ラベル 文化・歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 文化・歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022/01/14

1605【コロナ第6波来たる】人生に飽きた八十路にパンデミック行方見たくて生き甲斐ふつふつ

●ロッパが来た

熊五郎
:やあ、ご隠居、生きてますかい、謹賀新年ですよ~。
ご隠居:おや熊さんかい、ウン、新年おめでとう、まだ生きてるよ。まあお上がりよ、新年会やろうよ。
:はいはい、久しぶりに飲み会やりましょう、二人だとコロナまん延防止規制の飲み会人数制限以下ですね。
:そんなことはどうでもいいだろ、ささ一杯やりなよ。
:あのね、ご隠居、沖縄とか山口とかの県では大変らしい、なのに酒飲んでいていいのかしらと思うでしょ。
:お前ね、まるで戦争中の「戦地の兵隊さんのことを考え我慢せよ」と、あれこれ生活に難癖付けられたことを思い出させるね。
:うわ、古いこと言う。でもね遂に来たんですよ、ロッパですよロッパが来た
:お前こそ古いね、昔、古川ロッパという俳優がいたな、それがどうした?
:いや、そうじゃなくてコロナ第6波ですよ、ものすごい感染者数の増加ですよ。
:おお、そうだった、1月14日には一挙に2万人増加、先週の同じ日に比べて9倍も多く、去年の9月1日以来とのことで、こりゃもう第5波を越えるな。
:第5波が静まった去年の秋、日本に第6波が必ず来ると専門家たちが言ってた通りです。



●アメリカ細菌部隊降下

:この最新日本コロナ感染者統計を見て思い出すのは、一昨年初期のころ鳥取島根秋田山形の各県が長らく感染ゼロ県だったことだよ。もともと人口も少ないけどね。
:今もその4県は少ないけれど、一昨日までは鳥取島根秋田3県が千人台だったけど、昨日13日から秋田が2千人台に脱落、防疫トップ3県は山陰県になってきた。
:それにしても沖縄県の感染者数は、単位人口当たりで見て異常値だね。
:それはね、アメリカ軍が独自に県内軍事基地に感染者を輸入してるからだそうですよ、岩国基地のある山口県も多いのがその証拠、しかもアメリカ軍は感染者がどこにいるか言わないそうですよ。

:あ、それって、たぶん、細菌部隊が落下傘降下してるんだね、きっと。
:ワハハ、まさかねえ、そうなら細菌部隊作戦動向の軍事情報だから隠すでしょうね、そうか、なるほど、怖いなあ。

:そして地球全体ではもっとすごい勢い、昨日から340万人も増えて合計3億2千万人、WHO発表では、欧州・中央アジアでは6~8週間で人口の半数超が感染おそれがあるというよ、国民の半数がコロナの病だよ、どうするんだろう。
:それにしてもアメリカのはすごいものですねえ、この勢いで沖縄に攻め来てるんだから、たまらないや。
:この表を以前から見ていつも気になるのは、人口が多いアフリカ大陸が登場しないのはなぜだろうってこと。全体として多いけど多数の国があるからランキング上位には登場しないのか、そもそも医療統計が出てこないのか、どうなんだろうねえ。他大陸が落ち着いたころアフリカ大陸からぶり返すのではあるまいな。


●われらが呼び戻した第6波

:ところでコロナって、第6波が必ず来ると言われて警戒していたにもかかわらず来てしまったでしょ、これって人間には不可抗力な自然現象なんですかねえ。
:いやいや、そうではあるまい。要するに警戒不足だったってこと、端的に言えば人間が呼び戻したってことだろう。だって人間と人間が出会わなければ感染しないのにここに至ったということは、昨年末から今年にかけてのクリスマスと年末年始休暇が、ちょうどコロナ低迷期だったから、コロナは居なくなったと油断して、人々が出会ったってことだろう。
:そう、コロナをバカにしたかもねエ、いや、次の第6波が必ず来るのなら、今の内に宴会でも旅行でもパーティでもやっちまおうって駆け込み面会したんですね、それが見事にコロナにバレちゃって感染しちまった。
:う~ん、それが第6波の原因とすれば、人間の自業自得というものだねえ。
:そういえば去年の第5波だって、夏休みとオリンピックが招いたに違いないですよ。
:去年のデルタ株後継となったオミクロン株は、デルタよりも死亡率は低いが、感染力が高いらしいよ。
:その死亡率が低いのはワクチンのせいかもしれないでしょ、だとするとワクチンの普及してない世界お国々からまた感染が広がるでしょ。
:地球上のそれそれの国を閉じてコロナ侵入防止をこれほどやっていても、オミクロン株のように、どこかから入国してくるのだねえ、ワクチンを押しのけて感染するしねエ、よくやるねえ、コロナもえらいもんだ。
:感心しちゃいけないでしょ。去年の夏にあれほど大騒動してワクチンを打ったのに、こうなってしまうはどうしてなんですかねえ?
:そして今頃になって3回目ワクチン打つべきだって、せんだってと同じようなドタバタしているのもヘンだね、分かってるのにねえ。
:それに既にロッパが来てしまった今も、その3回目ワクチンを打てないままなんですね、政府はなにしてるのでしょうか。
:首相の岸田さんは「先手先手を打ってやっていく」と言ってるらしいけど、政府の対策がコロナの後を追いかけていると言うべきか、それとも、政府対策に反抗して人々が出会って感染しあっているのか、どっちなんだろう。
:先手打ってこうやると首相が言うと、コロナのヤツがそれを聞いて先手の先手を打ってロッパを連れてきたんでしょ。
:ワハハ、「これからは黙って先手打ちなさい」と助言しようか。

●社会崩壊堂々巡りか

:今度はというか今度もというか、あまりの感染拡大の速さに、医療体制が追い付かない状況が来ているそうですよ。
:これだって夏ごろに経験済みの大事件だったのに、その後の今までに態勢立て直しができないほどに、日本の保険医療体制とその行政はひどく痛んでいたってことなんだろうか。
:さっぱり知らないことですが、これらの現象は公衆衛生学という分野でこれまで研究してきたのでしょうかね。
:わたしも知らないが、医学でもあり社会学でもある分野に思えるな。でもこれによる分析と予測を現実に動かすのは政治だから、そこには学ではない不純要素が入るだろうな。
:そうそう、その最たるものが「経済を回す」ことですよ、政府のコロナ対策担当大臣が経済再生担当大臣であることが如実にそれらを物語っていますよ。
:そのとおりだけど、今回の第6波の急激さで起きてきたのが「社会を回す」という言葉だな。しきりに言われているが、どうやら経済を回すよりも前に、経済が乗るべき基本となる社会そのものが回らなくなってくる心配が大きいのだろうな。
:そうか、社会の現場で働く人たち、エッセンシャルワーカーって言われる人たちが、感染者の増大に巻き込まれてみな寝込んでしまうと、医療崩壊どころか社会崩壊に至るでしょうね、コワイコワイ。
:う~ん、この前の大戦後の体験の再現か。そうならないように、感染者への濃厚接触者判定範囲を狭くしたり、隔離期間を短縮することで、名目上の休業者を減らす工夫をしているようだが、これってなんかおかしいと思うね。
:これまでと感染実態は変わらないのに制度変更で感染者数を減らすって、科学じゃなくて政治そのものですね。公衆衛生ってのはそういうもんなんですかねえ、無い袖を振るしかないのでしょうねえ。なんだか不可思議です。
:もしそれで感染者が増えたなら、またもとのよにうにやり直すしかない、これはもう堂々巡りだな。
:そもそも波が何度も来てそのたびに右往左往しているのが、まさに堂々巡りのこの2年ですよ。パンデミックてそういうもんなんですかね。

●コロナに生かされる老いの日々

:そうなんだねえ、不謹慎だが面白いと言えば面白い、いや、実に面白い、わたしはちかごろコロナを好きになりつつあるんだよ。
:えッ、ご、ご隠居、だ、大丈夫ですかあ。
:ほれ、わたしは以前からピンピンコロナで死にたいなんて冗談半分で言ってただろ。もちろん本気半分だよ。
:そうそう、去年の冬にはこんな西行の本歌取り狂歌を詠じてましたよ。
  願わくは花のもとにて春死なむその如月の望月のコロナ
:そうだったよ、もう長生きし過ぎて人生に飽きてたときに、ちょうどうまいことコロナが来たから、ピンピンコロリコロナのチャンスと言ってたんだがね、近頃、心をを入れ替えたんだよ、長生きしようとね、しかもそれがコロナのおかげでね。
:そりゃまたどういう心境の変化、しかもコロナのおかげとは、。
:わたしの少年時には世界大戦があって、老年時に至ってこのパンデミックだろ、人生で2度も地球的人類危機事件に遭遇するって珍しいことと思うよ。
:そりゃまあそうですね。
:初めの世界大戦の行方は見届けつつ生きて来たよ、面白かったね、そこでせっかくだからパンデミックも行方を見届けてから死にたいと思うようになったのだよ。行方も見たいけど、只今現在の日々も世界中でのドタバタ騒ぎも野次馬でね、これが何もできない老いの日々に生きる刺激だよ。
:それがコロナのおかげで長生きですかい、コロナを年寄りの生き甲斐にしようってことなんですね。コロナは長寿の種なのかあ、マッタク。
:そういうことで、コロナに生かされる人生だよ、こんな狂歌を詠んだ。
 人生に飽きた八十路にパンデミック行方見たくて生き甲斐ふつふつ

(20220114記)

参照◆コロナ大戦おろおろ日録


2021/12/28

1602 【紅白歌合戦】出場歌手も曲名もほとんど知らぬ中に両方共記憶にあるたった一人は

 TVを見ないから用が無いのだが、毎年暮れに恒例のNHK紅白歌合戦なるものが、世に存在するくらいの知識はある。昔々にTVを少しは見ていたころもあったが、紅白合戦を観た記憶はない。

