2015/04/16

1079・電気代月千円の人に教わる佛のような生き方はできないけど、

このコラム筆者は、神戸ではエアコンも扇風機も掃除機も使わない生活で電気代月千円の暮らしだったのに、転勤した東京のオール電化マンションは月3千円に増加、では、冷蔵庫をやめてしまう、という実践節電生活は?。

 冷蔵庫とは、今いらない「いつかは」使うものを入れて、時間を止める装置だったと気が付く。ほかにもたくさん「いつかは」の物があることに気が付く。
 実は、それらはみな、今は無くても生きて行けるもの。電気が人間に要らないものを溜めさせている。
 ということで、今日の物さえあればいいのだと、佛の境地に至ったそうだ。

 ならば、わたしのような、もう老い先が短い老人は、もうどうせ「いつかは」がないのだから、物を貯めてもしょうがない。だから佛になりやすいのか。
 わたしが「いつかは」と大量に集めてしまったのは、本である。「いつかは」読もうとした積ン読本を読むべき「いつか」が今ここに来ているのだけど、う~む、不覚にも読む気力がなあ、、。

2015/04/09

1078【言葉の酔時記】昔はワイセツ隠語だったのが今やいつの間にか女の子も使う愛称?のニコタマ

 東京と川崎の境に流れる多摩川に、「二子玉川」(ふたこたまがわ)というところがある。
 わたしが学生の頃は、山岳部のトレーニングとして、多摩川土手を走って、二子玉川の二子大橋から引き返していたから、懐かしいところである。
 その頃は郊外の遊園地がある田舎だったが、今や一大都市生活拠点になってしまった。
あの「ニコタマ」には今や遊園地はなくなり、「玉皮」のそばにこんな長高層が屹立して、
先ごろにフェイスブックにその二子玉川のことが、その地名の愛称として「ニコタマ」と、いまでは普通に言われているという話題が出てきた。
 エッ、普通にかい?、女の子も言うのかい?、まさかあ、あのワイセツ語がかい?、そんなことがまさかあ、、、わたしはちょっと慌てて、ネット検索してみた。

 いやいや、あるはあるは、ニコタマがいっぱい出てくる。しかも、どれも普通に使っているのである。
 そうか、今じゃあ、そうなのかあ、世の中はあの隠語を知らないのかあ。
 へえ~、あの隠語も、ながらく使っていたら、もとの意味を忘れて、男の子も女の子も恥ずかしげもなく言うようになったのか、。
 もっとも、地元の人は言わないと出てくるから、ちょっとは記憶にあるのかもしれない。
 わたしは全く知らないが、ニコタマという漫画もあるらしい。

 でも、おかしいなあと、念入りに検索をしていたら、こんなのがあった。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E4%BA%8C%E5%AD%90%E7%8E%89%E5%B7%9D
 そうなんだよ、ここではわざとひねくれて書いてあるようだけど、むかしむかし「ニコタマ」が世に登場したころ、それはもう40年以上も前だろうが、その頃は男どもが、「ニコタマ、ウヒヒ」なんて、実際に言ってたもんだった。

 まあねえ、辺野古についても、いまやどこでもだれでもヘノコヘノコといっているから、「ヘノコ、ウヒヒ」なんて笑うと、お前は基地問題に対して不謹慎だと、真面目にさげすまれるのがオチだろうからなあ。
 ま、言葉は時代に応じて変わるもんだから、しょうがないか。

 なお、わたしは4年前にも、このことをこのブログに書いていた。
http://datey.blogspot.jp/2011/02/374.html

2015/04/07

1077【未来が明るかった頃(4)】ひときわ異形の山口文象+RIA設計の建売モデル住宅は売れたか

未来が明るかった頃(3)」からつづく

 奈良盆地の西の端にできた新開発住宅地に、20戸の鉄筋コンクリート造りの建売分譲モデル住宅が建ったのは、戦後住宅難がまだまだ続く1956年11月のことだった。
 小さな木造住宅さえも手に入れにくい時代に、鉄筋コンクリート造の建売住宅である。コンクリの建物なんて、公共建築とか都心のビルにしか使われない頃だった。

 しかも、それらは全国から公募した設計とその審査員による設計だったから、よくある工務店の設計施工ではなく、建築家が設計したのであった。
 建売住宅をコンクリートで、しかも建築家が設計するということ、そして、それが住宅に関しては保守的な風土の関西においてのことだから、きわめて珍しいことだったろう。

 そこには、関西の私鉄では沿線住宅地開発事業者としては、最も後発であった近鉄の戦略があったのだろう。最新式の構造である鉄筋コンクリート住宅というのが、先行している関西私鉄住宅開発との違いを生み出したかったのだろう。
 なお、このコンクリート建売住宅は、住宅博覧会の期間中(1956年3月20日~5月7日)に建設売出しが間に合わなくて、博覧会が終わった11月初めに完成して売り出された。
 
