ノーベル化学賞を受けた白川英樹君が、8月24日に永眠した。合掌
彼とわたしとは大学山岳部の同期仲間であり、学生時代は一緒にあちこちの山に登った。しかし、彼の栄誉の専門的なことは何も知らないままだ。
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| 東京工業大学山岳部白馬岳合宿 1951年5月1日撮影 前列左から5人目が白川英樹君 |
実はこの8月17日朝に、白川君とカリフォルニア在住の友人とわたしの三人でZOOMをやっていた。そこに夫人と一緒に顔を見せていた白川君は、「今から入院するので、さようなら」と言って、すたすたと歩いて画面から立ち去って行った。
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| 白川英樹君入院の朝のZOOM画面(下段) 2026年8月17日 |
白川君はこの日のZOOM予定を約束後に、健康診断で重篤な病が見つかり、この日の朝の急遽入院に決まったが、ZOOMには参加してくれたのだった。その律義さに頭が下がった。
「行っていらっしゃい、退院を待っているよ、戻ってきたらすぐ続きのZOOMやろうよ」と送り出した。
その後に院内または退院のメールが来るかと待っていたが、来ないままに気をもんでいた。8月31日になって白川君の子息からメールが来て、24日に永眠との訃報であった。ズーム画面から歩いて出て行って一週間である。合掌
そのズーム前のいくつかのメールやり取りから察すると、白川君も自分が入院するほどの重篤であることに気が付かないままであったらしい。8月10日前後にはあいかわらず科学教育イベントに遠くに出かけていたとあったからだ。そう、彼の死こそがわが理想のピンピンコロリだ。
わたしは白川君とは、1961年大学卒業後はまったく違う道だったので会うこともなかったが、2000年のノーベル賞受賞を新聞トップで知った。新聞の顔写真を見て、あれ、この人知ってるよ、同期の白川君だよ、と家族に叫んだものだ。急いで記事を読んだ。
それからの彼は超忙しい状況にまきこまれたようで、わたしたちの祝賀会は控えていた。そのほとぼりが冷めた7年ほどたった頃にようやく、1961年卒業の山岳部同期仲間の当時の生き残り9人で集まり、白川君祝賀会をやった。日比谷松本楼だった。それを機会に「Q人会」という山岳部同期会をつくり、ときどき集まって飲み会をやってきた。
その仲間のひとりが、USAの市民権を持っていてカリフォルニアに住んでいる。年一回の日本訪問旅行の機会を、Q人会全員の集まる日としていた。そして、わたしは「本作り趣味」を生かして、「Q人会誌」なる年刊の冊子を作って、仲間に配布してきた。(参照:Q人会誌目次)
しかし、コロナパンデミックで集まることが難しくなり、PC画面でZOOMによる隔月に画面集会を開くことにした。このシステムは、カリフォルニアからも気軽に顔を出すし、高齢で移動困難になっても集まることができる。コロナのおかげだ。時々は全員ではなく、必要なものだけでZOOMを使うこともある。上記の白川入院の日がそれだ。
最初9人であったから9人会ならぬ「Q人会」と名付けたが、これで2人が消えた。7人会だが誰も改名しようとは言わない。ただし、もう卒寿前後ともなると、PCの扱いが不調になるものあってZOOMは事実上は6人会、そのうちに5~4人会になるのは仕方ない。
わたしも山岳部だった由縁か、脚だけは丈夫で歩くのは得意だったが、近頃は衰えて時速1キロ程度に落ち込んでしまった。もう何があって驚かない卆呪という歳だが、白川君のピンピンコロリ大往生には、驚くよりも大いにうらやましく、わが憧れの逝き方である。
(2026/09/07記)
2023/12/20・1766【Q人会誌2023】八十路大学山岳部同期仲間冊子https://datey.blogspot.com/2023/12/1766q.html

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