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2019/06/18

1405【1950年代モダニズム建築の再生】2:横浜の紅葉ヶ丘の今昔と神奈川県立図書館・音楽堂


【1950年代モダニズム建築の再生】(1)からつづき

 今年5月に鎌倉の八幡宮境内にあった神奈川県立近代美術館が閉館して、建築は復元的再生して別のミュージアムに生れ変った感想を、このブログの前の記事として書いた。続いて同じくこの春に復元的再生をした県立音楽堂について感想を書く。
 県立美術館は1951年開館、音楽堂は県立図書館と合せて1954年に開館、どちらもオーナーは当時の神奈川県知事内山岩太郎である。内山は会館知事と言われた程に沢山の開館を県内に建て、今でいうところの箱モノ行政をやって、あの貧乏な時代に人々の文化への希求をうまくとらえたともいえる。

紅葉ヶ丘の文化施設群
●驚くべき紅葉ヶ丘の景観変化

 鎌倉八幡宮で美術館を見てきた眼で、横浜市中区の紅葉ヶ丘に立って県立音楽堂を見ると、その景観のあまりに奇妙さに、音楽堂を可哀そうに思ってしまった。

左に県立音楽堂、正面は高層共同住宅群とMM21超高層建築群
左端に音楽堂、右上は青少年センター
音楽堂ができた頃はこのむこうには空だけだったはず
今ではそれなりに見慣れたが、それでも昔の景観を思いだすと戸惑う気分になるのは、ここは髙い丘の上なのに、丘の下に建つ超高層ビルから見下ろされているからである。
紅葉ヶ丘の音楽堂前の駐車場広場の標高は約25mの高台だが、その東側の丘の下は海を埋め立てて造った標高4m程の平らな街がひろがり、そこに建つ超高層建築群が丘よりも高くそびえているのである。

 紅葉ヶ丘の景観の主役であった音楽堂・図書館そして青少年センターは、その座をひきずりおろされてしまっているのである。
 かつて東に大きく開かれて広場は、妙にデコボコスカイラインと色とりどり建築ファサードに取り囲まれた。たぶん今後も増加して変化していくだろう。
 それはひとりの建築家がつくりあげた紅葉ヶ丘上の建築群のまとまりある景観に対峙して、何ともまとまらない景観を投げかける。
 この景観の大変化の中で、建築保全とはいったい何だろうかと、鎌倉の旧美術館と比較するとあまりの違いに、都市景観と建築について大いに考えさせられるのである。
  
紅葉ヶ丘を見下ろす丘の下の超高層建築群
紅葉ヶ丘は、横浜が開港した19世紀中ごろ、幕府はここに奉行所を設置して、横浜の街を管理した官庁街だった。戦後は県公舎用地となり、知事公舎と職員住宅が建っていた。その知事公舎跡地に1954年に立てたのが図書館と音楽堂だった。
 その頃は丘の上から東の横浜港を俯瞰すると、目の下には横浜造船所のクレーンやドックのある工場が広がり、その向こうに東京湾を出入りする船が見えていた。
 それが20世紀末になると造船所は引っ越し、海を埋立てて土地を作り、「みなとみらい21」プロジェクトの新市街形成が進んだ。横浜で最激変の地である。
1988年丘の下の造船所跡地等埋立大変化中
わたしは20年も前だったか、久しぶりに音楽堂にやってきた時に、ランドマークタワーが音楽堂にのしかかっているのに遭遇し、文字通りにビックリ仰天したものだった。えっ、こんなに近くてこんなに髙いのかと、ただ見上げるばかり。
 そのときは紅葉ヶ丘の景観に割り込んでいたのは、ランドマークタワー一本だけだったが、その唐突さに不思議な思いだったが、その後にまとまりなくあれこれと景観は乱れて行った。
 今では音楽堂のすぐ下の斜面地にあった、中層の花咲団地が建てなおされて高層建築共同住宅群になり、いまや海も見えないどころか、丘の上から見晴らす風景が消滅してしまった。

●“黒沢天国”の紅葉ヶ丘

 それを嘆くことではないが、あまりの景観変化に今でもまだ戸惑いがある。横浜だけではあるまいが、海や川沿いの低湿地と丘の上の高燥な土地との間には、自ずからそれぞれの品格の上下差があって、もちろん丘上が格が上で低地を見下ろしている。
 そこで思い出すのが、黒沢明監督映画「天国と地獄」(1967年)であり、その天国とは丘の上の住宅、地獄とは低地のスラム街であり、横浜がモデルになっている。あの凶悪犯は低地から丘の上を見上げて、そこにいる富裕層への劣等感をつのらせる。
 ところが紅葉ヶ丘は、見事に低地から見下されていて、なんだか逆転している感があるのだ。この現象は実に現代的で、興味深い。
映画「天国と地獄」の天国と地獄の風景
丘の上と下の関係で言うと、市民の利用する文化施設の図書館・音楽堂を、紅葉ヶ丘の上という駅からも街からも遠くて、急な坂を登る不便なところつくったのだろうか。
 たまたま県有地があったからとは言い切れないのは、美術館の例を見ても明らかだし、関内には空き地だらけで県有地もたくさんあったはずだ。

 思うに、昔は(今もか)文化施設は、猥雑な街なかを避けて丘の上とか郊外の緑の中とかに作っていたものだった。文化は高尚だからと思っていた節もある。
 利用する市民の不便さよりも、立地の環境が美しく建物も景観的に見栄えが良いようにつくり、行政トップの政治的見栄としての箱モノ行政だったようだ。今もその傾向があるのは、隣の横浜能楽堂がそうである。

 実は紅葉ヶ丘はわたしの今の住み家から近いので、図書館に調べものでよく訪れるし、趣味の能楽鑑賞で横浜能楽堂にもちょいちょい入る。音楽堂と青少年センターにも、たまによって音楽や演劇鑑賞もする。
 東の桜木町から紅葉坂を歩いて登るアプローチは、なんと高低差約20mもあって、歳とるとなんとも苦しいので、わたしは日ノ出町方面からバスで登るのだ。
桜木町から登る紅葉坂
桜木町方面から路線バス便は無くて、音楽堂のイベントに合わせての特別バスだけである。ぜひとも紅葉坂を登る路線バスを開設してほしい。
 桜木町駅から横浜美術館、MMホール、紅葉ヶ丘の図書館、音楽堂、青少年センター、掃部山の能楽堂、野毛山の横浜市立中央図書館、そして日ノ出町駅へと巡回してはどうですか。
 
●“黒沢地獄”の丘の下

 1950年代半ばに内山知事があちこちで箱モノを目論んでいた頃、鎌倉の美術館は高台ではないが、超一級の立地であることは確かだ。
 では県立図書館・音楽堂はどうかと言えば、まさに丘の上の“天国”立地だが、なぜ人々が利用しやすい横浜都心の関内や関外ではなかったのか。
 この問いに最も直接的な回答は、そのころは横浜の関内関外のほとんどが、敗戦と同時に進駐してきた連合軍の基地として占領されていたので、そこに建てるとは誰も考えようがなかったからだろう。
1954年開館当時の図書館・音楽堂 手前に県の公舎が見える
 図書館・音楽堂が開館した1954年前後の紅葉ヶ丘は、空襲による焼失を免れて、林の中に県の公舎が立ち並び、県知事公舎もあり、まわりも静かな住宅地だった。
いっぽう、丘の下の桜木町から関内・関外にかけての市街地は、空襲によってほとんど焼失した後に、敗戦直後から占領軍に半分以上を接収されて兵舎や軍用機財置き場等の用地になった。
 そこで、接収を免れた桜木町あたりから野毛、日ノ出町、黄金町にかけての大岡川から日ノ出川沿いに人々が移ってきて、戦後の横浜都心になた。つまり紅葉ヶ丘と野毛山の麓が新たな都心になったのだ。

 1950年に朝鮮戦争が始まると横浜港はその兵站基地となり、紅葉ヶ丘下の横浜港も横浜造船所もおおいに活況を呈して、多くの労働者が全国から集ってきた。麓の狭い土地に集る人々で、街は闇市と安宿の密集スラム街となり、街も丘も野宿者たちがあふれ、犯罪が横行していた。黒沢映画の“地獄”はその一部である。
 そして紅葉ヶ丘には、高尚なる文化の殿堂の図書館音楽堂が建った。まさに“天国”である。県都横浜の都心に作りたかったかもしれないが、地獄の街に文化施設はありえなかったのだろう。
1956年の紅葉ヶ丘(黄丸)と横浜都心北部
下中央部に占領軍接収地の兵舎群が見える
2018年の紅葉ヶ丘(黄丸)と横浜都心北部

●音楽堂は昔も今も超一級ホールか?

