2015/06/07

1098【15年安保騒動か】日米安保ガイドラインの自衛隊後方支援は英文ではlogosticsつまり兵站だから戦争そのものだよ

●60年安保騒動を思いだす

 なんだか国会議事堂あたりが、騒がしいようだ。今、6月、そうだ、1960年のこの頃、アンポ~ハンタイ、キシヲ~タオセ~、騒がしかったなあ、その中にわたしもいたもんだった。
 そして6月15日、デモ隊の中にいた学生が死んだ。樺美智子といった。
 今日の新聞に、6月14日、国会議事堂前の集まれとの、全面広告が出ているのを見て、ああ、そうだったと思い出して、心の底で波が立っている。

 ノンポリだったわたしさえもそこにいて、おかげで人生のコースが逸れたのだ。内定していた就職先からデモ参加を理由に断られて、別に変更した。もちろん人生はどちらが良かったのか、知る由もないが、わたしの人生の何かが、あの60年安保騒動で変ったことは確かだ。
 あれは60年安保騒動といったけど、55年後の今は15年安保騒動というのかしら。

●日米新安保ガイドラインのlogistic supportとは?

 国会の騒ぎの争点は、戦争に参加することができるように、憲法解釈を変えて、安保関連法も改定するのだそうだ。
 そうか、またアンポ~ハンタイだな。1960年は「キシヲ~タオセ~」だったが、今度はその孫の「アベヲ~タオセ~」なんだろうなあ。
 
 ところで、今話題となっている戦争について自衛隊が後方支援するって、なんのことだろうか。後方支援だから戦争参加ではない、なんて話が出ているらしい。
 昔々「銃後の守り」って言ったよなあ、あれかなあ。兵器生産のために金属供出とか、弾に当らないようにって千人針を縫うとか、竹槍で敵をやっつける訓練するとか、そういうのを後方支援というのか。
 いや、今どきまさかなあ。

 で、分らないから、英語の方に当ってみた。そのあたりの日本のやるべきことは、こうらしい。
「intelligence, surveillance, and reconnaissance (ISR), air and missile defense, maritime security, asset protection, training and exercises, logistic support, and use of facilities」
 この中で、どこにも「rear area support」と書いてないのだが、後方支援ってどれなんだろうか。
 intelligence, surveillance, and reconnaissanceなんて、スパイをやれってのかしら。
 training and exercisesって、竹槍訓練をやれってのかしら。

 logistic supportって、兵站のことだよな。
 つまり戦争をするための兵器や食料などを調達して補給し、輸送し、整備し、回収したり、関連施設を建設したりする仕事である。
 どうやら、これが後方支援らしい。企業活動なら物流機能である。
 あのなあ、兵站は戦争やるのに一番の基礎的な事だよ、この兵站がないと負けるんだよ、これが後方支援かなあ。なんだか誤訳のような気がするなあ。

●日本軍はlogistic兵站軽視で戦争に負けた
 
 日本軍は伝統的に兵站を軽視したのも、先般の戦争に負けた大きな原因だという説がある。日本軍は兵站軽視、つまり行った先の現地調達主義だった。
 だから中国戦線の日本軍は、民家に押し入って食料を調達したのだ。

 その証拠は、わたしの父の手記がある。1933年、満州事変で中国戦線に行った初年兵の父は、民家に押し入って芋を強奪する。「種イモだけは残してくれと哀願するニーコー(蔑称)が哀れだった」と写真つきで書いている。
 参照⇒「父の十五年戦争:第2章 満州事変(1)1933年」
https://sites.google.com/site/matimorig2x/15senso/part2
 後のビルマ戦線では日本軍もちょっとは反省したらしく、軍票で支払ったそうだ。これについては、インパール作戦生き残りの長老から話を聞いたことがある。そのインパール作戦こそが、悪名高い兵站無視の悲惨な負け戦だった。
 参照⇒大橋正平戦場物語
https://sites.google.com/site/hossuey/home/ohashi-syohei

 日本と戦っている中国の国民政府軍は、アメリカからの支援を、南方の兵站ルートで受けていた。蒋介石を支援するので援蒋ルートといった。
 だから日本軍はその援蒋ルートをたたくために、中国南部へと兵を進め、陸揚げ港をたたくためにフランス領インドシナへ、英領ビルマへと戦線を広げたのだった。
 
 兵站なら戦争に参加していない、後方支援だというのは、いかさまもよいところだ。
 つまり、いまだに日本軍は、兵站軽視の伝統を持っているのですな。
 兵站だから敵からも恨まれないと暢気に構えていたら、昔の日本軍が援蒋ルートでやったように、敵は日本を直接たたきに来るんだろうなあ。
 歴史を知らないことは、怖さを知らないことなんだなあ。

 あ、待てよ、だから迎え撃つ頃ができるように軍備を整える必要がある、だから憲法9条を改定する必要がある、だから今の騒動はその下準備中なんだよって、そう来るかもなあ。
 どうも、デキチャッタ婚みたいに、既成事実をつみ重ねて、周りからしょうがないから結婚せよと言われるように、軍備ガッチリに持ち込む作戦らしいな。

2015/06/05

1097【戦争できる日本へ】選挙権18歳に引き下げはアジア・太平洋戦争末期の徴兵17歳に引き下げを連想させる

 いま国会では、いみじくも「戦争法案」と野党が名付けた、安保関連法案の審議が続く。
 つまり、この法案が国会で承認されたら、色々条件は付くにしても、日本もついに戦争をすることができるようになるらしい。
 でもなあ、戦争の修羅場になってしまうと、条件もくそもないのが、戦争というもである。

