2011/08/31

487大丈夫か横浜都計審

 横浜市都市計画審議会の傍聴に行った(2011年8月31日)。
 今回の議事には市街地再開発事業の都市計画という、じつに高度にして複雑な案件があったので、委員がどうこれに対応するか興味があったのだ。
 もう少し意地悪に言えば、はたして実質的な審議ができる能力が、今の委員にあるのだろうか、議案の内容よりも委員の議事への態度を傍聴に行ったのであった。
 結論から言えば、再開発事業の都市計画に関しては、どなたも何にもご存じないらしかった。素人談義でさえもなかった、といってよいだろう。

 再開発事業の都市計画に関する議案を審議するには、都市計画審議会は次のような視点を持たねかればならない。
 まず、事業権利者や事業地区周辺住民等への対応で計画策定過程で適正な手続きをしてきているか、都市環境を大きく改変するこの再開発事業が都市計画として適正であるか、そして事業の早期実現性から見てこの都市計画は適正であるかの、3点である。

 この案件での発言は、21人中4人が7件、しかし実質的な内容にかかわる発言は、たったの一件であった。肝心の事業の実現性にかかる発言はまったくなし。
 計画内容に特に大問題があるとは思えないが、内容が複雑多岐にわたっているし、反対の意見書提出や公述が多くあったのに、審議会がこの程度の審議でよいのだろうか、と、つくづく思った。
●この全文はこちら
 http://sites.google.com/site/matimorig2x/110831yokohama-tokeisin

●関連→あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている
http://sites.google.com/site/matimorig2x/tokeisin

2011/08/30

486世界遺産帝国主義論!?!

 文化庁は近いうちに、鎌倉は富士山と一緒に世界文化遺産登録の推薦書をユネスコに出して、審査を受ける段取りに入るそうだ。
 鎌倉は日本の世界遺産登録の最初の推薦暫定リストに入ったのだが、いまだに本推薦に入れない状態にある。それはどうしてかはここでは書かない。
 
 世界文化遺産はコアとなる施設やエリアが登録対象資産となるが、その周辺地区を登録資産と調和する景観域(バッファーゾーン)として設定することが求められる。
 分かりやすく言えばバッファゾーンには超高層ビルとか真っ赤な看板とかは禁止である。
 鎌倉市のいわゆる旧鎌倉と呼ばれるエリア内に登録候補資産はあり、バッファゾーンは旧鎌倉エリアのほとんどとなる。

 さて、そのバッファーゾーンに「元治苑」という邸宅がある。そこには立派な庭園があり、移築してきた江戸時代の茅葺屋根民家がある。
 そしてお決まりのように、ここを住宅開発事業者が買って、分譲共同住宅(いわゆるマンション)を建てることになった。
 そしてまたお決まりのように、近隣住民たちから反対運動がおきた。

 わたしは詳しいことは分からないが、反対運動の理由はこうらしい。
 まず、世界遺産登録候補資産のバッファーゾーンに共同住宅に建てることは、世界遺産登録を目指すまちづくりにはふさわしくない。
 そして、歴史的建築物と庭園を調査をきちんとして評価し、歴史的な施設として保存するべきである。
 そしてまた、地中には鎌倉幕府の遺跡がある可能性が高いので、その調査をして遺跡保存するべきである。
 
 鎌倉にお住まいのジャーナリストの知人から、この件についてアンケートで回答を求められたので、回答した。
 その方のブログにわたしの回答が載せられている。
  http://blog.livedoor.jp/kikurotakagi/archives/3503280.html
 そしてほんの少しだが反論があった。
  http://blog.livedoor.jp/kikurotakagi/archives/3506583.html

「世界遺産帝国主義」なる刺激的にも読める言葉をあえて使ったので、反論がものすごくあると期待したのだが、それほどでもなくて、期待はずれだった。
 世界遺産帝国主義でなにが悪いって、そんな反論をわたしが書きたい。

 わたしはレーニンも秋水も読んだことはないのだが、「**帝国主義」なる言葉は、社会学者の上野千鶴子が建築家の山本理顕のことを「空間帝国主義者」と言ったのを読んで、なるほどこれは面白いと、適当に応用しているのだ。**原理主義も使える。
 そういえば、世界遺産登録ってのは、どこか西欧による文化帝国主義の臭いがする。

●参照→景観帝国主義
  http://datey.blogspot.com/2009/01/blog-post_30.html
 鎌倉の世界遺産
  http://datey.blogspot.com/2009/12/210.html
 世界遺産談義
  http://homepage2.nifty.com/datey/kamakura-sekaiisan2010.htm

2011/08/28

485言いにくいことを言って辞める菅さん

 政治家も、行政マンも、そして多分もっとも痛切に住民さえもが、そう、だれかれもがそう思っている、そう思うしかないのだが、どうにも言いにくいことがある。
 それは福島第1原発の周辺地域は、もう人間の場ではなくなったことである。
 しっかりと核毒が降り積もっていて、これを解毒もできないし、どこかに持っていくこともできないのだから、当然のことである。

 そしてまたもうひとつの言いにくいことだが、原発周辺地域を越えて広く薄く降り積もった核毒まじりの土砂や瓦礫などを持って行って置いておくのは、この人間の場でなくなったところしかない。核毒を振りまいた東電が引き取るのである。
 そう、これをわたしは「核毒の森」と言うのである。http://datey.blogspot.com/2011/08/47921.html

 ところが、ついにそれを公言してしまったのが、首相の菅さんである。
 昨日(201年8月27日)、管首相は福島県知事と会談して、原発周辺では長期間住めない地域が生じること、県内に放射能汚染の土壌や瓦礫を中間貯蔵する場所を作りたいと、伝えたと新聞の報道である。そして怒る福島県に謝ったそうだ。

 これは実は誰もがわかっていて、実に言いにくいことだが、誰かがいつか言わねばならないことだ。それもできるだけ早期に。
 菅さんの次の首相に言わせて、彼は逃げてもよさそうだが、あえて言ったのであろうか。
 もしかして次の候補者たちが原発にはあいまいな態度なので、ここで言っておかなければなるまいと奮起したのか。辞任の置き土産だろう。

 菅さんの言葉は、長期間住めないとか、中間貯蔵とか、時間と空間をあいまいにして言っているが、はっきり言って人間の場ではなくなるのは明白だろう。
 そんな汚れきったところで誰が働き、だれが暮らしたいと思うのだろうか。フクシマ「核毒の森」にならざるを得ないと、だれもが思っているに違いない。

 そもそも東京電力が発した毒物であるから、原因者の東電が回収するのが当然のことだろう。
 こういうときに首相の菅さんが登場して謝り、どうして東電の社長が出てきて謝罪と核毒回収を言わないのか不思議である。政府は東電の手先か。
 そりゃ東電だけでは解決できない政治的な問題となっていることは確かだが、それにしても不思議きわまることである。モラルハザードの典型のような気がする。

 受益圏と受苦圏という考え方が、環境社会学の世界であるそうだ。
 事故以前の福島は、原発受益権だったのか、それとも受苦圏だったのか?
 今まさに福島が受苦圏になったことの社会的な意味はどうなんだろうか?
 一般に原発の受益圏、受苦圏はどう考えるのだろうか?
 この受益圏と受苦圏について、もう少し考えてみたい。

2011/08/27

484女性マラソンの風景

 KOREAのテグで開催されている国際大会らしい、TV中継の女性マラソン競技を見た。
 スポーツ競技をTVで見ることはないが、マラソンだけが例外である。
 といっても競技には興味がなくて、その背景に映る町並みを見たのである。
 うるさい音を消して見ていると面白いのだが、突然に変な画面になる。邪魔な広告である。
 ふん、こちとらは邪魔が入ると、TV画面から新聞に目を移して読むのだ。
 はじめのうちは邪魔広告が多かったが、終わりのあたりから少なくなったのは、ちょっとは広告の入れ方を考えているらしい。
 邪魔といえば、しばしばあられもないアマゾネス群が画面を占めるのだが、まあ、これは仕方ない。
 
 テグの街は、メインストリートらしいから、並木が整い、広い歩道で、高層ビルが諸所に見える。
 見慣れた普通の現代風の姿で、はっきり言って、つまらない風景だった。建築デザインも普通だった。
 どの店舗にも壁面に大きな文字広告があるのが、目に付いたくらいのものであるが、読めないから分からない。
 ところどころに横に入る道が見えて、そちらの方が面白そうだが、もちろんカメラは曲がらない。
 
 テープを切ったアスリートは、アフリカ系のようだった。
 マラソン女性たちを見ていて、一様に乳房が小さいのに気がついた。これって、走るのに必要のない筋肉が、過酷なトレーニングでそぎ落とされていったのだろうか。
 参照→170はるかなるベルリンhttp://datey.blogspot.com/2009/08/170.html

2011/08/26

483言葉の酔時記よろしいですか

 え、強盗大国?、、よく読んだら強大国だった、北朝鮮人民共和国のスローガンである。う~む、最近目が悪くなったなあ。
 でも、耳はよいのだ。気になる言葉が多くて、困る。