コンクリート造建売モデル住宅展示場風景 右端に山口文象設計のカマボコ屋根住宅が見える
『楽しい生活と住宅博覧会』(1956朝日新聞社)より引用
建築専門雑誌の「新建築」(1957年2月号)にも、関西の住宅雑誌「新住宅」にもその掲載をしている。ここからは主として、その「新建築」の記事をもとにしながら書く。
 そのコンクリートモデル住宅の中で、最も先鋭的であったのは、公開公募設計競技で審査員であった池辺陽と山口文象(正確にはRIAだろうが)の設計によるものであった。

 池辺の設計によるモデル住宅は、見たところはシンプルな形である。
『楽しい生活と住宅博覧会』(1956朝日新聞社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用
 池辺自身の解説(『新建築』1957年2月号62ページ)を一部引用する。
「この住宅の設計目標は、内部をできるだけ制約しない、コンクリートの箱を造ることであった。(中略)内部間仕切りは生活のシステム、家族構成によって、どうにでも取ることができよう」
 つまり、柱を外まわりにのみ立てて、大スパンを飛ばすためにPSコンクリートの梁をかけた構造である。がらんどうの中に、間仕切り壁が自由に立つのである。
 しかしがらんどうで売り出すわけにはいかないから、池辺流のプランになっているが、それでも間仕切りはかなりフレキシブルに動くようになっているらしい。

「このような住居が現在一般に考えられている建売住宅とかけ離れた考え方であることは明らかである。しかし私は鉄筋コンクリートという永久的な材料と展示会という問題、一軒だけを造るということ、(もしも数多く作る場合はもっと違った形になっていただろう)、などの条件から、このような住居をつくってみたのである。
 この住居は恐らく生活の単純化を要求するであろう。しかし同時に私はこの住居が、今までの住居では得られなかった新しい生活の多様化を可能にする、と考えている。そしてそれは住まい手の考えにかかっているのである。ここに造られたものは、その基本要素に過ぎないであろう」

 こうしてこの住宅の買い手は、ここで新たな暮らし方を発明して暮らすことを要求されている。
 だが、そのような先進的な生活像を描いて、高い買い物(1,508,400円)をすることができる買い手が、この建売住宅にはたして現れただろうか。

 もう一人の審査員建築家の山口文象による、というよりも山口文象が主宰していたRIA建築綜合研究所によるモデル建売住宅は、池辺よりももっと過激だった。池辺が一種の逃げをうっているのにたして、こちらは真正面から突っかかっていった。

 それはなんとカマボコ屋根が二つかかっているのであった。
 他のモデル住宅がほぼフラット屋根であるなかで、これは異形である。しかも、室内の天井も、この屋根に形のままに蒲鉾状になっている。
 わたしは住宅を論評することは不得手だから、図と写真を見ていただこう。
「楽しい生活と住宅博覧会」(1957朝日新聞社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用

『耐火不燃の新建築』(1957主婦の友社)より引用

『耐火不燃の新建築』(1957主婦の友社)より引用

『耐火不燃の新建築』(1957主婦の友社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用

どうしてこのような外観あるいは構造を選んだのだろうか。これが山口が審査員講評で書いている「鉄筋コンクリート構造と小住宅の関係についての研究と突込み」の山口流の回答であろうか。
  1954年にRIAに参加した近藤正一が、後になって「当時RIAがはまっていたシリンドリカルシェル構造のゾーンプランの家であった(「疾風のごとく駆け抜けたRIAの住宅づくり」(RIA住宅の会 彰国社2013)と書いている。RIAは同じ1956年に、「日比野医院」という歯科医院兼住宅と、東京板金という工場をカマボコ屋根の設計をしているから、「はまっていた」のだろう。
 余談だが、当時はようやく撤退していきつつあったが、占領軍の基地があちこちにあって、その兵舎等の建物がカマボコ屋根で立ち並んでいた。

 RIAの三輪正弘が、「新建築」(1956年2月号)に、この建売住宅の解説を書いているので一部引用する。この設計担当は三輪だったのだろう。
 「コンクリート構造体をどうして住宅という空間のために成形させるかというテーマである。それはコンクリートの固いラーメンの中にもうひとつの木造を建てこんでいく習慣的方法から切り離すための手段に他ならない。連続した二つのシェルの断面の中にその建築的な答えを一応見ていただけると思う。」

 どうやら、ここでは池辺とは正反対に、コンクリート構造自体に内外の空間造形に意味を持たせているのであった。それはRIAが木造小住宅で、垂木構造による内外とも一致する造型を試みていたのと同様の思考であったのだろう。
 だが、建売住宅という不特定対象のこの商品を、この造型とその値段(1,267,300円)で買う人がいたのだろうか。

 「新建築」1956年2月号には、やはり審査員だった西山卯三が、「関西とモダンリビング 鉄筋コンクリートモデル住宅を見る」と題して、東の建築家による建売住宅と関西人の住宅感を対比して論評をしているのが面白い。
                   

2015/04/01

1076【終活ゴッコ】四半世紀つかったプロバイダーNIFTYと縁を切ったら古女房と別れたような気分

 ネット社会にわたしが足を踏み入れたのは、よく覚えていないが1988年だっただろうか。
 今でいうところのインタネットの「ワープロ通信」なるものを始めたのだ。ただし、できることは電話線を使ってテキストを送受信するだけ、通信速度が2400bpsと超遅かった。
 加入したプロバイダーはニフティサーブ、いまは@niftyと言っている。

