2012/05/19

620横浜港景観事件(1)かの有名な横浜市の景観政策がただいまちょっと座礁気味である

ここに二つの絵があります、さて、どこが違うでしょうか、いまどきのお手軽クイズみたいだけど、いかが?
 これらは横浜市のみなとみらい21地区内の新港地区で、計画中の結婚式場の建築の完成予想図である。なお、観覧車はとなりの遊園地にあるもの。
        これは2012年1月の案
これは1月案を修正した3月の案

 これが建つ場所はこのようなところである。みなとみらい21地区のなかでも超特等立地である。

 この場所で建物を建てるには、いろいろと法令による規制がある。それらのなかに横浜市特有の条例があって、その姿(景観)の良し悪しについて横浜市都市美審議会の議を経なければならないことになっている。
 この計画がその審議会の景観審査部会の議事として審議されたのは、2012年1月である。
 ところが部会は、この案はぜんぜんだめと、やり直しをしてあらためて審議しようとなった。こういうことは今まで一度もなかったことである。
 その議事録を読むと、その案のどこが悪いというよりも、全体にナットラン、そんな雰囲気である。

 1月の景観審査部会での委員の意見を少し拾ってみよう。
「これは何か大きなかけ違いがあるのではないか」(金子委員)
「全然違った地区や国の文化を持ってくるというのは、これまでやってこなかったこと」「新港地区での展開についての配慮は余りないのではないか」(国吉委員)
「物まねは求められていない」(中津委員)
「この場所ではこういう西洋風のチャペルではないだろう」(高橋委員)
「テーマパークを思わせる奇抜で猥雑な雰囲」(加藤委員)
「今目の前にあるこの模型の形では認められない、承服できない。といって、この方針で微調整をすれば認められるかということでもなしに、基本的なデザインの考え方、それは配置、外観あるいは景観、そういったデザインの基本的な考え方の大きな見直しが必要」卯月部会長)

 これに対して事業者はこう答える。
「各所で西洋風の様式、西洋風の建物を展開しています。そして各地で成功をおさめているといった形でございます。西洋風の建物スタイルというものをこちらでも展開し成功をおさめたい、要は1つのビジネスモデルであると理解しております」
 そして基本的なことには答えようとしない。
 まったく異なる立場であり異なる方針のデザインだから、答えることもできないのが当たり前である。ただし、事業者としてはこれまでの横浜市の方針と異なるものとは、少しも思っている様子はない。

 そして3月23日にもう一度この案が景観審査部会にかかった。つまり1月の審査部会の意向を受けて、1月から3月までの間に市と事業者が協議をして変更をした案を出したのであった。ただし審議ではなくて報告としてである。条例で審議は1回と決まっているかららしい。
 それが冒頭に示した2枚目で、どこが変わったかわからないクイズなのであった。当然のことに部会のメンバーは怒った。
 なにも分かっていない、なにも聞こうとしない、一回の審議で何ができる、これじゃあ審議会はいらないっ、と。

 いったいこの2ヶ月の間にどんな内容の協議だったのだろうか。
 この計画案は委員が言うように本当にだめなものなのか。
 専門家たちがだめといわれるようなものを作って事業が成り立つものだろうか、
 専門家はだめといっても世の人々が受け入れるから事業が成り立つのか。
 景観とはそのように専門家と普通に人々では評価が異なるものなのか。

 考えるといろいろと面白くなってくる。これは景観論というよりも社会学的な面白さである。
 ここでしばらく何回かこのことを継続して考えて、連載する。(つづく横浜港景観事件(2))

参照→この件は以前2012年3月に新聞報道があったので、それと横浜市のサイトを見て「592市場における都市美とは?」と、その続きの「599非日常・異日常そして日常の風景」を書いた。
参照
http://datey.blogspot.jp/2012/03/592.html
  http://datey.blogspot.jp/2012/03/599.html

2012/05/16

619この冬の4mもの豪雪被害があちこちにあっても集落の暮らしにまた春がきた

中越山村の法末集落にも春がやってきた。ブナの芽吹きが美しい。
 一面の雪の下から顔を出して目覚めた村は、またいつものように田植えに忙しいシーズンになった。山菜も出盛りだ。

