2014/02/03

893横浜都心隠居の空中陋屋から見る風景に大きな二つの変化が

 横浜都心の一部にあたる関外に居を移したのは、2012年の秋である。鎌倉田舎を脱出して都会人になったのである。
 それから関外、関内、みなとみらい地区などの新旧横浜都心部徘徊12年、じわじわと変わっていく街の様を楽しんできている。

 例えば、かの有名な伊勢佐木モールがどんどん落ちぶれていくとか、中華街あたりがめちゃくちゃ混雑で辟易とか、港のまわりが観光客に占領されちまったとか、ずっと変わらずに面白いのが横浜橋商店街だとか、みなとみらいは名ばかりマンションジャングル化するなあとか、そしてまた、なんだか老人向きの施設が増えてきているようだとか、徘徊の楽しみの種は尽きない。

●なぜ鎌倉脱出かの言い訳はこちら
http://homepage2.nifty.com/datey/kamakurasyunju0702.pdf
 ●なぜ借家かの言い訳はこちら
http://homepage2.nifty.com/datey/kamakurasyunju0703.pdf
●伊勢佐木1、2丁目の地区計画について
http://datey.blogspot.jp/2014/01/889.html
 ●横浜街なか徘徊の記録はこちら
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#yokohama

 
 わたしの住む空中陋屋借家からの風景は、ほとんど変わらないできたのだが、ここにきて二つの大きな変化があった。
 ひとつは南東に高層10階建ての名ばかりマンション(分譲型共同住宅ビル)がたちがり、北東にあった中学校が消えたのである。

 実は関外地区は人口が増え続けているのである。人口が増える住宅ビルがあちこちに増えているのだ。もちろん空地はないから、古いビルの立て直しである。
 さて、住宅が増えるのに、子どもが行く学校が無くなるとは、これいかに?
 それは、義務教育するような子どもがいなくなっているということ、言い換えると、わたしのような次世代生産能力がないものばかりがこのあたりには移転してきているのだろう。
 この街の人口が増えても、さきはジジババばかりの街になるのだろうか。まあ、それも仕方なしである。

 では、変化を目でご覧いただくとして、まずは南東に現れた名ばかりマンションである。
 ここに移転してきた時には、その土地には事務所ビルがあり屋上に毒々しい真っ赤な日産自動車の広告塔が建っていた。ここに来てから日産の車には乗らないことにした。
 そのビルが2011年になくなってホッとしていたら、今年になって跡地に完成したのが10階建ての名ばかりマンションである。
 その変化をパラパラ活動写真(gifアニメーション)でどうぞ。

 二つ目は、北東の中学校が2013年10月末から2014年2月初めまでに、日々消えていく様子のパラパラ活動写真である。
 
 
◆この弧乱夢の全文は下記のまちもり瓢論をどうぞ
「まちもり通信ホームページ
http://homepage2.nifty.com/datey/index3.htm
または
・「横浜都心「関外」風景の変化を見つめるこの12年
https://sites.google.com/site/matimorig2x/yokohama-kangai-hukei

◆関連  
●景観戯造:横浜・わが家からの眺め(2012年4月)
http://homepage2.nifty.com/datey/keikangizo/kangai.htm   
●435風景破壊の自動車屋(2011年6月23日)
http://datey.blogspot.jp/2011/06/435.html


2014/01/27

892横浜都計審傍聴イチャモン(その4)再開発事業都市計画なんだから最低でもこれくらいは審議してほしい

「(その3)審議会は市民と行政を結ぶ役割を果たせ」のつづき
http://datey.blogspot.jp/2014/01/891.html

 大船駅北再開発事業の都市計画審議会の審議について、もう少し書く。
 わたしがもしも審議会の委員だったら、委員会資料と説明を聞いただけでも、最低でもこの議案のもっとも基本的なこれだけは質問をしたい。

●都市再開発法3条要件は満たしているのか?
 まあ、議案になっているからOKなんだろうが、なにしろ市街地再開発事業の都市計画なんだから、この基本のキを一応は確かめるべきだと思う。でも、なんだか大きなビルが建っているよなあ。

●なぜ市施行ではなくて組合施行なのか?
 もちろん組合施行で行うこともできるが、これだけ広い駅前広場整備を行いながら、横浜市を施行主体にしない理由はなにだろうか。戸塚で懲りて、もうやりたくない、とか、、。

●関係権利者数と土地面積について同意率はどうなのか?
 組合施行再開発事業は、実は地権者という市民が共同して行う事業だから、周囲からの反対は、一般市民対地区内権利者市民という対立図式になる。形式上はこの都市計画を決めるのは市長だが、この事業を進めるのは地権者たちである。
 ところが、公聴会に地権者と名乗る人が登場して反対意見を述べている。しかも「わたくしたち」と言っているから複数いるらしい。事情は分からないが、共同するべき地権者たちが仲間割れしているらしい。これで都市計画決定しても、円滑に進むのか気になる。全員同意じゃなくて原則型で権利変換をやるつもりか。
 この「わたくしたち」が説得に乗らずとことん反対したら、今後の道は二つ。ひとつは強制代執行で進める。もうひとつはこの「わたくしたち」の土地を除外するように、都市計画決定をやり直すことで、つまり審議会は振り出しに戻るのである。どちらになっても審議会が「円滑に審議したこと」を問われるかもしれない。

・事業の資金計画はどうなっているか?
 再開発事業ではよくあることだが、事業の外野の地区外市民から巨額公費の投入が無駄だという指摘がされる。スポット的に巨額投資だから目につくのである。
 ここでもそれが意見書に出てきているが、それへの市側の見解書には「関係法令や予算に基づく補助制度が適用される予定です」とある。
 あのなあ、これじゃあ、まったくもって見解になっていませんよ。そもそも補助金は、支給できるものであって、しなければならないものではないのだ。
 無駄だって言ってる人の肩を持つ気はないけど、もうちょっとまともに答えてはどうですか。いや、こういう意見に対してこそ、真剣に公費投入の必要性、その意義をキチンと答えるべきである。
 だから、審議会ではその答えがわかるように、この事業の資金計画(管理者負担金、補助金、保留床処分金、補償金、、、、)について、費用対効果とかその妥当性を審議してはどうでしょうか。
 この都計審の後は、もう都市計画審議会も一般市民も口出しする機会は、ほぼなくなるのだから。

 「事業の都市計画」の審議は実に難しいのである。
 本当にわたしが委員だったら、これまでの調査資料、関係者への聞き取り、現地視認など、事前に調べてから委員会に臨むから、もっと審議したい事項は多くなるだろう。なにしろ13800円の日当をもらうのだからね。貧乏人はつい張り切るのだ。

 でもまあ、都市計画審議会は参与機関ではなくて諮問機関にすぎないので、どうせ審議会の議決が原案通り可決だろうと原案否決だろうと、市長は関係なく都市計画決定できるのだから、審議会は気楽なもんである、ということで、このあとの12もの議案は、発言委員は2名だけで、あっという間に原案通りに可決したのであった。めでたしめでたし。
審議会委員名簿 審議会中に発言したのは21人中たった6人だけ
と言うわけで、今回の都市計画審議会は円滑に審議が進んだのであったが、ちょっとすごいと思ったのは、その円滑審議のために市側の説明者が議案ごとに、10数名がぞろぞろと入れかわりたちかわり登場退場する様子であった。
 あんなに大勢がやってきてなにをしてるのだろうか、万が一、難しい質問が出たら、その中の誰かが答えるための頭数だろうか。そんなに大勢が役所を留守にしてよいのか。
 でもなあ、何回もやってわかってるでしょ、そんなマジメな審議はしないんだって。これじゃあ人件費の無駄でしょ。なんだか公費投入が無駄という意見書に似てきたなあ。
 委員の皆様、せっかく大勢待ってるんだから、なにか質問してあげなさいよ、可哀そうでしょ。

 傍聴席が20人分もあったのに、半分しか埋まっていなかった。そのほとんどがダークスーツの業界人らしく、関係議案が終わるとさっさと退場。わたしと同年輩の男女が最後の議題までいらしたが、こちらは一般市民の感じだった。
 なんにしても、市民の傍聴が少ないのは、意外に都市計画には無関心な市民が多いと、いつも思い嘆くばかりである。

 最後にもう一度書いておく。わたしは議題となっている現場を全く知らないので、議案の内容に賛成も不賛成もない。唯一の現場である審議会を傍聴して、そこの提出資料と委員の審議態度についてだけを書いた。
 審議会の委員は議案の現場の実情を知っているから審議できたのだろうが、わたしには議案の現場を知らないままに議案内容について良し悪しを言うことは不可能である。(おわり)

追記2014/01/28
 横浜市の都市計画審議会のインタネットサイトがある。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kenchiku/kikaku/cityplan/tokeishin/
 そこに2012年11月までは、各審議会の議事録が公開されている。しかし2013年1月の第127回審議会から12月の131回審議会まで、ずっと「作成中」にしたままで非公開となっている。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kenchiku/kikaku/cityplan/tokeishin/singi-25.html
 そのうちに去年一年分をまとめて公開するつもりか、非公開に決めたのか。

 だが、わたしが審議会委員だった時に、議事録公開が2カ月もかかって、あまりの遅いので10日以内にせよと提案し、市当局(都市計画課長)は、それは無理かもしれないが、できるだけ努力すると回答した(2009年8月28日の横浜都計審)。
 また、審議会を休日や夜間開催にして市民が来やすくせよ提案したところ、市当局(都市計画課長)は、それは難しいが、議事録を公開してそれに替えていると回答があった(2009年7月3日の横浜都計審)。
 さて、あの約束はどうしたのか、あのころよりも公開度は悪化しているぞ。


参照→たった一人のキャンペーン「都計審を改革せよ」
http://homepage2.nifty.com/datey/tokeisin.htm

2014/01/26

891横浜都計審傍聴イチャモン(その3)審議会は一般市民と都市計画行政を結ぶ役割をはたせ

「(その2)大船駅前再開発議案をまじめに審議していないぞ」のつづき
http://datey.blogspot.jp/2014/01/890890.html

 大船駅北の市街地再開発事業に関する都市計画案の審議について続きを書く。
 
 
市街地再開発事業は、建物を都市計画で決めるという珍しい制度である。しかも一般に、その建物が民有となる施設であり、巨大高層になものとなることがおおい。そしてその建物に税を原資にした補助金を投入する制度がある。
 であるから、都市計画審議会は、その建物の形態や機能、建設費用や税の投入額などが分る事業計画への視点、そしてその事業が確実に早期に行われる担保もとって、その妥当性を審議するべきである。

