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2023/04/03

1680【来年の花は?】まったくもって世の中に絶えて桜の無かりせば、、な春だ

 遂に4月も3日になって本格的な春到来、今年の桜開花は去年よりも早いようで、3月半ば過ぎからこちらの心が落ち着かずに、花ばかり気にしているのは、今の自分の年齢のこともあるが、なんとなくコロナ明けという世間の様子もある。

 ほぼ毎日徘徊に出かけるが、今日も根岸森林公園の桜を見てきた。近くの森林公園には何度も行っていながら、春の梅の花はみても桜の花見は初めてだ。もう盛りを過ぎていたが満開の時はかなりすごい風景と想像することができる。来年の花見をするなら、ぜひとも盛りの時に来よう。

根岸森林公園の桜、狂気のごとく咲く花というのもしらけるものだ

根岸森林公園の花見

 今年3月末からこれで花見を目的とする徘徊(徘徊定義は無目的だから正確には徘徊ではないが)に、もう5回も出かけたことになる。
 花吹雪は波もいいものだから、まだまだ花見徘徊やれそうだ。大岡山キャンパスには2回も花見に行ったし、横浜の近くの大岡川も掃部山ももちろん、わが家から見下ろす花見もあるのだ。

大岡川の花見

自宅下に咲く花には小さな布の花も咲く


大岡山のキャンパス花見

 桜の花見に心が急くのは、何しろ花の期間が1週間もないから、花に追いかけられている感があるからだ。
 来年もあるから急がなくてもいいよと言われそうだが、それがわたしの歳になるとそうはいっていられない。八十路半ばとなると、来年も花を見られるかなあと本気で思うことが、まわりから起きてくる。訃報である。

 同年の親友のひとりが重病でこの1年を送っているが、彼からのメ―ルに「来年も見られるかな」と一言あって、ズキンと響いた。もう10数年前にも、ある親友が病床で同じことを言い、次の花を見ることはなかった。
 わたしがそういう時はいつだろうかと思う。何かもっと格好良い言い方を、今の内から考えておこう。

 コロナがやって来た次の年の2021年春に、願わくは花のもとに春死なんその如月の望月のコロナと狂歌を詠んだ。そして22年もそう詠み、今年も詠んだ。
 いつになれば最後の「ナ」を言わなくて済むようになるか。いや、その時が来たらもとにもどって、狂歌でなくなるから詠まないな。

 実のところはコロナ禍であろうとなかろうと、今やわたしはこの心境である。西行は73歳でこの歌の通りに春に死んだそうだ。しかしこの歌が載る歌集が世に出されたのは死の5年前だから、この歌を彼が詠んだのは少なくとも死の5年以上前だ。つまり68歳以前だから、わたしよりも15年以上も若い頃だから、偉いものだ。いや、昔はいまより若くて死んだものだから、実年齢は同年くらいなんだな、と思うことにしよう。

 老いると桜の花見の視線が変わる。母校の大学キャンパスの花見を同期仲間と毎年やっているが、その桜の樹がもうヨレヨレの老木なのである。樹幹は広がっているから花は大きく広く咲く。もう70歳くらいの超老木なのに偉いものだ。
 だが、花の下の幹を見ると黒々とひと一抱え以上もあり、ごつごつとして左右に凸凹とし、そこからいくつもの枝が、自由自在に上下左右に伸びる。地を這うように横に伸びる枝もあるし、半分皮がむけて筋肉が見える枝もある。
 そんな老木が花お咲かせているのは、どうも無理やりやっているような、それはそのままわれらが老いの無理矢理姿に思えてしまう。花見ならぬ幹見をして、気の毒になる。

大岡山キャンパスの桜 老幹にも一輪づつ咲かせる健気さ

 今年の花見の時は、コロナ明けともいえる時期に重なったから、なおさら感慨深い。本当にコロナが明けたとは到底思えないが、とりあえずは政府がマスクはいらないよと言ったから(本当に言ったかしら)、いつもは政府嫌いなのに、こんな時ははいはいと便乗していうことを聞いてしまい、マスクを外して人に会って喜んでいる。

 言い訳すれば、じつはそれには切ない心情が裏にあるのだ。そう、花に来年は会えないかもと思うように、人にも同じ様に思うのである。
 3月から急に親しい知人たちに会う機会が多くなった(多くした)。リタイアした仲間同士では特に用事があるでもないが、花と同じでいま会わないと次がないかもしれないから、今のうちに会おう会おうと言いあう。これでコロナがぶり返すかもしれない。そうなると本当に会えなくなる。

 一緒に花見酒を飲もうよと言いあっている人も多いだろう。だが、わたしはコロナで逼塞中に酒飲む気がなくなってしまった。コロナ前にはよく一緒に飲んでワイワイとやる人たちも、互いに敬遠しあうしかなかった。
 その時期がこれほども長くなり、わたしはひとりで飲むのもバカらしいままでいたら、酒の美味さも誰かと飲む楽しさも、どうやら忘れてしまったらしい。

 先日、久しぶりに大学時代の山岳部仲間7人で飲み会やった時に、わたしはビールをグラス一杯だけで後はお茶を飲んでいたが、それで十分に楽しかった。これは年寄りには懐にも健康にもよいこと思うと、われながら殊勝げで、かえって癪に障る。まあ飲まないでいいや。
 でも、なんだか他人とじっくり話す方法も忘れたような感もある。これは年寄りのボケが進んだということだろう。

(2023年4月2日記)