 すし屋で昼飯メニューの特寿司、上寿司、並寿司の中から、並を注文をした。
「はい、並寿司でよろしいですか」
「あのなあ、安物の並でいいのかよって、客に失礼でしょ。確認したいなら、『並寿司でございますね』って言いなさいよ」

 本屋で1050円の本に5千円札を出した。
「はい、5000円でよろしいですか」
「あ、いや、よろしくありません、3950円お釣りをください」

 劇場公演チケット予約で聞かれた。
「では、お名前を伺ってもよろしいですか」
「あ、いや、よろしいかよろしくないかって聞かれてもわかりません。よろしくありませんって答えの選択もあるんでしょうか。あのね、単に名前を聞きたいだけなら質問形式じゃなくて、『お名前をお教えください』って言いなさいよ」

 ホテルのフロントで予約の確認をされた。
「お名前とお電話番号を頂戴してもよろしいですか」
「あ、いや、よろしくありません。名前も電話番号もあなたに差し上げるわけにはいきませんので、それだけは勘弁して泊めてくださいよ」

2011/08/25

482震災を食いものにする人たち

 震災に関しての悪稼ぎは、避難後の空き巣盗、放置被災自動車盗などがあるらしいが、それはコソコソとやるだろう。
 ところが、トラック野郎たちは昼も夜も堂々と盗人たけだけしいのだから、なんともいやはや、いくら犯罪にならないといってもなあ…。

 震災復興の支援策として、東北方面の高速道路利用のトラック通行料金を無料にしたら、これを悪用して関係ない方面にも無料通行するヤカラが続出、無料制度を取りやめにするそうだ。
 まあ、復興支援を急ぐためにチェックシステムがないままに、トラック屋のありもしない良心を信じたのが間違いのモトであった。
 悪貨が良貨を駆逐した、、か。

 今わたしが心配しているのは、被災地のどこかを公有地化する必要が必ず出てくるが、そこを国や自治体より先駆けて買い占めるヤカラがいるだろうことである。
 かつて、「ダム屋」といわれる人たちがいた(今もいるか)。河川のダムによる水没予定地の土地を買って小屋を建てて暮らしているように見せて、ダム事業者が買収にくるとなんだかんだとゴネて値を吊り上げて不当利得をせしめるのである。
 こんどは「震災屋」とでも言おうか。

 特に、福島第1原発の周辺地域は、核毒汚染で使えなくなったのだから、東電の金で公有化して、人間の場所でなくしてしまうしかない。
 ここの土地にダム屋のようなヤカラが目をつけないはずがない。
 いますぐにでも地価凍結、権利凍結の手を打つべきだが、政治のごたごたでモタモタしてると、利に敏い「震災屋」さんたちに食いものにされるぞ。
●参照→「核毒の森

2011/08/24

481あの品のない顔と口のアンチャンか

 島田紳助なる芸人がいて、暴力団の人と付き合いがあるのがばれて、引退するというニューズ。
 TV番組をめったに見ないから知らなかったが、新聞の写真を見て、いつだったか骨董品の鑑定の番組に出ていた人だと気がついた。
 そのときは、なんとまあ品のない口ぶり、ついでにお顔のほうもお品のない方、何者だろうって思ったものだ。

 新聞によれば、そんな人がいくつものTV番組を司会する人気芸人だそうである。
 まあ、どうでもよろしいが、全国紙の読売新聞は第1面の記事なんですね、しかも「さん」付けですよ。
 朝日新聞も社会面の半分も占めているんだからなあ、よくわからん。

 記事の中身が奇妙だと思ったのは、ひとつは、暴力団がいけないのではなくて島田なにがしが付き合ったのがいけないというニュアンスであることだ。片一方にずれているような気がする。
 もうひとつは、芸人当人は悪いこととの自覚はまったくないらしいことだ。上から言われたので悪いことらしいと気がついたので、いさぎよく引退するって、なんだか粋がっているらしい。

 引退といえば菅さんを連想するが、彼はなんで首相引退するのだろうか。
 暴力団と付き合ったのかしら、なにか失言でもしたのだろうか、それとも大失政でもあったのだろうか、相撲取りみたいに八百長したのかしら、内や外からの政治屋・新聞屋にたたかれて、もういやになったのだろうか。どうもよくわからん。
 あ、そうか、日本の首相は1年で引退ってルールがあるんだっけな。

 で、次は誰なんだろうか。
 芸人島田の引退した後の番組の司会業を引き継ぐ人は、今度は顔と口に品のあるゴ清潔なお方なんでしょうね。
 でもなあ、芸人が清潔でイケメンじゃあ人気でないよなあ、昔から無頼と芸人とは紙一重でしょ。
 首相のほうの後継も、なにとぞ品のある口とお顔の方になっていただきたいものである。
 アンチャン顔のお方では困るのである。こちらは芸人じゃないんだからね。
 ま、どうでもいいけど、どうぞご勝手に。

引退の話の追加(110826)
 アップル社のスティーブ・ジョブズが、病気療養のためにCEOを退くのだそうだ。天才経営者と言われる人も、病には勝てない。その年齢が56歳、まだ若い。
 で、あの島田某の年齢が55歳である。まだ若い。
 お粗末引退芸人と比較しては、ジョブズが怒るだろうが、たまたま同時期に起きたので、ついその顔つきとか言動とか評判とか比較してしまった。

2011/08/23

480ネパールからモティさんがやってきた

 ネパールからモティ・マハジャンさんがやってきた。
 モティさんは、カトマンヅ日本語学院の教員である。今年3月末から4月にかけてわたしが遊び仲間とネパール旅行に行ったときに、通訳兼ガイドをしてくださった。
 国際交流基金による日本語研修を受けるために来た。埼玉県に研修宿泊施設があり、50カ国程度から90人ほどの研修生が、遠くは南米コロンビアからもいるそうだ。

 モティさんはもう4回目の来日、横浜はまだというので、研修が休みの土・日曜日に、関東南部から行ったF、Y、Dの3人が横浜の港の街を案内、Fが自宅に宿泊招待した。
 元町を歩いていて、モティさんが突然立ち止まって店の看板を見ながら、このパン屋さんのご夫婦をネパールで案内したことがあるといい出した。
 閉店直前の店に入り、確かめたらまさにそうであった。そこを訪ねる予定はなくて適当に歩いていたのだから、まったくもって国際的偶然であった。
 数日前の休みには、研修生仲間の数人で富士山にも登ったという。モティさんはヒマラヤのある地の人だから、富士山の登りははたいしたことはなかったが、下りの須走りには困ったそうだ。

 翌日の弘明寺観音で、ネパールから来たと聞いた僧侶が、近くにネパール料理店があると教えてくれて、早速にたずねたら店中をあげて大いに盛り上がる。
「ゴルカキッチン」の名のごとく、カトマンヅからきたゴルカ出身者の経営である。
 経営者の弟の若者が給仕をしてくれて、横浜国大のドクターコースでバイオテクノロジーの研究をしているとのこと。さすがに日本語がうまい。
 久しぶりにネパールの味に再会した。評判の品はなんですかと聞くと、それはナンです、と答えるので、食ってみたがたしかに美味かった。ただし年寄りには1枚でも多すぎるのが、ナンである。

 つい先日、ネパールでは肝心の憲法はいまだにできないままに、首相が3ヶ月でまたもや辞任するというニュースがあった。
 その裏をちょっと聞いてみたが、南北にインドと中国という大国にはさまれた多民族国家の深い悩みは、政治素人外国人にはよくわからない。
 ネパールで案内してもらっているときは、忙しくてじっくりと話が聞けなかったが、こちらでは飯を食いながらあれこれと日本とネパールの違いやら同じところやらを聞いて、実に面白かった。
 長い昼飯となったその店を出て、「今度はヒマラヤでまた会いたいね」と、わたしはそこで別れた。東京に用事あるFが、銀座に案内して行った。

参照→●ネパールの旅      ●ネパール逍遥  ●草の根校舎の会

2011/08/22

479●21世紀の「谷中村」は「核毒の森」

 その地の人々には気の毒ではあるが、福島第1原発から出る核物質で強度に汚染された地域は、21世紀の谷中村にならざるを得ないと、わたしは思っている。
 昨日、政府がそれをこわごわながらも言い出したのは、近日中に代わることになっているらしい首相の菅さんが、最後の一手として火中の栗を掴んだのであろうか。
 それは多分、後継の人が言い出しにくい種のひとつであるこの栗を、辞める菅さんに言いだしっぺとして掴ませたのであろう。

「平野復興相は21日、東京電力福島第一原子力発電所事故で高濃度の放射性物質に汚染された周辺地域への立ち入り禁止措置が長期化した場合の対策として、他地域に避難している住民が長期間住むことができる住宅を新たに整備する意向を明らかにした。(
読売新聞 8月21日(日)18時16分)」


「政府は、東京電力福島第一原子力発電所の事故で、放射線量が極めて高いなどの理由で、相当長期にわたって帰宅が困難な、原発周辺の一部区域については、当面、警戒区域のまま解除しない方向で、こうした区域の土地については、国が買い取るなどの対策も検討していくことになりました。(NHKニュース8月21日 18時39分)」


「菅政権は、東京電力福島第一原発の周辺で放射線量が高い地域の住民に対し、居住を長期間禁止するとともに、その地域の土地を借り上げる方向で検討に入った。(朝日新聞8月21日朝刊)」

