2009/03/05

104【各地の風景】この世とあの世は同じ景観:京都の鳥辺野墓地と横浜の久保山墓地

 京都の東山にある鳥辺野は、古代からの都の墓所であった。
 久しぶりに京都をたずねて、鞍馬。貴船にも行ってきたが、帰る日は毎度定番の清水寺に、鳥辺山を抜けて行くことにした。
 大谷本廟の北の細い道をだらだらと登ると、そこが鳥辺野の墓地である。尾根ひとつがそっくり林立する石塔で覆われる。
 わたしは現実主義者で、墓地が気味悪いくもないし、有名人だれそれの墓を訪ねる趣味は全くない。さすがに歴史がすごいだけに、この墓所の石塔は風雪の年季が入っているようだ。
 振り返ると京都の街が一目で見える。
 鎌倉の中世の墓地も山の上に作られていたが、京都でもそうだとすると、葬送は死者が生きていたときの世界を見下ろす高いところにあることに意味があるのか、それとも単に死体の捨て場所として街では困ったからか。
 京都駅のあたりを墓地を通して眺めると、お灯明の京都タワーが建っていて、その前あたりには京都駅ビルが灰色に立ち並ぶ墓石群である。この世とあの世の景観が見事に合体する。


 横浜でも同じような経験をしたことがある。久保山墓地から「みなとみらい21地区」の超高層建築群が、こちらの墓地の墓石群と見事にシンクロナイズしているのである。
現物の大きさには違いはあるとしても、ある一定のプロポーションによる建ちかたは、ビルと墓石は同じなのである。だから鳥辺山も久保山も墓地も街も同じ景観になるのは当然のことである。
 そういえば超高層建築の建て方に、低層部の10階くらいまでは広く、その上に細い縦長に乗る形になるものが多く、それはそっくり墓石の形そのものである。それが群をなす街の縮小版が墓地である。 街は高層建築が増えていくたびに、あの世の景観の拡大版になっていく。
 墓地は死者のための特別の空間と思っていても、しょせん人間が作る景観はそんなものである。(090302)

関連→099能幻想の清水寺  →100京都の街並み本物偽物? 

2009/03/04

103【東京駅復原反対】三菱1号館コピー出現:文化財を壊して造るコピー建築

東京・丸の内の場と先通りと大名小路の角に、レンガ造り3階建てのえらくクラシックな建物が建った。
 実はこれは、ここにあった三菱1号館の原寸大模型というかコピー建築なのである。それは19世紀末の昔昔に建った、日本で初めての洋風貸事務所であった。
   ◆   
 丸の内は19世紀末以来営々とオフィス街の経営として、何度も建てては建て直してきた。
 20世紀半ば、丸の内の高層建て替えがすすみだして、三菱1号館も1968年に壊された。
 もちろん当時すでに重要文化財級の建物として、文化財保護委員会(後に文化庁)も学会も、その指定をして保存をするべきと考えていた。
 所有する三菱地所に要望して保存策を検討していたが、まとまらないままに、1968年3月23日(土曜日)、三菱地所は取り壊し工事を強行してしまった。理由は耐震的に危ないからということだった。
 三菱地所社史によると、どこかに移築するかもしれないとの考えもあったので、解体部材を三菱開東閣(これは重要文化財となっている)に保存したが、移築先がなくてほとんど廃棄されてしまい、ほんの一部が残っていたそうだ。
 跡には15階建ての普通のオフィスビル・三菱商事ビルが建った。
   ◆
 そして21世紀はじめ、この15階建て三菱商事ビルのほかに、9階建ての古河ビル、8階建ての丸の内八重洲ビルをまとめて壊して、丸の内パークビルという超高層ビルが建った。
 なんとその足元には、三菱1号館の原寸大模型が、もとあった位置に建っているのである。
 残していた一部の部材も使って、内外のデザインも工法も昔の図面通りに(基礎はそうはいかないが)再現したそうである。
   ◆
 これはどう考えるのか?
 第一の問題は、これにともなって壊した丸の内八重洲ビルは、1928年建設でそれなりに重要文化財級であったということだ。かつて文化財級と分かっていながら1号館を壊したことを、再度行ったように思うのである。
 第二の問題は、このコピー再現建築(レプリカ)は、果たして文化財なのかということである。京都三条通りにあるみずほ銀行の建物が外観を再現して建て直したが、どうもこれは文化財とは認めない風潮のようだ。今後文化庁は新1号館をどう判断するのか見物である。
   ◆
 第三は、景観としては新旧のギャップをどう見るのかということである。
 丸の内で歴史的な建物としてなんらかの保全的再開発をしたものは、第1生命、明治生命、銀行協会、工業倶楽部、東京駅であり、現在時点で取り掛かろうとしているのは中央郵便局である。丸の内は歴史的建築ばかりの街だったから、このほかは全部なくなったといえる。
 ところが、ここに来て、一度なくなった景観が一部に復活してきたのである。
 だが、それが消えていた40年の間に、あたりの景観は激変している。
 ひとつだけぽつんといまさらの出戻り浦島1号館は、頭の上にかぶさる超高層を見上げつつ、かつての壮麗な赤レンガ1丁ロンドンを思い出してため息をついているのだろう。
 わたしも、その40年の長き不在に、その景観を忘れてしまっていて、あれッ、ディズニーランドの出先がここにできたのかい?、なんて思うのである。
   ◆
 さて、これは東京中央郵便局の現下の問題に、何か教訓になるでしょうか。
 そういえば、東京駅赤レンガ駅舎保存問題が起きたときも、国鉄民営化と大いに関係していたなあ。

