2024/10/18

1841【渋谷浦島太郎気分・1】6年ぶりに地上に出てみた渋谷駅はまるで爆撃にあったような姿だった

  渋谷の街に6年ぶりに出てみた。

 6年前までは渋谷駅と周りの街の大再開発をやっていて、通路はあちらこちら曲がりくねり、階段だらけで立体迷路になっていた。どこをどう歩いているのか、さっぱり分からない。遊園地の迷路である。アスレチック遊び気分でもないと、当分来るところではないなと思った。
 そのころ書いたブログ記事 2018/10/09【渋谷アスレチックステーション

 東横線が地下を通り抜けて新宿方面にも通じるようになってから、渋谷は駅を通過ることはあっても、降りて外に出るのを敬遠していた。
 コロナも終わりのようだし、5年以上も経てば、さすがの渋谷再開発も完了して、地上はどこもアバリアフリーになっているにちがいない。コロナ中に年取ってしまったわたしでも、今やスイスイ動けるに違いないと思い、地上に出てみた。

 それは大きな見当違いであった。地上はまるで戦争中のような様相を呈していたのだった。それが再開発の現場であるとは思えないほどに、地上は荒廃していた。
 西口広場に顔を出してみると、あの西口の駅ビル(坂倉順三設計の特徴ある姿で東急南館といったか)がまるで爆撃を受けたかの姿であったのだ。

 その爆撃姿を見てもらう前に、元の姿を思い出そうとネットを探したらあった。

右が東急南館の駅ビル、左が東急本館

 それが今見るとまるで爆弾が落ちたみたい似成り果てていた。えっ、再開発したのじゃなかったか?、南館のほんの一部だけがかろうじて残っているだけ、でまるで廃墟、どれもこれも無残に破壊されている。いや、今も破壊が進みつつあるようだ。駅前広場もゴミ捨て場のごとき様子だ。

東横デパートは消滅、駅ビルの一部があるだけ、廃墟か?、浦島太郎気分満喫

駅前広場も消滅か?

よく見ると一部残る駅ビルに「渋谷駅」と緑色の看板

 駅前広場も一部に通路らしきものがあるだけで、無茶苦茶だ。再開発なんてどこに行ったのだろう?

 もうちょっと近寄ってみよう。驚いたことに、この爆撃されたビルの中に山手線が動いていたのだ。そうか、あの辺りが山手線渋谷駅のプラットフォームであるのか。よくまあこんなカオスの中で電車が走るものだ。 

山手線渋谷駅ホーム

 コンクリート構造物のあちこちに青ペンキで「のこし」と書いてあるのが見える。これはこの構造物は壊さずに残すという意味だろうか。
 コンクリートを壊したり残したり、巨大鉄鋼構造物を建てたりしている。JR渋谷駅の上空に、巨大建築を建てるらしいく、この破壊はそのために旧建物の撤去をしているのか。

JR渋谷駅の上空に巨大建築が建つらしい

 さすがに主要鉄道駅だから、その機能を一日も休止できないのだろう。破壊と建設が同じ場所で進行しているのは、かなりすごい光景である。まだまだ完成には年月がかかりそうだ。わたしが生きているうちは完成無理らしい。

 さらに驚くのは、この修羅場の中を通り抜けることができることだった。工事現場を目の前に見ながら、JR渋谷駅上空をまたぐように越えて、駅東に抜ける通路があるのだ。そういえばそのようなJR駅上通路が昔あったことを思い出した。その名残が生きているらしい。

 これってもしかしたら、いまだにアスレチックステーションかしら、いやいや今やバリアフリー当然の時代になっているから、まさか立体迷路はあるまい、そう思って東口へと歩き始めた。ところがそれは甘かった。

 あの昔懐かしい渋谷駅越えの通路らしきものが現れて、昔と同じようにたっぷり3階分の階段を昇る羽目になった。昔と違うのは、わが身が杖を突き、手すりに頼って、一歩づつ昇らねばならぬことだった。バリアフリーなんてくそくらえ、さすがに渋谷駅、バリアは今も健在だ。