2023/03/10

1676【東京大空襲】1945年日本は現代ウクライナと同じに無差別空爆におののく日々

 3月10日と言えば、1945年のこの日夜半からUSA空軍による大空襲で東京は大炎上した。10万人以上で実数はわからない死者の巨大人災は、現在もウクライナで続く。
 もちろんこの年はその後に横浜も小田原も大阪も、日本中の各地が空爆にあって炎上した。今、ウクライナではミサイルが降ってくるように、日本各地で空から降る焼夷弾におののきながら暮らしていた。人間は78年経っても変わらないのか、忘れたのか。

東京大空襲空撮(1945)Wikipedediaより 

 わたしは岡山県中西部の空にめったに飛行機も見ないような小さな盆地にいたので、幸いにも空襲を経験しないで済んだ。
 だが父は国内で軍務についていて、その軍隊が移動中にこの大空襲直後の東京を通った。そして移動先の小田原で湘南海岸に上陸してく連合軍に備えて、本土決戦の準備の塹壕掘りで郊外の山中にいて、8月15日未明の小田原市街の空襲炎上を遠望した。

 戦中のUSA軍の空襲と言えば、建築家アントニン・レイモンドを思い出す。彼は日本空爆のコンサルタント建築家だったのだ。
 帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの助手として来日し、そのまま日本で建築家として独立して、1937年まで日本で仕事をして多くの名建築を生んだ。

 そしてUSAに戻ってからは、第2次世界大戦におけるUSA軍の日本空襲につき、日本の都市と建築をよく知る建築家として、効果的な空爆を行うための実物大の市街地模型の建設を指導した。
 木造家屋群を効果的に破壊炎上させる実験により、空爆エリアの周辺部から焼夷弾を投下して燃やし尽す空爆システムが開発された。
 これについてはわたしは既にこちらに書いているので参照されたい。https://datey.blogspot.com/2016/02/1171.html

 そういう日なので、今日の横浜都心徘徊は、思いついてそのレイモンド設計の不二家という菓子屋レストランの建物を横浜都心の伊勢佐木町商店街で眺めてきた。1938年竣工だから、彼の離日直前ころの作品である。
 彼の作品だからというわけではあるまいが、1945年5月29日の横浜大空襲からも焼け残った。そして終戦直後に横浜都心部一帯が占領軍(進駐軍と言った)に接収された時、この不二家の建物も接収され、「横浜赤十字クラブ」と呼ばれる進駐軍専用の娯楽厚生施設になった。
 レイモンドはここでもUSA軍に貢献した。不二家が返還されたのは1952年であった。

横浜伊勢佐木町不二家(1938)と防火建築帯(1950年代)の建築群


不二家建築の裏側

 では同じころにレイモンドが設計した、USA軍空爆実験のための「Japanese Villedge」のデザインはどうか。
 もちろん木造密集市街地であるのだろうが、妻壁が防火壁らしく立ち上っている棟もある。「後方にドイツ村」と書いてあるから、それはドイツ空爆のため煉瓦造だろうか。
 こうやって見るとさすがレーモンド設計だなあと、皮肉を言いたくなる。
 なんだか立派に見えるが空爆実験用だから、建てては燃やし、建ては破壊したのであろうが、もったいない。

 そういえば横浜の山手には、レイモンド設計の木造のエリスマン邸が建っている。今は観光施設になっているが、これを見ても不二家を見ても、その設計者が日本に巨大な災難をもたらした建築家と思う人はいないだろう。

エリスマン邸(1926)

 余談だが、アントニン・レイモンドが指導した空爆模型を作ったJapanVillageのことをWikipediaで読んでいたら、そのころやはり日本の街を炎上させる空爆方法として、コウモリ爆弾の研究があったという。
 コウモリに時限作動装置付き焼夷弾を抱かせて投下して、習性として屋根裏に飛び入る頃に発火炎上させる。家屋炎上はするが人命災害は少なくて済む利点があるとされたが、開発が遅れて実用に至らなかったという。なんだか風船爆弾を連想した。(20230310記)

2023/01/05

1665【横浜ご近所正月徘徊】港あたりにタワー群、貧困街で炊き出し、中華街は大混雑

 ●正月から徘徊に

 コロナのこの3年も、コロナ逼塞もあるが、個人的にはうちに引っ込むことなく、ほぼ毎日大なり小なり徘徊を続けている。
 だが歳のせいによる老化と共に次第に足が弱ってきており、徘徊の距離と時間とが短縮気味である。歩行速度もどんどん遅くなる。徘徊の距離も時間も縮むのだ。
 速度だけでなく、ヨロヨロもするようになった。昨年11月にはまっ平らな横断歩道で転倒するという初事故があった

 だが、だからといって徘徊をやめては、足腰が弱る一方なので、できれば毎日でも距離や時間は少なくなろうとも、徘徊実行するようにしている。まあ速度や距離は縮んだが、徘徊時間はそれなりに継続することはできる。つまりダラダラ持続力はあるらしい。

●新港あたりの風景を見に

 2023年の正月は元旦から寒いがよく晴れている。今年の徘徊初めは2日からである。
 桜木町近くの日本丸メモリアルパークに行ってみた。その芝生広場から日本丸を背にして、横浜新港地区と北仲地区の開発状況のパノラマを眺めてきた。ときどきここにやってきて、そのパノラマを眺め写真を撮って、変化を見て楽しむのだ。

 ここに掲げるそのパノラマは、今年正月と13年前の比較である。画像の中央あたりから左が横浜港の新港地区であり、右方が北仲再開発地区である。13年を隔てる2つの写真を比較して一見してわかるのは、右方に建った超高層ビル3本である。