関連→
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2009/03/02

102【世相戯評】重要文化財よりも世界遺産が格が上なら宇宙遺産はもっと格が上なのか

 今朝の朝日新聞折込の「GROBE」は、世界遺産特集である。
 面白かったのは、昨年だったか登録された「石見銀山」は登録が危なかったが、かなり政治的な裏技をやって通したらしい。
 そしてそれが、なにやら後に続く登録を難しくしたらしいことが読めるのである。

 それぞれの言い分はあるだろうが、国際的な委員会でやることだから、当然にそのようなことはありうると思う。 オリンピック開催地選定と同じで、特に観光収入が増えるとあれば、なおさらである。
 そうまでして日本での世界遺産登録は必要なのだろうかと思う。
 

 例えば鎌倉である。
 もう、十分にその価値は日本人はよく知っているし、観光客は人口18万人に対してその100倍も年間に訪れている。
 世界遺産登録すれば何が起きるのか、市民の合意を固めるためのシンポジウムやワークショップを繰り返しているので、これ自体が街づくり運動となっている。

 昨年から、鎌倉の旧鎌倉と呼ばれる歴史的地域のほとんどで、建物の高さ制限をして高層ビルは建てられなくなった。これは長い間の鎌倉の都市計画の懸案でもあったが、世界遺産登録への運動として稔ったとも言える。
 あまり早く登録されるよりも、この登録運動を長く続けることが、よい都市を作る運動そのものであるかもしれないと、外部のものとして勝手なことを思っている。

 ケルンの大聖堂の隣の鉄道ヤード跡地再開発で景観が乱れそうになり、世界遺産登録を取り消すとかいう騒ぎがあったと聞いたことがあるが、実際に取り消しとなった世界遺産登録地もあることを知った。登録地の自然保護か、資源発掘の石油開発かとなって、石油開発を選んだ途上j国のことであった。
 この次は観光開発が登録を取り消す原因になることが起きるかもしれない。

 国指定文化財よりも世界指定遺産と言う権威のお墨付きがほしいなら、次は「宇宙遺産」だな。さしずめ月到着の最初の人間の足跡なんて、その文化遺産第1号か。
 でもずいぶん宇宙ゴミが地球の周りを飛んでいるらしいから、富士山と同じでまずはその清掃が先に求められそうである。
 参照→世界遺産とはなんだろうか(2008) 
     ◆山並み眺望をついに守りとおした鎌倉(2008)

2009/02/28

101【東京駅復原反対】東京中央郵便局と保存原理主義

 東京駅前の東京中央郵便局の建物を、重要文化財級だから残せ、郵政会社の高度利用開発反対と、国会で大臣が答弁したと今日のニュースである。
 とうぜんに文部科学大臣が言ったのだと思ったら、なんと総務大臣だった。国会の総務委員会で民社党の河村議員の質問に、鳩山総務大臣の答弁だそうだ。