渋谷駅越え通路へ上る階段はさらに上へと続く 懐かしい床タイル模様

 まだこれかよ~と、うんざりしつつ歩き昇り切ったら、目の前に新しい地下鉄銀座線渋谷駅ホームが現れた。え、こんなところに銀座線駅かい?、ずいぶんアサッテに移って来たんだなあ、浦島太郎気分満喫である。ここは地上5階くらいだろうか、う~ん、今浦島やるのも楽じゃない。

地下鉄銀座線の新しい渋谷駅ホームは地上5階くらいだろうか、歩いて登らされた

 この駅のデザインって、巨大ゲジゲジの腹の下にいる気分である。そう思うと気分が悪い。構造的なものか、意匠だけの物か、どうなのだろうか。
 あの狭くるしかった旧地下鉄渋谷駅と比べるとずいぶん広くなった。でも移ってきては井の頭線との連絡が悪すぎて、事実上は無関係な位置になったが、これでいいのだろうか。

 とりあえずここまで書いたが、駅の東側からさらに南の桜ケ丘までも行ってきたので、その話は改めて書く。
 それにしても、先般の新宿浦島太郎徘徊で、その駅西口に巨大な廃墟を見たが、今度は渋谷でも廃墟とは、廃墟をいったん作らないと再開発はできないものらしい。(続く

(20241018記)

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2018/10/09 渋谷アスレチックステーション

2016/11/18 東京・渋谷駅定点観測

2015/03/12 谷駅は巨大な立体迷路遊園地

2013/03/28 玉久三角ビルから東横デパートへ

2012/05/08 渋谷駅20世紀開発の再開発時代

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2024/10/12

1840【ノーベル平和賞】平和とはもはや叶わぬ夢なれや核も戦も地球に溢れて

●ヒバクシャにノーベル平和賞

 今年のノーベル平和賞が、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に授与された。「核兵器のない世界の実現に向けた努力」を評価したのだそうだ。

 受賞した被団協に祝意を表するとともに、この時期にこの団体に授与したノーベル賞委員会に敬意を表したい。それにしても、その受賞団体名が、その悲惨な出自を物語って、いかにも禍々しいことと思う。


 ノーベル賞委員会による授与理由には、核兵器を登場の過去、現在、未来の現実の恐怖を圧縮して述べている。人間が核兵器をはじめて戦争に使って80年になろうとする。1945年に最初の核兵器による殺人数は約12万人だった。
 そしてその後に核兵器に死んだ者はそれに匹敵する数であるというそして更に今も核兵器で殺すと脅していると言う。

 この間に人間は十分に核兵器の恐怖を知っていて、被団協の人たちが身をもって訴えても、人生ほどにも長い時間が経っても、核を廃絶できないのはなぜだろうか。もしかしたら核という毒は、人間の心に深く入り込んで巣食ってしまった麻薬かもしれない。 

 核が電気エネルギーを作ることを知った人間は、その時から核が兵器であることを忘れて麻薬に化したのだろう。そして麻薬に侵された人間には、もう立ち直るときが失われているような気がする。

 唯一のヒバクシャを出した国であるのに、ここのトップの総理大臣石破茂でさえもが、「核の共有や持ち込み」を具体的に検討するべきだと主張している始末である。そういえば1974年にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作は、非核三原則の表明によるものだった。この国もすっかり核の麻薬中毒になっているのである。

 ヒバクシャ発祥から80年も経っているのに、被団協のノーベル賞受賞を祝い事として受けとることを、むしろ悲しむべきであろう。これほど訴えても麻薬から抜け出せないあんまりである。今や、まだ被爆体験がある生きている被団協の人たちがいるうちに、受賞が間に合ったことだけを、うつろに喜ぶしかないのかもしれない。

平和とはもはや叶わぬ夢なれや 核も戦も地球に溢れて

ヒバクシャ歌人は短歌で核加害を糾弾する

 わたしにはの友人の中に広島核爆弾被害者、つまりヒバクシャの兄妹の二人がいる。わたしと同年の兄の方は昨年逝き、今回のノーベル賞には間に合わなかった。
 その妹なる人は歌人であり、その父も母も奪った加害者の国USAに住みながら、核兵器を三十一文字の韻文で糾弾してやまない。