 この冬はものすごい雪で、法末集落は4mもの積雪であった。
 冬の間は毎日毎日、集落の人たちは必要なところを除雪して、雪害対策に怠りなく過ごすのだが、油断したり不能だったりで除雪をしないと、大変なことになる。
 道路のガードレールの類が、雪に乗っかられて車と違う荷重からガードができなく、ヘナヘナになってしまっている。
 
 鉄でも曲がるのだから、わたしたちの活動拠点の家の庭の竹藪は、すっかり折れて倒されてしまった。今年はたけのこが生えてくるだろうか。

 でも山の木はさすがにしぶといものだ。雪の間はその下で地に身を伏せていたのだが、雪解けとともに曲がった腰を弓のごとくに反り返らせて、春の日に芽を吹きつつある。

 家屋の屋根の除雪をしないで4mも積もらせてしまうと、そのとんでもない重みで軒が折れるのは当たり前、屋根の小屋組みをつぶされて落ちたり、そっくり倒壊したりする。
 放棄された空き家が、毎年の冬にだんだんと大型廃棄物と化していく。その人と自然の互いの営為を、わたししは定点観測として興味もって眺めている。
     
    <ある空き家の2009年の姿>
    <おなじく今年2012年の姿>

 わたしたちの拠点の家も、母屋は手入れしているが、蔵と渡り廊下は2度の震災による痛みと手入れをしていなかったので、とうとう今年の豪雪に負けてしまった。

 <「へんなかフェ」の蔵と渡り廊下の2007年の姿>
 <「へんなかフェ」の今年2012年5月の姿>

 さて、わたしたちの700㎡・3段の棚田での米つくりも7年目、先日は田植えの準備で畦を土で塗り固めてきた。これをやらないと、下の田に水が抜けるからである。
 田んぼから泥土をすくっては、長い畦の横と上に塗りつけていく。体力というよりも腕と腰に響く仕事で、一枚の棚田の半分もやったら、もう腰が痛くて退散した。
 棚田の中の足湯にも春が来た。休日はお湯が出ている。
https://sites.google.com/site/hossuey/

2012/05/11

618棚田の風景は美しいがその裏には大変な技術と労働があるのだ

今日の新聞にこんな記事がある。
 佐賀県玄海町の「浜野浦の棚田」で、田んぼに張られた水が玄界灘に沈む夕日で輝き、幻想的な光景をつくり出している。
 大小283枚の水田が11.5ヘクタールにわたって広がり、「プロポーズに適した場所」として、NPO法人・地域活性化支援センター(静岡市)による「恋人の聖地」の一つに選ばれている。町によると、棚田が夕日に染まる風景は、田植えが終わる20日頃まで楽しめるという。(2012年5月11日16時51分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/zoom/20120511-OYT9I00173.htm

そしてピンクの逆光に染まる棚田群の写真がついている。
なるほどなあ、「プロポーズに適した場所」ねえ。田舎風景の宣伝にしてはちょっとハネた感じ。
この新聞記事のように、棚田の風景は“見た目は”たしかに美しい。
ここで“見た目は”といったのは、その美しい風景の裏には、それを作り出した人々の、長い間の積み重ねた棚田特有の技術とたゆまぬ労働を想うからである。

実はわたしは明日から、中越山村の長岡市小国町の法末集落の棚田に行くのである。
中越震災の翌々年からはじめて7回目の米つくりの今年の最初の仕事として、月末予定の田植えの準備にいくのだ。棚田の斜面を治し、代掻きをし、畦を塗り、水路を整備したりするのだ。
棚田は棚と棚の間に大小の崖地斜面がある。もともとは傾斜地の自然地形を、水田として水を溜めるために棚の段々にしたのだ。
それらの崖は、自然の慣わしとしていつも崩れる方向に働こうとする。毎年どこかが崩れるので、その修復、維持、管理を怠ってはならない。
平地の広い田んぼと違って手間がかかるのだ。

自然地形を手作業で棚田にするときに、もっとも省力的な方法は等高線に沿うように伐って行くことだ。それらの積み重なりが等高線に沿いつつ曲線の複雑な形状になってしまったのである。好きであのような風景を作り上げたのではない。
今の技術なら土木機械で造成して、広く平らな田んぼにすればよいのである。それをやったのが、中越地震で崩れた棚田の復興であった。