2023年1月のパノラマ

2010年1月のパノラマ

●真っ白ホテルビル

 2010年の写真になくて、2023年写真に出現しているビルを解説しておく。
 中央部の右寄り白くて比較的細い超高層ビルは、35階、高さ135m、2300室もある都市型ホテル、新井千秋デザインである。

 2019年9月に開業したが、間もなく2020年4月年から22年11月まで休業に入ったのは、コロナ感染者の宿泊療養施設として、神奈川県に一括賃貸したからだ。徘徊の通りすがりにそれを見ていて、なんとも今どきの事件だなあ、わたしも感染したらここに泊まってみたいと思ったものだ。

 でもコロナ療養施設になるとは、ホテルイメージが下るだろうに、いや社会貢献とて評判が上がるのかしら、などとおもったのだが、どうなんだろうか。
 アパが経営するのだが、あのアパがこんなに大きなホテル屋になったのかと驚く。そして横浜都心にホテルの乱立がものすごいことにも驚く。そういえば去年はハイアットが横浜都心にオープンしたし、この後に解説する北仲超高層ビルにもオークウッドなる高級ホテルがオープンした。なんにしても住民のわたしは縁がない。

●真っ黒アパートビル

 その右に超目立つ姿の真っ黒太め超高層ビルの下駄ばき共同住宅が建った。58階建て、高さ200mほど、住宅が1100戸以上もあるとか、ちょっとでかすぎる。デザインは誰か知らない。

 足元には、横浜港絹貿易時代の2階建て歴史建築の煉瓦造倉庫があったのを、コピーデザインして店舗や展示場などにしているのが特徴的だ。もっとも真っ黒超高層アパートビルがでかすぎて、レンガ倉庫が踏みつけられているようだ。

 これはいわゆる億ションばかりの下駄ばき共同住宅ビル……こんな用語は最近は消えたようでマンションというらしい。でもねえ、mansionってのはUSA大統領のwhite houseのような大庭園付き大邸宅のことだよ、ウサギ小屋(これも古語になった)のようなアパートメントハウスじゃないんだけどなあ。

 この真っ黒ビルの最上階に、公開展望台のフロアがあるらしい。ある日、徘徊途中に思いついて登ろうとしたが、どこから入るのわからなくて退散したことがある。まあ、共同住宅ビルだから、あまり自由に入りやすいプラニングは防犯上困るので、わざとわかりにくくしているのだろう。

 この真っ黒アパート計画段階の都市計画変更に関して、わたしがブログにいちゃもんを書いている。【北仲再開発2014年横浜都計審へのいちゃもん】北仲通北再開発の地区計画変更の基本的問題はなぜ審議されないのか。
 この隣にまた同じかどうか知らないが、またもう一本の下駄ばき共同住宅ビルが建ちだしている。

 まさかまた真っ黒ド太いタワーが並ぶのじゃああるまいなあ、かなり品がないと思うよ、今の真っ黒ビルが壊した真っ白海辺風景を、新しい美しいタワーで景観手直ししてほしいものだ。

●真っ白役場ビル

 その右の方の太い白ビルは横浜市庁舎で、関内駅前からここに移転してきた。
 デザインは槇文彦だが、コンペ当選は竹中工務店だった。事情を知らないが当選後に槇を市が送り込んだのだろうか。槇はその左隣の2020年もすでに建っているオフィスビル(アイランドタワー)の設計者である。

 槇は都市デザナーとしての役割を求められたのだろうが、その役割を果たしたらしいデザインである。これら2棟は実は一つの市街地再開発事業であるが、事業開始から30年ぶりくらいだろうか、市庁舎が建ってようやく事業完了した。

 新市庁舎は、珍しく下駄ばき事務所ビルであり、1,2階に店舗が入っている。大岡川沿いに広いオープンスペースがあり、わたしは徘徊跡中にここに立ち寄り、店で買ったビールを飲んで休憩する。市民としてはなかなかよろしいしつらえである。

 だが市民としては肝心のところがよろしくない。移転前の庁舎では、各階に普通に入っていけたのに、新庁舎では3階に駅のような改札口ができて、切符を買わないと入れてくれないので、敷居が高くなった。
 だから、わたしは未だ一度も市役所執務室に入ったことがないが、それはもう2階以下にしか用がない身になったからだ。

●横浜中華街正月見物

 横浜随一の観光街である中華街を観に行く。
 そこはもうお祭りのような人がいて、メーンストリートの大通は肩をすり合わせるほど、足を踏みつけあうほどの混雑する雑踏であった。

 派手派手の正月飾りが頭の上に極彩色で道の上をおおい、その下を若者たちが派手派手風俗で、何やら食いながら話しながらのろのろと歩き回る。びっしりと並ぶ中華料理店やら近頃増えてきた占い店からの、客引きの声もやかましい。



 この街ではだれもかれもがお行儀悪く、道を歩きながら何やら飲み食いしている。店の中ばかりか、外も飲食の場である。店の前で立ち止まって飲み食いするから、雑踏はますます滞留する。
 コロナ前には雑踏から外国語が聞こえるのが普通だったが、さすがにそれが聞こえない。歩き飲食にはマスクは邪魔だからつけていないし、大声でしゃべりあっているから、コロナは喜んでいることだろう。
 参照→2020年コロナショック中華街

●寿町の静かなる賑わいー炊き出し

 正月の徘徊に寿町を欠かさないのは、めでたいその名前にちなんでいるのではない。世の中が休日の日々の年末か年始にかけて、仕事にあぶれて食事に事欠く人もあるから、この間にいわゆる炊き出しをしている。その様子を野次馬的に観たくて寿公園に行く。