 ところが、審議会に出された建築の資料は、配置図、断面図、透視図が各一枚だけである。これだけでどうやってこの都市計画事業の妥当性を判断したのか、審議会委員の天才的な能力に感嘆している。
 地域にどのように役立つ施設内容か、これによって変わる地域の景観はどうなるか、日陰はどう及ぶのかなど、いまどきCGで簡単に作れるだろうに、なぜ見せないのか。
 建物の都市計画決定なのだから、それくらいは審議した方がよろしいと思いますよ。
 
 
施設建築物(これが法律用語)だけではなく、公共施設の駅前広場も、単に位置と広さが分るだけで、それだけでどのように交通処理をするのか、それでできのるか、足りるのか、あるいは必要なのか、わたしにはまったくわからない。地元説明会資料のほうが、むしろわかりやすい。
 交通計画が専門の委員もおられるが、そのあたりについてなにも審議されなかったのは、十分にご存じだからだろう。
 しかし、審議会は一般市民と都市計画行政をつなぐのだから、市民に分らせる審議をしてほしいと思う。
 

 市街地再開発事業の建築物の規模が巨大になりやすいのは、ひとえに事業採算のためである。しかし一般の民間開発事業と大きく異なる点は、道路や駅前広場という公共施設整備と建築物の建設が、連動していることである。
 事業の仕組みが、権利変換によって土地建物の移動を行うから、事業前の資産額と事業後の資産額をどう調整するか、これが大きな事業の柱となる。

 このとき公共施設の建設には税を投入できるが、民有となる建物には共同施設の一部のほかは公費投入はできないから、その建設費を保留床処分金によって生み出すことになる。だから、権利床+保留床となって建築が巨大、高層になりやすい。
 このあたりの仕組みのもたらしたものが、この都市計画案なのだが、なぜこのような規模が必要なのか委員は質問されなかったから、ご存じだったのであろう。

 巨大建築ができるとなると、近隣から日影や眺望などで必ずクレームが出てくる。近くの先に建った巨大共同住宅の住民が、先取特権のように反対を主張することもある。
 今回もその巨大さ高さに対して、反対や疑問の意見書が出ている。それに対する市長の見解、つまり反論が、建築物を高層化すれば、オープンスペースを生み出すことができるし、容積率を有効に活用できるからである、としている。
 それはそのとおりだが、これでは結果だけ書いていて、その原因を書いていない。委員はこれでよく分ったのだろうか。

 そもそも容積率を活用するというが、その容積率そのものをこの都市計画によって、緩和するのだから(300%→500%)、緩和してから有効活用するといっては、論理矛盾が起きる。では緩和しなければよいだろう、となる。
 これでは素朴な疑問は解消されないだろう。なぜ緩和が必要かを、真正面から答えるべきである。
 一般に意見書への対応が、そっけなさすぎる。そこのところを補足するのが審議会の役割と思うのだが、いかがでしょうか、委員のみなさま!

 なぜ緩和が必要かそれをきちんと審議するべきである。緩和しなければ巨大化高層化しなくてもよいかもしれないであろう。
 だが、緩和しないと公共施設や保留床が確保できないから事業ができない。高さ制限の緩和(20m→75m)も、緩和しないとむしろ環境悪化するかもしれない。だから壁面後退や地区施設などをきめているのだ。
 これがこの事業の都市計画決定の核心である。

 ここまで緩和しなければ、事業の権利変換計画が成立しないのか、審議会なのだからこそ、そのあたりを確かめるべきであろう。それが意見書に対する審議会としての最低の誠意であると思う。
 そう、その点から事業計画に踏み込んだ審議が必要となってくるのだ。
 なにしろこの議案は、普通の都市計画ではなくて、都市計画事業の都市計画なのだから。

 このイチャモン連載の最初に書いておいたことを、念のために、もういちど書いておく。わたしはこの再開発計画が悪いとか良いとかいっているのではない。審議をちゃんとやれ と言っているのである。    (つづく)

2014/01/25

890横浜都計審傍聴イチャモン(その2)大船駅前再開発議案をまじめに審議していないぞ

889(その1)伊勢佐木モールで地区計画違反営業か」の続き
http://datey.blogspot.jp/2014/01/889.html

 今回の横浜都市計画審議会での最大の問題審議案件は、「大船駅北第二地区第一種市街地再開発事業」と、それに関連する各種の都市計画決定や変更である。
 ひとつの再開発事業のために、9件もの議題となっている。

 これについて、あれこれと書いていくが、ここでのわたしのスタンスを誤解のないように、あらかじめ書いておく。
 わたしは地元事情をまったく知らないから、この議案内容、つまりこの再開発事業がよくないとか、よくできているとか、そういうことを言うつもりは、まったくない。
 ここでは、「この議案を横浜市都市計画審議会は真面目に審議したか」と問うのみである。

 結論を先に言うと、まったくと言ってよいほど審議しないままに、原案通りに可決した。審議会の役目を果たしていない、審議能力が無いのだろうとさえ思った。
 もちろん原案通りに可決して悪いって言ってるんじゃなくて、なんてったって審議会なんだし、日当13,800円わたしが委員のときの受領金額)もらってるんだしもうちょっとはマシな審議してから可決してはどうよ、ってことです。

 一般に市街地開発事業、なかでも市街地再開発事業の都市計画は、かなり専門的知識がないと、都市計画図書を見ただけでは内容の判断はほとんどできないものである。いや、専門的知識があればあるほど、分らないことがおおいと分かると言った方が正しい。
 つまり、都市計画図書に記載してあることから、諸課題を発見する能力がないと、その審議をすることは不可能といってよい。横浜都計審の委員にはひとりもその専門家はいないようで、素人的な質問はあったが、専門的な質疑は行われることはなかった。
 専門バカだけではなくて素人の眼も必要であるが、素人ばかりで審議とは、いかがなのものか。

 市街地再開発事業の都市計画は、他の地域地区や道路のような都市計画と違って、都市計画決定から短期間に実際の事業にとりかかる必要があるから、その事業性の担保をきちんと審議するべきである。
 事業の確実性をいい加減に審議して原案可決して、その後に事業が行き詰まってしまったところは各地にある。そうすると決定した形の再開発のほかはしてはならないという都市計画制限はかかったままだから、街は凍結した姿のままで周りの発展から取り残されてしまうことになる。

 横浜市内の前例では、横浜駅西口の相鉄駅前の市街地再開発事業は、1977年という大昔に都市計画決定しているが、いまだに実施できていない。だから制限だけかかっているので、あのようなゴチャゴチャの街が駅前にあるのだ。まあ、あのゴチャゴチャが好きなわたしには、それもよいか。
 
京急の日ノ出町駅前再開発も、都市計画決定から着工までずいぶん長い期間があった。
 2008年にその日ノ出町再開発都市計画案の審議会を傍聴したが、そのときも本質的な審議はなくて、それでいいのかと思った。決定したとたんにリーマンショックで大変だったに違いない。去年やっと着工した。

 今回の議題の大船駅前についても、鎌倉市側の大船駅前地区に、1973年という大昔に再開発事業の都市計画決定をして、半分だけ実施したが、半分はいまだにできないままである。
 だから、駅は再開発でビルができたが、道路は広がらず、昔からの狭い道に市場的な雰囲気の街がずっと続いている。そこもわたしは好きなところだが、都市計画は宙ぶらりんである。
 
再開発事業ではないが市街地開発事業のひとつである土地区画整理事業について、隣の戸塚駅前周辺地区に都市計画決定したのが、半世紀も前のことである。これも行き詰まって、途中で縮小に縮小を重ねる変更をして、いまだに事業中である。

 そういう経験を経て、最近では再開発事業の都市計画決定は、その決定にあたって地元合意が既に完了し、公共施設や施設建築物の中身がほぼ決まり、事業計画、権利変換計画の案も出ており、今後の事業スケジュールもめどが立ち、事業後の管理計画までも見込みがほぼ立っているものである。

 市街地開発事業の都市計画決定は、慎重に見極めて行うべきである。昔のように、都市計画決定さえすれば、あとはなんとか事業が前に進むだろう、なんて思って決定する時代ではない。
 そこのところを、審議会でなぜ確かめないのか。再開発事業の都市計画決定ならば、それは常識である。事業の中身に立ち入らないで、どうして審議ができたのか。

 まさか、それらは全部わかっていたから審議しなかったということではあるまい。
 いや、知っていて審議をしなかったとすれば、審議会は市民の代わりに審議しているのだから、市民への公開義務があるのに、それをサボったことになる。
 (つづく
 

2014/01/24

889久しぶりに横浜都計審傍聴いくつかイチャモン連載(その1)伊勢佐木モールで地区計画違反営業か

 久しぶりに横浜市都市計画審議会を傍聴に行った(2014年1月24日)。
 「大船駅北地区再開発」の都市計画案を、審議会がどう審議するか、審議できるのか(審議能力があるのか)と興味があったからだ。
 ほかにもたくさんの議題があったので、何回にかに分けて連載して書くことにする。

 改めて書いておくと、わたしは横浜市都市計画審議会の委員を、2008年から2年間務めたことがある。そのことはここに書いたので、ご覧ください。
●エッセイ版「あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている」
https://sites.google.com/site/matimorig2x/essay-cityplanning
●本編「あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている」
https://sites.google.com/site/matimorig2x/tokeisin

 いろいろ書きたいこと(もちろんイチャモンである)はあるのだが、まずはわたしの日頃の散歩コースの「伊勢佐木モール」の地区計画のことを書こう。
 かつて横浜都心一番の繁華街だったが、どうもこのところ振わない。なんだかチェーンの安売りやばかり増えている感じがする。風俗営業も増えているようだ。
 関内駅に近い伊勢佐木1、2丁目あたりが老舗として頑張らななくてはならないが、横浜随一の松坂屋百貨店が店を閉じて、ますます凋落気味だ。

 今日の議題に、「伊勢佐木町1、2丁目地区地区計画」の変更があった。もともと、この伊勢佐木1、2丁目地区には地区計画があり、変な店づくりを禁止してきている。
 地区計画だけでは精神規定みたいなものなので、その区域の中の伊勢佐木モールに面する店については、地区整備計画という厳しい規定をきめて、法的規制をしてきている。

 一番大きな規制内容は、モールに面する建物は、1、2階は住宅禁止で店舗にしろ、しかもその店舗も風俗営業や倉庫業はダメと言う規制である。
 マージャン屋、ぱちんこ屋、射的場、勝馬投票券発売所、場外車券売場、キャバレー、料理店、ナイトクラブ、ダンスホール、個室付浴場業(ソープランド)等はダメである。

 今回の変更は、地区整備計画の範囲を地区計画の区域全部に広げて、モールに面する建物だけでなく、裏通りに面する建物にもその規制を広げたのである。
 この都市計画変更案は、なんの審議もなくてアッという間に原案通りに可決した。
 でもねえ、わたしは案の中身には異議を唱えないけど、審議をもうちょっとやってはどうですか、と言いたい。