 戦争をするとなったら、戦場に行く人間が必要だ。現行の自衛隊員だけでは足りなくなるだろう。そしてまた、戦争をやるのは若者でなくては無理である。
 ところが日本は超高齢社会になってしまって若い者が少ないから、戦争になったら困ることになる。
1944年も2011年も日本では戦場に行ける若者が少ない

 そこで、戦争法案が通って、いざ戦争となって、兵員が足りないから徴兵しようとなったら、堂々と18歳から徴兵適用できるようにしておきたい。それが、18歳選挙権である。
 この18歳選挙権法案を提案なさっている国会議員のお方たちは、こう深謀遠慮しておいでに違いない。そして戦争を知らない世代に選挙権を広げて、憲法改定を容易にする作戦も、、。
 なお、選挙権と徴兵の年齢の連動は、どこの国でも常識である。

 実は第2次大戦中に、日本はそうやって徴兵年齢を引き下げたことがあった。
 アジア・太平洋戦争の戦場で、日本軍の兵員をどんどん消耗してまい、志願兵がいても足りなくなってきた。
 1943年に20歳からだった徴兵年齢を19歳に引き下げ1944年には17歳に引き下げたのだった。更に志願兵は17歳未満でも可とした。ネコソギ徴兵といった。

 そんな日本の歴史を連想させるこの頃の世の中である。
 年寄りばかりの今の日本で、20歳徴兵では戦争に勝てないのである。

 これが、徘徊老人の杞憂であることを期待するばかりである。
 まあ、若いもんは頑張ってくれたまえ、こちとら早くあの世に逃げよう~っと、、。

2015/06/03

1096【尻餅散人起臥戯録7】瀕死の芋虫から直立猿人へと自分の身体が進化していく過程を観察するのは面白い

●全治3カ月のやっと3分の1でずいぶん進化した

 ちょうど1か月前のこと、自転車から降りようとして、尻餅を搗いたら動けなくなった。医者の診断は、第4腰椎圧迫骨折、養生していれば3カ月で治癒するとのこと。
 ちょっと動いても背骨に激痛がドキューンと走るので、瀕死の芋虫の如くの寝たきり老人だったのが、今では立って歩くのはほぼ普通になった。

 だが、背や腰に違和感がまだまだあって、動作がぎこちないから直立猿人か。
 完全復元するはずの全治3カ月のうち、まだ3分の1しかきていないのだから、しょうがない。
 余り早く治ってしまっては、あの孫娘のように可愛い医師に申し訳ないから、徐々に治していくのだ。と言っても、なんの治療も薬もないのだから、ただノンベンダラリと日を送るしかないのだが。

 瀕死の芋虫から、寝たきり老人、そして今の直立猿人にまで、日々進化してきたこの1ヶ月であった。
 自分自身の進化を観測するのは、けっこうおもしろい。今日できなかったことが、3日後には何とかできるようになって喜ぶ。
 そのうちに自分が何ができなかったのか忘れるだろう。あかんぼの頃に、這い、立ち、歩くと進んだのも、こうだったろうと思うが、もちろん忘れている。

●寝たきり治療でボケたり歩行不能になったりするとか

 インタネットで腰椎圧迫骨折を検索すると、こんなことが書いてある。
 「高齢者に多く、長期間ベッド上安静により、認知症の症状が進行したり、足腰が弱ってしまい、痛みが取れても寝たきりのままになってしまうことも少なくありません」
 う~む、わたしは高齢者には違いない。自分ではわからないが、認知不全にはなっていないような気がする。

 それなりに安静にしているつもりだが、痛くない姿勢を積極的にとるようにしている。
 その典型が直立歩行であり、2週間ほどで立つことが可能になってから、ベッドで安静にしてはいない。
 ときどきスクワットはいかないにしても、膝の屈指運動もやっている。
 今、PCのキイボードを打っているが、椅子に座らず立ったまま、足踏みしながらやっている。多分、歩行のリハビリになるはずだ。

●人間がウンコしなくなると良いことだらけ

 ただ今の問題は、背や腰が姿勢によってまだ痛むのもあるが、実は、汚い話だが、ウンコが出ないのに困っている。いや、出ないのだからきれいな話か。
 もともと便秘の習慣はなかったから、あきらかに今回の事故に伴って起きている。
 初めの頃、便器に座る姿勢がつらくてつらくて、油汗を流して座っていたから、それで身体が便をすることを忌避することを覚えたのかもしれない。

 まあ、大便が出なくてもいいのなら、それはまことに結構なことである。健康であっても、毎日の面倒なあの義務がなくなれば、どんなにかせいせいすることか。 
 もしも人間がクソしなくてもよくなったら、この世界はどう変わるだろうか。昔々なら、作物の肥料として大便が必需品だったから、そうなると困っただろうけど、今はそんなことはない。

 小便だけになると便所も小さくてよいし、下水道施設もずいぶん簡単になるだろうなあ。便を経由する伝染病も無くなるだろう。
 大便がなくなっても、世の中で困ることは、なにもないばかりか、むしろ良くなるような気がする。
 そうだ、身体が摂取した食物を全部を消化して血肉エネルギーにすれば、食べる量も少なくて済むから、食糧問題が解決するぞ。
 いいなあ。そういう研究を誰かやってるかしら、イグノーベル賞になるような。

