世界の国々の都市人口の変化が面白い。
2050年の日本の人口は約1億人、そのうちで都市に暮らすものが8割を占めるという予測が出されている。
http://periscopic.com/unicef/urbanmap/
日本の1950年の都市人口割合は35パーセント、それが今では67パーセントになり、2050年には80パーセントになる。
その頃の日本はどうなってるんだろうか。
老齢人口は、2050年には33~39パーセントと予測されている。
なんらかの社会的支援を必要とする老人は、やっぱり都市にすむようになるだろうから、日本の都市人口の8割のうちの老齢人口割合はかなり高くなるだろう。
そのような都市は、今とどう違っているのだろうか。
都市に集中する人口への政策は、抑制策か促進策か、どちちらなんだろうか。
老人が都市に向かうのは、社会に支えられて生きるために必要な行動だから、これは抑制することはできないだろう。
中国の都市人口を見ると、1950年が12パーセント、2010年が47パーセント、2050年は73パーセントとある。
中国の2050年は今の日本に近い割合だが、その数は日本の10倍以上で8億7千5百万人と、大変なものである。
こんなに急激に変化して都市時代に突入する中国では、どのような政治になっているのだろうか。
ヨーロッパで見ると、イギリスの1950年の都市人口が79パーセントと、2010年が80パーセント、2050年はなんと88パーセントだそうである。
西欧の他の国々に比べてかなり高く、都市化への歴史が長いのが分る。
一国の人口の9割が都市に住むとは、どういうことなのだろうか。
なんにしても、昔は青年が都市を目指していたが、今は老人が都市を目指す時代になったのだ。わたしもそのひとりである。
2012/03/02
2012/02/29
589ふたつのキャンドルナイト
大震災1年目の3月11日が来ようとしており、各地でキャンドルナイトとかローソクナイトと称して、あのときの停電を再現して、ローソクの灯でしばらく過ごす体験の催しがあるらしい。
それはそれで記憶を風化させないために良いことだが、なんだか違和感もある。
イベントという一過性でよいのか、ローソクを使うから節約にはならないし、あまりたくさん燃やすとけっこう煤が出るしなあ、。
どこかに集まってやると、けっこうなエネルギー消費になりそうだよなあ。
どうせやるなら、全国一斉、各家庭もホテルも事業所も、そのまま真っ暗闇の夜を一晩過ごすってのはいかが?
日本真っ暗ナイトである。
むかし、ニューヨーク大停電てのがあった。
その夜に仕込まれた子がたくさんできたというから、真っ暗ナイトは少子日本にまことに有効なるイベントになるかもね。
わたしには、1945年からの数年間は、毎日停電していた体験がある。
まだ幼年だったからよく知らなかったが、あれは計画停電だったのだろうか。
いや、どうも、突然だったような気がする。でも大人たちは特に困った様子もなかったなあ。
もしかして、戦後ベビーブームの原因のひとつだったかもなあ。
じつはいまでも、毎日毎晩キャンドルナイトの国や地域があるのだ。一時のイベントではなくて、それが日常である。
わたしが昨年春に訪ねたネパールがそうであった。
今、ネパールの日本大使館のサイトを見たら、ネパール全土の地域をグループに分けて、曜日ごとに何時から何時まで停電の一覧表がある。
http://www.np.emb-japan.go.jp/jp/pdf/powercut27feb12.pdf
なんだか懐かしくなったなあ、去年の計画停電といいながら、どうも計画的でない日本の騒ぎのときも、TVにこんな表が映っていたもんだ。
なになに、カトマンズ盆地のパタンでは、月曜日は4時から9時と13時から18時とあるから、なんとまあ10時間停電だよ~。
水曜日は9時から13時と17時から23時だよ、夕飯食べるときから夜中まで真っ暗。
でも、わたしは現地に行ったから知っていますが、停電だとて誰もドタバタしていませんでしたね。
日本が計画停電のちょうどそのときに、わたしは停電の国・ネパールに遊びに行っていたのだ。
レストランで夕飯を食おうとすると、パッと停電、アレ~っというのは外国人ばかり。
店の人は、おもむろにその辺にあるローソクに灯をつけて、しばらくすると必要な範囲の電灯がつく。どこの店でも自家発電気があるのだ。
あちこちからブンブン発電機が回る音がして、あたりが排気ガスくさくなる。
停電の原因は単純で、発電力が不足しているからである。
ヒマラヤの氷河や雪の水源が豊富だから、水力発電をいくらでもできそうなものだが、それに投資する金がない貧乏国だし、その水がすべて流れていくインドとの水利権関係も複雑らしい。もちろん原子力発電はできっこない。
だから工業は育たないから、工業製品はインドから陸路のトラックでやってくる。タタのトラックがブンブン走っていた。
今、日本のキャンドルナイトイベントには、あの不安の思い出とそれをひきずりつつも平和な現在がない交ぜとなっている微妙な心地がこめられているだろう。
一方、政情と経済の不安の中にあるネパールの毎夜のローソクナイト、、う~む、日本とネパールの二つのキャンドルは、ひとつの灯になることはなさそうだ。
関連→ネパール逍遥・異文化への旅
http://homepage2.nifty.com/datey/nepal/index.htm
それはそれで記憶を風化させないために良いことだが、なんだか違和感もある。
イベントという一過性でよいのか、ローソクを使うから節約にはならないし、あまりたくさん燃やすとけっこう煤が出るしなあ、。
どこかに集まってやると、けっこうなエネルギー消費になりそうだよなあ。
どうせやるなら、全国一斉、各家庭もホテルも事業所も、そのまま真っ暗闇の夜を一晩過ごすってのはいかが?