 それにしてもそのような時代なのに、いやそのような時代だからこそか、図書館・音楽ホールとよく作ったものだ。開館当時から西欧の名演奏家がこの音楽堂にやってきたそうだが、その聴衆は下界の労務者たちではなかったことはたしかだろう。
 もっとも下界のアメリカ軍キャンプでは、ジャズ音楽が響いていたことだろう。
 その頃の、レコードによる西欧クラシックの復活について、個人的な記憶がある。わたしの1954年頃は、住民が1万人程の城下町盆地で高校生だったが、LPレコードでクラシックを聴く会になんどか行った記憶がある。片面30分のレコード盤が出てきた頃で、田舎高校生でもクラシック音楽に憬れていたのだった。

 都会には本物演奏に憬れていた人たちが多くいただろうから、音楽堂への希求が大きかっただろう。実はこの音楽堂でもその頃にはLP鑑賞会があったらしい。
 まだ日本全体が若い時代、図書館だろうが音楽堂だろうが、文化を求めて丘の上に登るのは苦労ではなく喜びだったろう、ホールらしいホールはここしかなかったから。
 そしてこの音楽堂はクラシック音楽ファンに愛されて、竣工直後に改修や増築しているから設計所で不具合があったのだろう。90年代はじめの建替え話も乗り越えて、2008年には耐震工事を経て今回の大改修へと、今日まで生きてきた。

 わたしは音楽ホールの建築的なことも音楽的なことも知らないが、ちょっと思いつくだけでも今や横浜都心部には音楽系大ホールが、ここのほかに4箇所もある。音楽堂よりもはるかに設備は整っているし、便利な立地にある。
 そのような時代を迎えても、はじめの頃と今とはどのように使い方が変っているのか知らないが、この音楽堂は当初からそして今でも素晴らしい音楽の場なのか、復元保全に値する記念的モダニズム建築だろうか。

 ここではモダニズム建築の保全について書こうとしているのだが、まだ建築と言うよりも都市環境の話から抜け出せない。ほかにもここの建築外部環境への対応にいくつものハテナと思うところがある設計で、あの前川國男も初期の初めての公共建築では下手だったなあと思うのである。
 建築再生の話は続きで。
                 (つづく


2019/06/07

1404【50年代モダニズム建築再生】(1)神奈川県立近代美術館が鎌倉鶴岡八幡宮ミュージアムに転生した

●身近な二つの有名建築公営文化施設の再生

 今年(2019年)の春、身近にあって親しんできた文化施設二つのリニューアルオープンに出会う機会があった。どちらも戦後早期にできたモダニズム有名建築である。
 ひとつは鎌倉の鶴岡八幡宮境内にある「神奈川県立近代美術館」であり、もうひとつは横浜中区の紅葉が丘にある「神奈川県立音楽堂」である。この音楽堂は県立図書館と同時にできた連携する施設であるが、図書館リニューアルは後回しで音楽堂が先行してオープンした。

 実はどちらの施設もわたしが親しんできた施設で若干の思いいれがあり、その建築、環境、景観そしてそれが生れた頃の社会的背景について考えさせられたので、感想を書いておくことにした。
リニューアルオープンした鎌倉文華館(旧県立美術館鎌倉館)
リニューアルオープンした県立音楽堂
 近代美術館は、40年ほど前から四半世紀を旧鎌倉の東寄りに住んでいたので、美術館のある鶴岡八幡宮境内はしょっちゅう通りぬけており、参道に出ている美術館の展覧会ポスターを見て、ちょくちょくふらりと入ったものだった。

 音楽堂については、2002年に横浜の関外に移り住んだので、近くの紅葉が丘にある横浜能楽堂には趣味の能楽見物によく行くし、県立図書館にも調べものでちょくちょく行くから、それらの隣にある音楽堂や青少年センターホールでの出し物に触れるようになった。
 もっとも、鎌倉に住む前は横浜の日吉に10年ほど住んでいたので、そのころも何度か音楽堂に来た記憶がある。

 美術館(設計:坂倉順三)が1951年、音楽堂(設計:前川國男)が1954年の創設だから、まだまだ日本全体が貧困きわまっていて、文化施設よりも住宅を食物を求める時代であった。1950年頃から復興への歩みが起きようとして来て、そのような殺伐とした時代だからこそ文化が求められる空気も出てきたのであろう。

 当時の神奈川県知事は内山岩太郎であり、内山のリードで文化施設として美術館、音楽堂、図書館を造ったのだった。それにしても、どちらもモダニズムデザインの旗手たる建築家をコンペで選出したのだから、よくもやったものである。そのころはわたしは中学生だったが、あの頃の新たな時代への社会の意気込みが分るような気がする。

●近代美術テーマの美術館

 内山が鎌倉に県立近代美術館を作ったのは、美術展覧会のできる会場が欲しいと言う市民の要請があったからのようだが、まだまだ苦しい時代でありながら、文化復興への息吹がようやく出てきたということだろう。政治家としてそれをとらえて美術館に結実させたところがさすがである。

 しかし、建てたのが県都の横浜市内ではなかったのは、横浜が戦中の大空襲による戦災ダメージに加えて戦後は都心部が占領軍基地になっていたからであろうし、古都の鎌倉にしたのは、鎌倉は戦災に遭わず各界文化人たちも多かったことにあるだろう。
 しかも八幡宮境内という絶好の立地を得たのだった。つづく県立音楽堂の横浜の立地と比べると、その後の現在までの立地環境や景観の変化のあまりの差異に驚くのである。

 美術界のことは知らないが、このとき「近代美術」というテーマを掲げたのは、この美術館企画に深く携わり館長になった土方定一によるものだろう。近代という言葉の持つ前衛性に戦後の文化復興の進路を見出そうとしたのだろうか。あるいは鎌倉の八幡宮境内には「鎌倉国宝館」が既にあったことが、ジャンル分けを明確にさせたのだろうか。

 日本の近代美術館としては倉敷の「大原美術館」(1930年設立)が戦前から有名である。企業家大原孫三郎によるいわゆる泰西名画のコレクションによる私設美術館である。
大原美術館遠望 2011
近代美術に限ってはいないが、その充実がすごい。
 わたしは少年時代を過ごした街が倉敷に近いのでなんどか行ったことがあり、その展示されている名画の数多くを記憶にある。近年に六本木の国立ギャラリーにそれらの多く名画がやってきて「大原美術館コレクション展」があり、懐かしく思い出しつつルノアールやセザンヌを見たのだった。

 考えてみれば、わたしが倉敷でそれを見た頃は、鎌倉の近代美術館が生れた頃のまさに戦後貧困期であった。そしてそれら美術が中学生の心に深く刻みこまれて、なにほどかは後に建築デザインの世界へと向かわせたかもしれないから、この県立近代美術館も都会の少年たちを文化へと目覚めさせたことだろう。