 ネット関係の終活作業として、昨日、その四半世紀にわたったニフティとの契約を解消した。今日からはニフティによるメールはできないし、「まちもり通信」サイトも消えてしまった。
取り入れていた光回線を取り払って、Atermという無線システムに乗り換えたのだ。そのことの理由などを、こちらにに書いた。
http://datey.blogspot.jp/2015/03/1067.html

 二フティを四半世紀も使っていたから、古女房と別れたような気分もないではない。
 しかし古女房と縁を切っても、ネット社会との縁切りは、いまのわたしには不可能である。ネット社会だけが付き合いの世界になりつつある。
 そこで、新女房としてgoogleを引きこんだ。このgoogle女史とは、ニフティ女房がいたときからもう10年くらいは付き合っている仲だ。
 なんだか妾を妻にしたような気分もないでもない。いや、これまでそういう実体験はないから、想像するだけのことである。
http://goo.gl/TPE230

 というわけで、ニフティのメールアドレスncb02505@nift.com、二フティの「まちもり通信サイト」http://homepage2.nifty.com/datey/は、今日から接続不可能となりました。
 これらを住所録やお気に入りやブックマークにご登録してくださっているお方は、削除してくださいませ。
 そして、それらは下記のようになります。といっても、これらはずっと以前から使っているので、今日から新規になったわけではありません。

●伊達美徳メールアドレス  dateyあっとまーくkuramae.ne.jp
               または   dateygあっとまーくgmail.com
●まちもり通信サイトURL   https://sites.google.com/site/machimorig0/
              または    http://goo.gl/TPE230
●伊達の眼鏡ブログURL  http://datey.blogspot.com/     

2015/03/30

1075【未来が明るかった頃(番外)】やってきた未来の郊外開発地の現実と更にこれからの未来はどうなる

【未来が明るかった頃(3)】からつづく


 このブログにいま連載しているのは、大都市郊外に戦後新開発の住宅地が明るい未来を夢みていた、ということだが、今朝の新聞(2015年3月30日朝日新聞東京版)にその未来の今の話が出ている。
 鉄道沿線開発地にやってきた未来の今の現実は、「支えます 人生の終着駅」「私鉄各社、葬祭業ヘ進出」「沿線開発の宅地 高齢化進む」の見出しが物語っている。
 鉄道屋が葬祭業を始めたというのだ。

 鉄道業者は、戦後復興期から高度成長の人口増加時代に、若い世帯の住宅需要に対応して、沿線新開発住宅地を供給していった。
 そして今、人口減少と高齢化時代となり、鉄道事業者は高齢化したその住民たちのあの世行き儀式需要の増加に対応して、葬祭業を始めているのだそうだ。

 沿線開発の先駆者である阪急が、さすがに葬祭業進出が一番早くて1997年のこと、そのあと京急、東武、南海、京王が続いているとあり、このブログで今話題にしている近鉄はまだらしい。ただし、この新聞記事の正確度は分からない、なにしろすぐ謝る朝日新聞だからね。
 なんにしても、そういう「明るかった未来」が、このような形で来てしまった。
 
 この新聞記事に社会学者の原武史さんのコメントが載っていて、「今後は霊園開発にも手を広げなければならなくなるだろう」とある。これが、これからの先の明るい?未来であることが、なんだか悲しいような、当たり前でもあるような。
 駅前葬祭場が当たり前になる時代になって、この次は駅前火葬場ができて、駅前墓地ができるという、当たり前の未来を描くことができる。
 
 だが、更に人口減少が進むと、もう鉄道沿線には、人間(死んだ人間も含む)の住む場所はいらなくなるだろう。
 となると、そのうちに、いらなくなった駅前住宅地や墓地を、駅前山林や駅前田畑に「再開発」する時代が来るのだろう。材木や野菜を鉄道で出荷するのに便利である。
 そうだ、昔は砂利とか肥料(人糞)を運ぶ鉄道があったよなあ、そうか、未来は過去につながるんだなあ。

2015/03/28

1074【未来が明るかった頃(3】山の彼方の新興郊外住宅地は建築家デザインのモダンリビングで新ブランド化

【未来が明るかった頃(2)】のつづき:「楽しい生活と住宅博覧会」(1956年 朝日新聞社)を読んでレポート

 大阪から東に24km、生駒山を超えた奈良に、戦後1950年からの新開発住宅地は、近鉄の学園前駅を中心にひろがる。
 戦前から沿線開発に熱心だった関西私鉄では、近鉄の宅地開発は戦後からという後発である。しかも阪神圏の外の生駒山のかなたである。大阪人には遊びに行くところであっても、住むところではなかった。
 それだけに他とのイメージ的な差異を出して、新たなブランド化を図ろうとしたのだろう。わたしは関西のことはよく知らないが、この学園前や登美が丘の戦後新興住宅地は、ブランド化に成功したらしい。