 伊勢佐木モールあたりはしょっちゅう徘徊しているが、店をひとつひとつ調べてるのではないにしても、この1、2丁目の地区整備計画の区域内には、違反している店が少なくとも2軒ある。
 ひとつは「PIA」というパチンコ屋で、もうひとつは「JRAエクセル伊勢佐木」という馬券売り場である。
 

どうしてこれらが営業しているのかと、審議会の委員のだれも質問しないのがふしぎであった。
 審議案件と資料は事前に委員にわたっているから、当然のことに事前に現地を調べているはずだ。わたしが委員のときは、毎回の審議会の前に現地視察をやったものだ。
 もしかして、事前に見ていないので、現地を知らないのだろうか。それは委員として手抜き審議である。

 で、地区計画の文章の中に、もしかして例外規定があるのかと、しげしげと読んでみた。
 もしもこれらが地区計画を決めるよりも前からあったのなら、例外的に許されることがある。そのためには、地区計画の文章の中に、「この地区計画を定める以前に存したものは、この限りではない」みたいなことが書いてあるはずだが、それもない。
 そこで地区計画条例を読んでみたら、こちらに例外規定があった。
参照「伊勢佐木1,2丁目地区地区計画」
 http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/tikukeikaku/c-074.html
参照「横浜市地区計画条例」
http://www.city.yokohama.lg.jp/kenchiku/guid/kenki/chiku/honbun.pdf

 でも、例外としても、どうして、パチンコ屋も馬券売り場も、あんな大きなビルで堂々といつまでも営業しているのだろうか。
 都市計画審議会の委員さんたちは、その実情をご存じないのか、そして例外規定があることをご存じなのだろうか。
 もしこれらが違反行為であって、取り締まっていないのならば、あるいは違反でないとしても地区計画の趣旨にいつまでも反していることに対して何らかの是正手当てしているのか、行政にその不作為を審議会として問うべきだろう。
 このままだと、既得権の既成事実の積み重ねが、せっかくの地区計画をないがしろにしてしまう恐れがある。     その2へつづく

2014/01/23

888年賀状の季節が終って寒中見舞いの葉書をようやく出した

 あ、そうだ、と思いついて、今年のお年玉付き年賀状の抽選がもう終わっているはずだなと、ネット検索をしたら、あった。
 毎年あたるのは最下等の切手であるが、今年も例外ではなくて、それもたったの2枚。でもどちらも故郷の同級生からだったのが嬉しい。

 で、参考までに1等賞は何が当たるのかを見て、エッとおもった。たったの1万円である。
 まさか、そんなことないでしょ、昔は海外旅行とかあったよ。もしかして、今見ているこの当選番号のページは、いたずらかもしれないと、他のページを見ても同じだった。
 へ~、そうなんだ、まあ、お年玉はそれくらいがちょうどよろしいともいえるよなあ、でも、いつの間にそうなったのだろうか?

 ウィキペディアには、2010年の1等賞は、液晶テレビ、国内旅行、パソコンセット、ビデオカメラ、オフィスグッズセットから1点選択とある。
 どうせ当たらないからどうでもいいのだけど、1等賞がたったの1万円になって、当り数が多くなったのだろうか。それでもあたらなかったぞ。
 まあ、年賀はがきをもらうばかりで、自分で買って送らないものには、当らないのでしょうよ。

 年賀はがきなるものを、こちらから出すことをやめて、6年目になる。こちらからは1月末頃に出す寒中見舞いにしている。
 それにはわけがある。自分が年寄りになると、年賀はがき交際範囲の方々も年寄りになって、年の暮近くなると喪中のお知らせの数が増えてきた。人によって年賀状を出す出さないの判別がめんどくさくなってしまったのである。
 1月に出す寒中見舞いなら、全部に出すことができる。

 それをやって変ったことは、いただく賀状の数が減少したことである。ある時期は250枚くらいだった年賀状が、いまでは120枚ほどである。
 それはそれでよいのである。まったく実際の付き合いがないのに、年に1回の賀状だけのやり取りを続ける意味がどれほどあのだろうか。
 親戚とは血縁つながりは消えないし、故郷の人たちとは場所つながりが消えないからつづける意味はあるが、もう戻ることはない仕事つきあいの縁きれは許されると思う。

 その一方で、おかしいのは何十年も全く会っていないし、専門分野としても接点がないし、こちらも寒中見舞いを出さないのに、年賀状だけは毎年いただく人たちもいる。
 ありがたいようにも思うが、それらは勤め先から来ることがほとんどなので、どうやら事務的機械的に出しているらしい。宛名を間違っても、そのまま毎年やってくる。
こういう方には、お断りの賀状を書くべきだろうか?

 インタネットの普及で、例えばフェイスブックやメーリングリストで、数年も全くあっていない知人とでも、日常的に挨拶や情報やり取りできる。だから年の初めだからと、あらたまって賀状交換の意味が無くなる。そうなった知人もずいぶん多い。
 お年玉葉書の賞金が大きければ、それでも年賀状だす意味もなくはないような気がするが、1万円ではなあ。




2014/01/21

887叔父が他界した太平洋戦争激戦地フィリピンルソン島の渓谷からのメールに今の平和を想う

 フィリピンのpinsanという方からメールがやってきた。知らないお方である。
 わたしのインタネットサイトに掲載したこの記事を読んだとある。
    父の十五年戦争  付・田中参三叔父の戦場

 メール全文を引用する(個人情報をはずした)。

 投稿された父の15年戦争読ませていただきました。私はフィリピンケソン市に住み、毎週土曜日か日曜日には散歩にワワ渓谷に出向いています。
 wawa渓谷近郊には通いなれたせいか住民たちと良い関係です。気軽に声をかけあう存在です。
 貴殿が書かれた文書を参考に、現在のワワ村落と日本軍心魂記の写真を主にして、書かせていただきます。
 いい加減なグロブですが(笑)
https://blogs.yahoo.co.jp/takeshi_pinsan/folder/1590979.html


 
 このpinsanさん紹介のフィリピン渓谷と山々の写真は、わたしの母方の叔父が1945年に戦死した地の今の姿である。あの悲惨な太平洋戦争の激戦地のひとつであった。
 叔父のいた軍隊は、この山中で連合軍とゲリラに追われて、食べ物も武器もなくなって、ジャングルと渓谷を逃げ回りさまよい、敗戦で投降した。

 だが、叔父はその前の5月5日に、小高い山の上で戦いの中で亡くなった。1948年4月15日にそう書いた戦死公報がきたが、何もその死を証拠づけるものはなかった。
 戦いの混乱の中で本当にその日でその場所であったか、確かめようもない。

 pinsanさんのブログに載せられている今の平和な姿に、長い日々が過ぎたことを想うだけである。
 叔父が戦場に行く前に別れたきりになった乳飲み子のひとり娘は、すくすくと育ち、いまは年老いた媼となって、更に老いたその母親、つまり叔父の妻を守りつつ、静かに暮らしている。

 インタネット時代だからこそ、このような海を隔てた地の見知らぬ方からの便りがやってきて、亡き叔父と父の戦争、そして今もどこかでやっている戦争への想いをかき立てられることがあるのだ。
 あのような悲惨な戦いで叔父はなぜ死なねばならなかったのか、そしてまた、巻き込んだフィリピンの膨大な非戦闘員市民たちをなぜ死なせねばならなかったのか、想いは広がる。

 pinsanさん、ありがとうございます。
 これからも、良いご関係を保って、平和にお過ごしください。

これはgoogle earthからわたしが探し出した叔父の戦場だった地
(叔父はの千秋山で死んだと公報が来た)

 わたしは太平洋アジア戦争でのもうひとつの悲惨な戦場物語を採集している。悪名高いインパル作戦に参加して、奇跡的に生還した農民のオーラルヒストリーである。
大橋正平さん戦場を語る(法末集落長老の回想)

2014/01/20

886名護市長選挙で辺野古移転反対市長当選とて政府の札びら選挙干渉は効かなかった


 沖縄の名護市長選挙で普天間問題が争点となって、昨日、辺野古移設反対の現職が当選した。政府の露骨な札びら選挙干渉は成功しなかった。
 
 それにしても沖縄の人たちは、きちんと態度を示すものである。この前の参議院選挙でも、沖縄独自の意志を持つ人を国会に送り込んで、基地問題二枚舌候補者をみごとに落としたのであった。
 その点、福島の人たちの態度はいい加減であった。県会では明確に原発NOとしているのに、衆院選挙も参院選挙も国会議員は原発YES党って、どうなってるんですかねえ、なにが沖縄とは違うのですかねえ。

 名護市長選挙結果についての主な新聞社の社説を読んで、彼らの態度を比較してみた。
 下記に各新聞社社説で言っている要点を引用しておく。
 印は、選挙結果はほっとけと言う新聞社、▲印は、選挙結果に中途半端な態度の新聞社、印は、選挙結果を真摯に受け止めろという新聞社である。
 いつも各紙を読んでいるのではないので、よくわからないのだが、なんだかそのまま原子力発電政策への態度と連動しているような感があるのだが、どうだろうか。

琉球新報社 2014年01月20日 社説
 選挙結果は、辺野古移設を拒む明快な市民の審判だ。地域の未来は自分たちで決めるという「自己決定権」を示した歴史的意思表明としても、重く受け止めたい。
  日米両政府は名護市の民主主義と自己決定権を尊重し、辺野古移設を断念すべきだ。普天間の危険性除去策も、県民が求める普天間飛行場の閉鎖・撤去、県外・国外移設こそ早道だと認識すべきだ。

沖縄タイムス社  2014年01月20日 社説
 米軍普天間飛行場の辺野古への移設に対し名護市民は「ノー」の民意を、圧倒的多数意思として示した。国の露骨な圧力をはね返して勝ち取った歴史的な大勝である。同時に仲井真弘多知事が、辺野古埋め立てを承認したことに対し、市民が明確に拒否したことも意味する。
 移設問題を明確に市民に問うたのは、1997年の市民投票以来である。市民投票では、条件付きを合わせた反対票が52・8%と過半を占めた。住民投票的な性格を帯びた今回の選挙で市民は再び移設反対の意思を明確にしたのだ。日米両政府は辺野古移設計画を撤回し、見直しに着手すべきだ。

読売新聞社 2014年01月20日 社説
 選挙結果にとらわれずに、政府は、米軍普天間飛行場の辺野古移設を着実に進めるべきだ
 1998年以降の5回の市長選で、最初の3回は容認派が勝利し、前回以降は反対派が当選した。民主党政権が無責任に「県外移設」を掲げ、地元の期待をあおった結果、保守層にも辺野古移設の反対論が増えたことが要因だろう。
 そもそも、在沖縄海兵隊の輸送任務を担う普天間飛行場の重要な機能を維持することは、日米同盟や日本全体の安全保障にかかわる問題だ。一地方選の結果で左右されるべきものではない。