 ところで、いまでこそ近代美術館を名乗るものは多いが、そのころは日本では皆無だっただろう。そして鎌倉の県立近代美術館は、近代美術を掲げた公立美術館としては日本あるいは戦後で最初であったと書いている資料を散見する。例えば「神奈川県立近代美術館」サイト「日経アーキテクチュア1978年8月7日号」、「鎌倉文華館」サイトであるが、わたしの知見では実はこれは正しくないはずである。

 高松市の栗林公園内にあった「高松近代美術館(山口文象設計、後に高松市立美術館)は、1949年に高松市立の近代美術館として開館している。わたしは1978年に訪ねたことがあるが、鎌倉の近代美術館に負けないモダンデザインだったが、大名庭園の中で異彩をはなっていた。
高松近代美術館 1978
これを近代美術館としたのは、この美術館の企画者だった猪熊弦一郎によるものだろうし、山口文象に設計させたのも猪熊の推薦であったとは、わたしが猪熊から直接に聞いたことがある。
 1988年に閉館して市内の別のところに移転した。建築は今は無いが、設計図面はRIAが保管している。山口は次の年の久が原教会を発表して戦後復帰を果たしたのに、この戦後最初の作品とも言うべき高松近代美術館を発表しないままだったのは、なぜだろうか。

近代美術館は八幡宮ミュージアムに

 ところで、この美術館と音楽堂という二つの文化施設の今回のリニューアルオープンで興味深いのは、施設にも運営にも大きな差異が起きたことだ。音楽堂は県立のままだが、美術館は民営になり中身も変わった。
 鎌倉の美術館は「鎌倉文華館・鶴岡ミュージアム」と名を変えて、鶴岡八幡宮が所有して運営、神奈川県は撤退して県立近代美術館の看板を下ろしてしまった。
県が八幡宮から境内地の一部の土地を賃借していたのだが、その賃貸借契約期限が切れて延長ができなかったのがその理由であるという。八幡宮が跡地利用を考えて土地の返却を求めたらしい。

 もっとも、県立美術館は分館が近くにあって継続するし、葉山にもあるから消滅はしないのだが、今の八幡宮境内立地よりも交通不便であり、わたしは鎌倉別館には数回、葉山館には1回訪れたのみである。
 さて八幡宮はどのようなミュージアムにするであろうか。宗教活動の場なのか、それとも純粋に美術館経営をするのだろうか。先般の見学に行ったときに、施設管理者たちの衣装が白衣と水色袴であったのが、いかにも八幡宮施設となったことを認識させた。
鎌倉文華館の鶴岡八幡宮参道からのメインアプローチ

●建築の復元保全について

 当初は八幡宮としては新しい施設を建てなおすつもりがあったようだが、長年親しまれた池に臨む美しい内外の風景とともに戦後名建築の消滅を惜しんだ市民たちの要望があったようだ。
 八幡宮は市民の要望に対応して、美術館建築の本館部分を残して復元的リニューアル、新館は取り壊し、付属棟は建て直して、新ミュージアムとして再登場させたのである。

 これをどう評価するか。景観保全としては成功だろうが、建築保全としてはどうだろうか。わたしはなんでもかんでも当初に復元保全という保存原理主義には同調できないが、ここではどこまで原理主義的であるのだろうか。
 モダニズムデザインとして印象的な本館は、できるだけ復元設計されたとのことであり、池からの景観は美しく、ピロティからの池の眺めも楽しい。


元の設計のもっとも目立つ真っ白い立面の外壁面は、スレートボードを目地押さえ金物でつなぐといういかにもチープなものであった。これをリニューアルでをどうするのか気になっていて、今どきの設計ならば新館に使ってあったホーロー鉄板を使って目地押さえ金物など使わないだろうと思っていたが、原設計のままにチープさと共にリニューアル復元されていて、それなりに美しくなっていた。
 なおリニューアル設計は丹青社であるが、なぜ坂倉建築事務所ではないのだろうか。

 建築復元としてはともかくだが、最も大きな改変はメインアクセスを八幡宮参道側にしたことだろう。あの大階段が招き入れる機能がほぼ死んでしまったのがもったいない。この大階段を上手に使う展示やイベントがなされることを期待する。
 だが、考えてみると、実質的には入館者のほとんどが参道側から入るだろうから、これが正しくて元の設計が間違っていたといってよいだろうが、なんだか引っ掛かる。
元の正面玄関が裏玄関になった鎌倉文華館
近代美術館だった頃の正面入り口風景 2009年
 県立時代には中庭や外構のあちこちに彫刻作品がおかれていたのが、いまは何もない芝生やペーブになっているのが、何だかさびしい。もとのままに置いておくことはできなかったのか。そのうちに何かがおかれるのだろうか。
かつて県立美術館であった記憶の風景は、建築だけがあればそれでよいのだろうか。わたしの頭には建築と彫刻とが一体になった風景が記憶に刻まれている。
 
●完全消滅した新館

 新館がすっかり取り壊されて、メインアクセスルートの芝生の下に消えた。これは池との関係で悪くない景観ではあるが、新館が影も形もないのが気になる。
左に本館、右に新館があった旧県立近代美術館 2009年
本館と新館の間に池が入り込んでいた 2009年
 新館はいつのころからだったか、建築構造上の問題が起きたとて使用禁止になっていた。それを聞いてわたしが訪ねたのは2009年夏だったが、なるほどあちこちの鉄骨の柱の根元がボロボロに錆びていて、フランジに穴さえ開いていた。
 この鉄骨は耐候性鋼と言われ、錆が被覆となってメンテナンス不要が売り物の新材料だったはずである。わたしも1970年頃にこの鉄骨を使うオフィスビルに関わったが、それは今も健在であるから、ここの鋼材は不良品だったのか。
旧近代美術館時代の新館 右が本館 2009年
コルテン鋼柱の根元の穴空き腐食 2009年
 この増築は最初から予定されていて、開館は1966年だから晩年の坂倉順三(1901-1969)の設計になるそうだ。わたしはこの新館の吹き抜け展示空間を大好きだった。大きな絵を見ることができるし、大ガラス越しの外の池の景色もよかった。
できればこちらも復元してほしかったが、消えたのはどうしてだろうか。そういえば鎌倉文華館の開館記念展示には、本館のことは詳しかったが、新館については全く何もなかったのは、どういうわけだろうか。

 附属棟の跡地の三角屋根展示場も悪くないけれど、復元新館をそれに充てることできなかったのだろうか。せめて、芝生アプローチの中にあのボロボロ鉄骨柱数本を元の位置に建てると野外アートにもなるし、この美術館の変転史を伝えることができるとも思うのだが、記憶に残る建築であっただけに、惜しいことだ。

変わらなかった環境

 さて全体的に見て、これも建築保全としての一つの回答だろうが、建築復元にこだわり過ぎて、どこかつまらないのである。要するに創造的なところがどこにもないのである。
 もちろん元の設計が、小さな建築なのに大きな階段、広い中庭、気持ちよいピロティ、そして何よりも八幡宮境内の環境が素晴らしく、結果は実に良いのだ。森の泉のほとりの宝石箱である

 ただ、これはずっと前から気にくわなかったのだが、あの水と緑の立地環境のなかで、内外相互貫入する建築空間を、一連の連続する空間として体験ができないことである。
 建築に入る段階で入場料を支払う人為的なバリアーがあることで、連続すべき動線が切れてしまうのであるのが、実にもったいない。
 池を巡る道がピロティに連続するようにしてほしい。ピロティや中庭は外扱いにして入場料をとらない、あるいは参道からの敷地入り口で入場料をとればよいのに、と思う。

