【望郷と忘却:『荘直温伝』読後感想文:1】のつづき
●荘直温町長が誘致した鉄道
日本の小さな地方都市が一人の人物を通じて、日本史の中にどう位置付けられており、どのように国家の網目の中に組み込まれ、それをどう受容したか、興味深い本をよみました。
わたしが少年時代を過ごした街ですから、地理的によくわかるので読んでいて身に染みるのです。ここに書くのは、わたしの故郷の高梁盆地を舞台にした一人の男とその一族の伝記・松原隆一郎著『荘直温伝』を読んで、極私的な読後感想文です。
前回はその本の付録の幕末地図に、わたしの生家である神社が載っていないことへの疑問と探索でした。
今回は、荘直温が高梁盆地のリーダーとして行った大事業の鉄道誘致について感想を書きます。この高梁盆地に中国地方を南北に結ぶ幹線鉄道の伯備線と備中高梁駅が開通したのは1926年でした。それがその後の高梁盆地にもたらした実に大きかったたことは、著者が110ページ(本文365ページ)も使っているほどです。
特に誘致運動についての荘直温の中央政府への陳情努力は、それに私財をつぎ込んで荘氏没落に至った原因となったとさえ書いてあります。
20世紀の初め頃、日本各地で鉄道誘致運動が盛んであり、政党の政友会はこれを利用して勢力を伸ばしたくらいでした。岡山出身の犬養木堂がキイマンとして登場するように、高梁もその一つだったのです。鉄道誘致は政治運動であり、荘直温は表に出せない多額のカネも使ったことでしょう。
(「荘直温伝」より引用) 山陽の岡山からに北へと山陰と結ぶ路線候補はいくつかあり、どこもそれがわが町を通るか否か、大きな政治経済問題でした。南から高梁川にそって北上する鉄道が、高梁盆地に入る直前に西方の成羽川沿いに方向を変える路線候補が、高梁にとっては大きな競争相手でした。高梁と成羽の熾烈な陳情合戦の結果は今に見る様に高梁路線になったのです。
思えば戦国時代、高梁盆地の支配者であった荘氏の先祖の庄氏が、成羽に鶴首城を構える三村氏と幾度もの松山城を取り合う合戦をしましたが、その再現だったでしょうか。
伯備線は1928年に山陽山陰連絡幹線として岡山‐米子間が開通します。高梁盆地から南に1時間ほどで倉敷や岡山へ、北へ3時間ほどで山陰へと結ばれました。
線路が盆地の底を南北に縦断して、城下町を東西二つに切り裂きました。その備中高梁駅は、盆地北部の繁華な城下町から離れて、南部の水田の中にポツンと登場しました。駅や路線の位置は鉄道としては合理的だったのでしょうか。
しかし、長い繁栄をしてきた城下町としては駅も線路も奇妙な位置です。そしてその後の高梁盆地の消長を左右してきた鉄道でした。
この鉄道に関する極私的な記憶から書きます。わたしたち盆地の底の少年たちにとって鉄道は、ここから外に出ていく道であり、駅はその出口でした。
そして乗るのは常に地形的には下るのに上り列車であり、反対の北行き下り方向には全く目が向かないのでした。わたしは少年時代の終わりとともに出て、そのまま戻っていません。弟たちもそうです。
わたしの父は、この駅から3度も戦争に出てゆき、運よく3度とも生還しました。最初と次は中国戦線に、3度目は関東で本土決戦に備える兵役でした。
3度目の1943年12月、この駅から母とともに送りだし、家に戻ったとたんに母が泣き崩れた記憶があります。その父母も55歳でこの駅から出て行き、岡山そして大阪へと移り住み戻りませんでした。
では、わたしたちが出ていった如くに、他の人々も出て行って盆地内は空き地空き家ばかりになったかというと、そうではないようです。
私の生家があった神社の境内や山林は変わりませんが、その周りの広い田畑や竹藪だったところは、今ではびっしりと住宅が建ち並んでいます。出て行った人を上回る人たちが周辺地域からやってきたのでしょう。
実は高梁盆地の人口を調べていて、江戸中期から1万人前後であまり変化がないという、じつに興味深い発見をしたのです。盆地特有の閉鎖空間の自然環境と社会環境が、そのようにさせるのでしょうか。
行政市域人口は減少するばかりですが、その中心部の盆地では出入りが均衡しているのです。誘致した鉄道が盆地から人や物を奪っていくストローとして働いたことは確かでしょうが、一方で鉄道があったことで地域中心としての地位を保持し、周辺地域から人々を吸い込んだのも事実でしょう。
●高梁盆地を縦断する鉄道
それにしても思うのですが、どうして町長の荘直温は誘致した鉄道を、この線形で盆地の中を通したのでしょうか。
駅は賑やかな城下街から南に外れた寂しい田んぼの中であり、線路は盆地内随一の優良邸宅地の武家屋敷町をなぎ倒して縦断しました。それは鉄道敷設する側の都合によるものか、それとも地域が欲した位置でしょうか。どうも鉄道側の都合だったような気がします。