 今日12月28日の新聞の社会面に、この暮れの紅白出場歌手名と歌う曲名の一覧表がある。ヒマなので眺めていたら、当然のことに総勢50数名50数曲の歌手名も曲名も、それらのほとんどがわたしの記憶にない。


 そのなかにたった一人だけ、どちらも記憶にある人を発見した。それは「石川さゆり・津軽海峡冬景色」である。

 たぶん、わたしが昔々まだTVを見ている頃、石川とその歌を何回か見聞きしたのだろう。表には石川の出場回数が44回とあるから、少なくとも44年前頃にはTVで何度か見聞きしたのだろう。まだ生きてるのか、自分のことを棚に上げてそんなことを思う。いやはや、たった一人だけとはねえ。

 ほかに歌手名だけ記憶(容貌をおぼろに思い出す程度)があるのは、「郷ひろみ、薬師丸ひろ子、松平健、さだまさし」である。それぞれどんな曲の記憶があるかと聞かれても無理である。

 一方、曲名だけ記憶(メロディーの一部をおぼろに思い出し程度)にあるのは、「有楽町で逢いましょう」。これって1950年代後期だったかにフランク永井が歌っていて、今はもうない「有楽町そごう百貨店」の宣伝歌だった記憶がある。ということは、石川さゆりよりも昔の歌だ。ちかごろ復活しているのだろうか。

夜明けの歌」も曲名に記憶がある。昔々に岸洋子なる歌手が歌っていが、その復活だろうか。「いい日旅立ち」って、昔々に山口百恵って歌手が歌ってた旅行宣伝歌だったような記憶があるが、これも復活か。

 わたしはもともと歌謡曲に興味ないし、カラオケ大嫌いだから、これだけでも記憶にふれる歌手名と曲名があるのが不思議なくらいである。まあ、長生きしたからね。

 ところで新聞の別の欄の記事に、ちかごろはLBGTとか性別が多様になり、単純に男女分類歌合戦に分類不能というか拒否する歌手もいるし、世間も男女色分け批判の潮流にあるので、NHKもこの分類を考えなおすかもしれない、ようなことが書いてあった。

 ではどう分類して歌合戦にするのか、白黒分け、美醜分け、貧富分け、老若分け、大小分け、、、どう分けてもあれこれ言われるなあ、そうか、くじ引き分け、じゃんけん分けしかやりようがないな。(20211228記)

2020/12/20

1510 【能:蝉丸】能楽鑑賞でコロナ禍の世間をしばし忘却、流派で異なる?コロナ対策

 コロナ過はますます深刻だが、休演となるかと怖れていた12月19日の横浜能楽堂の企画公演は、幸いにも実行だった。大槻文蔵と浅見真洲という大ベテランによる観世流の能「蝉丸」鑑賞、鬱屈する日々の中で伝統芸能堪能でしばしコロナ世間を忘れた。


横浜能楽堂本舞台見所1階中正面5列14番より

 先月の横浜能楽堂公演「木賊」では、舞台上のコロナ対策らしく、地謡5人が顔から白布マスクふんどしを垂らして横並びの姿は、なんとも異常な舞台風景だった。それが気になるし、そのせいか謡も聞こえにくくて、能に浸れなかった。

 今回は、通常は8人の地謡が5人横並びのコロナ仕様は仕方ないとしても、顔にふんどしを垂らしていなくて安心した。だから見所から舞台を眺めている分にはコロナを忘れることができた。流派によってコロナ対策が異なるってのはヘンだ。
 だが、出演者たちの舞台から見る見所は、だれもかれもがマスク姿でコロナ風景そのものだったろう。

 見所は座席を一人おきの指定席である。入り口で検温、手指消毒、マスク着用要請され、チケットもぎりを自分でやる。チケット介して感染もあり得るのか。

 能「蝉丸」は能特有の舞うことは少なく、物語演劇的である。美しい詞章が多い。
 主役二人は姉弟であり、兄は盲目の乞食で妹は異形物狂い放浪者、その出自は皇族であるという設定が奇抜である。その故に戦前戦中は不敬にあたるとて、上演禁止であったのだから、まぐさい風が吹いていたらしい。今も吹いていそうだ。

 その設定はともかくとして、この能も本質的にはよくある仏道もののひとつであろう。二人の不幸な運命は、前世現世来世のためであり、諦念せよとの教えである。
 今がもし中世ならば、庶民であろうが皇族であろうが、コロナから逃れられない、諦めよというのであろう。

 だが、能によくあるように、最後に仏道に救済されるハッピーエンドではない。シテの蝉丸は仏道に入るのだが、最後まで救われることはない。妹の逆髪に出会った喜びもつかの間、逆髪は狂気のままに去っていく。盲目の蝉丸はあばら家にひとりただ嘆くのみ。

 謡には仏道による救済の言葉はいくつも登場するのだが、それらが姉弟を救うことないし、それらしいほのめかしもなく舞台は終了する。考えようによっては、それだからこそ近代的な解釈を可能にする能であると言えるかもしれない。

 今回の能の面白さの中心に、その場所の設定があることを、講演の馬場あき子さんが強調していた。「逢坂の関」は古来から歌われた所ある。関所と言う人々の出会い別れによる多くの情感を込められたところである。文化人類学や民俗学でいう「境界」である。異なる世界相互を行き来する場所である。

 だからこそこの能の作者は、登場する姉弟も皇族から放浪者あるいは乞食という両極端な世界を行き来した者として創作した。作者は不詳だが、世阿弥の頃はすでにあった能であるという。

 文蔵と真州という両シテ組み合わせに加えて、アイ狂言に野村万作が源博雅として登場したのも豪華配役であった。アイ語りもないこんな簡単な役に万作とはもったいない。
 だが実はこの源三位博雅は、この物語では重要な役のはずである。なぜここに彼が登場するのか、蝉丸と同のような関係なのか、それは重要なことなのだが、能の中では一向に出てこない。今昔物語にあるこの話をアイ語りさせるとよいのにと思う。

 考えてみれば、能役者たちも今は仕事がなくて大変であろう。このような演能機会はめったにないことだろう。現在は能楽が大衆化して、演能の機会が多くなっていたのに、どうなるのだろうか。コロナ騒動をもとに能や狂言の新作演目が登場するだろうか。

●2020年12月19日14:00~16:30 横浜能楽堂
企画公演「馬場あき子と行く 歌枕の旅」第3回 近江国・逢坂

講演:馬場あき子

能「蝉丸」(観世流)
 シテ(逆髪)大槻文藏  シテ(蝉丸)浅見真州
 ワキ(清貫)森 常好  
 ワキツレ(輿舁)舘田善博 ワキツレ(輿舁)梅村昌功
 アイ(博雅三位)野村万作
 笛 :松田弘之  小鼓:曽和正博  大鼓:白坂信行
 後見:赤松禎友 武富康之 大槻 裕一
 地謡:浅井文義 小早川修 浅見慈一 武田友志 武田文志

(2020/12/20)

2020/08/12

1483【望郷と忘却:『荘直温伝』読後感想文:1】故郷生家の神社を探した歴史地図の忘却

  わたしの生まれ故郷は高梁盆地、そこの鎮守の神社に生まれて少年時代を過ごした。そう、まさに故郷である。
 そこは岡山県の中西部にある市域は広大な高梁市の、臍のように小さな中心部である。四方を丘陵で囲まれた小さいながらも典型的な盆地の景観を持っている。この辺りは吉備高原と言われる準高地平原で、そこを高梁川が切り込んで作ったのだ。


  今は世界中が新型コロナウィルスパンデミックで、日本列島も2月頃からそのコロナ禍の中にある。この山間部の人口1万人ほどの小さな高梁盆地には、その災いが及ばない平穏な日々がつづいていた。だが2020年7月22日、その盆地最初の感染者2名が、とうとう発生した。

 それがスリランカ人であると聞いて、そんな遠くからこの山間の小さな町に何故と意外だった。でも実は、盆地内にある吉備国際大学は、外国人留学生誘致に力を入れているから、十分にありうることだ。インド洋の島国からはるばるやってきた地で、パンデミックに追いつかれるとは気の毒なことだ。

●生まれ故郷「高梁盆地」が舞台の本

 その高梁盆地を舞台とする『荘直温伝 忘却の町高梁と松山庄家の九百年』(序・荘芳枝、松原隆一郎著 吉備人出版)という本が出版されました。それをを知ったのは、新聞書評を読んだかつての仕事仲間の旧友が教えてくれたからからでした。(ここから口調が丁寧語に変わったのは、この本に倣うことにしたからです。)

 うーむ、買うかなあ、だが老い先短いのに、家に蔵書がたまりすぎて困る、蔵書は他人に差し上げる、これからは本購入一切禁止、そう自分に言い渡して10年ほどになります。
 でもなつかしい故郷の本ならば、禁を破って購入しようかな、政府がコロナ給付金とて、税金10万円を返してくれたからなあ、それでも定価税込み3300円とはちょっと高い、そこで近所の市立中央図書館に購入を申請をしました。

 ところが嬉しいことに故郷の幼馴染の同期生から、入手したけどもう読んだからそちらに回す、近くに住む同級生たちと読み回すようにと、その本がやってきました。さっそく興味深く読んだので書評を、というにはあまりに私的なことなので、読書感想文としてここに書こうと思います。

 故郷の本を読むときは、自分にかかわることがどう記述されているか、知っている人が出てくるか、知っている場所が出てくるか、そんな極々私的なことにどうも興味が行きます。そして著者が読者よりも知らないことや、間違いがあると、もう鬼の首でも取ったような良い気分になります。