 創造的なところがあるとすれが、付属棟跡の新展示施設であろうか、あるいは逆説的だが新館の消滅による空間デザインが創造的と言えば言えるだろうが、建築空間としては復元にとらわれているところが、どうも、いじましいのである。
 昔のもとの姿に復元せよと言う、建築保存原理主義者の言い分にに負けたのだろうが、それを一歩踏み出すと新たな創造的空間が生まれるだろうに、惜しいことである。
 最初にコンペで坂倉を起用したように、再生設計コンペにすればよかったかもしれない。これはないものねだりだろうか。いや、坂倉を越えるのは無理か。

 建築的なことはともかくとして、ここでもっともすごいと思うのは、この立地環境がこれが建った1951年からほとんど変化していないということである。後述するが県立音楽堂の立地する横浜紅葉が丘が、都市開発圧力による結果として景観が大変化したことと比べると、こちら鎌倉のほとんど変化しないことに驚く。

 もちろん鎌倉にも開発圧力は高いのだが、都市計画としては八幡宮境内は市街化調整区域であるし、まわりも含めて古都法や景観法などで環境と景観の保全施策があるし、それよりもなにりも市民に環境保全思想が行き渡っていて、開発となるともめごとになるからだろう。
1956年の鶴岡八幡宮あたりの空中写真
2018年の鶴岡八幡宮あたりの鎌倉空中写真
1990年の近代美術館と鎌倉八幡宮周辺景観
 そういえば、1964年に起きたいわゆる「御谷(おやつ)騒動」といわれる鎌倉八幡宮裏山宅地開発反対運動のときに、この美術館を作った内山知事は、開発行政をつかさどる長の立場にありながら、政治家として開発反対に動いたことで開発は止り、1966年に古都法を生み歴史的環境保全へと歩むようになったのであった。
 
今回の美術館のリニューアルで、建築・環境・景観は1951年時点に復元したことになるのかもしれない。ただしハードウェアはそうだが、公立から離れて宗教法人活動の場となって、ソフトウェアとしては原点復元ではない。
 いや、そうではない、もともとが宗教法人の敷地内だから、宗教活動のできない異物だった公立施設の排除で、むしろこうなってこそが原点復元と言うべきだろう。なかなかに稀有な興味深い事例である。

(次の県立音楽堂の記事につづく

2019/03/21

1393【インポ建築展再訪】ザハ・ハディド案新国立競技場設計図書棺桶と亀甲墓模型の展示を再見してきた

インポ建築展でザハ・ハディド案新国立競技場を見ていて
2013年IOC総会東京オリンピック招致演説を思い出す
インポ建築展】の続き

熊五郎:やあ、ご隠居、風邪の具合はいかかですか。
ご隠居:おお、熊さんかい、ありがとよ、どうやら治ったらしくてね、一昨日は埼玉県立近代美術館に展覧会を見に行ってきたよ。
:そりゃよかった、って、そこ先月に行ったでしょ、まさかボケて忘れててまた行ったとか。
:そう、また行ったんだよ、ボケちゃいなくて、また行きたかったんだよ。
:好きだね、え~っと、建たない建築、そう「インポテンツ建築」の展覧会でショ。
:いや、「インポッシブル・アーキテクチャ」のインポ建築だな。また行ったのは、見たいと言う友人を案内したこともあるけど、もう一度みたい展示物があるからだよ。

:それ、何だかあてましょうか、ザハハディド「新国立競技場案」でしょ。ご隠居のブログにくどくど書いてあったからね。
:そのとおりだよ。インポ建築には違いないけど実現直前で憤死した建築の、あの膨大な量の実施設計図書を眺めたかったんだよ。4000枚以上もある設計図を圧縮コピーして綴じて、A4版40数冊の冊子にしてあるのが、透明アクリル板の箱の中にずらーっと並べてあり、各種の評定書のコピーもある。もう最後の確認申請手続き直前だったというのだよ。
展覧会図録より設計者の言葉の一部
:つまり、建築家のできもしない夢想のインポッシブル建築どころか、実現可能そのものの建築である証拠物件なんですね。じゃあ、インポ建築じゃないのなら、展覧会としては趣旨が違うような。
:いや、そこが面白いところで、インポッシブルとポシブルの境界は実は曖昧なんだね。その曖昧さがポッシブル建築を鋭く批評するってところに、この建築展の狙いがあるらしいのだね。
:ってことは、今年中に完成する“ポシブル”新国立競技場は、この“インポッシブル”新国立競技場から強烈な批評の光を投げかけられるってことですかね、面白いなあ。
:そうだな、今は亡きザハ・ハディドの亡霊がその亡き子の新国立競技場コンペ案を抱いて、隈研吾の新国立競技場に現れて怨みの言葉を吐くんだよ、どんな論争が起きるか楽しみだなあ。
:いや、ザハ・ハディドなんか忘れられて、な~んにも批評なんか起きなくて、日本人たちはオリンピック気分に浮かれるだけですよ。
:う~ん、そうかもしれんなあ、うらめしや~。

:でもねえ、展覧会再訪してまで、そんな設計図書棺桶を眺めてどうするんです、死んだ子の歳を数えるって、ご隠居が設計したわけじゃなし、バカバカしい。
:その通りでね、設計図書を入れてある透明アクリル箱は棺桶そのものだね、そばにある亀の甲の様な模型は墓石に見えてきたもんだよ。沖縄にある亀甲墓だね。
:おお、埼玉に墓参りにいってきたのですかい、なんの縁もないのに。
:そう言っては身もふたもない、でもね、あれって設計料は税金によるものだから、わたしも熊さんもまるきり無関係じゃないよ。
:あ、そうか、あのザハ・ハディド案白紙撤回事件の時に、それまでかかった費用が65億円と報道されましたよ。その後に設計完了して残金を支払ったでしょうから、もっとかかってますよね。
:その頃わたしがブログに書いてるよ、「これまでかけた設計外注費用が65億円、それにコンペでかかった費用、JSCや文科省の人件費・交通費・光熱費など、世界中からコンペに応募した人たちがかけた費用、なんだかんだとざっと80~100億円の無駄かもよ、もったいないよなあ。」ってね。
:ウワッ、100億円かけたものを白紙撤回とて、首相だからできる無駄遣いですかねえ、すごいなあ。
:その後のやり直しコンペで勝った今の工事中の新国立競技場の設計にも、ザハ・ハディド案実施設計での知見が生かされているだろうから、まるきり無駄ではないがね。
:ということは展覧会にある棺桶の中には、少なくとも60億円の価値がある代物ってことで、それだけでも見に行く価値があるってことですかねえ、でもねえ、これじゃあ美術館に展示って意味不明ですねえ。

:わたしが思うのはね、あのザハ・ハディド案の死の主因は、高額工事費と工学的不可能とされているんだがね、どうもそれにくわえてあの異教徒的形態への日本人の忌避感がボディブローのように効いているんだねえ、あるいは国立施設なら日本人が設計するべきだってザハ・ハディドへの違和感もあったような、ね、そこに美術館でこんなふうに「葬送」する意味があるね。
:そうそう、思い出しましたよ、ザハ・ハディド案反対の声を最初に上げたのは、有名建築家の槙文彦さんでしたね。明治神宮外苑にふさわしくないデザインだってね。
:それに弟子の建築家たちやら歴史景観好き市民たちが付和雷同して、聖徳絵画館の歴史的景観を壊すなの声が上がったね。
:それがいつの間にか工事費のカネメの話に落ち込んで無駄遣い反対となり、景観的反対運動がそっちの反対運動に吸収されてしまいましたね。
:わたしはあの騒動の時には、ザハ・ハディド案であの外苑の帝国主義景観を壊してほしいと思っていたもんだよ。ブログにそう書いてるよ。
:今もそう思いますか。
:ところがね、ザハ・ハディド案は実施に進むにつれて変わって行って、亀の甲みたいなった模型が出てきてビックリしたのは、景観的に反対した槙文彦さんの設計した東京都体育館がザハ・ハディド案新国立競技場に並んでいる姿は、もう親子の様に見事に調和したデザインなんだねえ。
:あ、そうですねえ、ザハ・ハディドの高等作戦だったのでしょうかねえ。
:そうなると景観的におかしいと言う論が成り立ちにくくなり、分りやすいカネメ論議になったのかなあ。なんか反対論の次元が低くなった感があったなあ。