 わたしでさえ予想していたのだから、その筋の業界のかたがたは、現地地権者との折衝に、すでに動いていらっしゃるかもしれない。
 こうなったら、政府は土地建物立木等権利移動凍結・価格凍結の施策を今すぐにでも打つべきである。
 もたもた遅れている間に、妙なことをする人々が介入してきて権利移動・価格高騰が起きると、結局は住民にも国民にも迷惑がかかることになる。

 足尾鉱毒事件は19世紀末からのながながい公害事件で、古河鉱山と手を結んだ政府が、渡良瀬川下流域の村々を強制収用して農民を追い払ったのであった。
 その跡には、銅山から出た重金属に汚染された広大な土地が広がる。これを渡良瀬遊水地という。鉱毒の言葉がないのは、鉱毒のためではなく治水のためと詐称して作った巨大空地だからだ。

 福島核毒事件は、今年3月から始まったが、やはりこれもながいながい公害事件にさしかかっていて、東京電力と手を組んだ政府が、福島第1原子力発電所を取り巻く広範な地域から、住民を追い出すのである。
 その跡には、原発から出たセシウムなどの核物質に汚染された広大な土地が広がる。さてこの地をなんと名づけるか。
 
 鉱毒の重金属は今も遊水地にあるが、核の毒もこれから百年以上も地に残るらしい。人間はそこに住むことも、そこから産物を得ることもできない。
 人間ばかりか生物はみなそうであろう。
 人間の手が全く加わらなくなったら、日本の気候は多雨だから、ここにはかつての太古にあったような森林が復活してくる。これを自然遷移という。
 福島県の太平洋沿岸地域は、植生学上の潜在自然植生分類ではヤブツバキクラス域だから、タブを中心にしてシイやカシの類の常緑広葉樹の森になり、内陸部はブナクラス域だからブナ、ミズナラ、ツガなどの森になるであろう。
 
 この森を「鎮魂の森」とか「望郷の森」とか言いたい人もいるだろうが、わたしは「核毒の森」と名づけたい。当然ながら人々の進入を規制する禁断の森である。
 この禁断の森を後世の人々が忘れないように、その所以を伝えていくべきであると思うからこそ、渡良瀬遊水地のような欺瞞の名称ではなく核毒をもって名づけたい。

 この「核毒の森」のイニシャルコストとランニングコストは、巨大公害を起こした原因者の東京電力の企業および株主が負担して、国有の公園とする。
 それらの費用の一部は、多分、わたしにもいろいろな形で負担を強いてくるだろうが、それは原発の発した電力を享受した罰として、負担可能な相応額は引き受けざるを得ない。
 だが一儀的には、東京電力という企業とこれを支えた株主たちであることを、忘れないようにしたい。

 もちろん森の中心地には福島第1原発の廃炉群が無残な姿を見せている。
 廃炉の管理のための投資は長く長く続くだろうが、できるだけ無残な姿を露出して保存してもらいたい。
 放射線を出し続ける炉などはカバーするとしても、あの無残な建屋鉄骨はどこかにそばに移してでも、必ず保存してもらいたいのは、この大事故を後世伝えるには、目に見える姿が最も訴求力があるからだ。原爆ドームのように。
 そしてこの地を今すぐに世界文化遺産に登録するのだ。
 この深い禁断の森と発熱する廃炉群を、そしてそこに至る道程のすべてを、現世と後世の地球上の人々にしっかりと伝える役割を持たせるべきである。

 それがこの土地を追われた現代の谷中村民に対する、わたしたちの基本的な礼儀であると思う。
 悲惨であった足尾鉱毒時代とは違うから、十分な金銭補償等はなされるであろうが、それで済む問題ではない。
 だから登録は今すぐ行うべきである。3.11以来起きている物事のすべてを文化遺産として、後々まで伝えるべき重要なる人類の資産であるからである。

 世界遺産登録の基準に適合しないからできないなどという、手続きで反論があるだろう。
 だが、今の基準に適合しないような世界文化遺産に相当する事件が起きてしまったのだから、今の基準に拘泥する理由はまったくないのだ。
 もちろん世界遺産が観光資源と思われている世の中だから、その視点から登録の是非が議論されるかもしれない。だがこれは、論外の誤解曲解そのものである。

 できればチェルノブイリとスリーマイルも合わせて世界遺産に登録したいものである。
 そうすれば、すでに世界遺産登録となっている広島原爆ドームとビキニ環礁を合わせて、一連の人類愚行の核毒遺産として認識されるであろう。

●地震津波核毒事件コラム
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2011/08/19

478本日の広告イチャモン

 ときどき新聞広告にいちゃモンをつけている。今日は朝日新聞の全面広告3つ。

●罰当たりな時代になったもんだ
満足に食っても半分しかカロリーがない、そんなことが売り文句になる時代である。
 66年前のあの日から、毎日が腹の減る日々で、少なくてもカロリーあるものをと、必死に食料をあさった時代があった。
 それは今でも、地球上のどこかで同じことがおきている。
 罰あたりな宣伝文句が通用する時代は、平和なのか、ちょっと不気味でもある。

●汚い魔法のパンツ
この広告にはずっと前にもお目にかかって、そのときは「魔法のパンツ 一度はいたらやめられない」と書いてあったので、そんな脱げないパンツなんて、ウンコでキタナイよとイチャモンつけたことがある。
 参照→怪パンhttp://datey.blogspot.com/2010/08/307.html
 今日は「魔法のパンツが手放せない」とある。ちょっと変えてるなあ。

●道で冒険するなよ
いつもの道で、忘れかけてた冒険を蘇らせる、なんて、ああた、いい加減にしなさいヨッ。
 自分の行為に「ご用意」と書くし、「乗れる」「試せる」なんてら抜き言葉も平気で書くしなあ
 このコピーライターはどんな頭してんだよ。

追記20140613)本日、コメント欄に匿名さんから投書が来た。曰く『「「乗る」も「試す」も五段活用の動詞ですけど?」』
 あ、そうか、ら抜きしてもOKなんだ、この場合は、。動詞が五段活用あるいはサ行変格活用のときは「れる」OK、分りましたありがとう。
 ゴメン、ゴメン、お詫びして当該部分の罵倒を取り消します。

2011/08/18

477 原発船で安心だあ~?

 あるブログで、なんと原子力発電船の建設が紹介されている。
 もっとも、造船所の倒産で頓挫したらしいけど。
「ロシア、世界初の洋上原発プロジェクト頓挫」
http://infrascape.exblog.jp/16126557/
http://www.reuters.com/article/2011/04/18/us-nuclear-industry-floating-idUSTRE73H3S020110418
 そのブログではロイターの記事を紹介して、要点をこう書かれています。
「2つの原子炉で構成されており、これにより35000世帯を賄う70mWの発電が行える。プラントはドックまたは沿岸に停泊しそこからケーブルで送電を行う」
「ロシアの国営原子力エネルギー企業のPosatomは、輸出目的で12の洋上発電所を建設する予定だ。」
「最初の原子炉の建設費用は5億500万ドルで、当初見積もりより4倍超も高額になっているが、それでも従来の大型原子炉に比べてればごく小額だ」
****** 
 驚きました、あるんですねえ、世の中に本当にそういう計画が、。
 実はわたしのブログ「伊達な世界」に、3年前に冗談に書いたことがあるのです。
 その要旨は、次のとおり。
「巨大な原子力空母は巨大な原子力発電所を抱えているのだろうが、波にゆれる洋上では地震の真上にいると同じだけど大丈夫なのか?
 そこで突然に思いついた、アッ、そうだっ、原子力発電船を作ればよいのだっ、いい考えだぞこれは、。
 海に浮かんでいても、アメリカ政府や日本政府の言うように絶対に事故がおきないのなら、電力需要の多い地域の港に停泊して発送電すれば、エネルギー効率が断然良くなる。大規模工場はたいてい海べりにあるから、原子力自家発電船を作ればよい。
 万が一、事故がおきたらすぐにはるか沖に出て行ってしまえば、害を及ぼす範囲は格段に小さくなる」
●全文は→「地震に強いかも原子力発電船」2008年9月29日
http://datey.blogspot.com/2008/09/nuclear-carrier.html.
*****
 どうです、思いがけずに福島第1原子力発電所の大事故です。
 あれがもし福島第1原子力発電だったら、津波が来るぞとわかったらすぐに沖合いに出ちまえば、こんなことにはならなかったでしょうに、、なんて、、う~む。
 冗談と現実の境目が取り外されると、困ってしまうよ。

476足尾鉱毒事件と福島核毒事件

 19世紀末から始まった足尾鉱毒事件という大公害があった。福島第1原発事件は、その21世紀版のような気がする。鉱毒ならぬ核毒である。
 栃木県足尾の山中にある銅山から発生した毒煙・毒水の鉱毒が、周辺や下流域の地域に大きな災害をもたらした。

 足銅山周辺地域は、山林は硫黄を含む毒煙で丸裸になり、田畑も汚染で作物もできす、いくつかの村が廃村となった。
 銅ややカドミウムの毒水は、銅山下流の渡良瀬川流域の田畑に流れ込んで、作物を汚染して、流域の農業を立ち往生させた。
 洪水のときは利根川をへて関東平野東部にも毒水が及んだ。