 何で総務大臣かと思ったら、中央郵便局の持ち主の郵政会社を監督する立場だかららしい。
 とすれば、なんだかおかしいような気がする。だって、郵政民営化して作った会社の経営をうまく離陸させるための監督官庁だろうが、これでは足を引っ張ることになる。そういえば、かんぽの宿の件でも、足を引っ張っている。
 もちろん歴史的な建物の保全に関しての一般論として総務大臣が言うのはおかしいとは言わないし、文化についての見識を持つことはよいことだが、なぜ文部科学大臣ではないのか、そこが変である。
 昔、1988年に赤レンガの東京駅舎の建築保全についての前向き発言は、当時の中島文部大臣が国会で答えた。決して運輸大臣(石原慎太郎)ではなかった。

 河村議員は前から中央郵便局の保全を唱えているが、彼としては政治的駆け引きからみて文科大臣よりも鳩山なる政治家に質問するほうがうまく行くという戦術があったのだろうと推測する。
 その裏には、あの麻生さんも実は反対だった郵政民営化論議もありそうな気がする。

 ところで鳩山さんは大阪中央郵便局については、どうして何も言わないのかしら? 同じ論理ならそちらも保存を言うべきでしょうにね。 文化論として発言するなら、ちょっと前に壊された中央郵便局近くにあった三信ビルについても残せと発言してほしかったね。
 どうやらこれは文化論ではなくて、政治的な発言であるらしい。

 まあ、保存原理主義者たちは、どんな手段を使っても(例えば、容積移転した先が超超高層化して環境や景観悪くなっても)その現物さえ保存されれば勝利って、マキャべリ的スタンスだからなあ、、。
 この建築保全に関しては、ほかに書いたからここには書かない。

2009/02/27

100【各地の風景】京都の街並み本物偽物? 

 京都西陣電話局をはじめてみてきた。1922年竣工のいわゆるモダニズムというにはオーダーの柱見たいのながあったりして、ちょっと奇妙なデザインの建物である。
 当時の逓信省営繕課科の建築家・岩元禄のデザインで、NTTのものとなってから修復して記念的建築として貸しビルのようにして使っている。となりに典型的な電話局建築が建っていて、そちらがメインの機能らしい。
 これについている抽象化した裸婦像二つについて、岩元デザインの東京青山電話局にもつける予定だったのを、そちらはつかないで建っていたが今はもうその建物はない。

 その裸婦のトルソの粘土模型を、岩元の下で作ったという山口文象の話がある。山口の話では岩元と山口はかなり深い付き合いだったから、そんなこともあったかもしれないが傍証はない。山田守もこのトルソの粘土模型を作った話をしているが、こちらはありそうな話だ。

 中立売通りは狭い道で、これが建った当時は木造の町屋が立ち並んでいたろうから、モダニズムにあこがれる時代、新しい物好きの京都ではあったにしても、その町並みの中では異様な風景だったろうと思う。

 三条通りに中京郵便局があるが、こちらは1902年竣工の赤レンガにコーナーストーンのネオルネッサンスというのか様式建築である。
 ただしこれは1978年に道側の1スパンだけ保全してそのほかは建替えているから、いわばハイブリッド建築である。これにしてもその頃の京都の町並みとしては威容というよりも、むしろ異様であったろう。

 三条通りにはこれが嚆矢だったのだろうか、いくつもの洋式建築が建っていて、新らし物好きの京都人らしいのだが、今はそのレトロ性が商業性を持ってきている。
 その三条通りと烏丸通りの角に立派な赤れんがネオルネサンス様式の、実に堂々たるみずほ銀行の建物がある。
 三条通りのたくさんの歴史的建造物について写真入り解説板が、これもまた三条通りの洋式建築の京都文化博物館の前に建っているのだが、意外にもそこにはこのみずほ銀行の建物については何の解説も無いのである。

 中京郵便局よりも博物館より立派なそれがなぜか。
 はたと思いついた。そう、あれはもう10年も前であったか、京都第一勧業銀行の様式建築が建て替えされたのだが、それは外観は元のデザインままに再現して建て、内部を3階建てだったのを4階建てにして床を増やしたというのである。
 建築家や建築史家たちが、それは偽物つくりなので建て替え反対と騒いだことがあったが、これがそれであったかと気がついた。

 それにしてもこの偽物は、本物という中京郵便局や文化博物館よりも本物らしく見えるのに、冷遇されるのはなぜだろうか。
 街並みにおける景観としては、その二つの建物よりもはるかに忠実に保存しているではないか。工事中を除いて、街並み景観に関して時間的断絶は無いのである。