 今年も長い長い行列が、寿公園のある街区を取り巻いている。長さ約220m、人数約400人、みたところ中年以上の男が多い様子である。去年も同じくらいであった。寿町の住人だけでなく、近くん野宿者たちも来るに違いない。

 炊き出しをするのは「寿越冬実行委員会」としていくつかのボランティアグループから校正されているようだ。「第49次越冬闘争」とあるから、単純に考えてもう半世紀もやっているのだろうか。炊き出しだけではなくて、各種の相談にも乗っているとある。そんなにも長い間の対貧困活動に頭が下がる。そしてこうも長くこの活動が続くほどに、日本は貧しい、と毎年の正月に思うのだ。


●寿町ドヤ街は変わったか

 徘徊でしょっちゅう見ている街だが、去年の大きな変化は、簡易宿泊所に囲まれて大きな高層共同住宅ビルができたことだ。いわゆる(日本流)マンションである。
 これまで寿町等のドヤ街の外郭一皮分には、いくつかの一般共同住宅ビル(いわゆるマンション)が寿町の背を向けて立っているが、ドヤビルの連続の中に建ったのは初めてである。

 今後、これを契機にして、横浜寿町がドヤ街からマンション街に移行を始めるのか、つまりマンションがドヤを駆逐する動きが出るのだろうか。
 あるいは逆にマンションが撤退してドヤになるのか、つまりマンション排除が始まるのか、これは社会現象として興味深いことである。これがわたしの寿町徘徊の視点である。

ドヤビル街の間に出現した一般分譲共同住宅ビル(日本式マンション)

 その昨年できた共同住宅ビルの並びに、大きな空き地ができた。もともとは簡易宿泊所だったのだが、何が建つか興味を持っていたら、これはまた簡易宿泊所として再登場した。 また別のところのドヤビル街の中に、長らく大きな空き地があるのだ、昨年半ばに建築のお知らせ看板が立った。また簡宿かとみれば、ホテル旅館とある。業態を変えるらしいが、未だに空き地のままで着工していないのは、なぜだろう。

 去年はそのほかにドヤ街のまんなかあたりに、建て替えドヤビルが2棟、小規模な共同住宅ビルが1棟建った。
 全体にそれなりに動きがあるが、コロナのせいか建設活動はあまり活発で無かった。コロナのせいで仕事失い、寿町も人々が増えていることだろう。

 こうしてわが徘徊は正月から始まり、港近くのリッチな億ションタワー見物から、寿町貧乏街の貧乏正月風景、そして大量の若者がもの食い歩くささやかリッチ中華街、などなど見て回ったのであった。    (20230105記)

2022/11/29

1658【復活酉の市】裏横浜にふさわしいあまりにも都市の土俗性に満ち満ちている風景

 今年11月には干支の酉の日が3日あった。近所の大鷲神社の酉の市が久しぶりに開かれ、昨日(11月28日)に尋ねてみた。たぶん3年ぶりだ。

大鷲神社前の賑わい

 わたしは酉の市の本命である熊手を求めることにまったく興味はない。だが、近所のいつもは静かな街が、その時だけものすごく繁華になり、翌日はまた元に戻るのが不思議で面白いのだ。もっとも、今世紀の半ばまでは遊郭街だったから、繁華な日常の街だったのだろう。

 その遊郭街の核となる位置にある大鷲神社酉の市の本拠で、今に神社だけは続く。そして門前町に登場する屋台群の数のあまりにも多いこと、その屋台店の土俗あふれる姿と扱う商品の土俗性満載に驚き面白がるのである。

熊手を売る屋台の派手派手風景

 その夜にだけ売られる欲望に満ち溢れたアイテムからなる不思議な装飾の熊手、屋台で売られる懐かしいような新しいような土俗商品、そして酒と多様な訳の分からぬつまみ類、どことなく底に流れるコーリア性など、全部ついまぜて空気が時と場所を異郷化している。
 わたしが買いたいものは何ひとつないが、これほども集合するとその土俗性が響きあって、ここは異世界になっている。そこにこれほどの人を集める魅力があるのだろう。

 2019年までは毎年酉の市が立っていたが、2020年は市はお休み、2021年はごく一部分で熊手売りと屋台が小規模に市が立ったが、今年は屋台も人もコロナ前のように盛大に出てきた。コロナはどこに行ったのだろうか。

 夕刻に訪ねたが、その人出のあまりの多いこと、一部の屋台の通りでは歩行が止まるほどの混雑ぶりで、これはひと月前にあったソウルでの惨事に近いような、と思ったほどだ。

 両側に屋台が並ぶ細い道、その中の一部が左右の屋台が道に出過ぎて、急に道が狭いところがあり、そこが動かなくなる元凶だった。動かない群衆の中で怖くなってきたが、警官等の交通誘導はとくになかった。一方でコロナは第八波到来と言うのに、こんなにも密過ぎてよいのかと、そちらも怖くなるのであった。

 混雑する若者たちの喧騒、立ち込める焼き肉の煙、あらゆる食い物のにおい、土俗デザイン屋台の連なり、あまりにも非日常性に満ち満ちている。だが、あちこちに姿を見せるコーリアンアイテムは日常性の発露だろう。縁起物を求めるという土俗信仰だけでは理解でき名に何かが人を引き付ける。