:ご隠居のほかにも、そのアクリルの棺桶を眺めている人がいましたか。
:いや、わたしみたいに前にじっと立って眺めている人はいなかったねえ、だって見ても面白くもなんともない厚い本が並んでいるだけだからね。はたから見ると変な人に見えたかもしれないね。
:そう、それを棺桶に見立て、模型を墓石に見立てることができるのはご隠居だけで、他の人には見えない幽霊みたいなもんですね。
:見えないって言えば、展示してある膨大な紙の設計図書類も、いまどきは全部コンピュータデータをプリントアウトしたものだ、だから実は見えないものが本物なんだ。
:あ、そうか、紙にプリントしてわざわざ見えるようにしてあるんだ、じゃあDVD何枚か展示してもいいかというと、、。
:DVDだけだと棺桶じゃなくて、骨壺になるね。DVDも合わせて展示してあると、インポッシブルからインビジブル建築となって、なんだかもっと意味深いような気分になるかな。
:インポシブル建築からポシブル建築へ、そしてインビジブル建築からビジブル建築へですかね。

:それにしても美術館ってところは、もっとなんとか自由にならんものかねえ。
:え、どうしました?
:触らせろとまでは言わないけど、現物を見ながら批評の言葉をしゃべりたいよね。
:あ、声がでかくて、また叱られたな。
:こういうのは静かに見て鑑賞するような美術品じゃなくて、その制作背景やら意味やらについて独自の論を、数人でガヤガヤと振りかざしながら鑑賞すると面白い代物なんだけどねえ。
:インポッシブルの理由を知って見るのと、なにも知らずに見るのとは大違いのはずですね。
:写真だって、設計図書の棺桶を撮りたかったなあ、あんなの著作権に引っかかることなにもないし、税金でつくったものだしなあ。横浜美術館だったら写真撮影OKだよな。
:埼玉の後で新潟、広島、大阪と巡業する様ですから、そちらでは写真撮影とかお喋り老人につき、なにとぞ良き方向にお取り計らいくださいませって、ここで頼んでおきましょう。

参照:
●「五輪騒動

2019/02/12

1386【インポ建築展】建たない建てない建てる気がない建つこと拒否された建築の展覧会はザハ・ハディドへのオマージュか

 
「インポッシブル建築展」を観てきた(2019年2月11日)。
 埼玉県立近代美術館「インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史」展覧会(~3月24日)である。
展示はタトリンの傾き屹立廃墟「第三インターナショナル記念塔」から始まり、ザハ・ハディドの背割れ瀕死亀「新国立競技場案」を終わりに据える。
 このインポ性を強烈に放つ口と尻こそ、企画立案者の建畠晢館長の考えたインポ建築展の基本的なフレームだそうである。面白い。

 観たわたしの基本的な印象は、これはザハ・ハディド「新国立競技場案」への厳粛なるオマージュ展であるな、ってことだ。
 累々たるインポ建築のミイラの最後に登場したなのが、この一昨年に死んだばかりの生な死骸の「新国立競技場案」だった。
 これがあることで、この展覧会がインポを越えてポシブルへと橋が架かった。そこまで観てきた累々たる死骸が、ここで生き生きとした死骸になった。フィクションをリアルへとつないで見せたと言ってもよいだろう。

 あのもう見慣れた巨大な背割れ亀模型もすごいが、なんといっても圧巻は膨大な実施設計図書の展示である。折り込み縮刷A4版製本して何十冊ものあの量だから、実物の図面や書類ならば展示してある小間にいれたら、部屋に一杯で天井までも積みあがるくらいはあるのだろう。さすがに大規模建築にふさわしいすごい量だ。
  それが実は既にできていたのに、土壇場でインポになったのだから驚くばかりだ。現実はインポでもフィクションでもないのだった。
 この最後の小間に至る前までの模型や図はすべて、まるきり建とうともせず建ちもしなかったものだが、これだけは実は建つ寸前クライマックスまで行って突然に脳溢血で(じゃなくて時の首相に寝首を掻かれて)腹上(下)死インポ化であった。
 その無念さが、あの膨大な何千枚もの実施設計図書の展示に込められている。
 
 昨日は建畠館長と五十嵐太郎さんの話を聞いたのだが、建畠さんの美術家らしいいくつかの牽強付会を面白く聴いたので、わたしも牽強付会をするのだ。
 この最後の部屋は能「道成寺」の能舞台であった。あの2年前の新国立競技場騒ぎを思い出せば、今ここにある設計図書類は、道成寺の鐘供養にやってきた白拍子である。
 かつて愛する男に拒否されて鬼女となって殺し、逃亡していた女が、2年後に再登場して怨念を再現するのだ。
 模型や図面を観ていて思ったが、このデザインの持つ怪しい雰囲気が、鬼女さながらに世間から拒否されたのだ。これが女性原理の表現(あからさまに言えば壮大なる女陰)であるのが、それが建たなかった理由かもしれない。
 たしかにその美しさが一転して鬼女になる恐ろしさを秘めているように見える。

 わたしはこのザハ・ハディド案で建ってほしかったと考えていたことは、あの騒ぎが始まった頃にこのブログに書いているが、それはその異教徒的な怪しさが、あの明治神宮外苑の持つ19世紀的帝国主義王権の原理的景観を、21世紀の今ぶち壊してくれることを期待したからだった。
 それがこうなった今では、どこかにこれを建ててインポからポシブル建築にしてやって、この建築インポ騒動のせいで死んだ(のかもしれない)ザハ・ハディドを供養しなければなるまい。
 隈・大成による実現新国立競技場の竣工の日に、ザハ・ハディドの白拍子姿の幽霊が登場して、釣鐘に見立てた新競技場に舞い込んだとたん、9.11のごとくに崩落する幻想を抱く。
 
 今回の展覧会に出す予定だったが、土壇場でキャンセルになったインポ建築に白井晟一の「原爆堂」があったそうだ。
 その出展しない理由が、これを実際に建てようとするポシブル化運動が起きているので、インポ建築展に出すわけにはいかない、とのこと。
 そう、インポもいつかはカネとクスリと技術革新と社会状況でポシブルになるのだ。

 インポシブルにはポシブルも含むのだ、だからパンフのIMPOに抹消線がかかっているのだと、建畠はトークで言っていたが、もともとそう思っていたのだろうか。
 展示資料収集過程で、原爆堂と新国立競技場の状況を知って、インポの領域を思案したのではあるまいか。ポシブルまで含むとしたら、これは単なる建築展の一部展示になってしまうだろう。
 単なる空想建築展でないとして、インポシブルからポシブルへと迫る編集があるべきだ。展示作品のインポ度合いを、観た人たちに投票してもらったら面白い。

 あ、そうだ、ザハ・ハディドの「新国立競技場案」を、築地市場跡地にそのまま建ててはいかがですか、小池都知事さんよ。
 こんなにも図面準備万端ととのっているのだから、もうあとは金さえ用意すればそのまま建つようだ。跡地利用をどうしようかとグダグダいうよりも早いですよ。
 冗談半分本気半分で言っているのだが、ありえないことではなかろう。