日本真っ暗ナイトである。
むかし、ニューヨーク大停電てのがあった。
その夜に仕込まれた子がたくさんできたというから、真っ暗ナイトは少子日本にまことに有効なるイベントになるかもね。
わたしには、1945年からの数年間は、毎日停電していた体験がある。
まだ幼年だったからよく知らなかったが、あれは計画停電だったのだろうか。
いや、どうも、突然だったような気がする。でも大人たちは特に困った様子もなかったなあ。
もしかして、戦後ベビーブームの原因のひとつだったかもなあ。
じつはいまでも、毎日毎晩キャンドルナイトの国や地域があるのだ。一時のイベントではなくて、それが日常である。
わたしが昨年春に訪ねたネパールがそうであった。
今、ネパールの日本大使館のサイトを見たら、ネパール全土の地域をグループに分けて、曜日ごとに何時から何時まで停電の一覧表がある。
http://www.np.emb-japan.go.jp/jp/pdf/powercut27feb12.pdf
なんだか懐かしくなったなあ、去年の計画停電といいながら、どうも計画的でない日本の騒ぎのときも、TVにこんな表が映っていたもんだ。
なになに、カトマンズ盆地のパタンでは、月曜日は4時から9時と13時から18時とあるから、なんとまあ10時間停電だよ~。
水曜日は9時から13時と17時から23時だよ、夕飯食べるときから夜中まで真っ暗。
でも、わたしは現地に行ったから知っていますが、停電だとて誰もドタバタしていませんでしたね。
日本が計画停電のちょうどそのときに、わたしは停電の国・ネパールに遊びに行っていたのだ。
レストランで夕飯を食おうとすると、パッと停電、アレ~っというのは外国人ばかり。
店の人は、おもむろにその辺にあるローソクに灯をつけて、しばらくすると必要な範囲の電灯がつく。どこの店でも自家発電気があるのだ。
あちこちからブンブン発電機が回る音がして、あたりが排気ガスくさくなる。
停電の原因は単純で、発電力が不足しているからである。
ヒマラヤの氷河や雪の水源が豊富だから、水力発電をいくらでもできそうなものだが、それに投資する金がない貧乏国だし、その水がすべて流れていくインドとの水利権関係も複雑らしい。もちろん原子力発電はできっこない。
だから工業は育たないから、工業製品はインドから陸路のトラックでやってくる。タタのトラックがブンブン走っていた。
今、日本のキャンドルナイトイベントには、あの不安の思い出とそれをひきずりつつも平和な現在がない交ぜとなっている微妙な心地がこめられているだろう。
一方、政情と経済の不安の中にあるネパールの毎夜のローソクナイト、、う~む、日本とネパールの二つのキャンドルは、ひとつの灯になることはなさそうだ。
関連→ネパール逍遥・異文化への旅
http://homepage2.nifty.com/datey/nepal/index.htm
2012/02/28
588『津波と村』海辺の民の宿命か
民俗学者の山口弥一郎が書いた『津波と村』(三弥井書店、1943年発行の復刻版)を読んだ。
1895年、1933年の3陸津波の村を1940年前後に三陸海岸を足で歩いて、その復興と復旧の姿を、地区のレベルと家族のレベルでトレースしている。
そして1960年のチリ津波についての新聞寄稿文も、復興版には採録している。
その結果として、わかっていながら2回も被災するはなぜか、検証している。
今も被災各地で高台移転や、現地嵩上げ、高い防波堤などが住民たちと行政そしてコンサルタントや学者たちの間で、多くの検討がされているようだ。
だが、117年前も79年前も同じようなことを考え、同じような事業をして、人々は次は被災しないようにと、新たな地へと住まいを移したのだ。
だが、それでも次の津波では被災してしまう。それはせっかく移転した先から、元の被災した場所に戻ってしまうからである。
被災経験のない新入り住民が、被災した空き地になっている海べりの地に家を建てて、漁業をやると、海べりの利で漁に有利になる。大漁を得る確率が高い。
それを見て、高台移転した罹災経験者も、そんな不公平なことに耐えられなくなって、次第に海べりに戻ってくる。
そして忘れた頃に津波がやってきて、またご破算となる。
民俗学者の調査らしい面白いことも書いてある。
ある高台の集落には、昔からの伝説があり、あるときやってきた役の行者が、この集落の者が他に移転すると、かならず集落が災厄に見舞われるといった。
その集落はそのタブーに縛られていたために、津波被災者は出なかった、というのだ。
人は今日の利便のために、何かを得て何かを捨てていくのだが、それを封じるのは宗教的タブーしかないのだろうか。
人もまさに海辺の生き物だ。今日を食って生きないと、明日の暮らしがないのは、生き物だからだ。
それを乗り越えるには、人間だから可能な文化的なタブーということになるのだろう。
現代ではどのようなタブーをもって人々を災害から救うのか。
この本には1895年と1933年の三陸大津波の前後の、いくつかの集落再構築の図が載っている。大移転、大防波堤など、いつもものすごいことを人間はやるものだ。
でも、それらと今回の被災状況を示すgoogle earthの衛星写真と見比べる(ここでは吉里吉里を例として掲載した)と、いずれの集落再構築もほぼ役に立たなかったほどに、今回の津波は巨大であったことがわかる。
海辺の民は、今日の暮らしのために海辺に生きる。やってきた津波から明日も生きのびたいならば、「てんでんこに」いちもくさんに逃げる、それしかないようだ。
この本を読んで、海辺に暮らしたことのないわたしは、つくづくそう思ったのである。
