2012/11/12

688原発事故調報告を読んだアメリカのプロジェクト・マネジメント専門家が論評をくれた

 アメリカ航空宇宙局(NASA)は、月ロケットを飛ばしたアメリカ合衆国(USA)政府の宇宙開発機関であることくらいは、わたしでも知っている。いまどきは子どもでも知っているだろう。
 そこにわたしの大学同期生がいて、そのプロジェクトのマネージメントをやっていた。といっても、わたしには何のことかわからない。

 まあ、あんなものに人間を載せて、月まで送って、また戻ってこさせるには、なみたいていじゃない複雑極まるあれやこれやがあるに違いないから、その運営のマネージメントなんてものは、どえらい幅の広い積み重ねのある多様な技術や多様な人々がかかわっていて、どえらく大変なことだろうと思う。

 
 月に行く途中で故障して、月を回るだけで引き返した失敗のアポロ13号事件のことは、本で読み映画でも見たが、よくまあここまでやったものだと思った。
 それは、月往復の成功のための方法はどんどん積み上げていても、まさかの中途故障の場合の対策はできていないはずなのに、あの超難しい帰還を成功させたのは、そのまさかの「想定外」の場合(Crisis)への対応策があったからだろうかしら、と思ったからだ。

 そこで「福島原発事件」である。まさかの想定外への対応がなかったことが如実になった事件である。これがNASAだったらどうしていたのだろうか。
 そんなところに、冒頭に書いたNASAをリタイアした大竹博氏が、日本の国会と政府とのふたつの原発事故調査委会報告を読んで、その論評をくれた。彼は、プロジェクト・マネジメントの専門家として太平洋をまたいで仕事をしている。

 それらの報告書を読んで、彼は、大きく3つの問題点を指摘する。
(1)RiskとCrisisを管理する問題
(2)Responsibility(直接責任)とAccountability(最終責任)の違いと使い分けの問題
(3)リーダーとリーダーシップの問題
 なお、ここで指摘する問題点とは、原発そのものへの直接的な問題ではなく、事故調査会の報告の態度や内容への問題点であって、日本と欧米との巨大プロジェクトへの対応の違いをみることができる。
 
 ここに掲載したので、読んでほしい。
国会及び政府の原発事故調報告に対する論評  著:大竹 博Ph. D.
http://goo.gl/tNjHV

2012/11/08

687わが故郷の高梁盆地を訪ねた先輩からエッセイ「がんじい備中高梁に寄る」をいただいた

 大学の先輩のわが敬愛する建築家が、わたしの故郷の高梁盆地を訪ねて、エッセイ「がんじい備中高梁に寄る」を書いて送ってくださいました。
 この著者・松吉利記さん、つまり「がんじい」さんは、わたくしと同じ横浜市内に住んでいらして、松江市が故郷だそうです。
 その松江に法事にいらっしゃるとて、久しぶりに列車で行くから、途中で高梁に寄ってみたいとおっしゃるのです。
  わたくしは大喜びで、あれこれと訪問していただきたいところなどを、地図に書き込んで差し上げたのでした。
 故郷を出てしまったわたくしでも、たまに故郷を訪ねると、やはり内なる眼で見るのですが、いただいたエッセイを読むと、なるほど余所者の眼ではこうなるのかと面白いのです。
 暖かい心のこもった内容とともに、まことに興味ある書きぶりなので、ご了解を得てここに掲載をしました。

●松吉利記氏エッセイ全文がんじい備中高梁に寄る
https://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/ganji
●参考⇒故郷高梁盆地の風景
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#hurusato

2012/11/04

686世阿弥元清の眠くなる能と小次郎信光の面白くなる能の競演を見た

 横浜能楽堂で、能「砧」(世阿弥作)と「玉井」(観世小次郎信光作)を観た。
 能のスーパースターの世阿弥(観世元清)は1443年没、小次郎信光は1516年没だから、70年ほどの活躍の時代差がある。
 世阿弥が完成させたいわゆる幽玄なる能、早く言えば見ていて眠たくなる能に対して、信光の能は面白能、要するにスペクタクル能である。道成寺、紅葉狩、安宅などである。