日本経済新聞社 2014年01月20日 社説
 移設への市民の抵抗感が改めて浮き彫りになった。政府は移設の重要性を市民に丁寧に粘り強く説き続けなければならない
 名護市辺野古が移設先に浮上してから5回目の市長選だった。最初3回は移設推進派が勝ったが、その後2回は反対派が連勝した。民主党政権が「県外移設」というパンドラの箱を開けた影響が大きいと言わざるを得ない。
 ただ、きっかけは民主党でも、市民が心の内に不安を抱えていた事実は無視できない。騒音や事故で迷惑を被るのではないか。なぜ沖縄はこれほど重い基地負担を強いられるのか。こうした疑問を放置すべきではない。

産経新聞社 2014年01月20日 主張
 稲嶺氏は市長の権限を盾にとって名護市の辺野古沿岸部への移設工事を阻止する考えを示している。だが、移設が滞り、日米同盟の抑止力に深刻な影響を与える事態を招くことは許されない。
 仲井真弘多知事は昨年末、辺野古沿岸部の埋め立て申請を苦渋の判断の末に承認した。この流れを止めてはならない。市長選は移設にとって厳しい結果となったが、政府は名護市にいっそうの理解を求める努力を重ね、移設進展に全力を挙げるべきだ

東京新聞社 2014年01月20日 社説
 沖縄県の名護市長選で、市民の意思が明確になった。政府はこの事実を重く受け止め、米軍普天間飛行場の同市辺野古への移設を強行してはならない
 それでも日本政府は、米海兵隊普天間飛行場(宜野湾市)の辺野古沿岸部への「県内」移設を強行しようというのだろうか。
 安倍内閣が強力に推進し、仲井真弘多沖縄県知事が追認した辺野古移設に反対する、名護市民の明確な意思表示である。

毎日新聞社 2014年01月20日 社説
 政府は昨年末、仲井真弘多県知事から辺野古沿岸部の埋め立て承認が得られたため、選挙結果にかかわらず、予定通り移設を進める方針だ。しかし、基地受け入れの是非が真正面から問われた地元の市長選で、反対派が勝利した意味は極めて重い
 地元の民意に背いて移設を強行すれば、反対運動が高まるのは確実で、日米同盟の足元は揺らぎ、同盟はかえって弱体化しかねないだろう。

朝日新聞社 2014年1月20日 社説
 名護市辺野古への基地移設に、地元が出した答えは明確な「ノー」だった。
 沖縄県の仲井真弘多知事は辺野古沖の埋め立てを承認したが、市長選の結果は移設計画や政府の手法への反発がいかに強いかを物語る。強引に事を進めれば大きな混乱を生む。政府は計画を再考すべきだ。

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 それにしても、ちかごろのTVやラジオでは、男女が平気でヘノコヘノコとのたまうのだが、紳士たるわたしはどうにもはずかしくて聞いていられない。
 どうかヘノコヘノコって聞かなくてもよいように、できるだけはやくヘノコ問題を取り下げていただきたいものである。
 ご参考までに『広辞苑』にはこう書いてある。
『へ‐の‐こ【陰核】 ①陰嚢中の核。睾丸。〈和名抄三〉 ②陰茎』

  

2014/01/15

885越後の豪雪山村の小正月行事「賽の神」と「初釜茶会」に行き雪道で転んで捻挫

 

 毎年恒例の越後の山村・法末集落での「賽の神」と「初釜お茶会」行事に参加してきた。
 仲間でチャーターした小型バスは、雪の谷道をさかのぼっていく。今年は去年の今頃よりも積雪は少なかったが、それでも2mくらいは積もっているだろう。今日は雪が降り続いている。
 わたしたちの活動拠点の民家に入るには、道路から玄関まで深い雪をかき分けて通路をつくることから始まる。このあたりでは雪かきとは言わずに、雪掘りと言う。それくらい深い雪ということだ。
 この地に住む人たちの冬の毎朝は、玄関から道まで出るための雪掘りである。

 
2004年の中越震災の翌年から復興支援でここに来るようになって、今年で足掛け10年、いまでは震災復興は終わったが、集落の存続が懸念されている。
 わたしたちの仲間で、せめて村の行事に景気をつけてあげたいとて、小正月の「賽の神」行事に参加し、これにくっつけて「初釜お茶会」をはじめたのであった。
 春か秋には花づくり見学にやってきて、夏には盆踊に参加している。そして、棚田でコシヒカリ栽培の米つくり体験を毎年重ねてきている。

 着いてまずは仲間と一緒に、昨暮れに亡くなられた方の家に、弔問にいく。この方には、米つくりの世話と指導をしてもらって、お世話になった。のこされた奥方は、来年は村を離れざるを得ないだろうと言う。耕していた棚田は休耕の手続き済みだそうだ。
 毎年、こうして休耕や耕作放棄の棚田が増えていく。棚田は人間のための米つくり工場だから、経営者が亡くなり後継者がいないと、それは仕方のないことだ。
 去年の法末人口移動は、自然減3人、社会増1人であったようだ。
 今、この集落の定着人口は何人だろうか。震災前は約110人、震災で全村避難して戻ってきた人は約90人、今は60人もいるだろうか。最も人口が多かったのは、1960年の577人だった。19世紀末でさえ360人ほどがいたのに、今や限界を超えた集落となった。

 久しぶりに囲炉裏を囲んで鍋料理を食べようとなった。鍋は「ピエンロー」、白菜鍋である。
 囲炉裏には炭火である。昔のように薪を燃すわけにはいかないのは、煙出しをふさいでしまったからである。
 この囲炉裏だって、わたしたちがこの家を使うようになった時は、床の下にふさがれていた。その長く使っていなかった囲炉裏を復活して、はじめは物珍しく使ったが、そのうちに面倒になって飽きてしまった。今夜は久しぶりに囲炉裏を囲んだ。
 この家の名称を「へんなかフェ」と言う。「へんなか」とは、このあたりのいい方での囲炉裏のことで、そのうしろに「フェ」とくっつけた洒落である。

 寒い夜を炬燵に足を突っ込んで寝た。わたしがこのまえに炬燵で寝たのは、もういつのことだったか忘れたくらい昔のような気がする。炬燵そのものが、うちにはない。
 このあたりの民家はどこも古い茅葺民家を改造してきているものだから、主な部屋は天井が高い。だからストーブを焚いても、寒い。
 実は、考えるとゾッとするのだが、外部の窓やガラス戸は、雪囲いのために頑丈な板で外から囲ってある。積もる深雪に外から押されても、壊れないようにするためだ。
 だが、もしも中から燃え出したら、逃げ出せるところは玄関入口しかない。そこも、夜中に積もった雪で簡単には開かないかもしれない。ようするに監獄の中に寝ているようなものだ。

 次の朝、雪はやんで、今の時期には珍しい晴れ間も時々見える。集落内徘徊に出かけた。靴には滑り止めの簡易アイゼンをつけた。
 まったくもって、色の白いは七難隠すで、どこもかしこも真っ白で、なだらかな曲線を描いていて、美しい景色だ。
 夏は目につく赤いトタン屋根も、いまは真っ白な布団をかけている。道の両側には、除雪車が盛り上げた背丈よりも高い雪の壁がどこまでも続く。


 まずは今日午後の行事「賽の神」会場の、夏のキャンプ場に登る。もう藁の塔の賽の神本体はできがっている。今年のそれは姿はよいが、ちょっと小ぶりである。
 降りてきて、集落最長老に道でであって新年挨拶、今年92歳とて元気なものである。この方には、戦争中の話を聞いてオーラルヒストリーとして記録した。

 村境の峠まで登って引き返した。その下り坂道で、ア~ッ、左の靴が路面の氷に滑って転倒、後ろに残った右足の上にドンと正座した。
 イテテテ、しばらく道に腰を下ろしたまま唸る。ひねった右足首が痛む、果たして歩けるか、人も車も通らない。
 そろそろと四つん這いになり、ストックを支えにヨロヨロと立ちあがる。こわごわ、そろそろ、小さな歩幅でビッコ引きつつ拠点の家まで戻った。
 なお、帰宅後の医者の診断は、骨に損傷なし、靭帯損傷して内出血、テーピングで患部固定、全治3週間であった。久しぶりに杖突き生活をやってみるか。

 昼飯を食ってから、さて「賽の神」会場に行けるだろうかと思案したが、ここまできて第1の目的を達しないまとは悔しいので、そろそろと登る。幸いにして珍しく太陽が出ている。
 村人とその子や孫、わたしたちなど40人ほどが集まっている。藁で作った「賽の神」にお神酒をささげ、お飾りやだるまをぶら下げてある。やがて、年男年女たちが点火すると、もくもくと煙が立ち上る。

  集落最長老が毎年恒例の音頭で、参加者がこっをそろえて祝唄「法末天神囃」を合唱すれば、火と煙が雪をかぶる林にかかっていく。
遅れてやってきたのが、10数人の子供の集団で、手に手に藁を抱えている。東京の小金井で活動している集団で、昨日やってきて雪遊びをして、この行事を最後に戻るのだそうだ。毎年やって来ている。

 賽の神の後は、集落のセンター施設である「やまびこ」の食堂で、お茶会である。立礼ながら本式にお茶をたてて、集落民一同が楽しむ会である。
 震災後にやってくるようになった私たちの仲間がはじめた行事だが、これも恒例行事となって今年で10回目を迎えた。
 集落の人たちもわたしたちも神妙に抹茶をいただくと、雪の山村に季節が一巡りした心地になってくる。
 お茶会でのわたしの役目は、お菓子やお茶のお運びである。足が痛いのを隠して、転ばぬようにそろそろと運んで、なんとか役目を果たしたのであった。

 
 こうして今年の正月もやってきた。わたしは2005年以来、ここに何回やってきただろうか。初めのころは月に2回も来ていた。毎土日にきていた仲間もいた。はじめは10数人だった仲間も、復興が一段落したころから次第に減り、来る回数も減った。
 米つくり作業に年に3、4回、お茶会、盆踊、花見などの行事がある。わたしはもう、そのどれにも参加というわけにはいかなくなった。
 電車やタクシー交通費の懐具合もあるし、米つくり短期決戦重労働作業は体力的に限界になってきた。年に2回ほどになってしまった。
 春から夏は実に気分が良いのだが、真冬にここに来ることも泊まることも、寒さや足場の悪さにもう体力がついて行かない。
 そろそろ、わたしにとっても限界集落になってきた。このあたりがシオドキか。雪国育ちでないわたしの泣き言である。