 3日もウンコしなくて、そんなことを考えていたら、腹が猛烈に痛くなってきた。駄目かあ。
 やっぱりウンコってものは、しなければならないものらしい。
 便秘薬を飲んで凌いでいるが、これからずっとそうなるのだろうか。
 もしかして、排便系統の神経に支障が起きたのだろうか。治るのだろうか。
 この際、ウンコしなくてもよい身体に改造するか。つづく

参照

・尻餅搗いて突発寝たきり老人になったが、、、2015/05/05~


2015/05/31

1095【小笠原地震】大揺れ天災人災列島だけどすこしでも安心して暮らす場所を探してもう逃げだそうと思う

●天も地も右も左も上も下も大揺れの日々

 久しぶりに大揺れだったなあ、小笠原のあたりが震源だとか。
 うちの7階空中陋閣借家は、ユッサユッサ、歩くとフラフラしたのは、ただいま第4腰椎圧迫骨折の身の身障者体験中のせいもあるが、歩行する足を上げておろそうとすると、そこの床が逃げるのであった。ユラユラ歩く。
ひび割れガラス板に乗る日本列島

 やや、なにやら家の中でザ~ザ~水が流れる音がする。7階まで津波がやってきたか。
 なんとまあ、風呂の湯が大波となって蓋を押し上げ、津波となって洗い場をバチャンバチャンと襲っているのである。
 この風呂の湯の流失による損失が、今回の唯一の震災被害であった。

 このあたりは幕末の開港の街として、入り江を埋め立てつくったから、地盤が悪い。
 こういう類の地震があると、なにやら長周期地震動とか言って、高層ビルはユルユルと大きく揺れるのだそうだ。それが嵩じるとポキンと折れたり、バタンと倒れるのだろう。
 倒れなくても歪んだら、鉄ドアが開かなくなって幽閉さてしまう。あわてて玄関を開けたのであった。

 一昨日は奄美群島の口永良部島で火山の噴火、近くの箱根山が噴火するらしいなんて言ってたら、遠くでこの噴火、それに桜島も噴火だそうだ。
 そういえば御嶽山の噴火があったなあ、こうなれば近くの富士山も負けていられないって、噴火したくてウズウズしているんだろうなあ。
 火山ばかりにいい格好させたくないって、地震ナマズが奮い立って、小笠原あたりで大地震を起したらしい。次はもうちょっと北に寄って、東南海トラフで暴れるぞって、ナマズも健在を誇示している。地球がきな臭い。
 そういえば、つい先日茨城県あたりでも揺れたなあ。だんだん近づくずくなあ、楽しみだなあ。

 きな臭いのは地球ばかりじゃなくて、人間の方だよなあ。集団的自衛権行使問題なんて、東京のあたりを震源地にして、人間ナマズが暴れている。
 遠くのISとか凹ハラムとか北コリアとかって人間ナマズも暴れているらしい。
 もう、この地上では、どこにに行けば安心して暮らせるのか、皆目分らない。日本列島はなんだかひび割れガラス板に乗っているようだしなあ。

 それでもいくところがないから、せめて日本列島の中で暮らすに安心できそうなところを探してみよう。
 その条件は次のようである。
(1)地震がないって無理だろうからせめて他と比較して少ないこと
(2)海で地震があっても津波がやって来ないこと
(3)噴火する活火山から遠いこと
(4)核発電所(原発のこと)から遠いこと
(5)軍事基地から遠いこと
(6)気候が寒冷あるいは猛暑でなくて温暖なこと
(7)山間や荒蕪の僻地でなくて適当に便利なこと
 
 この中での「~から遠いこと」の条件だが、実はどれくらい遠くなら良いのかわからないから、まあ100~200kmくらいにしておこうか。

●日本列島で安全なところは、ここだ!

 実は、先ごろそう思って、あれこれ調べていたら、その結果が実に意外なところにおさまったのであった。そこは、わたしの生まれ故郷(岡山県高梁市)だったのだ。
 ぴったりとあてはまったのは、客観的データによるのであるから、贔屓目じゃなくて、本当ですよ。
 このブログにそれを書いていたのだが、一部補足整理してここに採録する。
高梁の位置
(1)の地震問題である。
 これ↓を見てください。高梁のあたりは地震が少ない。
  日本全国広域 最新30日間の震央分布図 (独立行政法人防災科学技術研究所)
 http://www.hinet.bosai.go.jp/hypomap/

 (2)の津波問題である。
 そして今の一番怖い四国沖での南海大地震が起きても、何とか大丈夫のよう。
 中央防災会議資料 http://www.jjjnet.com/image/shindo_nankai.gif
 東南海トラフ大地震が起きても四国の向うの事件だし、津波が起きても瀬戸内海から高梁川を遡上して到達するには、あまりに遠すぎる。

 (3)の火山問題は、鳥取県の大山が一番近いが、それでも結構遠い。富士山が爆発しても、高梁まで灰が降ってくることはなかろう。

 (4)の核発電所問題である。
 島根原発が、高梁に一番近いがそれでもかなり遠い。下記のサイトで島根原発のところの図を見てください。
  全国の原子力発電所の周辺人口(2005年)埼玉大学谷謙二研究室
 http://ktgis.net/tohoku_data/genpatsu/