 さて、表題『荘直温伝 忘却の町高梁と松山庄家の九百年』著者「序・荘芳枝、松原隆一郎著」が気になります。
 荘直温(しょうなおはる)は、主人公の氏名でしょう。わたしはその名を知らなかったのですが、荘という姓の人に出会ったは、高校で歴史教師が荘智心先生だけですが、ご親戚かもしれません。

 忘却の町高梁とはどういう意味でしょうか、高梁の町が世間から忘却されているのでしょうか、逆に高梁はなにか大きな忘却をした町なのでしょうか、気になります。
 松山庄家とはなにか、庄家となっていますが、庄は荘の略字ですから主人公の家系なのでしょう。松山とは、今の高梁盆地あたりを近世までは松山と言っていましたから分かります。だが九百年となると、源平合戦時代にさかのぼるのですが、松山がそのころの歴史に登場するとは聞いたことがありませんから、読むのが楽しみです。

 荘芳江さんについても知りません。わたしの母校の小学校教師だったと経歴にあるのですが、在校の時期が一致しないようです。
 松原隆一郎さんのお名前だけを知っていますが、著書を読むのはわずか2冊目です。その1冊目は都市景観に関する本で、もう20年も昔の発行前でしたか、その本の編集者からメールがあり、わたしのネットページの一部を引用したいとのこと、それでその名を知ったのでした。その本を書棚に探したが見つからないのは、だれかに差し上げたのでしょう。今、ネット検索したら「失われた景観―戦後日本が築いたもの 」(PHP新書  2002)と分かりました。

 書評ならば、本の内容の紹介から書き始めるものでしょうが、そのあたりは池澤夏樹さんにお任せします。これは極私的な読書感想文ですから、本の中のわたしに関係深いことから記していきます。もちろん全部読んでからこれを書いているのですが、極私的に関係することは次の件だけだったので、それから開始することにします。

●幕末地図に百年後のわが生家を探す

 巻末に付録として、高梁盆地の幕末のころの地図「備中松山城下図」(松山とは当時の高梁の地名)があり、市街部には商家や武家の居住者名の記入があります。
 わたしは都市計画を仕事にしていたし、大学を建築史研究で出ましたから、こういう歴史地図を見るのを大好きです。

 そして歴史地図ならば、とうぜんに御前神社(おんざきじんじゃ)があるはずです。御前神社とは、この地図の時代から100年ほど後に、わたしの生家となる城下町の鎮守社です。15世紀半ばには確実に存在していたとわかる文献がありますから、幕末には当然ありました。
 この地図には御前神社があるはずと探すと、なんとそこは空き地です。なぜ?


松原図の御前神社付近拡大(御埼丁と記入の上の空地が御前神社の位置)

 この地図は既存資料二つ(国分胤之「昔夢一斑」、泉順逸「備中高梁城下絵図下絵」高梁市歴史美術館蔵)を参考にして、この本のため新たに製作したとあります。ここでは著者の名をとって「松原図」という言うことにします。

 他の八重籬と八幡の各神社や寺院の記入はあるから、寺社名を書かないルールではないようです。更に御前神社がある地名を、「御埼丁」と書いてあります。「御前丁」のはずです。もちろん神社名による名称です。
 これらは参考にした二つの資料がそうなっているか、あるいは写し間違えたか、あるいは理由あってそのように変えて編集したのか、どうなのでしょうか。

 参考資料と記してある〔国分胤之「昔夢一斑」〕と〔泉順逸「備中高梁城下絵図下絵」高梁市歴史美術館蔵〕を探しました。
 「昔夢一斑」(1928年発刊)は、国会図書館がデジタル化してネット公開しているので見ることができます。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190202

 御崎か御前かについては、「増補版高梁市史」に次のようなことが書いてあります。1444年にこの神社の神職が書き残した「神社祭礼次第」があり、その文中には「御前神主」とあり、また1622年及び1704年の神社寄進帳には、「御崎神社」と書かれているとのことです。
 1651年に時の鐘がこの神社に作られましたが、その由緒が鐘に鋳込まれた文字の銘文があり、そこには「御前大明神」の語があります。御前も御崎も同義語のようですが、わたしの記憶の範囲では御前でした。

 幕末の1850年前後頃の各町丁ごとの武家と商家の名称のリストがあり、付属の地図「松山城下之図」(ここでは「国分図」と言いましょう))には主な町丁名と主な施設や社寺を記しており、御前神社がその鐘撞堂(かねつきどう:現存する)とともに大きく記してあります。

 ただし国分図には、松原図のような住民名記入はないので、リストから判定するしかありませんが、いずれにしても御前神社も御前丁も記入してあります。

 「松原図」が参考にしたもう一つの泉順逸備中高梁城下絵図下絵」(ここでは泉図という)は、ネットを探してもみつかりません。現物を見るしかないので、高梁盆地に住む旧友に頼み、一方で歴史美術館にメールで問合せをしました。


泉図の御前神社あたり

 その結果として分ったのは、泉図には御前神社があります。そして下絵と書いてあるごとく鉛筆によるモノクロ画ですが、驚いたことには、これをもとに色彩絵図に仕上げたもう一つの泉図があるのです。
 それは泉順逸「松山城下屋敷図 幕末頃 昭和44年6月13日作成を終る」とあります。「下図」にもこれにも御前神社の記入があり、御崎丁ではなく御前丁とあります。


泉順逸「松山城下屋敷図」の御前神社付近部分拡大

 こちらの図のほうが美しく詳しいのに、松原図の作成の参考にしなかったのどのような理由でしょうか。

 なお、泉順逸「松山城下屋敷図 幕末頃」には、次のような参考文献の記入もあります。
   弘化二年正月二十六日作成城下之図 杉木家蔵
   嘉永四年御家中席順表 杉本家蔵
   慶応四年二月坪井○○備中松山城下絵図 信野友春氏蔵
   昔夢一斑 国分胤之氏著
   延享元年差出帳之内町屋之部 芳賀氏蔵
   高梁町切図、同土地台帳 高梁市役所 

 松原図は、なぜこれらを参考にしなかったのでしょうか。御前神社は1839年に火災で炎上し、1845年に再建したそうですから、この間の地図とすれば、神社も鐘撞堂定番の家も滅失していたかもしれませんから、松原図はその表現でしょうか。しかしそれならこの火事で600軒も焼けたのですから、他にも空白地が多くあるはずです。

 この地図を持って高梁盆地をめぐって、往時の美しかった城下町を偲べと、松原さんは書いているのですが、たまたまわたしの生家だった神社に関することなので気が付いた疑問ですが、この他にも疑問とすることがあるかもしれません。

 ついでに言えば、松原図では高梁盆地はこれだけしか家がなかったように見えますが、実際はもっとあったのです。対岸には備中鍬を生産した鍛冶屋町があったし、山すそや中腹には農村集落があったのです。住人名を書かないにしても、それらがあったことを表現してほしかったと思います。泉順逸「松山城下屋敷図」にはそれがあります。

 さらに言えば、現在の鉄道の線路と駅の位置を記入し、地図づくりの基本であるスケールを記入してあれば、持ち歩くときに往時と現今の対比照合をしやすかったろうにと思うのです。
 ということで、御前神社と御前丁は参考資料に存在していますので、松原さんは何らかの理由で神社名を削除し、町名を別名にされたのでしょう。聞いてみたい。

●御前神社の鐘撞堂・時鐘撞定番高梁

 「昔夢一斑」の丁町別人名リストの中に興味深い発見をしました。「鐘撞定番」として3名が書いてあります。この「鐘撞」の鐘とは、御前神社の「鐘撞堂」にある時の鐘のことで、「定番」士分の3名は定時にその鐘を撞いて、城下に時刻を知らせる役割の武士たちです。もちろん吊り鐘と鐘撞堂の管理をしたのでしょう。
 なお、そこにある藤本又兵衛の名は、今の下町にある藤本呉服店の先祖だと、その末裔になるわたしの同級生の藤本さんが教えてくれました。
 国分図と泉図には、その鐘撞堂を描いてあります。


『昔夢一斑』にある「鐘撞定番」の氏名

 他の資料によると、鐘撞堂の南隣の敷地に長屋があり、この3名が住んで居たとあるように、泉図ではその3名の名が記入してありますが、松原図にはありません。
 
 その「時の鐘」は1651年にここの鐘撞堂に設置したと、藩主の名で鐘にその旨が鋳文字で銘記されていました。そして1940年まで290年も盆地に、大時計のようにその音が響いていたでしょう。もちろん近代になってからは鐘撞堂定番はなくなり、神社の神職が撞いています。わたしの祖父や父がそうでした。

御前神社付近 (グーグルアース)


御前神社参道坂道の登り口(グーグルストリート)


参道坂道の途中から振り返り鐘撞堂を見る(グーグルストリート)



1926年の写真 鐘撞堂の北に旧制高梁中学のテニスコートがあった

御前神社境内と付近 1950年代の記憶(2011描画)

御前神社社殿・社務所・宮司宅 1950年代の記憶(2011描画)


御前神社とその周辺の現況 (グーグルアース)

 しかしその鐘は1940年に、戦争の武器となるために軍に供出して出て行ったままで、吊り鐘のない鐘撞堂がいまもむなしく建っているばかりです。
 その鐘が出ていった年は紀元2600年の節目とて、元日にこの鐘を2600回撞き鳴らす行事がありました。その時の音と騒がしい雰囲気が、2歳半の幼児だったわたしの人生最初の記憶となっています。
 その年、日本開催予定だったオリンピック大会を、戦争で返上しました。