参照
・法末集落の四季
http://homepage2.nifty.com/datey/hosse/hosse-index.htm
・法末集落へようこそ
https://sites.google.com/site/hossuey/

2014/01/05

884【五輪騒動】都市計画談議(その10)東京って権威的景観がご自慢なのね

その9からの続き)

 「東京都都市景観計画」(2011)なる行政計画があり、そのなかに「首都東京の象徴性を意図して造られた建築物の眺望の保全に関する景観誘導」という項がある。
 その眺望保全には、4つの場所の建物がとりあげられている。国会議事堂、迎賓館(赤坂離宮)、明治神宮聖徳絵画館、東京駅丸の内駅舎である。
 それらを真正面から眺めるにあたって、その後ろあたりに見える高い建物をつくると邪魔だから建てるな、と規制をしている。

 おいおい、どいつもこいつも権力の権化の建物だぞ、近代日本を築く途中に必要だった権力の象徴としての建築である。だから保全するのも権力の景観ってことかよ、よくまあ、こういうものだけを選ぶもんだよなあ。
 もっと庶民の象徴、そうだなあ、例えば東京タワー、あ、そうか、今はスカイツリーか、あるいは浅草観音とか、そういうのじゃ「首都東京の象徴性」にはならないのか、そうかもねえ。

 国会議事堂は、計画開始は明治政府の時までさかのぼって古いが、できたのは1936年である。
言わずもがなの権力の館であり、その姿のまあ権威主義的なことよ。国民の代表が会議をするのに、いまどきこんな姿でいいのかよ。
 その景観を保全しようってのも、なんともはや。こういうのは、本当は街の中にあるべきだろうと思う。あ、デモ隊がやってくるから、街なかじゃあまずいのか、。

 迎賓館は、元赤坂離宮だからまさに王権の館、1909年の竣工で、背伸びする日本の精一杯のコピー建築である。
 でもねえ、正門から眺めると、既に後ろに超高層建築がいくつも建ってますよ。そうか、だからこれからは建てさせないぞってことなのか。
権威景観保全の意味もあるだろうが、迎賓館の要人をビルから狙撃されないようにする対策かもなあ。

 さて、今話題の新国立競技場がらみの明治神宮聖徳記念絵画館は、1926年の竣工であるが、これもまさに王権の象徴である。

 1911年の明治天皇の死によって、明治新政府があわてて発明した明治神宮という王権装置のひとつである。
 江戸時代までは一般民衆はほとんど知らない「雲上人」だった天皇を、明治政府が京都から拉致してきて雲の上からおろして、多くの仕掛けでカリスマ性を付与し、世に見える天皇として新政府の権力集中の核にしたてあげた。
 ところが59歳で急死、その後継の大正天皇は病弱でとてもカリスマ性には欠ける。

 民権運動が盛んになる中、王権利用の統治政策が揺らぎそうだと心配した明治政府が考え出したのが、明治天皇を神様にして祀って、王権のカリスマ性の継続を図った装置が明治神宮である。
 内苑が森の中に隠れて見えない天皇の装置だとすれば、外苑はオープンな西洋式庭園のなかで民衆に見せる天皇としての装置である。

 新国立競技場計画について、明治神宮外苑の歴史的文脈をもって景観問題をとりあげる建築家が多いようだが、まあ、あのような一点透視図画法の模範のような銀杏並木から絵画館を望む景観は、建築家が透視図を習うお手本みたいで、お好きであろう。
 もちろん、その一点透視の視線の集まる先には、権力装置の求心力としての王権の象徴たる絵画館が、待ち受けている。

 あれこそ明治大帝のカリスマを継続する装置としてつくりあげた景観である。
 似たような景観づくりですぐに連想するのは、建築家になれなかったヒトラーがお抱え建築家シュペーアにやらせようとしたベルリン改造計画である。こちらの方が外苑、絵画館よりも後だが。
 大きさはかなり違うが、視線の先の絵画館のあの坊主頭は、ベルリンでヒトラーが大ホールのドームとして議事堂を真似したのかもしれない、と、冗談にしても面白い。

 それにしても絵画館の建築の造型の無骨さは、もう下手としか言いようがないのだけど、たぶん佐野利器のせいだろうなあ。明治の終末を告げる施設としての記念的意義はあるだろうが、造型的には二流である。
 あまつさえ、その建物周りは全部が駐車場になって、聖なる場所としてしつらえられた葬場殿址の楠のまわりも、かつては玉砂利の広場だったのが、今では無粋なアスファルト舗装に白線が引いてある駐車場である。

 芝生と花園であるべき前庭は草野球場となっているし、隣には神宮球場や第2球場そして国立競技場の建物が森の上に頭を出し、無粋な照明塔や金網が高くそびえる。
 管理者の明治神宮は、かつての造られた当時の景観を、それほど大切に保全する気はないらしい。これだけ広大な土地建物の維持費を稼ぐためには、あれこれスポーツ商売に手を出さないわけにはいかないだろう。

 考えてみれば、王権の時代はとっくに終わって、ここを明治天皇の故地と知らない民衆たちが、草野球やテニスやゴルフ打ちはなしに興じる風景は、まさに民主主義の世の中である風景になって、これはまことに好ましいことなのである。
 面白いのは、それらの大衆スポーツの場としての普及に大きな貢献をしたのが、ここを太平洋戦争終結直後に接収したアメリカ軍であったことだ。かれらがつくって、接収解除後も取り壊さずに使ったものが、軟式野球場とテニスコートである。絵画館前の芝生広場は変身して、戦後の大衆スポーツ普及に大いに役立った。
 ときにはデモ行進の拠点にもなって、王権発揚の場は民主主義発揚の場となった。アメリカさんは大衆スポーツと民主主義的風景(権威主義的景観の破壊)を外苑占領の置き土産にし、明治神宮はそれをそのまま戦後の外苑に継承したのであった。

 いまとなっては、絵画館のまわりになにがそびえようが、もうよいではないか。昔の王権的、権威主義的な象徴空間が良かったなんて、アナクロニズムはよしましょうよ。
 そもそも、ここは神社の境内である。境内には昔から露店が立ち並び、サーカス小屋やお化け屋敷があり、門前街には猥雑な土産物屋や旅館街があるのが、日本の伝統風景である。そう、これこそが「神宮外苑の歴史的文脈」の延長線上にあるものだ。
 
 まあ、日本近代における王権空間形成史の記念として、建築あるいは造園史のメルクマールの保全をするならば、あの小判型の道路の内側を徹底的に復元することだろう。
 そのほかは現代の都市公園として。国立競技場も含めて総合的な計画のもとに再開発すればよろしい。同じ都市公園である後楽園遊園地を、よい意味でも悪い意味でもお手本にしてはいかがかな。

 まあ、これはわたしの与太話のように聞こえるだろうが、実は外苑では昔こういうこともあった。
 アジア・太平洋戦争が終わり大きく体制が変り、国営神社だった神宮は宗教法人となり、外苑の土地の帰属が問題となった。国は外苑は宗教に関係ないから国に帰属すると主張した。
 これに対して神宮側は、いやこちらだと争い、民俗学者の折口信夫に理論武装を頼んだ。折口が主張したのは、日本の神社境内は昔から力比べ、弓術、相撲、流鏑馬、競馬、競艇などの遊びをして奉納する場であったから、運動施設のある外苑は宗教の場だ、というものであった。
 そして外苑の土地は神宮の所属になった(時価の半額で売買)。境内地とはそういうものである。もっとも、今では運動施設の経営は宗教活動とはみなされず、課税対象だそうだ。

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追記20151105 ところが今や絵画館の後ろには、なにやら高いビルが建ってしまっているのは、どうしたわけだろうか。やはり明治帝国の権威は、現代商業主義社会には及ばないらしい。
2015年11月3日撮影
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 おっと、忘れそうになったが、東京駅丸の内駅舎は、1914年の竣工である。

 明治政府が全国統治の道具とした鉄道網の「上り」の終点であり、「下り」の出発点である。王権専用の駅舎として、当時の繁華街の京橋に背を向けて建てたのだった。
 この景観計画で保全する眺望の視線の持ち主は、皇居を出てくる天皇であることにご注目を。

 東京駅の後ろに建てるなって言ったって、京橋のほうが東京駅ができるよりずっと前から江戸の中心街として繁栄していたんだぞ。京都からやってきて、江戸城にいつの間にか居ついてしまったお方から、あれこれ言われて一等地にビルを建てさせないって、そんなことはこちとらには通じませんぜ、なんて江戸っ子は言わないのかしら。 
 ついでにこちらもお読みくださいな。 ◆東京駅復原反対論から考える風景の記憶論考

(都市計画ではまだいろいろあるけど、10回も書くとさすがに飽きた、やっぱり景観論のほうがだんぜんおもしろい)

これまでのあれこれ書いてきた一覧はこちらを参照
【五輪外苑騒動】国立競技場改築騒動と神宮外苑再開発騒動瓢論集

2014/01/04

883戦後復興期の都市建築をつくった建築家 小町治男氏にその時代を聴く

 建築家の小町治男氏は、戦争直後に出発した建築家への学業と修業の同時進行の道程において、建築家で東京大学の池辺陽のもとでの実験的住宅設計からはじまり、戦後の不燃都市づくりに貢献した建築家の今泉善一のもとでの防火建築帯づくりに携わった。


 ここに戦後復興期の都市建築づくりについて聞きたくてインタビューをした記録を、小町さんのご了解を得て公開する。その頃の建築界のひとつの貴重な断面を興味深く見せてくれる。

 なお、建築家小町和義氏の弟であり、わたしは以前に建築家山口文象の弟子としての和義氏に、戦中と戦後のその周辺のことを聞くインタビューをしたことがある。それも戦後復興期にかかわる貴重な証言である。

                   インタビュアーと記録:伊達美徳
                    立会:横内啓氏(小町治男氏の甥・建設会社設計部員)
                   場所:浦和市内の喫茶店
                   日時:2013年11月9日14:30~17:00

●以下、インタビュー記録全文は
戦後復興期の都市建築をつくった建築家 小町治男氏にその時代を聴く

2013/12/29

882若者には保守は革新で右翼は左翼になってしまった今日この頃


 今朝の朝日新聞に世代別の意識調査の結果が載っている。その中で、若い年代ほど自民党は変革的だとの回答だそうである。

「自民党に対し、若い年代ほど「変革」のイメージを抱いていることが、朝日新聞社の世論調査(郵送)でわかった。また、自民への「右寄り」の印象も、若い年代ほど薄かった。
 若者の政治や社会に対する意識を幅広く探るため、20代だけの調査を11月上旬~12月中旬に実施。同時期に30代以上にも同一の質問による調査を行った。有効回答は20代の調査は1839件(回収率61%)、30代以上の調査は1792件(同72%)。
 調査では「変革」を「1」、「安定」を「6」とし、今の自民のイメージはどちらに近いか、6段階で聞いた。20代の回答の平均は中心(3・5)より「変革」寄りの3・03。30代は3・09で、年代が上がるほど中心に近づき、70歳以上は3・51とわずかに「安定」寄りだった。7月の参院選比例区で自民に投票したと答えた20代は2・92で、「変革」の印象が特に強い。」(
2013年12月28日朝日新聞digital)