 1956年のあやめ池と学園前での住宅博覧会に、その意気込みが現れている。
 建設業者による建売住宅群のほかに、有名建築家や全国コンペ公募した建築家による設計の建売住宅もとりいれ、しかも鉄筋コンクリートの建売住宅をならべたのだった。
 この住宅博覧会に先立って、会場の新開発住宅地に展示する建売住宅設計の、全国公開コンペを行った。
 その条件は、耐火構造、床面積18~23坪、家族4~6人、畳部屋を含むこと、工費は住宅金融公庫標準価格によるとしている。入選作は現実に建てられて、販売される。

 この審査員の顔ぶれがすごい。池辺陽、坂倉順三、滝沢真弓、西山卯三、村野藤吾、山口文象であり、東西から3人づつということになる。
 山口文象は戦後再出発をかけて1953年にRIAを創設し、精力的に庶民住宅に取り組んでいたから、適任であった。朝日新聞で住宅相談をやっていたからその縁によるのかもしれない。
 
 このコンペ入選者名の中に、高橋靗一、川島甲士、吉田桂二、小林盛太などの名があり、その頃は25~30歳の若者である。高橋はF4グループという名称で、郵政省仲間と共同で応募して入賞している。
 入賞作と佳作による設計の7戸と、審査員の池辺と山口による設計の2戸の鉄筋コンクリート住宅計9戸が学園前駅近くに建ったのは、博覧会が終わった後だった。
 これらはどのような売れ行きだっただろうか。

 まずは、コンペ入賞と佳作の建売住宅を見よう。わたしは住宅のプラニングを論評する能力はないが、コアプランのものがあるのが興味深い。ここだけは浄化槽を設置したのだろうか。
 意匠的には、とりたてて和風の皮をかぶることなく、素直にRC造の特徴を見せているところが、建築家好みだろうか。
 このあまりにも素直なモダニズムデザインを、博覧会に来た人たちはどうとらえたのだろうか。

 入選作の平面と外観(欄外記入は、「耐震不燃の新建築」(主婦の友社1957より)

工事費1,320,600円
土地とも1,965,900円、住宅金融公庫融資73万円を35年償還
住んでみての感想「融通性に富んでいて住みよい」


住んでみての感想「浴室のところに脱衣場がなくて困る」


 審査員としての山口文象によるコンペ評が載っている。
 応募作品364点中から入選作3点を得た。
 池田氏の作品は構造計画に無理がなく、低建設費でプランも良い。
 北原氏の作品は関西式住宅。現代的でしかも生活習慣を変えずにすめるのが特徴。
 F4グループ作品は鉄筋コンクリートではとかく大きくなりがちな構造を小さい柱で押さえたてんがよかった。
 応募作品全体を通じての印象は、鉄筋コンクリート構造と小住宅の関係についての研究と突込みが充分とは言えない。スケールの大きなものとの間には必然的に違った構想がなければならないと思う。したがってプランは構造とは違った発想からなり、木造的な考え方を出ない。
 鉄筋コンクリートにはそれなりのプラニングが有るはずだと思うが、そういうものがほとんど見当たらなかった。
 入選作品は優秀なものではあるが、上述の点でまだ十分安心できる元はいえない。主催者側と作家との間に詳細な検討が必要であると思う。
 いずれにしてもこの企画が若い有能な建築家の参加を得て、一応成功したことは喜んでよいことであり、この刺激が一般の人達の新しい住宅への関心を深める契機となるに違いない.

 では、そういう山口文象が設計したモデル住宅は、どんなものだったか。

【未来が明るかった頃(4)】ひときわ異形の山口文象設計のモデル住宅」につづく

2015/03/27

1073【未来が明るかった頃(2)】郊外開発住宅地に広がる戦後モダンリビング建売住宅

 【未来が明るかった頃(1)】からつづく:(「楽しい生活と住宅博覧会」(1956年 朝日新聞社)を読んでレポート

 奈良あやめ池遊園で住宅博覧会があった1956年、その頃はようやく戦後を脱出しつつあった。
 この年の経済白書に「もはや戦後ではない」との、後に有名になる言葉があった。
 それは朝鮮戦争の特需景気で、なんとか経済回復してきたことを意味はしたが、まだ高度成長期には夜が明けていない。

 戦争による都市の焼失と戦後の急激な人口増加で、衣食住のうち衣と食はなんとか回復が見えたが、住宅不足は深刻極まるものだった。もっとも、住宅問題は、その後に形を変えているが、未だに解消しないでいる。戦後復興で最も遅れた政策が住宅であった。
 1955年に、政府系金融機関として住宅金融公庫が設立され、金づまり時代の庶民の住宅建設に低利融資をはじめた。

 あやめ池の住宅博覧会の第1会場には、住宅博覧会らしく、生活文化館、住みよい街と住宅館、そして住宅設計館があった。
 生活文化館は、住宅関連製品メーカーの商品展示場があり、新生活の場となる住宅のモデルルームがあった。
 このモデルルームのデザインは、RIA建築綜合研究所の担当であった。このRIAとは、建築家・山口文象が戦中・戦後の逼塞の時を終えて出直すべく、1953年に創立した建築共同設計組織である。
生活文化館のRIAデザインのモデルルーム
モデルルームの想定は、24坪、夫婦と子供2人の4人家族と記述があるが、どんな平面かわからないが、戦後ブーム生れの子どもがいる若夫婦が対象であり、それは戦後の新しい主流の家族形態である核家族である。
 この世代がその頃は希望に燃えて、新しい住宅を求めていたのであり、博覧会はそれに応えるイベントだった。
 そしていま、そこにいた子どもが団塊の世代と言われて、もうすぐ大量のリアタイア世代となる。希望の時代は終わり、高齢社会問題に突入している。
 
