今年も山里の棚田で田植えをしてきた。2004年中越大震災復興の手伝いが縁で仲間たちと行くようになった、長岡市小国町法末集落である。
ひんやりとした田んぼの泥水の中に両脚を踏ん張り引き抜きつつ、黙々と早苗を植え進んでいく。近くの林からカッコウ、ウグイス、ホトトギスのさえずりがひっきりなしに聞こえる。
晩春の陽にゆるゆる照らされ、草木の緑に染まるほどに囲まれて、静謐な山里の風景に自分が融け込んでいることがわかる。
もちろん遊びの米つくり(GIFアニメ参照)であるが、今年でもう8年目である。
3段の小さな棚田を合わせて7アールの広さだが、10人ほどで1日半の田植え作業は、8年前のわたしに比べるとそれなりに年とったので、あの半端な中腰の姿勢を続けると、体にこたえることおびただしい。アミノバイタルを飲んだくらいでは効かない。
周りの田んぼはどこも機械農業の中で、この3段棚田だけが手で植えて、手で刈って、自然乾燥という、古典的な手法をつかう米つくりである。
もっとも、はじめは手による草取りもやっていたが、さすがにできなくなって今は除草剤を入れている。
田植えしてきたといっても、田植えまでには現地でいろいろな作業がある。それは現地住まいの仲間がやってくれる。
次は稲刈りだが、そこにいたるまでにはいいろいろと日常作業がある。植えておけば稲が勝手に育つのではない。
夏には緑、秋には黄金の敷物で覆われる美しい棚田風景は、天候を見ながらの絶え間ない管理があればこそである。
だが、集落のあちこちの棚田が耕作放棄されて、草が生い茂り、萱原となり、木々が育つ風景が見える。農業機械が入らない場所や、震災で水の道が絶たれたり、営農者が高齢化しても後継者がいないなどが主な原因である。
営農をしたいと新住民が入るには、豪雪の棚田の山里はなかなかに難しいようだ。でも、冬は近くの街の中に住まい、雪解けになったら山里に住んで農作業するという生活スタイルはありうる。
現に山里生まれ育ち山里住まいであった人たちの中で、街に住まいを持ち、いわゆる2地域居住をしている人たちもいる。
今、こうして平和な風景だが、2004年からの数年は、今、東北地方で起きていることがここでもあったのだ。地が割れ、棚田は崩れ、道が切れ、家が傾き、集落全員が避難所生活を強いられた。
話題は漁業集落のことが多い東北でも、実は農業集落で広大な農地が津波で潮をかぶって被災している。
中越地震被災の山里では、崩れた棚田をブルドーザーが動き回り、幾何学的な棚田に作り直した。風景としては味気なくなったが、農作業をしやすくなった。営農者は減ったが、棚田面積は増えた。
さて、東北の津波塩害農地は、どう復興するのだろうか。
参照:中越山里の暮らしコラム
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