 その最近作は朝日新聞歌壇の高野公彦選による入選歌(2024年10月6日)

    爆死せし屍の上に建つヒロシマ 屍の土で基地つくる沖縄 
                    (アメリカ 大竹幾久子)

 その大竹幾久子さんにはこのような朝日歌壇入選歌もある。
    被爆者の証言こそが抑止力になるとて今日もズームで証言  
    原爆死の父は机上で笑みており娘が米人となりしを知らずに
    父は死に我は生きたり原子雲の下で二キロを離れただけで 

 そしてその母の被爆体験記を日本語と英語で出版している。

 わたしが生きているうちに、またもや核戦争に出会うなんてことは、もう絶対に嫌である。被団協の活動により、それが今まで避けられたというのがノーベル賞授賞理由だが、もう避けられないような気がする。
 今や数え歳で米寿になったこの身を、その不幸な出会いから避けるには、できることはたった一つしかない、と思っているのだが、さて、この矛盾をどう考えるか。

老いた身に戦に出会わぬ術ありて 戦の前にこの世を去るべし
(2024/10/12記)
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2024/10/10

1839【年金生活】提出必要とも不要とも両方を指示する書類が来て困惑し年金事務所に訊きに行ってきた

 年金生活者である。毎年今頃になると日本年金機構なる役所(?)から「扶養親族等申告書なる書類に書きこんで提出せよと、たくさん紙を送って来る。提出は一枚だけだが書き込み方についての解説書類が多い。年金受給者全部に送っているのだろう。

 最初に読むようにと、大きな字の紙がある。フローチャートが書いてあり、順番に質問にしてがってYES or NOの回答を選んで進むのだ。それで提出の必要不要を判断する。

 先に結論を書いておくが、わたしの場合は本当は書類提出が必要だが、解説フローチャートの間違いで不要となっているだった。 

 フローチャートをたどると、途中で「所得控除の対象となる配偶者または扶養親族がいますか?」の質問があった。わたしはこの夏に配偶者を亡くしたので、去年までとは違って「いない」を選んで進む。ここが重大な間違いのところだ。

 そうやって最後までくると提出が不要にたどりつた。しかも最後の桝には「前年に申告書を提出している場合でも提出は不要です」と念入りに書いてある。
 
 あれっ、毎年提出しているし去年も提出しているのに今年は不要なのか。
 それは今年は配偶者が死んだから、もう提出の必要がなくなったのだろうか。でも、扶養親族がいなくなったことを申告しなくてよいのかしら、この書類はそのためのものだろうに、変だなあ。

 すでに市に死亡届を出しているから、それを日本年金機構はすでに知っいて、この申告しくなてもよいのだろうか。でもそうやっていち早く家族情報を手に入れているのなら、毎年申告させているのは、わかっていることを念入りに申告させているのかしら、なんだか変である。

 でもまあ提出しなくていいのなら、このやってきた書類を見もしないで捨てようと思ったが、待てよ、念のために提出不要という「扶養親族等申告書」用紙を出して眺めた。その作成の手引きも見た。

 そこには、変更があればその人物を記述を訂正・追記・抹消をせよとの指示が書いてある。抹消とは即ち死亡をも意味するのであろう。
 ということは変更があれば提出が必要と考えるのが普通だろう。

 ではフローチャートによれば提出不要とはなぜだろうか、どこかに配偶者死亡の場合は提出すべしと例外規定の注意書きがあるかと克明にさがしたが、見つからない。
 そこで年金事務所が近所にあるから、閑老人として出かけて直接に訊くことにした。それに、ボケ防止活動にもなるし、。

 横濱中年金事務所を訪ねて係にそういうと、しばらくフローチャートを眺めて言った。
 「配偶者死亡の場合は提出が必要ですが、なるほどこれだと提出不要となりますねえ、でも、もしかして提出しないでもよいかもかもしれません、調べますのでお待ちください」
 そして30分くらい待たされた結果は、
フローチャートにはそうなっていますが、申告書を提出してください
 要するにフローチャートの誤りというが不備である。