1895年、1933年の3陸津波の村を1940年前後に三陸海岸を足で歩いて、その復興と復旧の姿を、地区のレベルと家族のレベルでトレースしている。
そして1960年のチリ津波についての新聞寄稿文も、復興版には採録している。
その結果として、わかっていながら2回も被災するはなぜか、検証している。
今も被災各地で高台移転や、現地嵩上げ、高い防波堤などが住民たちと行政そしてコンサルタントや学者たちの間で、多くの検討がされているようだ。
だが、117年前も79年前も同じようなことを考え、同じような事業をして、人々は次は被災しないようにと、新たな地へと住まいを移したのだ。
だが、それでも次の津波では被災してしまう。それはせっかく移転した先から、元の被災した場所に戻ってしまうからである。
被災経験のない新入り住民が、被災した空き地になっている海べりの地に家を建てて、漁業をやると、海べりの利で漁に有利になる。大漁を得る確率が高い。
それを見て、高台移転した罹災経験者も、そんな不公平なことに耐えられなくなって、次第に海べりに戻ってくる。
そして忘れた頃に津波がやってきて、またご破算となる。
民俗学者の調査らしい面白いことも書いてある。
ある高台の集落には、昔からの伝説があり、あるときやってきた役の行者が、この集落の者が他に移転すると、かならず集落が災厄に見舞われるといった。
その集落はそのタブーに縛られていたために、津波被災者は出なかった、というのだ。
人は今日の利便のために、何かを得て何かを捨てていくのだが、それを封じるのは宗教的タブーしかないのだろうか。
人もまさに海辺の生き物だ。今日を食って生きないと、明日の暮らしがないのは、生き物だからだ。
それを乗り越えるには、人間だから可能な文化的なタブーということになるのだろう。
現代ではどのようなタブーをもって人々を災害から救うのか。
この本には1895年と1933年の三陸大津波の前後の、いくつかの集落再構築の図が載っている。大移転、大防波堤など、いつもものすごいことを人間はやるものだ。
でも、それらと今回の被災状況を示すgoogle earthの衛星写真と見比べる(ここでは吉里吉里を例として掲載した)と、いずれの集落再構築もほぼ役に立たなかったほどに、今回の津波は巨大であったことがわかる。
海辺の民は、今日の暮らしのために海辺に生きる。やってきた津波から明日も生きのびたいならば、「てんでんこに」いちもくさんに逃げる、それしかないようだ。
この本を読んで、海辺に暮らしたことのないわたしは、つくづくそう思ったのである。
2012/02/27
587子どものとき読み逃した本
少年のときに読みたくて読み逃がした本を、偶然に古本屋で見つけて、買って読んだ。
といっても、昔の本じゃなくてリプリント版(ポプラ社文庫版「怪盗ルパン」)だが、モーリス・ルブラン作、南洋一郎訳「813の謎」である。
むかしむかし子どものときに、どういうわけか読み逃して、残念だった思い出があるので、いきおいこんで読んだのだが、はっきりいって、つまらない。筋立て設定があまりに安易過ぎるのだ。お子様向けである。
やっぱり子どものときに読んでおけばよかったと後悔したが、時間は取り戻せない。
どうも少年少女用に、南洋一郎(この名も懐かしい)がかなり書き換えているらしい。
これはもう原作「813」の翻訳を探すしかないな。それを読んでもがっかりなら、仕方がない、こちらが大人になったのが悪い。
じつはもう一冊「奇巌城」も買ったのだ。これは少年時に読んだ記憶があるが、中身は覚えていないような、でも読んでまたがっかりするのも、いやだよなあ。
といっても、昔の本じゃなくてリプリント版(ポプラ社文庫版「怪盗ルパン」)だが、モーリス・ルブラン作、南洋一郎訳「813の謎」である。
むかしむかし子どものときに、どういうわけか読み逃して、残念だった思い出があるので、いきおいこんで読んだのだが、はっきりいって、つまらない。筋立て設定があまりに安易過ぎるのだ。お子様向けである。
やっぱり子どものときに読んでおけばよかったと後悔したが、時間は取り戻せない。
どうも少年少女用に、南洋一郎(この名も懐かしい)がかなり書き換えているらしい。
これはもう原作「813」の翻訳を探すしかないな。それを読んでもがっかりなら、仕方がない、こちらが大人になったのが悪い。
じつはもう一冊「奇巌城」も買ったのだ。これは少年時に読んだ記憶があるが、中身は覚えていないような、でも読んでまたがっかりするのも、いやだよなあ。
2012/02/22
586横浜山手墓場散歩
春浅い日、横浜山手をぶらぶら、定点観測の唐沢公園からの眺めは、あまりにたくさんのビルやら家で、もうどこが変わったのか、変わりつつあるのか、さっぱりわからない。 変化を見るには、過去の写真と並べて、新惑星の発見でもするごとくやらねばなるまい。
生きている人間の営みの空間の、なんとまあ密度が高いことよと見て、ぶらぶらと山手を向こうにくだると、谷底、また向こうに丘陵が横たわる。
その丘陵を埋め尽くして、死んだ人間のため空間が、これまた密度高く広がっているのであった。
人間は生きていても死んでいても、その身を寄せ合う密度はおなじように高いものであるようなあと、感慨を催すのであった。
その死したる人間の密度高い石塔群の向こうに、おや、生きた人間のための石塔群が肩を並べているであった。卒塔婆もあるぞ、鉄塔らしいが。
生きても死しても、人は石塔・卒塔婆が必要らしい。
墓場の境界に高い鉄製の網の垣根が出てきた。向こうはアメリカの将校たちが暮らす住宅地らしい。侵入者は訴えられるぞ、なんて札がかかっている。隣には墓場のゴミを捨てるなもって帰れなんて札もかかる。