 中京郵便局は裏手に回ると全く今風のビルだが、みずほ銀行はとことん昔のままである。
 それでも冷や飯を食わされるのは、何かがおかしいと考え込んでいる。これもまた京都は新し物好きだからか。
 時間的断絶のある丸の内の三菱1号館の再現との違いを考えている。

参考→怨念の景観帝国
https://sites.google.com/site/machimorig0/entsuji

2009/02/22

099【京都見物】能「田村」そっくりの幻想の清水寺

久しぶりに京都に3日間遊んできた。
 1日目はバスで動いたが、上賀茂神社の社家町(重伝建地区)、西陣電話局(岩元禄設計)を見た。
一条戻り橋の晴明神社を訪ね、夜はRIA時代の旧友たちと町屋の料理店(秦家)で遅くまで話し飲み、烏丸御池のホテルに泊まった。

 2日目は地下鉄北大路駅から歩き出し、加茂川を飛び石で渡り(ちょっと怖かった)、岩倉の円通寺で庭を見て、借景問題で考えることあり(→怨念の景観帝国

 電車で鞍馬駅まで行って、小雨の中を歩いて鞍馬寺の本院までよたよた登る。
 時刻はすでに15時15分、ちょっと迷ったがままよっとばかり山道を奥の院へ登り、貴船の鞍馬西門にむけてくだる。この間、寺の人を別にして鞍馬山中で行交ったのは女6人、男2人であった。
 西門から貴船神社奥宮まで往復してきたら、夕暮れになった。

 貴船口駅まで歩き電車にのって岩倉で降り、国際会館前駅のそばにある平安教会山口文象設計、プロポーションよくないをみて、地下鉄でホテルに帰ってきた。
 寒かったが、人の極端に少ない洛北の冬を満喫した。

 3日目は、大原に行こうかと思ったが、毎度京都訪問の定番コース東山に行こうと、京都駅から歩き出す。
 土曜日でさすがに人出が多い清水坂の混雑を避けて、大谷本廟から鳥辺山の墓地を抜けて登れば、閑静なものである。 
 三寧坂、二年坂から八坂に抜けてバスに乗り、帰宅の途についた。

                ◆
 清水寺の舞台の手前で鳥辺山方面を眺めていたら、同年くらいの男が横に立って、「清水はいま工事ばかりです」という。
 なるほど、見渡せば、舞台の足元はブルドーザーがうなっているし、子安の塔には足場が組まれている。

 おお、そうですねえ、と言いつつ見れば、その人は清水寺の人らしい仕事着である。
 「花守ですか」としゃれようかと思ったが、まだ花には早い。
 「こちらのお寺の方ですか、よろしければ教えてください」
 そして話は、この寺を創建した坂上田村麻呂のこと、見渡す眺めの音羽山や鳥辺山、遠くの東寺など名所を教えてくれる。
 10分ばかりすると時計を気にしている様子、質問を切り上げてお礼を言うと、人ごみの中を田村堂の方にそそくさと消えた。
 おお、これは、能「田村」の前場に、まるでそっくりである。

 能では、東国から旅の僧(ワキ)が京にやってくる。折から花のさかりの清水寺を訪ね、そこに現れた箒をもった童子(前シテ)を見て、「花守か」と問うのである。
 能のこの前シテは「花守の宮つ子」と答え、問われるままに清水寺や地主権現の由緒を語り、眺め渡す景色の名所教えをして、忽然と田村堂の中に消えるのだ。

 わたしは本堂舞台、地主権現、子安の塔、音羽の瀧と一巡して元に戻り、順路と逆に入り口から出ると、どうもありがとうの声に2,3歩行って振り向けば、先ほどの人がにっこり笑って手を上げている。拝観券のチェックをしているのだった。

 「門番の宮つ子」の彼は、田村堂のそばに立って見送ってくれる。こちらも手と笑顔で答え、清水を後にした。
 能のように夜までここに居たらば、坂上田村麿(後シテ、観世流の能ではこう書いてサカノウエノタムラマルと発音する)の姿で出現して、戦いの様子を語り舞ってくれたかもしれないなあ。