 多分、戦国時代のおエライ能スポンサーたちが、言ったに違いない。
「世阿弥の能は眠くなって困る、もっと面白いものをつくれ」
 横浜能楽堂の企画は、その両方の代表作を一日のうちに並べて演じさせようというのであるから面白い。

 わたしが昨日見たのが、その2回目の企画公演で、「砧」も「玉井」も浅見真州のシテであった。シテ方の出演の顔ぶれは銕仙会のメンバーであった。
 青山の銕仙会には20年も前から何度も見に行っていたから、久しぶりに見た地謡座のあの人この人の年とった顔つきにびっくり、それはすなわちわたしのことでもあるんだよなあ、、。
             ◆◆
 で、まず眠くなるほうの「砧」である。
 実は眠くならなかった。前場がよかった。
 砧は何度か見たことがある。この能はある部分の詞章もメロディーも実に美しいのはよいが、ストーリーにどうも難があると、わたしは思う。

 前場の見せ場は砧を打つところだろうが、まずそのきっかけがおかしい。
 シテの女性が「聞こえてくるあの音はなんだろうか」と、都から戻ったばかりの侍女に聞くと、それは砧を打っている音であると答えるのだ。
 でも、おかしいよ、だって自分の家で聞いているのだし、砧を打つなんての日常的な音だから、今日初めて聞いた音のはずがない。なのに、それを知らないなんてねえ。

 下々の仕事である砧を打つ作業を、豪族?の妻が福岡県にいながらやることで、京都にいる夫にその音を聞かせて、郷愁を誘って帰ってこさせようという作戦だが、なんでそういうことをするかというと、中国での故事に倣っているのである。
 だから、あらかじめその故事を知っていないと、なんのことやら分からない。

 まあ、能は源氏物語や平家物語を知っていないと何のことやら分からない演目が多いのだが、中国のその故事までも知っていろというのは無理がある。
 わたしは何回か「砧」を見たからそれを知っている。だから前場がよかったと言えるのである。でないと眠いだけである。

 後場にも、わたしには腑に落ちないところがある。
 妻が死んだ後に戻ってきた夫が供養の席を設けるのだが、そこに妻が亡霊となって出てくる。蒼白な顔(痩せ女面)で、長々と恨みの言葉をうたい、ほったらかしにした夫に詰め寄って非難する。
「君、いかなれば旅枕、夜寒の衣うつつとも、夢ともせめてなど、思い知らずや恨めしや」
 地謡が厳しく盛り上がってきた。

 さて夫はどうこれにこたえるかと見ると、持っている数珠をちょっとあげるだけである。すると突然に地謡が調子を変えてこう謡う。
「法華の読誦の力にて、幽霊まさに成仏の、道明らかになりにけり、、」
 幽霊はよろよろしざってたちあがり、しずかに引き下がってしまうのだ。
 そりゃないでしょ、そんなに簡単に成仏してたまるもんか、と、今回も思ったのであった。肩すかしジャン。この能の終わり方が嫌いである。安易である。抹香くさい。

 立場は反対だが、能「清経」の妻が幽霊の夫に、勝手に自死したのを非難して迫るのを思い出した。この幽霊は悲しむ妻をおきざりにして突然成仏してしまう。
 どうも勝手な話なので、能「清経」は面白い演目なのだが、せっかく盛り上がった最後のところで、ひょいと肩すかしとなるのが嫌いである。
             ◆◆
 さて次は小次郎信光の面白能「玉井」(たまのい)である。
 これは小さいときに絵本で読んだことが海幸彦と山幸彦の物語である。
 もともとは古事記・日本書紀に出てくる話らしいが、今どきの子供はこんな物語を読んでいるのだろうか。

 まあ、ストーリーはどうでもよろしい、いろいろな扮装の役者がおおぜい出てきて(26人)、いろいろな演技をしてみせ、いろいろ謡い、囃子もいろいろあって、見て楽しいが、それだけの能である。
 小書きが狂言のための「貝づくし」で、アイ狂言で山本東次郎家が一家そろって出演した。6人もそろえることができるのだから偉いものである。
 その全部が狂言面を付けていたのも珍しい。