 このままでは今年配偶者に死なれたものは、みんなこの書類を提出しなくてもよいと判断するだろう。それで年金事務は問題がないのだろうか。
 わたしのようにこの一年で配偶者に死なれた人は、日本全国に何人いるのか知らぬが、特に珍しいこととも思われない。

 その場で書いて提出した。もっとも、これを提出しないと国が税金の取りそびれになる可能性があるのだから、納税する庶民にとっては都合がよいことかもしれれない。でもいまさらフローチャート印刷やり直しはしないだろうから、自己満足にすぎない。

(20241010記)


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2024/10/08

1838【横浜MM21浦島太郎】ぴかぴか整然超高層新都市ビジネス街には浦島太郎気分が湧きにくい

  この5年ほどコロナと介護で出歩けなかったが、8月から独り身になったのっで独り街歩きを少しづつ再開している。ついでに言えば、同時にやめていた酒飲みも少しづつ再開練習中である。
 街歩きはコロナ前にはしょっちゅうやっていて、何時間でも歩いていたものだが、介護で逼塞している間に、老いが進むとともに脚力が衰えた。老いてもまだ歩けるうちに、せっせと都市歩きをやっておきたい、転ばぬように杖を突いて。。

 復活してから訪ね歩く街は、5年もあれば大変化に十分な時間であり、まるで浦島太郎の気分になることもできて、それはそれで楽しいものだ。品川駅東地区新宿駅周辺地区についで、新横浜駅周辺地区に行ってみたが、駅そのものと新幹線には浦島気分だったが、町はそうでもなかったので、ここに書くほどのことはない。
 昨日は、横浜「みなとみらい21」地区(MM21)に浦島太郎気分を味わいに行ってきた。まあまあ太郎気分もなくはなかったが、新宿と比べるともの足りなかった。

 みなとみらい地区に入るのはたぶん5年ぶりだろう。わざわざ紅葉丘から掃部山に登り、山を下っていく昔のルートから、久しぶりのMM21である。
 国道16号を横断し、頭上を走るJR線路の高架をくぐり、すぐまた地上を走るJR貨物線の踏切を渡るという、せせこましいMM地区入口を過ぎると、途端に超高層街が現れるのが面白い。実はこの踏切あたりは、かつて巨大造船所時代には工場の門があったそうだから、伝統的には正し入り方である。

街からMM地区に入るには国道をわたり鉄道高架をくぐりぬける
 
鉄道高架をくぐり貨物線の狭い踏切を渡ってMMへ、昔このあたりが造船所の門だった

 もちろんもっと北や南の広い道から入るのが普通のルートだが、今日は久しぶりにこのルートにしたのは、浦島太郎気分のためである。踏切を過ぎると高速道路の高架をくぐるという、まことに念入りに現代風のゲートが仕組まれている。ここは昔のままの風景である。
 はいってしまうと広い広い道路に高い高いビルが立ち並んでいて、昔はこのあたりが原っぱだったことが不思議な世界になっていた。さすがに海だったころを知らない。

 ここにあった大きな広い平屋のDIY屋は、黒くて高いホテルのビルに変わっていた。ごちゃごちゃした住宅展示場も白いオフィスの超高層になっている。巨大なイベント会場もできている。汚らしい幟りやら小旗がはためいていた野天の自動車屋はどうしたのかしら。子供でにぎわっっていたアンパンマンなんとかってのはどこに行ったのだろうか。


 浦島太郎気分であたりを見まわしつつ歩けば、広い道路に沿って一様に白っぽい壁と黒っぽいガラスの似たような超高層ビルばかりが並び立ち、歩道がにぎわうことはなさそうだ。ちょっと寄ってみようかなと思った建物は、神奈川大学が新キャンパスの白い超高層であった。ここだけは広場に学生たちがいて、3階あたりまで一般開放しているらしいから、人影があるのがよろしい。広い芝生がないキャンパスは寂しい。