 いくつかの「建てばよかった」と思うものがあった。京都国際会議場の菊竹清訓案は、まさにそのひとつである。応募してかすりもしなかったひとりとして、同時代的にすごい案だと眺めたものだが、模型を観てもやはりすごい。惜しい。
 もっともさすがに菊竹は、後に「江戸東京博物館」でこれをポシブル建築にした。でも京都で大谷案ではなくて、こちらを造ってほしかったと思った。
 そう言えば思い出したが、あのコンペ審査で菊竹案をして、「異教徒的」と評した言葉があった記憶があるが、ザハ・ハディド「新国立競技場案」こそ異教徒的姿への反発が、これをインポ建築にしたのだ。

 落選承知のインポ建築案で有名なのは、前川國男の「帝室博物館」コンペ案だが、はじめてその模型を観て思ったのは、意外にヘタクソというか、真面目な案だったことである。これに瓦屋根を付けたら当選したかも、いや、それほどうまくもないか。
 影付きの立面パースのうまさと、模型のつまらなさのギャップがおかしかった。

 川喜多煉七郎の図面がたくさんでていて、あらためて思ったのは、このひとはこんなに才能があったのに、その後は店舗設計の世界でしか生きなかったのは、どうしてなのだろうか、ということである。
 川喜多と同時代の山口文象の「丘上の記念塔」もでていたが、山口と比べても出自も才能も似ていたと思うのだ。
 山口も川喜多も、もっとも働き盛りに戦争時代になって仕事がなくなり、才能の発揮をできなくて、インポ建築さえもできかった不幸がある。惜しい。

 美術家の荒川修作、相田誠、山口晃の作品が、なんと言っても面白いインポ建築である。
 メタボリ派アーキグラムの劇画みたいなインポを前提しながらも、じつは実現可能かもしれない姿を描くのに対して、美術家の作品はできるかもしれないと思わせながらも、実はインポであることを誇っている感がある。
 もっとも、荒川修作はその更に逆をいって、インポと思わせて実はポシブル(建つ、勃つ)ものがあるのだから、建築家は負ける。
 山口晃と会田誠の日本橋提案戯画もあった。日本橋については、わたしは日本橋の上だけ高速道路高架を保存せよと言っているだが、さすがに美術家はもっと突き抜けるのだった。負けた。
つづく

(追記 2019/03/25)
 図録の中の山口文象の項をチェックしていたら、年表に誤りを発見した。
 082ページ1950年の欄に記載してある『岡村蚊象(山口文象)「中央航空機停車場」』は、正しくは、1927年に三科新興形成芸術展覧会に出展作品であり、作品名は『1950年計画 中央航空機停車場』である。なお、1930年に岡村家との養子縁組を解消して、以後は山口姓を名乗っている。
 山口文象についてはこちらを参照のこと

(追記 2019/11/07)
 インポ建築展はその後は新潟、広島へと巡回して、昨日、最後となる大阪の国立国際美術館での展覧会の案内が届いた。
 タイトルが「インポッシブル・アーキテクチャー 建築家たちの夢」となっている。
 アレッ、なんだか違うみたいとこのページで確かめたら、埼玉での展覧会でのタイトルは、「インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史」であるから、サブタイトルに変更があった。ということは、美術館によって展覧会の意味づけが異なるらしい。国際国立美術館での企画者の考えだろうか、もしかして展示の内容も変わっているのだろうか、なかなか面白い。


2018/10/11

1166【山口文象作品追跡:都橋】横浜大岡川にかかる関東大震災復興橋梁の「都橋」は山口文象デザインと判明

 横浜の建築家の笠井三義さんからメールをいただいた。
「都橋の当初の図面が横浜市の橋梁課で見つかりました。そのなかに設計者 岡村龍造 名がはいっており、製図 古川末雄とあり、創宇社の同人の中に古川さんも入っておりました」
 おお、山口文象作品新発見だ、うれしい。笠井さんは、横浜の復興橋梁や防火建築帯について研究をされていて、これまでいろいろと教えていただいている。
 
 山口文象は関東大震災後の内務省復興局橋梁課で、橋梁の設計に携わっていた。もちろん構造本体の設計ではなくて、高欄、親柱、照明器具などのデザインであるが、橋全体の透視図を描いているから、景観的検討に加わっていたかもしれない。
 隅田川の橋梁と御茶ノ水の聖橋は、山口の手になるスケッチパースがある。山口のサインがある橋梁図面は、「八重洲橋」だけを確認しているが、他には見つかっていなかった。
 
 横浜の「都橋」(1927年竣功)と「平岡橋」(帷子川、1926年竣功)の、当時の写真が山口の所蔵していた資料の中にあるから、何らかの関係しているだろうとは思っていた。
 ずっとまえに横浜市の都市発展資料館で、復興橋梁の資料はあるかと聞いたことがあるが、戦災で資料はなくなってしまったとて、確かめる方法がなかった。
山口文象が所蔵していた竣功当時の都橋の写真
その都橋の図面が見つかった、しかも山口のサインがあるというのである。喜んで見せていただきに笠井さんのオフィスに伺った。
 A2版コピー図で、「都橋竣功圖」とタイトルがある図面である。その中の5枚が高欄、燈柱、ランプ(照明器具)の図であり、「設計岡村」とある。
 例えばその一枚には、右下に「復興局橋梁課」「技師 成瀬」「照査 成瀬」「設計 岡村」「製図 古川末雄」「大正十五年九月十四日完了」と記入がある。
都橋竣工図のサイン欄
 

 横浜市内にある橋であるが、都橋は内務省復興局で施工した。「成瀬」とは復興局土木部橋梁課課長の成瀬勝武のこと。
 「岡村」とは当時の山口文象の姓である。図面によって岡村、岡村滝造あるいは岡村瀧造となっているが、本名が「岡村瀧蔵」であったから、このように記していたのだろうか?。それにしても自分のサインを同じときに滝と瀧の使い分けをするものだろうか。

 これまでにみた八重洲橋の設計図面のサインは「岡村」であるし、その頃に書いた建築図面が多くあるが、滝造あるいは瀧造なんて見たことがない。岡村ばかりである。
 このサインは、その下にある古川末雄が書いたものかもしれない。古川は山口文象たちと一緒に活動した「創宇社建築会」の創設メンバーのひとりである。
 でも古川が書いたとしても、なぜ戸籍名の瀧蔵じゃなくて滝造、瀧造なのか、ちょっといいかげんすぎるよなあ。
八重洲橋設計図の山口のサイン

 当時山口文象が住んでいた大井町の家は、創宇社建築会会員たちのたまり場であり、山口の橋梁設計を手伝って欄干や親柱、照明器具の図面書きをしていたと、創宇社建築会メンバーの竹村新太郎から聞いたことがある。
 竣工図の製図を古川がやり、もとの設計は山口文象だから岡村のサインであることはおかしくはないにしても、このサインの筆跡が古川と同じだから、古川が自分のサインついでに書いたのだろう。図面の筆跡も、もちろん山口のそれではない。
 いずれにしても、都橋が山口文象の設計であることが判明して嬉しい。

 山口が描いた原設計図が見つかるともっと嬉しいが、たぶんそれは戦争で焼けてしまったのだろう。
 橋梁管理のためには設計図がなくても、竣工図があれば十分だろう。この図面が見つかったのも、都橋を戦後に大修理した時の関連図面として出てきたのだそうである。
 今の都橋は戦前の姿ではないから、山口文象デザインは消えている。そのあたりの詳しいことは、笠井さんがよくご存じなので、いずれ発表されるのを期待している。
現在の都橋の親柱、高欄、照明は山口文象デザインではない