 簡単に考えると、コロナで抑圧された日常の開放を求める良い機会になったのが、この人出の動機だろう。それにしてもこの辟易するほどのこの土俗性は、民俗文化行事として保存に値する。そして表横浜が気取ったハマの風景に対して、ここ裏横浜の庶民性に敬服。


屋台の前のれんのさまざま
 それにしても、縁起物の派手派手熊手は、福ばかりかコロナも掻き寄せるかもしれぬ縁起でもないものにならねばよいが。

(20221129記)


2022/06/30

1626【建築家名の図書館】前川國男館という設計者個人名がついた神奈川県立図書館

●神奈川県立図書館に新しい本館登場

 横浜の紅葉坂上にある神奈川県立図書館に、その設計者の固有名詞がついた「前川國男館」が登場した。この図書館は県立音楽堂とともに、まだ太平洋戦争の傷が癒えない1954年の横浜に初登場した、名作建築である。食べることから文化にようやくに目が向く、まだまだ戦後を引きずっている時代だった。
 日本でも建築家の固有名詞が、一般的な公共施設に名付けられれる時代が、ようやく来たのか。

県立図書館の新しい本館前の案内版

 その図書館がその後の時代の変化に対応する機能更新のために、隣接してすでにかなり前に新館が建っており、当初のこの棟は本館と言っていた。それでも時代要請に対応できなかったので、本館と新館共に建て替え案や図書館全体の他地区移転案もあったようだ。

 結局は本館を歴史的建築としてリニューアル保全して、隣の街区に本館を建てることにしたらしく、それがこのほど完成したようだ。これら3棟をどう機能分担して使うのか知らないが、先日前を通りかかったら隣の街区に新しい図書館建築が建っていて、まだ開館していない状況だった。

●設計者名が命名された建築

 案内板を見ると、新築のこれを本館とし、これまでの本館を「前川國男館」と名付けたらしい。まさか前川國男関係だけの図書館にするのではあるまいに、設計者の固有名詞を公共建築に名付けるのは珍しい。特定建築家の作品展示のミュージアムならば、伊藤豊雄建築ミュージアムや谷口吉郎・吉生記念金沢建築館のように公共建築でも個人名を付けたものもあるが、それは当然である。

 あ、そうか、これはもしかしたら、その館だけが前川國男を軸として、日本の近代建築史関係の図書に特化した図書館にリニューアルするのだろうか。そして前川作品の図面や模型の常設展示室もある、なんてあるかな、そうか、それなら納得できる。そうに違いない、いいことだ。神奈川県はなかなかやるよなあ、再開を待ち遠しい。

 とすると、これまでの新館はなんと名付けたのか、それは書いていない。その新館の設計者は前川でないことは、その姿を見ただけでわかる。本館をそう名付けたら、新館もその設計者の名をつけるべきだろうが、そうは案内に書いてない。差別である。

 で、「前川國男館」の後継者となった新しい本館建築の姿は、どうかと眺める。
 う~む、これは、この設計者は誰だろうか、まさか前川設計事務所ではないだろう。

新しい図書館本館
 現新館といい、これといい、名作といわれる前川國男館にそれなりい敬意を払い、それなりに景観的な連携を図ってもよさそうなものだが、まるで関係がないのはどういうわけか。

●建築と建築家

 ところで、日本の通常の公共建築にその設計者名を付けた例があるのだろうか。そもそも日本では建築が新たに建っても、それが誰の設計によるのか、専門家は別にして一般に興味を持たれることはめったにあるまい。
 例えば新国立競技場の場合のように、それについて事件があったとか、あまりに奇妙な恰好とか、そのような場合だけマスメディアに建築家の名が出るが、それもすぐ忘れられる。

 今回の県立図書館のような設計者名の命名は、建築家にとっては喜ばしいことであろうが、さてこれが世の一般の風潮になるだろうか、かなり怪しい気もする。
 何しろ「建築」は建物であり建屋とか物件とも呼ばれるし、「設計者」は設計士とか建築屋とか言われても「建築家」と呼ばれることはめったにない風土なのだから。

 新しい建築どころか、歴史的建築でさえもその設計者をマスメディアが伝えるどころか、その現場の案内に記されることもめったにない。そういえば欧米の外国で都市を観光旅行すると、ガイドが名所建築説明に必ずその建築家の名前を言うが、日本では聞いたことがない(めったに観光旅行しないが)。

 そうはいっても、建築家はまだよいほうである。わたしのような都市計画家は、ほとんど世に知られることはない。それはいずれ知られるのか、それとも永遠にないのか。
 例えば、新国立競技場が話題になり建築家の名が出たけど、都市計画家の名は一度も登場しなかったよね。

●復元して悪くなった広場環境
 

 さて、その新命名の前川國男館の前にやってきて、音楽堂そしてこれも後年の前川設計の青少年会館とともに形成する広場から眺める。
 この姿は一昨年にリニューアルされた。広場のリニューアルの方針は、当初の姿に復元であると、広報されていた。1954年の当初はこの広場は砂利敷きであったが、できがったのはコンクリート敷きだった。

  わたしは2019年にその工事中にここに来て、掲示と現場を見てこう書いた(2019/06/27)。

広場整備の方針
「あの広場には樹木がたった一本しかなくて、全部が駐車場に占められているし、広場から昔は海が見えたろうけど、今じゃあ周りは高層共同住宅でその上から超高層ビルに見下ろされて、なんとも鬱陶しいねえ。広場はクルマに占拠されてるし、夏は暑くてたまんない、だから緑を植えて木陰のある庭にして人が集まるようにするのかと思ったら、この絵を見るとやっぱり駐車広場ですよ、写真見ると砂利敷きだから、水の浸透性をよくするように砂利を復活するのかな。https://datey.blogspot.com/2019/06/1406.html