ふむ、その若者の意識はよく分る。いや、なに、若者に迎合する年寄りを演じようとしているのではないぞよ。
考えてごらんよ、大変革があった太平洋戦争敗戦から10年ほどの期間は、もう60年ほども前のこと、若者にとっては生まれる前の大昔で、いわば年寄から言えばもう明治時代の話のようなもの。

その大昔体制が続いてきたところに、アベさんトップの自民党が、憲法を変えるぞ、戦争ができる様に自衛権見直しだ、国家防衛のための秘密保護だ、武器三原則も変えるぞ、天皇も歴代総理も行かない靖国神社に参拝だ、なんてことやれば、昔を知らない若者にはこりゃ大変革だと思うのが当たり前だろう。

かつては左翼が変革を担っていたのに、いまじゃあ、環境を守れ、憲法を守れ、個人秘密を守れ、守れ守れとまさに「保守」を唱えるもんだし、一方、右翼のアベサンは若者から見たら変ったことばかりやるもんだから、若者たちは左翼が保守で右翼が革新だと勘違いして思うのは、まあ、当然でしょ。
このへんで、保守と革新の保革入れ替え、右翼と左翼の左右交替をしてはいかがでしょうか。いや、政権のことじゃなくて言葉の意味のことです。

2013/12/26

881【五輪騒動】都市計画談議(その9)神宮外苑の公園指定地から隣接の青山通り沿い大企業民有地に容積移転再開発の企みか

その8から続く)

 新国立競技場計画がらみで決めた「神宮外苑地区地区計画」の区域に、国有地でもなく都有地でもなく明治神宮用地でもない、一般の民有地が含まれいることが、わたしの興味をひき、妄想をたくましくさせてくれる。
 スタジアム通り沿いにあるJSCビルになる用地(現・国立競技場西テニス場)の西奥にある「外苑ハウス」のことはすでに書いたが、妄想的推測では建てなおす時に容積率アップを狙っているのだろう。それにしても、ちょっと見には外苑ハウスはいかにもゲリマンダー的である。

 秩父宮ラグビー場の南隣、青山通り沿いのいくつかのビルが建っている土地が、地区計画区域に入っているのが気になる。
 どうせなら、スタジアム通りと青山通りの外苑前交差点まで入れればよさそうなものを、そのあたりの中小ビル群の土地はゲリマンダー的に避けて、大きなビルが建つあたりだけが地区計画の区域に入っている。
 そこには伊藤忠商事本社ビル(22階建て、1980年)と三井不動産が開発した青山OMスクエアー(24階建て、2008年)がある。

 はて、こんな大きな新しいビルが建っているのに、再開発等促進区の地区計画をかけるとは、これらはもう建て直しを計画しているのだろうか。2008年に建ったビルをもう壊すとは、不動産投資が見合うのか。
 再開発事業を行うとすれば、こんなところではなくて外苑前交差点北東のあたりの中低層ビル群の土地ならば、はるかに投資効果がありそうなものを、なぜそこでないのだろうか。まあ、権利者が多くて話ができなかったのであろう(と、思う)。

 妄想を働かせると、伊藤忠商事と三井不動産は、外苑地区の再開発に投資する目的で、この地区計画に参加したのかもしれない。つまりビルの場所に意味があるのではなく、その企業があることに意味があるのかもしれない(と思うのだ)。
 あるいは、伊藤忠本社ビルは30年以上経ったからとての建て替えを目論見ているかもしれない。6年やそこらの青山OMスクエアも壊すのかもしれない。
 でも、そんな大きなビルを壊して建てなおすのに、地区計画が何の役に立つかって思うだろうけど、これが役に立つのですな。

 建て替えるとしたら、いまのビルよりも床面積をかなり大きくしないと、不動産投資としては意味がない。プロの商社や不動産屋が、単なる建て替えをすることはあるまい。
 では建て替えたら、より大きくなる方法は何か。
 考えられるのは、北に隣接する秩父宮ラグビー場と神宮外苑諸施設の土地と合わせた地区整備計画をつくって、容積率移転による容積率の増加である(ような気がする)。


 ラグビー場用地も外苑の土地も容積率は200%だが、風致地区かつ都市公園区域内だから、高さが15mで3階建てまでだし、建蔽率は2パーセント(特別でも10%)まで。
 用途規制も厳しくて、住宅、事務所、商業施設などは不可で、運動施設(野球場や競技場など)、教養施設(植物園、図書館など)、便益施設(売店、レストラン、ホテルなど)などに制限されるから、容積率200%をとても使きれない(ような気がする)。
 いっぽう、青山通り沿いの土地は商業地域、容積率600~700%で、高さ用途ともにほぼ制限なしである。

 そこで、地区整備計画でもって、ラグビー場用地や外苑諸施設だけでは使い切れない容積を、こちらに移転をするのである。東京駅、愛宕山、日枝山王神社などでやったのと同じである(らしい)。ラグビー場用地も外苑用地も広いから、かなりの床面積が移転できるだろう。
 こうすれば青山通り沿いに900か1000%かそれ以上の、丸の内並みの大きな容積率で建てることができて不動産投資効果は上がるし、ラグビー場等も容積を売ったことによる対価を、自分の施設の建設費等に充てることができる(ような気がする)。

 ただし、ラグビー場用地は国有地だから、国有財産を民間開発との関係でいじるとなると、国有財産法の規制や政治的介入やらで、いろいろ面倒なことがありそうだ。
 ところがこんなニュースを見つけた。
スポニチニュースに、「東京五輪後神宮再開発プラン!神宮球場と秩父宮の場所入れ替えへ」とて、野球場とラグビー場を建て替えるにあたって入れ替えをしようという話があると書いてある。

 なるほど、神宮球場の明治神宮所有地と、ラグビー場の国有地を交換するのか。
 こうすれば隣も民有地となって、明治神宮という宗教法人も含めての民民の間での関係となるから、相手が国有地ほど難しくなない(だろう)。
 そうか、今の場所で建て替えたってよさそうなものを、そうやってわざわざ動かすことで開発のやりやすさを考えついたのか、知恵者がいるんだな(と、妄想したのである)。

 ラグビー場は国施設だから税金で建てるだろうが、神宮球場は私営であるから民間資金調達が必要だ。そこで、そうやって神宮球場の建設費を、容積売買で調達しようと算段しているらしい(ような気がする)。
 でも、今の神宮球場もラグビー場も風致地区指定がなかった時に建ったから、あんなに背が高いけど、今は風致地区の制限がある。
 国施設のラグビー場は国立競技場なみに、都との協議で風致地区規制を事実上は不適用にさせて高く建てるかもしれないが、民営の神宮球場は都の許可だから、簡単にそうはいかないだろう。
 まあ、新国立競技場なみに、政治的な働きかけで、いろいろ例外的な適用するのだろう。

 念のために言っておくが、ここに書いたことはすべて私個人の妄想である。本当にこんなことを関係者が考えているかどうか、まったく知らない。
 わたしの趣味としての勝手な都市計画推理遊びである。

つづく 9回も書いてそろそろ飽きたなあ、つづきは都市計画じゃないことを書こうかなあ)

追記2013/12/29
 ここまでに書こうか書くまいかと逡巡していたことがあるが、やっぱり書いておくことにした。
 それはラグビー場(跡地)が、その隣接する複数の民有地と共同して、ある一定の条件下で再開発をするなら、風致地区規制も都市公園制度も外して、ほぼ、どんなものでも建てることができる、完全に合法的な例外的方法があるということだ。
 だが、合法的とはいっても、都市公園指定されている外苑からいえば合理的とは言えない超妄想なので詳しいことは書かない。都市計画プロは知っているだろうから、お前は知らなかっただろうと言われても癪なので、これだけを書いておいた。
 都市計画審議会は、そういう再開発の都市計画が出たら、法の基本に立ち返って真剣に審議してもらいたいと思う。

これまでの論考は「◆新国立競技場に関する瓢論と弧乱夢と似非言い
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html

2013/12/23

880能「檜垣」の登場人物にも演者にも観客にも老いを重ねて観てきた

寒い師走の土曜日、横浜市立図書館で「建築家の自邸」なる本を探す。池辺陽と今泉善一の二人の建築家が共同して、連戸共同住宅として建てた自邸を調べたのである。
最近、たまたま池辺のもとでその建築設計と現場を担当した建築家の、小町治男さんに会って昔の話を聞いたからからである。

そのことを聴くのが目的ではなくて、戦後復興時代の防火建築帯をたくさん作った今泉さんのもとでの仕事のことを聴きたかったのだが、小町さんは一時は池辺さんのもとで仕事をしていたとて、この住宅の話を聞いて興味がわいた。
戦後とはいえ、もう5~60年も前の昔々のことを調べて、なんだか懐かしくなるのは、わたしもすっかり老いたということである。

図書館の後は、その老いをテーマの能を見るために、横浜能楽堂に行った。本日の演目は「檜垣」というめったに見られない老女ものといわれる大曲である。
その演者たちは、シテ野村四郎77歳、ワキ宝生閑79歳、アイ山本東次郎76歳という、いずれも老いたる人々が老いをテーマの能を演じるのだ。
さらに解説者として登場した歌人の馬場あき子は、85歳である。でもこの人は、話といい立ち姿といい、とてもそうは思えない若さだ。

こちらの見所の観客たちも老人が多い。館長の山崎有一郎さんの姿も、わたしの席のそばに見えて、この方は100歳である。老人ばかりの年の暮。
それにしても今日は、超満員で補助椅子までも出ているのは、めったに見られない曲であり、ベテランの共演であるからだろう。

はじめて観る曲なので、あらかじめ岩波の謡曲集を読んだのだが、なんとも筋が簡単すぎて、これでは眠ってしまいそうだと予想していったのだが、馬場あき子の解説で見方が分った。
この曲は、老いがテーマである。若いころは美しく芸達者でもてはやされた遊女が、百歳にも生きてヨロヨロに年老いた姿で彼の世から登場する。昔の若く美しい時に舞った序の舞を見せて、いま彼の世で責め苦にあっているので苦しい、僧に成仏させてほしいと請うのである。
この百歳もの老女のふるまいや舞姿を、演技として演者が演じることの難しさがあるという。