 この住宅博覧会は、そのような戦後核家族対象の住宅の現物を、建売住宅として建設して、販売したことに特徴がある。それが第2会場である。
 あやめ池駅の南西にある第2会場に行ってみよう。松林の丘陵を切り開いた新開発住宅地に、26戸の建売住宅が建っていた。そのまわりには分譲宅地が広がる。
住宅博覧会第2会場の分譲住宅展示場
「C」のあたりが分譲住宅展示場

 展示の建売住宅の区画坪数75~180坪、売出し価格は土地建物合わせて一戸当たり95万円だった。
この価格を現在のそれと比べるべく、モデル分譲住宅展示場が建っていた土地の相続税路線価格をみると、67000円/㎡前後である。75坪としても今や土地だけで1700万円ほどにもなる。こうなってしまった未来の今は、明るいのか暗いのか。

 26戸のモデル住宅の事業主体は近鉄で、木造平屋で住宅金融公庫融資に適合し、販売価格は土地建物共で95万とする条件で、建設業者を選んで設計施工を請け負わせた。
 購入申し込み最多あるいは現地人気投票で上位の建設業者を表彰して賞金をだして、インセンティブをつけているのが面白い。この26戸は抽選となる人気で、期間中に全戸販売した。
 ここに戦後モダンリビングの様相の例としてあげるが、臭突(汲み取り便所の便槽臭気排気筒)が懐かしい。
人気投票上位の分譲住宅(右下は方位が逆のような気がする)
戦後モダンリビングいろいろ
この26戸の分譲住宅のほかに、あやめ池駅の隣りの学園前駅の近くで、耐火構造の住宅11戸が建売に出された。これは博覧会会期中には間に合わず、年末売出しだった。
興味深いのは、この耐火構造分譲住宅の設計案は、公開コンペで募集し、その入選案を建設したことである。
 そのコンペの審査員の顔ぶれがすごいし、審査員もモデル住宅の設計していて、興味深い。
(【未来が明るかった頃③】住宅博覧会の建築家によるモデル住宅へ、つづく)

2015/03/24

1072【未来が明るかった頃(1)】原子力飛行機に未来の希望が乗っていた高度成長夜明け前

 こんな写真のある本が書棚から出てきた。なんとまあ、原子力飛行機である。
 戦争からようやく立ち直った人々の心の中に、原爆を超えて原子力に代表される明るい夢と希望の未来が待ち受けている(と思っていた)1956年のことであった。

 ウチの書棚の膨大な本の処分整理をぼつぼつ始めた。山口文象関係の書棚から、忘れていた珍しい本が出てきた。
 「楽しい生活と住宅博覧会」(朝日新聞社1956年11月1日発行)とある。その年の3月から5月にかけて69日間、奈良の近鉄奈良線あやめ池遊園地で、朝日新聞社が主宰して開催した博覧会の記念アルバムである。
今日の眼から見ていると、その頃のいろいろな社会情勢が反映されていて、じつに興味深い。
 これが建築家・山口文象資料のひとつであるのは、この博覧会でモデル住宅を設計して建てていることと、博覧会行事の住宅公開コンペの審査員をしているからである。

 この本をはじめから見ていくことにしよう。
 博覧会場は、近鉄あやめ池駅前のあやめ池遊園地の第1会場と、隣りの学園前駅近くの新開発住宅地の第2会場である。
 あやめ池遊園地では、生活と住宅に関する諸情報の展示で、これは見世物小屋の立ち並ぶいわゆる博覧会形式である。
 第2会場の学園駅の方では、新規造成地にモダンリビングの当時流行のモデル住宅を建てて、これを売りだしている。近鉄による郊外住宅地開発の先鞭であったようで、この建売住宅を売るのが博覧会の本当の目的だったらしい。

 博覧会と言えば、万博は別格としても、あちこちで独自の博覧会が開かれる。
 1956年と言えば、1945年の終戦のどん底から、1950年勃発の朝鮮戦争による特需景気で浮上し、日本全体が戦争の疲弊からやっと立ち直りつつある時期だった。
 この年の政府が出した経済白書に、「もはや戦後ではないとあった。未来への希望を無理やりにでも抱いて進んでいた頃だ。

 そのころ全国各地で、地方主催の博覧会がめったやたらに開かれていて、岡山市での博覧会に行った記憶がある。ウィキをみると各地の博覧会が書いてるが、そこに「岡山産業観光大博覧会(岡山県、1954年)」とあるのがそうだろうか。
 それら中でも特徴的なのは、「原子力平和利用博覧会(東京都・広島県広島市など全国11都市を巡回、1955年-1957年)」である。未来への明るい希望の火だった。