 アトランダムに風景を載せる。






 モールの樹木は高くなり緑が繁って、景観がよくなっている。でもビルの姿は空き地に大きなものが建っても基本的には変わりがないというか、別に面白くもないものだ。


  PCの中を探したら上の写真と同じアングルの10年前の写真を見つけた(下図)。遠くの正面にビルが建ち、左の空き地にもビルが建ったところが変化だろうか。
10年前のモールは緑が貧弱で街に潤いがなかった
 
 ふらふらとあてどもなく歩く。用がなくて動くのだから、変化がないと疲れてくる。似たようなオフィス然としたファサード構えばかりではなくて、店舗の賑わいにも出会いたいのだが、それがなんだか難しい。任意に撮ったどの写真を見てもわかるように、全体に広告や看板類の規制が実によく働いていて、それらが一つも見えない。だから歩いていてもビルの前まで来てはじめて、あ、ここは食べ物屋か、食品量販店か(スーパーマーケットともいう)、お茶飲めるな、ここでは酒飲めるかもしれないな、なんてことをようやくわかる。
 
 これは来訪者には不親切だが、ここで暮らし働く人たちだけがが、それらの場所を分かればよいのだろう。観光客を呼びたいとは思わないのだろう。街の賑わいなんてことよく言われるが、一方で街の景観なんてことも言われるようになり、これらは対立概念ではないが、ここのような新しい街を作るときにどちらに親切になるように傾くのか、興味がある。

 でも考えると、今どきは誰もがスマートフォンを持っており、その中にある町案内に頼って歩けば、どこに何があるかわかる。ビルの上やら前やらに看板広告を掲示する必要がないのだろう。なるほどネット時代は街の景観をすっきりさせるのか。今に中華街もすっきりするのだろうか?

デッキレベルの歩行者ネットワークも充実してきた

 かつては横浜駅からアクセスすると、広い空き地だらけで、草ぼうぼうの地を眺めながら歩いたものだが、それが懐かしくなって、PCの中を探してみた。アトランダムにそれらの原風景を載せておくが、今となっては私にはどこであったかわからない。まさに浦島だ。
2011年12月13日

2011年12月13日

2014年3月25日

2009年10月1日

2014年3月25日

でも、まだ空き地はあり、こんな風景がごうごうと音を立てていた。

 総じていかにもニュータウン的ビジネス街になってきたが、どこかで見てきたような新都市風景であって、どこかに計画の鬼が潜んでいるらしい。しばらく見ぬ間に自然に変わったのではないから、浦島太郎的気分がわかなかった。新しいものばかりだと記憶がないからだろう。

 みなとみらいプロジェクトはこのあたりメインの地域だろうが、私の好みとしては新港地区の方がはるかに面白い。もう20年もたてば、MM21のピカピカ地区もいろいろと崩れたところが出てきて、味が出てきて面白くなるかもしれない。その時に私が訪ねてくることはありえないが、もし来たらそのときは浦島太郎になれることであろう。

 最後に2014年と2022年のグーグルアース写真を載せておく。
2014年3月16日MM21空撮 google earth

2024年2月12日MM21空撮 google earth

 (2024/10/08記)

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2024/10/02

1837【東京科学大学】工業から科学へ母校の名が変わりなぜか肩身が広がる気分


 2024年10月1日から、東京工業大学と東京医科歯科大学が統合して、「東京科学大学」というのだそうだ。

 まさかと思うが、「千葉科学大学」というのがすでにあって、経営難で自治体に引き取ってくれと言っているそうだから、東京科学大学もその系列で経営難から統合して一つになった、なんてのではあるまいな。

 なんしろ統合したら国からの運営交付金の金額的ランキングが上昇したらしいから、つまり懐が豊かになったらしいので、統合は金銭的にメリットがあるんだろうなあ。

 わたしはその片割れのひとつの大学を卒業したけど、あまり昔過ぎて関係ないからどうでもよいのだ。あ、ちがうな、実は毎年の桜の季節にキャンパス花見に遊びに行っているから、無関係とはいいがたい。あの花咲くキャンパスを、増えた運営交付金投入して、これからも維持してくださいませ。参照:2024大岡山花見