垣根の向こうの米兵住宅地のあまりのゆったりさと、垣根のこちら側の墓場そして先ほど見た街の風景の密度、その差の大きさにちょっとたじろぐのであった。
垣根の向こうの米兵住宅地のあまりのゆったりさと、垣根のこちら側の墓場そして先ほど見た街の風景の密度、その差の大きさにちょっとたじろぐのであった。
墓場といえば寺院である。寺院群が谷底に並んで、丘陵を埋め尽くす墓場と対峙している。
その中のひとつのお寺、片持ち構造のモダンデザインの鐘楼門の向こうに、古式の本堂、その横には新式の高層住宅ビル、そのビルの一階に寺院の施設があるのであった。
生きた人間の不動産経営で、死したる人間を支えているのである、らしい。
2012/02/19
585出戻りお目見え近い東京駅姐さんと紙ヒコーキビル
今朝の新聞に一面広告、「2012年10月3日東京ステーションホテル開業」とある。この3年前だったか、お化粧のためにしばらく休業だった。
1914年開業だから98年目のお化粧直しのお目見えである。丸髷結って、カンザシいっぱいさして、赤いドーランの厚化粧、大年増姐さんの風情である。
悲惨な戦争から戦後復興の象徴であった古典とモダンの融合した、伊藤滋(都市計画家じゃなくて別人の建築家)の名作の姿は消え去った。
で、本物は今はどうなってるんだろうと見れば、おお、化粧前掛けの後ろの上に、丸髷が見えるよ。
南のほうにゆけばほぼ被り物も肌着もなくなって、おお、片肌脱ぎだよ。
中ほどはまだ被り物があって、ちょっとしたクリスト風のパーフォーマンス。
あ~あ、とうとう復原という破壊が成立したらしいよ、まあ、この20年ほど復原反対論を唱えているだけで、運動は全然する気はなかったから、しょうがないや。
これが出来上がるこの夏ごろの、世間と建築界とがどう評判とか評価するか、それが楽しみである。
これは歴史評価の踏絵となるはず。
わたしも2007年から書きかけのままの「東京駅復興(その3)」(東京駅の保存は八十島委員会でどう検討されたか)を、そろそろ書き上げねばなるまい。
隣では、対照的に真っ白な東京中央郵便局、じゃなかったJPタワーの根元が、こちらもそろそろ被り物を脱いで顔見世が始まりつつある。
その真っ白な箱に真っ青な紙ヒコーキが天から舞い落ちてズブリと突き刺さっているのであった。9.11のパロディ。
1914年開業だから98年目のお化粧直しのお目見えである。丸髷結って、カンザシいっぱいさして、赤いドーランの厚化粧、大年増姐さんの風情である。
悲惨な戦争から戦後復興の象徴であった古典とモダンの融合した、伊藤滋(都市計画家じゃなくて別人の建築家)の名作の姿は消え去った。
で、本物は今はどうなってるんだろうと見れば、おお、化粧前掛けの後ろの上に、丸髷が見えるよ。
南のほうにゆけばほぼ被り物も肌着もなくなって、おお、片肌脱ぎだよ。
中ほどはまだ被り物があって、ちょっとしたクリスト風のパーフォーマンス。
あ~あ、とうとう復原という破壊が成立したらしいよ、まあ、この20年ほど復原反対論を唱えているだけで、運動は全然する気はなかったから、しょうがないや。
これが出来上がるこの夏ごろの、世間と建築界とがどう評判とか評価するか、それが楽しみである。
これは歴史評価の踏絵となるはず。
わたしも2007年から書きかけのままの「東京駅復興(その3)」(東京駅の保存は八十島委員会でどう検討されたか)を、そろそろ書き上げねばなるまい。
隣では、対照的に真っ白な東京中央郵便局、じゃなかったJPタワーの根元が、こちらもそろそろ被り物を脱いで顔見世が始まりつつある。
その真っ白な箱に真っ青な紙ヒコーキが天から舞い落ちてズブリと突き刺さっているのであった。9.11のパロディ。
2012/02/18
584イオンの津波(続き)
閣僚となった政治家は、自分の資産を公表しなければならないらしい。今朝の新聞に一覧表が載っている。
そんな他人の財布覗き込む失礼なことはしないのだが、一番上に岡田副総理のが書いてあって、つい目がいった。
え、イオンの株12万株だってさ、おお、やっぱりそうか。
民主党が高速道路を無料にするのは、岡田さんの兄が社長のイオンという小売量販店のためだろうというのである。
だって、イオンは各地の郊外のインターチェンジ近くに店を出しているんだから、遠くからも買い物に来る客にとっては、高速道路が無料なのが一番ありがたいのである。イオンは高速道路無料化で、いながらにして税金でもって販売促進してもらえるのだ。
前にもここに嫌味を書いたことがある。http://datey.blogspot.com/2009/08/165.html
わたしは高速道路の無料化に反対なので、そんな嫌味を書いたのだが、12万株ももっているなら、こりゃあ株主としてはやっぱりイオンが栄える(つまり中心市街地が衰える)政策を民主党はやりそうだ。イオンの津波をさらに多くするのだろう。
これがわかっただけでも閣僚の資産公開の意義があるとわかった。
株主といえば、オリンパス事件でとうとう司直の手が入ったが、クビになった外人社長が、大株主を自分の味方につけて損失事件を告発しようと画策したが、ぜんぜんついてこなかったとがっかりしているとか。
どうもよくわからないのは、あの損失事件は、いったい誰が損をしたのだろうか。会社の失敗をうまいこと処理して、会社の業績もちゃんとしている。株主もそれでよいといっている。
誰かぼろ儲けしたやつはいるだろうが、投機は失敗もあるからやるもんであって、あたりまえでしょ。
隠してたのがいけないという形式的な犯罪で、被害者がいない、なら、ほっときゃよいように思う。