 どんな公害があろうとも、どんな抗議があろうとも、銅山経営者の古河鉱業は、責任をとろうとしない。
 流域被災農民からの鉱業停止運動は、官憲の弾圧を受ける。ついにリーダーの田中正三の天皇直訴事件が功を奏して、マスコミが取り上げて社会問題となる。
 窮した明治政府は、富国強兵殖産興業のために銅山に対する公害対策を後回しとし、たびたび起こる渡良瀬川の洪水の調整池づくりを理由として、その毒水の沈殿地としで渡良瀬遊水池を計画する。

 遊水地の場所は、鉱業停止運動の根拠地である。その村と住民を根こそぎ取り除いてしまう作戦であった。
 それは20世紀末まで工事が続けられて、今、栃木・茨城・群馬・埼玉の諸県境にひろがる広大な湿地草原と谷中湖となっている。
 その広大な遊水地のためにために、田中正造の反対運動で有名な谷中村をはじめとしていくつかの村が強制廃村、強制移転させられた。

 今、強制避難させられている福島第1原発の周辺の市町村のことを、わたしはいやおうなく連想してしまうのである。
 毒煙・毒水を核汚染物質に置き換えると、その発生も、その毒を取り除くことができなくて、人間のほうを強制的に動かすのもそっくりである。
 21世紀の谷中村が福島に出現するに違いない、と、わたしは思う。

 19世紀末に発生したこの大公害は、原因者の古河鉱山が認めて賠償金を支払ったのは、20世紀末のことであった。被害者にとっては、大企業と政府を相手とする100年かかった争いであった。
 廃止となった銅山は、その後も毒水を出し続けるために、その処理を延々と続けなければならない。これも核汚染物質の処理と同じである。
 鉱毒もものすごい毒であるが、それよりも核毒のほうがもっと強烈である。ここが科学が人間の毒の方向に進歩した証拠である。

 わたしは1958年だったか、その廃村のひとつである松木村の跡にある松木沢に入ったことがある。
 谷の両側に赤茶けた荒涼たる岩山が続いていて、草木はほとんど見えない。ここは日本だろうかと思わせる、凄絶な景観であった。
 渡良瀬川にたびたび洪水が起きたのは、この禿山のせいであったに違いない。洪水被害も公害であったのだ。
 そこに行った目的は、所属していた大学山岳部の合宿で、その日本的でない岩肌が屹立する岸壁を利用して、ロッククライミング登山の訓練をしたのであった。
 その後、緑は回復しているのだろうか。

 20年くらい前に、愛媛県新居浜の別子銅山跡地に行ったこともある。ここも谷だが両側の切り立つような山には、濃い緑が繁っていた。
 別子銅山でも19世紀末に煙害や銅山川の洪水による毒水公害が起きている。
 しかし、別子銅山経営の住友はここが本拠地であり、地域全部が住友銅山の町であったので、かなり早期から公害対策をしてきた歴史があるようだ。
 植林も住友の産業のひとつとなっているくらいだから、足尾の古河鉱業とはかなり態度が異なる企業である。

 この廃鉱跡地を産業遺産を生かした観光施設に転換しようというプロジェクトがあり、わたしはそのマスタープランづくりメンバーのひとりとして、現地を視察に行ったのであった。
 その計画は実現して、「マインとピア別子」として営業をしている。
 廃鉱となって40年ほど、いまだに発生する鉱毒水の処理を続けている。原発廃炉後も、長期にわたる核燃料や汚染物質の処理が必要なことと似ている。

 足尾鉱毒事件とその対策のあり方が、今の福島核毒事件になんらかの示唆を与えてくれそうだ。資料を読みこんで考えてみたい。

参照:ついに始まった東電核毒事件の福島貯蔵地は百年前の足尾鉱毒事件の渡良瀬遊水地そっくり

2011/08/16

475無差別空襲の日々

 3月の地震以来、朝起きると新聞を広げて、二つの定例の記事を見る日々である。東日本大震災の「被災者数」と「各地で観測された大気中の放射線量」である。
 被災者数にある死者・行方不明者数は、震災から5ヶ月過ぎた8月15日は、行方不明者4,666人、死者15,698人となっている。
 この二つの数字は毎日変化していて、死者は増えて行方不明者が減るのだが、合計値が漸減傾向で、どうやら20000人ちょっとのあたりに収斂しそうである。

 もうひとつ毎日掲載記事の「各地で観測された大気中の放射線量」は、地図の上に数値が載っている。前日の核汚染物質空襲状況報告である。
 太平洋戦争末期にあった空襲警報が、またもや出され手いるようなものだが、あの時は飛び飛びだったが、今度はず~っと出され続けているから大変だ。
 福島原発を中心に、遠くは山形、南魚沼、わたしの住む横浜までの地図に数値(毎時マイクロシーベルト)が出ている。
 実は勉強していないので、その数字の意味するところをよくは知らない。わたしの横浜は13日は0.027、この日の最高値は飯舘の2.62、この差はなんだろうか。
 なんにしても毎日、減少を願うばかりである。
   
 ところで、この死者・行方不明者数と放射線量の記事は、西日本地域でも毎日の新聞に掲載しているのだろうか。
 この数値を毎朝見るのと見ないのでは、ずいぶん意識が違うような気がする。
 わたしはもしも見ないでいたら、すぐに忘れそうである。そして、まだ余震が毎日あるので、そのたびにはっと思い出すってことになりそうだ。
 ということは西日本ではこれらの数字を見ることがないだろうから、おのずと東日本とは意識が異なるだろう。
 思い出せば(といっても、もう思い出せないのだが)、阪神淡路大震災については、これと逆の状況であったのかもしれない。

 核汚染物質の空襲が続く毎日であるが、太平洋戦争の末期は、爆弾と焼夷弾が日本全土に降り続く日々であった。
 それは敗戦とともに止んだが、いまの核汚染物質はいつ降り止むのだろうか。そして地に降り積もった核汚染物質はいつ無害になるのだろうか。
 66年前に降り止んだ爆弾は、その後の世にもたまに不発弾が被害を及ぼし、広島・長崎の核爆弾はいまも死者を作り続けている。
 焼夷弾空襲は津波襲来であり、原子爆弾は原発事故であるとの、アナロジーが成り立つか。
   
 太平洋戦争の空襲の話で思い出したが、アントニン・レーモンドという人ががいた。
 チェコ生まれだがアメリカに渡って、後に日本で有名な建築家となった人である。そのころはそうでもなかったが後に世界的な大建築家となったフランク・ロイド・ライトの弟子となる。
 ライトが設計した東京の帝国ホテル(1924竣工)の建設のために日本に来た。ホテル建設が終わってもそのまま日本で仕事をしていた。
 太平洋戦争中にアメリカに帰国した。そしてアメリカ軍への東京大空襲アドバイザーをやっていたそうだ。
 砂漠の中に木造長屋群の実物大模型を作って、日本の都市や家屋の燃やしかたを実験し研究した結果が、ヨーロッパのような破壊型爆弾ではなく、焼夷弾による焦土攻撃になったという。
 日本の家屋や街をよく知っている専門家だけに、その指導で効果的な無差別攻撃となった。
 戦後はまた日本に来て、有名な建築家として活躍した。さてこれをどう考えるか。
 建築家の林昌二さんは、レイモンドのデザインや技術はすばらしいけれども、「人間としてはとんでもないやつだ」と言っている(2010『著者解題・内藤廣対談集2』)。
参照http://blog.livedoor.jp/shyougaiitisekkeisi2581/archives/cat_50031934.html#

 戦中の日本の建築研究者は、防空都市の研究もしていたが、現実には木造ばかりの日本でできる空襲対策は延焼防止の強制疎開であった。
 ここで言う疎開とは児童疎開とは違って、燃えやすい家を撤去して、広い空間を作るのである。火がついても燃え広がらないように、街をあらかじめ疎らに切り開いておくことで、これが疎開の本来の意味に近い。
 戦争末期には都市の密集地や駅や鉄道近くでは、木造家屋の引き倒し破壊をやっていた。その跡はいまも広いままに使われていて、例えば谷中銀座もそのひとつである(『谷中根津千駄木』80号2005)。
 あまりに簡単に燃え続けた日本の都市の反省で、戦後の都市再生の出発は不燃都市を標榜して、いろいろな政策を行ってきたのであった。
   
 空襲といえば、連合軍の無差別爆撃に対する被害の怨嗟が語られている。それは当然である。
 太平洋戦争を始めたのが1941年12月、次の年の4月にはもう東京が空襲された。
 その時は洋上の空母から発進した爆撃機だったが、次第に日本が太平洋の島々で負け続けて、敵は近くの島から発進してくるようになった。1945年は空爆されるのが日常になってしまった。日常の死の恐怖はつらい。
 だが、日本軍も無差別空爆をやっているのである。
 1932年の上海事変では、洋上の戦艦からとんだ偵察機の10次にもわたる爆撃で、軍事施設のほかに市街地も破壊して多くの一般人死者を出した。以後、中国ばかりではない。
 1938年から43年まで国民政府の本拠の重慶を200回以上も空爆している。この無差別爆撃が、後の広島・長崎の原爆を正当化するとも、連合国側では言ったらしい。
 もっとも、中国やフィリピンなどでは地上の市街戦だから、空爆どころではない無差別攻撃に一般住民はさらされたのだった。
 市街戦は日本では沖縄だけであったから、被害意識に大きな違いが出るのだろうが、無差別空襲、無差別攻撃は日本軍もやったことを忘れてはなるまいと、わたしは思うのである。