 ところで、卒業生たちはこれまでは「工大」とテキトーに縮めて呼んでいたが、これからは「科大」というべきだろうか。なんだか合併でたくさん課題が出てきているのではあるまいな、いやまあ過大な期待をしないでおこう。

 あそうだ、英文の方はどうなるのだろうかとネットを見ると正式には「institute of science tokyo」、略して「science tokyo」というそうだ。これをさらに略して「IST」か「ST」かしら。

 私が学生だった頃は「tokyo institut of technology」を略して「TIT」といったものだが、これは英語の隠語ではイヒヒなので(かどうか知らぬが)、最近は「tokyo tech」と略称していたようだ。

 ところで旧名大学の卒業生はこれからは母校名をどう呼べばよいのかしら。今日の新聞に載っている石破内閣の大臣の中に、ここの卒業生が一人いるが、出身校名は東京科学大学ではなくて旧名のままだったが、そうするものなんだろうか?

 わたしはこれまで「工業」と着く大学名がどうもダサすぎると思っていたから、「科学」に換わってちょっと嬉しい、ちょっとは賢くなるような気がする。だって、科学というなら社会科学もお勉強するんでしょ、わたしのころはがちがちの製造屋ばかりだったもんなあ。

 実はわたしは「遺構による近世公家住宅の研究」(その一部はこちら参照)というまことに工業的でない建築史の卒論を書いて出たものだから、「オレは理工学部卒じゃなくて文学部卒だ」と勝手に言っているので、これでようやく肩身が広くなるかも?、狂歌を、、。

工業から科学へ母校の名が変わりなぜか肩身が広がる気分

(2024/10/02記)

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2024/09/29

1836【新宿浦島太郎気分】大変化の新宿駅前東西あたりの街に昔と変わらぬ風景を探す

 コロナに重ねて老々介護で5年間もの逼塞から解放されて、少しづつふらふらと都市遠足徘徊をやり始めている。この前は品川駅東の港南地区、先週は戸塚駅あたり徘徊、今回は新宿の駅東西徘徊である。予想していたけれど、東京の都市変化は著しい。浦島太郎気分を楽しむには、じつに楽しいところだ。

 新宿の街に降りたったのは、この前はいつだったろうか。PCに保存する写真の日付で最も新しいのは2007年だから、もう17年も前のことであったか、東京の姿ががらりと変わるには十分すぎる長さだ。構造的な骨格は変わらないが、景観の変化が著しいから都市徘徊を楽しむのだ。なお、2008年に新宿を訪れて、こんなことを書いている。

 地下鉄で新宿3丁目駅に降りた。この前はまだなかったはずの副都心線であるから、駅の中でも外に出てからも、しばらくは方向感覚が戻らなかった。昔と風景がまるで違う感じだ。地上の街並み風景の基本は、道路がつけかわらなければ変わらないはずだ。だが、昔よりは小ぎれいな建築に建て替わっている感があって、頭の中の新宿イメージが異なる。

 こうなると浦島太郎気分になってくる。そして浦島太郎として街を楽しむには、昔と同じ風景を探しつつあるくのだ。新宿3丁目交差点でしばらく立ち止まって方向感覚を取り戻そうとした。そのよすがは伊勢丹という建物のであった。これは昔通りの姿で立っていた。

赤の丸に伊のマークは伊勢丹だ、昔のままの位置に昔の建物だ

 伊勢丹がここならば、次に知っている建物は紀伊国屋書店であるが、果たしてまだあるだろうか。あったあった、昔の姿で立っているぞ。うん、わたしはこれが建つ前の、木造だった建物に入った記憶もある。

紀伊国屋書店は昔のまま

 こうしているうちにようやくオリエンテーションの勘が戻ってきて、新宿駅方面へと歩き始めたのであった。沿道の建物がこぎれいな感じだが、昔よりも幅も高さも増えているようだ。昔よりもずいぶん幅を利かせているのが、ビックカメラだ。2007年にはまだなかったユニクロなんてのが、ビックカメラと肩を組んで、赤い字をきらめかせているのが、新宿の近頃の大型店なのかしら。