 シテが後場の後半にしか登場しないのも珍しい。
 それに対して、ワキは最初から最後まで出ずっぱりである。海幸彦のワキが、ワキツレ二人を連れて登場するのだが、もともとは彼がこの物語の主人公であるはずだのに、どうも役のしどころがないのはつまらないし、ワキに気の毒だ。
 こんな見世物づくしの能なのだから、なにかワキにも面白い演技をさせる演出をしてほしいものだ。
             ◆◆
横浜能楽堂企画公演 美の世阿弥 華の信光 2012年11月3日
●能「砧」(観世流)
シテ(蘆屋の妻・妻の霊)浅見真州、ツレ(夕霧)北浪貴裕
ワキ(蘆屋某)森常好、ワキツレ(従者)森常太郎、アイ(下人)山本泰太郎
笛:一噌隆之、小鼓:飯田清一、大鼓:亀井広忠、太鼓:小寺佐七
後見:小早川修, 浅見慈一
地謡:観世銕之丞,浅井文義,柴田稔,馬野正基,長山桂三,谷本健吾,安藤貴康,青木健一
             ◆◆
能「玉井 貝尽
シテ(海神の宮主)浅見真州、ツレ(豊玉姫)片山九郎右衞門、ツレ(玉依姫)味方 玄
ワキ(彦火々出見尊)森 常好、ワキツレ(従者)森常太郎、則久英志、
アイ(文蛤の精)山本東次郎、(鮑の精)山本則俊、(蛤の精)山本凛太郎、(赤貝の精)山本則孝、(法螺貝の精)山本則重、(栄螺の精)山本則秀、
笛:一噌隆之、小鼓:飯田清一、大鼓:亀井広忠、太鼓:小寺真佐人
後見:観世銕之丞、谷本健吾
地謡:浅井文義、清水寛二、西村高夫、岡田麗史、安藤貴康、青木健一、小早川泰照、観世淳夫

2012/11/03

685衆人環視の駅前歩道で突然に転んでしまってもう歳だなあと思うばかりの秋の夜

 徘徊老人には、今は徘徊に絶好の気持ちの良い秋の夜である。
 今夜は横浜は桜木町駅前あたり、ミーハー好みの美しい海辺の夜景の中を、わたしは能楽見物帰りで気分よく、さっそうと姿勢よく歩いているつもりであった。

 突然、グラッ、つま先がなにかに引っ掛かった、オットットット~、前のめりに上体が崩れ落ちてゆく。
 体勢をカバーしようと、両腕を伸ばして地面につけて支えたが、右手は握っているカメラを保護するべく、手の甲の側をついてしまった。でもそれじゃあグニャリと曲がって支える力にならない。
 脚も当然出ておるはずだが、これがもうまったく機敏でなくて、ヨタヨタと遅いのである。おい、なんだよこの脚は、と思いつつも出てこないのである、ああ、昔と違うなあ。
 なんだかスローモーション撮影実演をしているなあ、と、思えども止まらない。

 そしてドタ~ン、見事に歩道に伏せて転んだ。
 せっかく右手で上向きに支えてたカメラが外れてガチャン、カバンから何か飛び出してガチャン、あ、これは電子辞書だ。
 
 右手がアイテテ、右膝もアイテテ、、。

 道行く人たちが口々に「大丈夫ですか」と言ってくださるが、特に止まって起こして下さるようすもない。
 初心者とはいえわたしは後期高齢者なのだが、あたりはもう暗いし、赤い帽子をかぶり、真っ黒なフリースを着ていて、そうは見えなかったのであろう。ま、ガタイもでかいし、。
 こちらも恥ずかしいから、そそくさと起き上がる。カメラと電子辞書を拾う。