ところが司直の手が入ったということは、税金を使ってほっときゃいいいいことをほじくりかえすってことなんだろう。
お家騒動をほじくり返すのは、お家の中で互いにやってもらって、こんなことで大切な税金を使わないでほしいものである。
会社経営とかの素人には、なんのことだかまったく理解できない事件である。大王製紙みたいにドラ息子の使い込み、なんてのは素人でもよくわかる。
そんな他人の財布覗き込む失礼なことはしないのだが、一番上に岡田副総理のが書いてあって、つい目がいった。
え、イオンの株12万株だってさ、おお、やっぱりそうか。
民主党が高速道路を無料にするのは、岡田さんの兄が社長のイオンという小売量販店のためだろうというのである。
だって、イオンは各地の郊外のインターチェンジ近くに店を出しているんだから、遠くからも買い物に来る客にとっては、高速道路が無料なのが一番ありがたいのである。イオンは高速道路無料化で、いながらにして税金でもって販売促進してもらえるのだ。
前にもここに嫌味を書いたことがある。http://datey.blogspot.com/2009/08/165.html
わたしは高速道路の無料化に反対なので、そんな嫌味を書いたのだが、12万株ももっているなら、こりゃあ株主としてはやっぱりイオンが栄える(つまり中心市街地が衰える)政策を民主党はやりそうだ。イオンの津波をさらに多くするのだろう。
これがわかっただけでも閣僚の資産公開の意義があるとわかった。
株主といえば、オリンパス事件でとうとう司直の手が入ったが、クビになった外人社長が、大株主を自分の味方につけて損失事件を告発しようと画策したが、ぜんぜんついてこなかったとがっかりしているとか。
どうもよくわからないのは、あの損失事件は、いったい誰が損をしたのだろうか。会社の失敗をうまいこと処理して、会社の業績もちゃんとしている。株主もそれでよいといっている。
誰かぼろ儲けしたやつはいるだろうが、投機は失敗もあるからやるもんであって、あたりまえでしょ。
隠してたのがいけないという形式的な犯罪で、被害者がいない、なら、ほっときゃよいように思う。
ところが司直の手が入ったということは、税金を使ってほっときゃいいいいことをほじくりかえすってことなんだろう。
お家騒動をほじくり返すのは、お家の中で互いにやってもらって、こんなことで大切な税金を使わないでほしいものである。
会社経営とかの素人には、なんのことだかまったく理解できない事件である。大王製紙みたいにドラ息子の使い込み、なんてのは素人でもよくわかる。
2012/02/12
583津波に耐えたイオンの森と津波を起こすイオンの店
グーグルアースで、東日本大震災の津波で、仙台若林区の海岸の防風林として作った松林が、大木なのにまるで草のようにきれいにひれ伏しているのを見て、どうして松なんて根の浅い木を植えたのだろうと不思議に思っていた。
それは多分、砂丘だから土に養分がないので、最初は松しか育たないから松を植え、そのまま松林を維持してきたのだろう。
できるだけ早く根の深い常緑広葉樹林に移行させる考えはなかったのだろうか。
そんな疑問を抱いていて、知人からこんな動画がネットにあるよと教えてくれた。
http://www.youtube.com/watch?v=gDOEs2_ONGM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=M3BENrrhJJM&feature=related
どちらも、宮脇昭さんが登場して、震災復興のための森づくりを語る。
宮脇さんは高名な植物生態学者で、わたしと同郷で個人的に旧知の間柄である。
その土地本来の自然の樹種による「ふるさとの森」を作れ、土地に合わない偽物の木を植えるなと唱え、実際に実行もしている。
彼が作った有名な森は、横浜国大である。ゴルフ場だったハゲ地を、深い森のキャンパスにつくりあげた。
今では、森の中に大学を作ったのだろうと、誰もが思っているくらいだ。
http://datey.blogspot.com/2008/05/httpwww.html
動画の中の宮脇さんは、松林がもろくも津波になぎ倒されたのは、根が浅いからだ、復興の森作りは、根の深いシイ、タブ、シラカシ、マテバシイなどの常緑広葉樹で作れと言っている。
その森の基盤は、津波や地震出てた瓦礫や廃材を砕いて土と混ぜつつ、穴に埋めて、さらに盛りあげて小山をつくるのである。だから小山の森となるのだ。
これは、わたしが言ってきた「核毒の森」づくりそのものである。
http://datey.blogspot.com/2011/08/47921.html
その動画に、現地の森を見る宮脇さんが登場して、この津波でも倒れなかった常緑樹の森は、イオンの森だという。イオンとは小売量販店のことである。
イオンは自分の店の周りや、中国の長城あたりでも木を植えて森を造る事業をやっていて、それを宮脇さんは指導しているのだ。
たしかに常緑樹の森(林か)は、松林のように倒れなかったが、店舗は無茶苦茶になったから、宮脇さんご自慢のイオンの森も津波除けにはならなかったらしい。
宮脇さんがしきりにイオンの森イオンの森というのを聞いていて、なんだか違和感が沸いてきた。
いや、宮脇流森づくりはわたしも大賛成だし、実際に自分のやった仕事で宮脇流森づくりをしたこともある。
http://homepage2.nifty.com/datey/kawada05-09.htm
だが、イオンと津波は、よく似ているよなあと思ったのである。
大型店を郊外につくって、その影響がドド~ンと街の中心に押し寄せて、街中がたちまち空店だらけになるのは、津波そのものである。