 (5)の軍事基地問題は、一番近い米軍基地は山口県岩国だから、これもかなり遠い。

 (6)の気候問題は、住んでいた少年時代の記憶では、雪はめったに降らないし、猛暑でもない、温暖な地であった。
 ところが最近、ときどき日本一の猛暑ランキングに高梁市が登場する。この50年ほどで気候変動が起きたのか。不思議だ。
 故郷に住む旧友に聞けば、昔と変わらないけど、その原因は、最近、数年前に気象台の測候所ができたことだという。え、なんのこと?
 住民が肌寒い日であっても、「今日は日本一の高温」と発表されて、奇妙かつ不思議な気分だそうだ。「気温を測ってる場所がおかしい」とのこと。ということで、(6)も、まあ問題なしとしよう。

 (7)の僻地問題は、地方都市としては、そこそこに便利なところであるから、良しとしよう。

 というわけで、生れ故郷は良いところと分ってはいたけど、こういう意味でよいところと今頃になって知ったのである。
 わたしの生まれ故郷だけがそうではないが、各地域がこの地こそ安全な条件にあることを宣伝すれば、日本列島の人口再配分が進みそうな気がする。
 この場所は危険だという情報はたくさん出てくるようになったが、ここなら安全だという情報が意外に少ないのは、どういうわけだろうか。

 もっとも、わたしは今の地から逃げ出すには、もう間に合わない。生まれ故郷にはもうひとりの親戚もなし、父母の住んだ家も空き家問題解消のために処分した。
 だが、わたしには、ひとつだけ逃げ出すべき安全な場所が、かなり近くにあるのだ。これを思うと気楽なもんだ。
 それは、あの世である。。

2015/05/29

1094【世相いちゃもん】公的機関でもないFIFAの役員が公金でもない裏金もらって何が悪いんだ?

 プロスポーツとかって、見るだけスポーツを大嫌いである。TVをもともと見ないし、新聞スポーツ欄も読まないで飛ばしている。だから、毎日毎日、屑紙に金を払っている。
 でも時々スポーツ欄を読むことがある。それはときどき起きるスポーツスキャンダル記事である。

 たいていが八百長とかって金が絡んでいるのが、その業界とスポーツ好きの人々の体質を現している。
 スポーツ好きの体質と言えば、フットボール(サッカー)の見物人たちが、世界中でしょっちゅう人種差別するってのが、なんともいやらしい。
 だからわたしはプロスポーツとかって、見るだけスポーツを大嫌いなのだ。

 ところで、そのフットボール業界の世界元締めというか胴元の、FIFA(これはファイファと読むんだろうなあ)って団体の役員たちが、アメリカにしょっぴかれているとか。
 何十億円とかの巨額の収賄で、アメリカ司法当局に起訴されたそうだ。TV放映権を獲得のために動いた関係業者から、金をもらったのだそうだ。

 どうしてそれが犯罪なんだろうか、それがわたしにはわからない。
 だって、FIFAって公共機関でもなし、その金は公金でもなし、勝手にやり取りすればいいでしょ。
 もとは企業の広告料だろうから、まわり回ってその企業の売ってる物の価格に反映してるのだろう。オリンピックだって、いつかそんなことがあったなあ。
 アメリカではこういうのも犯罪なのだろうか。日本では民民の取引だから贈収賄罪にはなるまい。

 スポーツ世界大会の裏に、こういう行為があることが嫌なら、プロフットボールなんか見るのを止せばよいでしょ。
 でも実際は、こんなことが起きてもスポーツファンは、すぐ忘れてまた応援に見に行ってしまうおバカさんであることとは、大相撲が良い例であろう。
 賭博やら八百長やらやっても、すぐに忘れて見に行くんだもんなあ、スポーツ見物好きは、ほんとにおバカさんである。
 

2015/05/25

1093【くたばれマンション】北風政策の空き家強制撤去新法って日本の居住政策のなんと貧しいことよというよりも不在なんだな

●増えた空き家を強制撤去させる法律とはねえ 

 「空き家の強制撤去」だそうである。
 空き家が増えて、倒れてきて危ないとかで、持ち主に強制的に撤去させる特別措置法だそうである。

 おいおい、自分の持家をどんどん建てろ、政府はそう言って来ているような気がするけど、違うのかい。
 ドンドン買え、持ち家にはドンドン融資するから借金しろ、税金も負けてやるぞって、確かそう言ってるぞ。
 あのなあ、一方では借金しても建てろ建てろ買え買え、一方で壊せ壊せ壊さないと罰金とるぞって、この日本には居住政策なんてものは、全然ないんだなあ。

 住宅に住むってのは基本的人権nなのだから、居住政策は社会政策であるべきなのを、日本では経済政策の景気対策にしてしまったから、持ち家ばかりを増やしてきた。
 それも土地が高価だから、土地が安い遠い郊外にどんどん広げていって、一戸あたりを安くするから狭い宅地に狭い家ばかりが建ち並んだ。
 だから今、人口減少超高齢化で、それらが空き家になってしまった。人口減少も高齢化もとっくに分っていたことなのに、こんなことになるのだよ。
 
 人口変動に対応して調整の効く、公的あるいは民営の賃貸住宅の供給政策を、全く怠ってきたから、こういうことになるのだ。
 先日、川崎でドヤが焼けて死者が出たのも、居住政策が社会政策でない日本の恥部が表出したのだ。
 一方で大借金させて建てた空き家の続出、一方でドヤ街のような超劣悪居住環境の蔓延、いったいこれはだれの責任だ。格差社会はますます進む。