 そういえば今回は、「田村」と「熊野」の清水寺、「鞍馬天狗」の鞍馬、「金輪」の貴船(安倍晴明も登場)、「賀茂」の上賀茂神社と、図らずも能楽の現地を訪ねる旅であった。
 京都はどこを訪ねても、そういう歴史舞台であるということだろう。


2009/02/17

098【お遊び】マーマレードを作る

 今年もちょっとだけ台所を占領して、マーマレードをつくった。美味い。自分がつくればなんでも美味いにきまっているのだ。
 毎年今頃になると、九州福岡の糸島郡志摩町に住む畏友が、自家屋敷林で採れるアマナツをどさっと送ってくれる。
 栽培しているのではないらしいが、広大な庭というか畑というか山林みたいなところに毎年たくさんできてしまうのである。もちろん無農薬だから、マーマレードに最適である。
 無農薬甘夏でマーマレードを作るレシピは、WEBサイトにいろいろとあって、どれが正解というのではなかろうが、めんどくさくなさそうなのを見つけて適当に作るのである。
 毎年やっているが、いつも硬くなってしまうので、しかたないから市販のマーマレードと半々くらいに混ぜて食べると、市販の甘さとこちらの苦さがちょうどよい加減になる。
 今年は硬くなりすぎないうちにと早めに火を止めたが、まあまあか。
 わたしの食べ方は、毎朝の紅茶にドバッといれるロシアンティーである。畏友に感謝しつつ飲む。今朝の紅茶は美味い。
 その畏友のサイト●オチコボレは自立する 

●追加記入(090331)
 上のように書いていたら、当の畏友がこれを読んで次のような抗議文を、アマナツ10数個つきでよこした。
「ひとつだけ、抗議というか、反論というか、弱気な訂正というか、すこし言い訳をしますと、栽培しているつもりなのです。収穫後剪定(我流ですが)をし、下草を刈り、旨みが出るというのでアブラカスを20キロ×8俵ぐらい、アマナツ6本、ハッサク2本に、二度に分けてやっています。もうひとつ言うと広大ではありません。少しよい感じの風景は、20mから40mぐらいの楠、欅、樫、楢などの樹があって、落ち着けるところだということです。その太い枝を少しづつ戴いて、暖房用の薪にしています」
 おお、そうか、しっかり栽培していらっしゃるのですね、失礼をお詫びします。
 だって、いい加減に放っているのになりすぎて困る、なんていつも愚痴をこぼすんだもの、あれは大兄一流の農の腕前自慢だったのですねえ、マイッタ。
 でも、あの屋敷地は広大ですよ、こちらの鼠の額のベランダから思いを馳せると、、、。
 というわけで、「栽培しているのではないらしいが」ってところは、「上手に栽培するものだから」と訂正してお詫びします。
 さて、その抗議文付録アマナツは、美味いのである。来年もよろしく。

2009/02/16

097【横浜ご近所探検】哀しきは寿町といふ地名と詠むホームレス歌人

 哀しきは寿町といふ地名長者町さへ隣にはあり
             (ホームレス)公田耕一

 これは2009年2月16日朝日新聞朝刊の朝日歌壇入選(高野公彦選)の投稿である。

 そうですとも公田さん、近くには福富町、黄金町、真金町なんてお金のたまる街も、永楽町とか不老町とか健康に長生きする街もありますよ。
 埋め立てして街を作ったときに、街に住む人の幸せを祈念してつけた町名なんでしょうね、でも、そうなったのかしら。

 こんなにおめでたい町名なのに、マンション寿町なんて販売しているって聞いたこともない。
 黄金マンションとかマンション永楽・真金なんて名前の分譲共同住宅も一向にないのが不思議、わざと命名を避けている哀しき地名。

 街のイメージは名前じゃなくて、その背負う歴史で決まる。そのうちに歴史も変わるだろうが、まだそれらは負のイメージを引きずっている。
 同じ朝日新聞の社会面に「ホームレス歌人さん、連絡求ム」との見出しで、この歌詠みがこれまでに何度も入選しているが、連絡がとれないとの記事がある。寿町の簡易宿泊所でその日暮らしか、それとも労働福祉会館の庇の下で野宿か。

 それにしても、このドヤ街はいつまで持続するのか。持続することがよいことか。
 日本の住宅政策が社会政策ではなくて経済政策であったことの歪みが、この寿町には見事に現出している。
 参照→◆地域の持続可能とはなにか   095貧困な住宅政策
    ◆横浜ご近所探検隊が行く