2011/08/15

474 66年目の空襲と疎開

 あれから66年、またもや空襲を逃れて疎開する日々が来ている。東日本大震災による原発事故で、核汚染物質の飛来から逃れるためである。
 太平世戦争末期の焼夷弾の空襲におびえたあの日々の死の恐怖は、どこまで次世代・次次世代に伝えられているのだろうか。
 日本全土の都市が攻撃された空爆による死者の総数は、(諸説あるらしいが)約50万人だったそうだ。そのうち半分は原爆によるから、今も死者は増加中である。
 あのときの恐怖は66年前のこの日8月15日に終わった。
 この核汚染物質の空襲におびえる日々に、8.15はいつ来るのだろうか。
   ◆
 東日本大震災の死者と行方不明者を合わせると、約2万人程度になるようだ。
 核物質汚染による被害は地域的にも内容的にも範囲を広げつつある。
 この空爆による死者は、今は出ていないのかもしれないが、その性格からして原爆のように後々に出るかもしれない。
 特に食品汚染への恐怖は、真綿で首を絞められるようにじわじわと迫る恐怖である。
 66年前のこの日、戦争による死の恐怖は去ったが、次は食糧不足による飢えの恐怖が始まったことを思い出す。
 少年だったわたしの戦争に関連しての恐怖は、日々の飢えだけであった。毎日腹が減っていたなあ。また飢えるのか。
   ◆
 この日が来ると、毎度書いているような気がするが、また書く。
 わたしの生家は岡山県の中部にある、小さな城下町の盆地にある神社であった。
 あの日の正午、その鎮守の森の中の社務所の前に、ラジオを囲んで集まったのは、大人と小学生を合わせて20名足らずだったろうか。
 大人は近所の人たちだったが、小学生たちはその社務所に遠く兵庫県から疎開してきていた女子児童たちである。当時はラジオが初期のTV程度の普及だったろうか、その疎開学級はラジオを持っていた。
 わたしはなにしろまだ8歳だから、これが終戦の詔勅放送だったとは後から聞いたのだろう。日ごろにない集まりを眺めていただけで、放送の音についての記憶はまったく無い。
 だが鮮明な記憶は、聞き終わった大人たちが、なんとなく列を作って誰も一様に黙りこくったままに、森の中から暑い日差しの町へと、参道の石段をおりて帰っていく姿である。子供心にも異様であったから覚えているのだろう。
   ◆
 その盆地は、B29空襲はこない平穏な日々であったが、空襲から疎開してきた学童たちがいたという現実に戦争の影はあった。
 その疎開児童がどこから来たのか調べいて『学童疎開の記録』(1994全国学童疎開連絡協議会)という本でわかった。芦屋市の精道小学校の学童が、岡山県上房郡高梁町(現・高梁市)の頼久寺に126名、同じく金光教会に47名が疎開したと記してある。
 わたしの生家の御前神社は出ていないが、これら2箇所と至近にあるから、どちらかの分教室であったのだろう。
 その芦屋が8月6日に空襲に遭って、学童たちの家族も被災し、親の死で孤児となった悲劇もあったようだ。
 空襲のもうこなくなった焼け野原の都市に戻っていったあの少女たちは、その後どのような人生を歩んだのだろうか。
   ◆
 わたしの父はそのころ小田原で、湘南海岸に上陸すると見られるアメリカ軍を迎え撃つ本土決戦の準備中の通信兵であった。
 小田原は8月15日の前夜半に、この戦争の最後の爆撃を受けた。父は郊外の山中で陣地構築の穴掘りをしていて、炎上する市街地の火を見ていた。
 その月末に兵役解除となって帰宅してきた。
 彼の戦争は、1931~34年と1938~41年の2度の中国、そして1943~45年の内国と、実に15年戦争の半分を兵役に送り、これが3度目の生還である。このとき35歳の老兵であった。
 参照「父の15年戦争、本土決戦」

2011/08/13

473仮想水、仮想電力

 沖大幹さんて人が言ってるけど(『本の雑誌』9月号33ページ)、1杯の牛丼を作るのに必要な水の量は大体2000リットル、湯船にして10杯くらいだそうだ。
 え、どうして?
 その丼の中のコメを作るのに200リットル弱、乗っている牛肉85グラムを作るには1700リットル、ほかにもタマネギとかショウガとかを作るに要る水を足すと、そうなるのだそうだ。
 これをヴァーチャルウォーター、仮想水という。
 
 仮想水の重さは牛肉は20000倍、豚肉は6000倍、鶏肉は1500倍を必要とするのだってさ。
 こうなると日本の半分以下の雨量のヨーロッパで、牛肉を食う文明が育ったのはどういうわけだろうかと思ってしまう。
 雨量が多いということは、それだけ食料が豊かで、自給自足しやすいってことか。なのに日本の食料自給率は4割を割ったそうだ。

 重さの何千倍もの水を使うといっても、垂れ流しているのではない。また雨になって戻ってくるから、まさに再生可能な原料である。
 水の無い地域の人々は、水を輸入するのではなくて、それを千分の1、万分の1に圧縮した食料として輸入するってことである。逆に言うと、牛肉を輸入するとその2万倍の水を輸入することになるのか。
 人間も1キロ太ると10トンもの水を消費したのだろうか。

 こうして見ると、太陽と水と土を資源とする農業が、もっとも再生能力が高い産業であることに思い至る。
 ところが、福島第1原発の事故が、その再生の循環の輪を断ち切りつつある。
 核物質に汚染されたらもう再生循環できないのである。今年だめでも来年があるさって、そういう期待をできない農業となった。
 毎日降り注ぐ核汚染物質は、来年からの未来がある生活圏の復興をさえさせてくれない。生活圏が縮んでいく。
 この食料と生活の場を奪われていく日々の状況が、わたしの心のなかになんともたまらない閉塞感を蔓延させる。

 仮想水で思いついたが、仮想電力ってのもありそうだ。
 近代農業は機械、プラスチック製品、農薬、合成肥料、照明など、多くの電力を使っている。
 コメ1キログラムに何キロワットの電力を使うのだろうか。昔はトマトを真冬に食うなんてことはしなったが、温室栽培では1個に何キロワット要るのだろうか。
 農業も原発の電力に頼るようになって、再生能力が低減しているかもしれない。

 人間が生きるために働いているとしたら、そのもっとも根源にある目的は、毎日の安定した食料の確保である。
 そこに避けようも無く遮断の手を突っ込んでくる核汚染事故の怖さが、人間の身に染みるには、もう一度くらい同じことが起きることが必要なのだろうか。

2011/08/12

472日本語下手くそグーグルクローム

 インタネットブラウザーがいろいろあるが、わたしはMSinterenet explorerを使っている。
 わたしのブログ「伊達な世界」には、その閲覧者がどんなブラウザーで見てるのか、統計が出てくる。
 それだとMSi.e.が3分の2で圧倒的の多く、2割がfirefox、以下chrome、safariなど。
 ついでにOSは、MSが77パーセントと圧倒的で、MACはそれに次ぐがわずか11パーセントである。

 ブラウザーをほかのやつに乗り換えようかと、あれこれやってみるが、やっぱりMSi.e.に戻るのだ。
 わたしの評価ポイントは、縦書き用htmlタグが有効か、こちらの指定したフォント形式が登場するか、その2点である。
 こ難しいことはもともとできないし、文章主体だからそれが重要なのだ。

 さて、4つのブラウザー(i.e. chrome firefox opera)を、わたしの作っているサイト「まちもり通信」の「景観戯造」ページで、表示の仕方を比較してみた。
 まず、縦書き表示だが、これはi.e.だけしかできない。あとは全部不合格。
 これって、どうも縦書きhtmlタグがMSi.e.だけにしか通用しないらしい。それってけしからんと思う。MSが開発したタグだからほかのメーカーは読んでやらないって、狭量である。
 
 次は文字であるが、隷書を表示できるのはMSi.e.だけなのである。
 chromeは無茶無茶文字に化けしてしまった。日本語を知ってるのかよ。
 operaは隷書と角ゴシックの混合表現に化けた。
 fire foxはすべて角ゴシックに化けた。
 隷書以外のフォントでも文字の化け方はあるのかもしれない。

 こうしてみると一番だめなのはchrome、とりあえず合格はi.eである。
 縦書きと隷書をどうやったらMSi.e.以外のブラウザでも表示できるのだろうか。

 なお、画像の上にポインターを置くと別の画像に換わる仕掛け(参照「景観戯造」)は、どのブラウザでもできたが、これがMACだと全然できないらしい。

471お子様化社会

 なんでも名古屋のTV放送局で、本放送で手違いで映してしまった短文で大騒ぎ。
 で、放送内容はというと、岩手県産米のプレゼント当選者を「怪しいお米 セシウムさん」などとかいたテスト用のオフザケ文章のテロップが23秒間だそうだ。
 放送会社の社長は岩手県まで謝りに行くし、役員減俸処分。
 まあ、岩手の人は怒るだろうけどねえ、大人が本気で怒るほどのことか?