 では、この空き家対応が解決かというと、単なる弥縫策に過ぎないのは誰でもわかることだ。こんな北風政策では解決しないぞ、泥縄とはこのことだが、縄にさえなっていない。
 これってモグラ叩きそっくりだよなあ。こんあことしても、日本中のモグラ退治は無理でしょ。モグラをたたくのじゃなくて、モグラが発生しないような居住政策が必要なのになあ。

 どうもこの話は、一戸建てとか木造アパートが対象らしいが、大問題が控えているよ。共同住宅ビルのの空き家である。
 日本じゃ共同住宅を「マンション」なんて誤訳してるけど、区分所有の共同住宅ビルが、どんどん虫食い状態に空き家になると、空き家問題は深刻だぞ。いやもう起きているか。
 権利関係が複雑だから、壊すのが一戸建てのようにはいかない。空き家だらけのスラムビルがあちこちに立ちあがって、都市問題になるに違いない。
 これははもうモグラじゃなくて、モンスターだよなあ。モグラ叩きで遊んでる場合じゃないよ。

●総合的な居住政策をやるべきなのに

 この空き家特別措置法は、そのような時代に対応できるようになっているのだろうか。
 空き家対策は、空き家を取り壊すのではなくて、総合的な居住政策のひとつとして、いかに再活用するか、その政策が本質にあるべきなのに、全然見えないのは何故か。
 取り壊した跡の空き地がまた問題になるにきまっている。根本的な点で間違ってるぞ。

 実は住宅困窮層はまだまだいるし、格差社会の進行、高齢化による人口移動が、新たな住宅困窮者を発生させているはずだ。
 空き家対策が必要になったこれまで住宅政策の背景をよく反省し、これを契機に日本の居住政策の社会政策への転換をしてもらいたいものだ。

 はは~、これも相変わらず経済政策で、壊すことで建設業の仕事が増えるって、そんな景気対策なんだろうか。
 経済政策として庶民に借金させる持ち家政策はとっくに破たんしているのに、一向に賃貸住宅促進に転換をしない政府は、いったいなにしてるんだよ。

 東北地方で災害公営住宅の整備が遅れているのも、これまで公営住宅整備をさぼって、その建設や運営のノウハウがなくなっていたからだろう。
 あるいはまた、これまで公的な賃貸住宅の供給がきちんとあれば、災害避難時への対応ももっと円滑だったろうにとも思う。もうすぐ次の大地震が来るんだぞ、どうする?

 高齢社会の居住、人口減社会の居住、少子社会の居住、災大規模害など、それぞれが連動した総合的な居住政策が今こそ必要だろうに、どうなっているのか。


参照◆父の家を売る 
http://datey.blogspot.com/2015/05/1083.html
くたばれマンション
https://sites.google.com/site/machimorig0/#tosikyoju

2015/05/24

1092【消されゆく戦争の記憶】5月25日の日本の悲惨な記念碑の東京駅を70年経つと積極的に改装して記憶を消してしまった

 5月25日は、東京の悲しい記念日なんだけど、それがなにか知っていますか?
 深夜数時間のうちに死んだ人7415人、22万戸が燃えた、しかも天災じゃなくて人災によって。そう、1945年のこと、戦争である。
 USAB29爆撃機が、東京都心に焼夷弾をばらまいたのだった。

 「日米開戦以来当局は、『東京の守りは万全で、敵一機たりとも侵入を許さない』と発言し続けてきた。にもかかわらずB29はゆうゆうとして侵入。・・・ 
 当夜は 警報発令後数分にして駅前広場に焼夷弾が落下、一面火の海と化した。とみるうちに降車口が焼夷弾を受け出火した。ホテルの部屋続きのため、延焼を防ぐため バケツを持って駆けつけたが、火を吹いてるのは天井でバケツを必死に操作しても火に届かない。
 駅側に手押しポンプ一台があったが、それも役に立たなかっ た。かくするうち、西端の食堂部分からも発火、続いて中央郵便局も火を吹き始め、それまで微風であったものが一五㍍ぐらいの強風が西側より吹き荒れ始め た。・・・

 これは1945年5月25日の深夜、空襲により炎上した東京駅丸の内駅舎にあるステーションホテル支配人だった井上三郎さんの手記の一部である(「東京大空襲・戦災誌」第2巻763ページ)

 その前の1945年3月10日には、罹災者約100万人、焼失家屋は約27万戸、東京の3分の1以上の面積(40平方キロメートル)が焼失した。このときは東京駅は罹災しなかった。
 あまりにも多くの死者で、その数は明確ではないが推定10万人とされる(「東京大空襲・戦災誌」第1巻26ページ)。たったの2時間半で10万人が死ぬ惨劇であった。
 なお、1923年の関東大震災の死者が10万人~14万人と、これもあまりに多すぎて正確な数字はわかっていない。

 その前、日本が太平洋戦争を始めた次の年の1942年4月18日、さっそく東京は米軍機による空襲を受けていたのだった。
 日米開戦以来当局は『東京の守りは万全で、敵一機たりとも侵入を許さない』と発言し続けてきたから、誰もが びっくりし当局でさえもうろたえた。
 この初空襲では、下町方面が爆撃を受けて死傷者346名(死者39名)。焼失破損家屋251戸であった(東京大空襲・戦災誌第2巻22p)。

 というわけで、今朝の朝日新聞に戦後70年連載記事として、1945年5月25日の空襲に関連して、その当時の建物の写真と被災した人の記事が載っている。
 このような庶民の悲しい歴史は、70年も経つと埋もれてしまうから、今のうちに発掘しなければなるまい。