 ではこのあたりで北に曲がって、歌舞伎町を覗いて来よう。まあ、ごちゃごちゃぶりは変わらない。あれ、あの空色の高層ビルは記憶にあるぞ、なんてたっけか、そうそう都立大久保病院だ。検査か何かで入ったことがあったなあ、浦島太郎の記憶のひとつである。

歌舞伎町の飲み屋街で正面に見えるビルは都立大久保病院
 

 では、歌舞伎町の神髄であるコマ劇場あたりに行ってみよう。噴水のある広場があったよな気がする。あったあった、広場だけはあったが、噴水はなくて殺風景なタイル張り、しかも四周に柵がめぐらせたあって入れない。つまらない。道と広場の境目あたりに、女が一人、男が一人、別々に床に寝転んでぐっすりと眠っているのが、新宿歌舞伎町らしい風景だ。 

昔の噴水広場は殺風景なことになっている
 そういえば、今日はここに来る前の道端で若い女性がが寝転んでいたし、その前の電車の中で寝込んで、しかも床に吐いた若い女がいた。土曜日だから夕べ徹夜で飲んだのだろうが、昔は男にしか見なかったが、近ごろは女性もその風景を作るらしい。

 ついでに2008年の上と同じ角度の写真(下図)を見よう。この時もすでに噴水は消えている。向こうのビルが上の写真とは違うから、こののちに建て直されたらしい。

2008年の噴水のない噴水広場風景
 
 この広場の写真の背中の側には、新宿コマ劇場があった。ついでにその2008年の写真を見よう(下図)。
広場に面して新宿コマ劇場があった2008年
 
 これとおなじアングルの今回2024年の写真は下図のようである。白湯のビルは今も変わらないようだが、コマ劇場があったところには超高層ビルが建っている。下層は商業施設、上層に共同住宅のように見える。ネットで調べたら「新宿東宝ビル」といい、1000室近い巨大ホテルであるらしい。

コマ劇場の跡のビルにはTOHO CINEMAS IMAXと書いてあった

 広場が今もあったから、浦島の記憶のよすがにはなったが、意外につまらない風景だ。この広場を種に大きな都市再開発があったかと期待したが、2面は超高層ビルに建て替えしただけで、その他の2面は昔のままだ。そういえばここには歌舞伎座を誘致するつもりで、町名もそうつけて戦後復興の大事業をやったのだが、歌舞伎座は未だにやってきていない。

 若者たちが群れ遊ぶ飲み屋街を抜けて、JR新宿駅の東口に行く。ここに建つ東口駅ビル「ルミネ」は、昔の姿と変わらずに今も建っている。駅前広場もごちゃごちゃ狭いままだ。ところが何となくすかすかして見える。あ、そうだ、右の方の背景に壁になって見えていた西口駅前の小田急デパートが消えて、その向こうが見えているらしい。

JR新宿駅東口駅前風景 西口駅ビルの小田急デパートが消えている

 ではここから駅西口へ行こうと、昔あった狭いトンネル通路を抜けようとさがした。あの暗い狭い道が今もあるかと危惧したが、健在だったので浦島太郎は安心した。なんと「旧青梅街道」という標識もたち、その歴史をの説明版さえもあるのだった。

暗い地下道は明るく蘇っていた

 この道を始めて通ったのは1950年代の末だったと思うが、そのころは戦後新宿の暗さがある感じだった。この日はひっきりなしに人が通っているのだが、座りこんでオモライさんをやっている中年男がいたのは、さすが新宿地下道であった。ここでは60年以上も前の記憶の浦島太郎であった。ふと、傷痍軍人がいたかもしれないと思った。