 もしかして、そのTV番組はかなり高級なる内容で定評があったので、このテロップがその高級さを台無しにしたのかい?
 いまどきそんなすばらしい番組を放送してる東海放送ってのは、すごいなあ。
 でもなあ、こんなオフザケの間違いで台無しになる程度のものってのも、情けない。

 どうもわからないのは、明らかにオフザケと手違いとわかることでしょ、それをなんで大げさなことにするの?
 TVってのは、それほどまでに幼稚なアホバカが力を持ってるものなの?
 大人気ない、とはこういうときに使う言葉だろう。
 どうも世の中がどんどん「お子様化」する感じである。
 京都大文字焼きの東北津波薪騒動の右往左往もそうである。

 お子様は、長い論理的な文章を書く能力がないもんだから、ツィッターなんて短文しかかけないツールをつかう。
 で、いま屁をひったとか、飯が不味かったとか、ショウモナイことのついでに、今見たバカTVをケシカランとか、垂れ流しているんだろう。
 それを真正面から取り上げる大人たちも、どんどんお子様化している。
 ガキに持たせたピストルかよ~、ツィッターは。

2011/08/11

470言葉の酔時記:拍手をちなみにこだわる

 講演会やシンポジウムが終わったときに、総合司会者が言う。
「もう一度盛大な拍手をお願いいたします」
 わたしはこれを聞くと、失礼なやつだって腹が立って、拍手をしないことにしている。
 だってそうでしょ、出演者にしてみれば、司会者が催促しなけりゃ拍手が来ないつまらない話だったんですよ、って言われてるんだもの。
  
 話や文章の中で最近よく使われる言葉がある。
「ちなみに、……」
 ちなみに言っているんだから、たいしたことじゃないと思っていると、実は重要な話であることが多い。
 意味を知っているか?
 これって、本筋じゃないけど思いついたのでついで言っておこう、ってほどの意味の接頭語なんですよ。

「こだわる」って言葉も、「脱原発にこだわる首相の言動は無責任としかいいようがない」(産経新聞8月7日社説)なんて、大手のマスメディアさえも間違った使い方ばかりするのは、困ったものである。
参照→360菅さんには諫早も沖縄も些細なことか
参照→215スパコンなんてどうでもいい?

2011/08/10

469東北3県超高齢化時代の復興は?

 政府総務省が発表した東北地方の岩手、宮城、福島3県の2010年人口統計がある。
 東日本大震災の直前年の調査だから、20111年以後はこれが大きく変わるだろう。
 津波に襲われた沿岸地域の市町村の、高齢化率だけを見て、その原因とかいろいろ考えた。専門家ではないし、資料をあさるのも面倒なので、見て考えるだけである。
 
 福島県の浜通り市町村ごとの65歳以上人口割合の図を見ると、おおかたは25パーセント以上であるが、福島原発のある辺りが21から23パーセントで、高齢化率が比較的低い。
 これは、多分、原発あるいは原発関係企業への、若い就労者がいるということなのであろう。
 福島県の人口の性格は、会津が超高齢化、中通は比較的若く、浜通はその中間と、明確に分かれて見えるのが興味深い。
 推察するに、会津が第1次、中通が第3次、浜通は第2次と、それぞれの産業の中心が異なっているのだろう。

 宮城県の沿岸地域の高齢化は、南部は比較的に遅く、北部が三陸では進んでいる。
 原発のある女川町が33パーセントの超高齢都市であり、福島の原発立地地域と比べてかなり高いのは何故だろうか。関連就労者の多くは隣接の石巻に住んでいるのだろうか。
 仙台市で津波で壊滅的となった若林区は高齢化率18.4パーセント、宮城野区16.6パーセントで、高齢都市ではあるが比較的低いということは、多くの勤労世代が被災したのであろう。

 岩手県の三陸沿岸部の市町村の高齢化率は、ほとんどが30パーセント以上である。
 福島や宮城のように、地域差が見られないのはリアス式の海岸が続く、漁業を主体とする同じような構造の生活圏だからだろうか。
 考えてみると、漁業はその生産基盤は海だから、沿岸漁業は影響あるとしても大変化はないはずだ。問題は船、港、冷凍倉庫等の漁獲手段の崩壊だろう。
 中越震災の農業地域のように、田畑が崩壊して灌漑も不能になるという生産基盤の被災とは違うから、当然に復興の仕組みが大きく違うのだろう。
 
 それにしても今でも3人に1人以上が高齢者であり、この長高齢社会はさらに進むことは確実だから、震災復興はその人間の構造を見極めつつ進める必要がある。
 元の町あるいは近くの高台に、復興に10年かかって完成してみたら、そこにはもう動けない年寄りばかりとなっていることもあるだろう。
 それを予想した老人の「死に甲斐のある町」(これは近江八幡の川端五兵衛元市長の言)への復興もあるだろう。

 あるいは、まだ高齢化の比較的低い内陸部地域に積極移転して、新たなコミュニティを共同して復旧するほうがよいかもしれない。このとき問題となるのは、住み慣れた故郷を離れることへの抵抗である。
 しかし、いずれ老いたままで過疎地域で暮らすことはできないのだから、その地域を閉じて都市部へ移転することが、今がチャンスととらえることも大いに意味のあることと思う。これは中越震災後の過疎山村に通っていて感得したことのひとつである。

参照→地域を閉じる

2011/08/09

468不景気と戦争

 中国黒龍江省方正県政府が建てた、日本の旧満蒙開拓団員の慰霊碑が、建てて10日程で撤去されたというニュースが新聞に出ている。
 侵略者の慰霊碑とはケシカランというネット批判にさらされた結果だそうだ。先日の高速列車事故の証拠破壊と復旧作業みたいに、なんだかすばやすぎる対応である。

 それで思い出したのは、1933年3月のことだ。
 その3日に起きた昭和三陸大津波のことを調べようと、3月の新聞を読んでいたら、こんな記事があった(3月20日 東京朝日新聞 夕刊)。
「第2回自衛移民団 関東、東北で募集  その人選、移住地等については、陸軍と関東軍と打ち合わせ中であるが、陸軍では第2回自衛移民は中国ならびに九州地方より選定する意向であったが、その後種々の事情から第2回自衛移民は大体第1回同様、青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島、新潟、石川、富山、茨城、栃木、群馬、長野、山梨各県の在郷軍人から五百名を選定することに決定した」

 この「自衛移民団」とはなんだろうかとネットで調べたら、「試験移民団」とも「武装移民団」とも言われたらしいが、1932年にできた日本の傀儡政権「満州国」の、辺境の地に送り込んだ農業移民「満蒙開拓団」の初期の名称である。
 第1次移民団は1932年に送り出しているが、その名前のようにまさに武装しての移民であった。関東軍の庇護の下にあった。
 なぜ「自衛」とか「武装」の移民団であったかは、現地で地元民のゲリラに襲われるからだった。
 その移植地が、もともとその地を開墾して耕していた現地の農民たちの土地を、日本政府が武力で以って安価に無理矢理に取り上げたために、当然のことながら抵抗がありトラブルが発生するのだった。

 この武装開拓団が試験的に第4次まで入植し、1937年から本格的に集団移民が始まった。
 1945年には30万人前後となり、ソ連参戦後の大混乱で悲劇となり、帰国できたのは11万人であったそうだ。
 満蒙開拓団は、敗戦での被害者である前に実は加害者であったのだから、慰霊碑への中国人の非難は当然だろう。戦争の被害と加害はあざなえる縄か。

 1933年の三陸大津波の頃は、日本は昭和恐慌が続いていて労働争議は頻発し、特に農村は疲弊していたので、王道楽土・五族協和の美名の下に、植民で棄民をしたのであった。
 今の日本はどうだろうか。リーマンショック以来の不況は深刻になり、そのようなところに東北地方を中心に大津波、その上に核物質が拡散するありさまで、先行きが見えない閉塞感が色濃く立ち込める。
 この大不景気打開のためにイッパツ戦争を、なんてことにならないように、祈るしかない。
 なにしろ日本が昭和恐慌から立ち直ったのは、1931年勃発の満州事変に対応する1932年からの高橋積極財政策があったし、1945年の敗戦疲弊から立ち直ったのは、1950年の朝鮮戦争特需だったのだから。

●参照→津波と戦争そして原発

2011/08/07

467原爆忌の原発発言

 今年の広島の原爆忌でのエライ人たちの挨拶などで、福島原発に触れたところを読んでみた。
 まずは原発地元の松井一實広島市長の平和宣言の原発関係部分です
「また、東京電力福島第一原子力発電所の事故も起こり、今なお続いている放射線の脅威は、被災者をはじめ多くの人々を不安に陥れ、原子力発電に対する国民の信頼を根底から崩してしまいました。
 そして、「核と人類は共存できない」との思いから脱原発を主張する人々、あるいは、原子力管理の一層の厳格化とともに、再生可能エネルギーの活用を訴える人々がいます。
 日本政府は、このような現状を真摯に受け止め、国民の理解と信頼を得られるよう早急にエネルギー政策を見直し、具体的な対応策を講じていくべきです」

 なんだかしゃんとしない曖昧きわまる言い方ですね。「……の人々がいます」って、余所事で言うんじゃなくて、市長ご本人はどうなんだいッ。
 広島市の人でさえ、こういうものなんでしょうか、それとも福島と広島は遠すぎるんでしょうか?