1940年元旦紀元2600年祝賀2600回撞鐘記念写真


290年間ここにあった鐘が戦争に出ていく日 1940年

 この出て行った吊り鐘を、戦争が終わった次の1946年に、まだあるかもしれないと瀬戸内海の島に、父に連れられて捜索に行きました。伯父と従弟も一緒です。暑い夏の日、小さな船に乗って着いたのは直島でした。今はすっかり観光の島になっているようですが、そのころは三菱の金属精錬工場だけで、戦中に武器にするべく各地から集めた金属を溶かしていました。

 島は工場の煤煙のせいでしょうが、草木一本もない禿げ上がった赤い小山でした。その丘の上の赤い土の大きな空き地に、吊り鐘の大群が待っていました。
 さまざまな吊り鐘が暑い陽に照らされて黒々と、校庭の子供のように広がり並んでいました。幼少年の記憶でも、それは実にシュールな風景でした。

 子供の背丈ほどの吊り鐘群の中を歩き回り、御前神社の鐘を探しまいたが、見つかりませんでした。もう溶かされて武器になっていたようです。この鐘が何人かを殺したかもしれません。その帰り道、瀬戸内海のどこかの美しい砂浜海岸で生まれて初めての海水浴をしました。まだ、だれもいない海水浴場でした。
 ●参照:2016/08/22【敗戦忌】兵器となった鐘は戻らない
       http://datey.blogspot.com/2016/08/1209.html

 なお、70年代だったと思いますが、奇特な人がこの鐘撞堂に吊り鐘を寄付して、街に時の鐘の音が再び響いたのでした。その吊り鐘はプラスチックでできており、鐘の音は録音機から放送していたそうです。
 戦後再び、見上げれば小さいけど黒い鐘が見え、鐘の音が聞こえた時期がどれくらい続いたのか知りませんが、今はそれもありません。
 グーグルストリートには、鐘撞堂が立っている姿が見えるので健在のようです。これは少なくとも95年前には建っています。社殿も拝殿は1877年築、本殿は1881年築だから、いずれも長寿の木造建築です。

 ついでに「昔夢一斑」の幕末の町丁ごとの人名リスト中に、わたしのご先祖の名を探しました。わたしの祖父の代から御前神社宮司(社掌)になりましたから、御前神社にはいません。
 父が編集制作した伊達家系の資料には、高梁での伊達ファミリーの先祖は、伊勢の亀山からきたそうです。転封(1744年)された板倉家の士分として、殿様についてきてそのころの姓は増田だったそうです。だから幕末には誰かいるはずです。
 そのリストの中に、東間之町に2名の増田〇〇(判読不能)と増田忠治という名前が見えるのですが、これでしょうか。

 ●参照:広報たかはし 地名をあるく 92.御前町

  https://www.city.takahashi.lg.jp/site/koho/onzakicho.html

 以上で、荘直温伝の本筋とは全く関係ない極私的なことですが、無理に関係つけるとすれば、荘直温は私の祖父が撞く御前神社の時の鐘の音を聞いたことだろうし、荘芳江さんは父が撞くそれをお聞きになっていたでしょう。
 次から本文を読んでの、いろいろな望郷と忘却の故郷への感想を書きましょう。

(追記 20200813)
 今朝の新聞を見たら、コロナが蔓延するからお盆の帰省を控えろ、という世論があるという。わたしはもともとお盆帰省の習慣がなかったし、もしあったとしても今や帰るべき家がない。
 そうか、この記事は一種のリモート帰省だなと気が付いた。リモートの先は空間と時間の両方である。そうだ、8月15日が来るのだから、この話も書いておこう。1945年のことである。これも荘直温には関係ないが、御前神社のことならこれも外せない。

 当時の憲法が定める戦争開始と終結の責任者たる天皇が、1945年8月15日の正午から、初めて肉声で放送する事件、これにわたしは遭遇した。場所は岡山県中西部の高梁盆地の、生家の神社社務所であった。
 その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から兵庫県芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて住んでいた。盆地内のほかの寺社などに児童51名が疎開して来ていた。

 当時ラジオのある家は限られていたが、その疎開学級が持っていた。社務所の玄関口に近所の人々が集まって、敗戦の詔勅を聴いていた。
 放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、列になって黙々とぼとぼ参道の石段を下って行くのを、わたしは社務所縁側から見ていた。緑濃い社叢林の上はあくまで晴れわたり、暑い日であった。
 もちろん8歳のわたしには内容を分らない。その場の情景の記憶のみである。
 聞いていた人たちがこれを敗戦と分かったのは、たぶん、疎開学級の教員がそれを伝えたのであろう。

 その半月後に父が兵役解除で戻ってきた。父は満州事変、支那事変、太平洋戦争と3度も繰り返して、日本の十五年戦争のうち半分の通算延べ7年半も兵役に就いた。
 最後は本土決戦に備えるとて、小田原の海岸から上陸する敵を迎え撃つ陣地構築をしていたが、「父の十五年戦争」がようやく終わった。

 だが、わたしの家では戦後戦争とでもいうべき難が始まった。戦後農地改革で小作田畑を失い、食料源がなくなったのであった。支払われた補償金は数年間の分割払いで、戦後超インフレで紙切れ同様になった。
 戦争で思い出すのは、とにかく腹が減っていたことばかり、3人の子に満足に食わせてやれないのが、父母の一番の悩みだったろう。今のコロナ禍では、食い物の苦労がないだけ良しとするか。

                (つづく

高梁盆地に関する記事はこちらにも

2020/04/15

1454【コロナ巣ごもりオペラ】魔笛・トゥーランドット・エウゲニオネーギン・義経千本桜を書斎で無料で観るってコロナも悪くないや

【コロナ巣ごもりオペラ】
 久しぶりに新国立劇場にでオペラ見物、いや、さすがにこのご時世、行ってきたのではなくて、ネット上でのことである。
 コロナで休演中のサービスとて「巣ごもり劇場」と題して、上演オペラ3作の動画を週替わりでユーチューブで無料公開中、これは、まあ、コロナのおかげである。

 今週はモーツアルトの「魔笛」、午後の3時間を、うちの書斎でまったりじっくりオペラ見物って、あの華麗な劇場空間でないのはつまらないが、くしゃみしようとせんべいかじろうと、中座しようが勝手なのがよろしい。

 オペラを批評するほどは見ていないが、最近では2018年と2017年の神奈川県民ホールプロヂュースの魔笛を見た。今回見た新国立劇場の魔笛は、2018年10月3日公演である。
 指揮:ローラント・ベーア、演出:ウィリアム・ケントリッジ、出演:サヴァ・ヴェミッチ、スティーヴ・ダヴィスリム、安井陽子、林 正子、アンドレ・シュエン、九嶋香奈枝、升島唯博ほか

●新国立劇場「巣ごもりシアター
  https://www.nntt.jac.go.jp/release/detail/23_017336.html
●上演作品のさわり部分
・魔笛 https://youtu.be/gbgFQKWngs0 
   4月10日(金)15:00~17日(金)14:00 
・トゥーランドット https://youtu.be/Qq-yp2YzKmE
   4月17日(金)15:00~4月24日(金)14:00
・エウゲニ・オネーギン https://youtu.be/HGkzeLPN6-w 
   4月24日(金)15:00~5月1日(金)14:00

 好き嫌いを言うと、あまり好きになれなかった。プロジェクションマッピングは近頃当たり前になってるのだろうが、その映像がなんだかわけがわからない。抽象なら最後まで抽象で押し通してほしいのだが、部分的に魔笛らしいところがあるだけに、戸惑う。
 まあ、もともと支離滅裂な話だから、舞台も訳わからなくてもよいのだがねえ、、。
 配役については、シリアスなパミーノ、コミカルなパパゲーノ、これじゃあ顔つきも体躯も逆だよ、この二人を入れ替えるほうがよかっただろう。

 次はエウゲニ・オネーギン、その次はトゥーランドットで楽しみである。
 もっとも、ネットにはオペラ公演動画はたくさんある。特に外国の劇場での公演が多く、ネット巣ごもりオペラには困らないが、劇場空間だけはわが空中陋屋書斎では、何ともしようがない。

 この前に新国立劇場に行ったのは、1997年11月「ローエングリン」、今、調べてみると、それは開場記念公演だった。
 指揮:若杉弘、演出・装置・照明:ヴォルフガング・ワーグナー、ローエングリン:福井敬、エルザ:小濱妙美、テルラムント:大島幾雄、オルトルート:小山由美などの顔ぶれだった。このなかでオルトルートの小山由美が印象に残った。

 たまにはオペラに行くことにしているが、新国立劇場は遠いから行かない。近くの神奈川県民ホールや横須賀芸術劇でのオペラには行くのだが、貧乏だからたいていは天井桟敷である。それでも劇場空間で観るのは格別のものがある。
 外国では1994年にウィーンに行ったときに、フォルクスオパーで「ドンジョバンニ」を見た。この時は街を歩いていてたまたま運よくチケットを見つけたのだが、座席位置は中央の前近くの一等席で、料金4000円ほど、日本だと数万円かな、高いよなあ。
1994年11月25日ウィーンのフォルクスオパー
 わたしは日本古典オペラの能楽を好きなのだが、オペラと比べるとネットでこれは非常に少ない。細切れの部分紹介はたくさんあるのだが、全曲はめったにない。
それは多分、オペラと違って日本でしか公演がないからだろうが、それにしてももっと多くの全曲公演動画がユーチューブに出てきてほしいものだ。

 そういえば国立能楽堂も巣ごもり能楽やってるかと調べたら、同じ国立で日本芸術文化振興会の運営なのに、やってないのはどうしてかしら、国立文楽劇場も国立劇場おきなわも国立演芸場も巣ごもりやっていない。やってくださいよ。
 ところが国立劇場は、「義経千本桜」を無料公開している。   https://www.ntj.jac.go.jp/topics/kokuritsu/2020/4190.html
 