いや、津波よりも原発の放射性物質ばらまき拡散のほうが近いか。何年にもわたってじわじわと生活圏を壊していくのだ。
イオンの自然の森づくりは、その街壊し放射線加害の補償のつもりでやっているんだろうか。
なんにしても、高田の松原をつくった菅野杢之助の功績はほんとうにえらいと思うけれども、センチメンタルにまた松林復旧ではなくて、宮脇さんの唱える潜在自然植生の樹種で森の復興をするべきであろう。
それは多分、砂丘だから土に養分がないので、最初は松しか育たないから松を植え、そのまま松林を維持してきたのだろう。
できるだけ早く根の深い常緑広葉樹林に移行させる考えはなかったのだろうか。
そんな疑問を抱いていて、知人からこんな動画がネットにあるよと教えてくれた。
http://www.youtube.com/watch?v=gDOEs2_ONGM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=M3BENrrhJJM&feature=related
どちらも、宮脇昭さんが登場して、震災復興のための森づくりを語る。
宮脇さんは高名な植物生態学者で、わたしと同郷で個人的に旧知の間柄である。
その土地本来の自然の樹種による「ふるさとの森」を作れ、土地に合わない偽物の木を植えるなと唱え、実際に実行もしている。
彼が作った有名な森は、横浜国大である。ゴルフ場だったハゲ地を、深い森のキャンパスにつくりあげた。
今では、森の中に大学を作ったのだろうと、誰もが思っているくらいだ。
http://datey.blogspot.com/2008/05/httpwww.html
動画の中の宮脇さんは、松林がもろくも津波になぎ倒されたのは、根が浅いからだ、復興の森作りは、根の深いシイ、タブ、シラカシ、マテバシイなどの常緑広葉樹で作れと言っている。
その森の基盤は、津波や地震出てた瓦礫や廃材を砕いて土と混ぜつつ、穴に埋めて、さらに盛りあげて小山をつくるのである。だから小山の森となるのだ。
これは、わたしが言ってきた「核毒の森」づくりそのものである。
http://datey.blogspot.com/2011/08/47921.html
その動画に、現地の森を見る宮脇さんが登場して、この津波でも倒れなかった常緑樹の森は、イオンの森だという。イオンとは小売量販店のことである。
イオンは自分の店の周りや、中国の長城あたりでも木を植えて森を造る事業をやっていて、それを宮脇さんは指導しているのだ。
たしかに常緑樹の森(林か)は、松林のように倒れなかったが、店舗は無茶苦茶になったから、宮脇さんご自慢のイオンの森も津波除けにはならなかったらしい。
宮脇さんがしきりにイオンの森イオンの森というのを聞いていて、なんだか違和感が沸いてきた。
いや、宮脇流森づくりはわたしも大賛成だし、実際に自分のやった仕事で宮脇流森づくりをしたこともある。
http://homepage2.nifty.com/datey/kawada05-09.htm
だが、イオンと津波は、よく似ているよなあと思ったのである。
大型店を郊外につくって、その影響がドド~ンと街の中心に押し寄せて、街中がたちまち空店だらけになるのは、津波そのものである。
いや、津波よりも原発の放射性物質ばらまき拡散のほうが近いか。何年にもわたってじわじわと生活圏を壊していくのだ。
イオンの自然の森づくりは、その街壊し放射線加害の補償のつもりでやっているんだろうか。
なんにしても、高田の松原をつくった菅野杢之助の功績はほんとうにえらいと思うけれども、センチメンタルにまた松林復旧ではなくて、宮脇さんの唱える潜在自然植生の樹種で森の復興をするべきであろう。
2012/02/11
582映画で見る故郷
故郷の高梁で、まちづくりの話を一般の人たち相手にしてきた。
その事前準備のときに思いついて、高梁がでてくる5つの映画のDVDを、ディスク貸屋さんから借りてきて観た。
映画のスタジオ外撮影場所(業界用語ではロケーションというらしい)として、各地が映画屋(っていうのかしら)に売込みしているのは、その映画の評判で観光客を呼び込もうという算段なのだろう。
それとも、映画屋が高額な撮影料を払うのだろうか。
「男はつらいよ」シリーズの2つで高梁が登場する。第8作(1971年寅次郎恋歌)と第32作(1983年口笛を吹く寅次郎)である。
寅次郎の義弟が高梁の石火矢町の旧家の出という設定になっているからだ。
わたしが少年時代を過ごした町だから、記憶にある風景が出てきて懐かしい。背景となるそれぞれ40年前、30年前の街の風景がどう変わったか、それを見たかったのだ。
たとえば第8作では蒸気機関車が走るのに、第32作では電化されているとか、現在の街並みでは消えた寅次郎騒動の家などをみる、というような面白さがある。
映画はフィクションだから、風景をうまく編集していかにもそれらしく使うことはあたりまえだろう。
だが現地を知っているこちらとしては、その場面のつづきはそういう風景にはならないはずだよと、突っ込みたくなることもある。
第32作で、寅次郎が住み込んだ寺の跡取り息子の青年が、写真家になりたくて東京へ列車に乗って出奔する。その列車を青年の恋人が、踏切で見送る場面がある。
ところが東京に行くなら上り列車のはずが、やってきたのは下り列車で、それに青年は乗っているのだ。鳥取県経由で東京行きとは、米子空港から飛んだのかしら。
このほうが絵になると撮影したのだろうが、見ているこちらはそりゃ違うよって、興がそがれるというか、たぶん映画監督が意図しない哄笑をしたのであった。