 さらに去年春にきてみて、こう書いた(2021/03/22)

この文化ゾーン施設を県が再整備してのが1昨年、けっこう繁っていた樹木をり倒した。管理上それは仕方ないとも思うが、この音楽堂前の殺風景広場をなんとかしてほしかった。
 広いコンクリート駐車場にタブノキがたったの一本だけ、夏はとてもいられたものではない。駐車場が必要なのはわかる、駐車場でよいからその中に樹木を植えてはどうか、復元的整備とてこのようにしたのなら、それが間違っている。
 これが建った頃はまわりには樹木の多かったし、広場は砂利敷きだったし、音楽堂には楽屋がなかった。そう復元するのでないなら、現代に対応する復元をするべきである。東京駅のように復元さえすればよいとの考え方は間違っている。
https://datey.blogspot.com/2021/03/1523.html

 そしてこの暑い暑い夏の日に、またここにやってきた(目的は横浜能楽堂であったが)。

左に「前川國男館」、正面「音楽堂」
気温35度の夏の日、広場にある唯一のタブの木陰から撮影した

 広場はカンカン照りの太陽で暑いのなんの、予想通りでとてもいられるものではない。
 それでもこの広場に憩う5人の姿があったが、それらは当然のことに唯一のタブの木陰に座っていた。今からでも遅くないから、数十本のタブの木を植えてほしいものだ。

 折からこんなニュースもある。6月22日ニューヨークタイムズ記事に、パリのノートルダム寺院の火災からの修復工事に関して、その広場に植栽をして、歩行者に快適にするとともに気温上昇から守る、というのである。あれもこれも歴史的空間の復元ならば、見習ってはどうか。
再整備計画の鳥観図

現況 グーグルマップより

参照:2019/06/271406【1950年代モダニズム建築の再生】3:神奈川県立図書館・音楽堂は本当に保存に値する名建築か

(2022/06/30記)

2022/05/30

1622 【横浜寿地区観察徘徊】簡易宿泊所ドヤ街に登場した新築分譲共同住宅マンションのコンセプトは

 横浜の古い都心部にもう20年も住んでいる。
 年寄りの健康維持のために行く先の宛てもなく近所を徘徊する日常である。経路になる場所はある程度一定しており、それらの順番は日によって気分で異なる。
 繁華街、観光街、エスニック街、ドヤ街、元赤線街、元青線街、裏路地街、急坂町、墓街などなど、単に歩くだけではつまらぬので、キョロキョロと横浜都心風景の変化を追う。
 住宅街は静かだが、何年も同じところを見ていると、じわじわと変わるが実に興味深い。今日はドヤ街の観察徘徊記録である。
横浜都心部の寿町から松蔭町を中心に「寿簡易宿泊所街」がある











 





●寿簡易宿所街は繁盛らしい

 その徘徊住宅街のひとつに、大勢の貧困階層が高密度に集まって、林立する簡易宿泊所(通称「ドヤ」)という低級ホテルで暮らしている街で、通称「寿地区」あるいは「寿ドヤ街」である。
 正確に言えば住宅ではないが、実態は簡宿の泊り客たちのほとんどが住み着いているから住宅街である。実際にその街の風景は、知らない人が街を通ってみると、ワンルームの共同住宅ビルが多い街だなあと思うだけだろう。

横浜寿地区簡宿街メインストリート風景


寿地区簡易宿泊所分布状況


  横浜都心に住みだしてからもう20年、その間に寿町あたりも徘徊観察を続けて、このブログにも折に触れて観察記録を載せている。観察するだけで研究とか活動を一切しないのは、そんな気力がない老人だからだ。寿徘徊はその名称からおめでたい気分になる。

 それにしてもこの20年間、寿町の簡易宿泊所は増えこそすれ、減るようには見えない。ということは普通の住宅に住めない貧困階層は減らないということらしい。古くなった4~5階の簡宿が、次第に10階程度の高層ビル簡宿に建替えがじわじわと進んでいるようだ。
 新築簡宿ビルの入り口あたりに、エレベータ、インタネット、車いす対応等が完備と、時代に対応する設備を宣伝している。特に増える傾向にある老人対応が今の最先端らしい。

2020年1月 5階建て簡宿ビルが取り壊されて空き地に

2021年1月 その空き地に新築高層簡宿ビルが建った

看板アレコレ

●建替えられて高層化する簡宿

 今月(2022年5月)の寿徘徊で見つけた新しい動きのひとつは、周囲を簡宿ビルに囲まれた大きな空き地に、建設工事のお知らせ看板が登場したことである。読めばこれも簡宿である。その規模は10階建て、延べ床面積は2400㎡余とあり、部屋数とか宿泊定員を書いてない。例えば1室をグロス15㎡としても160室、160人くらい寿町の収容力が増えるようだ。

この空き地に新築お知らせ看板が立った

そのお知らせ看板を読むと高層簡宿ビル

 この寿町地区で去年に建て替えた簡宿が、観察徘徊では5棟あり、いずれも4~5階建てだったのが8~10階建ての高層ビルに替った。元に比べてかなり収容数が増えただろう。
 そして今年になって取り壊して空き地になった簡宿ビルが2棟ある。これらもいずれ新たな高層簡宿ビルになるだろう。この貧困ビジネス事業は景気が良いらしい。