「は~い、ありがとう、大丈夫です、、、タブン、、」と、右手と右ひざの痛さをこらえ、びっこひきつつ強がりを言う。
「ダイジョウブデスカ」って、コーカソイド系のおじさんが言ってくれるので、「サンキュウ、イッツオーケイ、メイビー、」なんて。

 あれはもう15年も前であったか、長崎市中の繁華街で転んだことがある。石で舗装してあるのになぜ転んだか、わずかに舗石に高さの差があったらしく、それにひかっかかった。今回もどうやらそうらしい。
 どうも歳とると歩くときに足を上げないで、地面を擦るように歩いているらしいのだ。だから1ミリの突起でもひっかっかる。
 引っかかって前によろけたら、脚が姿勢をカバーして身体よりも前に出るはずだが、もうこれがてんで出なくなってるんですねえ、ナサケナイ。

 これはちょっと休むほうがよいなと、まことに都合のよい理由ができたので飲み屋に入った。
 右手がちょっとおかしい。コップ酒をついつい左手で握る。箸を持って肴をつまむところまでは何とかよいが、口に運ぼうと曲げるのが苦しい。
 家に帰って風呂に入るとき、右ひざ小僧を見たら、ズボンは何ともないのに、まるで小学生が転んだように、擦り傷であった。これは長崎でもそうだったが、なんだか懐かしい傷ぶりである。

 この文章は、まあ普通に両手の指で打っている。
 さて、明日の朝は忘れているだろうか。

(追記2012.11.06)
 たいしていたくもないが、どうもある方向は力は入らないし、曲げにくいし、ちょっと腫れている感じもあるので、今朝、近くの整形外科に行った。
 X線写真を撮ったのをみて医師が言う。骨が折れてはいないが、ひびが入っている可能性がある、特に手首の一部を押すと痛いのはその証拠だ。
 で、そのままだと痛みが2,3カ月続くから、ギブスで固定する。ただし、右手なのでそのままだと不自由なので、取り外し型にして、ギブスがあると困るとき、たとえば飯、風呂では外すのだ。
 ギブスを肯定するための包帯を巻くと、右手が重傷に見える。

参照→
http://datey.blogspot.jp/2012/11/690.html


 

2012/11/01

684東京駅復原出戻り譚(その5)東京駅ライトアップは昔からやってたのに急にミーハーで賑わう丸の内


 なんだか東京駅あたりの丸の内が、近頃は休日も夜もにぎやからしい。
 昔は(年寄りはすぐこう言う)丸の内なんて夜は暗いし、休日はガラ~ンとしてさびしかったものだ。
 1988年に4省庁の東京駅周辺再開発レポートを出した八十島委員会での討議でも(わたしはその作業班メンバーだった)、丸の内に百貨店などを誘致してにぎわいをもたらすべきだという意見が出されていた。
 それから四半世紀後の今、こんなににぎやかになるとは、世の中は変わったものだ、と、歳よりは慨嘆というか感嘆というか、ホーッと息を吐くのである。

 噂だけではつまらない、さっそく夜の東京駅に出かけてみると、いるはいるは、お上りさんばかり、という形容はもう古いが、近くからも遠くからもミーちゃんハーちゃんがやってきて、駅の中も駅前広場もウロウロとケータイをカメラにして振り回しているのであった。
 つまり、わたしも今夜はその一人になったのである。

 ふ~ん、赤レンガ東京駅はこうなる前からライトアップしていたのに、そのころはたいして見向きもされなかった。今やディズニーランド並みである。
 前もディズニーランド風ではあったが、復元してますます磨きがかかって、こういうのをディズニーランダイゼイションというのだな、よくわかったよ。
 丸ビルも新丸ビルも東京駅も、中はまるでデパートというか、飲み屋街というか、現代版路地裏というか、たまたま土曜日だったからか、わんさと人がいて飲み食いしている。