そしてもっと複雑なのは、あの棚田群に一様に水を湛えるための水路システムである。
多分、はじめから設計したら、あんな複雑な棚田群に、円滑に水を送る灌漑水路の図面は描けないだろう。棚田を造るごとに工夫して、地下トンネルを掘り、水路を作り、溜め池を掘り、そうやって積み重ねて今の棚田群に水が来ている。
現場を見るとどうしてここにと思うようなところに、背丈ほどもない素掘りのトンネルがあったりする。
中越大地震でそれらの水路が壊れたために、棚田は無事でも耕作放棄となったところがずいぶんあった。

そして水路とともに複雑なネットワークは、農作業機械の通る農道である。
農作業用の機械がなかったころは人が歩いて行けばよかった棚田も、今では機械が入ることで棚田での米つくりが続いている。
現に機械の入らない棚田は耕作放棄されつつある。
ただし、観光的な棚田の保全は、これとは別の論理というか経済原理の外で成り立っている。

そういう手間がかかるのに、なぜ棚田で米を作るのか。もちろん山村にはそこしか田んぼがないからである。そして米つくりがいちばん安定した農業だからだ。
更に棚田の米はうまいからである。法末では水が地中からわいて来る。冬の4mもの豪雪が土にしみこんで、それが湧き出してくる。谷川の水よりも、うまい米を作り出すらしい。

さて法末集落で「プロポーズに適した場所」なんて宣伝したら、わんさと人がやってくるんだろうか。
きてもらっても困るだろう。狭い農道にたくさんの遊びの車に入られては迷惑である。ゴミばかり置いていかれても腹が立つ。
来客相手になにか商売をしようとて、自家用栽培の野菜でも売るか。
まあ、大量にこられても対応できないから、パラパラとでも来てもらうと多少は村にも活気が出るかもしれない。
でもやってくる人が多くなると、中には住んで百姓をやってみようかと思う人がないとも限らない。それは歓迎である。
まず、わたしたちのやっている米つくりの仲間になることからやってはいかが?

参照
●法末集落にようこそ

https://sites.google.com/site/hossuey/

●法末棚田ハザ掛け天日干し米つくり
https://sites.google.com/site/hossuey/home/hasakakemai

●法末集落の四季の風景
http://homepage2.nifty.com/datey/hosse/hosse-index.htm

2012/05/08

617渋谷東急文化会館の変身は戦後文化の変転のエポックか

渋谷駅の東側の広場を隔てて、「ヒカリエ」なる妙な名前の巨大建物ができた。
 ここには1956年にオープンした「東急文化会館」(坂倉順三設計)が建っていた。プラネタリウムが有名であり、当時はもっとも栄えていた映画の上映館が4つもあったビルであった。

 その開館の次の年、わたしは少年時代を過ごした小さな田舎町をようやく抜け出して東京の大学生になった。渋谷がいちばん近い繁華街であったので、まさに都会の文化の殿堂のような気がしたものだ。
 プラネタリウムにも映画にも行った。どの映画館だったか覚えていないが、東急文化寄席なる演芸もやっていた。ホール落語のさきがけだった。

 そのうちに映画の衰退し。プラネタリウムもあちこちにできて珍しくなくなった。東急文化会館に入ることも永らくなかった。
 そして渋谷は西側のほうが奥深くへ繁栄しだして、ますます東側には用がなくなった。文化需要も東急文化村や、その奥の観世能楽堂などで対応するようになった。

 10年ほど前だったかその閉鎖が報じられて、取り壊されて巨大な空き地となった。
 1950年代から戦後高度成長期の終わりを象徴するような気分で、東急文化会館の欠けた駅前風景を見ていた。
 そして2012年5月、新ビルが「ヒカリエ」と名づけて開館した。新しもの好きだからさっそく行ってみてきた。

以下全文は→渋谷駅20世紀開発の再開発時代
http://sites.google.com/site/dandysworldg/sibuya20120508

2012/05/06

616端午の節句は原発0記念日そして遂に後期高齢者突入記念日

昨日の5月5日は、大昔から端午の節句であり、4昔弱ほどからはわたしの誕生記念日である。遂に人生初めての後期高齢者に突入した。
 還暦いらいこのところ人生初めてのことちょくちょく起きる。このあと喜寿、傘寿、白寿なんて人生初事件を、もうやりたくないなあ。

 で、昨日は日本原発前面停止の記念日となった。北海道の泊原発が定期点検のために停止して、いまや日本中の電力は核エネルギーに頼っていない状態だそうだ。
 なんでも全発電量の30パーセントが原子力発電所、つまり核分裂エネルギーに頼っている状態だそうだから、それに代わるエネルギー源から電力に変える必要がでてきた。