 いずれにしても簡宿は簡宿であり、一室が3畳間から6畳間程度便所とシャワー室共用の構成には変わりはないらしい。何しろ泊まる客(実は暮らす客)の大半が生活保護費受給者だから、その収入から逆算して一泊1700円から2000円程度が支払い可能額だから、オーナーの投資もそれに対応するレベルで、できるだけ高密度に建てることになる。

新旧たち並ぶ簡宿ビル群

簡宿の典型的な部屋と基準階平面図

 その証拠には、どの簡宿ビルも同じような建築の姿になっている。中廊下を挟んで両側に3畳か4畳半の部屋がずらりの並ぶプランが標準らしい。
 住宅なら隣との建築の距離が採光通風のために法的に必要だが、宿泊施設はそんな考慮は不要で、隣との隙間もなく建てるから、窓と窓が真正面に向き合う。もっとも、近頃はファサードだけ妙に建築的デザインしている簡宿ビルが登場しているが、その中身はこれまでと同じらしい。
 思うに、その辺のドヤ建築と経営ノウハウは、これまでの長い歴史からしっかりと構築されているだろう。その運営受託を専門にする業者もいるらしい。

モダンぽいファサードデザインの簡宿

 近年はコロナ禍による観光低迷で普通のホテルなら経営難だろうが、ここは毎日を生活している宿泊者ばかりだから、宿泊客はコロナに何の関係もない。むしろコロナによる生活困難者の増加は、簡宿へと吹き寄せられて、宿泊客は増えているのかもしれない。
 ということで、この伝統ある貧困ビジネス街は、どうやら盛況らしい。
 その簡易宿泊所街の中に、この春になんと高層分譲マンションが登場した。

●マンションじゃなくて共同住宅という

 ここでちょっとマンション談議をする。マンションmansionとはアメリカ人に聞いたたら英語の意味は、大統領のホワイトハウスのような広大な庭もある邸宅、つまり日本語ならば御屋敷のことだそうだ。
 ところが日本語のマンションときたら、兎小屋のような狭い住居もあれば、オクションなる超広い住居もある共同住宅ビルのことであり、どっちにしても庭園なんてものはない。このようなビルを英語ではアパートメントハウスapartment houseというそうだから、要するにアパートである。

 ところが日本語のアパートときたら、2階建て程度の兎小屋が並ぶ共同住宅のことだから困ったものだ。もっとも、戦前は中層以上のコンクリ造共同住宅をアパートメントと言っていた。ちょっと高級感があった。
 それが戦後になって中高層共同住宅ビルが登場し、不動産業者がそれまでのアパートメンハウスと差別するために誇大広告としてマンションと言って売り出した。そのうちに世間ではアパートメントは取り残されてアパートとなり、共同住宅ビルはマンションと言うようになった。更に奇妙だが「マンション建て替え円滑化法」なんて行政用語にもなった。

 マンションという日本語には、外国人に話すときにこんがらかるし、業者の誇大広告にのせられるのも癪にさわるし、わたしにはどうも違和感が大きい。建築基準法が言うように「共同住宅」ということにしている。丁寧になら「区分所有型共同住宅ビル」とでも言うか。

●簡宿街の中に一般分譲の共同住宅ビルが建った

 話を寿町に戻して、簡宿街の中に1棟の10階建ての共同住宅ビルが立ち上り、この春から入居が始まっている。ということは、この街の中で普通に暮らしたい家族が大勢住み始めつつあることだ。

周りは簡宿ビル街の中の登場した分譲共同住宅ビル 2022年5月

 もちろんこの街は簡宿専用ではなくて、普通の街として店も事務所も診療所もある。事務所ビルの上層階が共同住宅のビルもいくつかあるし、市営住宅もあるから普通の住宅も少ないが存在する。
 この新登場共同住宅ビルも、じつはその土地には以前に1,2階が民間事務所で3~5階が都市再生機構(UR)賃貸住宅であった。UR前身の日本住宅公団が市街地住宅を幾つも建てているが、そのひとつが建替えられたのだ。

上の写真の共同住宅ビルが建つ前にはこんなビルが建っていた 2018年11月

 寿地区(正確にはこのビルは松陰町にあるのだが)ではかなり大きな敷地の建築であり、それが取り壊された2018年から跡地に何が建つのか興味を持って徘徊観察していた。
 その工事看板に分譲式の共同住宅が高さが2倍くらいなになって登場すると知った。この立地で普通に売れるものだろうかと興味があった。
 先にその結果を書くと、当該共同住宅ビルの公式サイトによると、既に「完売御礼」とあった。どんな販売作戦だったのか気になる。

●外人専用かとカン違いした

 まずはその共同住宅ビルのネーミングであるが、竣工間近らしい2月中頃に、看板など付いただろうかと見に行った。入り口上の壁に「DEUXFLE YOKOHAMA ISHIKAWCHO」とある。また一階壁面の照明器具に「THE LIGHT HOUSE」ともある。元かドアの横に小さな字で内部の施設案内らしいこと掲示があるが、これも全部英語らしいローマ字である。ほかに日本語の掲示を探したが全くない。

どれがこの共同住宅の名前なのだろうか

 おおそうか、外国人専用のAPARTMENT HOUSEにするのだな、なるほどそれなら地域的偏見がない市場開拓でなかなか良い作戦だ。5月初めに行ったら、引っ越し荷物トラックが来て入居者たちらしい姿もあるが、どうも外国人には見えない。