近世形成の計画市街と近代以降形成の無計画市街との比較
この街なかを通る鉄道の列車は、長時間の大騒音、地を揺るがす振動、真っ黒な煤煙を街に振りまきました。わたしにも直接被害経験があります。
戦後に生まれて新築されたばかりの新制中学校に入学しましたが、その校地は鉄道線路に接していました。3年生の時の木造校舎の教室は線路際の2階でしたから、騒音煤煙振動の3重苦に襲われて、列車が走るたびに授業は中断しました。
武家屋敷町の石火矢町を切り裂く機関車
1971年公開映画「男はつらいよ 寅次郎恋歌」より引用
ついでながら、この学校の北側には専売公社の煙草工場がありました。この工場から煙草に入れる香料の甘ったるくて胸が悪くなる異様な匂いが、学校全体に流れ込んでいました。この工場も荘直温伝には、彼が土地斡旋に苦労して誘致成功したとあります。どうも少年のわたしは、その称えられる荘直温の事績とは相性が悪かったようです。
荘直温の事績について付け加えると、街の南部の川沿いに桜並木を彼が作り高梁の名所であったが、これを後の1940年に切り倒したことを著者が難じています。高梁では桜土手と言っており、幼児のわたしは親に連れられて行った記憶があります。3歳以下の幼児にサクラドテなる言葉の記憶があるとは思えないので、実は一部が後々まで残されていたのでしょうか。わたしの少年期の花見は方谷林でした。
駅がなぜ賑やかだった城下町に接することなく、遠い田んぼの中だったのでしょうか。普通に考えるとその駅の周辺が新たな市街地として整備しやすいからと思うのです。
ところが、わたしがいた50年代までの駅周辺は映画館(3軒もあった)や飲食店が多い歓楽街で、買い物に行くところでもなし、まして少年が行くところではないのでした。買い回り品は城下町の中心の本町や下町へ、最寄り品は新町や鍛冶町へ行ったものでした。
駅から南部は大部分は田んぼでした。駅裏になる駅東側は、鉄道で出荷する松など木材がたくさん積んでありました。松丸太の積み出しが盛んな駅でした。
その後70年代には栄町がショッピングの街として繁栄したと、この本にはありますが、50年代末に盆地を出たわたしは、その姿を知りません。
1946年ころの盆地南端から北を写した、右方に線路
1947年航空写真 左端に臥牛山、右方の駅前通りから南部は田んぼ
駅ができたことで開発利益に与るのは、それまで田畑を持っていた人たちです。なぜこの位置だったのでしょうか。
それを勘ぐれば、ここは旧松山村のエリアであり、松山村で荘氏松山分家が庄屋として、18世紀終わりごろから采配を振るっていたのです。駅を旧城下町と旧松山村とで取り合いになり、荘直温町長はその故地に駅を決めたのでしょうか。我田引水をもじって我田引鉄といいましたが、その実例かもしれません。
一方、線路が縦断するだけの旧城下町は、直接利益がないどころか生活環境が悪化しました。武家地だった寺町、間之町、頼久寺町、石火矢町、内山下の静かな高級住宅地を縦断するのは、鉄道の線形としては最良だったのでしょうか。
鉄道線路は武家屋敷地(青色部)を縦断して驀進
(「荘直温伝」付録地図の一部を加工、グレイ部は商人地)
町長の荘直温はどうしてそれを受け入れたのでしょうか。いや、鉄道用地土地買収で地元調整に尽力したと関係者から感状をもらっているのですから、積極的にこの武家屋敷地縦断を進めたのでしょう。誘致とバーターだったのでしょうか。
なぜ商人地でなくてこの武家屋敷町を通ったのでしょうか。没落士族のほうが、栄える商人よりも土地を手放し易かったのでしょうか。商人地は間口が小さいので関係者が多くなるが、武家地は宅地が大きいので買収対象者が少なかったからでしょうか。
西半分を線路にとられた石火矢町は、残る山側の半分だけが現在は武家屋敷町として歴史的雰囲気を演出しています。同様の頼久寺町ときたら、わたしが毎日のように通っていた1940~50年代は、武家屋敷どころかほとんどが竹藪でした。いまは住宅地のようです。
元都市計画家の目で、高梁盆地の地図や空中写真を見て、奇妙なことに気が付きます。駅から遠い北のほうの街、つまり近世の城下町だったところは道も街網も整然としているのですが、駅やその南のほうの街つまり近代以降のできた街は道も街並みも乱雑です。
どうやら、鉄道が来て駅周辺が田園地帯か市街地に変わっても、近世以前のように都市計画的整備をしないままなしくずしに街になったようです。
つまり、荘直温町長は、鉄道の駅を受け入れる側の街としてのまちづくり計画もないままに、鉄道事業者の計画に従って土地買収に協力しただけなのでしょう。もしかして、鉄道がどのようにこの地に影響及ぼすか考えることなく、誘致そのものがが目的化してしまったのかもしれません。荘町長は鉄道が高梁盆地の一大流通産業である河川交通の高瀬舟の没落を招くと考えなかったのでしょうか。その頃の町議会の議事録を閲覧したい。