 わたしは長年やってきた山口文象追っかけをもうやめたとして、三年前に蒐集資料一切をRIAに寄贈してしまった。
 ところが昨年末に、「関口邸茶席」(1934年)の図面発見、そしてその茶席が今年4月から公開されるという連続する偶然が起きて、なにやらまた山口文象虫が騒ぎだしたのが、やっと治まったと思ったら、都橋の図面発見とてまた虫が起きてきた。面白い。

●関連
山口文象+初期RIAアーカイブス
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html
山口文象と橋梁
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/bridge.html

2018/09/21

1163【映画ジェイン・ジェイコブス感想】悪代官モーゼス対百姓女ジェインの闘いかよ、単純すぎるぞ

 久しぶりに(2年ぶりくらいか)、外の映画館で映画を観た。近ごろ映画を見るのはユーチューブで自宅映画館でばかり。
 観た映画は『ジェイン・ジェイコブス-ニューヨーク都市計画革命-』。
 このタイトルの原題は『Citizen Jane: Battle for the City』、これって『市民ジェイン:ある都市への闘争』でしょ。
 日本題名は、ジェイン・ジェイコブスを都市計画への革命家としてとらえたということなのかしら、う~ん、彼女はもうちょっと広いような、、まあ、いいか、。

 都市計画関連の歴史映像をたくさん使って編集したドキュメンタリー映画だった。
 映画をたくさん見ているのじゃないけど、ストーリーにはちょっと退屈して眠気も出た。悪役敵役の開発役人モーゼス対善玉闘志ジェインの図式が単純すぎるのである。

 なんにも知らない人が見て、ジェインが単なる反対運動オバサンとしてのみとらえられることを恐れるし、一方のモーゼスについても同じである。
 だからある程度知ってる者には、なんとも退屈になるのだ。むしろドラマ仕立てにしてくれる方がよかったような。
 オーソン・ウェルズに『市民ケーン』って映画があったよなあ、『市民ジェイン』って映画にするといいな、もうちょっと奥行きがある映画になるだろう。

 歴史資料映像は面白かった。Mies van der RoheとEdmund Norwood Baconがチラと顔を見せ、Le Corbusierがチラチラとでてきた。もちろんジェインおばさんの語りも多い。
 モダニズム建築家たちが、敵役の仲間にされたらしいが、もうちょっと敵役への肩入れが足りないんだよなあ。日本メタボリズム連中も登場させてほしいなあ。

 ロウアーマハッタン高速道路計画って、なんだか日本メタボリスム建築家たちの絵に似ていておかしかった。道路と建築の一体整備って先進的な計画だったんだ。
 モーゼスのブルドーザ的やり方とあのデザインはともかくとしても、未だに上手くいかない土木と建築の融合事業の先行的成功事例になるとよかったのになあ。

 あの有名なプルーイット・アイゴー団地の爆破のカラー映像があって、これは面白かったが、アレッ、あの団地はニューヨークにあったのかい、モーゼスのプロジェクトだったのかい?、違うだろ。

 この爆破場面の豪快さを見ていて、2001年9月11日ニューヨークのWTCテロによる倒壊場面を連想した。
 このTWCもプルーットアイゴー団地も、どちらもミノル・ヤマサキの設計であったのが、“モダニズム建築の終焉”も“アメリカ支配の終焉”も建築家のせいじゃないはずだけど、奇縁ではあるよなあ。

 でも、プルーイットアイゴーが廃墟となって爆破されたのは、映画が言うようにモダニズムデザインのせいなんだろうか。そんなに建築デザインには力があるとは思えないよなあ。
 そんなに力があるなら、建築家はもっと偉くなってるよ。少なくとも医者なみにね。

 むしろ運営というか、あるいはアメリカ特有の人種差別と貧困の問題が大きく横たわっているだろうと思う。だって、日本にはあんな住宅団地はざらにあるよ、ちゃんと住みこなしてるよ、もちろん時代変化による問題はあるけど、爆破ってそりゃないでしょ。
 それよりも都市開発の大問題のジェントリフィケイションに、映画が触れないのはどうしてなんだろうか。

 タイトルもそうだが、字幕でなんだかそれでいいのかって言葉もいくつかあった。
 ナレーションではアパートメントと言ってるのを、字幕じゃ日本製英語のマンションと書いてて、これじゃあ、話がずれてしまうよなあ。

 『ジェイコブズ対モーゼス ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』(アンソニー・フリント著)を読んだことがあり面白かったので、映画にも期待したけどヘタだった。 
 ジェインの『アメリカ大都市の死と生』って黒川紀章訳でずいぶん前に読んだので、もう忘れている。あれは部分訳だったらしいが、あんな早くにあれを翻訳した黒川の眼の効き方がすごい。再読しようと書棚を探すが見つからない。

 うちの書棚にはジェインの『市場の倫理統治の倫理』もあったはずで、読みかけだったから探しているのだが、見つからない。どっちも終活処分で誰かにあげてしまったかな。なら、もう、いいや。
 専門家として齧った知識を下敷きにして観るものだから、ついついあれこれケチつけたくなるけど、なんにも知らないで見ると、けっこう面白い善悪対決映画なんだろうなあ。
 

2018/01/01

1313【更に・山口文象設計茶席常安軒】北鎌倉浄智寺谷戸に関口邸茶席を創った人守ってきた人未来に伝える人

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その6
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、
その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)
その5】のつづき

●関口邸茶席を創った関口泰

 この茶席をつくった関口泰(せきぐち たい 1889~1956)は、朝日新聞論説委員だったジャーナリストであり、評論家として政治や教育論の著作を多く世に問い、加えて旅と山歩きを趣味として随筆や短歌俳句もよくした。
 著作の公刊書も36冊と多く、『民衆の立場より見たる憲法論(1921年)から始まり、『軍備なき誇り(1955年)が最後であった。没後に関口を惜しむ人々や近親者が編集刊行した『関口泰文集(1958年)と『関口泰遺歌文集 空のなごり(1960年)に、主な著作が収録されてその足跡がよく分る。
 この浄智寺谷戸を愛した関口は、『金寶山浄智禅寺(1941年)なる深い歴史考証の著作を出版した。その「後書」に、関口が浄智寺谷戸に居を構えた1930年頃の風景や人物の状況を細かに記している。それらを瞥見して関口のことを記す。 
浄智寺の庭の関口泰 引用元:『空のなごり』1960年

2017/12/29

1312【又々・山口文象設計茶席常安軒】鎌倉に居ながら京都の大徳寺忘筌の庭に高台寺遺芳庵吉野窓を眺めようと欲張り技の茶室写し

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その5
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)


その4】のつづき
さて、ようやく関口邸茶席の本館とも言うべき
数寄屋会席について述べる。

どこか別のところで見たことあるような


 
●関口邸茶席の数寄屋会席今と昔

 浄智寺谷戸の道から草屋根の門をくぐり路地を歩めば、最初に出会うのがこの数寄屋建築の会席である。吉野窓茶席はその裏に隠れて、やがてやってくる客を待ち受ける。

 吉野窓茶室が小面積なのに大きな髙い屋根を載せて、ボリュームを大きく見せているの対して、数寄屋会席の方はその大面積をできるだけ小さく低く見せようとしている。屋根を小瓦一文字葺きと杮(こけら)葺き(いまは金属板葺き)の奴(やっこ)葺きで薄く軽く見せる。
左に数寄屋会席、右に吉野窓茶室

2017/12/21

1310【続々・山口文象設計茶席常安軒】ベルリンでの関口と山口の話で始まった浄智寺谷戸への京都高台寺遺芳庵の写し茶室「吉野窓由来」

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その3
伊達 美徳
北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