 コロナ巣ごもりを機会に、各種の劇場公演動画がネットに多く登場するようになるだろうか。ネットと劇場とは相性はどうなんだろうか。
 と、ここまで書いたところで、神奈川芸術劇場6月公演キャンセル通知が来た。チケットを送り返せ、チケット代と郵送料を指定する金融機関に振り込むという、ヤレヤレ。

参照「趣味の能楽鑑賞(まちもり散人)」
https://sites.google.com/site/machimorig0/#nogaku

2020/02/04

1441【国立近美で戦争画鑑賞】あの明るく白い美人画の藤田嗣治が描く暗い汚い戦争画を観た

 
 これは反戦絵画だな!、と思った。藤田嗣治の戦争画を始めて観た。題名は「アッツ島玉砕」、1943年制作。
 国立近代美術館の常設展を久しぶりに見てきた。ここは格好興味ある絵があって好きだ。
 だが藤田のこの絵は初めて観た。同じ部屋にいかにも藤田らしい乳白色の女たちの絵があったから、この一面に暗いヘドロ色の絵が、藤田作品とは思いもよらなかった。
 あ、これが藤田が戦後に戦争協力者と糾弾された原因の絵なのか。

 わたしの藤田に関する知識は概略なもので、戦前にパリで成功した画家であったが、戦中に日本に戻って活躍、戦争画を描いた。しかし、戦後はその戦争画の成功がゆえに画壇から戦争責任を糾弾され、またパリに戻ってそちらで没した。乳白色の女性の絵が有名、この程度である。
 だから藤田が日本を捨てた原因となった戦争画も、あの白い女性の絵の延長ぐらいだろうと思い、ときに見る戦争賛美の絵をイメージしていたから、この汚い暗い絵が藤田作品とは意外だった。

 この抽象画のような暗い暗い色彩、西欧古典絵画のような人物群像、全体のバランスなどを離れて鑑賞して、さすが藤田だなと思った。
 近寄って詳細を観察した。ごちゃごちゃ組み合っている一人一人の人物の描き方を見ると、一応はアメリカ兵と日本兵を、刀と銃、モンゴロイドとコーカソイドの顔、鉄兜のデザインの違いで描き分けているとわかる。
 刀を振り回す日本兵へのほうが優位な状況にあると見えるのだが、実は日本軍は全滅だったから、これが、戦争画である特徴だろうか。

 この巨大な画面の端から端間まで見ていくと、醜悪陰惨きわまる人間殺戮に気分が悪くなってくる。これこそ反戦画ちうものだろう。そうとしか見えない。
 どうして1943年当時に、これが戦意高揚の絵として受け入れられたのか、アッツ島玉砕という悲劇は隠されてはいなかったから不思議である。

 会場でそう思ったのだが、今、ネットで調べると、この絵の展示をはじめは軍部もためらったという。ところが、展示したらこの前で手を合わせ、涙を流して賽銭を供える人たちもいて、にくい敵を倒せとの戦意高揚に役立ち、藤田も大得意であったそうだ。そして戦争協力画家たちのリーダともなったという。
 絵の表現と画家の行動が分離しているが、それが絵画というものだろう。アートは観る人の側にこそあるものだから、時代によって観る人の目も変わるというものだろうか。

 さらに観ていて思ったのは、当然のことに藤田は全滅し占領されたアッツ島に行っていないはずから、想像で描いたのだろう。しかし当時の日本軍とアメリカ軍では武装のレベルが段違いであり、まるで戦国時代のような敵味方が入り混じる白兵戦はあり得なかったろう。
 日本軍は刀を振り回して、やけくそで敵陣に突っ込むのだが、その前にたちまち火器で撃ち倒されてしまったはずだ。現にわたしは悪名高いインパール作戦で生き残った人から直接に、悲惨な戦場体験を聞いたことがある。
 でも、これを見る大衆はそのような現場を知らないから、藤田は大衆がこの絵をどう見るかを読んで創作した。そこが藤田の大衆に好まれる画家としての成功要因だろう。

 この絵は初めのほうの展示室にあったのだが、観ていたら別の展示室でまた藤田の戦争画が登場した。「○○部隊の死闘・ニューギニア戦線 1943年」とある。描き方はアッツ島とまったくと言ってよいほど同じ色彩と構成である。
 この近代美術館も写真OKになっていたから撮ってきたのがこれ、ニューギニアの一部分である。

 現物はもっと暗いのだが、デジタル写真のおかげでこのようにはっきりと観ることができる。もっとも、これが絵画鑑賞として正しいかどうかは別だが。
 この絵のある展示室は戦争画がテーマであり、8点の展示があり、そこには宮本三郎の作品もあった。でも、藤田ほどの迫力ある戦争画はなかった。
 今や戦争画も堂々と展示され、堂々と毀誉褒貶に耐える時代になったのだろうか。それともいまや戦意高揚絵画が免罪される時代なのか。

  1943年といえばわたしの父が、妻との三人の子たちを残して、三度目の戦場へ出かけた年である。その時の母の号泣を、幼児だった私ははっきりと記憶している。戦争画が示しているように、太平洋は奪われて、父が出ていく船がなくなり、敗戦と同時に帰宅した。戦意高揚絵画は庶民には役立たなかった。

 亀倉雄策デザインのポスター「原子エネルギーを平和産業に!」(1990)があった。今やこれも一種の戦争画みたいに見られる時代になった。さてどう見るか。

 国立近代美術館では、企画展のほうはチケット窓口は大行列であったが、常設展はガラガラでゆっくりとみることができた。会場内の座る椅子がさすがに近代美術の名にふさわしく、なにもクレジットはなかったがこれは清家清の「畳ユニット」と剣持勇の「ラタンスツール」である。
 じつは近くの別館である工芸館にも行ったのだが、そこの椅子類も柳宗理や剣持勇などの作品であったので、しっかりと座って休息しつつ作品鑑賞した。

2020/01/22

1439【バウハウス100年映画祭】ミースとグロピウスそして山口文象たち世代の戦争責任は

●『バウハウス100年映画祭』
 めったに映画館に行くことはない。わたしはTVを見ないから、映画ってものはうちの中でPCで見る。映画館やTVと違って、中座するときは一時停止すればよいし、眠くなったら止めてしまい、後で続きから見ればよい。
 それでも年に2、3回は映画館に行く。それがこの1月中に寒いのにわざわざ近所の映画館に、もう2回も行ってしまった。今年はあとは一度も行かないで済むかも、。

 見た映画は、「バウハウス100年映画祭」として合計6作品を下記4つのプログラム構成で上映しているうちのAとCである。
A「バウハウス 原形と神話」
B「バウハウス・スピリット」「バウハウスノ女性たち」
C「ミース・オン・シーン」「ファグス グロピウスと近代建築の胎動」
D「マックス・ビル 絶対的な視点」

●バルセロナ・パヴィリオン
 最初にCプログラムを見た。『ミース・オン・シーン』は、ミース・ファン・デル・ローエの設計になるバルセロナ・パヴィリオンの復元事業を中心に据えて、かかわった来た人たちへのインタビューと、新旧の映像で構成咲いている。
 わたしはこの名作を実際に見てはいない。これまで実物を観たミースの作品は、シーグラムビル、ベルリン国立美術館・新ギャラリー、IITクラウンホールであり、いずれもガラスと鉄の分りやすい空間である。
(映画予告編からコピー)
あの有名なバルセロナ・パヴィリオンは、ベルリンのギャラリーと同じようなものと思っていたのだが、かなり異なるもので驚いた。
 これは建築空間の構成そのものを見せる作品であり、しかもガラスと石によるのだ。石目模様の色彩豊かな大理石が重要な役割を占めている。単に透明な空間ではなくて、その変幻自在な空間の展開を楽しませてくれる。
 多彩な登場人物の語りで、この建築の歴史、空間の構成、力学的構造など、なかなか興味深い映画であった。そうか、安藤忠雄はこれをまねしていろいろと展開しているのだな。

●ファグス靴工場
 「ファグス グロピウスと近代建築の胎動」のほうは、ファグス靴工場である。これも私は実物を見ていないいし、そもそもグロピウスの作品は、ニューヨークでパンナムビルを遠望したことがあるだけだ。この人の作品は少ないが、教育者としては素晴らしい。
 バウハウス創始者のグロピウスのバウハウス以前の作品であり、その後の近代建築への最初のステップを見せる作品として紹介している。
 この工場は今も現役工場として靴を作っているのが素晴らしい。工場の労働環境の改善という目的と、建築デザインを商品宣伝の目的にするという、いかにも近代産業社会到来への対応としての出自を、しっかりと見せてくれるのが面白い。

 現代の建築生産の目から見ると、平凡というか下手くそな感もあるが、1911年という時代相から見るとこの明快さが、時代を突き抜けているのだろう。
 それは1926年デッサウバウハウス校舎についても同じように言える。とにかく近代建築史の視点で観ないと、この映画はわからないだろう。そこがミースのバルセロナパヴィリオン(1929年)とは大いに違う。
 グロピウスのファグスとデッサウを下敷きにしてみると、ミースはグロピウスよりもはるかにデザインの名手とわかるだろう。

●バウハウスの人々
 次に見たのがA「バウハウス 原形と神話」で、これはバウハウスの創立からその運営、影響、そして終焉までを、多くの卒業者たちに語らせるものである。
 盛りだくさんに詰め込んで消化不良気味だが、かかわった人々の熱のようなものが伝わってくる。昔は建築史フリークアだったわたしだが、読み漁った近代建築史上の登場人物の名前が次々に出てくるのを懐かしく聞く。