 その未来への希望の火は、この住宅博覧会でもバッチリと展示されている。それは原子力飛行機という未来の旅行の姿としてである。
 会場の中央に鎮座している原寸大の原子力飛行機の模型は、「前長200尺、翼長145尺、胴体最大直径18尺」とあるから、たぶんこれは原寸の模型であろう。内部に観客が入るようになっている。

 その周りにはアメリカ軍の戦闘機とともに、旧日本軍の「零戦」や「飛燕」が展示してある。終戦から15年経つと、もう空襲のことを忘れるたのか、忘れたかったのか。
 それから60年後の今、わたしは原子力飛行機なるものの実在を聞いたこともない。そんなものが墜落してきたらどうなるのか。ネットで見ると、原子力飛行機開発はとうの昔に放棄されたらしい。

この博覧会のあった1956年と言えば、その前年に原子力基本法ができ、この年に原子力員会が発足した。委員長は読売新聞社主の正力松太郎、委員参与には朝日新聞の田中慎次郎もいた。朝日主催の博覧会に原子力飛行機が登場するのは不思議でない。

 そして日本で最初の原子力発電は、東海村で1963年10月26日だった。飛行機に乗ることさえも夢の夢の時代のこと、その飛行機さえも飛ばす夢のエネルギーだった。
 原爆を超えて明るい希望のエネルギーは、今や3・11を経て不安なエネルギーになり果てた。

 面白いのは、この飛行機と並ぶ見世物が、飛騨白川郷から移築してきた合掌造り民家だったことである。その頃に電源開発していた御母衣ダムで水没する庄川村の民家を持ってきたのだろう。これは水力発電というエネルギーの犠牲になった秘境から来たのだ。
 原子力、飛行機という未来の最先端風景と、秘境、茅葺民家という過去の伝統風景があり、その間にモダンリビングというその時代における最先端生活風景があるのだった。

 なお、この博覧会でのモダン建築として円形劇場が建った。その設計者は、円筒形建築で売り出していた坂本鹿名夫だった。その後、ここでOSK松竹歌劇団(日本歌劇団)が定期公演を行っていた。
 この博覧会の目的は、新開発住宅地の土地と建物を売ることだったのだが、その客寄せに原子力飛行機も大きな役割を持ったのが、未来に希望をもつべき世相を表していて興味深い。
下に近鉄あやめ池駅と博覧会ゲート、右上に円形劇場、左上に原子力飛行機
このときに用意していた26戸の建売住宅は、抽選により完売した。69日間会期中の入場者は80万人とある。
 1926年開園のあやめ池遊園地は、2004年に廃園となって、住宅地開発だそうだ。
 そういえば、わたしには親しみがあった東急沿線の多摩川園遊園も二子玉川園遊園も、とっくになくなった。

 その年、わたしはと言えば、大学受験に失敗して、小さな城下町盆地の森の中に逼塞して、この1年は人生には存在しなかったことにするべく受験勉強であり、明るい未来があると自分にムリヤリ信じさせるしかない日々だった。

 (【未来が明るかった頃(2):郊外開発のモダンリビング】へつづく)

2015/03/23

1071歌劇「オテロ」を観てきたが実は歌劇「イアーゴ」だなこれは

 久しぶりのオペラ見物、ヴェルディ作「オテロ」、原作はシェイクスピア、はじめて観た。
 音楽の展開は面白かったが、ストーリー展開は「?」の感だった。もっとも、歌劇や能楽のストーリーについてマジメに考えると、どれもバカらしくなるから、それはよしとしよう。
 目と耳が楽しければよいというのが、オペラだろう。 

 第1幕の初め、オテロが嵐の中を船で凱旋してくる。ようやく上陸して最初の言葉が、憎い回教徒を海に沈めてきた、という。
 おいおい、いまどき、それを言うのかいって、しょっぱなで現実に戻ってしまった。
 近ごろは回教徒とは言わないから、原語(イタリア語)はイスラム教徒となっているのを、字幕ではわざと回教徒としたのだろうか。
 
  このオテロが、いとも簡単にイアーゴに騙されて妻を殺すという筋書きを、なんとも理解できない。これまでも誰もがそう思うらしく、そのことでパンフレットに解説が書いてある。
 それによると、実はシェイクスピアの原作にあった第1幕を、ヴェルディのオペラではカットしているのだそうである。
 そのカットした原作の第1幕では、オテロの出自がネグロイドのイスラム教徒であったのが、キリスト教に改宗し、底辺から出世してコーカソイドの貴族の娘デスデモーナとの恋を実らせたことによる、社会的摩擦と個人的苦悩の根源が語られているそうだ。

 このオペラの主題は男の嫉妬だが、実はその裏には宗教や人種問題が潜んでいるのであった。だからいきなり、回教徒撲滅が出てくるし、主役ひとりだけがネグロイド人種のムーア人で、ほかはみなコーカソイドなのである。
 もっとも、わたしは原作を読んだことはないから、19世末のヴェルディや原作者の17世紀初のシェイクスピアが、宗教や人種に関して、今日的な意味で問題と考えていたかどうかは知らない。後世の解釈かもしれない。