 そのローマ字名でネット検索したらあった。「THE LIGHTHOUSE(デュフレ横浜石川町)」というらしい。各項目のタイトルは英語だが、説明文などは日本語であり英訳はない。内容を読めども外国人専用ではないらしい。
 周りにある簡宿群の名は〇〇荘とか〇〇館とかが多く、なかには〇〇ホテルもあるから、ローマ字だけでしかも読めないDEUXFLEとは、簡宿との差別化の意図があるのだろう。

●販売宣伝文の中の寿地区表現

 デュフレ横浜石川町の住戸構成は、129戸の1LDK~3LDKの専有面積は34.80㎡~75.47㎡で、普通の世帯向けの分譲区分所有型共同住宅、つまり世間でいうマンションである。
 デュフレビルの姿かたちも簡宿とは大きく異なるかと言えばそうでもない。また、いかにも共同住宅に見えるようでもなく、街並み景観を乱すほどの差異化デザインでもない。

簡宿とデュフレがつくる街並み景観

 デュフレ横浜石川町のウエブサイトに、寿町地区(松蔭町も含む)の環境についてどう書かれているか、そもそも書かれているだろうか。いわゆるマンションポエム流の説明が、英語の項目で日本語で書かれている。

 寿町に触れているのはTOWN LIFEの中のAREAページにあった。寿町地区でホステルヴィレッジという地域活動を続けている岡部友彦さんへの取材形式で地域の歴史を語っている。寿町地区ではなくて松蔭町エリアとして、その多様性とコミュニティの存在に触れるが、寿町地区の実像には遠い。

 LIFE INFORMATIONに近隣の公園や公共施設がリストアップされてるが、そのなかに最も近い「寿公園」はない。寿公園では休日に、ボランティアによる貧窮者たちへ炊き出しで食事提供がなされる。

寿公園で炊き出しを待つ人々 2020年元旦
 また、この地区の最も重要な公共施設である「横浜市寿町健康福祉交流センター」も載っていない。そこは市民に日常的に開かれ、広いラウンジには図書室もあって住民たちが静かに昼間を過ごしている。
横浜市寿町健康福祉交流センター
 これらがデュフレ公式サイトに載ってないということで、この共同住宅販売の意図的な寿簡宿街無視の方向を察することができるが、現に住めばすぐわかることだ。

●共同住宅は簡宿を駆逐するか

 わたしの興味は、簡易宿泊所街の中に登場した新たな普通の共同住宅が、これから街に変化をもたらすきっかけになるのか、あるいは何の影響もないのか、である。もちろんこのあたりにこれまでも共同住宅ビルがあるのだが、それらはいずれも寿地区の外郭の幹線道路沿いに面している。四週を簡宿ビルの囲まれてこれほど大きな共同住宅ははじめてである。

 実は今年になってこのデュフレ共同住宅のある通り沿いの2軒の簡宿ビルが取り壊されて空き地が発生している。これらの跡地利用が簡宿の再建か、それとも普通の共同ビルが出現するのか気になっている。
 このデュフレを契機にして、ゼントリフィケーションが始まるかもしれないとも思う。だが一方では初めに述べたように簡宿需要は盛んな様子もある。

デュフレ近くで6階建て簡宿が取り壊されて空き地になった
(追補2022/06/11)この跡地に8階建て簡易宿泊所建設工事が始まった

 






   デュフレの価格を知らないが、ネットスズメ情報に8階75㎡5,930万円(坪単価260万円)とあるが、市場でどの位置かわからない。ネットには投資目的の購入者だろうか、すでに賃貸住宅として市場に出ている。2階、賃料(管理費等)13.8万円(10,000円)、39.63㎡とあるから、㎡あたり約3500円/月である。

 周りの簡宿の宿泊料は、一室6㎡くらいで一泊2000円くらいだから約330円/日、9900円/月である。これはデュフレの賃貸住宅の3倍近い稼ぎになる。荒っぽく見ても不動産運営事業としては簡宿の方が断然に利益が高い。

 ということは現在の簡宿経営者が一般賃貸住宅事業に乗り換えることは、現状では予想しがたい。むしろ分譲共同住宅を簡宿に改造する事業者が登場するかもしれない。
 つまり簡宿駆逐のゼントリフィケーションは起こりにくいことになる。う~む、これって、正しい見方だろうか?

●木造飲み屋街を再開発して

 松蔭町も含めて寿地区の現在の簡宿群は、時代の要請に対応すように内容を変えて建替えられていく。だが気になる街区が一つある。
 そこは細い路地を挟んで、零細な木造2階建て飲み屋が密集して立ち並んでいる。簡宿でさえ堂々たる不燃中高層建築が立ち並ぶのに、この一角だけが取り残されている。見ようによればこここそは横浜戦後混乱期プータローの街の雰囲気を今に伝えている。

飲み屋街 2015年

懐かしいような街並みの飲み屋街 2016年



 



ちょっと怖い雰囲気の飲み屋街路地

 この街区はかつては日ノ出川であり、1956年に埋め立てて街になった。わたしは実情を知らないが、その埋め立ててできた公有地の不法占拠があり、その状況が今も継続しているのだろうと推測する。それならば戦後混乱期の建物が今に続くことになる。

 この街区がその内にどう変わるか、簡易宿泊所が林立するか、それとも共同住宅ビルが林立するか、あるいは公共施設が登場するか、楽しみである。もしもこの飲み屋街の土地が公的所有地ならば、再開発をしてこの地域にふさわしい都心型老人福祉施設を創ると良いのになあと夢想している。

寿地区当たり空撮2018年 google map

(2022/05/30記)

●もっと寿地区を知りたいお方はどうぞ
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