 丸ビルから撮った昔の東京駅夜景写真を、同じアングルで今と比べてみたら、今は巨大背後霊をいっぱい従えている。そのなかのひとつは東京駅自身の身売り先であるな。

 これは只今の東京駅夜景。

こちらは2005年の夜景。

 その丸の内側の身売り先のひとつである新丸ビルからの夜景。

 駅前の二つの老舗の中央郵便局と丸ビルも、お化粧なおし山高帽子かぶり再登場。ウゥ~イ、ヒック、酔眼になってきた。



●参照→ 東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/10/31

683東京築地市場はいまや観光名所で超高層建築群も迫るから移転したら跡はどうなる

20年ぶりくらいだろうか、築地市場を訪ねた。
市場が目的ではなく、そばの朝日新聞社が経営する浜離宮ホールでの音楽公演に行ったのだが、早く着きすぎたので昼飯を食おうかと行ってみた。
 それにしても、立地からいうと「浜離宮」ホールというよりも「築地市場」ホールのほうが正しいだろうが、それじゃあ文化イメージが違うのか。

  
 以前に来た時と違ったイメージは、場外に観光客がおおぜいいるということである。
 外国人もおおぜい、若い男女や家族連れおおぜいいて、すし屋の前に行列を作って待っている。表に書いてある値段を見ると、安くても1200円で2000円以上が普通、これじゃあ懐具合とともに行列嫌いのわたしは飯を食うところがない。
 いや、なくもないが、蕎麦、ラーメン、丼ではしょうがない。結局は握り飯を買って公園で食った。


 観光客相手のお土産店もあり、はんてんや長靴などにキャラクターの絵を描いた市場グッズを売っているし、グルメ関係の本ばかりの書店もある。
 有名な寿司店らしいところは大混雑であるが、観光客が用のない路地はひっそり。そんなところには、市場に必要な梱包材や刃物、雑貨類の店が並んでいる。
それはそれで面白い新ものがありそうだが、そこまでわたしはマニアではない。
 場外はにぎやかだが、本場のほうは真昼だからすでに閉店していて、ひっそり。朝はどんなにか騒がしいところだろうかと想像しながら、魚臭い路地をあるく。
 
 敷地の外か内かわからないが、二つの神社がある。ひとつは「水神社」、もう一つは「波除稲荷」で、どちらも魚河岸らしい水にまつわる神社である。


 築地市場は豊洲に移転するしないでなんだかごちゃごちゃやってきたが、結局はどうなったのだろうか。もしも移転したら、神社も一緒に行くのだろうか。
 それとも神社は往々にして土地に居ついているものだから、やはりここに残るのだろうか。
 でも、市場関係者が氏子だろうから、ここに残ると氏子がいなくなって維持できなくなるだろうから、一緒に移るのかもしれない。

 市場が移転したら跡地はどうなるのだろうか。浜離宮ホールから市場のほうを眺めると、向こうから超高層建築群が迫ってきている。もちろん、こちらからも迫ってきている。
 さすが東京は開発ポテンシャルがあるから、ここにも似たような超高層建築が立ち並ぶ街になるのだろう。

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伊達美徳=まちもり散人
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2012/10/30

682越後の棚田天日干し新米と地元産野菜のお得なセットはいかがですか?

今年も棚田の新米ができた。今が一番うまい。
 2004年に中越震災復興支援で入って、2006年から耕作放棄田で毎年の米つくり、山村の棚田の米がうまいのは、深い雪が融けて土にしみ込んだ水のせいらしい。
 特に冷めたごはんがうまいので、握り飯が楽しみとなる。
 うまいはず、この棚田のあるところは、魚沼産コシヒカリとブランド名をつけることができる地域の境界から50mほどである。
 その棚田の新米と集落産の野菜を、わたしも出資する現地法人「株式会社 法末天神囃子」が販売中です。
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 越後の天日干し棚田米と地元産野菜のお得なセットです
 小国町の山間地にある法末集落は棚田に囲まれた村です。
 雪解けの湧き水と標高300mの高地が美味しいお米を育てます。
 そのコシヒカリを自然の太陽の恵みの天日で干して、香りと甘味のあるお米に仕上げました。
 黒姫山と米山を望む棚田で育てられたコシヒカリを、暮れのご挨拶にいかがですか。

