に額ほどの持ち分に分割して所有する制度にするから、こういうことが起きる。
 そしてまた、賃貸借住宅に対して政策が冷たいからこういうことになるのだ。

 区分所有型共同住宅ビルは、区分所有を解除して組合による一体所有に転換して、管理所有一体型の賃貸借住宅に転換するする政策を推進するべきであると思う。それまでの区分所有者は組合員として持ち分相当の債権を持つのである。
 ここから先は私にはわからないから、これの実務的なことは専門家に考えてもらいたい。
 

 とにかく区分所有型共同住宅ビルは地震被災の社会的諸悪の根源である。
 言いすぎかな、だんだんと過激になってくるなあ、ほんとはね、ほれ見ろ、だから俺が言ってきたとおりじゃんかよ、っていいたいのだ。
 ●参照「くたばれマンションhttp://homepage2.nifty.com/datey/kyodojutaku-kiken.htm

 
(写真は本文とは直接には関係ありません、いや、あるかもなあ)