 オスカー・シュレンマーが出て思い出したが、もう20年以上も前だったか、東京のどこかのイベントホールで、シュレンマーの舞台作品を見たことがある。
 ロボットのような姿のダンサーが行進のようなダンスを、どこかの劇団だったかが演じた。ほう、これがあのシュレンマーのダンスかと、興味深かったが、あれは何だったんだろう。

●バウハウスの影響
 バウハウスの活動が、世界の各地各界にもたらした影響は大きい。
 バウハウスのモダン住宅の例として、ドイツのジードルングらしきものも少し出たが、イスラエルのテルアビブ住宅地が詳しくとり上げれれていて、知らなかったがそれなりに興味深い。

 日本にはどうだったのかは何も出てこなかった。4人の日本人留学生のことも出ない。グロピウスの弟子になった山口文象のことも出ない。
 仲田定之助が訪れて日本に初めて紹介したのが1925年で、山口文象は仲田と親交があったから、当然にグロピウスのことを聞いたであろう。山口文象がグロピウス事務所で働いたのは1931年から11か月ほどだが、ただし山口が渡欧したバウハウス校長をやめていた。

●ナチスとバウハウス
 こうやって1時間以上もぶっ続けで観せられると眠くなってしまう。最近はPCで短時間しか動画を続けて見ないからだろう。それがハッと目を覚まさせられたのは、バウハウスとナチスの話になった時だった。

 例の有名なフォトコラージュも出てきて、ナチスがバウハウスを弾圧した話になった。バウハウスはナチスに強制的に閉鎖されたのではなく、実はミースが路線をナチスと対立しないように左翼系たちを放校し、閉鎖も自発的に行い、それなりの補償も受けたという。ハンネス・マイヤーの後を引き受けたミースは、なかなかの政治家でもあったようだ。

 そして、バウハウスの学生たちにもナチス親衛隊がいたとか、のちに強制収容所の設計をした者がいたとか、一時はグロピウスさえもナチ宣伝出版物にかかわっていたとか、初めて聞く話になりすっかり目が覚めた。
 ただし、その話題はあまり長くはなかったし、どうもまだ明確にし難いこともあるらしい口ぶりが、語る研究者から聞こえた。さすがにナチに対して厳しいドイツの映画であると思ったが、映画はそのあたりで終わった。バウハウスの戦争責任についてはどうなのだろうか。

●日本の建築家と戦争責任
 となると自然に日本の場合はどうなのだと思う。晩年の山口文象が建築家の戦争協力に厳しい言葉を述べていたのを思いだした。
 有名な話は建築家・内田祥三の戦争協力についての糾弾である。今の話題の国立競技場で1943年に、学徒出陣を送り出した時の東京帝国大学総長であったからである。山口は何度か講演会でしゃべっていた。

 山口文象は戦争加担は一切しなかったと語っているが、細かく見ればそうとも言い切れない。山口文象自身の戦争責任をどう考えるか。
 戦争関連の仕事でなくては建築家は食えなかった戦時中、山口の仕事も全国各地の軍需工場の工員宿舎の設計がほとんどであった。山口に言わせると、工員の生活環境を良くするために設計をしたのであり、戦争協力ではないというのだ。
 だが弟子の小町和義さんが語るように、軍需工場の設計もわずかではあるがやっているし、工員宿舎だって軍需工場の一部だから、まったく戦争非協力というには無理があるだろう。

●ベルリンを出るグロピウスと山口文象
 これはバウハウスと直接関係ないが、関連して気になるので書いておく。
 ウィキペディアのグロピウスの記事に、「バウハウス閉鎖後、事務所にいた山口文象とともにドイツを脱出、自身は1934年イギリスに亡命する。」とある。
 だが、山口文象がベルリンを出て帰国したのは1932年であり、イギリスに立ち寄ってはいないことは、山口文象自身が書いた当時の日記手帳によって明確である。
 グロピウスがベルリンを出てイギリスに渡ったのは1934年であることは、山口の評伝を編むときに問い合わせに答えたイーゼ・グロピウス夫人の手紙にその記述がある。

 wikiのこの誤った記述の原因は、晩年になっての山口の話で、1932年にベルリンを出発して日本に帰国の旅に出るとき、ナチスの手を逃れて脱出するグロピウスとともにイギリスに渡ったと、佐々木宏さんに語ったのが公刊されているが、その山口の座談によってwiki執筆者が書いたのだろう。
 わたしはこれまでも著書やネットでこの齟齬矛盾を指摘しているが、もう山口文象よりも長生きしたから、生き残り末席弟子としてはっきり言っておこう、それは虚言であると。なぜそれを言ったのかわからないが、老残のなせる業と思いたい。

 山口文象は晩年には座談の記録をいくつも残しているが、佐々木宏さんも指摘しているように、間違いというよりも虚言としか思えない発言も諸所にある。
 今やわたしも老残の日々だからひとごとではない。バウハウスの話が妙なことに及んだものだ。

2019/10/23

1423日本王権継承儀式の場の空間構成のチープさに驚いた

 昨日(2019年10月22日)は夕刊が来ない。何故かと聞いたら、なんと祝日であるからだそうだ。
 え、10月の体育の日は過ぎたし、文化の日は11月だよなあ、ヘンだな、オレもようやく年齢にふさわしく、ついにボケることができたかと思った。
 聞けば、日本王権が代替わりになる継承儀式するので、特別に祝日にしたのだそうだ。ボケたのはオレじゃなくて、世間のほうであったかと、ガッカリ。テレビ見ないから世間の一大事を知らない。
 
 今朝の朝日新聞は1、2、3、13、23面とデカデカとその儀式記事で、ラグビーで日本組が勝った記事なみである。わたしとしてはどちらも紙屑をたくさん配達されて、新聞代返せと嘆くばかり。
 テレビを全く見ないし、王にもその一族にもまったく興味ないし、王制不要(むしろ有害)と思っているから、儀式の様子を知らなかったが、今朝の新聞で見た儀式場面の写真に驚いた。

 これって、どこかの小学校の体育館で、雛祭りか神社祭礼の神輿イベントを、秋の学芸会(文化祭)やっているのだろうか。とても王権儀式の空間に見えない。
 へえ~、わざわざ日本全部を休みにしてやったイベントは、このようにチープな空間で行ったのかあ、空間構成がいかにも幼稚というか、ヘンだよなあ、いや、儀式内容を知らないけど、この写真を見ての空間構成デザインを言っているのだ。

 体育館に据える安物神輿、いや、御殿広間に据える古代(近世か)模倣の王権の座は、それだけ独立して見ればいかにも伝統的な代物だろうが、この空間に据えると雛祭りの安物段飾りそのものである。
 誤解されないように書いておくが、わたしはこの体育館、じゃない、松の間を日光東照宮のように、あるいはベルサイユ宮殿のように、飾り立てろと言っているのではないよ、空間の大きさというか、しつらえのプロポーションというか、新旧の取り合いというか、そのあたりがなんともオカシイと言っているのだ。

 驚いたねえ、だって「象徴」としてのその権威づけ儀式の大仰なる動機と、このプアなしつらえのギャップの大きさが、なんともいえない空疎感に満ちているんだもの。
 そしてなんだかホッとしたなあ、権威の継承がこんな空間で行われるというチープさが、実は権威を失っている象徴かもしれないと、権威嫌いのわたしは思うのである。

 王権継承のもっとも核心となる伝統的な大嘗祭は、その秘儀を行うために大嘗宮を古代(中世か)からの伝統にのっとって新築しているようだ。
 王個人にとっては、こちらの秘儀こそが本番であろうが、その空間構成も秘密なので見ることができないのが残念である。
 わたしは現代の王には興味ないが、その制度の歴史には大いに興味があるのだ。

2019/08/28

1417【戦争の八月(4)】昭和館で敗戦放送を聴き、旧軍人会館で定番復元保存開発に出会う

戦争の八月(3)】からつづく

九段坂下の昭和館へ

 千鳥ヶ淵から九段坂を下るころは脚がヨロヨロ、この辺りでどこか涼しいところに入りたいと、田安門から下を眺める。左に見える虚無僧の笠のようなのは昭和館だが、あそこなら涼しい休みどころもありそうだ。
 その右に見える瓦屋根のあるビルは九段会館(昔は軍人会館)、どうやら壊しているようだが、そうか建て直すのか。とにかくあそこまで行こう。
田安門あたりから九段坂下を眺める
  坂を下りきる直前に「昭和館」入口が目に付いたので、冷房のホールに入った。
 この建物は外から見ると窓がない巨大排気塔のような、バケツを伏せたような、虚無僧の編み笠のような、奇妙な形である。
 建築家菊竹清訓の設計で、記憶では計画段階ではこれをの字に腰折れした(靖国神社に向って礼拝している)姿だったが、景観的に変だとあちこちから総スカンの声が出て、それがこうなったのだった。でも特によくなったようにも見えない。鬼才菊竹にしては駄作だろう。


 入り口ホールは冷房で涼しいが座るところがない。上階の展示場に行こうと入場券を買おうとしていたら、案内人がやってきて今日は無料とて、喜んでエレベーターに乗る。
 ずっと昔に一度だけ来たことがあるが、内容の記憶はない。観客はたいして多くないが子供連れが結構いる。夏休みの宿題か。
 集めた戦中庶民の資料が狭い展示場にこまごまと並んでいるが、足が疲れているのでじっくり見る気分ではない。あとでじっくり見たい資料もあるが、撮影禁止なのでさっさと通り過ぎてしまう。

 戦中戦争直後の米搗き一升瓶とか防空頭巾とか学童疎開の記録など、こういうところの定番展示である。しかし、わたしはかつて実際に体験した当事者なので、あの耐乏貧乏腹ペコ生活なんて面白くもない。
 庶民生活が展示されているところが、遊就館と対極にあるのだが、戦争によるあの悲惨な生活の影が薄いのは、遊就館と同じだ。
 撮影禁止なので、パンフの一部を載せておく。このような資料なら積極的に撮影させて、SNSで宣伝すればよいと思うのだが、どういうわけか。