映画「バッテリー」では、岡山県内の高梁や津山などいくつかの街の風景をつきまぜているものだから、もっとわけがわからない。
高梁のあそこだなあと観ていて、続く場面で、はて高梁であんなところあったしらという風景が、しょっちゅう登場してきて、頭がこんがらかってくる。
まあ、それを楽しむという見方も、あるにはあるだろう。
映画「県庁の星」では、高梁の街の中にある小売量販店舗が撮影場所であった。
しかし、高梁である必然性はまったくない内容で、たまたま撮影に使ったということらしい。
外の風景といえば、だだっ広い殺風景な駐車場が出るくらいなものである。
せんだってその駐車場に行ってみたのだが、ここに限らないが、ああいう場所はどうして木を一本も植えないのだろうかと、不思議でならない。
そのあまりの殺風景さについて、先日の講演の中で写真を映して、ここを森で囲みなさいと言ってしまったくらいである。
その事前準備のときに思いついて、高梁がでてくる5つの映画のDVDを、ディスク貸屋さんから借りてきて観た。
映画のスタジオ外撮影場所(業界用語ではロケーションというらしい)として、各地が映画屋(っていうのかしら)に売込みしているのは、その映画の評判で観光客を呼び込もうという算段なのだろう。
それとも、映画屋が高額な撮影料を払うのだろうか。
「男はつらいよ」シリーズの2つで高梁が登場する。第8作(1971年寅次郎恋歌)と第32作(1983年口笛を吹く寅次郎)である。
寅次郎の義弟が高梁の石火矢町の旧家の出という設定になっているからだ。
わたしが少年時代を過ごした町だから、記憶にある風景が出てきて懐かしい。背景となるそれぞれ40年前、30年前の街の風景がどう変わったか、それを見たかったのだ。
たとえば第8作では蒸気機関車が走るのに、第32作では電化されているとか、現在の街並みでは消えた寅次郎騒動の家などをみる、というような面白さがある。
映画はフィクションだから、風景をうまく編集していかにもそれらしく使うことはあたりまえだろう。
だが現地を知っているこちらとしては、その場面のつづきはそういう風景にはならないはずだよと、突っ込みたくなることもある。
第32作で、寅次郎が住み込んだ寺の跡取り息子の青年が、写真家になりたくて東京へ列車に乗って出奔する。その列車を青年の恋人が、踏切で見送る場面がある。
ところが東京に行くなら上り列車のはずが、やってきたのは下り列車で、それに青年は乗っているのだ。鳥取県経由で東京行きとは、米子空港から飛んだのかしら。
このほうが絵になると撮影したのだろうが、見ているこちらはそりゃ違うよって、興がそがれるというか、たぶん映画監督が意図しない哄笑をしたのであった。
映画「バッテリー」では、岡山県内の高梁や津山などいくつかの街の風景をつきまぜているものだから、もっとわけがわからない。
高梁のあそこだなあと観ていて、続く場面で、はて高梁であんなところあったしらという風景が、しょっちゅう登場してきて、頭がこんがらかってくる。
まあ、それを楽しむという見方も、あるにはあるだろう。
映画「県庁の星」では、高梁の街の中にある小売量販店舗が撮影場所であった。
しかし、高梁である必然性はまったくない内容で、たまたま撮影に使ったということらしい。
外の風景といえば、だだっ広い殺風景な駐車場が出るくらいなものである。
せんだってその駐車場に行ってみたのだが、ここに限らないが、ああいう場所はどうして木を一本も植えないのだろうかと、不思議でならない。
そのあまりの殺風景さについて、先日の講演の中で写真を映して、ここを森で囲みなさいと言ってしまったくらいである。
2012/02/08
581死に甲斐のある故郷へ
2月5日に故郷の高梁で、高梁盆地へのオマージュ「美しい故郷へ」と題して講演をしてきた。
少年時代をすごしてよく知っている町だが、その後の半世紀を越える時間をブランクにしている。
個人的な印象きわまる少年時代の想い出の町を、都市計画を職能とする冷徹な目で眺めて話すという、ここでしかできない、今しかできない、そんな稀有な機会であった。
◆
都市計画の仕事で訪ねた町で、いろいろ調査してその街の人に話すのは、客観的であるが他人事に終始する。聞いているほうも醒めているだろう。
ところが故郷を話すのは、主観と客観の入り混じり具合を、自分でどうコントロールして話すか、これがなかなか難しいが、それだけに実に面白い経験であった。
故郷にいる友人たちも、わざわざ帰郷してきて聞いてくれた旧友たちも、昔話のような、でも故郷の先々を語っているような、そんな気持ちで聞いてくれたようだ。
◆
あらためて故郷の町を都市計画の目で調べて、新発見、再発見したことがあった。
盆地の北半分が藩政時代に築いた市街地で、南半分は田んぼであったところを太平洋戦争後に市街化したのである。
つまり北半分は19世紀前半までにでき、南半分は20世紀後半以降にできたのである。この二つが合わさって高梁盆地の生活圏を構成している。
ところが、その戦後市街地のあまりに都市計画のないこと、その反対に藩政時代の市街地の都市計画のあまりにありすぎること、その対照に驚いたのであった。
それでもすごいことは、高梁盆地は、今まちづくりの最先端を行く見事なコンパクトタウンなのである。そう、一周遅れのトップランナーである。
◆
もうひとつ驚いたのは、その盆地人口が藩政時代から現代まで約1万人ほどで、ほぼ変わらないで来ていることである。これをどう考えるか。
もっとも、人口の数は変わらなくても、人口の年齢構成は大きく異なっている。いわゆるピラミッド型(若いほど人口が多い)であったのが、今は大きく肩幅を広げて下がすぼまった高齢者が多くて若くなるほど少ない形になっている。