 カットされたシィクスピアの第1幕を知らないと、オテロのあまりにもおバカな行動が、なんとも理解できない。
 つまり、このオペラをつくった1887年の頃は、これを観る人たちは17世紀初のシェイクスピア劇を、すでに知っているという前提で制作されているのだ。
 おや、能と同じだな。連想したのが、日本のオペラともいうべき能楽である。わたしはまたもや能楽を観る眼でオペラを観ることになる。

 多くの能は、それが作られた頃には古典文学になっていた源氏物語、平家物語あるいは伊勢物語について、観客は既に知っているという前提で筋書きできている。古典文学を知っていないと面白さが半減する。このオテロの場合と同じである。
 突然に思い出したのは、わたしは10年以上まえのこと、「オセロ―」という新作能を観世能楽堂で見たことがある。内容を忘れたが、観世流の津村礼次郎がシテを演じたような気がする。

 戻ってからオセローと津村をネット検索したら、津村禮次郎のサイトには、次のようにある。
・1991年に新作能「オセロー」(上田邦義能原案・津村禮次郎作能)初演
 ほかには、「英語能・シェイクスピア能・現代口語能」のページに次のようにある。
・平成4年10月(1992年) 公演「新作能・オセロー」(日本語)作・演出(初演)(宝生能楽堂 主催:朝日新聞社。観世流緑泉会公演、シテ・津村礼次郎。能楽師による我が国最初のシェイクスピア能公演。
・平成12年6月15日(2000年)、『能:オセロー』シテ:津村禮次郎、アイ:野村萬斎
 初演が1991年か92年かわからない。またべつに、宝生流で2014年に初演ともある。
 わたしが見たのは2000年だろうか。狂言方の萬斎がイアーゴとして登場したのが面白そうだが、覚えていない。

 能ならばどうするだろうかと思いながら、オテロの舞台を見ていた。
 群集劇の場面が、その動作や衣装の多様さが眼では面白いが、視覚が散漫になってどこでオテロやイアーゴが歌っているのかわからない。
 能ならば、シテのオテロとワキのイアーゴの歌唱に、地謡が群衆の歌を謡うだろう。そう思いながら、舞台をみていた。

 舞台装置も視線を散漫にさせるが、ちょっと面白い装置ではあった。完全なるリアリズムでもなく、かといって抽象でもない。よく見ればかなり具象であり、同じ装置を演技中の舞台上で動かして場面転換する。
 そして中央には8角形の置き舞台があって、ここが演技中心であることを示している。

 置き舞台は能舞台だとすれば、周りに立つ装置が煩瑣なのである。同じ装置を向きを変えて使いまわしするから、場面が転換しても視覚では転換前の印象を引きずってしまう。
 これが能ならば、わずかな作りものはあるばあいもあるが、舞台装置を観客の頭のなかに作らせるから、もっと自由に観ることができる。但し、それには演者も観客も技量と努力を要する。
 吊り橋のような装置を上げ下げして出入り場面があったが、これは能ならばまさに橋掛かり演出で、実に効果的になるのになあ、と思った。

 このオペラの主役は、実はイアーゴだなと思いつつ観た。ただし、これはストーリーの上でのことで、観た舞台のイアーゴの演技は、なんとも脇役級であった。
 イアーゴを主役にして宗教や人種問題を主題に据えた演出の、オペラ「オテロ」ならぬオペラ「イアーゴ」を観たいものだ。
 たぶん、既にどこかにあるような気がする。

 3階席の一番上手の一番前の席で6000円、よく観えよく聞こえて、値段の割にはよい席だった。
 しかし、今回つくづく思ったのは、上階の席への出入りには、これからだんだんと苦痛になるだろうということだ。客席階段の蹴上げは高いし、踏み面の幅は一様でないから、けっこうヨタヨタしてしまった。まあ、運動というか、リハビリテーションにはなった。
 年とると安い席に行けなくなるなあ、そうか、能楽堂に年寄りが多いわけがわかったぞ、だって、あそこは平土間席ばかりだもんなあ。


神奈川県民ホール開館40周年記念
神奈川県民ホール・びわ湖ホール・iichiko総合文化センター・東京二期会・神奈川フィルハーモニー管弦楽団・京都市交響楽団 共同制作公演
ヴェルディ 歌劇「オテロ」全4幕
新制作/イタリア語上演日本語字幕付
公演日時: 2015年03月21日(土)~2015年03月22日(日)
指揮:沼尻竜典
演出:粟國 淳
装置・衣装:アレッサンドロ・チャンマルギ
照明:笠原俊幸
音響:小野隆治
合唱指揮:佐藤宏
舞台監督:菅原多敢弘
出演:21日/22日 
オテロ 福井 敬/アントネッロ・パロンビ
デズデモナ 砂川涼子/安藤赴美子
イアーゴ 黒田 博/堀内康雄
エミーリア 小林由佳/池田香織
カッシオ 清水徹太郎/大槻孝志
ロデリーゴ 二塚直紀/与儀 巧
ロドヴィーコ 斉木健詞/デニス・ビシュニャ
モンターノ 松森 治/青山 貴
合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル、二期会合唱団、赤い靴スタジオ(児童合唱)
管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団

