2010/10/09

326【世相戯評】差別意識が見えるノーベル賞

 インドで新言語が発見されたとの報道がある(2010.10.05朝日新聞夕刊)。500人ほどの人がしゃべるコロ語だそうである。
 これってまるでコロンブスの新大陸発見みたいに、発見するほうとされるほうという極端な差別意識がある。発見するほうが常に先進文化で、されるのは後進であるとの意識が見える。
 コロ語をしゃべる人たちは、発見される立場なのか、誰が発見するのか。この報道の元が、USAナショナルジオグラフィック協会だというのだから、なるほどそうかと思った。
 一時ナショナルジオグラフィックを定期購読していたことがある。記事は面白いのだが、いつもその西欧的な眼で未開の文化を「発見」する差別意識が見え見えで気になっていた。
 今に日本のどこかの村で新言語を「発見」されるかもしれない。
   ◆
 国会議事堂の中で、雑誌の商業的タイアップ記事の写真を、女性代議士をモデルにて撮影したのは、ケシカランと男の議員が怒っているとの新聞記事がある。
 神聖なる場所を穢した、ケシカランと言うのだそうだが、ヘンである。
 ファッション雑誌に載るようならようやく国会も庶民に近くなってきたのであろうに。
 税金で作って、税金で運営してるんだから、神聖なる場所を穢すなんて、差別用語を使って忌避してはいけませんよ。
 ところで国会を舞台にしたテレビドラマとか漫画とかはあるのかしら? 無いとしたら、似たようなイチャモンがあったのだろうか?
   ◆
 2010年のノーベル平和賞は、中国の獄中にある民主運動の活動家だそうである。
 中国政府当局はカンカンにお怒りらしい。個人的なことなのに、ノルウェーと国交断絶なんて、見当違いのことをするかもなあ。
 でもねえ、去年はオバマだったし、その前はアウンサン・スー・チーとかダライ・ラマだったし、日本で唯一それは佐藤栄作であったよなあ。なにか筋があるのか考えてもスーチーと佐藤栄作なんて天地の差で、なんか分からんよなあ。

 そもそも平和賞なんてのは、極端に政治的な代物であるから、アチラから見れば平和主義者、こちらから見れば政治犯となるのはあたりまえである。
 その点ではノルウェーのノーベル平和賞委員会ってところは、度胸があるなあ、としか言いようがない。
 平和賞なんてものが存在する世の中がそもそも間違っている。

 ノーベル賞も「授与」するって言うから、授け与えるほうと受け戴くほうの間の差別感が著しい。
 王権にある者が特権階級を保証する勲章や爵位があった時代のそれと同じように誰もが思っているらしいが、どうも前近代的である。
 いつも思うのだが、賞なんてものは授与するものじゃなくて、感謝して贈るものであろう。例えば文学賞はたいていは「贈呈式」といっているから、贈るものであろう。もっとも出版社が贈るのだから、儲けさせてもらうお礼かもしれない。

 だとすればノーベル賞だって、社会のために有意義なことをした人たちへの、世界の人々からのお礼の贈りものであり、それをノーベル財団の寄附で行なっているという風にならんもんですかねえ。
参照→254授与と贈呈

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