おもらいさんが座っている地下道

 地下道を抜ければ、そこは思い出横丁、ここはほぼ昔と変わらぬ姿であった。久しぶり通り抜けたのだが、昔と変わったのは外国人らしい客が多いことだ。日本そばのカウンターで箸で啜りあげているのが、アフリカ系の顔の観光客たちであるのが奇妙だし、その後ろに立って並んで記念撮影などしているのは、どうも大陸系あるは半島系の人たちらしいのである。こんあところの何が面白いのかしら、ガイドブックに名所と書いてあるのかしら。
思い出横丁

 ここはハード面はほぼ変化がないのに、利用者というソフト面での大きな変化に、浦島太郎気分であった。この印旛饂飩、いやインバウンドだらけは新宿ばかりではないが、こんなところが観光になるとは変われば変わったものだ。浦島気分が高まる。

 西口駅前に来ると昔と違って妙に空が広い。そう、線路沿いに壁のように立っていた小田急百貨店ビルが消滅しているのだ。線路越しに東側にあるビル群が丸々見えるのが不思議な感じがする。あの高速道路ジャンクションのような広場も工事中だから作り直すらしい。
 建築家の東孝光が担当とはねえと、わたし妙に感心してきた頃は眺めたものだった。とにかく小田急百貨店が消えて、西口広場から東口のビルが見えている有様である。小田急と並んでいた京王デパートはまだ建っているが、こちらもたぶん今に建て直すのだろう。
西口駅前広場から東方面を見る 左端は小田急ハルク、小田急百貨店が消えて空が広い
駅東地区のビルが見える、右に京王デパートは健在


 参考までに小田急ビルが建っていたころの2022年の風景はこう(下図)だった。わたしが撮ったのではなくてネットで拾った。

 これまでの重厚な百貨店ビルが軒をそろえて建ち並ぶ20世紀型駅前風景から、たぶん超高層ビルが立ち並ぶ21世紀の都市風景になるのだろうなあ。

 小田急デパートの隣に建つ京王デパートの前に来て、お~っとびっくり感動、廃墟感に満ちたこの傾き具合と草ぼうぼうの排気?塔。これってタイルが貼ってあったはずだが、このように変更したのか、それとも本当に廃墟となっているだろうか、それとも廃墟新宿インスタレーションか。ついでに京王デパートも、近ごろ流行の壁面緑化なるものをやってくれるといいのに、。

京王デパート前の風景 この傾き具合と仮囲いが廃墟感満載

 そういえば、駅前広場に面してスバルビルといったか、大きなビルがあった記憶があるが、すっかり消えているのはこれも建て直しているのだろう。なんにしても新宿駅西口駅前広場とその周りは、巨大再開発の時代を迎えているらしい。壊される前の今の姿に大きく変わったのを同時代で見てきたが、この次の大変化の結果を見ることはないから、今の姿を見ておくのが浦島太郎の徘徊である。

(この写真はネットから拾って編集)
 西口のごちゃごちゃ飲食街は健在だったので、久しぶりに昼飯を食ってきた。食い物にほとんど執着の無いわたしとしては珍しく、ちょっとうまかったワンタンだった。

 ここを発祥地とする企業名のヨドバシカメラの店舗が、どんどん繁殖してきたらしい様子が、東口地区のビックカメラと対抗する戦いの場に見えてくる。あまり浦島太郎気分になるようなことでもない。それにしてもヨドバシの店の汚いことよ。


 西側の記憶の風景をようやく見つけたが、それは京王プラザホテルのビルである。わたしはこのあたりがまだ淀橋浄水場跡地の土の荒野であったころに、このホテルがポツンと一本だけ屹立していたのを見た記憶がある。いやその隣にもう一本の超高層オフィスビルが建っていたような気もする。そのころのこのあたりの写真も撮ったが、いま探しても見つからない。

 今ではごちゃごちゃビル群の中に、工学院大学・都庁と並んでいるのが、わたしの記憶の風景である。浦島島太郎はちょっと正気に戻る。
西口商店街から見える記憶の風景は工学院大学、京王プラザホテル、都庁

  さて、新宿で見残したところは、ゴールデン街あたりと超高層街だが、楽しみに残しておこう。次は渋谷駅あたりに行かなばならないな。来週だな。
 (20240929記)
ブログ内関連記事
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