2015/03/19

1070【世相戯評】東洋ゴム免震偽装事件だなんて昔あった姉歯耐震偽装事件の教訓は活かされてなかったのか

熊五郎:ご隠居、大工仕事ですかい、精が出ますね、あっしがやりますよ。
ご隠居:おや熊さん、いらっしゃい。そう、この長屋もあちこち傷んで、時にはこうやって大工もするんだが、本職のおまえさんにやってもらいたい。
:おまかせを。でもなんですねえ、このボロ長屋じゃ、あんな心配はなくて、よかったですね。
:ボロはよけいだが、なにが心配ないんだい。

:ほら、ゴム屋が免震偽装って、震えないって嘘ついて、震えるビルが建っちまったって話ですよ。この築300年のボロ家なら、免震ゴムは使ってないでしょ。
:なに言ってんだい、これでも築50年だよ。免震ゴムはないけど、何回もの地震をくぐり抜けて建ってるってのは、これこそ免震の証拠だよ。
:アッ、そいういやそうですね。
:昔々、姉歯って名前の建築の設計屋が、嘘ついて地震に弱い建物を設計して、日本中で大問題になったけど、また起きたんだね。
姉歯耐震偽装事件はまだ完全解決してないらしいですね。とにかく、あれで建築設計屋性善説は完全に壊れて、建築家悪人説になりましたね。
:そうそう。で、今度はゴム屋が悪者なんだね。

:今朝に新聞にこうありますよ。
 東洋ゴム工業の3製品の評価を行った日本免震構造協会の澤田研自・専務理事は
 「大企業が相手なので性善説に立っている。制度そのものを考え直す必要がある」と話す。
:おお、性悪説に変えるんだな。それにしてもこの澤田って人は、けしからんね。
:そうそう、手抜き評価作業しましたって、言ってますもんね、でもまあ正直な人だ。
:もっとひどいのは、「大企業だから性善説」って言ってるよ。つまり中小零細は性悪企業なんだね。この人はどういう人なんだろ?
:おお、そうですよね、ひどいよなあ、この差別発言は。これからは政府認定の品物を買うときは、中小零細企業製品にしますかね。それなら悪者扱いで、しっかりと検査してくれてるんでしょうからね。

:新聞にこんな見出しがついてるよ。
 戸惑うマンション住民「資産価値下がる
:そうでしょうねえ、その偽免震マンションは売れませんよね。
:でもね、そもそも「マンション」じゃないよ。マンションてのは、アメリカ大統領のいるホワイトハウスのような大庭園のある豪邸を言うんだよ。
:また、それを言う、「名ばかりマンションって言いたいんでしょ。
:それに、「資産価値が下がる」って心配もおかしいよ。
:だって、売れなくなるんだからしょうがないでしょ。
:あのね、住宅ってのは憲法にも言う、人間が生きる基本的人権にかかるものなんだよ。それを最初に心配するのが、売れるか売れないかって商品価値でしか判断しないのが、世の中おかしんだよ。

:そういやそうですね。安心して暮らせる生活基盤が壊された、そういう心配を第一にするべきですよね。
:あのね、日本の居住政策は、住宅を基本的人権としての社会政策じゃなくて、景気対策の経済政策でやってきたんだね。庶民は一世一代の大借金しないと住宅が手に入らない。だから、借金のカタの住宅は資産価値で判断するんだよ。安全とか環境で価値判断をしないように、政府に飼いならされてしまったね。
:だから大企業性善説に立って、なんでもかんでも大企業が儲かるように任せているんですね。アベノミクスで大企業ばかりが繁盛するのも、環境汚染やエネルギー消費に関して性善説でやってるからですね。

:免震構造って、建物が免震ゴムって下駄を足元に履いてるんだってね。それで建物が地震で震えるのを免れるんだね。ぜんぜん揺れないんだ。いいねえ。
:いや、震えを免れるんじゃなくて、震え方の急激さが減るだけらしいですよ。揺れることは揺れるんだけど、揺れ方が違うらしい。
:エッ、なんだい、免れないのか、じゃあ免震ってインチキ誇大ネーミングだよ。
:そうそう、減震構造、減震ゴムって言うべきですね。
:建物がゴム下駄を履いて揺れないなら、わたしはね、ゴム草履で歩けば転ばないと思ったんだけどねえ、ダメかい。最近、どうも徘徊するときヨロヨロするんだよ。
:アハハ、でも、ちっとは効果があるかもしれませんね。免震ゴム草履特許とって、高齢者向けに売り出せば大儲けかもなあ、東洋ゴム以外のメーカーで作らせてね。




:それにしても、東洋ゴムってひどい奴だね。
:ほかのゴム製品のメーカーは大丈夫なのかなあ。
:いま思いついたけど、ゴム屋がインチキしたらだよ、え~と、ほら、あのゴム製品があるだろ、あれは大丈夫なのかね。
:変なところに頭が回るね。日本は見事に人口減少しましたから、避妊偽装じゃなかったんでしょ。
:じゃあ、これからは、積極的に偽装してもらいましょ、その製品については。


関連参照ページ⇒姉歯耐震偽装事件
          ⇒名ばかりマンション