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 プレミアム棚田米(天日干し)5kg+地元産野菜(1,000円相当) 
[セット2] 3,000円(送料込)
 プレミアム棚田米(天日干し)3kg+地元産野菜(500円相当) 
[セット3] 3,000円(送料込)
 美味棚田米(機械乾燥)5kg+地元産野菜(500円相当) 

●お問合せ・ご注文は下記まで
株式会社 法末天神囃子  販売担当 宮田裕介
電話:0258-95-3125 メールアドレス:miyata@h-tenjin.com
=========================

●参照
法末集落へようこそ
https://sites.google.com/site/hossuey/
株式会社法末天神囃子
http://blog.h-tenjin.com/
https://sites.google.com/site/tenjinbayashi/
法末の四季
http://homepage2.nifty.com/datey/hosse/hosse-index.htm

2012/10/29

681東電売春女性殺害事件から東電福島原発事故核毒拡散人身傷害財産侵犯事件へ

 このところ新聞に騒がしいのは(TVは見ないから知らないが同じだろう)、ネパール人が無実の罪で15年も検察に拘束されたって事件ですね。
 お気の毒でありましたが、わたしの興味はそこじゃあない。

 記事の見出しが「東京電力女性社員殺害事件」と書いてあって、どうやら、東京電力会社の務めていた女性が、渋谷で売春中に殺されたらしいのですな。
 へえ~、「売春婦殺人事件」じゃなくて、被害者の仕事先の東京電力を事件の名称としてわざわざ書いてあるということは、被害者は東京電力会社の仕事として売春をしていたって、そういうことなんでしょうな。
 そうに違いない。
 そうでなければ、いちいち東電、東電と書く理由がわからない。

 毎日毎日、殺人事件が起きてますが、その被害者の勤め先を書いていることは、あんまり見ませんな。
 このところ、尼崎でおおぜいが殺されている事件があるけど、これを書くにあたって死人の勤め先を書いてあるかと見たら、全然ないのは偶然みんな無職だったのかしら。
 もしも、わたしが仕事してた頃に殺されたら、「伊達計画文化研究所男性社長殺害事件」と新聞は書いてくれたのでしょうね、きっと。

 さてあの事件から14年後に、東電は大事件を引き起こしましたな。
 言わずと知れた福島原発事故ですよ。
 だのに新聞は、なぜ「東電核毒事件」、つまり「東電福島原発事故核毒拡散人身傷害財産侵犯事件」と書かないのだろうか。

 渋谷での売春は東電が会社としてやったのだが、福島での原発事故は東電が会社としてやったではないと、日本のジャーナリズムは言っているのでしょうね。
「東電売春殺害事件」なんてアホラシくて新聞見出しだけしか読まないし、TVも見ないからよくわからない。

 だけど、庶民はそう思いますが、どうなんでしょうか?

2012/10/24

680中越山村の美しい風景には柏崎刈羽原発からの死の灰の脅威が潜んでいた

熊五郎 やあ、ご隠居、元気かい。
ご隠居 ああ、熊さん、おまえはいつもうるさいね。
 え、珍しくご機嫌ななめですね。
 熊さんにあたってもしょうがないけど、ちょっと、聞いとくれ。まずこの写真をご覧よ。
 おお、いい景色だなあ、これ見て不機嫌なんて、ご隠居もモウロクしたね。
 そうじゃないよ、これは私がもう7年も通っている新潟県の山村だよ。
 ああ、いつもご自慢の法末集落でしょ。棚田の米がうまい、人情が厚い、四季の風景が美しいってね。
 そうだよ、いまはちょうど新米ができたてて、毎日3食とも美味い飯を食ってて、生きててよかったと思ってるんだよ。
 いいねえ、それなのに何で不機嫌なんです?
 じゃあね、これをご覧よ。