中央に備中高梁駅、その左下方の整った街並みが江戸時代の城下町 その後の為政者たちも、南部地域を駅を中心とした街として面的に整備することなく、いくつかの道だけを作って、なし崩しに田畑を宅地し、適当に公共施設を作ったようです。総合的に街を作ることに関心がなかったようです。
地元有志が計画した栄町商店街再開発ができなかったが、行政のリードすべきだったのにと著者の松原さんは指摘していますが、駅中心の田んぼの街づくりさえできないのに、そんな権利輻輳した市街地のまちづくりは、とても無理でしょう。駅前通りと栄町通りの道づくりで手いっぱいだったのでしょう。
●他都市と比較する鉄道の位置
では、鉄道が高梁盆地に来た頃、岡山県内の近くの他の同じような盆地ではどうだったでしょうか。昔を調べるのは面倒なので、グーグルマップで現在の空中写真を見ましょう。
まず新見盆地ですが、伯備線は城下町だった市街地の川の向う、高梁川の対岸に線路も駅も作っています。だから既成の城下だった市街地の破壊がなかったようです。しかし駅周辺を見ると、どうやらここも総合的に整備されないまま今日に至っているようです。
新見駅は旧城下町から高梁川の対岸にある
津山盆地も新見と同じように、旧城下町市街を避けて吉井川の対岸に駅と線路を通しています。ここも駅周辺総合的整備はなかったようで、旧城下町市街地が栄えています。
ということで、新見も津山もやらなかった旧城下町破壊を、高梁盆地では鉄道に許しているのでした。荘町長は誘致運動で資産と体力を使い果たし、備中高梁駅開設の2年後に他界したのでした。
津山駅は旧城下町から吉井川の対岸にある
高梁盆地でも地形的には高梁川の右岸(西岸)に線路を通して、そこに駅を作ることができたはずです。盆地に入る直前に川を越えて右岸に移り、そのまま北上していくほうが線路線形はまっすぐにになります。そして城下町破壊をしないで済みます。
新見や津山と同じころに鉄道ができたのに、なぜ荘直温町長の高梁では武家地を縦断し、旧藩主館の尾根小屋跡の門内にまで鉄路を入りこませたのでしょうか。
そのわけを勝手に推測すれば、維新前の荘一族は松山藩のあちこちの村で、農民を統率して武家に過酷な年貢を納める庄屋であったので、その支配階級への維新後意趣返しだったのでしょうか。
それとも逆に、秩禄公債を食いつぶして困窮していた元武士階級を鉄道用地買収補償金で救済したのでしょうか。
いや単に西岸は隣村だったから、通すわけにいかなかったからでしょうか。
他の街との比較ならば、ここでドイツの有名な古都市ハイデルベルクを挙げなければなりません。わたしが1991年に”発見”したドイツのこの街の景観は、驚くほどに高梁盆地と実によく似ています。
旧城下町と駅中心新市街という関係は、盆地地形的にハイデルベルクにそっくりなのです(詳しくはこちらを参照)。もっとも、新市街地も計画的に開発しているところが、高梁盆地を大違いですが。
ここも高梁盆地と同じように鉄道が新市街から旧市街の反対側に抜けているのですが、高梁との大きな違いは、それが市街地縦断ではなくて、背後の丘陵地のなかをトンネルで市街地の端に抜けていることです。
高梁盆地に例えると、秋葉山から臥牛山の中をトンネルで内山下の上に抜けるのです。これなら線路が旧城下町に何の影響も与えません。伯備線にはハイデルベルクのような路線案はなかったのでしょうか。
ハイデルベルクの左半分が古都 鉄道が古都を避けてトンネルで抜ける
高梁盆地も赤点線のように線路をトンネルにすればよかったと思うが、
ついでに言えば、ハイデルベルクでは山側の幹線道路も半分はトンネルです。通過交通が街の中を通らないので、ネッカー川と市街の関係が密になります。
高梁盆地では高梁川沿いに幹線国道を作り、しかも堤防を塀のように高くしたので、街と川の関係が非常に薄くなりました。わたしが少年のころはこの高梁川が大きなレジャーランドであり、同様に周囲の緑の丘陵もそうでした。そうだ、松山城の天守へは日常的に登って遊んでいました。今はどうでしょうか。
というわけで、荘直温の努力で誘致に成功した鉄道を、著者の松原さんは社会経済学的に評価されたのですが、わたしは盆地内の都市計画的として辛い評価をしてみました。もちろん、著者のように新資料を駆使する能力はないので、極私的な感想として面白がっているだけです。
さて、続きを書くかなあ、だんだん妄言が多くなりそうだなあ、どうしようかなあ。
(つづく、かもしれない)
◎高梁盆地に関する記事はこちらにも