美しい若い女の舞う序の舞を老いてヨボヨボになった老女が舞う演技が求められるのだが、実際の老人の演者の肉体の老いそのままでは演技にならない、ベテラン演者として若い女の舞うあでやかな序の舞の演技のままででは老女の演技にならない。
生身の今の時間と物語の中の今昔の時間という、3つの時間がもたらす身体の矛盾を、どう表現するか、しかも男の演者が女性を表現する、そこがこの能の見どころだと、馬場あき子は言った(ように聞こえた)。

ふむ、野村四郎はそれをどう見せてくれるのか、これは眠れない能見物になるなとおもったが、実際に眠らなかった。
能の観巧者ではないから何とも言えないが、たしかに身体の運びは能の確実なる演技であるが、ヨボヨボの老いを不確実な運びで見せるのではなくて、わずかに揺れる緩急の中に見せる演技であった(ように見えた)。

ずっと前に、老女もののひとつである「卒都婆小町」(金剛流 豊島訓三)を見たことがあるが、いや、その動きの遅いこと遅いこと、幕から出てきて舞台に入るまで橋掛かりを20分もかけて歩いた。途中で2度も休みつつ。
「檜垣」もそうかもしれないと警戒したが、途中2度の立ち止まりはあったが、遅い小さい歩幅ながら、比較的スタスタと渡った。緩やかに遅く演じれば、老婆の姿になるというわけでもないらしい。

能ではさまよっている幽霊の主役が、脇役の僧侶に成仏させてくれと頼んで、経文を唱えてもらって「仏果を得しこそありがたかりけれ」なんて、ハッピーエンドになることが多い。
この「桧垣」も見せ場の老女の序の舞がおわって、僧に汲んできた水桶を供えて、「罪を浮かめて賜びたまへ」と頼むのだが、どういうわけか、そこでプツンと終了した。
エッ、まだあるんじゃないのと見ていると、囃子方は座るし、シテはヨロヨロと橋掛かりへの退場にかかる。成仏したのか、しなかったのか、なんかもう気になる。

「清経」や「砧」のように、無理やりというか安易に、最後のどたん場で突然にわけもなく成仏させてしまうのも困るが、こうやってポンと投げ出されては、「隅田川」のように悲劇に終わらせるのでもなく、これも困る。
もしかしてこの能は、老いたる女の序の舞の演技をいかに演じるか、そこを見せることだけにあるのか。う~む、あまりに玄人過ぎる能である。しょっちゅう能を見ていないと、なんにもわからない。

ここまで書いて、また岩波の謡曲集を開いて見た。おや、「罪を浮かめて賜び給え」の続きが小さい字で書いてあるぞ。
なになに、けっこう長い地謡のロンギで、最後は「はやく仏道なりにけり」と終わっている。おお、ハッピーエンドだよ。
注が書いてある。「金剛流のみ、「賜び給え」のあとにロンギがつづく。古写本に見えず、近世の付加らしい」
やっぱり、江戸時代にポンと放り出されて気になる人がいて、創作してくっつけたらしい。

2013年12月21日(土)
世阿弥生誕650年記念 横浜能楽堂企画公演  主催: 横浜能楽堂
「時々の花」第3回 玄冬の巻    解説:馬場あき子
「檜垣」観世流)
シテ(老女・檜垣女):野村 四郎
ワキ(山僧) :宝生 閑
アイ(岩戸山麓の者):山本東次郎
笛 :一噌 仙幸   小鼓 :大倉源次郎   大鼓 :柿原  崇志
後見 :浅見  真州  清水 寛二  浅見 慈一
地謡 :観世銕之丞  浅井文義    上野朝義  西村高夫  
          上野雄三  小早川修   柴田  稔  野村昌司

879カリフォルニア閨秀歌人の歌が朝日歌壇に入選した

今日(2013年2月23日)の朝日歌壇に、この歌を二人の選者が選んでいる。

真珠湾の報復という原爆を落した国に帰化せり我は
                          
                                              (アメリカ)大竹幾久子


大竹幾久子さんは、広島出身でカリフォルニアに住む。
ときどき朝日歌壇などの、日本メディアに短歌や俳句で出没する。ご本尊そのものも、年に1回は、亭主をポーターにして、日本に姿を現す。

そのポーターが、わたしの大学山岳部時代の仲間である。毎年やってくる度に、山岳部同期生の生き残り仲間9人で、「Q人会」と称して飲み会をやる。
この秋もやってきて、その飲み会の次の日は、横浜で大勢の人を集めて、夫婦で講演会をやってから帰った。
幾久子さんは、アメリカにおける日本語教育の話、ポーターは元NASAでロケットを飛ばしていたので宇宙探査の話、どちらも好評を博した。

このカリフォルニア閨秀歌人の朝日歌壇、最近の入選作。

あれしきの被曝で何を騒ぐかと言ってはならぬ我は被爆者

仰ぎ見る万国旗は皆同サイズアメリカアフガン並びてはためく

香港とスロバキヤから来し嫁と厨に立ちて雑煮を作る



○関連ページ参照
705カリフォルニア歌人の朝日歌壇賞の受賞歌は原発と原爆の両悲劇を結ぶ
http://datey.blogspot.com/2013/01/705.html
648日本人は5度目の大被曝体験をしても原発を動かす地震津波火事原発
http://datey.blogspot.com/2012/07/648.html
500カリフォルニア歌人
http://datey.blogspot.com/2011/09/500.html

2013/12/21

878理工学部出身の知人医者がシュトレンなるクリスマス用ドイツ菓子を送ってくれた

大学時代の先輩であり同期であり後輩の(要するに2年留年した)Mさんから、自家製お菓子「シュトレン」をいただいた。
菓子のことは和洋にかぎらずなんにも知らないが、送り状にシュトレンと書いてあるのでインタネットで調べたら、これはドイツのクリスマス用のケーキらしい。Stollenと書く。

毎年、奥方が1か月くらいかけて焼きあげ、暮れに知人に配っていて、その年の配布先にうまく当たると、わたしにもやってくる。これが2度目である。
この前は一昨年の暮れであったが、クリスマスも過ぎて小正月に越後山里の法末集落に持って行き、「賽の神」行事に集まった仲間と美味しくいただいた。

この菓子をくれたわたしの同窓生のMさんは、医者である。その同窓の大学は理工学部だけで、医学部なんてものはなかった。Mさんは何を専攻して卒業したのか、実はわたしは知らないのだが、大学時代は山岳部員仲間として知っている。
ちょうど60年安保反対闘争の華やかな時代であり、大学生の彼は学生運動の闘士であった。
ノンポリのわたしも、安保デモに参加したが、そのおかげでその後の人生が若干曲がった。曲がってよかったのかどうか検証しようがないが、生涯所得は確実に低下する方向に曲がった。

Mさんは大学を出て大手企業に就職したが、そこでも労働運動の左翼前線で活動をしてきた。
ところが、50歳くらいの頃か、突然に医者になると志して、予備校を経て医科大学に進み、インターンなどを経て、本物の内科医師になったのは還暦が過ぎていた頃だったろうか。
なにがかれを医者にさせたのかは知らないが、あきれるほどの情熱の人だから、ありえたのだろう。

そして今は、東京の町なかで診療所を持つ赤ひげ医者である。喜寿となった年相応になにやかやと医者の不養生さながら自身が病みながらも、町の年寄りどもを診て、時に看取っている。
幸いにして、わたしはMさんの患者になったことはない。まあ、めったに医者に行かないし、遠いから当たりまえではある。
その看取る日々と孫娘の成長の日々を、毎週のようにメールで仲間にレポートしてくれるのである。
そのレポート相手の中の運の良い者がシュトレンに当るので、わたしは今年は運が良かったというわけである。
Mさんのおかげで、今年は気持ちよく年を越せるというものである。

2013/12/20

877【五輪騒動】都市計画談議(その8)外苑はほんとうに日本の風致地区指定第1号だったか

その7からの続き)

まず、間違わないように書いておくが、現在の国立競技場用地も戦前戦中は明治神宮外苑の一部であり、かつ明治神宮は国営神社だったから、外苑も国有地であった
戦争が終わり、1947年から全国の神社は宗教法人として国の庇護から外され、国有地であった寺社用地は条件によって、国に返還するか、神社に無償譲与あるいは半額売却かの処分をすることになった。
明治神宮の内苑は無償譲与となったが、外苑については宗教活動施設ではないとして、国は返還を、明治神宮は譲渡をそれぞれ主張してながらく揉めた末に、1956年にようやく半額譲渡、10年賦と決着した。
このとき、競技場用地は国有となり、国立競技場として1964年の東京オリンピック大会のメイン会場となった。

さて、この国立競技場の建て替えによって、明治神宮外苑の景観が変化することについて問題があると、建築家や市民がアピールしている。
そのなかに、都市計画法の風致地区を日本で最初に定めた地区として、実に由緒ある場所であることが引き合いに出され、だから新国立競技場の巨大さが問題という論がある。
風致地区とは、1919年に公布した都市計画法に基づく制度であり、都市地域における自然的環境保全を目的としている。

たしかに、1926年9月14日に明治神宮の内苑外苑に関わる地区に、内務省が日本で最初の風致地区指定をしたのだった。
ただし、指定をした地区の範囲は、内苑でも外苑でもなくて、その外の市街地である。
日本最初の風致地区は、表参道、内外苑連絡道路、代々幡明治神宮線の各道路の沿道部幅18mの民有地と、青山通りの銀杏並木入口部の民有地であった。

要するに、内苑とか外苑とかの明治神宮の土地(いずれも国有地)に風致地区を指定したのではなくて、まわりの民間の土地に変なものを建てさせないように規制をしたのであった。
いわば、官のやることには間違いないが、民は何をやるかわからなくて危ないから規制するってことである。官の無謬性といわれる行為である。
だから、外苑は風致地区第1号だったというのは、正しくないのである。まあ、神宮がらみだから当たらずといえども遠からずの位置ではある。
だが、わたしは、こういう明治神宮の権威を風致に引っ掛けて持ち出すような言い方は、好きになれない。

内苑と外苑の土地に風致地区がかかったのは、1970年のことであり、新都市計画法に基づく指定である。同時に、上に述べた第1号指定の民有地から風致地区が外れた。
現在建っている巨大な建物群、つまり絵画館、国立競技場、神宮球場、第2球場、プールなどは、いずれも風致地区指定以前に建ったものである。
だから今の法制度から言うと違反建築、正しくは既存不適格建築物という。これら全部が不適格なのだから適格に直せと、だれも言わないのが不思議である。

絵画館はこの地の元祖みたいなものだから別としても、そのほかの競技場の建物は、風致地区を都市の緑の空間の保全のための制度だとすると、あきらかに大幅に緑を壊しているし、緑の樹冠の上に頭をつき出して建っている。
だが、いずれも風致地区指定以前だから、風致地区好きなお方でも、これにはまったくしょうがない奴らだ、と言うしかない。