 地図ですかい、なになに、「柏崎刈羽原発事故で放射性物質が拡散した場合に避難すべき量が落下する方位別の原発からの距離」って、なんです、こりゃ?
 今日(2012年10月24日)、原子力規制委員会が日本の各地の原発事故によるシミュレーションを発表したんだけどね、その法末集落が避難するべき位置にあるんだよ。
 この赤い印のところが法末ですか、で、なんで避難するんです?
 それがだな、緑の線があるだろ、風向きのせいで、その線から原発に近い側は「国際的な避難基準である1週間の積算の被ばく量が100ミリシーベルトに達する地点」なんだそうだよ。
 それがどうしたんです?
 早く言えば、そこには核毒の死の灰が死ぬほど降り積もるってんだな。
 ウワッ、ブルブルッ、そうなりゃ美味い米も篤い人情も美しい景色もあったもんじゃない、なにもかも放り出して逃げるに限るってことになっちゃうんだ。
 そうだよ、わたしが通ってる自慢の村がそうなるなんて、不機嫌なわけがわかるだろ。まあ、この写真をご覧よ。
 ウワッ、冬の雪ですね。
 そう、4メートルも積もるんだ、今見えてるのは2階だよ、こうやって出入りするんだ。
 ってことは、もしも冬に原発事故あると、こんなふうに死の灰が積もったのが目に見えるんですね。
 これが毎日降ってくるから毎日雪堀りしなきゃ、閉じ込められて出られなくなるし、家がつぶれるんだな。でも、雪堀りすると死の灰を浴びてしまう、どっちにしても死ぬんだな。
 でも、まあ、明日や明後日にあるわけじゃなし。
 いや、いつ起きるかだれもわからないよ、福島の人たちだってそうだったんだから。
 そうですねえ、こわいこわい、ご隠居、こうなりゃ法末に通うよりも、国会議事堂や首相官邸周辺に通って、原発反対デモするんですね。
 国会デモには7月に一度行ったきりだが、またいかなきゃならないね。
 今度はあたしも連れてってくださいよ。 デモにも法末にも。
 こうやって自分の身近なことになって初めて目が覚めるんもんだね、なさけないけど。

(訂正:2012年10月29日に原子力規制員会が、24日発表の資料の訂正を発表したので、地図を差し替えた。どちらにしても法末は危ない地域である)
参照⇒原子力規制委員会の発表
http://www.nsr.go.jp/committee/kisei/20121024.html

2012/10/21

679東京駅復原出戻り譚(その4)戦災復興東京駅は世の噂のように本当に仮の仕事だったのか

 東京駅の赤レンガ駅舎は、1945年5月に空爆によって炎上して、残ったのはレンガ壁とコンクリートの床だけになった。
 その壁と床を再利用して再建したのが1947年の「復興」東京駅で、2007年まで62年間を姿を見せていたであった。
 1914年の「創建」東京駅が姿を見せていた1945年までは32年間だから、「復興」東京駅のほうが寿命は長かった。
 そして2012年10月、こんどは「復旧」東京駅が姿を現した。創建時の旧の姿に戻ったのだから「復旧」なのである。また新たな東京駅の歴史が始まった。

 ところで、今回の復原というか復元というか復旧というか、その姿を現した東京駅赤レンガ駅舎を、なぜ戦災前の姿にしたかという理由について、世にこんな噂が流れている。
 それは、戦災後の復興東京駅は、金がなくて元の姿に復旧することができなかったので、とりあえず使えるように応急措置として作り、そのあと本格的に建てる予定で、2、3年も保てばよいような全くの仮の仕事の建物であったからだ、というのである。

 まったくの仮のものという人は、敗戦後の焼け野原の東京に累々として出現した、そこらあたりのありあわせの材料を使って造ったバラック建築と同じだと言いたいのだろう。
 ではそのバラック建築であったと言われる「復興東京駅」を、いま姿を現した「復旧東京駅」と、ちょっと比べてみよう。

 一般に良く見えるもっとも大きな違いは、南北二つのドームの外観と内観、そして外壁である。
  南と北のドームについて、復興と復旧両東京駅の風景を比較する。
 まずは外観、これらを見てどれほどの違いがあるか、わかるだろうか。

これは戦後復興東京駅(2004年撮影)

これは今回の復旧東京駅(2012年撮影)