敗戦放送の日の記憶

 下の階の図書室なら座れるだろうと階段を下りていたら、踊り場に人だかりがある。壁の棚にあるラジオから1945年8月15日敗戦放送が聞える。あの独特の棒読みのお経のような節回しである。
 音声がきれいなので、「こんなんじゃなくて雑音だらけだったなあ」とつぶやいたら、前に立つ中年男が振り返って「リアルタイムで聴いたとはスゴイですね」と言う。はずかしくなって急いで階段を下りた。
 思えばあの内容で、あの口調で、あの雑音の放送を聴いて、どれほどの人たちが、敗戦放送と分ったのだろうか。庶民に理解させる気が全くない。ユーチューブで改めて聴くと、ほとんど言い訳ばかり、なぜ負けたか反省も謝罪もないトップ責任者の言葉。

 当時の憲法が定める戦争開始と終結の責任者たる天皇が、1945年8月15日の正午から、初めて肉声で放送する事件、これにわたしは遭遇した。場所は岡山県中西部の高梁盆地の、生家の神社社務所であった。
 その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から兵庫県芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて住んでいた。盆地内のほかの寺社などに児童51名が疎開して来ていた。

 当時ラジオのある家は限られていたが、その疎開学級が持っていた。社務所の玄関口に近所の人々が集まって、敗戦の詔勅を聴いていた。
 放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、列になって黙々とぼとぼ参道の石段を下って行くのを、わたしは社務所縁側から見ていた。緑濃い社叢林の上はあくまで晴れわたり、暑い日であった。
 もちろん8歳のわたしには内容を分らない。その場の情景の記憶のみである。
 聞いていた人たちがこれを敗戦と分かったのは、たぶん、疎開学級の教員がそれを伝えたのであろう。

 その半月後に父が兵役解除で戻ってきた。父は満州事変、支那事変、太平洋戦争と3度も繰り返して通算延べ7年半も兵役に就いた。最後は本土決戦に備えるとて、小田原の海岸から上陸する敵を迎え撃つ陣地構築をしていたが、「父の十五年戦争」がようやく終わった。
 だが、わたしの家では戦後戦争とでもいうべき難が始まった。戦後農地改革で小作田畑を失い、食料源がなくなったのであった。支払われた補償金は数年間の分割払いで、戦後超インフレで紙切れ同様になった。
 昭和館の展示をわたしが見て思い出すのは、とにかく腹が減っていたことばかり、3人の子に食わせてやれないのが、父母の一番の悩みだったろう。

 図書室では、「戦史叢書」(朝雲新聞社)全巻が開架でそろっていたので、本土決戦編を取り出して父の3度目の徴兵時の記録をぱらぱらと読んだ。
 この書物は、わたしの父の死後に見つけた父の戦争メモをもとに「父の十五年戦争」なる記録を書いたのだが、その時に資料として読んだものだ。

 図書室には子どももけっこういて、母親が戦災の絵本を読みきかせしている声も聞える。とりあえずは冷房での休息になったが、閉所恐怖症のわたしはこの建築は窓無しと知っているので、長居すると気分が悪くなる。15分ほどでたちあがる。

 おにぎりがつぶれたような変形プランで使いにくそうだし、展示スペースは狭いし、敷地も狭い。これでは増築もできないから、資料を大量に収集してもどう収蔵展示するのか、博物館建築としては困るだろう。メタボリズムを標榜した建築家の設計にしては、いっこうにそのメタモルフォーゼできそうにない駄作である。
 靖国神社の近くで、元軍人会館の隣りという立地であり、しかも昭和という天皇制に依拠する館名称とて、これって何だかなあと考えさせる。

九段坂下の旧軍人会館は今

 外に出て隣の元軍人会館の九段会館を眺めると、今や建替え工事中である。そういえば311地震で死者を出して閉館していたのだった。
九段下交差点から九段会館を見る 2013年8月15日

同上 2019年8月15日
工事用仮囲いに完成予想図などが展示してある。みれば元の九段会館の姿を道路側の2面に修復保存して、裏に超高層建築を建てるらしい。
 これって下駄ばきとか腰巻きとかカサブタとか言われる定番保存開発手法である。東京駅前の元中央郵便局、今のKITTEがこれにいちばん近い手法だろう。

 この九段会館は1934年に「軍人会館」の名称で、在郷軍人会が建てて軍の予備役・後備役の訓練、宿泊に供した建築であるから、ここにも戦争の残影がある。靖国神社のある九段らしい立地である。
 建築デザインはコンペで決められた。そのコンペ要綱に「容姿ハ国粋ノ気品ヲ備ヘ荘厳雄大」なデザインを求めるとあった。それがこの近代洋風デザインに城郭風の瓦屋根を載せた姿になって出現してのであろう。

 このスタイルはその頃の公共建築の流行であったから、軍関係だからこの姿だったとは言えないにしても、日本風デザインを強調していることは確かだ。
 そういえば、靖国神社の遊就館、千鳥ヶ淵戦没者墓苑、日本武道館など、このあたりではどれも日本風勾配屋根である。
 いわば地域のデザインコードが働いているようだが、誰かがコーディネートしたのではなく、戦争の時代の表徴として和風と洋風の混合勾配屋根になったのだろうか。
靖国神社遊就館 伊東忠太 1932年
同新館 三菱地所設計 2002年 

千鳥ヶ淵戦没者霊園 谷口吉郎 1959年

 それらに交じって建つ最も新しい昭和館が、いかにも特異な姿に見える。地域のデザインコードを無視していると言えよう。
 それは菊竹が意図したアンチテーゼか、あるいは菊竹は一般に景観デザインには無頓着だったから、やりたいデザインをやったまでのことだろうか。
 冗談で言えば、せっかくだから新しい九段会館の高層部分は、隣の昭和館のデザインの系譜にすればよかったのになあ。
左手前 昭和館 菊竹清訓 1998
その向うとなり 九段会館 川本良一 1934年
右手前 日本武道館 山田守 1964年
軍人会館は戦後になって国有財産となり、遺族会に貸与して九段会館の名で営業してきた。わたしも何度か会議でここに来た記憶がある。
 地震被災して閉館後に、国は競売して東急不動産が取得、またもやホテルになるらしい。それでようやく戦争の影がなくなるのかと思ったら、建築の姿として軍人会館時代を継承すると言うから、まさに残影そのものが表象として継続することになる。
 九段坂の上と下を戦争の残影がしっかりと押さえている。

●九段下交差点ウヨク行列見物

 さてもう疲れたので地下鉄に乗って帰ろうかと思うと、九段下交差点は異常に騒がしい。あ、そうだ、毎年ウヨクさんたちが輪になって演説したり、道路を日の丸行進してやってくるだと思い出して、それらを見物してから帰ることにする。
 
 九段下交差点のこちらと向うに別々のグループが10数人集まっていて、それぞれ定番の日ノ丸や旭日旗を建てて、これまた定番らしい天皇ものの演説をしている。
 そこへ歩道ではなく車道を、一人一人が日ノ丸の旗を掲げた行列がやってきて、交差点に入ってきた。おお、いつものウヨクデモだな。
 「♪うみーゆーかばー♪」とスピーカーで流す小型バンを先頭に、数百人はいそうな参加者が、各人おなじ大きさの国旗を弔旗にして竿の上に掲げて、折から台風影響の強風になびかせながら、交差点を斜めに向うに進んでいく。

 その行列にはシュプレヒコールもプラカードもない。国旗が参加者の数だけなびいている。沿道群衆から時折「ありがとう」「ありがとう」と叫ぶ声が入る。
 参加者の個性は見えなくて、数百人が統一されている様子である。これはいわゆるデモ行進ではなくて、軍隊の分列行進をなぞっているらしい。その沈黙の旗行列は、交差点を過ぎて向うの街角に消えていった。
 参加者たちの顔を見ると老若男女ごくふつうの人たちの様子で、コワモテウヨクらしい風情は見えないのが不思議というか、かえってコワイ。

 後でネット検索したら、この行進の最初から最後までを主催者として撮った動画がユーチューブにあり、350人参加だそうである。リーダーらしき人の演説では、靖国に祀る戦死者たちを慰霊する趣旨の行進らしい。最後は靖国神社大鳥居の前に集り、「君が代」と「海行かば」を斉唱して解散した。
 なぜ「海行かば」なのだろうか。これは大伴家持が天皇へのひとえに帰依従属を誓う政治的な意味を持つ歌であって、戦死者鎮魂の歌ではない。1948年10月に神宮外苑の競技場で学徒兵たちの出陣式で「海行かば」が歌われたように、天皇の戦争に命を捧げに赴く若者を鼓舞するための歌である。

 暑いさなかにいながら、心が寒くなってしまい、そそくさと地下に潜ったのであった。

(完)

参照 「戦争の八月

2019/07/28

1412【能楽の眼で歌舞伎見物】歌舞伎の棒しばりを観てその元となった能楽の棒縛・融・松風・汐汲みを想う

 
うちの近くの劇場でやるので、歌舞伎「車引き」と「棒しばり」を観に行った。歌舞伎には詳しくないが、「棒しばり」は松羽目物なので、能狂言と狂言舞踊はどう違うかなあと、ちょっとは勉強心もあるヒマツブシであった。
 そういえば、この前に新橋演舞場で観た歌舞伎舞踊「紅葉狩り」も、松羽目物だった。能との違いを面白がりながら観たものだった。
紅葉ヶ丘ホール
●能楽の狂言「棒縛り」と歌舞伎舞踊「棒しばり」