【その2】のつづき 

●京都高台寺遺芳庵の鏡写しの茶室

 この茶席をつくるにあたっては、関口泰があの茅葺の茶室をつくりたいことからはじまったらしい。京都で見たある茶室の姿に惚れて、浄智寺谷戸の持ってきたい、そして山口文象も関口よりも前にそれを見て、素晴らしいデザインだと知っていたというのだ。
 だから、この茶室は既存の茶室のコピーである。ただし、コピーするときに左右逆転の設計をしている。
 なお、昔から茶室の建物は、「写し」といってコピーをつくることが普通に行われていたから、特に不思議でもない。

 さてそのコピーされたほうの京都の茶室は、高台寺ある「遺芳庵」である。
 この茶室については、なんだか俗受けする由来があるようだが、ここではそれはおいといて、関口茶席としての由来を書いておく。
 だがわたしは茶室建築には暗いから、興味だけで書くから間違っているかもしれない。

 まずは本家(本歌か)の京都高台寺の遺芳庵と、こちらの鎌倉の浄智寺谷戸の茶室の写真である。左は1922年頃の山口文象撮影の遺芳庵、右は2017年にわたしが撮った旧関口邸の吉野窓茶室である。なんだか屋根のプロポーションが違うようだ。


 平面は左右(下図では上下)をひっくり返したから、茶道のお手前から言うと本家の遺芳庵は逆勝手(左勝手)だったのが、こちらでは本勝手(右勝手)になっている。

では、もしもそのままコピーして建てたらどんな姿であるか、遊びでやってみよう。左が現物の遺芳庵、右が左右逆転した旧関口邸の吉野窓茶室、当然ながらそっくりである。

山口の談には「敷地の条件に合わせて(『住宅建築』1977年8月号)左右反転したという。茶道に暗いわたしにはそれがなぜなのか分らないが、茶庭の構成上でそうなったのだろうか。茶道に通じていた関口あるいは夫人が本勝手を望んだのかもしれない。
 その山口の談には、「丸窓の位置がなかなか決まらないので、会席のほうもずっと後れまして」ともあるから、茅葺茶室の位置決めが最初であり、ここでは茶室を要としてその他の配置を決めたのだろう。実はこの時は、母屋の南に渡り廊下で結ぶ「離れ」も建てたが、それは今はない。
 
●関口泰の遺芳庵への想い

 関口泰の著作のひとつに『吉野窓由来(1940年)があり、「遺芳庵」と同じものを建てた由来を書いている。吉野窓とは遺芳庵の丸窓で、これを好んだ吉野太という女性に因むという。
 関口は浄智寺谷戸に居を構えてから、日夜まわりを眺めているうちに、この谷戸の風景の中に塔を欲しくなった。
夏に家が建ち上っての秋である。道を隔てて刈り残した薄原には、赤穂を吹いた尾花がなびき、上の段へ上る所に檜の小さな森がある辺が、一つの絵をなしてゐる。どうしてもあの辺に塔がほしい所だ。室生寺の五重塔をもって来ようと空想した程、室生寺の塔は小さく愛すべきものだ

 だが費用的に無理と分って、次に思いついたのが遺芳庵だった。
義弟の旭谷左右に案内されて京都の茶席を見物してまはってゐる時に、高台寺の中の佐野画伯の家にある「遺芳」の席を見て、これはいいと思った。無論茶道の方からではなくて、私の庭における絵画的効果からの話であるが、二坪か三坪の小さい家に比較してトテッもなく大きい三角形の屋根と、伽藍石を踏まへた大きな丸窓は、それだけで絵だ

 そしてこれを建てたいと山口文象に言う。
分離派の新建築家ではあるが、早く茶室建築に目をつけて、ベルリンで修業してゐる間に私と茶室建築の約束をした山口君であるから、変に型にはまった茶の宗匠や、高い金をとりつけた茶室建築家と相談するよりは、余程話がつきやすいわけである

 なんとベルリンで山口と話したのだそうが、山口文象がベルリンのグロピウスの下に居たのは1931年春~32年の6月、関口が朝日新聞のベルリン特派員だったのは1932年4月~11月である。
 山口の滞欧時に記入していた手帳があるので見ると、1932年2月14日と3月3日に関口の名がある。関口の滞在時期より少し前だが、手紙とか電話連絡のメモだろうか。

●山口文象の遺芳庵への出会い

 そうやって関口は山口をつかって浄智寺谷戸に、丸い吉野窓の茶室を設ける相談をしたのだ。
 関口の文中に、山口が「早くに茶室建築に目をつけて」いたとあるが、逓信省の製図工であった頃に、大阪市内の局舎工事現場監理の仕事で1921年から22年にかけて大阪に住んだのだが、休日には京都、奈良、堺などの茶室建築を訪ねたことを指している。

 山口はこの時に写真を撮り実測もしたが、その多数の写真プリントがRIAにある。その中には高台寺の遺芳庵もある。だから関口に遺芳庵を持ってきたいと言われたときに、既にそれを知っていた。
 「これがすばらしいデザインなんです。屋根のヴォリュームの大きさ、それら全体のプロポーションが実にすばらしい、その話を関口先生にしたら「じゃあ見に行こう」というわけで見に行きました。そこで決まったわけです(『住宅建築』1977年8月号)

 そのような二人が好きになった遺芳庵だが、その頃それはどうであったかというと、関口が書いている。
 「それに何よりも、一畳大目の茶室と二畳の水屋は、建築費からいっても、宝生寺の五重塔の如く空想に終らずに実現の可能性をもつし、長く茶室につかはれずに暴風雨に壊されたまま蜘蛛の巣だらけの物置のやうに、庭の隅に抛り放しになってゐる此の可憐なる茶席は、柱や床板の一つひとつに高価な正札のつけてあるやうな富豪の茶室とは事変り、私に消極的自信をつけてくれるに十分なものがあったからだ(『吉野窓由来』)
 山口が撮った写真は、「蜘蛛の巣だらけの物置」状態だったのだろう。
山口文象の茶室写真帳とその中の高台寺遺芳庵と傘亭

 それにしても、ナチスの暗雲漂う1932年のベルリンで、吉野太夫の遺芳庵の話とは、粋な二人である。
 その年に山口文象は帰国したが、翌年にブルノ・タウトがナチスを逃れてアメリカ亡命を目指して日本にやってくるし、翌々年には師匠のグロピウスがイギリスに逃れてアメリカに亡命する。
 そのブルノ・タウトは山口文象と何度か出会っていて、この関口邸茶席を褒めているのである。

 1934年6月に山口文象はその建築作品個展を銀座資生堂ギャラリーで開いたが、観に来たタウトが6月15日の日記に書いている。
建築家山口蚊象氏の作品展覧会を観る(同氏はドイツでグロピウスの許にいたことがある)。作品のうちでは茶室がいちばんすぐれている、――山口氏はここでまさに純粋の日本人に復ったと言ってよい。その他のものは機能を強調しているにも拘らずいかにも硬い、まるでコルセットをはめている印象だ。とにかくコルビユジエ模倣は、日本では到底永続きするものでない(『日本ータウト日記 1935-1936』篠原英雄訳 岩波書店刊)

 タウトが書く「茶室」とは、関口邸茶席のことである。ほかにも出世作の日本歯科医学専門学校など8件のモダンデザイン建築を展示したのに、タウトがほめたのはこれだけであった。
 タウトの評価をどうとるか難しいが、桂離宮を称賛し日光東照宮を貶した鑑識眼でみた関口邸茶席であった。彼が日本で褒めたモダンデザイン建築は、東京駅前にある中央郵便局舎(吉田鉄郎設計)だけだったようだ。
 つづく

・たからの庭