戦前に明治神宮内外苑に風致地区指定をしなかったという官の無謬性の行為は、実は、戦後の新都市計画法による風致地区にも受け継がれたのである。
風致地区内で建築行為は、知事や市町の許可を得なければならない。そして、どのように許可をするかについて、都市計画法の政令で風致地区内の建築の規制条例の基準で定めている。
ところが、そこには国や自治体が行なう行為については許可を要しないと、規定される。つまり国や都の建物は、風致地区の許可基準の外にあるのだ。

だから野放図に建てることができるのではなく、許可のかわりに当局間で協議をすることになっている。もっとも、協議となれば力関係で決まることになるだろう。
国の施設である新国立競技場は、法的には、2種風致地区の高さ15m制限はかからず、2種高度地区の20m制限がかかるのだが、それも地区計画で75m制限に緩和された、という筋書きである。

もちろんこれは法制度上の筋書きであって、風致地区も都市計画だし、地区計画も都市計画、おなじ都市計画法の中で決めるのだから、適切な風致が保たれる計画である、とは必ずしも言えないのはもちろんである。
だから、都市計画審議会や景観審議会などで、専門家が審議したうえで決めるという仕組みがある。
そうやって審議したから、これで風致が保たれることになったとは、必ずしも言えないことももちろんである。そう、第201回東京都都市計画審議会の議事録を読むと、その粗雑さはなかなかなものである。

都市計画が景観形成にどう寄与するのか、しないのか、あるいは邪魔なのか、もうちょっと考えてみたい。(つづく

◆新国立競技場に関する瓢論と弧乱夢と似非言い
http://datey.blogspot.com/p/866-httpdatey.html

2013/12/19

876国民的行事と言われた紅白歌合戦は今や国際的行事になっているらしい

TVもカラオケも嫌いでこの1年を過ごした徘徊老人の年末決算として、NHK紅白歌合戦に登場する歌い手と歌う歌を、いくつ知っているか眺めている。
まだやってるんですね、この番組。
実のところ、ほとんど知らない人であり、知らない歌である。和田あき子と北島三郎なんて、生きていらっしゃるんですねえ。

歌い手の名前をみて、その名と顔の両方に記憶があると◎、その名をなにかでで読んだような気がすると△、まったく知らないと×をつける。
歌の題名を見て、その一部でもメロディーを思い出すことができるものを◎、題名だけでも記憶にあるものを△、まったく知らないものを×をつける。

その結果は、下表のとおりだが、◎を2点、△を1点、×を0点として採点した結論を先に書く。
紅組が11点(満点なら92点)、白組が17点(満点なら96点)で、今年のわたしの脳内紅白歌合戦は白組の勝ちである。
紅白あわせて188点中の28点で、100点満点に直すとたったの15点だから、これがわたしの俗世間認知度というものだろう。なんともはや。でも、もう、いいんだ~。

実は去年の暮れの紅白歌合戦(ネットでちゃんとわかるのだ)についても同じことをやってみたら、紅組13点、白組16点で、白の勝ち。
紅白合わせて29点であるが、ことしのそれは28点だから、わたしの俗世間認知度はこの1年では大差なしであるらしい。

それにしても、大昔は名前で男か女かわかる日本人ばかりだったが、これはまたなんと、カタカナ横文字のオンパレードである。
まあ、国技と言われた相撲だって国際的になったご時世だから、国民的行事と言われた紅白歌合戦が国際的行事になってるのはあたりまえだろう。

【紅組】
×× aiko/Loveletter
×× E-girls/E-girls 紅白スペシャルメドレー2013
×× いきものがかり/笑顔
◎◎ 石川さゆり/津軽海峡・冬景色
△× AKB48/紅白2013SP~AKB48フェスティバル!~
×× SKE48/賛成カワイイ!
×× NMB48/カモネギックス
△× きゃりーぱみゅぱみゅ/紅白2013きゃりーぱみゅぱみゅメドレー
×× 香西かおり/酒のやど
×× 伍代夏子/金木犀
×× 坂本冬美/男の火祭り
×× 高橋真梨子/for you...
△× 天童よしみ/ふるさと銀河
×× DREAMS COME TRUE/さぁ鐘を鳴らせ
×× AAA/恋音と雨空
×× 西野カナ/さよなら
×× Perfume/Magic of Love
◎× 浜崎あゆみ/INSPIRE
×× 藤あや子/紅い糸
×× 水森かおり/伊勢めぐり
×× miwa/ヒカリへ
×× ももいろクローバーZ/ももいろ紅白2013だZ!!
◎× 和田アキ子/今でもあなた

【白組】
△× 嵐/New Year’s Eve Medley 2013
×× 泉谷しげる/春夏秋冬2014
◎× 五木ひろし/博多ア・ラ・モード
△× EXILE/EXILE PRIDE~こんな世界を愛するため~
×× 関ジャニ∞/紅白2度目! 呼ばれて飛び出てじぇじぇじぇじぇ!!
◎× 北島三郎/まつり
◎× 郷ひろみ/Bang Bang
×× ゴールデンボンバー/女々しくて
×× コブクロ/今、咲き誇る花たちよ
×× サカナクション/ミュージック
×× 三代目 J Soul Brothers/冬物語
△× SMAP/Joymap!!
×× Sexy Zone/Sexy平和Zone組曲
×× TOKIO/AMBITIOUS JAPAN!
×× 徳永英明/夢を信じて
△× 氷川きよし/満天の瞳
×× 福田こうへい/南部蝉しぐれ
×× 福山雅治/2013スペシャルメドレー
△× 細川たかし/浪花節だよ人生は2013
×× ポルノグラフィティ/青春花道
◎× 美輪明宏/ふるさとの空の下に
◎◎ 森進一/襟裳岬
△× ゆず/雨のち晴レルヤ
×× Linked Horizon/紅蓮の弓矢

2013/12/15

875ついに始まった東電核毒事件の福島貯蔵地は百年前の足尾鉱毒事件の渡良瀬遊水地そっくり

 今日のニュース(朝日新聞DIGITAL2013年12月14日20時56分)
中間貯蔵施設、福島3町などに受け入れ要請 環境相ら
 福島県内の除染で出た土などを保管する中間貯蔵施設について、石原伸晃環境相と根本匠復興相は14日、佐藤雄平知事と候補地である双葉、大熊、楢葉3町長に建設受け入れを要請した。
 3町の計約19平方キロメートルを国が買い上げて施設を造り、2015年1月からの搬入を目指す。ただ、地元には不安が根強く、受け入れがすんなりと決まる見通しはない。

 

  19世紀末に起きた、古河鉱業足尾銅山の鉱毒による大規模公害事件は、垂れ流し鉱毒を貯蔵する渡良瀬遊水地をつくるために、谷中村など大勢の住民のいる村を滅した。
 明治政府はそうやって古河鉱業を救った。

 21世紀初に起きた、東京電力福島第1原発の核毒による大規模公害事件は、撒き散らした核毒を貯蔵する中間貯蔵施設をつくるために、双葉、大熊、楢葉3町あたりの大勢の住民がいる街を滅しつつある。
 そうやって、今の政府も東京電力を救うのか。
 
 やれやれ、歴史は繰り返す。
そうなるに違いないと思い、わたしは東電核毒事件が起きた年の夏に、こんなことを書いた。
 
http://datey.blogspot.jp/2011/08/476.html
●21世紀の「谷中村」は「核毒の森」
http://datey.blogspot.jp/2011/08/47921.html
●核毒の森と海
https://sites.google.com/site/dandysworldg/kakudoku-woods
 
 被害者は2重3重に被災を重ねざるを得ない気の毒なことだが、古河鉱毒さえも100年以上経った今でも根絶できないのだから、東電核毒はその毒の性質からもっともっとかかるだろう。明け渡しは仕方ないことだろう。
しかし強権をもって村人を追い払った明治政府と現代の政府と違うことは、東電はしっかり補償し、国がそれを実行させる担保を負うのは当然のことである。

でも不思議におもうのだが、どういうわけか、真犯人の東電はニュースの表にいつも出てこないのは、どうしてなのだろうか。はじめに引用したニュース前振り文にも、直接の責任者の東電は全く出てこない。
 これはメディアの怠慢なのか、東電の怠慢なのか、国が東電を救うためにしゃしゃり出すぎるのか、とにかく犯人東電はもっと前に出てこい、と、いつも思うのである。

 税金で何もかもやられて、東電も株主も貸付銀行も、のうのうと生き残るってことになる筋書きは、僅かながらも税金を納める庶民にとっては、そうなっても東電に電気代を納め続けなければならないのだから、なんともやりきれない気分である。

2013/12/11

874高齢者が書いた高齢者を種にした小噺を読んだ高齢者が小噺を地で行く小噺

喜寿前後の大学同期生仲間で、メーリングリストであれこれと情報交換している。その中に毎月一回、創作小噺を書いてくるやつがいる。
今月は、あるプロ野球の小噺(全文を勝手に引用するが、お許しを)。

●引退
数々の最年長記録を更新してきた球界最年長投手が引退記者会見を行った。会見に先立ち、投手の投球が披露された。記者の質問が行われた。
記「やはり年齢からくる、肉体の衰えですか」
投「先ほどもお見せした通り、まだまだ体は大丈夫です」
記「ではなぜ引退を決意されたのですか」
投「本当はまだ投げ続けたいのです。球団の意向が・・・」

 通常の引退会見のように進まないまま、会見は打ち切られ投手は退席した。記者が残った球団関係者に質問した。
記「本人は引退したいとは思っていないようですし、見せてもらった投球内容も、全然衰えていないようですが」
球「全くその通りです」
記「ではなぜ引退をさせるのですか」
球「投球内容は全く衰えていません。球団としても現役を続けて欲しいのです」
記「・・・・・・?」
球「なぜかしら、最近グローブが無くなったとか、時には財布が無くなったなどと彼がチームメイトに問いただすことが目立ち、チームの和が保てなくなりました。潮時かと・・」

 メーリングリストの小噺は、ここまでである。
 さて、これを読んだ仲間のひとり(元大学教授)が反応して返信した。もちろん彼も喜寿である。
「この選手は誰か見当つきますが、彼の裏情報まではわたしの住む地方にまでは届いてこない。ということで、小噺の終わり数行がいまいち、わかりません。でも証拠の残るメール上での解説は不要です。秘密は保護するに限る」

 これを読んだ小噺発信元がまた書いた。
「あの~、大丈夫ですか。本気になって聞いてくる君のことが、とても心配です。これは小噺ですよ、小噺、よろしいでしょうか」

 これで2回も笑えたのだが、返信したのはわたしではありません。わたしはプロ野球を全然知らないから笑っただけだが、知っていたら、わたしも返信したかもなあ。