 では、菅直人総理大臣の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式あいさつの原発部分です。
「本年3月11日に発生した東日本大震災は、東京電力福島原子力発電所に極めて深刻な打撃を与えました。これにより発生した大規模かつ長期にわたる原発事故は、放射性物質の放出を引き起こし、わが国はもとより世界各国に大きな不安を与えました。
 政府は、この未曽有の事態を重く受け止め、事故の早期収束と健康被害の防止に向け、あらゆる方策を講じてまいりました。
 ここ広島からも、広島県や広島市、広島大学の関係者による放射線の測定や被ばく医療チームの派遣などの支援をいただきました。
 そうした結果、事態は着実に安定してきています。しかし、今なお多くの課題が残されており、今後とも全力を挙げて取り組んでまいります。
 そして、わが国のエネルギー政策についても、白紙からの見直しを進めています。
 私は、原子力については、これまでの安全神話」を深く反省し、事故原因の徹底的な検証と安全性確保のための抜本対策を講じるとともに、原発への依存度を引き下げ、「原発に依存しない社会を目指していきます。
 今回の事故を、人類にとっての新たな教訓と受け止め、そこから学んだことを世界の人々や将来の世代に伝えていくこと、それがわれわれの責務であると考えています」

 うん、まあ、広島市長よりよほどはっきりしていますね。
「原発に依存しない社会」とは、脱原発ってことかしら。
 それとも薬物依存なんていうように、原発に麻薬のような依存をしないってことで、やっぱり原発は容認だってことでしょうか。ウン、こっちのほうがニュアンスが近いなあ。
 それにしても個人発言なら「脱原発」、首相発言なら「原発に依存しない社会」か、そのうちに「脱原発に依存しない社会」なんて言い出さないでよね。

 こうしてみると、市民に近い市長が曖昧模糊、市民から遠い総理大臣のほうがちょっとは踏み込むてのが妙だが、これは政治家の資質の違いか。
 次の長崎ではどうでてくるか期待している。
 なお、国連事務総長の挨拶には、原発には一言もふれていなかった。

 ではちょっと新聞を見よう。「原発推進派」の読売と産経はどうなんだろうかと、8月7日の両社説を見た。
 読売は「「脱原発依存」はそもそも個人的な見解だったはずだ」と、こんなところで言うなって噛み付いている。
 産経も「脱原発にこだわる首相の言動は無責任としかいいようがない」と、これも噛み付いている。
 あげあしを取るが、ここで「こだわる」って言葉を使ったのは、菅さんの言葉をわざと矮小化する意図なのか、それともうっかり用語を間違ったのか、どっちだろうか。
 注:広辞苑の「こだわる」の意味には「気にしなくてもよいような些細なことにとらわれる」とある。

(追記0809) 
 8月9日の田上富久長崎市長の平和宣言は、いきなり冒頭から原発問題に触れて、「原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進める」必要性を言った。
 しかも、かなり長文である。


「平成23年長崎平和宣言」の冒頭部分 
「今年3月、東日本大震災に続く東京電力福島第一原子力発電所の事故に、私たちは愕然としました。爆発によりむきだしになった原子炉。周辺の町に住民の姿はありません。放射線を逃れて避難した人々が、いつになったら帰ることができるのかもわかりません。
「ノーモア・ヒバクシャ」を訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅えることになってしまったのでしょうか
 自然への畏れを忘れていなかったか、人間の制御力を過信していなかったか、未来への責任から目をそらしていなかったか……、私たちはこれからどんな社会をつくろうとしているのか、根底から議論をし、選択をする時がきています。
  たとえ長期間を要するとしても、より安全なエネルギーを基盤にする社会への転換を図るために、原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要です。
 福島の原発事故が起きるまで、多くの人たちが原子力発電所の安全神話をいつのまにか信じていました」


 広島市長の曖昧模糊と比べると、ずいぶん踏み込みに差があるが、同じ被爆都市としてなぜこうも違うのだろうか。市民はどう考えるのだろうか。
 そういえば、長崎は市民参加の委員会で平和宣言原案をつくり、広島は市長が考えるとか。

466森まゆみさんと立ち話

 こんなこともあろうかと、自作まちもり叢書『丸の内貼り混ぜ屏風-見世物としての建築景観』を数冊もって、鎌倉西御門サローネの会合に行った。
 増田彰久、森まゆみ、菅孝能の3氏による「まちの文脈」というテーマの鼎談会であった。

 おわってさてまた暑いところに出るかとベランダで躊躇していたら、森さんから「どちらから?」と声をかけられた。
「これ、名刺代わりです」と持参の冊子をさし上げたら、気軽く受け取ってくださった。
「森さんたちの赤レンガ東京駅保存復原運動には、わたしは復原反対なので、そのひとりキャンペーンをネットでしていましたが、これは惨敗しました。次は、福島第1原発世界文化遺産登録ひとりキャンペーンに転進します」
「あら、ネットで読んだような。水俣も世界遺産登録っていってるようですよ」
 なんて4、5分立ち話、他にも話したい人が居てわたしは別れた。

 もう四半世紀ほども昔になってしまったが、森さんたちが「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」を立ち上げて、保存と復原運動をやりだした頃、わたしは建設省と国土庁関係の都市計画コンサルタントして、「東京駅周辺地区再開発調査委員会」(八十島委員長)の作業班をやっていた。
 愛する会の側からは「赤レンガの東京駅を壊す委員会」に見えていたらしいから、わたしは森さんたちの敵側であった。
 八十島委員会の動き必ずしもそうではなかったし、わたしも出自が建築史だから、裏方としての委員会資料は客観的につくらなければならないにしても、ついつい保全の方向の資料作りに熱が入ったものだ。
 建設省の担当者は建築職だから、表向きは言わないにしても保全に理解があった。

 愛する会の活動が赤レンガ駅舎の保全に、委員会外部からのおおきな影響をもたらしたことは間違いない。
 できれば保全したい建設省側、できれば建て替えたい運輸省側(国鉄)との間での委員会の結論が、玉虫色ながらも「現在地で形態保全(このフレーズ原案はわたしがつくった)となったことに、わたしはほっとしたものだ。

 書いた当人としては、移築などせず今の場所で、内部は鉄道駅としての使いやすいように変更しても、外部の形態は今の姿で保全(保存といわないのがミソ)する、というココロだった。
 さっそくに愛する方たちから「これは復原しないということらしい、ケシカラン」のような声が聞こえてきた。御推察のとおりである。
 わたしは復原することで、わたしたちの世代の原点としての風景であるあの台形大ドーム屋根や大ドーム天井が消えて、戦後の歴史が消滅することを肯んずることができない。

 しかし今、戦後の歴史を消滅させた姿の東京駅舎が、丸の内に現れつつある。
 原風景保全を訴える、たったひとりキャンペーン「赤レンガ東京駅復原反対論」は、完敗した。
 復原、非復原と関係なく、その保全によって今生み出された東京駅とその周辺の景観は、マンハッタンの谷間の赤煉瓦駅舎である。駅舎からの容積移転の結果である
 これを保全後遺症というべきか、再開発後遺症というべきか、保全と再開発の幸福な結婚の結果というべきか。

 わたしは森さんの熱心な読者ではないが、「谷根千」の初期の頃からのプチファンではあるから、はじめて話をしてちょっと嬉しかった。
 東京で仕事していた頃は、地域雑誌の「谷中・根津・千駄木」はよく買ったものだ。
 そしてまた、あのあたりは若い頃から徘徊好きのわたしのお得意先であった。
 特に春になると、出かけたついでに上野の山辺りで花見、そして谷中墓地から山下の町の名を忘れたが古い民家を改装した飲み屋へと足が向ったものだ。
 森さんがお持ちになった「谷根千」バックナンバーの終刊号と戦災特集号を買った。気がつかないうちに終刊となっていたのだった。
 そして森さんは地域雑誌の編集発行人から、まりづくり運動と文筆の人へと興味深い展開が続いているようだ。

 そうだ、鼎談のことも書いておかなければなるまい。
近代洋風建築写真を専門とされている増田さんは、もう日本では撮り尽くして、ちかごろは中国だそうである。
 ちかごろ洋風建築がもてはやされるのはなぜかとの問いに答えて、誰が見てもこれはすごいなあ、変わっているなあと、一般市民に分りやすい意匠だからだろう、とのこと。
 そう、だからその後のモダニズム建築の保存が、一般市民からの応援を得にくくて、難しいことになっているのだろう。東京駅は応援の声が高かったが、東京中央郵便局はそれがどうも盛り上がらなかったように。