 そう、復旧東京駅は丸頭、復興東京駅は台形頭である。復興東京駅が仮の仕事なら、切妻の3寸勾配のトタン屋根でもよかったろうに、なぜこんなに巨大な台形ドームを造る必要があったのか。

 当時の東京駅復興の工事現場で設計と工事管理のトップとして采配を振るっていた、鉄道省の建築家である松本延太郎(1910~2002)が書いた「東京駅戦災復興工事の思い出」(1991年自費出版)という本がある。
 そこに松本の上司であった建築課長の伊藤滋(1898~1971)が、ドームの根元は8角形、上に行くと4角形になるドームをつくることを指示したことが記されている。高さは戦前のドームと同じである。
 これは決して仮の姿ではない。

 ドームの中の天井デザインを比較してみる。
 これは戦後復興東京駅のドーム天井(2003年撮影)

これは今回復旧東京駅のドーム天井(2012年撮影)

 今あらわれた復旧東京駅のドームは、華やかな西洋宮殿風に見えるが、よく見ると上部では和風建築の折り上げ格天井をモチーフとしていることも分かって、その折衷ぶりが面白い。
 これに対して戦後の復興東京駅の天井は、まるでローマのパンテオンをベースにして、モダンデザインを展開したように見える。
 これは戦争終結で生産が止まった飛行機工場に残った、戦闘機の材料のジュラルミンを成形したのだそうである。

 このデザインは、上記の松本の本によれば、工事現場で設計監理を担当していた鉄道省の建築家たち12人がデザインコンペをして、今村三郎の案が採用されたとある。
 仮の仕事なら真っ平らに天井を張ってもよさそうなものだったのに、この頑張りはいったい何なのだろうか。

 外壁をみよう。戦後の復興東京駅は2階建て、今回の復旧東京駅は3階建てである。
これは戦後復興東京駅(2006年撮影)
 
これは今回の復旧東京駅

 戦後復興の工事のときに、3階の屋根と壁を取り壊して2階建てにしたので、レンガ外壁についている装飾付け柱(ピラスター)も上部をちょん切られて、柱頭部には何も飾りはないはずだが、上の写真をよく見ると、柱頭飾りがある。
 仮の仕事ならちょん切られたままでもよさそうなものを、わざわざ3階にあったと同じ柱頭を付けて、柱には短くなってもバランス良いように膨らみ(エンタシス)もつけ直したそうである。丁寧な左官仕事であった。まったくもってご苦労なことである。

 だが、さすがに裏側(東側)までは手が回らなかったと見えて、こちらはのっぺらぽうの赤ペンキ塗りであった。これならまさに仮の仕事といえる。西側外壁にいかに力を入れたかよくわかる。
         
戦後復興東京駅の東側の風景(1987年撮影)

 ほかにもいろいろとデザインと工事の苦労を書いている。
 日本が疲弊しきっていた当時、鉄道省の仕事だからこそできたのだろうが、鉄道を使って資材を全国から集め、戦争から本来の仕事に戻った鉄道省建築家たちの努力に頭が下がる。
 この本をどう読んでも、そしてできあがった戦災復興東京駅をどう見ても、それは仮の仕事ではなかったと、断言できる。

 JR東日本や建築界の方々は、辰野金吾にばかり目を向けず、鉄道省の伊藤滋(復旧東京駅づくりの音頭をとった同姓同名の都市計画家と混同しないように)や松本延太郎たちにも、しっかりと目を向けてはいかがですか。
 特にJR東日本の建築家の方たちは、ご自分の先輩たちに、もっと敬意を表してはいかがですか。

 わたしは復旧東京駅の出現を怪しからんとか残念に思っているのではなく、新たな歴史が始まったことに興味津々なのである。
 だが、あの復興東京駅への評価が、あれは進駐軍に命令されてやった仮の仕事だ、としてさげすむのが、わたしは気に食わないのである。
 まるで日本国憲法への右のほうからの言い分みたいである。

 さて、復旧東京駅を、これから建築や都市関係専門家たちがどう評価し、社会人文系の専門家たちがどう評価するか、楽しみである。        

●参照
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)