ところが、まるでバレリーナのスカートか腰のフラフープ(昔流行した)のごとくに、18歳から25歳のあたりだけが突出して人口が多いのである。大学生がいるからだ。
さて、そのスカート層が、これからもいてくれる町を維持することができるか、勝負の時が来ているだろう。
◆
人口の推移も面白い現象がある。
行政区域人口は減少の一方である。今の高梁市の行政区域は、盆地の外の高原地域の町村と大合併して、とんでもない広い範囲となっているのだが、その高原区域の人口が減少するばかりだから当たりまえである。
その一方で、都市計画区域人口は18000人強でほぼ変わらないできている。2005年には増加している。
都市計画区域は、市域の中の3つの盆地を対象としているが、要するにそこが昔からの町村のそれぞれの中心なのである。高原地域から盆地へと移動をしているのだろう。
これからも盆地が受け皿になるか、そこが勝負だろう。
◆
故郷にはもう血のつながりは一人もいなくなった。だが、故郷を愛する幼ななじみの友人たちがいる。その一人が今回の講演の仕掛け人である。
そして、なんと東京で知り合った岡山にいる都市計画の専門家が、この故郷で仕事をしているのに出会ったのだった。
縁はつながる。故郷に感謝!。
講演時間が足りなくていい足りないことばかり残った。
話の最後は、川端五兵衛さんの言の受け売りで納めた。
「死に甲斐のあるまちに!」
講演会資料
●講演会広報リーフレット(pdf 282 KB)
●講演会当日配布レジュメ(pdf 872 KB)
●講演全文ブックレット「美しい故郷に」 (後日補綴あり)(pdf 4114 KB)
●同上ブックレット表紙(pdf 107 KB)
●参照→ふるさと高梁の風景
少年時代をすごしてよく知っている町だが、その後の半世紀を越える時間をブランクにしている。
個人的な印象きわまる少年時代の想い出の町を、都市計画を職能とする冷徹な目で眺めて話すという、ここでしかできない、今しかできない、そんな稀有な機会であった。
◆
都市計画の仕事で訪ねた町で、いろいろ調査してその街の人に話すのは、客観的であるが他人事に終始する。聞いているほうも醒めているだろう。
ところが故郷を話すのは、主観と客観の入り混じり具合を、自分でどうコントロールして話すか、これがなかなか難しいが、それだけに実に面白い経験であった。
故郷にいる友人たちも、わざわざ帰郷してきて聞いてくれた旧友たちも、昔話のような、でも故郷の先々を語っているような、そんな気持ちで聞いてくれたようだ。
◆
あらためて故郷の町を都市計画の目で調べて、新発見、再発見したことがあった。
盆地の北半分が藩政時代に築いた市街地で、南半分は田んぼであったところを太平洋戦争後に市街化したのである。
つまり北半分は19世紀前半までにでき、南半分は20世紀後半以降にできたのである。この二つが合わさって高梁盆地の生活圏を構成している。
ところが、その戦後市街地のあまりに都市計画のないこと、その反対に藩政時代の市街地の都市計画のあまりにありすぎること、その対照に驚いたのであった。
それでもすごいことは、高梁盆地は、今まちづくりの最先端を行く見事なコンパクトタウンなのである。そう、一周遅れのトップランナーである。
◆
もうひとつ驚いたのは、その盆地人口が藩政時代から現代まで約1万人ほどで、ほぼ変わらないで来ていることである。これをどう考えるか。
もっとも、人口の数は変わらなくても、人口の年齢構成は大きく異なっている。いわゆるピラミッド型(若いほど人口が多い)であったのが、今は大きく肩幅を広げて下がすぼまった高齢者が多くて若くなるほど少ない形になっている。
ところが、まるでバレリーナのスカートか腰のフラフープ(昔流行した)のごとくに、18歳から25歳のあたりだけが突出して人口が多いのである。大学生がいるからだ。
さて、そのスカート層が、これからもいてくれる町を維持することができるか、勝負の時が来ているだろう。
◆
人口の推移も面白い現象がある。
行政区域人口は減少の一方である。今の高梁市の行政区域は、盆地の外の高原地域の町村と大合併して、とんでもない広い範囲となっているのだが、その高原区域の人口が減少するばかりだから当たりまえである。
その一方で、都市計画区域人口は18000人強でほぼ変わらないできている。2005年には増加している。
都市計画区域は、市域の中の3つの盆地を対象としているが、要するにそこが昔からの町村のそれぞれの中心なのである。高原地域から盆地へと移動をしているのだろう。
これからも盆地が受け皿になるか、そこが勝負だろう。
◆
故郷にはもう血のつながりは一人もいなくなった。だが、故郷を愛する幼ななじみの友人たちがいる。その一人が今回の講演の仕掛け人である。
そして、なんと東京で知り合った岡山にいる都市計画の専門家が、この故郷で仕事をしているのに出会ったのだった。
縁はつながる。故郷に感謝!。
講演時間が足りなくていい足りないことばかり残った。
話の最後は、川端五兵衛さんの言の受け売りで納めた。
「死に甲斐のあるまちに!」
講演会資料
●講演会広報リーフレット(pdf 282 KB)
●講演会当日配布レジュメ(pdf 872 KB)
●講演全文ブックレット「美しい故郷に」 (後日補綴あり)(pdf 4114 KB)
●同上ブックレット表紙(pdf 107 KB)
●参照→ふるさと高梁の風景
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