 ただ、面白いのは、原発も火発もガス発もいずれも、いったん熱エネルギーにしてからそれを運動エネルギーに変えて、さらに電気エネルギーに変えるって面倒な過程を経ないと電力にならないのだそうだ。だからその間にずいぶんロスがあるらしい。
 で、どうだろう、いちばんロスがないのは雷エネルギー利用だろう。雷からいきなり電力を取り入れたらよさそうに思うのだが、できないのかしら。

 原発ゼロ記念日だから、これまでわたしの「まちもり通信」サイトと「伊達の眼鏡」ブログに書いてきた地震津波原発日記の2011年版を編集してブックレットにした。
 題して「福島原発を世界遺産に・地震津波そして原発の日々2011」、わたしの趣味の自家製DTP出版の第14号である。
 引き続いて適当な時期に今年のそれも編集しよう。
●参照「まちもり叢書」
http://homepage2.nifty.com/datey/matimori-sosyo.htm

2012/05/02

615住宅展示場を見て住宅地の風景が貧しいのはここにも原因があるらしいと思った

ゴールデンウィークとて、横浜ご近所探検隊はいつもの散歩コースでご近所観光である。
 MM21から山下公園そして中華街へとふらふらと行けば、なんとまあ大勢がいるもんだと、いまさらに横浜都市観光の成功を見てきた。
 海辺の公園には家族ずれも多いが、面白い格好の若者たちがあふれていて、正しく言えばコスチュームプレイ、つまりコスプレをやっている。
 アニメーションムービー(アニメのこと)の登場人物の格好を真似ているらしいが、そのオリジナルが何かは、TVを見ないわたしにはトンと分らない。
 でもあれこれと仮装大会のようで、見ていると面白い。
 ちょうど今やっている野毛の大道芸イベントに負けない。海辺の公園よりも街の中でやってはいかがか。

 MM21地区にはまだまだ広大な空き地があちこちにあるが、その一方でものすごい密度で開発が進んでいる街区もある。
 超高層の共同住宅ビル群が、隙間なく並んで文字通り林立している有様は、屏風のようだ。街区の人口密度はどれくらいになるだろうか、500人/ヘクタールくらいになっているのだろうか。
 寿町が1000人/ヘクタールだが、あそこは超高層ビルなどはなくてそうなのだからすごい。

 おかしなことにMM21地区のその超高層ビルが立ち並ぶ中に、戸建住宅街がある。といっても人が住んでいない住宅展示場である。
 住宅展示場にはいままで入ったことがなかったが、ちょっと覗いてみてびっくりした。
 びっくりしたのは、戸建住宅という超高価な商品であるから、その展示場は理想的な住宅地の風景をつくって売っているのだろうと思ったのが、まったくその逆であったことだ。

 そこはまるで郊外の安売り店舗街のように、派手な色の幟旗がヒラヒラ、広告板が派手にしゃしゃり出て、いかにも安っぽい風息であった。
 住まいという環境を売っているのだろうと思ったら、住宅建築という物品を売っているのであった。
 だから家の格好ばかりを見せていて、プライバシーはなく、道路から家に直接入るし、庭もない。もちろん隣同士の景観的配慮はなくて、それぞれが妍を競っている。こんなところに住みたくない。
 そのような、家だけは立派だけど周辺環境が実に貧相な住宅地は、日本にはありこちにいくらでもある。
 それはつまり、こんなところで家を買う人は、住宅地とはこういうもんだと思って買うだろうからそうなるのだろう。貧しい風景の原因はここにあったのか。
 違和感を持って展示場の中を歩いたのであった。

 違和感といえば、こんな風景もある。結婚式場らしい。なるほど、結婚式がおもいっきり非日常の出来事としての演出か。
 こういう代物は広大な庭園のなかにあってこそ非日常だろうに、いきなり日常きわまる道端にあるのが、どうも解せない。


2012/04/29

614情けないゴールデンウィーク風景

ただいま世の中はゴールデンウィーク中。で、新聞にはいつものように、人出の写真。
 今朝の朝日新聞1面にそういう写真があるのだが、見てなんだか情けなくなった。
 なんでも東京湾の橋の向こうの千葉県側の海辺に、巨大なショッピングモールができて、そこにわんさかと人が集まってるんだなそうな。