 だが、8年前までは、そのような東京の悲惨な5月25日の記憶の記念物のなかでも、東京だけでなく日本中の人々が知っていた、最も有名だったを戦災記念の建築物があったのだ。
 そして、それを積極的に消滅させてしまった事件があったことを、覚えている人はどれくらいいるだろうか。

 それは、東京駅の赤レンガ駅舎のことである。
 赤レンガ駅舎は1945年5月25日に空爆により炎上したが、木造内装や鉄骨などは燃えたが、赤レンガの壁などは残った。
 鉄道省はすぐさま修復にとりかかったが、終戦を経て、占領軍からの要求なども取り入れて、1947年に修復が完成した。

 その修復された姿は、設計者である辰野金吾(1854~1919)の西洋様式意匠への憧れ時代の下半身に、修復設計者の伊藤滋(1898~1971)のモダニズム意匠の上半身が、実に巧みに乗っていた。
 あの物資がない戦争直後の時期に、よくまあ、あれほどのことができたものである。
戦後修復による東京駅赤レンガ駅舎(2007年再度修復開始直前の姿)

 まさにそれは戦争とそこからの復興の記念碑であり、修復デザインのお手本と言っても良かった。
 それが2007年に壊されるまで60年も保っていたのだから、それは戦災前の1914年から31年間よりも倍も長かったのである。

 それなのに、あれは仮の姿だから早く元に戻したいものだと、世間では言うし、辰野金吾の系譜にある東大系の建築史学者もそういう。多くの建築家もそう言った。
 そして東大大御所の伊藤滋(1931~修復建築家と同姓同名だがこちらは存命の都市計画家)と鈴木博之(1945-2014)がその音頭をとったのが、このために発明した特例容積制というという都市計画の荒業であった。東京駅に身売りをさせて、500億円の御化粧代を稼いだ。
 その金を使って今の辰野金吾式の賑やかな花魁頭の昔の姿をレプリカコピーで再現してしまった。戦争と復興の記念碑としての価値に見向きもせずに、。
 そして誰もそのことによって、あの日本の悲劇の記念碑が消滅したことを、考えようとしない。

 「あれは仮の姿だから、昔に戻そう」という言葉で連想するのは、「あれは占領軍に押し付けられたから、、、」という、どなたかたちの声高の発言によく似ている。
 そういえば東京駅修復も、占領軍からの推進圧力があった。道路が悪い日本では、鉄道が全国占領統治策に有効だから、その中枢機能(RTO)として東京駅修復が必要だったのだ。

 その現実の価値よりも、出自に問題があるというのは、まるで人種差別みたいなものである。
 戦争が終わって70年、東京駅が炎上して70年、あの戦争記念碑を積極的に消滅させて、あの戦争を積極的に忘れようとしている今の時代を、なんだか怖い。
再度修復でコピー再現された現在の東京駅 
容積移転制度で東京駅が身売りをした揚句がもたらした超高層の風景

●参照
東京駅復元反対論
https://sites.google.com/site/machimorig0/#tokyoeki

2015/05/23

1091【言葉の酔時記】~してもらってもいいですか?という頼まれ方で誤解したぞ

 5月初めに尻餅搗いて第4腰椎圧迫骨折で寝たきりになり、その16日目に3度目の病院である。
 長時間待ちに待った問診がおわって、医師が言った。
 「では、コツミツドケンサしてもらっても、いいですか?」

 え?、してもらってもいいか、って?、「もらいたい」というからには、この医師はこのわたしにむかって、ご自分の身体のなにかを検査してもらいたいらしい。
 え?、患者はわたしなのに、なぜ医師がご自分の検査をするのだろうか。しかも素人のわたしに頼んでいる。

 「はあ?、で、どうやるんですか?」と聞けば、看護師がこちらへどうぞと検査室の前に案内してくれて、「ここで待ってもらっていいですか」という。
 では、後から医師が来るのだろう。だが、待てども一向に来ない。

 コツミツドとは骨密度のことだろうか、骨の硬さを調べるのか、ということは肌の上から骨をつまんで、固いか柔らかいか確かめるんだろうなあ、あ、この若い女医さんにそんなことやったら、ホントのお医者さんごっこだよなあ、妄想が膨らむ。
  
 と、検査室のドアが開いて、むくつけき男が「お待たせしました、こちらで検査します」と出てきて、中に引きずり込まれた。
 「上着を脱いでもらっていいですか」、「ここに座ってもらってもいいですか」、「ここに腕を置いてもらってもいいですか」と、矢継ぎ早の「もらってもいいですか」攻撃である、え?、え?

 さすがに分った。
 この病院用語で「○○せよ」との意味で「○○してもらっても、いいですか」と言うらしい。そんな専門語を使わないでもらいたい。
 「○○してください」と言えばよいのに、クソ丁寧語のつもりかよ。誤解したぞ。
 
 でもなあ、例えばだよ、菓子屋の店先で女性に「このケーキを買ってもらっても、いいですか」って言われたら、あなた、どう思います?
 だれでも、その女性がケーキを食べたいから、買ってくれと言ってるって思うでしょ。まさか、わたしにそのケーキを買って食えと言っているとは、普通は思わないよなあ。

 で、わたしの身体の骨密度検査結果は、
医師「骨は年齢相当で丈夫ですから、今回の負傷はよほどひどく転んだのですね」
わたし「はい、実に立派な演技で、オリンピック尻餅搗き競技でしたら優勝ですね」
2015/05/18骨密度検査結果