 ひょいと思いついたのは、日本の洋風建築は歌舞伎であり、モダニズム建築は能であるってことだった。能は庶民にはとっつきにくい。
 で、やっぱり庶民には歌舞伎建築に限るって、丸の内では東京駅と三菱1号美術館では、無くなっていた昔の洋風姿をまたコピーで再現した。
 今や建築は見世物になったのである。無駄な金があるもんだが(東京駅は復原に500億円とか)、見世物なら御代をちょうだいして元が取れるんだろう。

 超高層建築もつまらないガラスのペロペロビルばかりではいかんと思ったか、ガラスで巨大な折り紙ヒコーキの形を作ってビルに貼り付けたのが、東京中央郵便局の通称JPタワーである。
 ほう、超高層に舞い降りる航空機!、9.11のパロディってか、なかなかの技あり見世物建築ですね。
 あ、また鼎談から話が逸れた。

2011/08/05

465言葉の酔時記:子ども、円、臭い

「子ども手当」がなくなって「児童手当」になるんだとさ、なんのことか分らん。
 分ることは、「子ども」は複数名詞だから、2人以上いないと手当て無し、「児童」は単数も複数も含むから1人以上いれば手当て有りってことでしょうな、多分。
「子ども園」なる保育園と幼稚園の合体ってのも「児童園」て変わるんでしょうな、ウン。
 ところで「子どもたち」という言い方があるが、複数名詞を更に複数にしてどうするんだよ。昔は「子達」という複数言葉があったが、最近は聞かないなあ。
   
 温度でも物価でも山でも数字の多い方を高いというのが世の常識だろうに、円が高くなったというので、見ると昨日より低い値である、おかしい。
 何事にも例外があってよいけれど、こう毎日毎日、低い数字がでるたびに高い高いと言われるんじゃなあ。
 こどもの算数や理科の教育によくないような気がするし、わたしの頭の中で計算がややこしくて情緒不安定になる。これはやっぱり円安というべきであろう、え、違う?
   
 今日の新聞に、紡績屋が香料屋と共同して、ウンチの臭いを「森林の中にいるような清涼感のある香りに変える」繊維を開発し、オムツを作るんだという。
 いやなのは臭い、気持ちいいのが香りってことで、臭いを香りに変換するのか。ウンチ爆弾エネルギーを、平和利用に転換するのだな。
 むかしのことだが(今もあるかな)、汲み取り便所の臭いをごまかすために、便所に置く瓶に入れたジンチョウゲの香料が普及した。今でもジンチョウゲを嗅ぐと、ウンチと消毒液との3種混合香臭を思い出す。香りが臭いに自動変換するのだ。
 ネットで検索すると「沈丁花」なる香水があるらしい、う~む、知らぬってことは恐ろしいもんだ。
   
 最近でたアインシュタインに関する翻訳本で、ある章が珍妙な文で埋め尽くされていると評判になっている。
 どうもコンピューターの自動翻訳のままで、校正が出版期日までに間に合わずに、そのまま出しちゃったという、お粗末らしい。
 インタネットのあるサイトに、その変なページの一部のコピーが載っている。ふ~ん、コンピューターのバカさがわかるような、いや、賢さが分るというべきか。
 マニアコレクターは定価の10倍の2万円でも買いたいとか。そうか、今度は1冊まるまる機械翻訳のまま出せば、大もうけだな、、?
●参照→言葉の酔時記

2011/08/04

464戦後復興街並みをつくった市井の人々:書評「都市の戦後」初田香成著

戦後復興街並みをつくった市井の人々
書評:初田香成著「都市の戦後‐雑踏の中の都市計画と建築」

●戦後がようやく歴史に
 わたしは今は横浜都心に住んでいるが、徘徊老人の散歩で歩くこのあたりには、戦後復興の「防火建築帯」が今も現役で、街並みを構成している。
 それら地味な建築群は、何の評価も与えられずに、次第に建替えられていくのを見ていて、あの何もない時代にこれを建て続けたこの街の人々の努力を、なんらかの記録だけでもしようとは、誰も思わないのかと気にしていた。
*横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/yokohama-sensai-fukko
*参照→横浜B級観光ガイドブック
http://sites.google.com/site/dateyg/yokohama-bkyuu-kankou-gaidobukku

 そのようなところに、戦後都市復興を都市と建築を結びつけ、それを成した過程で現場に登場する人々、特に民側にも目を向けた立場から書いている本が出た。
 この類のものは、これまでは制度と事業の結果を書いたものがほとんどであるに比べて、私自身が現場で生きてきたので興味深く読んだ。まさに私自身の社会での成長史を読むような気分になったある。
 戦後66年、どうやら戦後も研究対象となる歴史になってきたらしい。ということはわたしも古老になったということでもある。やむをえない。
 表紙の新橋駅烏森口の広場前のごちゃごちゃ街並みが懐かしい。
 あの頃に現場に身を置いていたものにとっては、その後の若者が歴史としてこれを叙述するのを読むのは、これを読むいまの自分とあの頃の自分の間を時間航行する気分になった。

●うらやましい父子鷹
 序章の出だしに吉祥寺の街の図が出てくる。著者は、自然発生的に構成する雑踏の街、吉祥寺のような街の土地と建物のありようの成立を追いたいというのだ。
 実を言うと、わたしは1970年前後の30歳台前半を吉祥寺防火建築帯の現場に入れこんでいた。だから、どのような分析がでてくるかとひも解いたのだが、本文にはなくて期待が外れた。
 著者は吉祥寺が自然遷移的にメタモルフォーゼしているととらえているようだが、わたしがやっていた仕事はまさに街を人為的に街を動かすことであった。できはよくないが街の将来像マスタープランもあったのだ。
 結果が計画的に見えないのはよいのか悪いのか、これも含めて吉祥寺まちづくりの歴史的研究は既にあるのだろうか。著者には次はそれを書いてもらいたい。
 序章に著者の研究の視点が書いてあるのだが、先行研究者のひとりに初田亨氏の名がでてきて、そうか、父君の都市研究の戦後版であるか、それにしても幸せな研究者親子であると,羨ましく微笑した。(つづく)
●全文は→戦後復興街並みをつくった市井の人々:書評「都市の戦後」
http://homepage2.nifty.com/datey/tosinosengo-syohyo.htm

2011/08/02

463乗っ取られた言葉

 米は債務不履行を回避し、コメは2段階で検査するって、こんな夕刊の見出しが並んでいる。
 え~っとコメって米のことなのかい、カタカナで書くのは植物であるからかい、でもここは食物だよ。
 これって米のほうは当て字の借り物で、コメのほうが本来は米であるべきなのに、奇妙なことである。ヤヤコシイ。
 米(こめ)が米(ベイ)に乗っ取られてしまった。
  
 だれもベイとかベイコクって口では言わないよ、アメリカとかUSAと書けばいいだろうに。
 だってUAEって書いてるよ、たしかアラブ首長国連邦だよね。
 国名表記は長い間のいい加減な慣習でそうなのだろうけど、いい加減すぎると思う。
 米は米って一字でも書くのに、韓とか中とかいつも国がつくのはなぜ?
 ロシア国とかフィリピン国とか書かないね、なんで?

 とにかく新聞の外国語への対応は場当たりであるな。
 コリアやチャイナの人名はカナを振ったり振らなかったり、日本風に読み下したり原語風にカナ振ったり、はじめっからカナで書いたり、いったいどう読めばいいんだよ~。

2011/08/01

462津波と戦争そして原発

●騒乱の1933年3月
 東日本大震災のもとになった2011年3月11日東北地方太平洋沖地震は、大津波による被害が甚大である。そしてこの津波の大被害ははじめてのことではなくて、特に東北地方の三陸沿岸部はこれまでに何度もあったという。
 1933年3月3日、昭和三陸地震がおきて大災害となっている。今の東日本大震災のほうが被害は大きいようだが、その頃の社会情勢と今とは大いに違うから、当時の社会ではどう受け止めたのだろうかと興味がわいた。

 1933年といえば、世界恐慌、昭和恐慌とされる時代の中心にあり、失業者は町にあふれ、労働争議は頻発し、農村部の疲弊は悲惨であった。その前の1932年には右翼や軍のテロリストが横行して政財界要人たちが次々と暗殺され、政党内閣が倒れて元海軍大将の斉藤実を首相とする「挙国一致内閣」となっている。
 満州では戦争、国内では大不況と政治不安という、どん底の時に東北地方で起きた大災害は、2011年の今の世情と大災害と、なにか似通っているかもしれない。

 1933年3月の新聞を読んでみたら、この月は、新聞号外が4回も出た騒乱の日々であった。
 戦争、大地震と津波、世界恐慌、外交問題などの事件が、その頃の日本を揺り動かして、更にその後の日本を下りの崖道に導いたのであった。
 1945年には崖下に転落する日本の悲劇の序曲を聴くようである。

 実はちょうどこの時期、わたしの父が一兵卒として中国で戦闘の最前線に出て、弾が身をかすめる日々を送っていたのである。わたし個人としても気になる年月である。
 父はその戦争日誌をのこしており、その1933年3月の一庶民の戦場での日々と新聞記事を合わせつつ読んでみた。

 その後の歴史的事実と今日の動きを思い合わせて、わたしは時間航行者の気分になってしまった。

この続き全文はこちら津波と戦争そして原発   http://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-senso-genpatu
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