 情けなさその1:貴重な休みをショッピングセンターで過ごすのかい、なんてもったいないことを。

 情けなさその2:わざわざ郊外にできた新しい買い物に行くということは、それだけ街なかが寂れているってことなんだろうなあ。

 情けなさその3:こんなにたくさんの自動車が遠くからやってきて動き回り、なんというエネルギーの無駄遣いか、節電なんて口だけのことかよ。

 情けなさその4:見たところ樹木が一本もないようだ。よくまあ、こんな殺風景なところを作ったもんだ。そしてよくまたこんなところに行きたがるもんだ。駐車場所と店舗の間をテクテクと炎天下を歩くんのかあ、ご苦労さん。

 仕事しない休日が1週間続くことをそういうのなら、自慢じゃないが、わたしなど毎週ゴールデンウィークである。
 自慢じゃないというのは、日常が忙しいと異日常のゴールデンウィークが嬉しいのに、毎週じゃあ面白くも可笑しくもない。
 しかし、こんな情けない、薄ら寒くなる風景に出会うために出かけたくはない。

2012/04/28

613横浜戦後復興の痕跡がまた消えた

 鎌倉から横浜に引っ越してきた10年前の2002年、ご近所探検を始めてうろうろ、裏通りでものすごい蔦の葉の緑に包まれた街並みを発見して興奮した。
 どうやらもう住んでいない公的な賃貸住宅らしい。

 その緑の家のと背中あわせの大通り沿いに、これも汚れがものすごい5階建ての共同住宅が2棟建っている。これも公的な賃貸住宅らしいが、こちらは一階が店舗群となっていて営業している。住宅も空き家が多いが一部に住んでいるらしい。
    
 これらはどうやら戦後の公的な住宅開発として建てられたものらしい。戦後復興遺産としてどう位置づけられているのか興味がわいた。
 発見の次の2003年に、その緑の家は壊されて、倉庫が建った。5階建て共同住宅はまだそのまま。

 それから2年ほどで、共同住宅の北半分が壊されて、2008年には高層の共同住宅ビルに建て替わった。こんどは民間事業者の区分所有型分譲住宅である。

 残りの棟もすぐにたて変わるかと思ったら、どうも入居者ともめているらしく、永らく秋や状態であったが、ついに2012年の春、こちらも民間事業者の分譲型共同住宅がたった。
        
 元の建物は、普通の人が見たらただの汚い古ビルだろうが、わたしには横浜の戦後復興の努力の記念碑のように見えていた。
 ここにあった住宅のことを記録したものはもうないのであろう。誰か戦後復興の研究で、これも記録されているのだろうか。
 戦後復興の時代の痕跡は、東京駅の復原に見るごとく、その評価をされることなく、どんどん消えていく。

●参照→347横浜ご近所再開発
http://datey.blogspot.jp/2010/11/347.html
 

2012/04/25

612空中陋屋からの風景

ここ7階にある空中陋屋に2002年9月から住んでいる。
 バルコニーからの風景が、すこしづつ変わっていく。
 いちばんの邪魔だったのが、日産自動車のビルの屋上広告塔であった。
 真っ赤で、夜はライトアップする。ニッサンの車は買わない乗らないと決めた。

 その広告塔が2011年半ばに撤去されて、せいせいした。

 2012年の今、今度はその広告塔があったビルが撤去された。


 その跡にどんな建物ができるのか、どど~んと巨大な広告塔つき巨大ビルができるのだろうかと、戦々恐々としている。

●参照「まちもり通信」関連ページ横浜・わが家からの眺め」

2012/04/24

611震災ガレキによる森づくりで思い出す

津波の防波堤として、森の長城を「宮脇方式」で海岸沿いに造れという、宮脇昭さんの提言が実現しそうだ。
 震災ガレキを使って防波堤となる20~30m高さの連続盛り土を海岸沿いに築く。
 その上に潜在自然植生の各種郷土種樹木の苗木を、1平米に4、5本も密に植える。
 その苗木は、毎年1mづつほども成長して、やがて森の長城つまり緑の山脈をつくりあげる。これが津波に対抗するというのである。