 「車引き」は能楽に関係ないし、特に面白くもなかったので、ここでは能狂言「棒縛」をアレンジした歌舞伎「棒しばり」について感想などを書いておく。
 歌舞伎の「棒しばり」は長唄による舞踊劇だが、ストーリーはほぼ能楽狂言そのままである。違いは、歌舞伎では踊りや囃子や唄に主眼を置いているのに対して、能狂言の方も小舞はあるもの演劇に主眼を置くことだろう。勝負どころが異なる。
 演出上では舞台装置は似ているが、歌舞伎では舞台上に総勢20人以上の歌、囃子方の楽団が登場して賑やかに唄い演奏するのが大いに異なる。
 
 わたしの耳には、聞きなれている能狂言役者のセリフのメリハリと間の具合が、歌舞伎役者のそれはまるで素人芝居のように聞こえた。
 能楽を真似たと初めから広言している松羽目物だから、もう少しは狂言師を真似た方がよさそうに思った。それともこの役者が下手なのか、歌舞伎舞踊ではセリフよりも踊りが主だから、これで良いのだろうか。

 さて、舞台では酒に酔った太郎冠者と次郎冠者が気持ちよく踊るのだが、そのなかの次郎冠者の長唄に、聞いたことのある文句が出てきた。
 「あずまからげのしおごろも、、、、しおぐもりにかきまぎれて あともみえずなりにけり
 え~っと、エート、なんだっけ、あ、そうだ、これは能「融」(とおる)の一節だぞ、でも、どうしてそれがここに出てくるのだろうか、あ、そうか、次郎冠者の格好が「融」の汐汲み老人そっくりだから、何の関係もないけど、ちょっとしゃれてパロディにしたのか、なるほど、なるほど。
左は公演パンフから採った「棒しばり」の汐汲み姿の次郎冠者(松緑)
右は観世能謡本から採った「融」の前シテ(汐汲み姿の融の大臣の幽霊)
この件については家に戻ってから、ネットで長唄「棒しばり」の文句を調べたら、能「融」前場のキリを唄っていると分かった。
持つや田子の浦 東からげの汐衣 汲めば月をも袖に望汐の 汀に帰る波の夜の 老人(長唄では「翁」)と見えつるが 汐曇りにかき紛れて 跡も見えずなりにけり 跡も見えずなりにけり

 この汐汲み踊りが歌舞伎での「棒しばり」の一番の見せどころらしい。しかし、そのもとになったという能狂言での「棒縛」にも狂言小舞はあるが、能「融」パロディは無いのである。
 まあ、違いがないと歌舞伎にした意味がないだろうが、両者の見せ所の違いが面白い。
 なお、狂言「棒縛」には、能「松風」のもじりパロディ場面もあるのだが、長唄舞踊「棒しばり」ではそれがないのも、面白い。
 
●能楽と歌舞伎の「汐汲み」について

 ネットでいろいろ見ていたら、この「融」のパロディを「松風」のパロディと書いている歌舞伎解説がある(参照「歌舞伎見物のお供」)。そうか、汐汲みを扱う能は融のほかに「松風」があったな。
 もしかして日本舞踊の流派によっては「松風」パロ版もあるのだろうか。でも、それではちょっとおかしいと思うのは、松風の汐汲み道具は天秤棒に桶ではなくて、桶に車が付いた(大八車に桶を載せているのかもしれないが)汐汲み車を、紐で引いて出てくるのである。「棒しばり」の格好をしていないのである。
左は舞踊汐汲みの人形 右は能「松風」の汐汲み車(観世流謡本より)
だから松風のパロディとするのは間違いであろうと思った。ところが日本舞踊に長唄「汐汲み」があり、これは明確に松風をもとにしているそうである。ネットで何でもわかるなあ、、。
 そしてこれに登場する汐汲み女は、能「松風」の汐汲み車ではなくて、能「融」の天秤棒タイプの汐汲み道具を担いでいる。

 はて、オカシイな、松風に天秤棒バージョンがあるとは聞いたことがない。でも、この長唄と舞踊「汐汲み」を創作(1811年初演)した人たちは、汐汲みの格好は「融」から、ストーリーは「松風」から採ってきたのであろう。
 それは汐汲み車を曳くよりも、天秤棒で桶をかつぐ格好の方が、動的な絵になるからだろう。融の汐汲み演技と松風のそれを比較すれば納得できよう。

 長唄「棒しばり」は1916年初演だそうだから、「汐汲み」より100年ほどの後だが、このときなぜ「汐汲み」ではなくて「融」のパロディにしたのだろうか。
 狂言「棒縛」には最後のあたりに「松風」のパロディが登場する。これは汐汲みの格好とは関係がないのだが、長唄ではこの松風を削除している。どうせならこれも生かして、その前の踊りも舞踊「汐汲み」パロディにすれば、松風パロディが続いて面白かっただろうに、とも思うのである。

 20世紀初めの創作の長唄「棒しばり」の話から始めたら、15世紀前半に作られた狂言「棒縛」、能「松風」そして「融」へとさかのぼり、更に19世紀初めの長唄「汐汲み」に飛び火した。
 ところが観世流能謡本の解説によれば、能「松風」は15世紀前半に世阿弥による作とされるが、これは実は14世紀後半の亀阿弥作「汐汲み」の改作であり、その改作には世阿弥の父の観阿弥の手が入っているとある。

●600年もさかのぼる伝統芸であったか

 ここまで登場した芸能演目を成立順に時間を遡って書くと、歌舞伎「棒しばり」→長唄「汐汲み」狂言「棒縛」能「融」→能「松風」能「汐汲み」の順になるらしい
 21世紀の「棒しばり」の話が、14世紀まで6百年もさかのぼってしまった。
 歌舞伎の松羽目物は、どれでもこうなるのだろうか。研究者ならさらに追っかけるのだろうが、ヒマツブシ趣味としてはこれで十分である。

 う~む、なんだかすごい様な、どうでもよい様な、、、いや、まあ、全くどうでもよいことを書いているのだ。
 要するに歌舞伎の楽しみ方のひとつに、そのパロディの元を思い出させて、ちょっと老人的教養人的趣味人的境地にに浸ってみて、それをひけらかす場にブログを使ったのが今風である。
 パロディを面白がるには、そのもとを知っている必要がある。どうも歌舞伎はパロディだらけらしいのだが、観てもさっぱり分からないから面白くない。今回一つだけようやく分かって面白がったのであった。

 能については長らくたくさん見てきたから(→趣味の能楽鑑賞)、半分くらいは何とか分るのだが、歌舞伎もそうなるには20年かかるだろうから、いまや無理と言うもの。
 今回の公演には、本番開演前に解説番組はあっても、こんな話は無かったのだが、マニアックすぎるのだろうか。

●歌舞伎に普及について

 まあ、どうでも良いことを言っているのだが、研究者でもないわたしとしては、そうやって歌舞伎を楽しんでいるのである。
 ところで今の観客のどれほどが、松羽目物の元になった能や狂言を観ているのだろうか。それを観ていて覚えていればこそパロディであると分って、楽しみがぐんと増えるのだが、既に能狂言の棒縛り見ていたわたしでも、ようやくそれと分っただけだった。

 能狂言から歌舞伎に移植されて、歌舞音曲主体になって面白くアレンジされても、今やもう元の面白さは忘れられただろう。古典芸能がそのまま生きるのは難しそうだ。
 今回観たのは、国立劇場の地方公演の歌舞伎鑑賞教室であり、本番の前にしっかりと解説番組もあって、若い世代向けの伝統芸能普及公演であるらしい。
開演前の解説番組 中村玉太郎 ここだけ舞台撮影OK
だからわたしのような年寄りが見ては申しわけない。でも、貧乏な年寄りには、銀座の歌舞伎座は高価だし、三宅坂の国立劇場は遠く不便だし、どちらも敷居が高いから、近くて安いこれはなかなかよろしい。
 観客は年寄りも多かったけど、若い人たちも多かった。地下に階段で降りる便所って、年寄りにはつらいな。

 まあ、歌舞伎の観巧者や評判大物役者びいきには物足りないだろうが、こういう公演は東京の外の観客に、そして出演する若い役者たちはよいことと思う。
 それにしても歌舞伎とはストーリーの前後をカットして一部だけ見せるのだから、しょっちゅう見るとか特別事前勉強しないと、なんとも不可解で次も見ようと思わない。
 ストーリーが不可解でも、評判役者が出てきて、華やかな舞台を眼で楽けめば良いのだろうが、それで長続きするだろうか。

 その心配があるから、こうやって地方まわりの鑑賞教室だろうが、でもなあ、これをみて歌舞伎好きになるもんだろうか。歌舞伎ってのはその荒唐無稽さを楽しむのだろうが、これではそれが足りないような、もっと無茶な場面を見せてくれといいのになあ、お得意の血みどろ殺人の場とかケレンとか、、ね、。

国立劇場の次の26日が紅葉坂ホールだった
第96回 歌舞伎鑑賞教室 
2019年7月26日1430~1650 紅葉ヶ丘ホール

解説 歌舞伎のみかた 坂 東 新 悟

菅原伝授手習鑑ー車引ー 
舎人松王丸 尾上 松緑
舎人梅王丸 坂東 亀蔵
舎人桜丸  坂東 新悟
舎人杉王丸 中村 玉太郎
藤原時平  中村 松江

棒しばり
次郎冠者 尾上 松緑
太郎冠者 坂東 亀蔵
曽根松兵衛 中村 松江

 なお、劇評家の渡辺保が、このシリーズの浅草公演について、松緑の棒しばりを褒めている。
・渡辺保の歌舞伎劇評 2019年7月国立劇場 松緑の「棒しばり」
http://watanabetamotu.la.coocan.jp/REVIEW/BACK%20NO/2019.7-1.htm