2009/02/15

096【言葉の酔時記】日本の姓名ランキングでわたしは997位

 日本の姓で一番多いのは「佐藤」だそうだ。ということは藤原氏の末裔が多いのかしら。WEBサーフィンしていたら、「同姓同名辞典」なるサイトに行き当たって知ったのだ。
 これは 1時期デジタルデータ公開されたNTT電話帳を基にしたそうだから、最新ではないし、電話所有主だから世帯主が多いから男性に偏っているし、若い人も少ない。
 同姓同名はあまり意味はなさそうだが、姓や男名前の傾向は分かる。
 姓のランキングは多い順に、佐藤、鈴木、高橋、田中、伊藤、山本、渡辺、中村、小林、加藤がベストテンである。

 わが姓(伊達)は997位に登場している。姓は全部で131481種あるから、意外に上のほうのランキングにいる。 伊達の前後には、境、 神原、松橋、野間、辻村、持田とある。
 これらは素直に読めるが、わが姓はとても素直には読めないのにこのあたりにあるのが不思議だ。

 1名(1世帯か)しかない姓が31836もあって、それらはほとんど読めない。珍しすぎる姓も、生活に不便であろう。わたしぐらいの珍しさが、ちょうどよい。
 男名前のベストテンは、清、勇、茂、博、実、進、弘、正、勝、隆の順である。もっとも、最近はこんな平凡な名前をつけないから、近い将来にはずいぶん異なるランキングになるに違いない。
 佐藤姓で思い出したが、知人に名が利夫という人がいて、砂糖と塩だって。

2009/02/13

095【くたばれマンション】貧困な日本の住宅政策が名ばかりマンションをつくる

 なんでも名ばかりマンションが売れる気配らしい。
 不景気で売れないから、値下げや投売りが出てきているのと、購入に当って減税措置が拡大されたのだそうだ。
 まったく困ったものである。

 まず第1の問題は、わたしが言うところの名ばかりマンションは、大地震がきたらたちまちに困ることになる可能性が高い危険なる代物なのに、政策はその購入を支援しているのである。
 第2の問題は、なぜ持家購入の借金返済には減税して、借家の家賃には減税しないのか。まったくもって不公平である。
 日本には住宅政策はなくて、経済政策だけがある。

 横浜に寿町という、いわゆるドヤ街がある。東京の山谷、大阪の釜が崎とならぶ、簡易宿泊所と呼ぶ実情は超零細アパートメントビル街である。
 約6ヘクタールの街に約6400人のドヤ住人たちが寝起きしているが、人口密度を計算するとヘクタールあたり1000人を超える超過密である。それに高齢化も押し寄せて、今や労働者の街から介護の街になりつつある。

 わたしは寿町の近くに住んでいてよく通るし、この地域の新展開を目指すホステルビレッジ事業者に案内してもらって体験宿泊もしている。
 かつて若くて体力のあった港湾荷役労務者たちがその後に建設労働者となり、仕事が減り高齢化して労働能力が下がったままにずるずると暮らし続けて老いているのだ。

 50歳以下は極端に少なく、65歳以上の高齢化率は31.5%(2005年)、9割は男単身世帯である。高齢者が多いから病人も多いという。日雇いだったから健康保険も年金もない。8割の世帯が生活保護費を受給している有様である。
 簡易宿泊所数は118棟、8461 室、宿賃は1室ネット約5㎡(3畳)で2200円/日である。実質的には住んでいるのだから月66000円、つまり13000円/㎡・月の家賃である。このあたりのワンルームマンションの家賃相場は3~4000円/㎡・月だから超高額である。

 実態的に超高額超低級アパートメントに住む人たちに、その家賃として生活保護費を支給していることになり、つまりその超収益不動産経営者を公的資金で支えていることになる。奇妙な構造である。
 この地域の歴史的背景は複雑なものがあるが、ここには日本の住宅政策が社会政策ではなくて、経済政策としてしてきた歪みが見事に現れている。

 日本に社会政策として住宅政策があったなら、当然のことにこの地域に公営住宅を建設して、これらの人たちをいれていただろう。
 まあ、麻生さんも小沢さんも、借家住まいをしていないことはたしかだろう。
参照→085借家か持家か  059怖い大規模名ばかりマンション 
   横浜ご近所探検隊が行く