2015/05/19

1090【尻餅散人横臥戯録6】病院とは行列して待つために行くところ、待つ間に症状を悪化させるところか

【尻餅散人横臥戯録5】からつづき

●行列待ち大嫌いなわたしなのに

 うちのちかくの薄汚いラーメン屋の前に、いつも10数人の行列がある。ここは店名からして「ニ郎」という名のイッコク親父が、ここだけの特別な味で食わせるのかと思っているが、行列待ちを大嫌いだから、入ったことはない。
 あのなあ、たかがラーメンで並ぶなよ。
 その行列待ち嫌いのわたしが、今月になって3度の病院通いで、延べにして6時間も行列待ちをやっている。ラーメン待ちじゃなくて、診察待ちである。大嫌いでも、やむを得ない。

 最初の病院通いは、いきなり3時間待たされて、問診3分、待ち15分、X線15分、待ち15分、問診10分、支払い終って釈放されたのは入ってから3時間半後だった。そのうち待ち時間が、87パーセントを占めた
 2度目は、時間予約してのMRI検査と問診だったが、全部で2時間、そのうち待ち時間が50%を占めた。

 3度目の昨日は、病院に入ってから出るまでに171分、そのうち問診と検査で32分、行列待ちで139分、つまり全体のうちの待ち時間が81パーセントを占めていた。
 受付(10:24)…待ち69分(11:33)…問診7分(11:40)…待ち10分(11:50)…骨密度検査15分(12:05)…待ち45分(12:50)…問診10分(13:00)…待ち10分(13:10)…診療費支払(13:15)。
2015年5月7,8,18日の病院通いであまりに待たされたのでグラフにしてみた

自分の順番が来て呼び出されるのを、ただただ待つばかりの病院とは、診療に行くところじゃなくて、待つために行くところであると悟った。
 診療を目的と思うから待つのが腹が立つ。しかし、真の目的は待つことにあり、そのなかで退屈しのぎに診察やら検査を行うのだと思えば、腹も立たないのである。
 
 しかしなあ、実は今のわたしの症状は、椅子に腰負けると腰回りが痛くて痛くて、最もつらい姿勢なのである。
 10時40分予約だから、30分くらいはしょうがない、と思えども、1時間たってもお呼びでない。もう、我慢できない、空いている長椅子にごろりと横たわった。これなら楽だ。お行儀悪くてもここは病院だから、お許しを。7日も8日にもこの姿勢で待った。 

 問題は、問診や検査に入っている間にその長椅子を誰かに取られることだ。長椅子が一本空いていることはめったにないから、空きができるまで我慢するしかない。
 家で寝ていればこんなに痛くないぞ、だんだん症状が悪化しているような気がする。
 病院に来ると病状が悪化するってのは、いかがなものか。

●病院は待ち行列マネージメントをせよ

 さて、本日の診察の結果は、骨が固まるまで後1ヶ月の静養とて、薬も必要なし、これまでどおりの寝たきり生活継続となった。
 そこでひとこと、わたし「ところで、この待ち時間の超長いのは、何とかなりませんか。病院に来ると、待っている姿勢が苦しく、症状が悪化してきて、かえって良くないようです」
 医師「大勢の方が来られますのでねえ。本当に治療の必要な方を、早く診療してあげられるといいのですがねえ。すみません

 あれ、謝られてしまった。わたしはそういう回答を求めているのではなくて、予約しているのだからきちんと待ち行列のマネージをしてはどうか、とのつもりだった。
 待たなくても良いマネージメントもあるだろうし、待つものにスマホを持たせて呼び出せば、狭い廊下で行列していることもあるまいにと思ったのだ。
 まあ、それ以上に話ししだすとゴチャゴチャするだろうし、わたしの後に待つ人たちを待たせることになるから、それでおしまいにした。

 でも、この医師の言外に感じたのは、病院には診療を受ける必要がないような症状の人々も大勢押しかけてきているらしい。医師側も患者側も問題らしい。
 ラーメン屋に見るように、行列待ちを好きな人もいるかもしれないが、病院にそういう人が来そうにはない。普通の人ならが、なにか痛い症状が出るとつい病院に行くこともあるだろう。それを一概に悪いとは言えないが、いっぽうでは本当に診療の必要な人にしわ寄せがいくことも事実だろう。

 それにしても、この病院でざっと見て常時80人ほどが、待ち行列をつくっている。たぶん、どこの病院も同じように待っている人がいるのだろう。
 日本中では膨大な待ち行列、何十万人か、何百万人か、そしてものすごく膨大な時間が、ただ待つだけに浪費されているのだ。
 う~む、これを活用できないものか。なにか待ち時間ビジネスなんてのがありそうだ。待ち時間パワーなんてものがあれば、なにかエネルギーに転換するとか。

 とにかく、昨日は待ち時間中に寝ころべない時間が長くて、腰回りはどんどん痛くなり、病院で症状が悪化してしまった。病院とは待つために行くところ、病状を悪化させるところである。
 でもまあ、最初と比べると、ずいぶん動きやすくなったもんだ。
 それにしても、ああ、ヒマである。(つづく)