 どうやらこれが復興政策として実施されるらしいが、これには震災ガレキを埋め、積み上げてよいものかという、廃棄物処理の問題が背後に横たわっているらしい。
 化学的な毒物もあれば、降り注いだ核毒に汚染されているかもしれない。それを選別して一切除けることが可能だろうか、あるいは、ある程度に選別すれば埋め立て利用可能だろうか、というのである。法的な問題もあるらしい。
 現実にはどのようになるのか、わたしには分らないが、ある程度選別すればよいというのが、宮脇さんの考えらしい。
 これが復興政策になったのは、野田首相の一声というかなり政治的な局面かららしく、政府や自治体の施策現場では戸惑いもあるようだが、どうかがんばってもらいたい。

 それで思い出したことがある。1974年にドイツでこれと似たようなことをしてしている現場に行ったのだ。
 宮脇さんと共に行った「ヨーロッパ自然保護・環境創造調査団」の旅で、ハンブルグでの北方郊外でのことである。
 訪ねたそこは、ゴミ処理場のゴミの山であった。案内して説明してくれたのが、市役所の自然保護局の人であった。
 ゴミの焼却は一切しないそうで、ここに埋め立てるのだ。
 
 広い原野の中を市が買い取り、大きな穴を掘る。この穴掘りは、出てくる砂利販売をセットで民間業者にやらせるので、収益になるそうだ。
 この穴に家庭ごみや産業廃棄物を埋めて、更に積み上げて30mくらいの山になっている。その斜面にはブルドーザーが行き来して土をかぶせたり、ゴミを積んだりしている。
 聞けば、ゴミを積んだら次は土を積むというように、ゴミと土で何層も重ねるのだそうだ。こうすれば腐敗は起きないので、現場は臭わなかった。
 最下層のゴミは、水質に影響を及ぼさないものとする。

 そうして30m程度に積みあがった最後は、この土地にもともとあった表土を20~30cmの厚みでかぶせる。この表土はここでの作業のはじめに、あらかじめ剥ぎ取って保存しておいたものである。
 この表土に、この土地の潜在自然植生種の苗木を植える。5年もすれば立派な森になるそうだ。ここではこれから植えるのだが、別のところで、このようにして作った森の小山をいくつも見せられた。レクリエーションの場となっている。

 その調査団の報告書をかねた出版物「緑のヨーロッパ・環境創造への道」(1976年 神奈川新聞社)を引っ張り出してみた。そこにこのような図が載っている。

 この「ゴミ+土+現地の表土+その土地本来の植生」という組み合わせを見て、その後もアウトバーンの緑化でも同じようなこと見たりして、宮脇さんの言うことが現地でよく理解できた旅であった。
 ただし、それがドイツでは一般的になっているかというと、そうでもないことも分ったのは、ドルトムントで同様にして作ったレクリエーション施設で現地側の説明を受けているときに、市民団体の人からからゴミの埋め立てに反対という言葉に出会ったのだった。

 写真はそのときの模様である。右の坊主頭が宮脇さん、その右に白髭のチュクセンさんが見える。チュクセンは宮脇さんの師匠で、潜在自然植生という概念の確立とその応用による国土緑化を進めた人である。
 ドイツとは気候や植生が大きく異なる日本で、その日本流の理論と実践を研究して成果を挙げたのが宮脇さんであった。

 この調査旅行の頃は、宮脇さんのいる横浜国大は建設中で、そこに実験として後に宮脇方式といわれる植栽方式が始まったころであった。それは今は見事な森になっている。
 70年代は日本の公害問題で緑の復権を唱える宮脇さんは引っ張りだこになり、今は東日本大震災で自ら現地へ足を運び提言をして実施へと、傘寿を超えた身で忙しいようだ。
 宮脇さんが活躍しなくてもよい時代が来ることを期待するばかりである。

●参照「まちもり通信」サイト関連ページ
道路緑化の文化史的考「高速道路 成熟へ向かう現代の意志の道」
http://homepage2.nifty.com/datey/dororyokka3.htm

●「伊達の眼鏡」サイト内関連ページ
609森の長城が津波災害を防ぐ
http://datey.blogspot.jp/2012/04/609.html
583イオンの森と津波
http://datey.blogspot.jp/2012/02/583.html
560核毒の森づくりが始まる
http://datey.blogspot.com/2011/12/560.html
479●21世紀の「谷中村」は「核毒の森」
http://datey.blogspot.jp/2011/08/47921.html
001ふるさとの森の大学キャンパス
http://datey.blogspot.com/2008/05/httpwww.html