参照
・尻餅搗いて突発寝たきり老人になったが、、、2015/05/05~


2015/05/15

1089【尻餅散人横臥戯録5】寝たきり事件発生から2週間、立ったきり生活試行を開始

尻餅散人横臥戯録4】からつづき
 
●突発寝たきり事件2週間目で直立試行へ

 医師によれば全治3か月の第4腰椎圧迫骨折事件から、今日で2週間になった。
 ベッド便所往復の外は、平臥専門の寝たきり老人をやってきた。でも、寝たきり生活にホトホト飽きた。そろそろ脱するかと模索中である。
 平臥姿勢と直立姿勢になっていて動かなければ、ほとんど痛むようなことはない。ということは、ここらあたりで直立生活も加えて、立ったきり老人も交えてみることにしようと考えた。
 立ったきりはできても、中腰とか腰曲げをできない。要するにお行儀良い姿勢を、わたしの身体が要求するのだ。

 まず、PCをどうやるか。はじめは横臥して半開きノートPCを横に立ていた。でも目が疲れるし、打ちにくい。
 そのうちに思いついて、PCを床に置いてベッドに腹ばいで身を乗り出してキイボード打ちをやっていた。これは胸が痛いし、垂れる頭を支えて首が疲れる。
 直立できるようになって、ようやくPCをもとの机の上に戻した。だが、椅子に座ると痛い、腰を曲げると痛い。机上にスツールを乗せ、その上にPCを置くとちょうどよい高さになった。
 今、これはそうやって使っている。楽である。脚が疲れるけど、この2週間ほとんど歩かなかったので、リハビリテーションである。

 この直立PC打ち姿勢を、枕元食事ケータリングの家人に発見されてしまった。これで寝たきり上げ膳据え膳の快楽は廃絶、せっかく寝たきり飲食文化を起そうとしたのに、やむを得ない。
 だが、食卓の椅子に腰掛ける姿勢は、右の腰回りが痛くてかなわない。椅子を引いて、直立して食事することにした。毎度の食事が立ち食い、立食パーティだ。まあ、これもよし。
 
 残る問題は、平臥と直立の両姿勢の間の移行を、いかに円滑に進めるかということである。痛い腰をかばってのヨロヨロ立ち上がり動作は、他人には見せられない。だがこれも、次第に上手になりつつある。赤ん坊の立ち上がり時期と同じだ。
 そしてもうひとの問題は、座位の時に発生する右尻腰痛にどう対処するかである。まあ、そのうちに治るんでしょう。待つしかない。

 でも、全治3か月との宣告を受けている身だから、あまり早く治癒しては、医師に失礼だろうと思う。早くても2カ月くらいにしないとなあ、って言ってもまだ先は長いなあ。
 そしてまた、わたしにはこれは実に貴重な体験だから、あまり早く元の身体に戻っては、なんだかもったいないと、思わないでもない。
 ユルユルと行こうと思う。

●雑踏の中で座り込んでいた事件発端尻餅の日のこと

 寝たきり生活2週間、ヒマだからあれこれ考える。まあ、脳だけは活性化しているんだろう。
 この突発寝たきり事件の発端は、商店街モールで自転車から降りようとして転んで、派手に尻餅を搗いたことである。その搗き方は、スットーン、模範演技であった。
 搗いたとたんに、あ、こりゃしばらく動けそうにないぞ、ヘンに立ち上がる努力して不様な格好になるよりも、しばらく尻餅姿勢を保つことにした。
こんな様子の都心商店街の雑踏に小一時間も座り込んでいた
土曜日の午後、目の前に地下道出入口があり、人通りの多い都心の繁華街の道の真ん中に、転んでいる自転車とへたりこんだ老人がいては邪魔だろう。
 でも、さっとは位置を変えられない。尻を地に着けたままズルズルと、転んだ自転車を引きずり、近くの街路樹のもとに匍匐前進移動、幹に寄りかかって一息。
 さて、このまま動けないとなると、転んだ自転車を前にして、どうしたものかと思案する。

 そうやって小一時間もすわっていたろうか、この間、誰もわたしに注意を払ってくださった人はいない。
 ま、こちらも若干見栄を張って、苦痛の顔でない努力もしていたのだが、。
 それに、ここの商店街にはけっこう年寄りの酔っ払いが、真昼間からベンチに座り込んでいるからなあ。風体からしてわたしがそれのひとりと見えてもしょうがない、決して横浜の人情が冷たいわけじゃない、、、。 

 例外的にひとりだけ、一部始終を見て、こちらを注視してくださっている人がいた。商店街に直行する車道に車を止めて客待ちしていた、タクシーの運転手である。
 あのタクシーに乗ってうちに戻ろうかなあ、それとも救急車を呼ぶかなあ、それとも歩けるようになるかなあ、などと、うじうじと考えていたら、タクシーは客を拾って行ってしまった。
 
 しょうがないから立ってみようかと、膝を付けて四つ這いから、ヨッコラショと何とか立ちあがった。背中や脚が猛烈に痛い。
 今から考えると火事場の馬鹿力だった。とにかく自転車に乗って自宅まで200mをイテテイテテと漕いで帰り着いた。今ならとてもできない。
 そのあとは寝たきりである。

 その時は気が付かなかったが、世の中はその日から5連続の休日で、医院も休診であったのが、つらかった。大型連休を発明した人を恨んだ。
 救急車を自宅に呼んで病院に行くべきか、このまま連休あけまで寝たきりか、もしかしたら手遅れでこんごは寝たきりになるかもなど、悶々と寝たきり週間をやった。
 そして思ったのは、あのときの3つの選択肢のうち、救急車を呼ぶのが正解だったようだ。
 まあ、連休明けの病院で、手遅れ宣告がなかったのには、正直にホッとした。(つづく

参照

・尻餅搗いて突発寝たきり老人になったが、、、2015/05/05~